御遺骨が語るもの
今を生きる私達は、自信をもって御遺骨と向き合えるでしょうか‥‥。
遺骨収集をしていると、ときおり心が悲しみの深淵に絡めとられることがあります。その多くが頭骨と直接向かい合った時に生じるといえるでしょう。
悲しいかな、すべての頭骨が哀愁にみちた悲しみの表情をもっているのです。かつて一度たりとも笑っている表情の頭骨に出会った事はありません‥‥。
この頭骨のもつ"悲しい表情"が、私を長きにわたって沖縄での遺骨収集の道に導いたと思えてなりません。今を生きる私達の祖父母や父母でもある御遺骨が、きっと私達に"何か"を語りかけているのです。
私にとりましてある意味では遺骨収集の継続は、その語りかけの真意を探る長い長い旅路でもありました。ただ、残念な事に長い旅路を経ても、いまだ御遺骨の語る言葉のほんの一部さえ理解し得ない私ではあります‥‥。
しかしながら、やがて大地の中に消えゆく運命にある御遺骨の存するこの時代に、生まれあわせた者の使命として、私達父祖の発する言葉の真意を読み解くべく努力を続け、御遺骨の発する真意を次の世代にわたって伝えゆかなければならないと、沖縄の戦地に立つたびに、その思いを強くさせられています。
隠れ場のない夜露の冷たい山野で、暗黒の逃げ場のない洞窟壕の中で、爆撃による巨大な岩盤の下敷きとなったその場所で、火炎放射器に焼き殺された燃えカスの残渣の中で、喉の渇きや空腹にそして傷病の痛みに耐えかねて自爆により飛び散った岩場の片隅で‥‥。
未だ山野に放置されている数多くの御遺骨が、私達が探し出してくれる日を、いつまでもいつまでも待ち続けていると思わずにはいられません。
大東亜戦争史上、最も悲惨な地上戦が展開されたとされる南部戦跡の地に、人が傷つき、命を奪われた "残像" を見ることが出来る限り‥‥。
彼ら彼女らの痛みと悲しみを共に涙するために、私の慰霊の旅は続くでしょう。
発見された御遺骨は、驚くほど亡くなられた当時の状況を映し出しています。
私が遺骨収集を始めた昭和61年頃は、頭骨もかなりの確率で発見されましたし、手先や足周りの細かな骨も、かなりしっかりとした形状を留めて発見される事例が多かったのです。
初期の頃は、山野に倒れ伏している状況で発見されるケースも多数ありました。頭から胴体そして手や大腿骨から足の先までが、亡くなられた当時の状況そのままに倒れ伏しているのです。
残念ながら近年では、手足の細かい骨を含めたそのような完全なる一体分の御遺骨と呼べるレベルのものは、ごく希にしか発見されていませんが、初期の頃を振り返ってみますと人骨模型が出来るのではないかという程のレベルで骨が揃い、頭から足先まで見事に御遺骨全体を俯瞰する事が出来ました。
長く伸びきって倒れ伏している形、丸く縮こまっている形、明らかに片足だけ無かったり腕だけが見あたらなかったり、その様な明らかに身体の一部が無いと思われる御遺骨も多数ありました。
そして、火炎放射器で焼き殺されたのでしょうか?一部が焼け焦げていて炭化しているような御遺骨も結構目にしました。
手榴弾により自爆して自殺したのか、或いは至近距離での爆弾の爆発か、広範囲に一体分の御遺骨が散っているケースなどもありました。
艦砲射撃の凄まじさを物語る無数の弾痕跡
沖縄戦の写真を引用させて頂きました。
【引用元】『これが沖縄戦だ』 著者:大田昌秀
出版社:那覇出版社(P149)
艦砲射撃の凄まじい破壊力により、洞窟壕などで内部が崩壊し天井が崩れ大きな岩石の落下で圧迫死した例も多いです。驚くほどに艦砲射撃の破壊力は凄まじいものがあります。10メートル単位の巨大な岩盤がバックリと割れてしまった場所もかなりの頻度で見る事が出来ます。
