令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月08日(水) 故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

羽田空港を定刻で飛び立った飛行機は、11時過ぎに無事に那覇空港に着陸しました。着陸態勢に入る前から窓から見える風景は雲海そのもの。「曇りの予報だが雨かも‥‥」と思いを巡らしつつ徐々に降下する飛行機は結構揺れましたが無事に着陸。例年通り南側からのアプローチでした。雲は厚いものの雨は降っていませんでした。

レンタカーを借りるなどして、待ち合わせ場所である豊見城市のショッピングセンターで、松永さん、福岡さん、豊澤さんと四人が無事合流しました。お互いに一年ぶりに元気に再会できた事を喜び合いました。一年ぶりの再会ですが、皆さんと時折連絡を取り合うせいか、再会してもとても一年ぶりとは思えません。遺骨収集奉仕活動に限らず、どの分野に於ける有志の会でも同じ方向を向いている、即ち志を同じくしするメンバーが集う場は心が躍るものです。ろそこに居るだけで心地よさを感じてしまいますよね。もしかしたら私たちは戦友なのかも。(笑)

あと数日すると摩文仁之丘にフルメンバーが集います。こうした志を同じくするメンバーと出会えた幸いに感謝すると共に、毎年こうして戦没者遺骨収集情報センターのご指導を仰ぎながら、沖縄で汗を流す事が出来る事自体にも感恩の念を抱きつつ、私達は毎年の恒例である具志八重さんのお墓参りをする為に知念方面に車を走らせました。

具志八重さんのお墓参り

令和年(2020年)1月08日/沖縄遺骨収集の様子no.1

墓園の一角にバナナの木がありました。バナナそのものはまだ青々していますから、食べ頃まではまだ待たねばなりませんが、大きな花が咲いているのにビックリして撮影した次第です。バナナの実の下に小豆色をした風呂敷のような大きなものが展開していますがガクですね。その下のホウキみたいな、刷毛みたいなものが沢山同じ方向に出でいるのが花で、間もなく開花というところでしょうか。花の付け根に今は小さな実が連なっているという訳です。そして花の下には尖ったものがありますが、これが蕾ですね。今は二段実が付いていますが、これから何段も実が付くのでしょう。(^o^)

令和年(2020年)1月08日/沖縄遺骨収集の様子no.2

サトウキビ畑の先に見える集団墓所のとある一角に、故具志八重さんは安置され眠りについています。松永さん、福岡さん、豊澤さん、そして私の四人で今年は参拝する事と相成りました。

具志八重さんは沖縄戦当時、沖縄陸軍病院に勤務しており、米須にある第三外科壕では看護婦長として負傷兵の看護に当たった方です。6月19日未明の米軍による第三外科壕に対するガス弾による馬乗り攻撃で、壕内に居た多くの女子学徒隊や陸軍病院関係者が亡くなられましたが、奇跡的に助かった数人の内のお一人でもあります。

こうした経緯もあり、具志さんは戦後自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動にも取り組まれました。そうした中で沖縄戦当時軍医見習士官として第三外科壕で勤務していた故長田紀春氏と共に、生存者の証言を集めた『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(長田紀春・具志八重編/ニライ社)を出版しました。

また松永さんにとりまして具志八重さんは、遺骨収集や平和学習を行うきっかけを作って下さったとても大切な方でもあります。松永さんが具志八重さんを今でも如何に尊敬しているか!。松永さんとの会話の中で具志八重さんの話が登場すれば、それは容易に察することができます。ここに改めて松永さんと共に具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

故具志八重さんは沖縄陸軍病院第三外科の婦長でしたが、第三外科壕内での米軍によるガス弾攻撃を受けた瞬間や、その後の生き地獄となった壕内の生々しい様子、そしてご本人の奇跡的に生還した様子などを本の中で証言しています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成4年(1992年)初版

軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還したお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で、故具志八重さんが著述された、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃の箇所を引用させて頂きます。

