平成26年(2014年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月09日(日) 糸満市束里、糸洲一帯を調査、午後は単独で摩文仁調査

昨日に続き、本日も雨の予報です。(^^;)
しかしながら、昨日は雨らしい雨が降りませんでした。今日も雨の予報ではありますが、降らない事を期待しつつ、遺骨収集調査に取り組みたいと思います。

今朝の慰霊巡拝は「南北之塔」です。

遺骨収集の様子1

道すがら箱が沢山並べられていましたので撮影してみました。クイズです。この箱はなんでしょうか~~。ヒント、椅子ではありません。(笑)
クイズにするまでもありませんね。これは養蜂箱です。この箱の中にミツバチとミツバチが産出する蜜が入っているという訳ですね。実際に写真では解りませんが、小さなミツバチがブンブンと飛んでいました。刺されたら大変ですから側には寄りませんでしたけどね。

「南北之塔」

遺骨収集の様子2

今朝の慰霊巡拝は「南北之塔」です。金光教の遺骨収集で、この壕内で収集作業をした時に黄色い石鹸箱が発見され、氏名が書いてあったことから、ご遺族が判明し、黄色い石鹸箱はご遺族の元に無事お返しする事が出来ました。それ以降、そのご遺族の方は金光教の遺骨収集に参加するようになりました。

しかしながらやがて心臓病を患い遺骨収集はドクターストップが掛かってしまい、参加を断念することになりました。当然のことながら、その方は遺骨収集で沖縄に訪れる度に、お父さんが亡くなったこの「南北之塔」に慰霊に訪れていたわけですが、その慰霊が叶わなくなってしまったのです。

沖縄戦で亡くなった方々で戦没場所が判明している方というのは本当に少ないと思われます。そうした事を思えばご遺族の悲しみは如何ばかりか…。そこで私がその方に成り代わって、毎年この「南北之塔」に慰霊に訪れ、ご遺族のお父さんを始め、この壕で亡くなった戦没者の慰霊を行うようにしたのです。ですから、私が沖縄遺骨収集に通い続ける限り、一度はこの「南北之塔」に慰霊に訪れることになります。

遺骨収集の様子3

「南北之塔」です。米軍の収容所から真栄平に戻った区民が、屋敷内や道路・田畑に散乱する御遺骨をアバタガマに納めて祀ったものです。戦禍に倒れた真栄平住民をはじめ、守備軍軍人等、数千柱の戦没者が祀られています。左側には「捜索二十四聯隊慰霊之碑」もあります。「南北之塔」は、昭和21年に建立し命名されました。現在の「南北之塔」は昭和41年に改築されたものです。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子4

アバタガマです。米軍の馬乗り攻撃を受けて、中に居た日本軍将兵は全滅しました。壕内にはその攻撃の激しさを物語るように、真っ黒に焦げた壁面が展開しています。

遺骨収集の様子5

雨でぬかるんでいたために、あまり深くは入れませんでしたが、少し中に入って壕内を撮影しました。

糸満市糸洲で遺骨収集調査

遺骨収集の様子6

旧正月を迎える前の日曜日と言う事で、沖縄全土のお墓では、ご覧のようにお墓の清掃や周囲の草刈りを門中総出でやっているのを見かけました。このお墓もご覧のように何人かがオートバイや乗用車で乗り付け、仮払機を使用したりして作業していました。

遺骨収集の様子7

私達の車を国道331号線上に駐車しておく訳にもいかないので、お墓の前にある広い駐車場に車を置かせてもらえるか交渉した結果、「いいよ」という返事を頂きましたので、車を移動させたところ、墓の近くに壕があるよと教えてくれて、しかも案内して下さいました。これはその時に撮影したものです。有り難いですよね。

遺骨収集の様子8

「そこに壕があるよ」というような話をしているのでしょうかね。私達も準備が整い次第、まず案内して頂いた壕に向かうことになりました。

遺骨収集の様子9

車も広い駐車場に止めさせて頂いて憂いなく遺骨収集調査に出発できそうです。

遺骨収集の様子10

案内して頂いた壕は、松永さんもすでに知っている壕でした。この壕はどこかの遺骨収集団体が作業に取りかかっており、現在は作業を完結せず中断した状態なのだそうです。写真奥の方に作業道具が色々と見えますね。

