鹿屋・知覧の特攻隊基地跡を訪ねる
特攻志願したとはいえ、彼ら若人も生身の人間ですし、何よりも若すぎます。そんな若人が「十死零生の特攻」を自ら選択したのです。飛び立つまでの時空間においては、呻吟し苦悩するのが当然ではないでしょうか。
「生きたい。故郷に留まりたい。恋もしたいし、なにより結婚もしたい…」
生と死との狭間で、「生きたい、まだ死にたくない」という痛切なる人間的哀情が行間に滲み出ているからこそ、彼ら特攻隊員の書き記した遺書を見つめる私たちは感涙に咽ぶのです。
だが彼らは、そうであったとしても尚、父母や兄弟そして生まれ育った故郷に別れを告げ、わだかまる内心の苦悩と葛藤を乗り越え、私を沒し本源に生きる義勇奉公の精神を覚醒させ祖国開明を為さんと、最後には操縦席で笑顔を見せながら従容機上の人となり敢然と敵艦船に突入して行ったのです。
親子の絆、兄弟の絆、友との絆、恋人との絆、故郷との絆、戦友との絆、そして国家との絆…。
今の世では想像する事さえ難しい、国民一心にしてこれら強固なる決意の共有と、社会の隅々まで行き渡る連綿とした深い愛情とのつながりがあったればこそ、「祖国と愛する人々を守るため、誰かが行かねばならぬのなら、俺が行く」と、自らの命さえも犠牲にして "大切なもの" を守ろうとする気概を持つ日本男児が、広く普遍的に存在したのだと思います。
私たちは特攻隊員が抱いた清心なる「祖国愛」、「崇高な自己犠牲の精神」という、名誉や代償を求めない希にみる純粋性と共に、心の深いところから沸き上がる憂国の思い、そして日本人として、アジア人としての血と魂の奔騰に着目しなければなりません。
国家を存続させる為に戦うか、さもなくば最初から白旗を掲げて白人の植民地になるか、どちらかの選択肢しか無かったあの時代、世界の98%を支配する欧米列強の、日本やアジア侵略という国難に際し、"アジアをアジア人の手に取り戻す" という使命感に燃え、眼前に立ちはだかる圧倒的な白人支配体制に立ち向かうという、身命を賭して「自分が日本国を、そしてアジアを守る」という気概を、家族を守る、郷土を守るという延長線上において、敢然と優先させた勇士たちが数多く日本に存在したのです。
彼らは、命よりもはるかに大切なものの為に、掛け替えのないひとつの命を捧げたのです。
日米同盟の名の下に、国富と尊厳を奪われ続ける日本。
日米安全保障体制の名の下に、死ぬまであめ玉をしゃぶらされ続ける日本。
そして先人が命がけで残してくれた、かけがえのない日本の伝統と文化がアメリカ色に染められていく。
日本の将来を担う若人が、国民総生産だとか経済成長率だとか、そんな数値よりも、はるかに大きくて大切なものがあると気づくとき ――。
いつの日か、生存を賭け日本国自身の力のみに依って立つ時、身命を賭して日本の国体を守り抜いた特攻隊勇士こそが、日本の新しい国家意識の守護神として尊崇されるに違いない。
「帰らざる特攻兵士に捧ぐ鎮魂の詩」 中澤 修平
雲湧きて 流るるはての青空の
その青の上 わが死に所
古川 正崇 英霊
(23歳/昭和20年5月29日神風特別攻撃隊振天隊員として沖縄海域で戦死)◇
あなた方の児孫である私たちは、今こうして豊かな社会の中で生活しておりますのでご安心ください。
このかけがえのない平和な社会の礎を築いて下さった、陸海軍特別攻撃隊兵士である皆様方の、在りし日の面影を偲び、戦後世代を代表して一言申し述べさせて頂きます。
今日の平和で豊かな社会があるのも、身を挺して日本の国体を守り抜き、私たちの郷土と家族を守って下さったあなた方の御陰であり、最上の賛辞と、感恩の念を心を込めて表明いたします。
悠久の大義に殉じられ、靖国の軍神として祀られるあなた方の気高い犠牲的精神を、私たち児孫は日本国の誇りとして、未来永劫口碑として語り継いでまいりますので、あなた方もどうぞ安住の地である靖国の杜にお鎮まり下さり、私たちの行く末を見守り下さいませ。
ふりかえれば60余年前、あなた方は 「十死零生」 の陸海軍特攻隊を志願し、郷土に住まう父母や私たちを守るために、また日本軍の建軍からの伝統に従い東亜解放という崇高な使命に燃え、勇敢に敵艦船へ体当たり攻撃を仕掛けるという武勇は、一躍世界を驚愕させました。
世界は自らの命をもってあがなう特攻攻撃を目の当たりにし、白人による500年もの長きにわたる帝国主義植民地侵略に苦しめられ、富を搾取され、奴隷として売買され酷使されたあげく、異境の地に果てるという、おぞましく、非人道的扱いを受け続けただけでなく、白人国家相互の植民地の争奪と談合により、勝手に国境線を線引かれ、国家と民族とを分断させられたりもした全てのアジア人とアフリカ人、そして中・南米の虐げられた人々の魂を揺り動かし、「俺たちも立ち上がろう」 という、民族独立への強い決意を覚醒させたのです。
まさにあなた方の愛国心の発露たる特攻攻撃が、全世界の98%を支配する、白人による植民地支配からの解放を希求する独立戦争の先駆けとなったのです。
しかしながら日米決戦においては、皇国の必勝を信じ、特攻が意味するところの「十死零生」という絶対死が待つ厳しく冷徹な肉弾攻撃を展開するも、米国の圧倒的物量の戦力投入により彼我の戦力差は開く一方となり、特攻隊勇士の敢闘にも関わらず、結果として日本国は米国との決戦に敗れたのです。
「生きて再び故郷の土を踏む」という願いが叶うことなく、勇敢に戦い続けた幾十万の皇軍たる日本軍将兵たちもまた、戦野の屍そして水漬く屍となられたのです。
しかし戦況劣勢のなかで、いや戦況が悪化しているからこそ、父母や兄弟、郷土の同胞を守るために、そして天壌無窮日本の戦捷を信じ、日本国の独立維持と皇国の尊厳を守るために、敵艦船を見据え、陸続と勇敢に突入し、砕け散っていかれたあなた方の気高い犠牲的精神を、あなた方の児孫である私たちはしっかりと脳裏に刻み込みました。
たとえ「国敗れたり」といえども、幾年月かかろうとあなた方は国家再興の為の"敢闘"という精神的支柱を、次の世代である私たちの心にしっかりと植え込んでくれたのです。
今こうして平和な時代にあってなを、護国の霊神になられたあなた方がいつも願っていた、祖国の国威を東アジア及び世界の平和と安定のなかで保持し、人種差別のない民族融和社会実現をこれからも更に前進させるために、今を生きる私たちもまた、あなた方が守り通した日本男児の気概と伝統に従い、今まで以上に清心に正義公道を歩み、道義精神に則った貢献を重ねていく所存です。
あなた方は私たち児孫に、 "後に続くを信ず " という言葉を託し、敵艦に突入し散華されました。
たまらなく日本が好きな私たちもまた、国難に殉死する気構えはできており、 "その時 " が到来したら決意をもって武人としての大和心を再起させ、必ずやあなた方の後に続きます。
歴史の連続性の中に生き、為すべき使命に殉じられたあなた方の大いなるみ働きを、英霊鎮魂の賦として永遠に語り継ぐためにも。
命よりも大切な日本国の歴史と伝統、そして皇国三千年の弥栄と尊厳を守るためにも。
特攻隊書籍ご紹介
「神風特別攻撃隊」 猪口力平/中島 正著 (河出書房) 昭和42年(1967年)
「神風」 ベルナール・ミロー著 (ハヤカワ・ノンフィクション) 昭和47年(1972年)
「われ特攻に死す」 折原 昇著 (経済往来社) 昭和48年(1973年)
「陸軍特別攻撃」(上・下) 高木俊朗著 (文藝春秋) 昭和49年(1974年)
「死にゆく二十歳の真情」 長峯良斉著 (読売新聞社) 昭和51年(1976年)
「神風特攻第一号」 幾瀬勝彬著 (光風社) 昭和52年(1977年)
「敵・戦友・友・人間」 井上著(昭和出版) 昭和54年(1979年)
「知覧特攻基地」 知覧高女なでしこ会編著 (話力研究所) 昭和54年(1979年)
「高貴なる敗北――日本史の悲劇の英雄たち」 アイヴァン・モリス著 (中央公論社) 昭和56年(1981年)
「ドキュメント神風」(上・下) デニス&ペギー・ウォーナー著(時事通信社)昭和57年
「敷島隊の五人」 森 史朗著 (光人社) 昭和61年(1986年)
「知覧特別攻撃隊」 村永薫編著 (ジャプラン) 平成1年(1989年)
「かえらざる翼」 永末千里著 (海鳥社) 平成6年(1994年)
「散華の心と鎮魂の誠」 靖國神社 (展転社) 平成7年(1995年)
「天王山」(上・下) ジョージ・ファイファー著 (早川書房) 平成7年(1995年)
「日本への遺書」 田形竹尾著 (日新報道) 平成8年(1996年)
「特攻の町知覧」 佐藤早苗著 (光人社) 平成9年(1997年)
「特攻へのレクイエム」 工藤雪枝著 (中央公論新社) 平成13年(2001年)
「ホタル帰る」 赤羽礼子・石井宏共著 (草思社) 平成13年(2001年)
「魂のさけび」 鹿屋航空基地資料館連絡協議会編著 平成15年(2003年)
「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」 深沢敬次郎著 (元就出版社) 平成16年(2004年)
「魂魄の記録」 (知覧特攻慰霊顕彰会) 平成16年(2004年)
「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く」 (ザメディアジョン) 平成18年(2006年)
「日本人の勇気」 北影雄幸著 (光人社) 平成18年(2006年)
「特攻 最後の証言」 制作委員会編著 (アスペクト) 平成18年(2006年)
「知覧からの手紙」 水口文及著 (新潮社) 平成19年(2007年)
「特攻作戦」 新人物往来社編著 平成19年(2007年)
「特攻の本」 北影雄幸著 (光人社) 平成19年(2007年)
「いつまでも、いつまでもお元気で」 知覧特攻平和会館編著(草思社)平成19年(2007年)
「8月15日の特攻隊員」 吉田紗知著 (新潮社) 平成19年(2007年)
「永遠の0」 百田 尚樹著(講談社) 平成21年(2009年)
「特攻」 マクスウエル・ティラー・ケネディ著(ハート出版) 平成22年(2010年)
「最後の特攻隊の真相~消された偵察機彩雲」 太佐順著(学習研究社)平成23年(2011年)
「太平洋戦争 最後の証言 零戦・特攻編」 門田隆将著 (小学館) 平成23年(2011年)
「日本人はなぜ特攻を選んだのか」 黄 文雄著 (徳間書店) 平成25年(2013年)
「『永遠のゼロ』と日本人」 小川榮太郞著 (幻冬舎) 平成25年(2013年)
特攻隊動画ご紹介
【神風特攻隊】特攻―空母バンカーヒルと二人の神風(ケネディ著)より
大東亜戦争動画ご紹介
「凜として愛」 泉水隆一監督
平成21年(2009年)1月18日(日) 鹿児島県にある鹿屋・知覧特攻基地跡を訪ねた記事です。
「こんちゃらごわす。わっぜーよ、おいどんは、ごっとおきして、きゅな、よのいもとまで、かごんまのカノヤとチランに、なんだながしにいくでごわっど」
タイトルなどでバレバレですが、そうなんですね~~。私はいま鹿児島に来ていますよ~。(^o^)
鹿児島県といえば、今も噴火を続ける「桜島」が一番有名でしょうか?。二番目は西郷ドンかな?。
昨日18時30分に鹿児島空港に到着し、レンタカーを借りて大隅半島は鹿屋市までやってまいりました。宿泊した場所は、鹿屋市の市街から少し外れた場所にある「さつき苑」というホテルです。
今から20年前の新婚旅行の時に、福岡空港に到着してからレンタカーで大分県や宮崎県の観光地を見て回り、そして更に南下して鹿児島県に入り、鹿屋市もルート上にある国道220号線を通って桜島まで行き、フェリーで鹿児島市内に入り、鹿児島空港から空路で帰路についたという思い出があります。
