遺骨収集の寄稿文集

平成17年(2005年)
(財)モラロジー研究所 野村隆紹氏寄稿

随想「硫黄島 渡航記」-前編-

今年は日露戦勝100周年であると同時に、大東亜戦争の敗戦60周年という節目の年。現在の平和と繁栄は、先人たちの辛く悲しい多大なる犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない、と常々先輩から教えられてきた。

2月23日、私は東京の南1250km南海の離島、硫黄島の摺鉢山(すりばちやま)に立っていた。10年来の望みでありながら渡航手段が自衛隊機のみであり、民間人は殆んど行くことができないとされている玉砕の地「硫黄島」に、思いがけないきっかけで訪れることができた。

当欄をお借りし、そこで私が見たもの、感じたもの、そして知り得たものを数回に分けてお伝えしてみたい。

<硫黄島の闘いとは>

硫黄島 60年前の昭和20年2月19日、日本本土侵攻をめざして太平洋を北上する米軍は、この小島を戦略上の重要な拠点と考え、強力な海軍、空軍の支援の下に米国海兵隊による上陸作戦が敢行された。

2月23日とは、硫黄島の唯一の高地摺鉢山(169m)の頂上に米海兵隊員が星条旗を押し立てた日である。

ワシントン近郊のアーリントン国立墓地に建つ「硫黄島メモリアル」として有名なブロンズ像は、この摺鉢山においてAP通信の従軍特派員ジョー・ローゼンソールによって撮影された写真に基づくもので、アメリカにとって太平洋戦争を象徴する重要なシーンなのである。

なぜなら、硫黄島での闘いは世界戦史上例をみない、戦勝国の被害(米、戦傷死者28,686名)が敗戦国(日本、戦傷死者20,933名)を上回るほど、苦戦を強いられた戦いであったからである。

硫黄島一方、硫黄島で闘った日本兵士たちは、勝つどころか、生還の望みもない中、自分たちの抵抗が少しでも本土空襲を妨害し、本土決戦を遅らせることになると信じ、食料も水も不十分な灼熱地獄ともいえる地下壕陣地において最期まで闘い抜いたのである。

実際、米軍が5日で陥落するとした硫黄島で1ヶ月以上にもおよぶ日本兵士の勇猛果敢な闘いぶりによって、米軍はその後の作戦変更を余儀なくされ、本土への空襲も激減させた。

換言すれば、自分たちの生命と引き替えに、多くの日本国民を空襲から救った1万9900柱にも及ぶ硫黄島の英霊、人柱によって現在があるといっても過言ではあるまい。

60年後の現代を生きる我々青年に課せられた義務は、彼らの霊を衷心から弔うと共に、彼らの殉じた志と大義を高い次元で受け留め、現世をより善きものとして次の世代に継承し発展させることである、と私は信じている。

<いざ、硫黄島へ>

硫黄島 2月23日早朝、私は埼玉県の入間基地より航空自衛隊C-1輸送機に乗り込んだ。民間の航空とは違い窓もほとんど無く、外の景色など全く見えない座席である。座席といっても、厚い布と鉄パイプで作られた3人がけの簡単なシート。それが通勤電車の様に胴体側面にずらっと並んでいるだけで実に頼りない椅子である。進行方向に対して横になって飛行機に乗る初めての経験でもあった。

もちろん気の利いた機内サービスなどは一切なし。すさまじい爆音に、隣の人との会話もままならず、エンジンから出る油臭い匂いのせいで持参した資料を読むにも気持ちが悪くなってしまうほどであった。

硫黄島8時30分に入間基地を離陸してから約2時間、念願であった「硫黄島」に私は降り立った。

南海の眩しい日差し、あまりの暑さにまずは面食らう。2月だというのに外気温は約30度、出かけたときの本土の雪化粧が恋しくさえ思える暑さであった。

四方は見渡す限り太平洋の大海原に囲まれ、雲ひとつない抜けるような青空。

かつて壮絶な闘いが繰り広げられた玉砕の島「硫黄島」が、いまは嘘のようにただひっそりと静まり返り、かすかに波音だけが鳴り響いていた。

到着後、硫黄島基地司令と挨拶、しばし説明を受けた後、自衛官の案内で天山台地にある日本戦没将兵慰霊碑へ。そこで英霊に対して衷心からの感謝と御冥福をお祈りし、私は父親仕込みの「正信念仏偈」を読経させていただいた。慰霊碑に手を合わせ、戦禍に散った人々に思いを馳せる中で、「硫黄島に来たのだ」という実感が沸々と湧いてきた。

