遺骨発見現場の様子

戦場で亡くなられた戦没者の御遺骨は、どのような姿で戦場の山野に野ざらしのまま "放置" されているのか。遺骨収集をされた経験の無い方々には、ちょっとイメージしにくいと思いますね。

このコーナーでは、山野に眠る御遺骨を実際に見た事が無いという方々の為に、沖縄戦跡国定公園内にある『摩文仁之丘』周辺のジャングルに分け入り、御遺骨の発見現場の様子を写真により紹介したいと思います。

私も長年の遺骨収集の中で数多くの御遺骨と応接し、そして自身でもたくさんの御遺骨を発見・収集して参りました。そんな私にとりましても、平成16年2月の第31回沖縄遺骨収集奉仕活動の初日、個人的にも過去最大規模の御遺骨を発見する事が出来ました。御遺骨発見と同時に鮮明な写真撮影も出来ましたので、地表のジャングルから壕の中に入り、発見現場に至るまでの道すがらを含めて、写真によりスライド的に順を追って御遺骨発見現場の説明していきたいと思います。

御遺骨発見現場の様子1

沖縄戦跡国定公園に含まれる、沖縄南端部の「摩文仁之丘」から太平洋を望んでいます。丘の標高は89メートルです。ですから、沖縄守備軍は沖縄戦では「89高地」と呼んでいました。撮影ポイントの横には『黎明の塔』があります。沖縄南部戦跡観光で、この「摩文仁之丘」の展望台から太平洋を望んだ方々も多いかもしれませんね。

この「摩文仁之丘」は、守備軍の抵抗戦力が絶望的な段階に至り、6月23日の牛島中将と長参謀長が自決し、日本軍による組織的戦闘が終結するまで、米国による激しい空爆と一方的な掃討戦が展開された場所なのです。
写真ほぼ中央の断崖絶壁から、うら若き乙女達が幾人も身を投げる姿を記録映像で見た事があるという方も多いと思いますが、何度見ても心の痛む映像であります。

沖縄戦では見通せる限りの海原は、米国軍艦で埋め尽くされるほどだったといいます。そうした圧倒的な戦力差のなかで、行き場のない南端部に逃れ来た軍人民間人に対し、米国は容赦のない激しい艦砲射撃を加えたのです。摩文仁之丘のジャングルを歩きますと、10メールとか20メートルもある巨大なサンゴ石灰岩の硬い岩山が、いたるところでバックリ割れている事からも艦砲射撃の凄まじい破壊力が伝わってきて、砲弾が炸裂した瞬間を想像してみますと身の縮む思いがします。

戦後60有余年を経て、現在は樹木で覆われているこの南端部海岸線の岩場も、沖縄戦当時は爆撃による爆風でほとんどの樹木は吹き飛ばされたり、強力な火炎放射器で焼かれたりして、白いサンゴの岩肌がむき出しになっていました。

御遺骨発見現場の様子2

山上から見る「摩文仁之丘」は、私たちの身の回りにあるごく普通の森林と同じように見えますが、森林の中に入ってみますと、正に亜熱帯ジャングルとなっています。

「摩文仁之丘」周辺は、激しい艦砲射撃による破壊で草木がいつまでも生長せず、見かねた米国は空から植物の種を大量に蒔いたと記録されています。ですから、沖縄に長く住んでいる住民から見ると、沖縄に存在しなかった植物も数多く生い茂っているという話です。

亜熱帯ジャングル特有の、巨大に成長し縦横に枝葉を伸ばしている植物群に、確実に行く手を阻まれます。しかも、遠い昔沖縄は珊瑚の岩盤が隆起して出来た島と言われていますから、足下の岩場は激しく隆起したり沈下したり、或いはバックリ割れていたりと、大小入り交じっての岩場の存在が私達の容易な前進を阻みます。

特に私達を苦しめたのは、珊瑚の岩が非常に硬く突起していることでした。岩の突起部分がちょっとでも強く膝や腕に当たろうものなら、何人も例外なく顔をゆがめる事でしょう。この突起さえなかったら…。と思う私たちですが、沖縄戦当時摩文仁之丘海岸線を行き交う避難民は、逃げる途上靴が脱げて無くなってしまったという人が多かったそうですが、彼らはその後裸足で岩場を移動していたというのですから、その苦痛を伴う困難さが偲ばれます。

平成16年(2004年)2月14日 第31回金光教沖縄遺骨収集奉仕 の調査・収集活動初日、二時間ほど探し回った頃でしょうか、奥行き30メートルほどにもなる壕内で、私は5名から6名と思われる日本軍将兵の御遺骨を発見しました。私の長年の収集作業でも、一カ所にこれ程多数の御遺骨が存在する現場を発見したのは初めの事でした。発見後直ちに班員全員が呼び集められ、収集作業を開始する準備が進められました。

壕などの狭い洞窟内から御遺骨を地上に掘り出す為には、土砂の搬出を伴う事も多いため、まず地上での作業場所を確保する事から始めます。 この御遺骨発見場所でも同様に、広く深く地面を掘り返しその土砂を地表に搬出しなければならないと思われ、かなり大掛かりな作業となる事が予想されるので、少し昼食を食べてから開始しましょうという事になりました。

御遺骨発見現場!