ですから、20年ほど前に鹿屋市を一度車で通っているんですね~。ただ、あの新婚旅行の時は、宮崎県の鵜戸神宮見学の折、ちょっとした事が原因で、新婚旅行なのに早くも夫婦げんかをやらかしてしまい 、鹿屋市付近も含めて国道220号線を走っている時は、ほとんど二人は「口も聞かない状態」だったのがなつかしく思い出されます。
ですから、鹿児島にあるこの国道220号線は、"無言の街道" として、20年経過した今でも、頭の中にトラウマとして引きずっているのです。しかしながら、新婚旅行に出かけたときから夫婦ゲンカが始まったものですから、「波瀾万丈の結婚生活」が予感されましたが、結婚生活は思いのほか健全に今日まで推移していますよ。空中分解はしませんでした~。(笑)
さてさて、話がわき道に逸れてしまいましたが、元に戻して…。
私の沖縄南部戦跡での遺骨収集活動は、「金光教沖縄遺骨収集奉仕」に参加させて頂くという形を通して、昭和61年からですから、すでに25年ほど取り組んでいるという事になります。
(ちなみに「金光教遺骨収集奉仕」活動は、今年で第36回を数え、ほぼ同回数参加し続けていらっしゃる方が大勢おられますね。本当にお疲れ様でございます)
遺骨収集ご用奉仕に取り組んでみますと、沖縄戦については、好むと好まざるとに係わらず見聞をし、あるいは自ら書籍を調べ現地を調査するなどして、少しずつ沖縄戦の戦闘概要を知る事となるのです。これは何人も例外ではないと思われますよね。
沖縄戦は米軍が1945年3月26日。慶良間諸島へ上陸した事により始まりました。(本島上陸は4月1日)
沖縄本島で沖縄守備軍第32軍が洞窟に籠もり、決死の持久戦を展開している正にその時、空からも沖縄を守るために陸海軍それぞれから特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」が、沖縄に "鉄の暴風" と形容されるほどの砲弾を撃ち込んでいる敵敵艦めがけ、陸続と突入していった勇士の存在を知る事となったのです。
米艦船への特攻攻撃が開始されると、米艦船から沖縄本島への砲撃もピタリと止み、沖縄県民はその間隙を縫って食糧確保や水汲みに行ったりする事が出来たそうです。
私も沖縄での遺骨収集ご用奉仕に係わりながら、いつも頭の隅にあり思いを温め続けていたものに、「いつの日か、鹿児島の鹿屋と知覧の特攻基地跡を訪ねてみよう」という思いがありました。
毎年沖縄に足を運びながら、20余年を経てようやくその思いが叶う事となったのですね。長い歳月でした。
鹿児島県には特攻発進基地や特攻ゆかりの地が多数ありますが、今日一日という時間的制約のなか、大隅半島は鹿屋市にある「鹿屋航空基地資料館」と、薩摩半島は知覧町にある「知覧特攻平和会館」の二カ所を廻ってこようと、事前にしっかりと計画しました。
もちろん大隅半島と薩摩半島の二カ所を巡るのは、地図上でもかなりの強行軍となるのではないかと、ある程度は覚悟していたのです。
しかしながら、昨日鹿児島空港から鹿屋市に至るルートを走っての経過時間と走行距離の感覚。そしてホテルのフロントで、また食堂などの現地のおばさんに聞いたりしてのアドバイスによれば、二つの半島を股にかけ、資料館みたいな見学するのに時間を要する場所を見学するのに、一日だけなんて決定的に無理があると、ハッキリと忠告されてしまいました~。 ガックシ(^_^;)。
ウ~ム。
後に続く人たちにお知らせです。じっくりと特攻隊関連施設を見学するのなら、知覧や万世がある薩摩半島で一日、鹿児島空港付近の見学場所も含めて、鹿屋のある大隅半島で一日。これが適正でかつ十分に見聞できる日程ではないか……。 というのが明らかになりました。
という事で、来てしまったものはしょうがない!。たとえ強行軍であろうとも、施設見学は最低限度に絞り、ルートを間違えて10分でもタイムロスする事の無いように万全を期して、今日一日特攻隊関連施設を見学し、無事に鹿児島空港にたどり着きたいと思いますよ。
この参加記を期待して読んで下さる方々には申し訳ございませんが、お湯を入れすぎたスープのような、かなり中身の薄いリポートになる恐れがあります。それを承知のうえで、駄文を読み進めて下さいますよう、御願い致します。
鹿屋市の「特攻慰霊塔」を訪ねる
朝6時起床。
日常的に毎朝4時50分に起床しているので、この起床時間は楽ちんです。
大隅半島では、「鹿屋航空基地資料館」見学がメインですが、開館は9時からという事ですから、9時までは3時間もあるという事で、宿泊している「さつき苑」ホテルから徒歩で10分程度と思われます 「鹿屋航空基地資料館」 に、朝の散歩を兼ねて訪ねてみることにしました。
鹿屋での朝6時という時間帯はまだ真っ暗ですね。ただ東の空が白んで来ているのは明らかでした。沖縄の朝6時といえば、更に真っ暗ですからね。真夜中みたいな印象ですよ。
「鹿屋航空基地資料館」は名前の通り鹿屋航空基地に隣接してあるんですね。基地の正門を見つけまして、その正門の少し手前の左側の敷地に資料館はありました。駐車場の位置も確認できましたので、これでまっしぐらに入庫できるルートを把握しました。海軍カレーなんていう看板がありました。どうなんでしょうか、お皿が船の形をしていたりして。(笑)
いつものように散歩して、お腹を空かして朝食を食べて、食休みをして、無事に出発準備が整いました。そして朝7時30分にホテルを出発しました。
早めの出発の理由は、現在の鹿屋航空基地の風景も撮影したかったからです。海上自衛隊の航空部隊が駐屯する現在の鹿屋航空基地は、残念なことに基地の周りにフェンスが張り巡らされていましたし、朝なので逆光だったため、かつ基地が広いので望遠レンズが必要である事が解り、標準ズームしか持たない私には、ちょっと残念な撮影となりました。
基地の風景を撮影しようという試みは早めに断念し、基地からそれほど遠くない今坂町にある 「特攻慰霊塔」 を訪ねました。「特攻慰霊塔」 は小塚公園の奥まった小高い丘の上にあるのですが、車を横付けしてみると、小塚公園の枯れた芝の部分が白い霜に覆われていてビックリしました。 快晴だった事もありますが、鹿児島といえでも1月中旬だとかなり寒くなるのですね。
丘の入り口に「特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来」と書かれた掲示板がありましたので、ここにその文面を掲載させて頂きます。
【特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来】
第二次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例がないほど熾烈なものであった。
ときに戦局は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。即ち敵国海空軍全滅を期して企てた"特攻攻撃"である。
ときまさに昭和二十年春であった。そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来八十二日間の戦闘は苛烈を極め、日々若人達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。
あたら青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げたこれら若人達……。世上ともすれば敗戦のかげにこのような尊い犠牲を忘れがちである。
こんにち、ことの結果はどうであったにしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後生に誤りなく伝えられなければならない。
その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員九百八名が飛び立って再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和三十二年十月鹿屋市長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけたところ、市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。
これに基づき航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、昭和三十三年三月二十日建立したものである。
鹿屋市
「特攻慰霊塔」
昭和33年に建立された「特攻慰霊塔」の遠景です。小塚公園の小高い丘の上に慰霊塔がありました。丘の上に上がると鹿屋基地も思いの外近くに見えます。今日は抜けるような青空です。朝は冷え枯れた芝地に白い霜が降りているのが見えますね。
「今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたちゆきし友はかえらず」
「太平洋戦中鹿屋航空基地より 飛びたち肉弾となって散った 千有余の特攻隊員 御霊よ安かれ 必ずや平和の礎たらん 昭和35年3月20日 鹿屋市」
慰霊塔の高さは11メートルあります。塔の上には、平和のシンボル「白鳩」が、南の空に向かって飛び立とうと翼を広げています。
「旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者 908名」、つまりここ旧鹿屋航空基地から、帰らざる特攻隊員として若人908名が飛び立ったのですね。銘板には特別攻撃隊戦没者908名の階級氏名、出撃年月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれています。
丘の上から現在の鹿屋航空基地方面を見ています。遠くには横尾岳が霞んで見えます。
「鹿屋航空基地資料館」を訪ねる
九州における陸海軍の特攻隊発進基地はかなりの数に上ります。
その多くを見学したいところですが、時間的な制約が大きく、今回の特攻隊員発進基地巡りでは二カ所に絞りました。鹿児島県の大隅半島にある海軍の 「鹿屋航空基地資料館」 と、薩摩半島にある陸軍の 「知覧特攻平和会館」 の二カ所を重点的な見学する事にしたのです。
もちろんすでに書きましたように、腰を据えて見学するというのは諦めています。表面的な見学になること必至です。ですから可能な限り資料館を見学し、印象的な部分を強く記憶に残したいと思いますよ。
それでは、この参加記をご覧になっている皆様方と共に、国家危急の時、勇敢に敵艦船に突入していった17歳から23歳前後の若人の、国を守るために…、沖縄を守るために…、郷土にいる父母や兄弟を守るために、特攻隊員として散華された彼らの抱いたる憂国の思いの一端を、これから一緒に見つめてみる事にしましょう。
現在の「海上自衛隊 鹿屋航空基地」
「鹿屋航空基地資料館」に行く前に、現在の基地の様子を撮影してみました。鹿屋航空基地のエプロンです。現在は格納庫が4棟あるみたいですよ。小さく写っていますが、駐機してあるのは「P-3C」オライオンです。対潜哨戒が任務の航空機です。
「鹿屋航空基地資料館」
【所在地】 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2
【電 話】 0994-42-0233
【開館日】 12月29日から1月3日を除く毎日
【開館時間】 午前9時から午後5時まで (入館は午後4時30分まで)
【入館料】 無 料
「鹿屋航空基地資料館」
写真中央付近の車が停止しているところが鹿屋航空基地正門です。警備隊員が入門チェックをしているようです。"ここから軍事施設" というような威圧感は無く、よく見ないと基地である事さえ気づきませんでした。
ここが「鹿屋航空基地資料館」です。施設の中に入る前に駐機場で飛行機を見てみましょう。
US-1A(おおとり)という救難飛行艇です。ターボジェットエンジンを4発搭載していますね【現役機種】
