平成26年(2014年)沖縄遺骨収集奉仕活動

7月05日(土) 上宮参拝・摩文仁南部戦跡慰霊巡拝

暑い~ (^^;)。
予想通りといいましょうか、梅雨のただ中にある関東地方から、この時期に沖縄にやって来ると、やはり体感的には突然真夏並の暑さに出くわしたような印象です。おまけに到着早々大歓迎の意なのか、大スコールが私を出迎えてくれました~。(^^;)

確かに空には入道雲があちこち見られましたが、雨が降るような雰囲気ではなかったのに、いきなり大粒の雨がザーと滝にように襲来しました。幸い屋根の近くにいたものですから、最悪の事態は避けられましたが、5分ほど激しく降り続けたでしょうか、今度は急速に雨が上がり、しばらくすると晴れ間が広がり出したりして、さっき雨が降ったのが幻想ではないかと思えるほど好天となりました。なんだか目くらましを食らったような気分になりました。(笑)

明日渡嘉敷島にて挙行される、第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者(沖縄特別攻撃隊員)慰霊・海域平安祈願祭に参列する為に、前日のうちに沖縄入りしておく必要がありましたが、同じ沖縄入りなら、午前中のうちに到着して、那覇市内にある波上宮参拝と時間の許す限り、摩文仁南部戦跡慰霊巡拝を行うという目的で、本日11時前には那覇空港に到着しました。

それでは皆様と共に波上宮に参拝しましょう。(^o^)

旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮参拝

波上宮の様子1

波上宮一の鳥居の前にて撮影しました。私は沖縄に通い始めて31年が経過していますが、波上宮参拝は初めてなのです。もちろん神社の存在そのものは知っていましたが、31年目にして初めて参拝となりました。言い訳がましいですが、確かにこれまで沖縄入りしても、とにかく忙しい日程で参加していましたから、観光目的の時間を作る事が一切ありませんでした。

そうした言い訳をしつつも、沖縄で唯一のありがたい波上宮参拝を欠いているのは問題だと思いましたので、遺骨収集でいつもお世話になっている、かつ波上宮について詳しい情報を持っている吉井さんに色々と教えてもらいつつ、ついにこの機会を利用して遅ればせながら参拝させて頂きました。

波上宮の様子2

波上宮の解説をしています。正式名称は、「旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮」と呼ぶようです。「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。その後この聖地に…」と書かれていることから、創建はかなり古そうですね。

波上宮は、琉球八社の筆頭だそうです。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮を指すそうです。

波上宮の様子3

一の鳥居から50メートルほど続く坂道を上っていくと二の鳥居がありました。心配された駐車場ですが、ありました。駐車場は広くはありませんが、おそらく20台ぐらいは駐車できるでしょうか。

波上宮の様子4

二の鳥居をくぐり、参道を進むと神社らしい雰囲気になってきました。波上宮は「なんみんさん」の名で親しまれ、お正月や節分、5月17日の例大祭などは終日多くの参拝者で賑わうそうですね。

波上宮の様子5

拝殿が見えてきましたね。左右には手水舎や社務所がありました。思いのほか観光客がいました。皆さん支那語を話していましたから、中共もしくは台湾の人達という印象です。沖縄旅行は台湾の人達に大人気らしいですからね。台湾の人達が多いかもです。

波上宮の様子6

拝殿です。更に奥まった所に本殿があるようですが、ここからは見ることが出来ないようです。拝殿では結婚式が執り行われているようです。厳粛で良い雰囲気でした。

新郎新婦そして巫女さんの後ろ姿を見ながら、これまで31年間一度も参拝に訪れなかったことを詫び、金光教による沖縄遺骨収集の目標完遂が為されますように、また全ての沖縄戦戦没者の鎮魂を祈願すると共に、明日の慰霊祭が無事に執り行われますように、そして私達夫婦が冬の間だけ沖縄に移住出来ますように…。などと沢山の御願いして参りました。

波上山 護国寺

護国寺の様子1

波上宮の最初の鳥居の横には、高野山真言宗護国寺がありました。ここ沖縄では最古の寺院のようですよ。また往古は当波上宮の別当寺でもあったようです。

護国寺の様子2

ここが護国寺の正面でしょうか。二階に本殿があるようですから、階段を登ってみましょう。二階に上がり、扉を開けて本殿を見ましたら、大勢の人が座って祝詞を唱えていました。かなりの人数だったのでビックリしました。