一旦宿舎に戻った後、島内巡拝。以前述べた「硫黄島戦40周年記念慰霊碑」や栗林忠道陸軍中将の司令壕、西戦車隊長戦死の地、また数々の地下壕やトーチカで手を合わせ、お線香を焚かせていただいた。

そして、60年前の同日、島の周り全てを敵艦に囲まれ、1発大砲を放つと1000発の砲弾が返ってきたとさえいわれる、あの激烈な戦闘があった摺鉢山の頂上に立ち黙祷、慰霊鎮魂の祈りを捧げさせていただいた。

一周するのに車なら1時間とかからない小さな島。しかし、この島には未だ1万人以上の英霊が放置されているという。いま立つ足元にもまだ遺骨があるかもしれない、絶対に踏みつけてはならじと、心なしか歩みも慎重に。やがて夕方、巡礼を終え宿舎に戻って来た。

そもそも今回の渡航は、厚生労働省の遺骨収集団の末席に、ある方の計らいにより2泊3日の日程で特別に加えていただいたものである。翌日からの2日間、塹壕にもぐり実際に遺骨収集をさせていただいた体験は次号をお読みいただきたい。

それは英霊の御遺骨を手のひらにお載せしたその瞬間、敗戦を境に戦前と戦後を分けた、いわゆる「断絶史観」とでも呼ぶべきものが一瞬にして消滅し、歴史というものが迷いも無くピシャッと繋がったような不思議な体感でもあった。

随想「硫黄島 渡航記」-中編-

60年前、日米合わせて2万6721名の戦死者を出した激烈な戦闘が終わり硫黄島を陥落した米軍は、自国兵の亡骸をすべて回収し本国に持ち帰り埋葬。

一方、日本兵士の戦死者1万9900名はといえば、地上で倒れた兵士の遺体は共同墓地に埋葬したとの記録もあるそうだが、御遺骨はおろか、その墓地すら未だに発見されていない。

地下壕で抵抗を続ける日本軍に手を焼いた米兵は、火炎放射器や爆薬等で、一つ一つ徹底的に壕を攻撃。火炎放射器の届かない地下壕には、入口から黄リンやガソリンを流し込み、点火して焼き尽くしたり、入口を塞いで生き埋めにしたという。

暗い地下壕で戦死した日本兵士の多くは陽を見ることなく土に埋もれ、御遺骨が収集されたのは約8千柱。つまり1万2千名近くの英霊が未だ本土に還れぬままとなっているのだ。

<想像を絶する地下壕>

硫黄島滞在2日目、厚生労働省の担当官による指示に基づき、「遺族会」や旧島民で組織する「硫黄島協会」の方々と共に、いよいよ御遺骨の収集作業に臨んだ。

私が遺骨収集をさせていただくことになった「独立歩兵第312大隊壕」は、地下30メートルを何層にもわたって岩を掘り抜き造られた巨大地下要塞である。

入口を覆っていた土砂をよけると60年前の姿がそのまま残っていた。腰をかがめなくては通れない高さ、大人がすれ違うのがやっとという幅の通路が幾重にも張り巡らされている。

硫黄島 懐中電灯片手に私は地下20メートル地点までしか行くことが出来なかったが、そこですでに気温60度。

じっとしているだけで汗がダラダラと流れ落ちる正に灼熱地獄。地熱が高く蛇は生息していないというのが私にとって救いであったが、狭くて真っ暗、息苦しい、こんなところで闘っていたのかと汗に涙が混じる思いであった。

こうした壕が島内のいたる所に点在し、その総延長はわかっているだけで18キロにも及ぶという。

当時地下壕を掘るのは空襲の合間や夜間。当然、現在のような便利な重機があるわけではなく、さらに、掘った土砂を入口付近に捨てると偵察機に壕の場所を教えるようなことになるので、夜間に海岸まで捨てに行くという、兵士の手作業で掘られたそうである。

大変な重労働。灼熱地獄の中、その作業は筆舌に尽くしがたい苦難であったことだろう。数ヶ月間に渡り地下壕を掘り、ここに立てこもって生活し、闘い続けた兵士たちの苦労は、戦争を知らない私には想像もつかない。

しかし、興味深い話しを遺族会の方から伺うことができた。米軍による硫黄島上陸作戦は2月19日に開始されたわけだが、その時、日本兵士はどう思ったのかというと、これから起こる戦闘に意気を燃やす気持ちでもなく、むろん、闘うことへの恐怖感でもなく、ただ「これでやっとこのつらい壕掘りから解放される。本懐を遂げて死ねる。」だったそうである。