飛行艇といいながら水陸両用なんて凄いですね。
US-1A(おおとり)の解説板です。ギリギリ読めますね。US-1A(おおとり)機は現在も現役続行中です。
P2-Jという対潜哨戒が主任務の飛行機です。 【退役機種】
対潜哨戒機というのは、潜水艦を発見・捕捉・攻撃を行う飛行機です。「まだプロペラ推進だったのか!」な~んて思わないで下さいね。推進はプロペラによりますが、エンジンはレシプロエンジンでなくターボプロップエンジンです。つまりジェット推進ですと、戦闘機みたいに ビューーーンと凄いスピードで飛んで行ってしまいますが、対潜作戦が主任務ですから、低速で航行する意図でプロペラ推進としています。低速だと旋回半径が小さくなりますから対潜作戦飛行がしやすくなりますね。当然のことながら、鹿屋航空基地エプロンにあったP-3C オライオンもプロペラ推進です。
P2-Jの解説板です。読めますね。説明の通りこのP2-Jはすでに引退しています。後継機種として、現在はロッキード社製ターボプロップエンジンの哨戒機 「P-3C オライオン」が現役です
資料館に入りますと、大きなステンドグラスが目に飛び込んできました。このステンドグラスの原画は、なんとあの平山画伯が無償で書いて下さったそうです。聞けば施設を建設する当時、平山画伯の実弟が司令としてこの鹿屋基地に勤務していたと言うご縁があったそうです。
これが平山画伯が書かれた「夕映桜島」と題する原画だそうです。
零式艦上戦闘機 「零戦」
※ 二階展示室は零戦のみ撮影ができます。
二階に「零式艦上戦闘機52型」が展示されていました。ここ鹿屋基地からも多く特攻出撃しました。この零戦は平成4年に錦江湾と吹上浜との二カ所から引き揚げられた残骸を組み合わせて復元されたものです。
資料館建設着工間際に二機相次いで漁船の網に掛かったという話ですから、なにか不思議な力が働いたという事でしょうか。機体は海上自衛隊隊員と三菱重工技術者によって丁寧に工作され、平成5年7月に「名機零戦」が復活したのです。52型は11型から4度の設計変更を行い、攻撃力・最高速度・防御力を極限まで向上させたそうです。
最大速度:時速約565km
航続距離:1920km
胴体:7.7㎜機銃×2
主翼20㎜機銃×2
30kgまたは60kg爆弾×2
恒速可変ピッチ3翅プロペラです。ちょっと見にくいのですが、主翼の主脚前方には機銃の銃身が突き出しています。機体下面はグレー系の塗料が塗られ空にとけ込みやすい色彩となっています。
反対側から撮影しました。
零戦は主翼に20ミリ固定機銃(弾数各60発)を装備しています。これはかなりの破壊力があったようです。胴体前方には7.7ミリ機銃(弾数各680発)が装備されています。
残骸の引き上げから復元までの経過などが記されています。復元の方針として、「復元に際しては出来るだけ引き揚げた実機を使用する事とした。しかし、腐食等が甚だしく復元不可能かな箇所については、当時の設計図により規格を同じくして新たに製作した」
名機零戦の解説をしています。記載されている内容を一部転載しますと、
【開発の経緯】
海軍は昭和12年、96式艦上戦闘機の後継機として、当時の常識を越えた厳しい要求性能の試作を命じた。これに答えて三菱の堀越二郎技師を主務者とする設計陣が送り出したのが零戦である。96艦戦より2割増のエンジンを搭載したとはいえ機体重量大幅に増加し、これで96艦戦並みの空戦能力を維持し、双発機並みの航続力、約500km/時の速力、高度5000mまで3分30秒以内という上昇力等々の要求は実現不可能な夢のような性能であった。
堀越技師等は徹底した重量軽減、恒速の可変ピッチプロペラ、完全引込み脚(尾輪を含む)の採用、水滴型風防、落下増槽、20ミリ機銃の翼内装備などの新技術を採り入れ14年4月1日、初飛行に成功した。昭和15年には正式採用となり、紀元2600年に因んで零式艦上戦闘機と名付けられた。
【零戦の特徴】
零戦の名機と言われる所以は、わずか1000馬力のエンジンでありながら、パイロットの意のままに運動できる優れた操縦性、運動性、強い火力、10時間にも及ぶ航続力等当時の世界水準を遥かにしのぐすぐれた性能を持っていたところにある。
零式艦上戦闘機(52型)の内部構造を解説しています。
復元された零戦用エンジン「栄発動機21型」です。
零戦用エンジン「栄発動機21型」の解説をしています。
ご覧のように、階段があるのでコックピットのすぐ横まで接近する事が出来ます。
操縦席の内部の様子です。資料館の皆様、けっして機体には触っていませんからね。真上から撮影したのはあまり見かけませんよ。
※この撮影の時、足が短いことを人生で初めて感謝しました。(笑)
操縦席前方に7.7ミリ機銃の黒い箱や、射爆照準器、水平儀、旋回計など各種計器が見えます。
操縦席の第一印象は、やはり "狭さ" ですよね。長時間の飛行は本当に大変だったと思います
※零戦はパイロットの命を守る鋼板の省略や丸裸の燃料タンクなどにより、防御がおろそかであり人命軽視の機体だとされています。軍の性能要求に応えるためという理由も当然影響したでしょう。しかしながら日本は鉄や非鉄金属、ゴムなどあらゆるものが輸入に頼っており、これら原材料は常に不足気味であり、かつ連合軍が禁輸措置を講じ輸入がストップするなど、困難な国際情勢の中で、限られた資材をやりくりしながら戦備を整えなければならなかった当時の状況をも考慮して下さいませ。
特別にブラインドを開けてもらい基地内を撮影させて頂きました。ありがとうございました。写真中央付近の遠くに見えるかまぼこ形の建物がP-3C オライオンの格納庫だそうです。
沖縄の海に散った帰らざる特攻隊員のご冥福を心よりお祈りいたします m(_ _)m。
大隅半島から薩摩半島へ
「鹿屋航空基地資料館」見学を終え、次の目的地は薩摩半島にある「知覧特攻平和会館」です。
鹿屋は大隅半島ですから、フェリーで鹿児島湾を渡らなければなりませんが、そのルートは3本あります。
一番北側にあるルートが、国道220号線を北上し桜島の湾岸を巡って、桜島の先端部から鹿児島市内に渡るルートです。これはフェリーが昼間で10分おき程度の間隔で出港しているので、待ち時間がほとんど必要ないけど、そこまで車で行かなければなりません。
次のルートとして、鹿屋市のとなりの市である垂水市まで220号線を飛ばして、垂水港から鹿児島市内にフェリーで渡るルートです。このルートは30分に1本程度の間隔だそうですから、待ち時間もそれほど気にする必要は無いでしょう。
最後のルートが、半島先端部に移動して南大隅町にある根占港から薩摩半島の先端部である指宿市山川港に渡るルートです。こちらは1時間に1本という事ですから、タイミングが悪いと結構待たされることになります。
3ルートのうち、どのルートが便利で時間短縮になるのか…。結論としてどのルートも所要時間はあまり変わり無さそうだったので、それならローカルな根占・山川ルートで旅情を満喫しながら行こうと決めました。
すでにホテルで、「鹿屋市から根占港まで40分程度」と聞いていますので、乗り遅れると1時間待たされますから、待ち時間が最小限度になるように出発時刻を調整し、出来る限り「鹿屋航空基地資料館」に滞在するように努めたのはもちろんです。
大隅半島から薩摩半島へ
鹿屋市から269号線を進みますと鹿児島湾に出ました。湾の波は驚くほど静かでした。目指す対岸の薩摩半島には、「開聞岳」が霞んで見えますね。
湾岸を走る国道269号線沿いの畑には、すでにジャガイモの芽が出ていました。
大隅半島にある根占港です。土曜日という事もあってか乗船する車は少なめでしたね。ここから薩摩半島にある指宿市山川港に向け出発ですよ。
船は静かに出港していきました。デッキに上がり周囲の風景を見渡しました。中央付近の山並みは、鹿屋市の裏山とも言える標高1037メートルの高隈山です。
船は白い波しぶきを上げ、グングンと陸地を遠くへ離します。あ~旅だね~。(^o^)
大隅半島の先端部、佐多岬方面を展望しています。天気も快晴に近く最高です。
写真中央部、白い雲を頂いた独立峰が鹿児島名物 「桜島」 です。桜島は高速道路の帰路で鹿児島市内を通過する辺りで、もう一度雄大な姿を見る事ができそうです。
薩摩半島にだいぶ近づいてまいりましたよ。開聞岳も大きくなってきました。
開聞岳をアップしてみますと、こんな感じです。素晴らしく均整のとれた円錐型をしていますね。標高887mの 「開聞岳」 は、均整のとれた円錐形を見せることから「薩摩富士」とも呼ばれます。深田久弥が選んだ「日本百名山」に選ばれており、登山家のあいだでは愛されている山の一つだそうです。
いつの日か、妻と共に登山してみたい山の一つに数えています。開聞駅からの所要時間は往復で5時間ほどだそうですから、私も妻と共にいつの日か必ず、花束を持って慰霊登山しますよ。
船は無事に指宿市山川港に到着しました。久しぶりにフェリーの旅を満喫して楽しかったです。(^o^)
さてここからまっしぐらに「知覧特攻平和会館」に直行するのも芸がないなと…。最短ルートをわずかばかり迂回して、池田湖湖畔から開聞岳を遠望してみようと思ったのです。
特攻隊員は、航空基地を離陸し開聞岳と池田湖を眼下にして、開聞岳に敬礼して「この世」とおさらばしたと聞きます。特に鹿屋基地から飛びだった飛行機は、開聞岳付近で1500mぐらいの高度に達し、水平飛行していたようですから、眼下にはっきり見える開聞岳に別れを告げたのでしょうね。
ですから、地上からとはいえ同じ風景を見ておけば、何かが感じられるかもしれない…と思えたのです。「知覧特攻平和会館」直行に対し、迂回に要する時間は概ね10分から15分。ためらわず池田湖湖畔にルートを決めました。
池田湖湖畔です。ここから見る開聞岳はかなり大きく見えます。湖畔には菜の花も咲いていました。離陸した特攻機は、おそらく開聞岳と池田湖の上を飛行し、"別れの言葉" を発したに違いありません。
指宿スカイラインの路肩には、なんと「残雪」がありました。南国鹿児島といえども、真冬の1月には雪が降るのですね。ついつい撮影してしまいました。
この風景が知覧町に入った事を知らせてくれますね。知覧茶の起源は鎌倉時代に平家の落人が北部山間地の手蓑にて茶栽培を始めたのが最初らしいですよ。
茶園で見かける電柱の上に設置された扇風機は、早春の霜の害を軽減するための装置なんですね。この扇風機は東北地方などのリンゴ産地などでもよく見かけるものです。
「知覧特攻平和会館」を訪ねる
私は方向感覚が抜群に優れており(自分で褒めるなって(^_^;)) 、目的地である「知覧特攻平和会館」まで、全く道に迷うことなく車を走らせることが出来ました。これはひとえに、私の優れた才能によるものであり(もうお終い(^_^;))…。大変失礼 しやした。
カーナビは便利ですけど、今回のような小刻みな移動には不向きですよね。ですから、ここまではカーナビは使いませんでした。もちろん知覧町の見学を終え、ここから鹿児島空港に向かう時は、カーナビを使います。幹線道を一気に進むような場合は、カーナビがかなり便利であることに違いはありませんからね。
茶畑で知覧町が近いことを感じ、道路両肩に設置された石灯籠により「知覧特攻平和会館」が近づいていることが解りました。「知覧特攻平和会館」への誘導看板も適正で、市街に入ってからも道に迷うことなく、無事に一発で駐車場へと車を入れることが出来ました。
「知覧特攻平和会館」
【所在地】 鹿児島県南九州市知覧町郡17881
【電 話】 0993-83-2525
【開館日】 年中無休 (但し都合により休館する場合があります)
【開館時間】 午前9時から午後5時まで (入館は午後4時30分まで)
【入館料】 個人(大人500円 小中学生300円) 団体(大人400円 小中学生240円)
「知覧特攻平和会館」