護国寺の様子3

波上宮や護国寺に隣接して旭ヶ丘公園がありましたので、園内を少し散策してみました。高台では結構見通しがきいて周囲の景観を楽しむことが出来ました。ハイビスカスが園内至る所に咲き誇っていました。

対馬丸記念館

対馬丸記念館の様子

旭ヶ丘公園に隣接して「対馬丸記念館」がありました。

対馬丸記念館の様子

アプローチです。二階が展示室になっているようです。

対馬丸記念館の様子

対馬丸記念館の解説をしています。下記に転記しました。

【「対馬丸記念館」解説文】

昭和19(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよい沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進みませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1、2年生や女子高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州に向かいました。

疎開船対馬丸はそのなかに一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎に向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲となりました。

平成9(1997)年12月12日、科学技術庁海洋技術センター(現 独立行政法人 海洋研究開発機構)の海底調査によって海底に横たわる対馬丸が発見され、遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請しましたが、引き上げ不可能との回答をうけました。その結果、船体引き上げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈から60年後の平成16(2004)年8月22日に開館しました。

館内には、対馬丸事件の経過や数少ない遺品や遺影、子どもたちにも理解できるように展示しています。沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信とこどもたちの未来を創造する活動を行っています。

公益財団法人 対馬丸記念会

6月27日ですから数日前という事になりますが、天皇、皇后両陛下が、ここ対馬丸記念館を訪れ、対馬丸事件の生存者や遺族15人と懇談されたというニュースがありました。両陛下の沖縄訪問は今回で10回目となるそうですよ。改めて両陛下の沖縄に寄せる慰霊の心が伝わってくる思いがしますよね。(^o^)

【両陛下、対馬丸生存者らと懇談 記念館を訪問】

「朝日新聞デジタル」平成26年6月28日

沖縄県を訪問していた天皇、皇后両陛下は27日、那覇市の対馬丸記念館を初めて訪れ、約1500人が犠牲になった対馬丸事件の生存者や遺族15人と懇談した。予定時間を超え、一人一人に声をかけた。両陛下は夕方、帰京した。

戦時中、沖縄から九州に向かっていた学童疎開船・対馬丸が鹿児島県沖で米潜水艦の魚雷を受けて沈没した。6日間の漂流から生還した上原清さん(80)は事件の様子を絵で描き残している。皇后さまは「奇跡のように生き残ってくださって。絵のおかげで私どもは(事件を)知ることができます」と頭を下げた。

真栄城嘉訓(まえしろよしのり)さん(80)は3日間漂流した状況を伝え、「両陛下がいらしたことで亡くなった学友も喜んでいると思います」。天皇陛下は「ちょうど私と同じ年ですね。どうぞお元気で」といたわった。

 「海山へ/何処(どこ)までもボク/連れてった/兄はひとりで/天国へ逝き」。当時13歳だった兄が犠牲になった浜崎盛久(せいきゅう)さん(79)は自作の短歌を披露した。「どこに行くのも一緒だった弟思いの兄が天国には一人で行ってしまった」。浜崎さんはそんな思いを込めたといい、「話も熱心に聞いていただき、ありがたかった」と話した。

懇談に先立ち、両陛下は記念館の遺品を見て回った。約300人の遺影の前で、両陛下は足を止めて一人一人の顔を見つめた。生存者の1人で、案内役を務めた高良政勝さん(74)は、一緒に船に乗っていて犠牲になった両親やきょうだい8人の遺影を指さし、涙ながらに「私の家族です」。天皇陛下は深くうなずいていた。

「感無量です」。高良さんは取材にそう語った。事件当時4歳だった自身を含め、生存者は70代以上の高齢だ。「事件から70年の今回がぎりぎりのタイミングだったと思う。両陛下に感謝申し上げたい」

 事件当時、国民学校高等科の教員で、引率役で乗船した那覇市の糸数裕子さん(89)は懇談への参加を持ちかけられたが、「遺族に申し訳ない」と足を運ばなかった。多くの教え子が亡くなり、「自分だけ生き残ってしまった」という思いを引きずっている。

代わりに、編んだレース3枚を記念館の職員に託した。1枚は両陛下が訪れた対馬丸の慰霊碑「小桜の塔」の供花台に、2枚は両陛下が休憩した同館の部屋に敷かれた。同館によると、皇后さまは職員から説明を聞き、手にとって眺めたという。それを伝え聞いた糸数さんは「両陛下に来ていただいて、子どもたちの霊もなぐさめられたことでしょう」と話した。(島康彦、泗水康信)

