遺骨収集参加の経緯
私は、現在沖縄本島南端にある「沖縄戦跡国定公園」に指定されている地域での、大東亜戦争末期に悲惨な地上戦が展開され、軍民共々戦闘や掃討戦の犠牲となられた戦没者の遺骨収集奉仕活動に、昭和61年(1986年)から参加していますが、このコーナーでは、私が思いもよらず遺骨収集ボランティア活動に参加する事となった経緯を説明させて頂きます。
昭和60年(1985年)1月、ある日の夜9時…。
この時私は独身でした。いつものように一人寂しく夕食を食べ終えた後、テレビの前に足を伸ばしたりして、くつろいだ姿で座っていました。食後はいつもNHKの『ニュースセンター9時』のニュース報道をチェックするのが毎日の日課だったのです。
この日も次々と新たなニュースが流れる中で、映像と共に「沖縄で遺骨収集が行われました…。」という意外な言葉をアナウンサーが語り始めたのです。私は放映されている映像を見続けてはいましたが、最初は何の話なのか良く理解できませんでした。実際にあまりにも現実離れした話であり、ナレーターの語る言葉もすぐに頭の中に入って来ませんでした。
昭和60年(1985年)といえば戦後すでに40年経過しており、バブル景気の気配が漂いだした頃でもあります。
サラリーマンの給料はもちろん右肩上がり、そして不動産や株などの債券も右肩上がり、キャバレーは連日満員御礼 (^^;)。 イケイケドンドンの景気の良い話が飛び交い始めるなど、平和ボケの浮かれた話が世を席巻しつつある年代だったのです。
マイカーやマイホームなど未来への夢と希望を膨らませる、明るい話題が世の中を覆い尽くしており、脳天気な思考に慣れきっている頭は、この「遺骨収集」という後ろ向きの話題に、すぐに切り換えることが出来なかったようです。"なぜ今頃遺骨収集なのかな…?" と首をかしげ、そして "何十年も前の戦争の遺骨がまだ出てくるの…?" と、私は首をかしげるばかりでした。
映像には黄色いヘルメットを被った幾人もの人達が、無心に御遺骨を収集していました。作業している場所は洞窟の様な雰囲気です、懐中電灯などで照らしながら作業を進めています。そして、確かにアメ色をした骨らしき棒状の物が出ていますし、かなりのボリュームです。
座椅子で足を伸ばし、寝ているような姿勢でテレビを見ていた私も、次第に自然と身体が起き上がってしまいました。そしてついには目を凝らし食い入るように見つめるようになったのです。"本当だ、遺骨に間違いない"。
テレビ画面は早々と次のニュースに移っていきましたが、私は時間が止まったように、身動きしないまましばし呆然となっていました…。
私はテレビ映像を思い起こしながら、何度も何度も映像を回想してみました。そして回想した映像を理解しようと努めましたが、なかなか映像の意味合いが掴みきれませんでした。
"どういう事なんだ。なぜいまだに遺骨があるんだ。戦争が終わって40年も経過しているというのに…。こんな話は聞いたことがないぞ…"
大東亜戦争末期、硫黄島に次いで激戦の地となった沖縄では、守備軍の必死の戦いにより軍民合わせて何万人もの人々が、戦渦に追われ或いは非業の死を余儀なくされたという悲しい現実は承知していました。
しかしながら戦後40年も経過しているのに、そして少なくとも国内である沖縄で、戦死した方々の遺骨が放っておかれているはずがないではないか…。と、ごく常識的な疑念を抱きました。
"遺骨収集が今も続けられている…???"