「知覧特攻平和会館」へ至るアプローチにある桜並木と石灯籠です。桜が満開の頃は素敵な景観となるのでしょうね。いつの日か桜が満開の時に訪ねてみたいですね。石灯籠は「平和祈念通り」などに、沖縄特攻で散華された兵士と同数の1,036基を建立する予定です。
「知覧特攻平和会館」です。 旧「特攻遺品館」から、昭和60年に「知覧特攻平和会館」として完成しました。
【知覧特攻平和会館】
「この特攻平和会館は大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争ともいう),沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で,爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり,一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。
私たちは,特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み,今日の平和日本があることに感謝し,特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら,再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で,貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と,関係者の方々のご尽力によって展示しています。
特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは,再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ,雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め,当時の真の姿,遺品,記録を後世に残し,恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ,ここに平和会館を建立した次第であります。」
(南九州市のサイト内コンテンツから転載させて頂きました)
昭和30年に建築された「知覧特攻平和観音堂」です。「知覧特攻平和会館」の隣にありました。お堂には「特攻平和観音像」が祭られ、その体内には特攻勇士の名を記した巻物が納入されているそうです。毎年5月3日に知覧特攻基地戦没者慰霊祭が執り行われます。同じ観音像が、東京都世田谷山観音寺特攻観音堂に安置されているそうです。
※本来神社仏閣の参道中央での撮影は厳禁ですが、うっかり撮影してしまいました。申し訳ございません。
【知覧特攻平和観音堂】
「太平洋戦争末期の沖縄戦において一千三十六名の特攻勇士が身を以って示した崇高至純の殉国精神の顕彰し、世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂を昭和三十年九月二十八日に建立し観音像を安置しております。この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳した一尺八寸(五十四センチ)の金剛像です。
知覧町では昭和三十年奉安以来毎年五月三日、知覧特攻基地戦没者慰霊祭を挙行し、御霊らの慰霊顕彰に努めています。尚、観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した霊名録が奉蔵されています。」(知覧特攻慰霊顕彰会)
【知覧特攻平和観音堂 観音の由来】
「大東亜戦争中、祖国の護りのために、わが身を弾丸として散り逝きし国民忠誠の精華、陸軍特別攻撃隊の尊き不滅の英霊を大慈大悲の平和観音像に顕現して、其の冥福を祈り、又其の慈光を拝して世界平和の再建と衆生済度の功徳を祈念すべく、有志相図り大方のご賛同を得て去る昭和二十七年春、平和観音像を建立し同年五月五日東京音羽の護国寺で開眼式が行なわれ之を特攻平和観音像と名づけました。
この特攻平和観音像は、大和法隆寺の夢殿に奉安されている秘仏「夢ちがい観音像」を特別の許可を得て、謹鋳された高さ一尺八寸「五十四センチ」の金剛像で陸軍、海軍夫々一体を世田谷観音像に奉安、陸軍の一体を本土最南端の特攻基地があった、ここ知覧の地に、又海軍は三宅島サタドウー岬灯台に奉安されました。
知覧町ではこの観音像を昭和三十年安置以来毎年五月三日知覧特攻基地戦没者慰霊を挙行し、御霊らの慰霊顕彰に努めています。
尚、観音像の体内には一千三十六英霊の霊名簿を納めてあります。」(知覧特攻慰霊顕彰会)
特攻勇士の像 「とこしえに」 です。「特攻機は遂に帰ってきませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながらね勇士は征ったにちがいありません。特攻銅像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました」。昭和49年知覧特攻慰霊顕彰会が建立。日展審査員 伊藤五百亀氏制作。
母の像 「やすらかに」 です。「特攻銅像「とこしえに」の前に当時の正装をした優しい母の像を再現。裏面に「やすらかに」と刻銘されています。熊本県芦北町の前田将氏は、多くの隊員が「お母さん、お母さん」と書き残しておられる遺書などに深く感涙。ぜひ母のみ胸にやすらかに眠って欲しいという一念から発意。私財を投じて寄贈。富山県高岡市の石黒孫七氏の制作による。」。昭和61年3月建立。
2007年5月に公開された日本映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』で使用された一式戦闘機「隼」です。知覧平和公園内に設置されていました。この機体が空を飛んだという事ではないようですよ。
『俺は、君のためにこそ死ににいく』の解説板です。
「三角兵舎」が当時と同じように木立の中に復元されていました。半地下の建物としたのは、空襲が激しいので敵機に見つからないようにする為だそうです。
「三角兵舎」 の解説板です。
「三角兵舎」 の内部の様子です。寒くはなかったでしょうが、全国から集まった特攻隊員はここで二三日過ごして出立していったのですね。
旧「特攻遺品館」から、昭和60年に竣工した「知覧特攻平和会館」の正面玄関です。※館内は撮影禁止となっていました。
沖縄の海に散った帰らざる特攻隊員の皆様のご冥福を心よりお祈りいたします m(_ _)m。
鳥濵トメさんの富屋食堂を訪ねる
知覧町役場近くに、「ホタル館 富屋食堂」 がありました。
今日でも特攻の母と慕われる鳥濵トメさんは、平成4年に他界されましたが、当時トメさんが営んでいた食堂「富屋食堂」を復元し、「ホタル館 富屋食堂」 として、特攻隊員の遺影・遺品を展示し、また鳥濵トメさんに関わる資料もたくさん展示してあります。映像記録も公開されています。
「富屋食堂」は軍の指定食堂であったこともあり、特攻隊員がよく訪れましたが、鳥濵トメさんお母さんの目線で特攻隊員と接してあげたのです。
やがてトメさんは、特攻隊員から「お母さん、お母さん」と慕われていったのです。トメさんもそれによく答え、タンスにある着物などを質に入れ、家財を投げ打って特攻隊員をもてなします。
トメさんに関する書籍も多く出版されていますし、特攻隊員とのエピソードも涙無くして読めない感動物語が多いですね。特攻隊員もまたトメさんと接するのは、わずか1日から3日程の間でしたが、家族や兄弟との連絡を軍命で絶たれた彼らにとって、トメさんの暖かい家族のような応接が、どれほど彼らの心を癒したか…。
私たちは特攻隊員を顕彰し続けると共に、鳥濵トメさんの人となりをも、いつまでもいつまでも日本人として記憶に留め置きたいものです。
復元された「富屋食堂」の隣に立つ建物は、「富屋旅館」と呼ばれ、戦後の昭和27年、ひきも切らず知覧に訪れる御遺族の方々を泊めるために建てられたものです。
知覧を訪ねられたら、「知覧特攻平和会館」と「ホタル館 富屋食堂」は、並行してぜひ訪れて頂きたい施設ですね。
「ホタル館 富屋食堂」
鳥濵トメさんが帝国陸軍の指定食堂として営んでいた「富屋食堂」を復元したものです。鳥濵トメさんは、若い隊員に「特攻の母」として慕われ、隊員の心のよりどころになっていました。
1階は特攻隊員の遺影・遺品を展示し、2階は鳥濵トメさんに関わる資料も展示されています。
お店入り口周囲の様子です。この入り口の引き戸から若き特攻隊員達が出入りしたのですね。
「こんちは (^o^)」 なんて言いながら、暖簾を上げて今にも兵隊さんが出てきそうな雰囲気ですね。
私がこの両施設を訪ねてまず驚き感嘆したのは、"若い人たちがとても多かった" という事です。これが一番印象的な出来事でした。もちろん年配の方もちらほらいらっしゃいますが、いわゆる修学旅行生などの団体でなく、明らかに個人あるいはお友達何人かが連れだって訪問したという感じの方達ばかりです。
それからもう一つの印象として特に、「ホタル館 富屋食堂」で感じた事なのですが、皆さんが "動かないのです"。遺書とかの特攻隊員が書き記した文面を前に、静かに目を凝らして見つめているのです。私一人がチョロチョロとあちこち動き回り、彼らにしてみると目障りだったかも知れません。
思えば、展示品を食い入るように見つめる若者達は、今目の前にある遺書を書いた特攻隊員とほとんど同年齢の方々なんですよね。あの時代を生きた若者が、どのような思いで戦争と平和を捉え、個人と国家との関わりの中で国民としての責務を自覚し、多感な若者の異性への恋慕を振り切り、恋人や妻との悲しい惜別の念を断ち切ったのか…。
食い入るように見つめるその先にある一枚の紙片の、文面の背後に隠されている特攻隊員の真意を感じとろうと真剣に見つめる目。あの時代を生きた若人の思いが記された一枚の紙片と、今を生きる若人の目線という組み合わせではあっても、真剣に見つめ合うその時にこそ、沖縄近海の空に散った特攻隊員と、現代の幸せな世を生きる若人との、時代を超えた邂逅が為されるのではないでしょうか。またそうであれかしと願っています。
若き特攻隊員たちは、どのような思索ののち特攻隊員を志願し、厳しい訓練に耐えたのか。そして訓練を終え、前進基地・発進基地である鹿屋や知覧の飛行場に到着し、いよいよ最後の出撃命令を待つ間、どのような思いで"人生最後の数日"を過ごしたのか…。
鹿屋航空基地や知覧航空基地を飛び立ち、沖縄までの距離はおよそ650㎞。「隼(はやぶさ)」 では約2時間の飛行、九七式艦上攻撃機ではおよそ2時間半の飛行で到達します。
彼らは開聞岳を眼下に、翼を三度振り日本国に別れを告げ、敵の索敵網をかわしながら、また艦船の激しい防空網を突破し、やがて眼下に敵艦船を発見するや、「ワレトツニュウス」 と打電し、敵空母を見据えながら、彼らは "最後の瞬間" まで、どのような思いを抱きながら突入していったのか…。
もはやその手がかりとなるものは、主に特攻隊員が生前に書き記した日記や手紙、そして遺書などにあたる以外に術はありません。
私も日々の仕事に追われる中で、多くはありませんが特攻隊に関する本を読みました。そして本に吸い込まれるように読んでるうちに、感極まって何度かとめどない涙を流したこともありました。
百人の特攻隊員が居れば、百の出立へのドラマがあった事でしょう…。
ここでは、私が読んだ本のうち、ぜひ皆様にご紹介したいと思うに至った "ドラマ" を転載させて頂きました。
「知覧からの手紙」
水口文乃著 平成19年(2007年)初版
