令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月12日(水) 故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

武漢コロナの影響も昨年よりも和らいだと感じさせる今日この頃です。ただJALの機内は昨年よりも増えている印象ですが、それでも乗客は極端に少なく、軽く見渡して100名ぐらいと言ったところでしょうか。飛行機を飛ばす度に赤字が膨らむのは間違いないでしょうね。しかしながら、人の移動が萎縮している、こう言う時だからこそ沖縄に行かねばならない‥‥。私達はその信念にも似た覚悟を持って沖縄にはせ参じました。機上の人となれば決意して良かったと心から思えます。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.1

冬型の気圧配置なので北に向かった離陸しましたが、今はまだ航路を調整中で緩やかに旋回しています。すでに富士山が見えているので撮影しました。ご覧のように今日は快晴です。離陸時も揺れませんでしたし、素晴らしい飛行機の旅となりそうですね。(^o^)

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.2

富士山ですね。今年の富士山はどうしているかな?と写してみました。富士山のちょうど真南ぐらいから撮影しています。北風の当たる北側よりも反対の南東側に積雪が多いように見えます。今年もそれだけ強い北風が吹き続けたという事なのでしょう。昨年よりも積雪は多そうです。また富士山の右側裾野で茶色くなっている場所は、陸上自衛隊富士演習場でしょうね。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.3

静岡県側から見た南アルプスの山々が写されています。山稜は雪の中と言う印象で寒々しい風景です。さすが南アルプスという感じですよね。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.4

着陸態勢に入ってしばらくすると、飛行機は雲の中に入りました。今年はあまり揺れませんでしたね。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.5

雲底の下に出て視界が徐々に開けてきました。眼下に最初に見えたのは久高島でした。久高島は、知念岬の東海上5.3kmにあり、周囲8.0kmのご覧のように細長い島です。久高島は沖縄に数ある島々の中でも、特別な位置づけを持った島でもあります。この島は琉球が誕生したとされる開闢の祖アマミキヨが、天から舞い降りてきた島で、沖縄はこの島から始まったとされているなど、「神の島」としても名高い由緒ある島であるようです。また琉球王朝時代には聞得大君と一緒に国王も巡礼していたと言います。後にノロという国王の代理人の祝女制度が出来たのですが、彼女達が取り計らう十二年に一度の秘祭「イザイホー」も、この島だけの特別なものだったようです。

神聖なる島である久高島には、今流行のパワースポットが沢山ありますし、自転車でも一日あれば島を一巡する事が出来るとの事。ご覧のように、島は平坦なので坂道がありません。それに沖縄本島(安座真)~久高島間を一日6往復フェリーが運航されていますから、本島との行き来も比較的お手軽に出来るようです。私もまだ一度も訪れてないのですが、機会があったらぜひ訪ねてみたいと思っている島でもあります。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.6

機上から沖縄本島の島尻地域を見ています。飛行機はすでに高度を落としながら着陸態勢に入り右旋回で飛行しています。しかしながら、今年は摩文仁のかなり沖合を旋回しています。残念~~~。と言ったところですね。写真中央部海岸線辺りの緑が濃い部分が摩文仁ですね。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.7

那覇空港への直線アプローチに入りましたので、本島海岸線が近づいて参りました。写真中央部の海岸線に白い塔が立っていますが、喜屋武岬灯台ですね。すぐ横には「平和之塔」があるはずです。また喜屋武岬灯台から海岸線を写真手前に500m進むと「具志川城跡」があります。海に突き出た海岸線が二つ見えますが、手前が荒崎海岸で本島最南端の場所です。近くに「ひめゆり学徒散華の跡」があるはずです。また奥の突き出た海岸線が大渡と摩文仁になります。緑が豊かな樹林帯となっているのが解ります。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.8

飛行機は羽田空港離陸後、約三時間程で那覇空港へ着陸しました。埋め立て面積が約160ヘクタールと、大規模に造成され一昨年の3月26日から運用開始となった那覇空港第二滑走路へ着陸しました。写真はすでに着陸し減速している段階で撮影しました。那覇空港上空の雲が少ない事からも解るように、冬型も緩んで北風も弱いらしく安全安心なランディングでした。遠くに第一滑走路にある航空自衛隊の格納庫群が写されていますから、第二滑走路はかなり沖合に設けられた事が解ります。第一滑走路との距離は実に1310mもあるそうですよ。(^o^)

