平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月18日(日)地元のご夫妻と摩文仁の海岸線で遺骨収集
- 1月19日(月)『島守之塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探す
- 1月20日(火)単独で摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月21日(水)松永氏と摩文仁之丘西端斜面に入り遺骨収集
- 1月22日(木)荒崎海岸で遺骨収集&資料館関係者を摩文仁の壕に案内
- 1月23日(金)摩文仁東端で遺骨収集&ヌヌマチガマで平和学習
- 1月24日(土)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 1月25日(日)第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 8月07日(金)金光教ご本部参拝
1月18日(日) 地元のご夫妻と摩文仁の海岸線で遺骨収集
「ここは何処?」
イヤ~~。爆睡したらしく睡眠時間は短いながら目覚めはさわやかでした。(^o^)
昨日鹿屋と知覧特攻基地跡にある資料館等を見学を終えた後、どのように行動したのか、それを少し説明させて頂きます。鹿児島県の大隅・薩摩両半島の鹿屋と知覧にある陸海軍特攻隊発進基地などを見学した後、鹿児島空港に戻り18時10分発沖縄行きの航空機に飛び乗り、19時35分那覇空港に無事到着したのです。
夕食は鹿児島空港で済ませているので、すぐに金光教那覇教会の林先生に、沖縄到着のご挨拶をするためにレンタカーで向かいました。遅い時間での訪問であるにもかかわらず、林先生と奥様は心温かく迎えてくださいました。ちょうど今度の遺骨収集奉仕活動について、複数人のメンバーが林先生と打ち合わせしていましたので、私も同席させて頂きました。そしてお茶をいただきながら、ご挨拶やら遺骨収集に関する諸々の話をしましたが、遅い時刻だったので他のメンバーさんが退席する時に合わせて私もお暇させて頂きました。
それから那覇教会を車で出発し、近くにあるマクドナルドのお店に向かいました。このお店では、初めてお目にかかるのですが、那覇市にご在住の○○さんとお会いする約束があったのです。(※○○さんは、個人情報の開示を希望されませんので、以降「地元の」または「地元のご夫妻」と表記させて頂きます)
詳しくは後述しますが、本日地元のご夫妻と一緒に遺骨収集する事になったので、その打ち合わせの為に前日の夜お会いしたという訳です。こうして予定したご挨拶&打ち合わせを済ませ、一路糸満市へと車を走らせました。そして無事に宿泊を予約してある沖縄南端部の糸満市小波蔵にある、「ペンション喫茶 南の楽園」に到着したのです。
出迎えてくれたのは女将さんでした。
(旅館では「女将さん」が一般的ですが、ペンションではなんと呼ぶのでしょうか~)
遅い到着が予想されたので連絡を密にし、到着予想時刻をお伝えし続けてはいましたが、その都度「大丈夫ですよ」とのお返事をいただいてはいましたが、やはり非常識な時間に到着したことは間違いなく、玄関ドアを開けてから丁重にお詫びしたのは申すまでもありません。
「お疲れになったでしょう。まずお風呂に入りませんか?」と優しく語りかけてくださいましたが、私が起きていれば女将さんは待機していなければならないはず。ですから風呂はお断りして、荷物を解いて明日の準備が整いしだい寝ますとお伝えしました。
「明日の朝食は何時ですか?」と聞きましたら、「希望の時間に合わせますよ」と言って下さったので「7時では早すぎるでしょうか」と控えめに聞いたら「大丈夫ですよ。もっと早くても大丈夫ですよ」と言って下さいましたから、当初から7時を計画していましたので、タイムテーブルに狂いは発生せず安堵しました。
鍵を受け取り、「それではこれから一週間よろしくお願いします」とお願いして二階に上がっていきました。
朝食を7時に食べるというのは当初からの予定でしたが、朝食の時刻が決まると前後の行動予定時刻もほぼ自動的に定まりますからね。
06:00 起床
06:30 散歩
07:00 朝食
08:00 ペンションを出発
21:00 就寝 (このスケジュールならば、睡眠時間は9時間確保できますね)
今回の遺骨収集は8日間という長丁場になるので、期間後半から最後にかけていかに体力を保持するかが最大の課題だと思われました。 私もそれなりの年齢ですからね。