下の写真をご覧下さい。まさに出撃せんとしている特攻隊員と、最後の別れに桜の枝を掲げて見送る、知覧高女の女学生達 (なでしこ隊) が写されていますが、この写真をご覧になった方は多いはず。一式戦闘機「隼」に乗る特攻隊員は、1945年4月12日、知覧より出撃する第二十振武隊 穴沢利夫少尉だったのです。
【上】 知覧より出撃する第二十振武隊穴沢利夫少尉と桜の枝を打ち振り見送る知覧高女の女学生達。勤労動員された彼女たちは、当時「なでしこ隊」と呼ばれていたそうです。穴沢少尉は白いスカーフの下に、婚約者の智恵子さんから「あなたのマフラーになりたい」との意を込めて贈られたマフラーを首に巻いて出撃しました。
【下】 穴沢利夫大尉(二階級特進)の写真を見つめる、当時婚約者だった智恵子さんです。智恵子さんは著書の中で、「当時から六十年以上が経ちましたが、今、私はどこにいても何をしていても、私の心に刻み込まれた利夫さんの存在を感じています。そしてそれは、私の生きる力になっているのです」と語っています
※ (写真2枚を含む画像は、「知覧からの手紙」 から転載させていただきました)。
穴沢利夫少尉は福島県出身で、中央大学卒で陸軍特別操縦見習士官一期生です。特攻攻撃をする為に3月30日に初出立するも、天候不良などにより知覧に引き返すことを5回繰り返していました。そして昭和20年4月12日陸軍特別攻撃隊第二十振武隊として、沖縄周辺洋上にて戦死したのです。23歳でした。
穴沢利夫少尉は、中央大学生の時に図書館講習所という、今で言うアルバイト先で、智恵子さんと知り合い交際が始まったのです。「知覧からの手紙」 には、交際を求めた利夫さんと、恥ずかしく、またはにかみながらも、次第に利夫さんの魅力を見いだしていく過程が、今の時代には考えられないほどの木訥としてまた純真な交際のなかで展開されるのです。
しかしながら、時は風雲急を告げ大東亜戦争も始まり、時代は二人の甘美な交際を引き離すかのように、徴兵制が強化され食料も配給制度に、そして水やガスも時間制になるなど、戦争の影が次第に社会の全てを覆うようになってきます。そして愛国心に燃える利夫さんも、陸軍の特別操縦見習士官試験を受験し、そして合格。二人の距離は離れるばかりです。
新聞には「特攻隊」も文字が登場するようになり、そしてまた東京をはじめとする主要都市の空襲も煩雑に行われるようになっていきます。
やがて二人は結婚への意思を固めますが、利夫さんのお兄さんの"結婚反対"に遭遇し、利夫さんと智恵子さんは、婚約をするも結婚式を挙げたいという願いは、なかなか叶えられませんでした。
そうした情況のなかで、軍隊の行動を民間人の智恵子さんが容易に知りうるわけもなく、利夫さんの軍隊での行動の詳細は戦後になって知ったのです。
智恵子さんも利夫さんが近いうちに特攻出撃するのだと覚悟はしていましたが、知覧から特攻出撃した事は戦後になって知りました。4月16日、穴沢利夫大尉が最後に書き記した "遺書" が智恵子さんの元に届けられ、利夫さんが特攻戦死した事を知るのです…。
智恵子さんは、昭和44年になって、利夫さんが知覧基地から出撃した時の様子を知る知覧高女の女生徒、当時3年生の永崎笙子さんの存在を知り、利夫さんの出撃時の様子を聞くことが出来たのです。
「知覧特攻基地」
話力研究所 昭和54年(1979年) 初版
永崎笙子さんは、自らが当時書き記した「特攻日記」に、利夫さんを見送ったときの様子を次のように記述していました。
【知覧高等女学校3年(15歳) 前田笙子さん日記】
(平成20年4月12日)
今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中「空から轟沈」の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の偽装をとつてあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかった。本島さんの飛行機もブンブンうなりをたててゐる。どこまで優しい隊長さんでせう。始動車にのせて戦闘指揮所まで送られる。うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのつて振り向いていらつしやる。
桜花に埋まつた飛行機が通りすぎる。私達も差上げなくてはと思つて兵舎へ走る。途中、自転車に乗つた河崎さんと会ふ。桜花をしつかり握り一生懸命馳けつけた時は出発線へ行つてしまひ、すでに滑走しやうとしてゐる所だ。遠いため走つて行けぬのが残念だつた。
本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生、持木機、97戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにつこり笑つた操縦者がちらつと見える。20振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。
一生懸命お別れのさくら花を振ると、につこり笑つた鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なさる。
パチリ・・・・・・後を振り向くと映画の小父さんが私達をうつしてゐる。特攻機が全部出て行つてしまふとぼんやりたたずみ南の空を何時までも見てゐる自分だつた。何時か目には涙が溢れ出てゐた。
(以下省略)
「知覧特攻基地」から転載させて頂きました
穴沢利夫少尉の絶筆である「遺書」は、4月16日になって知覧から智恵子さんの元に届けられました。志願したとはいえ、特攻出撃するに際し穴沢利夫少尉の、智恵子さんへいつ出撃するのかさえ知らせることの出来ないまま、婚約者を残しての出立は言語に絶するほどに辛かったでしょう。
穴沢利夫少尉は、智恵子さんの「神聖な帽手や剣にはなりたくありませんが、何気なくまかれ、いろいろ重宝な、そしていつも離れない、あなたのマフラーにならなりたいと思います」という思いの込められたマフラーを首元に巻いて、明るく笑って敬礼を何度もしながら知覧飛行場を飛び立ち、沖縄の海に散ったのです。
穴沢利夫少尉の最後に抱く哀しみは、己の死の心配ではなく、愛する人の行く末だったのです…。
「知覧からの手紙」
水口文乃著 新潮社 平成19年(2007年) 初版
愛する智恵子さんへの、生あるうちの最後の時に記述された、彼の別れの言葉をかみしめて下さいませ。
【穴沢利夫少尉「遺書」】
二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。
希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた "時期を失する"という事が実現していったのである。
去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。(勿論、今は解除)
転々と処を変へつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。
便りを書き度い。書くことはうんとある。然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。
あなたのご両親様、兄様、姉様、妹様、弟様。みんないい人でした。
至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど 「ありがとうございました」 と最後の純一なる心底から言っておきます。
今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。
常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることを信ずる。
然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。
「あなたの幸を希ふ以外に何物もない」「徒らに過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」
「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界にはもう存在しない」
極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言ふのである。
当地は概に桜も散り果てた。大好きな(ドン)葉の候が此処へは直きに訪れるだらう。
今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。
1,読みたい本
「万葉」 「句集」 「道程」 「一点鐘」 「故郷」
2,観たい画
ラファエル 「聖母子像」、芳崖 「悲母観音」
3,智恵子。会ひたい、話したい、無性に。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑って征く。
智恵子様
「知覧からの手紙」から転載させて頂きました
次にご紹介したい書籍ですが、この本も多くの方が読まれたのではないかと思います。
「ホタル帰る」(副題:特攻隊員と母トメと娘礼子)
赤羽礼子・石井 宏共著 草思社 平成13年(2001年) 初版
この本の共著の一人である赤羽礼子さん(旧姓鳥濱)は鳥濱トメさんの娘さんです。昭和5年生まれで、鳥濱トメさんが軍の指定食堂として食堂を切り盛りしている時、礼子さんは県立知覧高等女学校生徒として、勤労動員により知覧特攻基地で特攻隊員の世話をしていたのです。
つまり礼子さんは、お母さんと共に特攻隊員の世話を直接すると共に、特攻隊員の言動を食堂や知覧特攻基地でつぶさに見続けた一人なのです。
礼子さんは結婚後、ご主人と生まれた二児と共に東京で暮らし、新宿で酒亭「薩摩おごじょ」を開店、お店を切り盛りしていました。元特攻隊員も全国から礼子さんを慕って集い、お店は賑わっていたそうですが、礼子さんは平成17年10月に腎臓ガンのため逝去されました。
この「ホタル帰る」は、もう一人の著者である石井氏と、酒亭「薩摩おごじょ」 を切り盛りする礼子さんとの出会いから誕生したようです。
鳥濱トメさんがなぜ戦後もずっと "特攻の母" と呼ばれ、敬愛される存在になったのかは、この本を読めばよく理解出来るでしょう。
また明日には飛び征く特攻隊員との関わりの中で、涙無くしては読み進めない感動のエピソードが、この本には沢山散りばめられています。
「ホタル帰る」の中から、ぜひご紹介したい箇所が二カ所ありますので、ここに転載させていただきました。
一人は光山文博少尉について。
「自分は朝鮮人です」と胸を張り、日本国の軍隊に入った光山文博少尉(卓 庚鉉)は、父親から亡くなった母親の「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」との遺言を聞かされ、父親もまた同じ考えであることを知り、知覧に帰隊後、特攻を志願した光山少尉について。
もう一人は宮川三郎軍曹について。
出撃前夜、宮川軍曹はトメさんに言いました。「小母ちゃん、明日ホタルになって帰ってくるよ。滝本と二人でね。追っ払ったりしたらだめだよ」という言葉を残して出撃した宮川三郎軍曹でしたが、次の日、夜9時頃、本当に一匹のホタルが開いた表戸から入ってきて天井にとまったのです。
「宮川さんが帰ってきたよ!」
食堂に居合わせた人たち全員で、約束の 『同期の桜』 を合唱し、涙ながらに宮川軍曹を偲んだといいます。
(私事ながら、この二カ所については私もとめどなく涙が溢れ出てしまいました。おまけに周りに誰も居なかった事もあり、大声を出して嗚咽までしてしまいました……。 これまで冠婚葬祭などで幾多の涙を流してまいりましたが、嗚咽しかつ大きな声を出して泣くなどというのは、恐らく子供の頃以来、初めてではないかと思います)
【第七章 アリランの歌声】 (130ページ)