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.9

墓園の一角にバナナの木がありました。ご覧のように、すでに花も終わりバナナ自体が大きく肥大して、間もなく収穫期を迎えると言う段階にあるようです。

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.10

サトウキビ畑の先に見える集団墓所のとある一角に、故具志八重さんは安置され眠りについています。今年は松永さん、福岡さん、そして私の三人で参拝する事と相成りました。

具志八重さんと金光教による遺骨収集との関係も、語れば語るほど長くそして深いです。金光教の遺骨収集は、今から44年前の昭和52年(1977年)から始められましたが、沖縄戦当時は看護婦であり第三外科婦長でもあった具志八重さんは第一回目から、救護班の一員として参加協力して下さっていたのです。そして金光教運営委員会による遺骨収集奉仕活動が終了した第26回目以降も精力的に支援を続けて下さり、お亡くなりになる直前まで参加され元気なお姿を私達に見せて下さいました。

具志八重さんは、戦後は政府立公衆衛生看護学校助教師や保健所勤務をされていた関係で、金光教の遺骨収集でも救護班として参加協力をされました。私達が収骨作業を終えて本部テントに戻ると温かいお茶とサーターアンダギーなどのお菓子が用意されていて、頬張ると疲れた体もたちまち元気を取り戻しますし、ホッとした気分に浸るのが常でしたが、そのお菓子類の多くは、具志八重さんの差し入れだったのです。

具志八重さんは沖縄戦当時、沖縄陸軍病院に勤務しており、米須にある第三外科壕では看護婦長として負傷兵の看護に当たった事はすでに述べました。沖縄戦も末期である6月19日未明、米軍による第三外科壕に対する馬乗り攻撃で、ガス弾の集中投下により壕内に居た多くの女子学徒隊や陸軍病院関係者が亡くなられましたが、奇跡的に助かった数人の内のお一人でもあります。

こうした経緯もあり、具志さんは戦後自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動にも取り組まれました。そうした中で沖縄戦当時軍医見習士官として第三外科壕で勤務していた故長田紀春氏と共に、生存者の証言を集めた『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(長田紀春・具志八重編/ニライ社)を出版されました。

また松永さんにとりまして具志八重さんは、遺骨収集や平和学習を行うきっかけを作って下さったとても大切な方でもあります。松永さんが具志八重さんを今でも如何に尊敬しているか!。松永さんとの会話の中で具志八重さんの話が頻繁に登場する事から、それは容易に察することが出来ます。ここに改めて松永さんと共に具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

故具志八重さんは沖縄陸軍病院第三外科の婦長でしたが、第三外科壕内での米軍によるガス弾攻撃を受けた瞬間や、その後の生き地獄となった壕内の生々しい様子、そしてご本人の奇跡的に生還した様子などを本の中で証言しています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成4年(1992年)初版

軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還したお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で、故具志八重さんが著述された、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃の箇所を引用させて頂きます。

【ガス弾投下】

翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。

左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。

沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。

気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。

その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。

【捕虜となる

夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。

(以下省略)

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「沖縄戦前保健婦の足あと」

具志八重・小渡静子編・著 ニライ社 昭和61年(1986年)月初版

《書籍ご紹介》

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(下)」

兼城 一編著 (株)公文研 平成21年(2005年)初版

この本は題名の通り、沖縄一中鉄血勤皇隊の沖縄戦での軌跡が書き記されたもので、上下冊あり大部の本です。この本の中に具志八重さんも書かれている 「ガス弾」 についての記述がありますのでご紹介します。ガス弾が投げ込まれたという記述は沖縄戦記の中でよく登場しますが、私は長くガス弾とは毒ガスなのかそうでないのか良くわからずじまいで居ました。なかなかガス弾についての情報が得られない中で、この文章に出会い納得したので皆様にもご紹介したいです。

226ページ
「沖縄戦では米軍はガス弾を使用したといわれている。たとえば、ひめゆり学徒隊のいた第三外科壕にガス弾が撃ちこまれ、ほとんどの人が死亡した、ということはよく知られている。このガス弾について、曾野綾子氏は著書『生贄の島』のなかで、これは国際法で禁じられているイペリットやホスゲンなどの毒ガスとはちがって、現在、警察の機動隊などが使っている催涙ガスの一種ではなかったか、と述べている。この種のガスはガスの量が多ければ、空気が希薄になって呼吸ができなくなる、という。米軍は洞窟にとじこもっている日本兵を壕からいぶり出すために、このガス弾をよく使った。

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(下)」から転載させて頂きました

と書き記されています。そうだったのか‥。と納得のいく記述ですよね。第三外科壕による米軍のガス弾攻撃で亡くなられた方々の多くが、結果として酸欠で呼吸できず亡くなられたと強く推測されます。特に第三外科壕の様に、ある意味縦穴のような空間では、大量に放たれたガスが壕底部に滞留し続けるという可能性が高いです。

話が少し逸れてしまいますが、米軍が沖縄戦で多用したもので、ガス弾と共にナパーム弾というのがあります。この兵器もまた過度な燃焼による空間の酸欠と、1000度を超える耐えがたい熱波によって人を殺していく兵器です。