遺骨収集の様子11

ご遺骨ですね。風葬骨にも見えますが…。20年30年前なら、私は自信を持って沖縄戦戦没者のご遺骨か、風葬骨かを判定出来ましたが、ここ数年は全く自信をなくし、全てのご遺骨に対し断定できない状態となってしまいました。戦後69年が経過し、双方の特徴が似通ってしまったと言う事ですね。トホホ…。

遺骨収集の様子12

土嚢袋にもご遺骨が納められていました。松永さんの話では数年間このままの状態で、つまり作業途中で放置されているのだそうです。他のメンバーが、「そんなに長いこと放置されていてはご遺骨が可哀想だ、速やかに収骨を済ませるべきだプンプン」と怒っていました。全くその通りだと思います。掛け持ちで収骨作業をするのをとがめ立てたりは出来ませんが、少なくとも各現場は、順次作業を終えてから他の場所に移動すべきですよね。作業途中という事になれば、私達でも簡単に手を出せません。全く理不尽な対応です。プンプン。

遺骨収集の様子13

とりあえず持参した生花を手向け、皆さんで合掌して、少なくとも見えているご遺骨に対しご冥福をお祈りしました。

遺骨収集の様子14

さあ、遺骨収集調査を本格化させましょう。

遺骨収集の様子15

飯ごうの蓋がありました。露天にありましたから、雨に打たれて激しく劣化していますが、しっかり飯ごうの蓋と解りますね。

遺骨収集の様子16

「壕があったよ」と声が掛かり、かなり大規模な壕ということで、皆で入って見ることにしました。写真したのほうの黒く見えるところが入り口です。写真を撮影しているところは、少し土手になっていて、土手を降りると壕入り口は全く見えません。土手に上がってもよく見ないと壕入り口とは見えませんよね。壕を隠蔽するという意味では抜群の壕入り口ですね。

遺骨収集の様子17

10メートルほど中に入ってから、壕入り口を撮影しました。壕入り口はご覧のように狭く、重火器の出し入れは難儀するでしょうが、人間の出入りにはちょうど良い大きさですね。

遺骨収集の様子18

この壕の構造も、賢固な岩盤の下を掘り進んで、空間を作った構築壕ですね。枝道が複数あり、かなり大規模な壕となっており、かなりの人数の兵員を収容できたものと思われます。

遺骨収集の様子19

文字らしきものが見えますね。しかしながら、「もしかしたら遺骨収集に入った人が掘ったものでは」皆の意見はそういう結論に落ち着きました。

遺骨収集の様子20

水を入れて老いた瓶でしょうかね。結構多くありました。

遺骨収集の様子21

カセットに入ったままの未使用の銃弾ですね。

遺骨収集の様子22

坑道は何本も縦横に走っており、全体の空間は相当広いです。

遺骨収集の様子23

午前の調査作業終了です。皆さんお疲れ様でした。

「真栄里○○○番地裏の壕」見学

遺骨収集の様子24

糸満市真栄里にあるロンドン杜公園の近くにある壕「真栄里○○○番地裏の壕」に入った事は昨年の参加記に書いた通りですが、吉田さんがこの壕について、その後も収集が継続されて、入り口付近から大量の遺留品が見つかったと話して下さいました。そこで少し回り道になりますが、ちょっと見学していこうという話になりまして、今年も「真栄里○○○番地裏の壕」にやって参りました。壕入り口が見えてきましたね。

遺骨収集の様子25

確かに入り口がかなり大きくなりましたね。大きくなった分、壕に入りやすくなったようです。壕内部を照明するための電気を通す線もそのまま残っていましたから、これからも継続して遺骨収集を続けるという事なのでしょうね。

遺骨収集の様子26

コンセント付きケーブルが撤収されずに残っていました。今後も発電機を利用しながら遺骨収集を継続していくと思われます。

糸満市大度の壕を遺骨収集調査

遺骨収集の様子27

糸満市大度の国道331号線から100メートルぐらい脇道に逸れたとところに壕があるというので、今吉田さんと一緒にその壕に向かっているところです。さあそれではジャングルに入ってみましょう。私は初めてこの場所に来ました。