「朝日新聞デジタル」から転載させて頂きました

※対馬丸記念館等関連サイトを見ますと、日本軍の悪行をあげつらう事なきにしもあらずという印象を受けます。こうした度を超えた情報操作はアンフェアだと言えますし、こうした印象操作的手法は沖縄平和学習の名に値せず、日本国を貶める悪意ある反日プロパガンダ施設だと言えます。当時の日本政府及び沖縄県庁は困難な状況の中で、沖縄県民の疎開に全力で取り組み、延べ船舶187隻で16万人余りの沖縄県民を県外に疎開させる事に成功しているのです。こうした行政側の努力と成果は一切書かれていません。

吉田さんと南部戦跡巡拝

無事に波上宮参拝を終えました。本当に良かったという思いで一杯です。神社を参拝するとなぜか心がホッとしますよね。1月や2月の遺骨収集の時ならほぼ絶対に立ち寄れないと諦めていましたから、こうした訪問の機会を持つことが出来て本当に感謝感謝です。

昼食ですが、沖縄在住の吉田さんと一緒に食事をする事になっており、昼食後も一緒に摩文仁巡拝に出かける手はずとなっています。(^o^)

がじゃんびら公園

がじゃんびら公園の様子1

昼食後、吉田さんが「摩文仁に行く前に寄り道していかない?」という事で、車を5分ほど走らせ、高台にあって那覇港を見渡せる「がじゃんびら公園」にやって参りました。写真では紹介しませんが、この公園には、「美空ひばりさんの歌碑」が設置されていまして、碑の前に立つと美空ひばりさんの歌である、「花風の港」と「愛燦々」の曲が自動で流れてきてビックリしました。

平成15年に設置されたと記されていましたが、なぜ美空ひばりさんの碑があるのかというと、戦後の沖縄県の復興に大きな夢と希望を与え続けてくれたことに感謝して、歌碑を建てたそうですよ。

がじゃんびら公園の様子2

ご覧のようにこの公園は那覇港が一望できる高台にありますから、景観が素晴らしいですね。きっと夜景も素晴らしいと思います。おそらくこうした場所は、夜ともなるとカップルで溢れ…。 止めときましょう~。(笑)

がじゃんびら公園の様子3

もちろん、吉田さんが私をこの場所に案内して下さったのは、那覇市内の夜のデートスポットを教えるためではありません。

この高台に立つと、首里城をはじめ現在は再開発されて新都心となっているおもろまちを見事に俯瞰できるのです。地図で見るよりも驚くほど距離感が掴めます。現在は新都心の一部となっている、いわゆるシュガーローフヒル(安里52高地)やその横のハーフムーンヒルは、嘉数高地や仲間・前田高地に続く首里戦線最期の日米正規軍同士による激闘が展開された銘記すべき場所なのです。

大東亜戦争を通じて沖縄戦と硫黄島の戦いは、日米による最も血みどろの地上戦による激闘が展開された場所です。その沖縄戦を米軍側の視点で見ますと、劣勢の沖縄守備軍は多大な出血を強いられましたが、沖縄守備軍に対し圧倒的な兵力を投入した米軍もまたおびただしい戦死傷者を排出したのです。

沖縄戦における82日間の戦闘で米陸上兵力の7,612名が戦死もしくは行方不明、31,312名が負傷、26,311名が戦闘疲労症となりました。また海上では特攻隊による決死の突入により、米海上兵力の被害もまた深刻で、4,320名が戦死し、7,312名が負傷しました。

こうした視点で見ると、少なくとも首里北方戦線では、制空権、制海権をもち物量で圧倒する米軍に対し、沖縄守備軍が完全に互角以上の戦いを繰り広げていたのが見てとれます。しかしながら、硫黄島の戦いに勝るとも劣らない血みどろの戦いが繰り広げられたシュガーローフヒル攻防の行方が、沖縄戦の戦況において極めて重要な位置を占めていたことに疑問の余地はありません。

シュガーローフヒル一帯の丘陵地において、主に米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開されましたが、一つの小さな丘をめぐる激闘は一週間も続き、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激闘の末、ついに米軍が制圧したのです。