<英霊の御遺骨>

そういう地下壕にもぐり、私は入口付近から熊手片手に掘り始めた。

どこに何が埋まっているかわからない。慎重に土をかきわけていくと、すぐに土ではない何かに当たった。軍足だろうか、サンダルのようにも見える靴が出てきた。まぎれもなく日本兵士の遺品である。早速の成果に意気が上がった私は、熊手を持つ手もいっそう力強く、さらに奥へと掘り進んでいった。

硫黄島 わずか数十センチ先のところで今度は箸箱が出てきた。中には使われていた箸、裏には持ち主の名前らしき文字が刻まれていた。

これに驚く間もなく、次は弾が入ったままの鉄砲、次は手榴弾、風化してよく分からない手帳のようなものなど、次から次へと遺品が出てくる。

その様子を見ていた遺骨収集団の長老が「そこには英霊が眠っていらっしゃる」と私に諭すように大声で言われた。思わず胸が熱くなり、なお念入りに土を指先で撫でるように探していく。

しかし、御遺骨らしきものは見当たらない。地熱のせいで骨が溶けてしまったのだろうか、持ち主を失った遺品だけが、確かにそこに人間が存在していた証として埋まっているだけであった。

空気の濃い出口方向を頭に何体もの英霊がこの辺りの壕で発見されている。ここは摺鉢山の麓、一人も生きては還れなかった隊だった、と長老が教えてくれた。

入口を塞がれ酸欠状態になったのか、ガソリンを流し込まれて焼き殺しにされたのか分からない。しかし確かに60年前、ここに戦闘で散った英霊が存在していた事実を目のあたりにした私は、いつしか言葉を忘れ、さらに汗だくになりなら、ただ黙々と壕の中を掘り進んだ。

すると、ついに御遺骨を発見。それは小さい破片ではあったが、まぎれもなく人骨である。丁重に掘り出した御遺骨を手のひらに戴き、しばし茫然と見つめ、沈思黙考していた私は、奇妙な感情がわいてくるのを覚えた。

生きていれば豊かで明るい多様な可能性を秘めていた若き兵士たちの人生が、開花を待たず道半ばにして無残に断たれてしまった正にその現場である。

同じ空間に居合わせている自分の心耳に、60年の歳月を経て、今なお後世を護らんとする彼らの静かな祈りの声が、生死を超え吾が魂にしっかりと届いてくるのであった。

硫黄島 収集団の一人が以前発見した御遺骨は、壁に寄りかかって立ち、鉄砲を構えたままだったという。

彼らにとって戦争はまだ終わっていない。英霊が60年間、絶命してもなお闘い続ける意味とはなんであるのかと想起し、また、若き兵士たちの御遺骨を手に、同じ若者として自らの生き様を反省せざるを得ない2日目であった。

その夜、宿舎の安置所に施された祭壇で、収集した御遺骨に手を合わせて読経。そこで私は一つの決意を固めていた。

随想「硫黄島 渡航記」-後編-

硫黄島滞在最終日、午前中の地下壕での遺骨収集を残すのみとなった私は、何人かに言われた「石には霊が宿る、持って帰ると霊までつれて来ることになるから…」という言葉を思い出していた。多分その後には「持ち帰らないように!」と続いていたはずだが。

硫黄島 私は地下壕で手にした石をしっかりと握り締め、未だ探し得ぬ英霊たちの「掘り出して連れて帰ってくれ」との叫びを感じながらも、その場所がわからずに午後には帰らなくてはならない焦りと無念さから、「霊が石に宿れるというのなら英霊よ、この石にこそ宿ってくれ。

いや自分の体に憑くだけついてくれ、きっと日本に連れて帰るから」と魂の対話を繰り返し、数個の石を前夜に用意していた袋に納め懐中に忍ばせた。

午後、天山慰霊碑に参拝後、3日間の日程を終え硫黄島を後にした。入間基地へ向かう自衛隊輸送機の中でも、「しっかりとついて来てください」とひたすら祈りながら。

2月25日、新たに雪化粧をした本土に無事到着。帰宅する電車の中、普段と何ら変わらない人混みを前にしながら私は「60年前、あの空を飛んで戦地に行かれた若き兵士たち。それを黙って見送られた家族の思いは如何ばかりであったか」と、人目を気にするゆとりも無く、涙が込み上げて来た。

硫黄島 翌26日土曜日、私は急遽北海道の実家に帰省することにした。自分の里帰りが目的ではなく、羽田から帯広まで東日本を縦断する機上から、硫黄島から連れ帰った英霊たちを里帰りさせたいと思ったからである。

飛行機の窓外をのぞくと、茨城、福島、宮城、岩手、青森と通りすぎていく。その道すがら、連れて帰った英霊たちに、「あなたたちの故郷にどうぞ降りてください。」「きっと家族のもとへお帰りください。」と祈り続けた。