頭の中は私の意志に反して、自分勝手に思索を続け、「遺骨収集」という自分が体験した事のない未知の世界に思いを馳せ続けました。
遺骨収集のテレビニュースを見た以降、頭の中は混乱し結果として浅い眠りとなり、熟睡出来ずじまいで朝を迎えてしまいましたが、9時過ぎには、私の手は勝手に受話器を持ち上げていました…。NHKに電話を入れ、昨日放映された遺骨収集の映像について問い合わせをしたのです。「遺骨収集をしているニュース映像を見たのですが、可能であれば主催団体を教えて下さい」と。
問い合わせが翌日と早かった事もあり、幸いにNHKからすぐに主催団体を教えてもらう事が出来たのでした~。(^o^)
私の気持ちは、NHKに電話をしている段階ですでに、次回遺骨収集を実施する予定があれば、ぜひ一緒に参加させて頂こうと心に決めていました。そして問い合わせの結果、昨日ニュースで放映された遺骨収集実施の主催団体は、『 金光教 』という宗教教団である事が解りました。
私は、NHKからの回答を聞いて一瞬ためらってしまいました。(^^;)
主催団体は、一般的な民間ボランティア団体だとばかり思っていましたから、宗教団体であることに意外性を感じてしまったのです。と同時に、であるならば "信者であることが参加条件" という制限も十分に考えられ、参加する為のハードルは高いなと感じました。 "入信しなければ駄目かな…" などと想像してしまいました。
しかしそれら一連の心配事は、全て一人勝手の杞憂でありました。電話口で語る金光教の遺骨収集担当者は、学校の先生が生徒へ説明する時のように、実に解りやすく、そして丁寧に今回テレビ放送された奉仕活動の収骨状況や、今までの遺骨収集の取り組み、そしてこれからの予定などなど問わず語りで説明してくれました。
後に知る事となるわけですが、金光教の沖縄における遺骨収集奉仕活動は、映像の放映された時がすでに第9回目の遺骨収集だったのです。会話の流れの中で、来年開催予定の第10回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に、宜しかったら是非どうぞとのお言葉を頂きましたので、私はその開放的な雰囲気に驚きながらも、その言葉に促されるように、「遺骨収集をやった経験はありませんが、来年はぜひ参加させて下さいますようお願いします」と申しあげました。
遺骨収集は、冬の間しか実施されません。その理由は、御存知のように沖縄にはハブという毒蛇が生息しているからなのです。そのハブを含む毒蛇が冬眠している冬季でないと、遺骨収集は危険なので出来ないという事のようですね。私も蛇は大嫌いなので、ハブに出会ったらどうしようなどと思いながらも、来年の遺骨収集に参加できるという確約を得た事で、昨日からの精神的動揺は次第に収まり、交渉する事の心の緊張感も解き放たれ、なんとなく幸せな気分になりました~。
宗教教団が遺骨収集活動を主催しているという事で一瞬ながら躊躇しましたが、勇気を出して申し込んで本当に良かったと思いました。来年の「遺骨収集実施要項」が刷り上がったら、ご自宅にお送りしますよと語っていましたので、その冊子が到着するのを楽しみに待つ事にしました。
金光教沖縄遺骨収集奉仕活動主催団体から発送された封書が、7月末に我が家に到着しました。待ちに待った来年の遺骨収集実施要項と共に、今年実施された第9回沖縄遺骨収集奉仕活動をリポートした、60ページにわたり記録された冊子が同封されていました。金光教では毎年作業を終えた後、4日間の遺骨収集奉仕活動を総括するこのような立派な冊子を作成して、参加者全員に配布していたのですね。
届けられた 『声なき会話を ―第9回沖縄遺骨収集を終えて―』 には、今次収骨された柱数72柱の内訳、発見・収集された記名遺品15点の写真による詳しい解説や、三つの記名遺品がご遺族の元へ届けられた経緯、「印鑑、40年ぶりに遺族の手に」等の見出しで新聞報道された切り抜き、そして参加した大勢の人達の参加記などが網羅されており、未体験ながらこの冊子から遺骨収集に関わる多くの情報を得る事が出来ました。本当にありがとうございました。