しかしながら米軍も日本軍同様に多大な犠牲を強いられ、シュガーローフヒル一帯の攻防では、死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出したのです。米軍側の戦死傷者リストは、沖縄守備軍の成功と表裏一体であるとも言えるでしょう。

大東亜戦争における、東南アジア方面の戦線はもちろん、沖縄戦における日本軍将兵の戦争ノイローゼ(PTSD:心的外傷後ストレス障害)発症者は皆無に近いものでした。劣勢の日本軍将兵にPTSD発症者が多発する…、というのなら理解できますが、勝利を収めつつある米軍側兵士にPTSD発症者が多発した状況を奇妙に思われた方も多いでしょう。

その理由を考察してみますと、両軍共に愛国心や規律そして誇りだけでは、恐怖心の克服はもちろん過酷な戦闘を続けることはできないのは自明であり、その上で、日本軍側は、国体の擁護と赤露防共回廊の建設、そしてアジア諸国を植民地支配し搾取をほしいままにする白人国家を撃滅しアジアの開放を目指すという、日本国民一丸となった正戦意識が末端の兵士までしっかりと共有され、かつ浸透していたと考えられます。

一方米軍側は、米国政府による幾多のプロパガンダにより、“黄色いサル” に代表される人種的偏見に満ちた日本兵のイメージが増幅されつつ末端の兵士に浸透していった事もあり、優等白人種に反逆する劣等有色人種の日本を成敗するというローズベルトお仕着せの人種差別的正戦意識しか持ち得なかった…。

結果として前線での日本軍兵士の死をも畏れない勇敢さを目の当たりにし、米軍兵士達の正戦意識は揺らぎ、また急速に低下していったと想起されます。(日本軍側兵士が皆無で、米軍側兵士のみPTSD発症者多発というのは、沖縄戦だけでなく東南アジア方面で日米正規軍が相まみえた全ての前線で見られた現象です)

沖縄戦従軍米兵もまた、現代のイラクとアフガニスタン帰還米兵達が共有していた一つの見解、すなわち「我々はどうしてイラクとアフガニスタンにいるのか」という語りに表出される、揺るぎない正戦意識を持ち得ないまま、生死を分ける過酷な前線で戦い続けることになったのが、PTSD発症者を多発させた第一原因ではないかと推測されます。

「PTSDは異常な諸出来事に対する正常な反応である」という観念もまた1980年代から共有されており、その意味では沖縄戦はもちろん、ベトナム、そしてイラク・アフガニスタンなどで戦争を遂行した米兵は、正戦意識どころか米国国家ぐるみの戦争犯罪に荷担しているという意識に苛まれながら戦場で敵と戦い続けていた…、と言えるのかもしれません。

米国は叩く相手を間違え、アジアに大厄災をもたらしたと言えるでしょう。赤露防共の砦たる日本を、米国は背後から襲いそして叩き潰したのです。もしも日本が赤露浸透をシナ大陸までで封じ込めていれば、中共の成立、朝鮮戦争や朝鮮半島の分断、そしてベトナム戦争も無かったであろうと思えますし、それがために喪失した尊い命と国帑は、はかりしれないものがあると言えます。

改めて鉄の暴風とも形容される沖縄戦の、更にその激烈な死闘が展開された首里戦線で亡くなられた日米将兵のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

主に吉田さんに沖縄戦の戦況を解説して頂きながら話が尽きません。ずいぶんと長い時間往時の状況について話が弾みました。おっと夕方までの時間が迫っています。そろそろ摩文仁に向かいましょう。

国立沖縄戦没者墓苑

国立沖縄戦没者墓苑の様子1

平和祈念公園の駐車場に車を止めて歩いて国立沖縄戦没者墓苑に向かおうとしたら、幌仕立ての電気自動車が走っていたので乗せてもらいました。ですからここまで楽ちんでやって参りました。

国立沖縄戦没者墓苑の様子2

摩文仁到着後、まず最初に「国立沖縄戦没者墓苑」で献花合掌し戦没者のご冥福を祈念しました。

国立沖縄戦没者墓苑の様子3

国立戦没者墓苑は、1979年に創建されました。この納骨堂は、琉球トラバーチン石約一千個を用いて、琉球古来の石積み法で積んであります。現在は沖縄で収集されたご遺骨のすべてが、この国立墓苑に納骨されます。