北海道に着き、実家に一泊して東京に戻って来た。けれどもまだ気持ちがおさまらない。

西日本に故郷がある英霊たちをほっておくわけにはいかない。ここまできたらもう時間やお金のことなど言っていられない。いてもたてもいられなくなり、翌日鹿児島行きの飛行機に飛び乗り、中部、近畿、四国、九州と、英霊たちを故郷に連れ帰り、鹿児島空港に到着。

空港から一歩も出ることなく、東京にとんぼ返りをした。それは当初から決めていた行動ではなく、硫黄島でのあの夜、御遺骨を前にしての私の決意、そして、後世に生きる日本人を信じ、困難な状況であったにもかかわらず、国の為、故郷の為、父母兄弟や家族、恋人の為、自らの命を捧げることに悔いはないと散った英霊たちの勇気と気迫に心揺さぶられた、未来を生きる若者の一人として、私のできるせめてもの供養の行動であった。

<思いは伝わるもの>

この体験を自分だけのものにしてはならない。書物では到底感じることのできない衝撃を同志にも感じてもらいたい。そして何より硫黄島にはまだ少なくとも1万2000柱以上の英霊が土の中で眠り続けている。

「青年ネット」の仲間で何かできないものか。硫黄島を後にして以来ずっと考えていた私の思いが、ある電話をきっかけに急速に現実のものとなった。

これも不思議なタイミングであった。思いは伝わるものなのか。羽田で北海道行きのフライト待ち、あと15分もすれば飛行機に乗るため電源を切ってしまう携帯に、めったに電話をくれたことのない九州の友人K君から電話があった。

青年活動に関する問い合わせであったが、用件の済んだ後、前日まで硫黄島に居たこと、そこでの体験等々を短い時間ではあったが、熱くなっていた自分の思いの一端を伝えた。

彼は全面的に共感してくれたうえで、「そういう体験こそ、青年ネットのメンバーにぜひ伝えて欲しい。」「私も硫黄島に関しては人一倍思い入れがある…、出来ることなら、何としても私も行きたい。」とだんだんとテンションがあがって来た。

私はたいしたあてもないのに彼の情熱に再点火され、「それじゃ、何とか行けるようにするから」と何故だか約束をしてしまった。

数日後、今回の渡航を通して知り合った、厚生労働省の遺骨収集事業に長年参加している「JYMA」という団体を訪ねて懇願。その団体の理事長とも改めてお会いし、結果、「モラロジーの青年であれば・・・」との快諾をいただくことが出来た。

彼の情熱が私の行動を掻き立てたのである。そしてその第1号として、まさに今、熱き九州男児のK君は今月13日までの2週間の日程で、硫黄島での遺骨収集にあたっている。

<英霊に恥じない日本を>

戦後の偏重教育により、戦前と戦後を分ける断絶史観を根底に、日本人が戦争を思い起こすとき、ある種の忌避感、あるいは後ろめたさを感じることが多い。「あのときの日本人はどうかしていた。あの頃の日本人といまの日本人は違う」と、歴史観の洗脳にあっているのではないだろうか。

硫黄島 そうであるならば、とりわけ次代を担う若者には是非、この遺骨収集を体験していただきたい。 硫黄島をはじめ、シベリアや沖縄にも英霊はまだまだ眠っている。その御遺骨を手に懐いたらきっと、彼らの静かな祈りの声が、生死を超えて伝わってくるはずである。

後世の日本人、日本の未来のために死んでいった彼らに、「あなたたちはなんで戦争なんかしたんだ」と誰が言えるだろうか。今それだけ高潔な生き方をしている日本人が果たしているのだろうか。

もちろん正しい歴史教育のはたす役割も重要である。しかし、実際に遺骨を手にしたら、私が抱いたような気持ちにならない日本人はいないであろうし、万巻の書物よりも体験は重く、どんな文献も言葉もいらない実感として理解できるはずと思うからである。

鹿児島から帰りの飛行機の中で、一仕事やり終えた感慨にふけりながら、私は次のようなことを考えていた。「60年前に、祖国のために闘った兵士たちが霊となって故郷に帰ったけれど、果たして本当にこれでよかったのか。

60年後の未来を見た彼らが、『こんな日本をつくるために俺たちは命をかけたのか』と思いはしないだろうか。」「中国・韓国の機嫌を伺う官僚、政治家たち。日本人でありながら反日的な言動をとる在日日本人がうごめく現代の日本」。

いまを生きている日本人として、彼らに「これがあなたたちの夢見た日本の未来です」と胸を張って言えるよう、身近で小さなことからでも、英霊たちに恥じない生き方をしなければならないと改めて決意した次第である。

PAGE TOP