昭和61年(1985年)1月23日。私は沖縄の南端にある、当時激戦が展開された摩文仁という南部戦跡の地に立っていました。全国から馳せ参じた参加総数453名のうちの一人としてです。摩文仁之丘は、日米による激しい戦闘が展開された艱難の大地です。事前の調査から、沖縄では軍民合わせて20万有余もの犠牲を出した事も知りました。
明日から二日間、沖縄戦で悲しくも散っていった兵士や沖縄県民の御遺骨を収集する事となります。送られてきた実施要項を何度も何度も目を通し、指定された服装と装備を購入し、沖縄と遺骨収集に関わる情報を可能な限り収集して沖縄にやってまいりましたが、何しろ初めての経験ですから、実際に収集作業が始まってみない事には今ひとつイメージが湧きません。
沖縄に到着したその日は、明日から始まる遺骨収集本番でのタイムスケジュールや収集に際しての注意事項の説明を受けました。そして翌24日沖縄のジャングルに入り、一年間待ち続けたと言える遺骨収集の調査・収集作業が始まりました。
他の大勢の人達と共に、ヘルメットを被り登山靴に履き替えてジャングルに分け入った訳ですが、実際に山野に入っての前進と御遺骨を発見してからの諸収集作業は、初体験の身にはかなりきつく堪えましたが、今思えばこの頃はまだ御遺骨が至る処に散在しているという状況だった事もあり、さすがに自分自身では御遺骨を発見することはなりませんでしたが、初体験の初日のうちから、たくさんの山野に倒れ伏した戦没者の御遺骨を見る機会に恵まれました。と同時に沖縄戦の想像を超えた激戦の実相を知る事となったのです。
山野にある御遺骨は、落ち葉などの堆積や雨や台風などによる土石の流失、逆に堆積などにより埋もれていき、年々発見するのが困難になっていきますし、御遺骨そのものも経年による腐植で滅していく運命にあります。こうした理由などにより、年々御遺骨を見つけ出す確率は低下していく事となりますが、私が初参加した昭和61年頃は、信じられないほどまだ無数に頭骨を含む完全一体と呼ぶべき御遺骨を発見する事が出来ました。
御遺骨を見つめそして収集する作業を続けながら、私の心は当時の戦争の想像を超えた悲惨さと、この屍の無念にもここに横たわらねばならなかった当時の状況に思いを馳せていました。横たわる御遺骨の多くが、戦火を逃れようと山野を逃げまどい倒れ伏して死亡した当時の状況そのままに横たわっていたものも少なくなかったのです。
二日間に渡る収集作業で集められた御遺骨は、完全一体28柱、他に頭骨38個、大腿骨82本その他の細かい骨が数え切れない程収集されるという、驚くほどの収骨が為されましたが、ベテランさんの話によれば、山野には未収骨の御遺骨はまだ無数にあるというお話でした。
正に倒れ伏した状態の御遺骨を目の当たりにし、ここには学校の教科書にはない現実の戦争の事後が色濃く映し出されていました。いや未だ現実の戦争そのものが存在するという表現の方が当たっています。細かい描写は割愛させて頂きますが、遺骨のなかには激しい戦闘の残像を色濃く残すものも少なくありませんでした。
水も食料も尽きて喉の渇きと空腹に苦しみながらの逃避行の渦中、鉄の暴風と言われたほどのすさまじい艦砲射撃や空爆に曝され、逃げ隠れた壕内の安堵もつかぬ間に、ガス弾や黄燐弾をぶち込まれ、或いは火炎放射器にあぶり焼き尽くされ無念の死を遂げた、悲痛なる "悲しみの表情" が屍に滲み出ていました…。
この屍の表す "悲しみ" をどのような言葉で表現したら良いのでしょうか…。屍の表情を表す言葉を必死に探すも、どのような言葉も当てはまるとは思えず、また語り尽くせる言葉も存在しないように思えました。作業を続けながら、次第に私は "無心になる事、素直になる事" を心がけるようになっていきました。心を静め耳を澄ませば、悲しい魂の叫びが微かに聞こえるかもしれないと思えてならなかったのです。
この屍が発する真意を、なんとしても読み取りたいという譲りがたく強い願いが、結果として長く遺骨収集を続ける動機のひとつになっていきました。
長い年月遺骨収集を継続していますと、全く御遺骨や遺品に出会うことの無いまま、その日の調査・収骨作業を撤収する事もままあります。このような結末を迎えた場合は、ガックリと肩を落としたくなる不本意な心持ちのまま作業撤収となり、参加者は口では語りませんが残念な気持ちが体全体に表出されているのが見てとれます。ある意味では御遺骨が全く発見されなかったという結末が最善の成果であり、喜ぶべき結果なのですが、それは教科書的な模範解答に過ぎません。