光山文博少尉/卓 庚鉉 (朝鮮出身/24歳)。
知覧より出撃、沖縄飛行場西海面にて戦死。サイト管理者注:
光山文博少尉の遺書は残っていない (又は書かなかった) と思われますね。ただいつ書かれたのか判然としませんが、辞世の句が残っていますのでご紹介させて頂きます。「たらちねの母のみもとぞ偲ばるる弥生の空の朝霞かな」
光山文博少尉は、爆装された隼機にて、第7次航空総攻撃第51振武隊として、昭和20年5月11日午前6時30分、沖縄西海方面に出撃し散華されました。「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で、故郷慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。また昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募は30万人以上で採用は6300人 でした。50倍近い高倍率のなかでの選抜だったようです。大東亜戦争中は、24万2341人の朝鮮人青年が軍人・軍属として共に戦い、2万1千余柱が靖国神社に祭られています。
特攻隊員として出撃・散華された朝鮮と台湾出身軍人は光山文博少尉を含め14名です。
彼らのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
光山文博少尉 は京都薬学専門学校を卒業し、一時就職もしたが、昭和18年、特別操縦見習士官いわゆる特操を志願し、その一期生として大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場に入校し、六ヶ月間の速成教育を受けてパイロットとなった。
その知覧の生徒の頃、光山は富屋に日曜日ごとにやってきてはトメや娘たちと親しんだ。無口でおとなしい青年で、どこか寂しい影のある人柄だったので、トメはなるべく明るく接しようとした。
彼は最初から「ぼくは朝鮮人です」と言っていた。元の名を 卓 庚鉉 (タク・キョンヒョン) という。幼いときに父母とともに日本に渡り、改名して光山姓を名乗る。
(1910年、日本は日韓併合と称して当時の大韓帝国を日本の植民地とした。以来三十五年間、朝鮮半島は日本の領土となり、朝鮮人はすべて日本人となった。なお本稿ではいまは用いられない"朝鮮"または"朝鮮人"という当時の一般的な表記を用いるが、誤用でも差別を意図したものでもないことを諒承されたい)
というわけで友だちも少なく、ひとりぼっちでいることが多かったので、トメは特別に気をつかった。当時の日本人のなかには"朝鮮人"に対するはなはだしい軽蔑意識を持っている者が多かったから、朝鮮出身者が誇り高く胸を張って生きていくのは難しかった。
そのことはもちろんトメもよく知っていたから、光山生徒をよけいに大事にして、わが子同然に可愛がったのであった。
孤独な光山は富屋の離れに寝転がって、近くのせせらぎの音を聞いたり、小川のほとりで水の流れを眺めたりするのが好きだった。
半年ののち巣立って知覧を出ていって、各地の部隊をめぐったが、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」と葉書が来た。
そして昭和二十年の五月の初め、富屋の表の引き戸を開けて「小母ちゃーん」と呼びながら入ってきた男がいた。だれかしらと中から出てきたトメは驚いた。
相手の顔を識別すると顔がこわばった。
「まあ、光山さんじゃないの」
それは多少日焼けして逞しくなったように見えたが、一年半前に知覧を出ていった光山にまちがいなかった。トメがショックを受けたのは、いまのこの時期に知覧に現れる航空兵は特攻隊員ばかりなので、光山が特攻隊員になったのを瞬時に悟ったからである。
「小母ちゃん、会いたかったよ」
「そうね、わたしも会いたかった」
「元気?」
「元気よ、あなたも元気そう」
「うん、だけど、今度はおれ、特攻隊員なんだ。だからあんまり長くいられないよ」
「そう、淋しいわね。でも、まず上がったら」トメは光山を食堂の裏にある離れに案内した。
そこは光山の"指定席"で、飛行学校の生徒の頃から彼の好きな場所であった。彼は寝ころがってウーンと伸びをした。その様子は一見して屈託なさそうだが、その横顔はトメには以前より淋しさの影が濃くなったように思われた。
それから光山少尉は毎日のように富屋に入りびたっていた。
このときの光山の特別に淋しそうな表情には特別のわけがあったことを、礼子たちは何十年も経ってから知ることとなる。光山の母親がその前の年の暮れに亡くなっていたのだった。
おそらく、日本に移住してきた多くの朝鮮人が苦労を重ねたように、光山の母も辛酸をなめたにちがいない。そのなかで、息子が日本人にバカにされないようにと、学歴をつけさせてくれたのであろう。
息子が専門学校を出て、特別操縦見習士官を志し、卒業して陸軍将校になったのも、晴れ姿を母親に見せたいがためだったのかもしれない。
その母親が死んだという知らせを受けたときの光山の心の打撃はいかばかりであったろうか。光山が特攻を志願したことと、母親の死とは関係ないとはいえないであろう。
だが、このときの富屋では、ひときわ淋しげな光山の表情の意味を知る者はいなかったし、光山は語ろうとしなかった。
五月十日の夜、
「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。
「長いあいだいろいろありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人なんだ。長いあいだ、ほんとに親身になって世話をしてもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」
トメはそっと目頭を押さえた。「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」トメは驚いた。光山はいつも孤独だったから、飛行学校の生徒だったときも、皆と一緒になって高歌放吟するようなことはなかったし、今回、特攻隊になって戻ってきてからも、光山は一度も歌ったことがなかったからである。
「小母ちゃん、今夜は歌いたいんだ。歌ってもいいかい」
「いいわよ、どうぞ、どうぞ」
「じゃ、おれの国の歌を歌うからな」光山は離れの一間の床柱を背にしてあぐらをかいて坐ると、かぶっていた戦闘帽のひさしをぐいと下げた。光山の眼がそのひさしの下に隠れた。トメと二人の娘は彼のすぐ横に正座した。
しばらく瞑想していた光山は、突然びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむこの歌はトメたちも知っていたので、一緒になって歌った。
光山の調子は、聞いたこともないほど悲痛なものであった。ゆっくりと、しぼり出すように歌っている。一緒になって歌っているうちに、トメも娘たちも悲しくなって、歌はそっちのけで、わあわあ泣き出してしまった。
光山は歌いつづけていた。光山も泣いていたと思う。その涙を見られないために帽子を深くかぶり直したにちがいない。
出撃の前夜、世話になった愛する小母ちゃんと娘のために、彼は今生の別れの歌を歌って聞かせたのである。その歌は日本では隠さなければならなかった彼のアイデンティティを示す歌だった。
明日は出撃し、敵艦に突入する。なんのために。祖国を守るために。しかしその祖国とは日本のことではない。日本と運命共同体にある祖国朝鮮のことであったろう。
アリランは暗い離れの中を高くなり低くなり流れていった。トメたちはその悲しさにただ泣くよりほかなかった。光山の歌声がやんでも、部屋の中にはトメたちのしゃくりあげる嗚咽があとを引いていた。いつのまにか四人は肩を組んで泣いていた。
光山はさようならを言う前に、自分の使っていた黄色い布の財布を取り出した。布は朝鮮のものだということだった。光山は筆と硯を借りて、その財布に「贈為鳥浜トメ殿 光山少尉」と書いた。
「小母ちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何もないんだけど、よかったら、これ、形見と思って取っておいてくれるかなあ」と言った。トメは黙ってその財布を押し戴いた。
光山は立ち上がった。飛行服のあちこちにトメが作った人形のマスコットや美阿子の作ったマスコットをぶら下げている。トメの作った人形は頭ばかり大きくてまるで照る照る坊主のような感じで、娘たちはみっともないと思ったが、トメも光山少尉も満足していた。
トメは別れ際に富屋の三人の写真を渡した。「これ持ってって…」
「そうかい小母ちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」光山は手を振りながら、灯火管制下の暗い夜の闇に消えていった。翌5月11日、光山少尉は一式戦闘機(隼)で出撃、還らぬ人となった。
「ホタル帰る」から転載。また肖像は『陸軍特別攻撃隊の真実「只一筋に征く」』から転載させて頂きました。
【ご両親に宛てた「遺書」】
宮川三郎軍曹 (新潟県出身/20歳)。
知覧より出撃、沖縄周辺にて戦死。前略
癒々雪も残り少なくなり多忙な期を前にして毎日大変なる事でしょう
不省益々元気旺盛満州より前進基地目立原に無事到着任務完遂への準備を為して居ります
桜花散り我々も散る秋は近づいてまいりました不省陸軍特別攻撃隊第三降魔隊員に選ばる
男児の本懐之に過ぐるの無し
皇恩に報ゆるは此の時ぞ果して万分の一をも報ゆる事を得んや
誓って轟沈以って任務の完遂を期す
人生二十一年現在までの御恩に対し何等為す事無く死するは残念なれど
今の度の任務完遂を以ってお詫びに代えておきたいと思います
忠即ち孝、不省悠久の大義に生きるの嬉しさ此の上も無し
必ず以って為しとげん
出撃も迫る
大邱在りし時のお世話になりし方の住所更めて書きます 礼状を出してください
朝鮮大邱府東本町六一番地 いけす旅館大竹とく様
朝鮮大邱府田町二ノ九
片岡誠子様
佐賀懸三養基郡 北茂安村字中津隅
中尾益太郎様
右御願い致します
終りに現在までの不幸を御詫びしますと共に
御両親様の御健康を御祈り致します
武一、栄次郎、両兄様、きよ、みよし、まさ姉様、及近所の方々に宜しく御伝え下さい
五月三日
三郎
御両親様
【第九章 ホタル帰る】 156ページ
宮川三郎軍曹 が知覧の富屋食堂に姿を現したのは五月の半ば頃であったろうか。
六月六日の出撃まではかなりの間があったので、鳥浜家の家族とはふつうの隊員よりも仲よくなった。彼はまだ童顔の残る二女の礼子を可愛がった。あまり可愛がるので、長女の美阿子が「礼ちゃん、大きくなったら宮川さんのおヨメさんになればよいのに」と冷やかされたほどである。
その姉の美阿子も宮川軍曹のことを「雪国の人らしく色白のハンサムな人だが、どこか淋しそうな兵隊さん」と呼んでいる。
宮川軍曹はいつも滝本恵之助伍長と連れ立っていた。二人は親友というより、二人だけの一蓮托生の仲間という感じで、ほかの隊員たちから離れていた。というより疎外されていた。
あるいはみずから壁を作っていたと言ってもいいかもしれない。というのも、宮川は第一〇四振武隊員、滝本は第一〇二振武隊員として同じ万世飛行場から出撃した仲間であったが、この二人だけは機体の調子がわるく、途中で引き返してきた。
以来二人ははぐれ狼のように扱われて知覧に転任してきたのであった(ちなみに知覧から出撃した一〇四振武隊員は宮川軍曹ひとりである)。
宮川たちの飛行機は再整備に出され、後方の基地に移動したまま戻ってきていない。"生き残り" の烙印を押された二人の知覧での毎日は孤独だったのだ。
(途中省略)
富屋食堂の横には小川が流れている。小さなせせらぎだが水はきれいだ。ときどきトメはウナギの生きたのを仕入れてきて深い籠に入れ、その籠をこの流れに沈めて生け簀のかわりにしている。