【ガス弾投下】

翌未明、壕入り口で男の声で「出て来なさい」と何度も呼びかけていた。皆黙って動かないでいたら、突然壕の中にガス弾が投げ込まれた。真白い煙が壕内一杯に立ちこめて息が苦しくなった。むせて咳が出てくるのを無理にこらえ、奥へ奥へと手探りで這って進んでいる間に意識を失ってしまった。気づいたのが何時間後か、何日たったのかわからなかった。あたりを見回すと今まで壕の入り口を被うていたソテツやツタ、アダン等は全部砲弾で焼き払われて禿げ、岩肌が大きな口を開け、風通しのよくなった岩の上に仰向けに倒れていた私の顔に明るい太陽がまぶしくそそいでいた。

左横を見ると、どこから入手されたのか、防毒マスクをした婦長が倒れていた。マスクの間や下腹部あたりから蛆がはいまわっているのを、ただボーッと見つめているだけだった。

沖縄の六月は小満芒種といって、無風の暑さはすさまじいほどきびしいものであるが、特に空気の全く動かない壕の中の高温多湿は想像以上で、戦死した者や生きていても負傷した傷口は腐るのが早く、死臭がわかるのか、どこから来るのか蛆がすぐはいまわってきた。

気がつくと私も左足首をねんざして立てなくなっていた。戦場での足の負傷は死を覚悟しなければいけない。皆に迷惑はかけられないと思い、婦長の傍に横になった。野原秀子看護婦が私の横で不安そうに見守ってくれていた。しばらく横になっていたが、ふと、母が疎開で別れる際に「お前一人残して行くのがつらい」と言った言葉を思い出し、「どうせ死ぬなら外の新しい空気を吸ってから死のう」と夜になるのを待ち、野原看護婦のすきをみて、重い足を引きずりながら梯子を昇り始めた。手摺は星明かりで雪のように白い。目の錯覚だと思い触ると、それは蛆であった。梯子の途中で戦死していた通信兵の屍体から湧き出たものとわかった。

その横を通り、出口に近づくと、そこには老婆の足が木の根から岩に引っかかり壕の中に逆さにつり下がっていた。死体の長い白髪より髪の毛か蛆かが落ちていくのを見ながら出口に出た。そのとたん待ち構えていたらしく機銃で右大腿部を撃たれたため、完全に歩けなくなってしまった。でも壕の後方の崖を這って降り、キビ畑の傍の溜水を腹一杯のんでキビ畑の中に隠れて、照明弾のあがるのをみながら散発的に聞こえる砲弾の音でうとうとし始めた。

【捕虜となる

夜が明けた。いきなり初めて見る赤い顔の敵兵が目前に立っていた。敵兵は負傷していることを知って治療しようとしたが断って座り続けた。間もなくトラックに他の住民と共に乗せられ、名城ビーチか瀬長の砂浜かよくわからない所へ降ろされた。

(以下省略)

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(下)」

兼城 一編著 (株)公文研 平成21年(2005年)初版

この本は題名の通り、沖縄一中鉄血勤皇隊の沖縄戦での軌跡が書き記されたもので、上下冊あり大部の本です。この本の中に具志八重さんも書かれている 「ガス弾」 についての記述がありますのでご紹介します。ガス弾が投げ込まれたという記述は沖縄戦記の中でよく登場しますが、私は長くガス弾とは毒ガスなのかそうでないのか良くわからずじまいで居ました。なかなかガス弾についての情報が得られない中で、この文章に出会い納得したので皆様にもご紹介したいです。