国立沖縄戦没者墓苑の様子4

初代の納骨堂が一杯になり、二棟目、三棟目の納骨堂が順次建築されました。ご遺骨は現在でも、毎年百余柱前後発見されていますからね、将来的には、四棟目の納骨堂も、もしかしたら…、ですかね。

【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】

沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。

昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。

しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。

正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。

納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。

「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました

「沖縄師範健児之塔」

沖縄師範健児之塔の様子1

沖縄師範健児之塔ですね。戦没学徒を祀っています。これまで数え切れないほど参拝していますが、本島最南端の摩文仁の地は沖縄戦最期の戦場という事もあり、何度訪れても感慨深いものがありますね。写っているのは吉田さんです。がじゃんびら公園を案内して頂いてからずっと沖縄戦の戦況とか戦跡の説明をして頂いてます。吉田さんは本当に博識でした。びっくりしました。有り難うございます。

沖縄師範健児之塔の様子2

沖縄師範健児之塔の解説文です。ギリギリ読めそうですが、下記に転記しました。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、1945年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。鉄血勤皇師範隊は、3月31日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて1947年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、1950年5月25日この塔を落成した。

鉄血勤皇師範隊の編成
本部(隊員16名 戦死13名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当
情報宣伝隊(隊員22名 戦死9名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など
斬込隊(隊員57名 戦死46名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など
野戦築城隊(隊員243名 戦死122名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や阻絶、弾薬や食料等の搬送など
特別編成中隊(隊員48名 戦死36名)
野戦築城隊から選抜して編成された軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など
現地入隊(隊員75名 戦死64名)
19歳に達した学友が3月1日現地部隊に入隊

平和之像の様子

平和之像です。沖縄師範健児之塔の横にありますね。この像は、大田昌秀氏と外間守善氏、そして安村昌享氏らが、自らの戦争体験を綴った『沖縄健児隊』を刊行し、それが映画化された時の印税によって建てられたもので、向かって右側が友情、中央が師弟愛、そして左側が永遠の平和を象徴的に表現したものだそうです。

沖縄師範健児之塔の様子3

平和の像の右下にご覧のように、初代沖縄師範健児之塔がひっそりと建っています。なぜ初代の健児之塔はここに建てられたのかなと思ったら、この小さな碑とも呼ぶべき塔の下に沖縄守備軍管理部の壕があるからなんですね。

この初代沖縄師範健児之塔は、終戦後の真和志村村長に就任した金城和信氏が、1946年4月に「ひめゆりの塔」と共に建立したものですね。金城氏は沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、慰霊塔(碑)の建立と、遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に全力で取り組まれた方です。

「南冥の塔」

南冥之塔の様子1

「南冥の塔」の案内板がありました。もちろん通常は設置されていません。この案内板は、6月23日の慰霊の日にこの地を訪れる県民の方々のために、一時的に設置されたものと思われます。それにしても慰霊の日から二週間近く経とうとしているのに…。おそらく回収を忘れたんですね。(笑)
写真では読めないかもしれませんが、管理団体が遺族会とか戦友会などの各種団体ではなく、国が管理しているという事でしょう、「内閣府沖縄総合事務局」となっていますね。ですから、林先生が祭主を務める6月23日催行の慰霊祭には、国の出先機関である沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

南冥之塔の様子2

「南冥の塔」に至る整備された道ですね。でも皆さん、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた今から41年前の頃は、この道は無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。前門キヌさんに案内されて初めて「南冥の塔」の存在を知ったそうです。

南冥之塔の様子3

「南冥の塔」ですね。前門キヌさんに案内されて初めて「南冥之塔」の存在を知ったと書きましたが、沖縄戦に参戦した日系二世のヤマモトタツオさんという方が、ここに「南冥之塔」を建立したのは、今から60年前、戦後も9年を経た昭和29年(1954)です。爾来前門キヌさんは、故人となられるまで、長く墓守として「南冥之塔」を守って参りました。

林先生が、その前門キヌさんに、「南冥之塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが、昭和51年、今から39年前の話です。これ以降林先生による「南冥之塔」での6月23日の慰霊祭は、今日まで途切れることなく続けられているそうです。

沖縄戦に参戦した日系二世のヤマモトタツオさんが、摩文仁を立ち去るにあたり、碑に刻み込んだ碑文は次の通りです。
銃とらぬ 諸人乃 御霊 永久に 神鎮りませと 祈りつゝ 吾れ 此乃碑を 捧げ まつる 一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。

この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。

沖縄開発庁沖縄総合事務局

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