平成26年(2014年)沖縄遺骨収集奉仕活動

7月06日(日) 第43回慰霊巡拝・沖縄海域戦没者慰霊・海域平安祈願祭

昨日は11時過ぎに那覇空港に到着し、吉田さんに戦跡案内をして頂きながら、夕方ホテルに入りましたが、その間、500ミリリットル入りのドリンクを何と6本飲みました。もうビックリです。実際に突然真夏の世界にやってきた感じで、とにかく暑いですし喉が渇いてたまりませんでしたからね~。

夏の沖縄を初めて体験しましたが、私は夏の沖縄では生きていけないなと思いました。(笑)

本日の最高気温の予想は34度との事。沖縄では真夏でも33度を超える日はあまりないという話ですが、今日はその例外の日になりそうで、とても暑くなりそうですよ。

何よりも慰霊祭が行われる今日の天候が一番の心配事でした。昨日埼玉県の自宅を出る際にも、妻が「台風で慰霊祭は出来ないかもしれないよ」と脅すので、とても心配しながらの沖縄入りとなりした。妻が心配したその台風ですが、確かに南方海上には台風8号が勢力を増しながら北上を続けていました。しかしながら今朝のテレビニュースでは、台風は北上を続けているものの、渡嘉敷島への影響はまださほどでも無いという予報でしたからホッと胸をなで下ろしたところです。

実際に起床し朝5時過ぎにホテルの外に出て西の空を見上げると、雲は多いながらも晴れています。「今日一日何とか持ちそう…」という印象ですよ。あ~良かった。(^o^)(^o^)

今日は渡嘉敷島にて金光教那覇教会主催による、「第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭・海域平安祈願祭 in 渡嘉敷島」が開催されます。

本年3月5日に渡嘉敷島を含む慶良間諸島が国立公園に指定されることになりましたが、「サンゴ」に倣い3月5日に決定・公告されたと聞いております。ホント~(^^;)

林先生が渡嘉敷島で慰霊祭を催行したいと欲したのは昨年の8月「慶良間諸島が国立公園に指定される」のを知った時といいます。

このニュースを聞いた次の瞬間には、沖縄戦の渦中に慶良間諸島の海域では多くの若者が特別攻撃隊員として米艦船群に体当たり攻撃を敢行しましたが、そうした英霊は今もこの海域で当時のままの姿で鎮まっておられると思われ、この機会に慰霊祭を、そしてこの海域をお守り頂くように御願いするお祭りをさせて頂こうという願いが生まれたそうです。

それ以降、鹿児島県の知覧特攻平和会館に電話して書籍や資料を取り寄せたり、情報収集に努めるなどバックグラウンドの情報蓄積を重ね、また那覇教会主催という事で信者さんらと慰霊祭の催行準備に邁進し、ついに予定通り渡嘉敷島での慰霊祭開催の日を迎えたのです。

この参加記をご覧になっている皆様におかれましても、沖縄を守るため、日本を守るため、そして郷里の同胞や愛する家族を守るために、自らの尊い命を省みず、従容機上の人となり、敢然と敵艦船に突入し散華された特攻隊員の在りし日の面影を偲び、群青色に輝く慶良間海域にて眠り鎮まれる御霊様への慰霊の気持ちを共有して頂ければ、これほど喜ばしいことはありません。何よりも散華された特攻隊員の皆さんが喜ばれると思いますよ。(^o^)

林先生のその尊い志を知る事となった私も、早くから渡嘉敷島での慰霊祭参加を表明しておりましたので、この日が待ち遠しい一人でした。という事で、今日一日林先生を始め馳せ参じた信者さんの皆さんと一緒になって頑張るぞ~。

私が持参したカメラで、南国特有の素敵なスカイブルー色が出せるかどうかそれが唯一の心配事ですが、それはともかく、このWebページをご覧になっている皆さんに、渡嘉敷島での金光教による「第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭・海域平安祈願祭 in 渡嘉敷島」をご案内しますよ。お楽しみに~。

と言いつつ、大型台風が勢力を増しながら沖縄海域に近づいています。渡嘉敷島での慰霊祭&海域平安祈願祭は無事に開催できるのでしょうか??…。無事な開催を願いつつ、それではご一緒に渡嘉敷島にフェリーで渡ってみましょう。(^o^)

朝の散歩

朝の散歩の様子1

南国では木にランの花が宿り木のようにくっついているのを見かけますよね。もちろん自生もあるのでしょうが、人工的に着生させるには、写真の様にランの花を木に縛り付けるのですね~。この通りの全ての木にこのような措置がされていましたから、しっかり着生しランが花を咲かせたら、きっと素晴らしい景観となるそうですよ。

ところで、外気温がホテル室内と比較して低いのか、カメラのレンズが結露してしまいました。うっすらと青っぽく出ているのがその証です。レンズの温度が外気温と同じになれば、結露も消えるのでこのまま歩いて海辺に海岸に向かいます。