御遺骨発見現場の様子3

(※すでにロープ等の資材が次々に降ろされ、作業が開始されている写真です)直径5メートル深さ3メートル程の円柱状の深い窪みが見えますが、ここが壕へ入る入り口です。この巨大な穴は艦砲射撃で掘り下げられた穴というよりは、自然なサンゴ隆起により形成されたと見られます。Hさんが立っている場所が、大きな窪みの底面という事になります。すでに作業用のロープも設置されました。そして大きな窪みの下に、更に小さな "穴" が空いているのが見えますね。この最大幅70センチ程の小さな穴が、約30メートル先にある遺骨発見現場への入り口という事になりますね。
さあ、それでは皆様とご一緒に、壕(洞窟)の中に入ってみる事にしましょう!!。

御遺骨発見現場の様子4

穴の底部までは深さ2メートル程です。ロープ無しでは降りられませんでした。すでに穴の底部には上から降ろされたロープが見えますね。そしてバケツや御遺骨収集袋も見えます。今回のようにロープを使わなければならないレベルの収集作業は、かなりの頻度で遭遇します。こうした場所は、人間の上り下りも大変ですが、御遺骨が含まれる可能性のある土石を壕内から搬出する作業を伴う事も珍しくありません。その作業がとても大変なのです。主に布製バケツなどを利用して、バケツリレーよろしく皆で連携して土石を搬出する事になりますが、この時も丸一日がかりで、細かい御遺骨を含む可能性のある大量の土石を地表に運び出しました。

御遺骨発見現場の様子5

深さ2メートルの縦穴に降り立ち、真横の様子を撮影した写真です。縦穴だけと思われた岩穴も、潜ってみたら横穴が "発見された" という訳です。底部の横穴への隙間は当初小さな横穴があるといった程度でしたが、写真撮影の時はすでに直径60センチ程に穴が広げられています。

私がここに最初に降り立った時は、確かに小さな横穴はあるものの、懐中電灯で照らして見た限り横穴が奥深く続いているとはとても思えませんでした。第一印象では人間が入っていけるような穴ではないと思ったのです。しかし、直感的に目の前にある土石は上から流れ落ちてきたものだと思えたので、可能性を信じて土を掘り返して穴を広げようと奮闘してみたのです。一生懸命掘り進めたら、穴が広がって行くではないですか~。(^_^)v

沖縄戦終戦当時存在した横穴も、戦後60年近くの歳月を経て、台風などにより穴の上から土石が大量に流入して、現在はほとんど横穴が無いかのように塞がれていったという訳ですね。改めて思い起こすのは、遺骨収集で重要なポイントは、"沖縄戦終戦時の地表面" を常に思い描きながら遺骨を探すと、御遺骨の発見率を確実に高められると言う点を強調したいですね。 (^o^)

御遺骨発見現場の様子6

人間がやっと入れるような横穴も無事に通過して10メートルほど進むと、ご覧のように立って歩けるほどの空間が奥のほうへずっと伸びていました。横穴の方向は海側へと展開しています。壕内空間は緩やかに下っていますね。足下を注意深く観察しながら進むと、兵隊さんが着用していた "軍靴" の一部があちこちに散見されるようになりました。明らかに兵隊さんがこの壕に居留していたと推測されます。この様に兵隊さんが身につけていた遺留品が見つかる場所は、御遺骨も発見される確率も高くなります。地面を慎重にクマデで掘り返しながら少しずつ前進していきます。

御遺骨発見現場の様子7

壕の入り口から20メートルほど入ったところでしょうか?。少し幅が広がっている場所に出ました。相変わらず壕空間の高さは十分にあり立って歩けます。兵隊さんの "軍靴" の一部、特に靴底がたくさん発見されます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、焦げ茶色した大きめのものが "軍靴" です。大勢の兵隊さんがこの壕の中に居た事がますます確信出来ます。最初にこの壕に入った私は、この段階で直感的に御遺骨が見つかると確信していました。

御遺骨発見現場の様子8

前の写真の位置から上を見上げて撮影した写真です。この壕は完全な穴ではない様です。上から太陽の光が差し込み、樹木の姿も僅かに見えます。太陽の照射角度によっては、壕の中は一定時間薄明るかったと思われますね。この場所に至るまでに “風” を感じていましたから、壕内が酸欠になる心配はしていませんでしたし、この様に太陽も見えるという事で、酸欠や致死的なガスの発生も考えられません。 いずれにしても壕に入る場合は、風を感ずるかどうかという点にも心配りしながら前進する事が大切です。

御遺骨発見現場の様子9

壕の入り口から緩やかに下りながら30メートル程進んできたでしょうか?。曲がりくねった岩の割れ目を進んで参りましたが、この場所に来ましたら海の波音が微かに聞こえてくるようになりました。明らかに、この壕は海に向かって開かれており、ここから先は壕の外というような印象の空間が目の前に広がってきました。試してみないと断定出来ませんが、目の前の岩場をよじ登れば地上に出られそうな雰囲気になっています。