しかしながら遺骨収集とは、広義の意味では御遺骨を見つ出す事だけが目的ではありません。多くの戦死者が非業の死を遂げられたジャングルに分け入り、クマデで岩肌を一掻き一掻き掘り返す行為そのものが、"長く待っていたでしょう、探しに来ましたよ" との思いが込められ、参加者の鎮魂の祈りが、お坊さんの唱える念仏のように発せられジャングル内に伝播していくのだと思えてなりません。
この行為こそが遺骨収集奉仕活動の真の意義であり、そして真の慰霊と言えるものであると思え、御遺骨の発見は副次的な産物のように思えてしまう時もあるというのが率直な思いです。これは他の参加者と共有できる思いであると認識していますし、こうした尊い体験を踏まえ、長く遺骨収集を続けて一つの結論に到達したのです。
そういう事なのです。遺骨収集では必ずしも屍に出会う必要はありません。遺骨収集の本質は、"クマデを振り掻き進む行為そのものにある" と気付かせて頂きました。クマデを振り "一掻き一掻き" が念仏を唱えているようにも思えてきますし、"一掻き一掻き" が戦没者の流した汗と涙と、そして血に染まった大地を清める一助になるとも思えて来るのです。そしてもうひとつ確信出来るのは、御霊様は見つけても見つけてくれなくとも、私たちがジャングルに分け入り、探しに来てくれた事だけで喜んで下さると私には思えてなりません。
◇
御遺骨発見現場で、そして現地慰霊祭で…。
私は参加者が思いを込めて流された尊い涙を、目の前で目撃してきました。
幾多の参加者の流したこの尊い涙は、空へと上がって虹となり、きっと天国にいる御霊様へと届けられたに違いありません。
金光教では毎回遺骨収集を実施する毎に『遺骨収集実施作業報告書』とも言えるリポートを作成し、参加した方々を中心に配布される事を知りました。その冊子の中に、私も昭和61年(1985年)1月に初参加させて頂いた時に書いた感想文が参加記として掲載されましたので、私にとりましてもとても懐かしい文面ですが、初参加の時に書いた感想文を皆様に紹介してみたいと思います。
【南部戦跡に膝をつきて】 一般参加 中澤修平
昨年の1月にNHKテレビで放映されました、無心に奉仕される金光教の皆様の姿を拝見し、その崇高な行為に感動し、私も初めて参加させて頂きました。
戦争を全く知らない世代であります私にとりましても、第二次世界大戦に関する一定の知識は持ちあわせており、その悲惨さや不条理さもそれなりに解っているつもりでいます。
何処の国が悪いのか、誰が悪いのかという議論をする事の虚しさも知っています。そして、後に続く我々は、何を為すべきかもそれなりに信念として持っているつもりでいました。
しかし、死闘が展開された沖縄戦の地に立ち、当時に思いを馳せ、戦争という巨大な "暴風" の前に為す術もなく蹴散らされ、地を這う身になった人々の心情を思い、こうして御遺骨の前に膝をつくときに、何ほどの言葉をもって戦争を語る事が出来るというのでしょうか…。
私は、収集に際して "無心になる事、素直になる事" を心がけました。魂の悲しい叫びが微かに聞こえるかもしれないと思えてならなかったのです…。
皆様の不発弾やハブなどの危険もいとわず、無心にクマデを掻く姿、そして収集に際して一つの小片も残すまいとする理念。収集後の鎮魂のお祈りに心を尽くす姿をつぶさに見させて頂き、人間の深遠な尊厳や人間の素晴らしさを垣間見る思いでした。
又、かつての敵国であったアメリカの人々と、共に協力して収集作業に携わったこの経験は、戦争を無くすには何を為すべきかという問いの答えを見るに十分でありました。
沖縄戦で亡くなられた方々の鎮魂を願うことのみをもって参加させて頂きました私でありますが、結果として言葉では表せないほどの感動を体験し、他ならぬ私自身の心をも一回りも二回りも豊かにさせて頂きました。
最後に崇高な戦没者遺骨収集奉仕を、十年もの長きにわたって続けてこられた皆様の努力と信念に心から敬意を表します。
初体験の感想を書き記したこの文面を読み返してみますと、今でも当時の新鮮な感動が鮮やかに甦って来ますね。昭和61年1月の初参加の年から今年の平成16年まで、早いもので20年が経過しました。