今までずっと那覇市内に宿泊していましたが、この最大の課題を解決させるためのひとつの手段として、摩文仁に近い糸満に宿泊すると決めたのです。
消耗しきった体力は、食事と睡眠で回復させる以外に手はない!。糸満に宿を確保すれば、理論的には那覇市内への往復に要する時間を睡眠に振り向けることが出来るという訳です (^o^)。
私も若くはないのですよ。 年齢はバレバレかもしれませんが ヒ・ミ・ツ です(笑)。
今日から一週間、「ユースホステル」よりも厳しい生活管理をもって、過酷な8日間を乗り切りますよ。(笑)
地元のご夫妻と摩文仁の海岸線で遺骨収集
本日は24日から二日間実施される、第36回 金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加される、那覇市在住の地元のご夫妻と共に、摩文仁之丘の南斜面および海岸線で遺骨収集&探索をする予定です。
地元のご夫妻は若い頃職場の関係で、3年ほどの期間遺骨収集活動に携わったことがあるそうですが、やった事があると言っても何十年も昔の話ですから、すっかり服装や手順なども忘れてしまっているとの思いがあるそうです。
そこで24日(土)から始まる金光教の遺骨収集奉仕活動に参加する前に、出来れば一度体験をしておきたいと那覇教会の林先生とも話をされて、事前の体験という意味では、私が数日前から摩文仁ジャングルに入る予定がある事から、私がご案内する事に相成ったのでした。
一ヶ月以上も前から地元のご夫妻とは携帯メールやFAXにより、遺骨収集奉仕活動に際しての服装や装備についての助言を続けてまいりました。そして昨日の夜、那覇に到着してから最終的な打ち合わせをする為に、地元のご夫妻と、お住まいの近くでお会いしたという訳です。
遺骨収集奉仕活動の体験をするというのであれば、雨は避けたいと思いましたので、沖縄の天気予報を参考にしながら、最終的に本日実施すると確定したものです。
私はスケジュール通り8時に宿を出発。地元のご夫妻と合流する前に、早めに摩文仁に行き、平和祈念公園をカメラを持ちながら、一年ぶりに散策する事にしました。
摩文仁にある平和祈念公園の様子
冬とはいいながらサルビアやハイビスカスの花が、今が盛りとばかり咲き乱れていました。奥の方にそびえ立つ白い塔は、「沖縄平和祈念堂」です。
芝地が広がる式典広場と、その奥に展開する摩文仁之丘を一望しています。沖縄では6月23日が慰霊の日として法定休日です。沖縄全戦没者慰霊祭はこの式典広場で行われます。
「平和の丘」の全景です。
「平和の丘」に立つと、式典広場および「沖縄平和祈念堂」までを見通せます。
「国立戦没者墓苑」裏手の通りには「琉球松」が植えられています。
昨年訪れた時には工事中でしたが、三棟目の納骨堂が完成していました。(^o^)
見事な石組みですよね。現代風に太陽電池パネルらしきものが設置されていましたよ。奥に見える古びた石造りの建物が二棟目の納骨堂です。
地元のご夫妻とは、予定時刻9時に摩文仁駐車場で合流する事ができましたよ。奥様とは昨日お会いしていますが、ご主人様とは初のご対面です。
一時の間ご挨拶やら、服装や装備の確認をさせていただき、出発の準備を整えました。一度ジャングルに入ってしまうと、昼食時にも戻らない可能性が高いので、お弁当や飲料水などの確保とボリュームについても確認しておかなければなりません。
事前にしっかりと情報交換しておいた甲斐もあって、装備や服装に過不足はなく、至って順調に駐車場を出発する事ができました。 「金光教の遺骨収集奉仕活動参加の前に、一度事前に体験をしておきたい」という積極的な姿勢に能うごとく、こちらもしっかりと「初体験」していただけるように、難易度が優しいパターンからハードなパターンまで、適度に織り交ぜて体験して頂く予定です。
今日一日ご遺骨を探すというよりも、「これが遺骨収集」という典型例を味わって頂こうという訳です。
私も今朝が摩文仁での初日にあたりますので、まずは「国立戦没者墓苑に参りましょう」とお誘いしました。そして、道すがらにある「島守の塔」も併せて参拝する事にしました。
まずは地元のおばさん達が切り花を販売しているところで生花を求め、駐車場を出発しました。
「島守の塔」と「国立戦没者墓苑」
島田沖縄県知事、荒井警察部長、戦没県庁職員468名を祀る「島守の塔」です。いつ来ても生花が絶えない印象があります。
1979年に創建された「国立戦没者墓苑」の全景です。現在沖縄で収集されたご遺骨は、最終的にすべてこの墓苑に納骨されます。
祭壇および納骨堂の様子です。納骨堂は、琉球トラバーチン石約一千個を用いて、琉球古来の石積み法で積んであります。