小さな壕や天井の薄い壕などは、とても安全な場所とは言い難く、その巨大な破壊力の前には無力であり、岩盤の落石や破壊で圧迫死に追い込まれます。
大きな岩を除けると折れ曲がった御遺骨が多数出てきたという例も多く報告されていますし、私自身も何度か見て参りました。すぐに死ねないという意味では、爆撃で瞬時に吹き飛ばされるよりも辛い死に方かも知れませんね。
鼓膜を破る程の爆発音と共に、一瞬の強力な破壊力で岩盤を打ち砕きます。洞窟壕などを木っ端微塵に吹き飛ばし、地上では破壊された岩石が凶器となって四方にぶっ飛んでいきます。銃撃と同じレベルで、岩石や爆弾の分裂鉄片に当たりでもしたら間違いなく命を絶たれます。
人体を損傷すべく、最初から小さな鉄片を爆弾内部に内包した粒散弾や迫撃弾もかなりの数で使われたといわれています。地雷と同じように、殺さずに人体を損傷させる意図により"死亡しないレベルの殺傷力を持つ兵器"という概念で作られた爆弾です。
戦死すれば死者を埋葬するだけですが、ケガならば前線から後退させ野戦病院などで手厚く処置をしなければなりませんので、保護から介護に至るまで多くの人員を要しますので、"前線戦闘力の低下"を狙った兵器といえますね。
手榴弾なども、鉄片を四散させて爆発範囲にいる人間を損傷させるという意味では、地雷と同じ考えの兵器ではないでしょうか。手榴弾の握り部分に縦横に溝状の筋が入っているのはその為です。
自決したのでしょうか?頭蓋骨に1センチ程の穴が空いているものもありました。頭骨の反対側は砕けていますので、短銃により撃ち抜いたとしかいいようがありません。このような頭骨と向かい合う時に、どのような経緯で自決しなければならなかったのか?傷病兵故か、喉が渇き空腹故生きた心地がしなかったのか?。しばし御遺骨を見つめながら、死亡原因に思いを馳せていても、無言の御遺骨をただただ見つめるだけしか為す術がありませんでした。
長い遺骨収集の経験の中で強く印象に残っている事のひとつに、発見された頭骨の中に異常に小さいものが含まれるという事です。頭骨の表面は、概ね薄い皮膚で覆われているだけですから、頭骨そのものが頭の大きさという事になります。極端にいえば、子供の頭骨ばかりが出てくるという印象です。
沖縄の人達は、元々小柄な人が多いのも事実ですが、それだけでは納得出来るものではありません。つまりは、それだけ若い世代の人達が戦場に駆り出されたという事ではないでしょうか。
もちろん、頭骨だけでなく腕の骨や大腿骨なども概して小さくて、子供ではないかと思えてしまう御遺骨も意外と多いです。中にはガッチリとした立派な御遺骨もあるにはありますが、どちらかといえば少なめな印象です。遺留品の存在などから、明らかに兵隊さんの御遺骨と断定出来るものも、同じように小さく感ずる事が多いです。
このような小さな御遺骨を見ると、ついつい鉄血勤皇隊や学徒隊の学生さん(現在の学制で中学2年生から大学2年生に相当、女子学徒隊も同じ)かもしれないなどと勝手に想像してしまいます。
沖縄戦では、防衛力を増強する為に『鉄血勤皇隊』や『学徒隊』という名で、中学校や高校の生徒達を戦力化していきました。これらの学校の生徒や先生は、時局の戦時体制への移行に伴い、学業を捨てて飛行場建設や地下壕陣地の構築作業に従事していましたが、戦局の悪化と共に戦闘要員として徴用されるに至り、守備軍配下部隊に配属され前線での戦闘任務や通信・築城任務などにつきました。
彼ら彼女らは、戦闘任務を日本兵同様に果たしながら前線で戦い抜きました。そして、沖縄戦末期には急造爆雷などを対戦車攻撃に体当たりして全滅するなどして全滅したりもしました。
