管理人プロフィール

サイト管理人の写真

北アルプス縦走 平成4年(1992年)8月 5泊6日
愛妻と共に大天井岳山頂にて

沖縄遺骨収集プロフィール

昭和60年1月、NHKテレビに沖縄で遺骨収集が行われているニュースが流れました。そのテレビ映像を印象深く見た私は、翌日NHKに問い合わせ、主催団体を照会して頂きましたところ、主催したのは、『金光教』という宗教団体である事がわかりました。

NHKから教えて頂いた番号を頼りに電話して、金光教の広報担当者に「再び遺骨収集を実施する場合は、私もぜひ参加させて下さい」と、お願いしたところ快諾して頂きまして、翌年の昭和61年1月実施予定の『第10回金光教沖縄遺骨収集奉仕』に、私は「一般参加者」として初参加させて頂く事ができました。

初参加の時、「一般参加者」は私一人でしたから、とても不安で心細い面持ちで参加したはずですが、全国から参集した金光教奉仕団員の皆様がとても優しく応接して下さいまして、そうした不安は微塵も感ずる事無く、全ての気持ちを前に向ける事が出来ました。初体験の四日間、生涯忘れ得ぬほどの鮮烈な印象を以て、密度の濃い体験が出来ました事は、今でもとても深く感謝しています。本当に有り難うございました。

昭和61年(1986年)1月、私は初めて沖縄本島南端部にある摩文仁之丘に立ちました。金光教の皆様と一緒にジャングルに入りまして、今なお野ざらしのまま放置されていた御遺骨、わけても頭蓋骨に銃弾の穴が開いていたり、黒く焼け焦げた御遺骨を発見するなど、沖縄戦の想像をはるかに超える悲惨さの実相を知る事となったのです。

アダンなどの亜熱帯植物が繁茂するジャングルの奥深く、苔むす岩肌や草木の落ち葉の陰に、そして火炎放射攻撃され壁面が真っ黒になっている壕(洞窟)の中に、一面におびただしく散乱する戦没者の遺留品と御遺骨…。初めて見る、地面に倒れ伏したままの姿勢で白骨化した御遺骨を目の当たりにし、目の前には本に書かれた文字では決して表現しきれない、不条理なる “戦争の残像” が、戦後40年経てもなお色濃く映し出されていたのです。

たった二日間のジャングル行でしたが、精神的にとても強い衝撃を受けた事を今でもはっきりと覚えています。脳裏に刻み込まれたこの映像は、悲しくもおそらく生涯消え去る事はないでしょう。その予想だにしなかった “戦争の残像の衝撃” こそが、今日まで長期にわたり遺骨収集を続ける事となった最大の動機づけになっていると思えます。

金光教による沖縄での遺骨収集奉仕活動は、昭和52年(1977年)から開始されました。これは昭和47年(1972年)沖縄返還協定により、米国から日本側に施政権が返還されて5年目の出来事でした。

沖縄返還後、大規模な組織編成による早期の着手もさることながら、実施規模に即して組織を改編しながら、今日まで長期にわたり継続実施されているのは驚嘆に値します。

そして何よりも収集された御遺骨への配慮、すなわち心を込めて御遺骨を清掃する「お清め作業」に心を尽くす姿はとても慈愛に満ちたものであり、また当初からの揺るぎない御遺骨への応接と収骨指針は、声を大にして賞賛したいくらい素晴らしいものがあります。

また奉仕活動が社会的に過度に露出しないように配慮している点も含めて、個人的には「金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」の取り組み姿勢は、遺骨収集ボランティア活動の鏡として、高く評価されるべきものであると考えています。

「沖縄の地から一片の御遺骨も残さず収集しなければ、沖縄の戦後はない」との歴代団長の願いを、幾多の参加者もまた我が願いとして今日まで取り組んでまいりました。金光教による沖縄の戦野から収集された御遺骨は、今日までの集計で860余柱にのぼりますが、御遺骨と同時に収集された遺留品、例えば認識票や印鑑、飯ごうの蓋、万年筆等に刻み込まれた氏名から、所属部隊や故郷で待つ御遺族の所在が判明したケースもまた、収骨数に比例するかのようにかなりの数にのぼります。

私が初参加した昭和61年の第10回の沖縄遺骨収集奉仕活動でも、6点の記名遺品が発見されまして、そのうち3点について御遺族の元へお届けする事が出来ました。そして御遺骨一柱も氏名が特定され、海を渡り故郷へ帰りまして、奥様の胸にしっかりと抱かれました。