せせらぎの手前に藤棚があり、ベンチがしつらえてある。夏の夕涼みにはもってこいである。
宮川と滝本の飛行機の修理が終わり、出撃は六月六日と決まった。
その出撃の前夜六月五日は宮川の満二十歳の誕生日である。トメは心づくしの手料理を並べて、誕生日を祝うと同時に出撃前夜のはなむけとした。
すると空襲警報が鳴った。夜の空襲警報はたいてい知覧を襲うものではなく、本土を盲爆するB29が上空を通過するときのものである。それでも、しかたがないからみんなで防空壕に入る。
鳥浜礼子の日記にはこう書かれている。
「出撃前夜は空襲警報があり、防空壕に二、三回はいった。六人ぐらい。(宮川軍曹が)ゆうれいのまねをするのでこはかった」その前日、お別れに礼子たちは "血染め" の鉢巻きを宮川のために作った。"血染め" は当時の挺身隊の女の子たちが兵士を送るときにしたものだが、血染めと言っても日の丸が書けるほどに血を出すわけではなく、既製の日の丸の鉢巻きに、女の子たちが自分の指を突いて出した血を一滴二滴しみこませるのを "血染め" と言っていた。
「ありがとう、それじゃ代わりに」
そう言って宮川は礼子に航空時計と万年筆をくれた。その万年筆には思い出も愛着もあった。まだ長岡工業の学生の頃、めったに無心したことのない三郎がめずらしく兄の栄次郎にせがんで買ってもらった万年筆で、「当時としては高かった」。以来、三郎はこれで日記を書き、手紙や操縦日誌を書いてきたのだった。
「これをおれだと思ってくれ」
宮川はそう言って礼子に渡した。防空壕を出ると星のない暗い夜がそこにあった。街も灯火管制のために光は見えず、真っ暗である。宮川と滝本、それにトメと二人の娘たちの五人は藤棚の下のベンチにたどりついた。だれ言うともなく声がした。
「ホタルがきれいだね」
漆黒の闇の中、小川の上をホタルが飛び交っていた。この時期に飛ぶのは大型の源氏ボタルである。体も大きいし、光も明るい。フッと点灯し、音もなくすーっと飛んで明滅し、また消える。すると別のが光ながら飛んでいく。夏を先取りした爽やかな情景に五人はしばらく黙って見とれていた。宮川の声がした。
「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた小母ちゃんのところへ帰ってきたい。なあ滝本」「うん」と滝本の声がした。
「小母ちゃん、おれたち帰ってきてもいいかい」「いいわよ、どうぞ帰ってらっしゃい。喜んで待っているわよ」
そのときホタルが一つ、すーっと川を離れて、五人のいる藤棚に来てとまった。「そうだ、このホタルだ」宮川が感に堪えぬように言った。
「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ宮川さん、ホタルのように光り輝いて帰ってくるのよ、と内心で言った。
「おれたち二人だよ。おれと滝本でさ、二匹のホタルになって小母ちゃんのところへ帰ってくるからね。そうだ。二匹のホタルが富屋の中へ入ってきたら、それはおれたちだから、追っ払ったりしちゃだめだよ、小母ちゃん」
「だれが追っ払ったりするものかね。どうぞ帰ってきてください。待っているからね」
宮川は懐中電灯でちらと自分の腕時計を照らして言った。「九時だ。じゃ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。おれたちが入れるように、店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
「わかった。そうしておくよ」とトメが答えた。
「おれが帰ってきたら、みんなで『同期の桜』を歌ってくれよ」「わかった。歌うからね」
「それじゃ、小母ちゃん、お元気で」「……」
トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんてこの世にあるのだろうか。
二人は富屋をあとに、暗い道の中に消えていった。
翌六月六日の出撃は雨だったと礼子は日記に記している。二人は無事に行ってくれただろうかとトメは心配していた。
夕刻、雨も上がって、店を片付けていると、表戸を開けて、なんと滝本伍長が入ってきた。
「まあ、滝本さん、よくまあご無事で…」
「……」
「宮川さんは…」
滝本は黙って首を横に振った。「そう…」 トメは目を伏せた。
「ま、お上がりになってよ…」滝本が重い口を開いて語ったところによると――
二人は飛行場を飛び立ったものの、雨で視界がわるかった。開聞岳の横を通っても、ほとんどその山容が見えないような有様だった。
こんな状態で沖縄までを有視界飛行で飛ぶのは不可能だと滝本は判断した。彼は自分の機を宮川機の前方に出すと、宮川に向かって「引き返そう」という合図を送った。宮川は「おまえは帰れ、おれは行く」という身振りで応答した。
滝本は二度、三度と合図を繰り返した。「いつだって死ねるじゃないか、なにもこんな日に無理して飛ぶことはないじゃないか、引き返して再度出撃しよう」と心の中で叫びつづけていた。
しかし、宮川軍曹は応じなかった。ついに滝本は意を決して宮川に別れの合図を送ると、反転して基地に戻ってきた――。
戻ってきた滝本の心境は複雑で、表情は沈痛そのものだった。再び "生き残り" の汚名を着る身になったのである。日頃から重い口がさらに重くなった。暗い座敷の片隅で、ひとりでグラスをあおっていた。トメはなるべくひとりにしておいてあげようと思った。
夜のとばりが下りた。まさか宮川さんがホタルになって帰ってくるとは信じていなかったが、娘たちは約束の手前、店の戸を開けておかなければと思った。
開けるには、灯火管制が敷かれているから、店内の灯りが外に洩れないようにしなければならない。ただでも黒い布をかぶせてある電灯の上からもう一枚風呂敷をかぶせた。それで光量が落ちて、店の中はひどく暗くなり、電灯はほとんど真下だけをぼんやり明るくしているにすぎないようになった。
向こうの片隅でも同じように暗いそのダウンライトの下で、二、三の航空兵が手紙を書いていた。もう特攻は末期で、兵士たちの数も減り、店内は一時のような賑わいはない。
店を暗くすると、美阿子と礼子は表の戸をそっと開け、暗幕を少し横にずらせた。それによって、もし万一、宮川さんがホタルになって帰ってきても、外から入れるはずであった。
それは七時だったか、八時だったか、二人の娘はそれっきりホタルのことは忘れて、奥で仕事をしていた。ラジオが九時を告げてニュースが始まった。二人の娘は九時になったので、一応店に戻って待機することにした。
するとそのとき、わずかに開いた表戸の隙間から、一匹の大きな源氏ボタルが明るい光の尾を引きながら、すーっと店に入ってきたのであった。娘たちはほとんど同時に気がついた。
「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよー」
口々に叫ぶ娘たちの声に奥から出てきたトメは娘たちの指さすほうを見た。暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放っているホタルが見えたとき、トメは息が止まるかと思った。
宮川さんだ、宮川さんがほんとうに帰ってきたんだわ。感動に三人は息を呑んで暗い天井を見上げていた。いつのまにか滝本伍長もそばに来ていた。隅にいた兵士たちも中央に集まって、ホタルを見上げた。
「歌おう」
とだれかが言った。「歌うぞ」
とだれかが答えた。貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲くだれかが泣き出した。するとみんなが泣き出した。
涙でくしゃくしゃになりながら歌っていた。咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため歌詞はトメの大好きな第三連に移った。
貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
靖国神社
春の小枝で
咲いて逢ふよみんな涙を流しながら、いつのまにか男も女も肩を組んで天井を見上げながら歌っていた。宮川さんがほんとうにホタルになって帰ってきたのだ。
涙の歌声はいつ果てるともなく続いた。
(以下省略)
「ホタル帰る」から転載。肖像は、『陸軍特別攻撃隊の真実「只一筋に征く」』から転載させて頂きました。
【朝鮮・台湾出身特攻戦死者について】
特攻戦死者のうち、朝鮮および台湾出身者の階級・出身・生年・突入日が判明している者は14名。全員が日本人の名を名乗り、士官学校をはじめとする各課程を終了して特攻隊員となり、散華していった。
朝鮮・台湾地区に対する徴兵制度については、1938(昭和13年)年2月、陸軍特別志願制度が設けられ、予備訓練も始まっていた。
1943(昭和18年)年の兵役法改正に伴い、朝鮮地区に対して徴兵制が施行されることとなり、翌年に徴募が開始された。
また、同年9月23日の閣議決定により台湾にも徴兵制が敷かれ、昭和20年度から実施されることになった。
14名の特攻戦死者は徴兵制の適用を受け、士官学校・特別操縦見習士官・少年飛行兵など軍人への道を自らの意思で選択し、特攻で散華した。
このように、陸軍は朝鮮・台湾出身者に対して日本人と区別することなく、当時の少年たちの憧れの対象であった少年飛行兵その他への門を開いた。
『陸軍特別攻撃隊の真実「只一筋に征く」』から転載させて頂きました
「陸軍特別攻撃隊の真実「只一筋に征く」
ザメディァジョン 平成18年(2006年)初版
この本は、陸軍特別攻撃隊に限定はされてはいますが、写真も多用され、レイアウトも美しく、解説文も極めて解りやすいので、特攻隊に関する勉強を始めてみようという方にお勧めですよ。きっと大きな力になってくれる事でしょう。
沖縄戦は米軍が1945年3月26日。慶良間諸島へ上陸した事により始まり(本島上陸は4月1日)、爾来約3ヶ月。沖縄守備軍第32軍による組織的な戦闘は6月23日で終了しました。
沖縄戦での日米両軍の戦力比は、総合すれば1対30にも達するといわれたのです。
圧倒的な戦力差により、結果として沖縄守備軍は敗北を喫してしまいましたが、圧倒的な戦力差であり、戦う前から優劣が決していると思えるなかで、無尽蔵の補給の裏付けがある完全武装の米軍に対し、日本軍将兵の小火器を手に肉弾攻撃を敢行するという、世界戦史上類をみない敢闘精神でよく戦い続けました。
地上で第32軍が洞窟にこもり決死の覚悟で持久戦を展開し、多大な出血を強いられながらも沖縄を死守しているその時、空からも沖縄を守るために陸海軍それぞれから特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」が沖合にいる敵艦めがけ突入していったのです。
いよいよ天一号作戦が整い、海軍では沖縄特攻 (通常航空作戦を含む) の作戦名は、「菊水作戦」と呼び、陸軍では「航空総攻撃」と呼びましたこれにより沖縄諸島方面にある連合軍艦船に向け、日本軍の特攻作戦が決行される事となったのです。
米軍沖縄本島上陸後5日目、4月6日沖縄で奮闘する第32軍を支援するため、特別攻撃を主とする航空総攻撃「菊水第一号作戦・第一次航空総攻撃」が発動されました。
この最初の総攻撃が、すべての総攻撃のなかで最も特攻出撃機数が多く、300機が出撃して行ったのです。
「菊水作戦・航空総攻撃」は陸海軍が共同で行った一大特攻作戦で、第一号(1945年4月6日~11日)から第十号(6月21日~22日)まで実施されました。
知覧飛行場からも、第二十三振武隊伍井芳夫大尉以下4機の出撃を皮切りに、特攻攻撃が始まったのです。
5月4日、沖縄の守備軍第32軍は米軍に対し総攻撃を敢行しましたが、それに呼応して陸軍・海軍共に総攻撃をかけ、九州南部の航空基地から200機が特攻出撃していきました。