敗走する日本兵と行動を共にしながらの過程で、米軍の容赦ない攻撃さらされ多くの未成年の学生さんが日本兵と共に亡くなっていきました。沖縄戦で学徒動員された学生さんは2,240人とされ、そのうち1,298人が戦死したとされています。
沖縄は、サンゴの島でありそれが隆起して出来た島だと聞いたことがあります。それ故に、古来から自然に出来た大きな壕がいたるところに存在します。特に南部ではたくさんありますね。小さい壕は数えきれない程の数があり、大きいものは深さ数百メートルからキロ単位のものまであるそうです。
沖縄戦では、これらの自然壕が県民の避難場所として、生命を繋ぐに数少ない安全な場所でした。那覇や首里などの米軍に攻撃目標とされる恐れのある場所に住む住民は、いち早く南部方面の自然壕などに避難していました。しかし、沖縄守備軍が首里を撤退し南部に退却すると決定した5月24日以降、避難壕での生活様相は一変しました。
喜屋武岬から摩文仁之丘に至る約10キロメートルにわたる地域に、市街地からの避難民がすでに10万人規模で立て籠もって生活を営んでいたのです。そこへ沖縄守備軍が最後の抵抗戦を展開すべく、数万人規模で首里などの前線から押し寄せてきたのです。
日本軍も敗走の途上にあり、組織的な戦闘体制は無きに等しく、厳しい戦いを余儀なくされていました。日本兵も自らが生き延びるのがやっとという状況は、すでにこれら地域に避難していた沖縄県民と同じでした。
米軍は、最大の激戦地である首里を攻略した後は、雪崩を打つように南部に侵攻してきました。一坪に一発といわれるほどの巨大な破壊力を持つ艦砲射撃によるジュウタン爆撃に始まり、火炎放射戦車を先頭に野山を焼き尽くしながら前進し、隠れていた避難民が燃えさかる山野から逃げ出したところを待ち構え、戦車による発砲や銃撃により射殺しながら進軍していきました。
各地域にあった自然壕なども、米軍によりひとつひとつ順を追って銃撃、爆破破壊され、日本兵や避難民は非常なまでに、ことごとく殺戮されていき、米軍の前線は南下していきました。
米軍は、壕に隠れているものに対し火炎放射器や毒ガス弾そしてガソリンを流し込んで火攻めにする"馬乗り戦法"で壕内を灼熱地獄に追いやり、中にいる避難民は地獄の苦しみを味わいながら息絶えたのでした。
よく知られている「ひめゆり部隊」が看護活動をしていた沖縄陸軍病院第三外科壕でも、米軍の毒ガス弾攻撃を受けて一挙に65人もの若き女性達が殺されました。
現在、『白梅の塔』が立っている東側に、通称「白梅学徒隊」の県立第二高等女学校の生徒などが自決した壕があります。米軍の投降の呼びかけがありましたが出てこなかった事により、米軍によりガソリンを流し込まれ、火を放たれました。
それでも壕内に潜む学徒隊の生徒達は、「海ゆかば」を歌いながら苦しみに耐えていましたが、最後は火炎放射器により焼き殺されました。壕内から、そして壕の周辺にはおびただしい数の屍が転がっていたといわれています。
その壕の前に立つと、岩が黒く焼け焦げている場所があちこちにあり、当時の惨状を目の当たりにする事が出来ます。下の写真は、白梅学徒隊自決の壕周辺の岩が火炎放射器などにより焼かれた様子が今でもそのまま残っています。
白梅学徒隊自決壕に残る火炎放射器に焼かれた岩陰('90撮影)
このように"第三外科壕"や"白梅の悲劇"が際だって知られていますが、実際に自然壕などで殺戮された日本兵や沖縄県民は膨大な人数になると思われます。