226ページ 「沖縄戦では米軍はガス弾を使用したといわれている。たとえば、ひめゆり学徒隊のいた第三外科壕にガス弾が撃ちこまれ、ほとんどの人が死亡した、ということはよく知られている。このガス弾について、曾野綾子氏は著書『生贄の島』のなかで、これは国際法で禁じられているイペリットやホスゲンなどの毒ガスとはちがって、現在、警察の機動隊などが使っている催涙ガスの一種ではなかったか、と述べている。この種のガスはガスの量が多ければ、空気が希薄になって呼吸ができなくなる、という。米軍は洞窟にとじこもっている日本兵を壕からいぶり出すために、このガス弾をよく使った」

と書き記されています。そうだったのか‥。と納得のいく記述ですよね。第三外科壕による米軍のガス弾攻撃で亡くなられた方々の多くが、結果として酸欠で呼吸できず亡くなられたと強く推測されますよね。特に第三外科壕の様に、ある意味縦穴のような空間では、大量に放たれたガスが壕底部に滞留し続けるという可能性が高いです。

話が少し逸れてしまいますが、米軍が沖縄戦で多用したもので、ガス弾と共にナパーム弾というのがあります。この兵器もまた過度な燃焼による空間の酸欠と、1000度を超える耐えがたい熱波によって人を殺していく兵器です。

沖縄の方で沖縄戦当時12歳だったというYさんの話を11年前になりますが聞く機会がありました。Yさんの話によりますと、「ナパーム弾」は別名「油脂爆弾」と呼び、広範囲の面積が一瞬に、そして見事に火の海になるそうです。摩文仁は岩だらけの場所ですが、その岩だらけの場所でも、ナパーム弾を投下すると長時間にわたり岩場が燃えていたといいます。

また「ナパーム弾」の超高熱の火炎を浴びると、薄い皮膚などは簡単にペロッと剥げてしまったそうです。 そして「ナパーム弾」が炸裂した一帯は、いつまでも触れないくらい岩が熱くて、一昼夜経過しないと岩の温度が下がらなかったそうですよ。

【具志八重さん死去 沖縄陸軍病院で看護婦長 93歳】

【琉球新報】平成23年3月8日

沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市出身。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷字仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で執り行われる。喪主は甥・石川悟(いしかわ・さとる)氏。

具志さんは戦前から保健師として活動。戦後も生き残った看護師、保健師、助産師の有資格者に登録を呼び掛けたり、結核患者の療養環境の整備や、母親学級の開始など焼け野原になった沖縄の保健医療行政の基盤づくりに尽力。退職後は「沖縄いのちの電話」のボランティアとしても活動した。保健師活動の一方で、戦跡の案内や自らの戦争体験を語るなど平和活動を積極的に行った。

沖縄陸軍病院第3外科で軍医として働き、戦後、具志さんと一緒に生存者の証言を集め出版した長田紀春さん(90)=那覇市=は「医療者としてたくさんの犠牲者を見てきたという戦争体験が、戦後の活動、平和運動につながっていた。長い間のご尽力に感謝したい」と話した。

県看護協会の奥平登美子会長は「看護職の育成に貢献し、離島などの駐在保健師の基礎づくりをした。温厚で誠実、統率力に優れた人で、一貫して住民の側に立ち健康福祉に尽力した人だと聞いている。ご冥福をお祈りしたい」と述べた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

【[訃報]具志八重さん死去 米軍のガス弾投下証言 93歳】

「沖縄タイムス」平成23年3月8日

沖縄戦で旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務め、戦後、戦争体験の証言などに尽力した具志八重(ぐし・やえ)さんが6日午後5時52分、肺機能低下のため那覇市内の病院で死去した。93歳。那覇市東町出身。自宅は那覇市小禄4の7の20。告別式は8日午後2時半から3時半、南城市佐敷仲伊保470の2、日本キリスト教団佐敷教会で。喪主はおい悟(さとる)氏。

1933年に県立第二高等女学校を卒業。45年、沖縄戦に動員され、旧沖縄陸軍病院の元第三外科婦長を務めた。77年保健婦を退職。戦跡の案内や戦時中に第三外科壕(糸満市伊原)で米軍によるガス弾投下の被害に遭ったことなどを証言した。82年、国連で開かれた軍縮特別総会に参加。92年には長田紀春さんと共に「閃光(せんこう)の中で―沖縄陸軍病院の証言」(ニライ社)を編集した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