戦没者御遺骨の帰還、そして印鑑や万年筆、石けん箱等の記名遺品を御遺族にお渡しする際は、涙涙の会見となるケースが多いと聞いておりますし、戦没者御遺骨の帰還、又は戦没者遺品が帰ってきたという事で、改めて法要を営んだという御遺族もいますし、御遺族自身が、以降金光教の遺骨収集に参加し続けたという方もいました。

この様な沖縄で非業の死を遂げた戦没者の形見ともいえる、かけがえのない記名遺品を、数多く御遺族の元へお届けする事が出来たのもまた、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動のとても有意な成果であったと言えるでしょう。

金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、二日目の調査収集作業終了後に実施される「沖縄全戦没者之霊 現地慰霊祭」は、第一回の開始当初から変わらず実施されていますが、とても心のこもった慰霊祭であり、戦野で誰にも看取られず無念の思いで非業の死を遂げられた戦没者の方々も、きっとこの日を以て心安らかな日々を送られるに違いありません。

【金光教沖縄遺骨収集奉仕】担当組織変遷について

沖縄でも、年月の経過と共に発見・収集される御遺骨が減少している事から、金光教では遺骨収集参加者の募集規模の変更を伴う担当組織の改編が、これまでに何度か実施されましたが、参加者数が400名を超えるなど、金光教の全教的に最も大規模に実施された期間の担当組織である『金光教沖縄遺骨収集運営委員会』は、平成14年(2002年)の「第26回金光教沖縄遺骨収集奉仕」をもって解散されました。

その結果として平成15年(2003年)からは、沖縄県那覇市にある金光教那覇教会が主催する体制で、運営が引き継がれ沖縄での遺骨収集奉仕活動が継続されています。

実施に際しては、参加者自ら宿泊施設や交通機関を手配し、沖縄県の摩文仁之丘を集合・解散ポイントとして指定するなど、「現地集合・現地解散方式」で担当組織に過度に負担がかからないやり方で、毎年2月、土曜・日曜に合わせて二日間調査・収集作業が実施されています。

金光教による沖縄遺骨収集は、平成28年の第43回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で終了しました。

管理人プロフィール

名 前: 中澤 修平
住 所: 埼玉県ふじみ野市 (都心から40分程の郊外で緑豊かな地域です)
出身地: 群馬県沼田市 (上毛三山赤城山の北側にあり天狗で有名な町です)

農家から借りた50坪ほどの畑で家庭菜園をやっています。
家庭菜園のある場所は埼玉県です。平成2年結婚を機に埼玉県に移り住んだことから、近所の畑を借りて家庭菜園レベルでの野菜栽培を開始し、現在も有機無農薬栽培にて、四季折々の野菜栽培を楽しんでいます。春から秋までの野菜栽培シーズンには、栽培の様子をサイト内「菜園観察日記」に書いていますからご覧下さいませ。(^o^)

遺骨収集ボランティア活動をしています。海外での活動は私には敷居が高いので、沖縄県の南部戦跡国定公園内の、主に「摩文仁之丘」等を含む海岸線一帯で遺骨収集活動を展開しています。私は昭和61年1月から金光教が主催する遺骨収集に参加していてましたが、平成28年に金光教の遺骨収集が終了したこともあり、現在は戦没者慰霊の志を同じくする人たちが集い、冬期を中心に遺骨収集を実施しています。遺骨収集は一般的にはハブが冬眠している冬の間に実施されます。

今は故障であまり走れませんが、昔はランナーでした~。 ホントだよ。かつて泣く子も黙る超シリアスランナーでしたから、マラソン大会での入賞を狙ったり、自己記録更新を目指して力走したり、また視覚障害者ランナーの伴走にも取り組み、視覚障害者ランナー共にゴールを目指したのも懐かしい思い出となっています。視覚障害者ランナーの伴走についての、技術的な解説文を掲載していますから是非ご覧下さいませ。

覇権の喪失途上にある米国は、東アジアをはじめ世界のどの地域の安定をも望んでいない。大陸間及び諸地域間の仲違いと不安定化こそが、覇権の延命かつ米国の国益となるからだ。日本は戦後一貫して、かつ現在でもアメリカの属国の地位を甘受していますが、シナの台頭や朝鮮半島情勢の不安定化など、東アジアを含む地政学的大変動の渦中にあって、今こそ主体的な国防態勢を構築し、外交や防衛面での自主独立を達成しなければなりません。

若い頃、空を飛ぶパラグライダーに夢中になっていた時期がありました。
写真が少しあります、その写真はこちら

PAGE TOP