6月22日まで続けられた「菊水作戦」と「航空総攻撃」終了後も、特攻作戦そのものは断続的に終戦まで続けられたのです。
また陸海軍による特攻作戦を援護するために、日本海軍が発動した天一号作戦の一環として、戦艦大和 と護衛の9隻の艦からなる、伊藤長官率いる水上特攻部隊が、4月6日16時第32軍を援護するため、徳山沖を沖縄に向け出撃しました。
そして翌7日、坊ノ岬沖海戦により、沖縄に到達する事無く、最終的に大和を含む6隻が撃沈されたのです。
「抹殺された大東亜戦争」
藤岡寛次著著 明成社 2005年(平成17年)初版
【「特攻隊」―連合国が最も恐怖したもの】 (390ページ)
大東亜戦争において、日本が繰り出した作戦攻撃の中でも、「特攻隊」の出現ほどエポック・メイキングな出来事はなかったと筆者は確信するものであるが、それでいて、今日ほど過小評価(或いは無視)され、無知と誤解と偏見に晒され続けている事例も少ないであろう。
奇妙なことにそれは、連合国であると日本側であるとを問わない、共通の現象のようである。例えば或るフランス人ジャーナリストは、事態を次のように冷静に観察している。
戦後に日本人が神風特攻に対して為した批判にはおびただしいものがある。
(中略)
その絶対的多数は自殺攻撃に否定的で、それをあえて実行に移した指揮官たちを痛烈に避難している。
(中略)
問題なのは日本人以外の者たちの神風特攻に対する批判である。それらはおおむね西欧精神に容認できぬ自殺攻撃を、狂信に発する所為として真っ向から否定している。
また…無謀で狂気の沙汰と断定して非難している。(ベルナール・ミロー『神風』)
特攻隊に対する内外の評価が、その「無暴」さを「痛烈に避難している」点で期せずして一致しているのは、私見によれば、全く同一のフィルターがそこに介在しているからである。
「同一のフィルター」とは何か。特攻隊の戦果並びに評価に対する、徹底的報道管制である。つまり、戦時中の連合国においても占領下日本においても、特攻隊は検閲によりその真姿が決定的に歪められ、その結果として、後世の正当な歴史評価を著しく困難にしたのである。
例えば連合国側では、「ジャップの自殺機などによる攻撃が、かなり効果をあげているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実」に鑑み、特攻機によって被った深刻な被害をひた隠しにしていた厳然たる事実がある。
アメリカもオーストラリアも、何ヶ月間も日本機の体当たり攻撃について報道することを禁止した。
(中略)
オーストラリアの報道検閲部長は、すべての新聞および編集責任者一同にたいして、日本軍の自殺攻撃について言及しないように要請した。アメリカとイギリスの新聞に対しても、同様の指示が出された。
アメリカに帰還したり、オーストラリアを訪れる米海軍軍人にたいしては、どんな事情があっても、日本軍の特攻機や特攻戦術についてしゃべらないよう注意が与えられた。
(中略)
マッカーサーがこのように情報はいかなるものも公表することに反対したので、完全な報道差し止めが勧告された。(デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風』上巻)
逆に言えばこれは、彼らが特攻隊の「自殺攻撃」を如何に恐れ、かつは甚大であったその戦果の外部に漏れるのを、如何に恐れていたかの証左でもあった。
しかもそれは、単なる物理的被害には止まらぬ、彼らの存在そのものを脅かすような、精神的恐怖として受け止められていたのである。
先述のフランス人ジャーナリストは、この「自殺攻撃」がどんなに大きな精神的衝撃を西欧世界全体に与えたかという点について、次のように述べている。
第二次大戦における日本軍の自殺攻撃は、西欧の観念が発祥以来はじめて目撃し、はげしいショックをこうむったものであった。
それは受けたショックと程度において変わることのない一種の恐怖でさえあった。
このような攻撃手段というものは、我々西欧人にはいかなる理解の反響も呼び起こさないという点で、西欧精神には真っ向から激突してくるものであり、我々のあいだで通常主張される観念や理想とは、全然合致することのないものだと考えられた。
(ミロー、前掲書)こうした深い潜在的恐怖感に囚われていたマッカーサー麾下の占領軍が、戦後になって敵国日本に乗り込んだ際、特攻隊に言及したそれこそあらゆる日本人の記事を徹底的にマークし、危険視し、根こそぎこれを根絶せんとしたことは、想像に難くないのである。
「抹殺された大東亜戦争」から転載させて頂きました
「感 懐」
幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
丈夫玉砕して甎全を愧ず
一家の遺事人知るや否や
児遜の為に美田を買わず
明治10年(1877年)9月24日鹿児島の城山にて切腹した、享年51歳の西郷隆盛の詩です。 私は西郷隆盛のこの詩が大好きなのですが、「玉砕」 という言葉の使い方の典型がここにあります。
このように玉砕は、武士道精神に密着した言葉であり、名誉や信念を守るために、玉が砕けるように潔く死ぬ事を意味します。この玉砕の対になる言葉は、「瓦全」(がぜん)という事になると思います。
自分より強い敵に敢然と立ち向かい、爆弾を搭載した飛行機と共に敵艦船に突入する特攻隊。
また人間爆弾である「桜花」や人間魚雷「回天」といった、十死零生の特攻兵器による戦法は、不惜身命の武士道精神を堅持した、日本の帝国陸海軍の将兵だけが為し得た戦闘行為だったと言えるでしょう。
「神風」
ベルナール・ミロー著 昭和47年(1947年)初版
【日本兵の自己犠牲の精神の発露】
日本の自殺攻撃の本質的な特徴は、単に多数の敵を自分同様の死にひきずりこもうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵に飛びかかるという、その行為にあるのではない。
その真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、ときとしては数週間前、数ヶ月も前からあらかじめその決心がなされていたという点にある。
ごく近い将来に、死という生の終着点を自ら作り、その日のために残された己の人生を凝縮して生きるということは、並大抵の神経でできることではない。
きわめて強靱な精神力を必要とする。
(途中省略)
日本人の精神的世襲財産とそして伝統とが、神風心理の条件づけにあずかって大きな責任があったことは、議論の余地がない。
当時の日本の軍人のみならず、市井人のあいだにも、絶対的献身と神秘的尊敬の対象としての祖国という観念はあまりにも広くかつ深くゆきわたっていたので、この観念は後天的な第二の国民性を形づくってさえいたのである。
(途中省略)
大東亜戦争は侵略戦争であったというのが左翼史観であり、どのような史観を持とうとも民主国家日本では許されるから、それはそれでよい。
しかし、一般民衆の側に立った民衆史観ともいうべき史観でかの戦争を見れば、明らかに日本軍の南下戦略は欧米帝国主義から東亜を守ろうとするアジア民族解放戦争であった。
日本軍兵士のだれもが、アジアを侵略しようとする強敵米英に敢然と立ちあがり、アジアを守るため、祖国日本を守るために死力のかぎりを尽くしたのである。
日本軍兵士のこの切々たる真情がわからなければ、大東亜戦争が世界史に占める重要な意義がわからない。
圧倒的な物量を誇る連合軍に対して、わが命を顧みず、祖国防衛のために肉弾突撃を敢行した日本兵の高貴な精神は、世界史に永遠にその事実を刻みつけねばならないのである。
「神風」から転載させて頂きました
【アーノルド・トインビーの論述】
第二次大戦において、日本人は日本のためと言うよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したと言わねばならない。
その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
イギリス人も、フランス人もアメリカ人も、とにかく我々は将棋倒しのようにバタバタとやられてしまった。
そして最後にアメリカ人だけが軍事上の栄誉を保ち得たのである。他の三国は不面目な敗北を記録したことは、疑うべくもない。
「オブザーバー紙」(昭和40年10月28日)から転載させて頂きました
「神風特別攻撃隊」
猪口力平/中島 正共著 河出書房 昭和42年(1967年)初版
【隊員の遺書】
(ここまで省略)
特別攻撃隊員の心境が、戦場における異常心理というようなものに、ほとんど支配されていないということである。「平常心是道」 という言葉があるが、そこには意外なほどしずかな落ち着いた精神のたたずまいが見られる。
一度ならず二度、三度と出撃をくりかえし、敵艦をもとめて体当たりを敢行するということは、いわゆる騎虎のいきおいや、一時の血気にはやって付和雷同するような、無自覚な精神によってよくできるものではない。
特別攻撃隊員たちは、けっして死を軽んじたのではなく、その必死の体当たりに「死以上のなにか」を覚証していたにちがいないと思われる。「死以上のなにか」は、今後といえども追求されねばならぬものであると思われる。
とにかくかれらは、危機に瀬した祖国を守るために、自己の信ずるところと真剣にとりくみ、「いまやわが国を守るのは、じつに青年の手ひとつにあり」といったはげしい使命感に徹し、情熱をもってことにあたり、そして生死を超えたなにものかを把握していった。
そう思うことは、私自身の身勝手な考えであろうか。祖国の不滅を信じ、永久のいのちに姿をかえる、といった「生命の飛躍」を、若桜たちは信じていたのではなかろうか。
欧米人は、いやときには日本人ですら、特別攻撃隊を強制しておこなったように考えがちであるが、強制のみでこのような絶対的に「きつい」ことが、なんらのよどみもなく、あのように多く、あのように長く、つづいておこなえるわけがない。
命ずるものと命ぜられるものとの心の底に、相通ずる民族的ななにものかがあったはずである。それを「神州の正気」といっては言い過ぎであろうか。
私は、神風特別攻撃隊にたいする批判はどうであろうとも、いさぎよく散ったかれら自身だけは救われてくれ、と祈念してやまないものである。
「神風特別攻撃隊」から転載させて頂きました
「靖国神社」
「靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。」(「靖国神社」サイトから転載させていただきました)
日本人の心のふるさと 「靖国神社」、 殉国の勇士が住まう 「靖国神社」。
靖国の杜に住まう英霊が、いつも願っていた祖国の安泰と世界の平和。
英霊の負託に答えるため、そして未来を担う子供たちのために、この時代を生きる日本人として、私たち児孫は何を為すべきか ――。
桜咲く「靖国神社」
8月15日の「靖国神社」
日本国は大東亜戦争にあたり、独立国家としての存続と、白人による全アジア植民地支配からの解放を希求し、武士道精神を堅持した日本軍将兵は、一死を以て大東亜永遠の平和の捨て石にならんと、戦地でのあらゆる困難を乗り越え、最後まで勇敢に戦い抜きました。
「しきしまの大和心のをゝしさはことある時ぞあらはれにける」
と明治天皇が詠まれ御詩で書き記された、義勇奉公の精神として發現する大和魂を、非戦闘員である一般市民をも含めて、すべての日本国民が共有しての戦いでもありました。
大東亜戦争で亡くなられたすべての戦没者に哀悼の意を表すると共に、靖国神社に祀られる二百四十六万六千余柱の、日本国の独立と尊厳を守るために戦い、そして亡くなられた英霊の方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m