御遺骨は歳月の経過と共に、いずれは土に帰っていきます。そして地表面で雨露にさらされる御遺骨よりも、壕内に散乱する御遺骨のほうが、はるかに長期に渡って御遺骨が温存されるという面があるという事は御理解頂けるものと思います。そういった理由もありますが、これまでに壕内での御遺骨をどれだけ見てきたことか(^^;)。
壕に爆雷を投げ込み逃げ出す兵士を射殺しようと待ち構える米兵
沖縄戦の写真を引用させて頂きました。
【引用元】『これが沖縄戦だ』 著者:大田昌秀
出版社:那覇出版社(P96)
壕内で発見されたおびただしい御遺骨を手に取りながら、米軍による"馬乗り戦法"攻撃を受け、毒ガス弾や爆雷を投げ込まれ、あるいはガソリンを流し込まれて火をつけられる…。真っ暗な暗闇の中で、息も出来ない灼熱地獄にもがき苦しみながら息絶えていった…当時の惨状に思いを馳せる時に、自分が当時この壕内に避難していた一人に含まれていたなら…。
今の壕内は、地獄のような絶叫や悲鳴がとどろいたのは幻かと思えるほどの静けさですが、壕内に散乱する御遺骨のみが悲惨な歴史の証人であり、事実であったことを静かに、そしてリアルに主張しています。
私は平成16年の遺骨収集参加の時点で18回目の参加という事になります。
これまでに、数えきれないほどの御遺骨を目の当たりに見て参りましたが、今まで私が体験した範囲の中で最も衝撃を受けた出来事を書きなさいと言われましたら、次の事例を紹介しないわけにはいきません。
昭和63年1月、第12回金光教沖縄遺骨収集奉仕私。私にとりましては3回目の遺骨収集活動の二日目午後の出来事でした。当時30歳前半で、まだまだ体力に自信がある年齢ですから、朝からクマデで地面を掻きまくり必死に探し回っていました。
今回の捜索地域は喜屋武半島の海岸線から少し内陸に入ったジャングルです。午後2時ぐらいだったと記憶しています。この頃になるとさすがに体力もほぼ使い果たし、エネルギー切れを心身共に感じてパワーが落ちてくる頃なのですが、若さに任せ気持ちだけは前をしっかり見つめて前進していました。
クマデを掻きながら少しずつ前に進み、直径1メートルも無いような比較的小さな岩が二つ並んでいるところにぶつかりました。二つならんだ岩の間の隙間を懐中電灯で照らしてみました。驚きました。パッと明るく照らした瞬間、白い頭骨が見えたのです。
頭骨以外の骨というのは、なかなか発見しずらいものがあります。特に山野に露出していたものは、骨に苔が生えたり周りの岩や枯れ葉などと同じような色合いとなり、識別がかなり難しくなっており、結果として骨とみえないケースもありますので、見落とす可能性が高いのです。
しかし、頭骨だけは見落とす可能性はまずありません。頭骨は概ね丸い形をしていますが、山野の土砂な岩場そして草木茂る場所でも、その様な形をしたものはありません。自然界には存在しない形ゆえ、パッと見ただけで頭骨と認識出来る事が多いのです。
この御遺骨も完全に頭骨は露出しており、それ以外の骨も多数表面に露出していましたので、この場所を発見さえすれば誰でも御遺骨と認識出来る状況にありました。
私は直ちに持っていた"笛"で、「ピー、ピーピー」と吹きました。笛は各自持つことが義務づけられており、御遺骨を発見した時に使用します。笛を吹いて、広範囲に散って探索している他の班員に遺骨発見を知らせ、笛の鳴る場所に集合させるために鳴らす訳です。班員はかなり広範囲に広がっていますので、しばらく吹きつづける必要があります。そうでないと発見場所の方向が判らなくなってしまいますからね。
やがてあちこちから班員が、「何処ですかー?」とか「見つかったんですか?」とか声を発しながら集まって参りました。班長や記録係も到着しました。まずは手をつけずに班長を始め班員に現場状況を見て頂く事になります。そして、記録係が現場状況などをカメラで撮影します。記録係は収骨が完了した時点でも写真を写し、発見場所の各種データを書面に記録していきます。