戦没者遺骨収集情報センターご挨拶

私達三人は具志八重さんのお墓参りの後、戦没者遺骨収集情報センターにご挨拶する為にお伺いしました。本日から13日間ここ沖縄の摩文仁で遺骨調査・収集作業に取り組ませて頂きますので、同活動の統括部署である戦没者遺骨収集情報センターを訪ね、まずは到着のご挨拶をするのが慣例となっています。

私達メンバー数人は「南部戦跡遺骨収集会」という団体名でセンターに登録した上で活動しています。これまでの沖縄における遺骨収集について一定の評価をして頂けるようになりまして、最近はセンターからの依頼により調査や作業をお手伝いする機会を頂けるようになりました。到着早々にそうした諸作業の打ち合わせを行いました。

また遺骨収集奉仕活動に関わる手続き上の手順や事柄について変更や修正が時折行われるので、そうした変更の有無についても確認し、掌握した上で適正にルールを遵守するように努める為にも、初日に戦没者遺骨収集情報センターをお訪ねするのは必須となっています。

令和2年(2020年)1月08日/沖縄遺骨収集の様子no.3

戦没者遺骨収集情報センター前で記念撮影をしました。右から沖縄在住の松永さんです。松永さん抜きに私たちの沖縄遺骨収集は考えられません。それぐらい絶大なる力添えを頂いています。いつもありがとうございます。中央はベテランの福岡さんです。左側は同じくベテランである豊澤さんです。(^o^)

平成31年(2019年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.4

戦没者遺骨収集情報センターの内部の様子です。平和祈念公園案内所を兼ねていますから、いろんな展示品が並んでいます。注目して頂きたいのですが、写真中央右側は沖縄遺骨収集に関わるコーナーとなっています。スペース的な制約もあり狭いコーナーではありますが、密度濃く展示品や写真が掲示されていますし、インターネットや書籍では得られないリアルな沖縄遺骨収集を疑似体験できますので、平和祈念公園に来られた際はぜひ立ち寄ってみて下さいませ。

また戦没者遺骨収集情報センター事務室は同建物の右側寄りにあります。半分解放された空間ですので、所長さんをはじめ調査員の皆様が事務作業を行っているのが見えますし、お声がけが気軽にできるカウンターもあります。(^o^)

写真中央に同センターの看板が見えますね。この看板は一枚板が用いられており、設置された当時は白木の色鮮やかな看板でしたが、設置後すでに8年が経過して趣のある色合いの看板になっています。そうです。戦没者遺骨収集情報センターが設立され、すでに9年が経過したのですね。本当に歳月の経過は早いです。

当ウエブサイトでも戦没者遺骨収集情報センターが新規開設された翌年である、平成24年(2012年)2月13日の参加記記事の中でご紹介していますので、ここに改めて転載させて頂きますのでご覧下さいませ。(^o^)

【戦没者遺骨収集情報センターが開所】

「沖縄タイムス」2011年8月2日

情報センター
県は1日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄戦の遺骨収集を支援する戦没者遺骨収集情報センターの開所式を開き、本格運用を始めた。県はこれまで遺骨収集は「戦後処理の一環で国の責務」としてきた。しかし、戦争体験者の高齢化で情報収集が困難になる中、国の全額補助を受けて遺骨情報を一元化、民間団体に収骨に必要な機材の経費を補助するなど連携を強め、遺骨収集体制の構築を目指す。