遺骨収集の様子28

ジャングルに入る前から雨が少しぱらついていましたが、ジャングル内部は雨の影響はまだ無いです。結構勾配がありますね。

遺骨収集の様子29

ジャングルに入って50メートルほど前進すると壕がありました。木々に覆われたジャングルは平坦に見えましたが、入って見ると地形的にはかなり起伏のある場所でした。壕の入り口は石組みが為されていますが、戦前からそのままだったとはちょっと考えにくいですね。

遺骨収集の様子30

石組みの内側に入って見ますと、ご覧のように壕入り口がありました。入って見ましょう。

遺骨収集の様子31

写真奥のところで行き止まりとなっています。壕全体としては結構大きくて、数十人から100人ぐらいは入れる大きさでしたね。大規模に遺骨収集が為されたと思われます。岩がゴロゴロとひっくり返されて乱れていますからね。地面に目をやると遺品も散見され、日本軍が使用していたとみて間違いないでしょう。壁面は激しく攻撃されたという風ではなく、少し煤が付着しているというような印象でした。

遺骨収集の様子32

この写真と、下の写真は15メートルほど離れた場所なのですが、繋がっていました。この辺りは壕と呼ぶのが微妙なような、穴や切れ目が沢山ありかなり複雑な構造をした岩場が連なっていました。

遺骨収集の様子33

この複雑な岩場を日本軍は上手く利用したのではと思えました。

遺骨収集の様子34

雰囲気的には、このお墓は戦前からそのまま現在に到ったような印象ですが、真実は如何に。

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子35

テビチ(豚足の煮物)そば ですよね。美味しそうでしょ~。(^o^)

午後は単独で摩文仁で遺骨収集調査

午後は単独で遺骨収集調査をする事になりましたから、金光教の遺骨収集で今年実施する地域について、より詳細に状況を把握するために、当該地域を歩いてみることにしました。場所的には相当複雑な地形となっていますので、油断をすると自分の立ち位置をすぐに失ってしまう恐れがありますから、十分に注意しながら歩いてみたいと思います。

単独で摩文仁にて遺骨収集調査

遺骨収集の様子36

この風景を見て、場所がどこだか解る人は居るはずです。ヒントは “トンネル越え” です。

遺骨収集の様子37

間もなく実施される第41回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の予定地域に入りました。ご覧のように断崖絶壁のような場所も多いのが今年の特徴でしょうかね。

遺骨収集の様子38

崖下の一番低い部分に降りてみました。絶壁、巨大な岩場が今年のキーワードと言って良いかもしれません。逆に言えば、これらの場所は遺骨収集するような所ではないので、実際にご遺骨を探す面積というのは、思いの外狭いと言えるかもしれませんね。

遺骨収集の様子39

少し小高い場所に登ってみました。未知の場所に来た場合は、時折高い場所に登って、周囲を俯瞰すると自分の立ち位置もよりしっかりと把握できますから、「時折高い所の登って周囲を見渡す」という作業は欠かせませんね。

遺骨収集の様子40

ある程度全体像が把握できたので、これからは下を向いて状況の把握に努めます。巨岩がゴロゴロしており、それだけに人間が隠れることが可能な場所というのは無数にありますね。ただ壕と呼べる洞窟は思いの外少ないです。

遺骨収集の様子41

穴の内部から撮影しましたが、ここも壕とは呼べない空間でした。米軍は摩文仁に追いやった日本軍将兵や民間人を、1000度を超える熱風で全てのものを焼き尽くすナパーム弾攻撃を何度も仕掛けていますから、この辺りに居た避難民は、奥深い壕がほとんど無いだけに、おそらくほとんど全ての人が焼け死んだのではないかと推測されます。

遺骨収集の様子42

葉が濡れていますね。相変わらず雨が降り続いていますが、遺骨収集調査作業にはほとんど影響がありませんから、引き続き作業を継続します。

遺骨収集の様子43

右側の割れ目の中なんて、海からの艦砲砲撃を確実に防げますし、素晴らしく良い隠れ場所なのですが、ナパーム弾攻撃には無力ですね~。

遺骨収集の様子44

見覚えのある風景となってきました。初めて歩いた場所は案外狭かったですね。もうここからは何度も歩いている地域に入ってきました。 未知の場所を歩く時は、頭の中では同時に地図を作成しながら進むことになります。
再び既知の場所に出たことから、未知の場所と既知の場所が頭の中で繋がりました。私の頭の中にある摩文仁全体の地図の空白部分といえる何も描かれていない範囲が、これにより一段と少なくなりました。結果として頭の中の摩文仁地図が一段と強化されました。