記録係により発見時の状況写真の撮影も終わったので、今から収骨作業に入っていきます。
御遺骨は、四散している可能性もあるので、より広い範囲を捜索する必要があります。手榴弾などによる自殺の場合は、かなり広範囲に御遺骨が散っている事もあります。ここでは、直径3メートルほどの範囲を捜索する事になりました。
第一発見者の私が、見えている主要な御遺骨を取り出すことになりました。頭骨を始め大きく長い骨を、ちょっと岩の奥まった所から何本か出しました。
そして驚きました。下の方から赤ちゃんのものと思える、小さな頭骨が見えて来たのです。
これほど小さな頭骨は初めて見ました。あまりに胸を打たれ言葉を失ってしまいました…。この小さな頭骨を見つめる周りの人々も、驚きの声と共に作業が一時中断するほどでした。
出来る限り頭骨を破損させないように、手袋をとり慎重に手を動かしながら、絡まった樹木の根を慎重に切り離し、頭骨をゆらしながら固まった土から外していきました。
発見場所はわずかな岩陰です。人間一人岩の中に潜り込めるはずもありません、岩に身を寄せると言ったレベルの逃げ場しかありません。しかし、付近を見回してみても、近くには大きな岩などはありませんでした。ここは林の中ですし山肌の斜面ではありますが、当時は樹木は吹き飛ばされ草花は焼き尽くされていた事でしょう。
この付近では爆撃を避けうる避難場所はありませんでした。この限られた岩陰に身をかがめる以外に方法は無く、少なくともそれが出来うる最善の避難だったのでしょう。可能性としては、赤ちゃんを先に岩の中に押し込んだ形跡も見られます。母親は、少なくとも赤ちゃんだけは、爆撃から守れると判断したのかもしれません。
赤ちゃんの安全を確保した上で、それを守るように母親が上に被さったのかもしれません。母親も頭だけは爆撃から保護しようと、頭から岩陰に首を突っ込んだものと思われます。
しかし、生き延びようとする願いも空しく、何らかの理由で死に至ったのでしょう。残念ながら、死亡原因を御遺骨の観察から推測することは不可能でした。
発見場所は、一年中風雨が入り込むわずかな空間ですから、御遺骨の損傷も早かったようで、御遺骨は細かい骨は溶けて無くなっており、主要な大きい骨のみ収骨されました。
この遺骨収集には、全国からお嬢さんやご婦人など大勢の女性が参加しています。この母子の御遺骨と思われる収骨を進める過程では、ご婦人方が泣きながら作業を進めていました。皆さんが慈しむように、そして出来る限りていねいに御遺骨と応接していました。
喜屋武岬から摩文仁の丘までのわずか10キロメートル余りの海岸線に沖縄県民10万人以上が、自然壕などに避難していたと言われています。
そのような場所に、首里を放棄し南部に撤退してきた沖縄守備軍が最後の抵抗戦を展開すべく南部一帯に逃げ込んで来たのです。
そのような超過密な逃避行で避難壕に入るにも、母子という立場では容易でなかったと想像出来ますし、仮に入れたとしても赤ちゃんは泣いたりするので、壕の中に入っている人々からは敬遠されがちであったろうと思われます。
安全な壕に逃げ込むために右往左往している間に、艦砲射撃が始まり近くの岩陰に身を潜めた…。そんな悲しいストーリーが想起されます。
収骨された母子の御遺骨を前にミニ慰霊祭を執り行い、式次の最後には「赤とんぼ」と「ふるさと」の唱歌を皆で合唱して今は亡き母子の心を慰めました。全ての参加者が堪えることを忘れ、泣きながら歌っていました…。