センターの本格稼働により、遺骨収集ボランティア団体や県、市町村が別々に持っていた埋没壕やガマなど遺骨収集作業に関する情報をデータベース化する。

骨ボランティア収集で必要となる移動用のバスやレンタカーの借り上げ料のほか、傷害保険料、弁当代、磁気探査委託料などの一部も補助し、民間の遺骨収集を後押しする。

遺骨収集体制については戦後66年がたつ中で情報収集の難しさなどから、国や県、市町村、民間が連携した体制づくりを求める声が上がっていた。センター機能により、戦争当時使用していた埋没壕やガマなどの調査による情報収集、戦争体験者への聞き取り、現場確認や関係機関との連携も期待されている。

一方、歯や指の骨だけが見つかった場合、国がDNA鑑定を実施する意向を示したことを受けて、県は県内外の遺族のDNAデータの蓄積についても国と連携できるよう検討している。

同センターの本年度運営費約1100万円は国が全額負担し、県が財団法人県平和祈念財団に業務を委託した。現在は職員2人だが近く3人体制に拡充する。7月1日から業務を始め、情報提供がすでに3件寄せられているという。同センターへの情報提供は電話098(997)4123。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

ご紹介した沖縄タイムスの記事にもありますように、「センター機能により、戦争当時使用していた埋没壕やガマなどの調査による情報収集、戦争体験者への聞き取り、現場確認や関係機関との連携も期待されている」という点がとても重要であると思いますね。

如何でしょうか、開設で期待された初期の目的について過ぎ去った9年の歳月に思いを馳せ、関係者の皆様は使命の重さを感じつつ、成し遂げた成果を振り返り、とても感慨深いものがおありだと思います。実際に調査員の方々が自らの足で集め、そして分類され加工された沖縄遺骨収集に関わる情報は、膨大な量になると聞き及んでいます。

私達もそうした沖縄遺骨収集の推移に少なからず貢献しているという意味で、戦没者遺骨収集情報センターは文字通り沖縄における遺骨収集の最重要拠点です。ですから情報集積におけるセンター機能をより一層深める為にも、遺骨収集に携わる末端である私達メンバーが、より心を一つにして戦没者遺骨収集情報センターに集い、そしてもり立てていかねばならないと強く感じます。

私達は摩文仁に集うお客様であってはならない。
沖縄を訪れ遺骨収集奉仕活動をするだけで尊い志である事に異論はありません。しかしながら私達は洞窟や地表で遺骨収集というボランティア活動が出来ればそれで満足、というような浅いレベルの自己満足で作業を終えるというような認識であるなら、沖縄を訪れ遺骨収集奉仕活動するという団体が極めて稀少であるが故にとても残念に思います。即ち私達は遺骨収集奉仕活動に取り組むにあたり、もう少し視野を広く持ち戦没者遺骨収集情報センターが抱える仕事や使命、即ちそれらの役割の一翼を同時に担う、またそうした視点を持って取り組む、という心掛けが必要であると思うのです。

その上で一人一人が戦没者慰霊という目的意識と志をしっかり持って遺骨収集に取り組み、この艱難の大地である沖縄から、悲しくも誰にも看取られることなく亡くなられた戦没者のご遺骨を一柱でも多く収容するなど、戦没者遺骨収集情報センターと共に歩み、そしてそれが最終目標たる沖縄戦戦没者の慰霊と鎮魂に繋げられれるならば、これに勝る喜びはありません。仮にそれが実現すれば、私達の心は十全に使命を果たせたという充足感で満たされ、且つ戦没者慰霊の志が果たせたと安堵の思いを抱けるに違いありません。これこそが私達が目指す究極の立ち位置です。

何時の日か全メンバーがそうした想いに至れると信じ、近年はジャングルを歩くだけでもヨタヨタしてしまいますので、沖縄でジャングルに分け入っての活動は後数回と言った所ですが、視力の低下や筋力の低下を甘受しつつ老体に鞭を打ってこれからも頑張っていきます。戦没者遺骨収集情報センターの皆様、南部戦跡遺骨収集会の皆様、これからもよろしくお願いします。(^o^)

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