遺骨収集の様子45

この場所は壕と呼ぶには無理があり、岩陰という表現が適切だと思えるような所ですが、平成21年、今から5年前になりますが、ここで私は沢山の遺留品を見ました。多くの遺留品の中で際立っていたのが、ほとんどのガラス瓶が溶けたようにグニャグニャになったいたという点です。下に当時見つけた遺留品の写真二枚を転載しましたからご覧下さいませ。

5年前ここで沢山の遺留品が発見されましたが、ナパーム弾攻撃を受けたと思われ、ガラス瓶などがトロトロに溶けた状態でした。この岩場に隠れていた多くの将兵が灼熱地獄の中でもがき苦しみ、そして亡くなられた光景に思いを馳せると、とてもいたたまれない思いに胸が締め付けられました。

5年前の往時もこの場所で号泣してしまいましたが、今回も又涙が出てきて、同じように再び声を出しながら号泣してしまいました、時間にして5分は超えていたと思います。もしかしたら10分近く泣いていたかもしれません。通常人間はこんなにも長く号泣し続ける事が出来るものなのでしょうか。日常生活の中ではこんなに長く号泣した体験はありません。実に不思議な体験です。

一つの推測ですが、御霊様が私をして泣かしめた…。と言えるかもしれません。少なくとも私はこの号泣を自分の意思なのかそうでないのか判別しかねますが、私は強く思いました、灼熱地獄の中、多くの日本軍将兵が亡くなったであろうこの岩陰を前にして、この号泣の為だけに沖縄を訪れたのだとしても十分に意義のあるものだと思えました。

遺留品の様子

5年前に上掲の岩陰で発見された遺留品の写真二枚です。岩陰の大きさからしても、また遺留品を精査しても、一人ではなく複数人の遺留品だと思われます。ご覧下さい。

遺骨収集の様子46

【過去の写真とコメント】
ご遺骨と共に大量の戦没者遺留品が見つかりました。丹念に調べましたが氏名等は発見できませんでした。「兵隊さんは灼熱地獄のなか何を思い亡くなっていったのか…」。私はこの戦没者遺留品を前に、辺りをはばかることなく声を出して泣き、しばし感涙の海に沈みました…。

遺骨収集の様子47

【過去の写真とコメント】
多くのガラス製品が溶けているが見てとれます。ガラスが溶けた原因は「ナパーム弾攻撃」だと言われています。 ナパーム弾は "超強力な焼夷弾" です。火炎は1000度を超え、熱風空間のあらゆる生物や有機物が焼き尽くされ燃え尽きて、且つ酸素を奪われ一寸の生命をも生き延びられません。恐怖のナパーム弾攻撃を体験した兵隊さんの話では、「ナパーム弾攻撃を受けた場所は、24時間経過しても岩が熱くて触れなかった」と証言しています。

遺骨収集の様子48

遺骨収集調査作業を終え、すでに帰路についています。ここは私しか知らないと思える抜け道です。この抜け道を知らなければ、右側では100メートル、左側では50メートル以上左右に移動しなければ帰りの道に出られません。その意味でここはとても貴重な抜け道なのです。

遺骨収集の様子49

抜け道を5メートルほど進とここに出ます。ご覧のように直撃弾を防ぐように石組みされているのが見えますね。手前側が少し斜めですが海側を向いています。頭上はご覧のように巨大な岩がありますので、全く心配いりません。石組みの裏側は比較的狭く、数人しか入れませんが、とにかく良い隠れ場所だと思いました。

しかしながら、ここもナパーム弾攻撃には無力です…。20年以上前からこの場所を知っていますが、最初にここを見た時には、収骨は済んでいましたが、金光教の遺骨収集では記名遺品以外の遺留品は持ち帰りませんから、沢山の遺留品が一カ所に集められ残されていました。

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