兵隊さんの遺留品は相変わらず散見されますが、今のところ御遺骨は発見されていません。この先には御遺骨は無いな、これで壕の探索も終わりかな」、少しガッカリしながら目を横にそらすと、写真の様な空間が横にある事に気づいたのです。何とこの横穴の奥に、終戦当時からそのままの御遺骨が静かに横たわっていたのです!!。

御遺骨発見現場の様子(写真をクリックすると拡大表示できます)

御遺骨発見現場の様子10

◆御霊様のご冥福をお祈り申し上げますm(_ _)m。

これが昭和20年大東亜戦争末期の沖縄戦で亡くなられた兵隊さんの御遺骨です。
平成16年(2004年)2月14日(土曜日)午前11時撮影。
沖縄戦が終わって、すでに59年経過しています。

かつて数えきれない程のあらゆる団体が、この『摩文仁之丘』南側斜面に入り遺骨収集が続けられましたが、それらの遺骨収集でも発見される事が無かったようです。亡くなられた兵隊さんは、この薄暗い壕の岩陰で59年の歳月を静かに過ごしました。この写真に写し込まれている御遺骨は、亡くなられた当時そのままの配置状況という事になります。

この摩文仁の丘の南側斜面一帯は、たくさんの自然壕が点在していた事もあり、日本軍の軍事拠点がたくさんあった所です。この御遺骨発見現場からも兵隊さんの遺留品や手榴弾などが同時に発見された事から、御遺骨は兵隊さんの可能性が極めて高いですね。

棒状で白っぽく写っているものは、全て御遺骨です。戦後59年経過しており、形も崩れ細粒化している御遺骨が多くなっています。中央部、焦茶色した革製のものが見えますが、兵隊さんの軍靴の一部です。その横にはセルロイド製の三角定規の一部が見えます。(※三角定規に名前が彫られていた事から戦没者とご遺族が特定され、三角定規はご遺族の元へお返しする事が出来ました)

遺骨収集では、認識票、印鑑や石けん箱、その他名前の彫られた携帯品などの発見により、御遺骨の氏名と身元が判明した場合は、遺留品や御遺骨を御遺族へお届けしていますが、そのような確率は年々激減しています。

頭骨は地表面にはほとんど露出しておらず、地中から歯を含めた破片状のものが多く出てまいりました。奥へ行くほどに御遺骨は土に埋もれていました。理由は写真でも奥に行くほど上り勾配になっているのが見てとれますね。穴の奥の方には、人が通るのは不可能ですが、狭いながらも一定の空間が上に向かって延びており、戦後59年の間に大量の土石類が落ちてきて堆積しているという状況です。また奥へ行くほど土の色が濃くなっているのがお解りになると思いますが、雨が降ると水も流れ落ちている印象です。更に台風などの時は、水の流れが出来るぐらいの水量が漏れ出ているという状況かもしれません。ご遺骨の散乱状況や地表面を観察してそんな事が想起されました。

ここで何人の日本軍将兵が亡くなられたのか??。
収集した大腿骨などの残存状況から5名の御遺骨と推測されます。

壕の開口部の様子と現場の御遺骨の配置状況から、爆撃による爆風・砲弾破片等による即死の可能性は低く、壕が海に向かって解放されている事から、毒ガス弾などによる窒息死の可能性も低いと思われます。

写真中央部に密集して御遺骨がありますね。台風の時などの大量の雨水により、ご遺骨が少し動いた可能性も排除できませんが、長く御遺骨を観察してきた経験から推測しますと、ひとつの可能性として死亡した遺体を複数人重ねて安置しておいた場所と考えられます。

この御遺骨が集積した場所を除き、その他の場所では御遺骨の配置状況は "ある程度四散している" 状況でした。薄暗い穴蔵の中で、飲む水も無く飢えによる苦しみから逃れるために自決したのか?。あるいは傷病兵ゆえの死か?。

終戦から59年。 一度たりとも人の声を聞かず、人と語らず。
この長い沈黙の時を経て、私達と応接した御霊様は何を思われたか…。

私達は、深さ60センチぐらいまでの土石を、班員全員でバケツリレーにより地表面に運び出しました。土石の運搬距離も30メートル程と長く、運搬ルートについても潜るような姿で運び出す場所もありましたし、発見場所と作業場所との標高差も数メートルある事から、大変な重労働となり困難を極めましたが、男性陣が土石を運搬し、女性陣が土石から御遺骨を拾い上げるという分業で作業を進めました。

どんな小さな骨片をも残さず地上に運び出し、御遺骨に59年ぶりの太陽の光を浴びて頂こうと、私たちは互いに協力しながら全力を尽くしたのです。
私達は彼らの無念の死を悼みながら、彼らと共に涙し彼らと共に痛みを分かち合いました。
言葉無き会話をしながら…。

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