沖縄の方で沖縄戦当時12歳だったというYさんの話を11年前になりますが聞く機会がありました。Yさんの話によりますと、「ナパーム弾」は別名「油脂爆弾」と呼び、広範囲の面積が一瞬に、そして見事に火の海になるそうです。摩文仁は岩だらけの場所ですが、その岩だらけの場所でも、ナパーム弾を投下すると長時間にわたり岩場が燃えていたといいます。

また「ナパーム弾」の超高熱の火炎を浴びると、薄い皮膚などは簡単にペロッと剥げてしまったそうです。沖縄戦当時、少年だったという方から話を聞く機会がありました。逃避行の途中で靴はどこかに行ってしまい、摩文仁海岸を裸足で逃げ回ったそうですが、ナパーム弾攻撃を受けた経験があり、その方の証言でも、ナパーム弾攻撃の後は、24時間過ぎても岩が熱くて触れなかったと語っていたのが印象的でした。

【具志八重さん死去 沖縄陸軍病院で看護婦長 93歳】

【琉球新報】平成23年3月8日

沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市出身。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷字仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で執り行われる。喪主は甥・石川悟(いしかわ・さとる)氏。

具志さんは戦前から保健師として活動。戦後も生き残った看護師、保健師、助産師の有資格者に登録を呼び掛けたり、結核患者の療養環境の整備や、母親学級の開始など焼け野原になった沖縄の保健医療行政の基盤づくりに尽力。退職後は「沖縄いのちの電話」のボランティアとしても活動した。保健師活動の一方で、戦跡の案内や自らの戦争体験を語るなど平和活動を積極的に行った。

沖縄陸軍病院第3外科で軍医として働き、戦後、具志さんと一緒に生存者の証言を集め出版した長田紀春さん(90)=那覇市=は「医療者としてたくさんの犠牲者を見てきたという戦争体験が、戦後の活動、平和運動につながっていた。長い間のご尽力に感謝したい」と話した。

県看護協会の奥平登美子会長は「看護職の育成に貢献し、離島などの駐在保健師の基礎づくりをした。温厚で誠実、統率力に優れた人で、一貫して住民の側に立ち健康福祉に尽力した人だと聞いている。ご冥福をお祈りしたい」と述べた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

【[訃報]具志八重さん死去 米軍のガス弾投下証言 93歳】

「沖縄タイムス」平成23年3月8日

沖縄戦で旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務め、戦後、戦争体験の証言などに尽力した具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市東町出身。自宅は那覇市小禄4の7の20。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で。喪主はおい悟(さとる)氏。

1933年に県立第二高等女学校を卒業。45年、沖縄戦に動員され、旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務めた。77年保健婦を退職。戦跡の案内や戦時中に第三外科壕(糸満市伊原)で米軍によるガス弾投下の被害に遭ったことなどを証言した。82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加。92年には長田紀春さんと共に「閃光(せんこう)の中で―沖縄陸軍病院の証言」(ニライ社)を編集した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

私達三人は具志八重さんのお墓参りの後、戦没者遺骨収集情報センターにご挨拶する為にお伺いしました。本日から13日間ここ沖縄の摩文仁で遺骨調査・収集作業に取り組ませて頂きますので、同活動の統括部署である戦没者遺骨収集情報センターを訪ね、まずは到着のご挨拶をするのが慣例となっています。

私達メンバー数人は「南部戦跡遺骨収集会」という団体名でセンターに登録した上で活動しています。これまでの沖縄における遺骨収集について一定の評価をして頂けるようになりまして、最近はセンターからの依頼により調査や作業をお手伝いする機会を頂けるようになりました。到着早々にそうした諸作業の打ち合わせを行いました。

また遺骨収集奉仕活動に関わる手続き上の手順や事柄について変更や修正が時折行われるので、そうした変更の有無についても確認し、掌握した上で適正にルールを遵守するように努める為にも、初日に戦没者遺骨収集情報センターをお訪ねするのは必須となっています。

戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

令和4年(2022年)1月12日/沖縄遺骨収集の様子no.11

戦没者遺骨収集情報センター前で記念撮影をしました。左側からベテランの福岡さん、そして中央が沖縄在住の松永さんです。松永さん抜きに私たちの沖縄遺骨収集は考えられません。それぐらい絶大なる力添えを頂いています。いつもありがとうございます。そして右側が戦没者遺骨収集情報センターのセンター長である岩下氏です。私達は情報センターに足を向けて寝られないぐらいに、多大なお世話になっているのが実情であり、毎年のご高配に感謝しつつ、本年も今日からよろしくお願い致します。(^o^)

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