「島守の塔」および「国立戦没者墓苑」に生花をお供えし、手を合わせて戦没者のご安泰と感謝の念を表明してきました。
お二人の地元の方ならではのお話を存分にお聞きしながら歩いて巡りましたが、地元の方とお話しすると、本土では知り得ない話を聞く事ができますので、いつもいつもヤマトンチューとしては勉強になりますね。 ありがとうございます。
さあこれから険しい摩文仁のジャングルに入ることになりました。
摩文仁の部落民が昔から利用していたという、「ワシチガー」の湧水地へと至る道を下っていきました。この「ワシチガー」の水源部分でもまた献花し、この場所で大勢の避難民が亡くなったとの事ですから、しっかりと手を合わせました。
さあいよいよ遺骨収集の開始と相成りましたが、私たちは「ワシチガー」を基点として、まずは海岸線を西に進んでみることにしました。
岩場も側によると、こんなにも巨大な岩がゴロゴロあり、私たちの行く手を阻みます。
巨岩が連なり、一見困難な岩登りに見えますが、岩は硬く手で岩を捉えやすいので、意外と登攀は楽です。遠景は摩文仁の東側、慶座絶壁(ギーザバンタ)方面です。
巨岩が連なり、少し離れてしまうともう誰も見えなくなってしまいますので要注意です。今からここを直線的に進む予定です。
巨大な岩場は二本足だけで立つと危険です。写真のようにいつの時も、岩に手を添えるように努めると、より安全性が高まります。
海岸線を100メートルほど西に向かって進んで参りました。もっとも海岸線と言っても砂浜ではありません。写真でおわかりのように巨岩が連なる岩場であり、ロッククライミングという呼称がふさわしい道中だったかもしれませんよ~。
わずかな距離しか前進していませんが、ここまでですでに1時間以上経過しています。高いところから見る摩文仁はそれほど広い区域ではありませんが、ジャングルや岩場に入ってみますと、誰もが摩文仁が想像も出来ないほど広大なエリアに思えてしまうのです。
今私たちは、探索はせず前進する事のみでここまで来ましたが、更に探索作業が加わりますと、更に100メートル前進に要する時間が増える事になります。
私も地元のご夫妻の様子を見ながら、無理をせず急がせず、岩場にしてもご自分のお気に入りのルートを選択して頂き、ここまで前進して参りました。
時折ワーとかキャーとかいう声も聞こえましたが (^_^;)、前途に立ちはだかる岩場に感嘆してのことで、危険が迫っているときの発生ではないので心配はしませんでしたが、未知なる体験を無事に乗り切って、三人が岩場の上に立ち小休止することになりました。
ひとつ驚いたのは、やはり地元のご夫妻はさすがに地元の人なのです。摩文仁崖上の位置関係とこの海岸線の位置関係とを、驚くほど的確に指摘していましたね。
小休止したあと、ここから樹木に覆われたジャングルに入っていく事になります。
海岸線はどこも大概そうなのですが、程度の差はありますが、まず「アダンの壁」にぶつかりますが、その困難な壁を越えない限りジャングルには入れない事が多いのです。
「アダンの壁」プラス「崖の勾配が急」となりますと、これまた最悪のパターンとなるのでした。
地元のご夫妻は、厚手の着物・しっかりした手袋、ヘルメット&帽子でしっかり装備していますので、さほど「痛い目」に遭わず切り抜けられそうですよ。
海岸線の岩場からジャングルに入ります
ちょっと海を見渡せば、太平洋に連なる海面はどこまでも蒼く、遙かなる地平が見通せます。昼頃になると空はまさにスカイブルー。快晴になってきましたよ。
時折海岸の突端部に出て、摩文仁崖上との位置関係から、現在どのあたりかを確認しながら前進します。
いよいよ上に登っていく訳ですが、当然の事ながら登りやすい場所を探さないと悲惨な目に遭いますね。
さあ登り勾配ですよ!。頑張ってくださいませ。
出来るだけアダンの空隙を縫って登っていきます。アダンの根の下に潜るというのも選択肢のひとつです。
飯ごうの中敷きというものでしょうか?。外側の飯ごう部分は探しましたが有りませんでした。
よく観察しますと、小銃弾が貫通したと思われる穴が開いています。この飯ごうの持ち主が、同時に撃たれ貫通したという事でなければよいのですが…。
ここまでは特段のトラブルもなく事故もなく安堵しています。
地元のご夫妻は、よく聞きますと遺骨収集奉仕活動の経験は三年ほど有りますが、そのどれもがすでに発見されている現場での収集作業だったそうです。
今回のように「ご遺骨を捜す」事は初体験だとのお話で、このように危険がいっぱいのジャングル内を、遺骨を探すために入る金光教の人たちに敬意を表したいと語っていました。