平成16年の遺骨収集では、これまで数多く御遺骨を発見してきた私としても、一カ所の発見では最も数の多い御遺骨を見つけさせて頂きました。昭和61年頃の収骨状況と比べたら、現在は収集される御遺骨の数が激減しているといってもよい状況ではありますが、まだまだ御遺骨は山野に散在しており、少なくともあと10年以上は継続する必要があると痛感しました。
これからも長く遺骨収集作業を続けなければならないと思える事から、私が「沖縄遺骨収集奉仕活動」に関するホームページを作成し公開していこうと決意しました。日本政府および厚生労働省は、沖縄の遺骨収集は調査・収集を完了したと宣言していますが、沖縄の遺骨収集作業は未だ完了していない現況をリアルに訴えていこうと考えたのです。
沖縄の人達に共通して言えるのは、戦後はまだ終わっていないという事実と同居している現実の生活があります。沖縄本島中央部や那覇の港湾部の平坦で立地条件の良い広大な場所が、未だ米軍基地で占拠されているのはご承知の通りです。
沖縄の基地問題でさえ、解決にどれくらいの年月を待たねばならないのか想像すら出来ない状況ですが、いつの時も沖縄の地に意識を向け、これからも沖縄遺骨収集奉仕活動を通して沖縄を見つめている一人として、沖縄戦で辛酸を極めた人々の心の傷を癒しながら、沖縄で暮らす人々の今後の行く末を見守り、沖縄らしい平和な風景を取り戻せるように、より良い方策を模索しながら、沖縄を愛する多くの方々と共に、沖縄の情報を共有し続けたいと考えています。
過去の懐かしい写真を4枚ほどご紹介させて頂きます。(^o^)
昭和61年(1986年)1月、初めて遺骨収集に参加し調査初日の昼食時に、同じ班の方に写してもらいました。笑顔を作りどこかのハイキングでの昼食風景のような雰囲気ですが、ハッキリ言って午前中の調査活動だけで、すでに身体は疲れ果てていたというのが正直な気持ちです。それにしても昼食のおにぎり弁当が、本当に美味しく感じましたね~。(^o^)
初参加の時にご一緒させて頂いた、第4小隊第11班のメンバーの皆様です。二日間の遺骨捜索活動を終えたときに、記念撮影をしました。何人か私と同じように初参加の方もいらっしゃいますし、回を重ねたベテランの方も大勢いらっしゃいます。背後に茂っているのは、収穫期を迎えている沖縄特産のサトウキビです。
平成6年(1994年)1月の第18回金光教遺骨収集奉仕活動の3班メンバーです。この年で、私はすでに9回目の参加という事になります。今こうして昔の写真を見つめますと懐かしい方々ばかりですが、過去の金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で発見された石けん箱に兵士の氏名が書き記されていた事から、従軍部隊名や御遺族が判明したという事例があります。石けん箱は無事に御遺族に届けられまして、それ以降御遺族の皆様が金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加する事となり、この写真の中にもその御遺族が写されていますね。
一番左に写っているのが私ですが、服装に注目してみて下さい。遺骨収集作業では、誰もが膝や腕に切り傷・擦り傷をたくさん作りますが、それら痛い経験が生きて、この頃にはすでにジャングルでの探索に相応しい服装が完成されていましたよ。上着やズボンは厚手の生地で仕上がっており、膝にはバレー選手が使うサポーターを装着しています。地面に安心して素早く膝をつける事がメリットですが、この膝当て装着により作業性は抜群に向上しましたね。そしてふくらはぎには脚絆が巻かれています。靴は"チカタビ"ですが靴底は沢登り用のスパイクが埋め込まれているんですよ。これにより誰よりも早く岩肌を登れましたね。(笑)
平成7年(1995年)1月の第19回遺骨収集奉仕活動の班メンバーです。私も10回目の参加です。回数も二桁という事で感慨深いものがありますね。私が撮影をしたので私自身は写っていませんが、東京から参加のいつものメンバーさんとか初参加の方々もいらっしゃいます。左から二人目と五人目のご婦人は、毎年参加されていますが北海道からの参加です。この時期、北海道と沖縄では気温差が40度ぐらいある年もあるそうですよ。ヒェ~。金光教の遺骨収集奉仕活動では “常連さん” が多いのが特徴ですね。