12時が近づいてきたので、少し早めですがジャングルの中で昼食を頂きました。草地に腰を下ろしての昼食時は、今度は私が聞き役となり、地元のご夫妻からいろんな話を伺うことができ、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。
地元のご夫妻の特に島田知事のご遺骨・遺品捜しについての見解は、心を打たれるものがあります。
島田知事と荒井警察部長の遺骨は、現在まで発見されていませんが、諦めずにこれからも粘り強く、情報収集に努め、関係者が協力しながらなんとしても、島田知事と荒井警察部長のご遺骨や遺品を捜していきたいと、改めて私も決意しました。
ジャングル内の探索活動は、以降少しずつ東に移動しながら取り組みました。
今までのところ戦没者の遺品が少し発見された他は、まだご遺骨の発見には至っていませんが、地元のご夫妻は初体験であり疲労もそれなりに蓄積されている印象です。
私自身も遺骨収集初日であり、かなりエネルギーが切れてきたという印象が強まってきたので、少し早めですが出口を何処にするかという考慮を始めることにしました。
海岸線とジャングルの境界付近には、アダンの他にご覧のような植物が茂っている場合があります。繁茂する蔓植物の下は、空間となり岩場となっていますが、思いの外踏み外す事も無く前進できますよ。
帰り道ですが、一段と勾配が急になって参りました。上側にいる人は、落石させないように足下をしっかり確認しながら歩みを進めます。
手榴弾が二個あります。左側の手榴弾は上半分が風化により吹き飛んでいます。過去何度も見ている手榴弾ですが、埋まっているのであえて赤テープは巻かずに置いたままにしています。
※下の写真は同じ場所で、3年前に撮影したものです。年月の経過と共に風化していく点を見て下さい。左側の手榴弾の破片が強風で吹き飛ばされ、火薬が露出しているのが見て取れます。
この写真は上と同じ場所で撮影したものです。2006年撮影ですから3年前という事になります。左側の手榴弾は、この時はまだ形状を留めていたことが解りますね。
ここは登攀部で最大の難所です。でも一段ごとに慎重に手足を岩に乗せれば大丈夫です!。奥様も慎重に手を掛け足を掛けて登っています。頑張って。
急勾配の崖をほぼ登り終えた所にテラスがありました。ここで小休止ですよ。冷や汗を含めかなり汗をかきましたが、ここでは実にさわやかな風が吹いていて感激しました。この海からの心地よくさわやかな風を皆様に体感して頂けないのが、実に残念ですね~。(笑)
この墓を見て「あ~~ここに出るのか」という方がいらっしゃるかもしれませんね。ひとつのヒントは、「資料館はすぐ横」ですね。
当初の予定通りジャングル内での平坦なコースから、かなりの岩場&崖の部分などのハードなコースを地元のご夫妻に体験して頂きました。
まずはトラブルや事故が発生しなかった事に感謝したいですよね。地元のご夫妻の遺骨収集奉仕活動への熱き思いを台無しにしないようにと、摩文仁に住まう御霊様に終日見守って頂いたという事かも知れませんね。
地元のご夫妻にとりましては、ハラハラドキドキの繰り返しだったかもしれませんが、これで24日・25日の金光教遺骨収集のジャングル行は非常に楽に感ずるはず。(笑)
服装や装備につきましても、今日一日の体験により、「改善の余地」を感じた点も多々あったでしょう。だとすれば、24日・25日については万全の服装&装備で参加できるというものです。
地元のご夫妻には、今日の体験を大いに活かして頂き、金光教主催の二日間では大活躍をして頂きたいですね。
私も今回地元のご夫妻とご一緒させて頂いて、大いに学ぶ点がありました。それは沖縄戦当時の島田知事に関して一気に見聞を深める事が出来たのです。
「島田知事と荒井警察部長のご遺骨・遺品を現在でも熱心に探し続けている方々が地元にいる」という点を知り得ただけでもとても心豊かな気持ちになりました。
金光教那覇教会の林先生も、島田知事のご遺骨・遺品を必ずや捜し出すという信念に燃えておられますが、この話は遺骨収集奉仕活動に参加している方なら誰でも周知の通りです。
金光教の遺骨収集奉仕活動でも、今後とも島田知事と荒井警察部長のご遺骨・遺品を発見すべく、関係者と情報交換しながら今後の可能性を探っていく事になると思います。
これは遺骨収集奉仕活動に参加する私たち一人一人も、大恩ある島田知事と荒井警察部長の理解を深める事にもつながり、その事が結果として、両氏のご恩に報いる道につながると確信するものです。