朝の散歩の様子2

若狭海浜公園に隣接する波之上臨海道路を歩いて進と砂浜とその先に、昨日参拝した波上宮が見えてきました。

朝の散歩の様子3

この砂浜は波の上ビーチと呼ぶそうですよ。右手奥の樹林は旭が丘公園です。この写真を撮影した時刻は、朝の6時33分でした。という事で砂浜ではラジオ体操が始まっていました。

朝の散歩の様子4

波上宮の本殿が見えますね。背後から撮影しているという事になりますが、大きな岩の上に本殿があるという印象ですが、その岩の付け根は波によりかなり浸食されていますね~。あと1万年もすると…。そこまで人類が生存していればの話ですけどね。

朝の散歩の様子5

本殿の真後ろになりましたね。大きな岩の地際をみると拝所?とおぼしきものが見えます。

朝の散歩の様子6

砂浜に降りてみました。先ほどの波上宮は右側にある海上道路から撮影したものです。この辺りでは数少ない海水浴場ですが、沖合にこんな道路構築物があると少しガッカリですね~。ところで、昼間上半身裸で海水浴をするのはヤマトンチューだとすぐ解るそうです。地元沖縄の方は、日差しがあればTシャツを着て、かつ日差しの強くない朝か夕方に海水浴をするそうですよ。今はまだ早朝の6時半だというのに、ご覧のように地元の人でしょうかね。結構海に入って泳いでいました。

朝の散歩の様子7

旭が丘公園に入ると猫ちゃんが目に付きます。おそらくいろんな人が餌をあげている可能性がありますね。

朝の散歩の様子8

人が近づいても特に怖がる様子もなく、逆にご覧のように近づいてくる猫ちゃんも居ます。

渡嘉敷島へ

渡嘉敷島へ1

朝の8時頃金光教那覇教会に参加者が集まり、複数の車に分乗して9時前には、泊港の埠頭に到着。乗船手続きを経て9時過ぎには私達も「フェリーとかしき」に乗船しました。10時に出港の予定です。ちなみに渡嘉敷島への定期船はこのフェリーの他に、「高速船マリンライナーとかしき」という船がありまして、渡嘉敷島までの乗船時間は前者が70分、後者の高速船が35分という事のようです。当然高速艇の方が料金は高いですから、所要時間との兼ね合いで選択するという事になりますね。

渡嘉敷島へ2

フェリーの客室です。祭礼の備品などは乗船した車に積み込んだので、参加者は手荷物のみで乗船しました。私達は一番先に乗船したみたいです。本日はほぼ定員に近い400人を超えるお客様が乗船されるという話を聞いています。7月の日曜日ですからね、渡嘉敷島で終日海水浴を楽しもうとする人が大勢いらっしゃるようですよ。

渡嘉敷島へ3

埠頭にある「泊埠頭ターミナルビルとまりん」という建物ですね。

渡嘉敷島へ4

大きな汽笛を鳴らした後、船体はゆっくりと接岸部から離れていきました。出港です。渡嘉敷港まで1時間10分程度の船旅らしいですよ。

渡嘉敷島へ5

左側の港外へと、ゆっくりゆっくり進みます。港に出入りする時は外のいろんな風景が見られますから、客室に居てはもったいないですよね。

渡嘉敷島へ6

高架道路は波之上臨海道路の泊大橋です。壮観ですね~。

渡嘉敷島へ7

泊港を出ましたね。

渡嘉敷島へ8

船の前を着陸態勢に入っている飛行機が飛んでいきました。

渡嘉敷島へ9

那覇空港の横を通過しています。120ミリ程度の望遠側で撮影していますから、肉眼ではもっと遠くに見えています。

渡嘉敷島へ10

那覇空港の沖合には、工事用のクレーン船が幾つも設置されていました。聞けば那覇空港第二滑走路の工事をしているのだそうです。この写真を撮影した位置が航空機の進入路となるという位置関係ですかね。

渡嘉敷島へ11

海上自衛隊の艦船が停泊していました。毎日の防衛任務ご苦労様でございます。尖閣防衛もよろしくお願いしますよ。

渡嘉敷島へ12

地平線上に前島や渡嘉敷島が見えていますね。群青色の空と海…。旅だね~。

渡嘉敷島へ13

船首展望デッキにお集まりの皆さんです。渡嘉敷島に到着しますと忙しくなりますが、今は皆さんがとてもリラックスして船旅を楽しんでいますよ。

渡嘉敷島へ14

渡嘉敷島が近づいて参りました。当初は台風の影響で海が荒れるのではないかと心配されましたが、とても穏やかな航海でした。

渡嘉敷島へ15

船首部では船員の方が着船の準備を開始しました。接岸が近いと感じさせてくれます。

渡嘉敷島へ16

渡嘉敷島の少し前にある城島を回っていくと渡嘉敷港が見えてきましたよ。屋根がオレンジ色の建物がフェリーターミナルです。

渡嘉敷島へ17

さあ接岸しますよ。船頭さんの腕の見せ所です。

渡嘉敷島へ18

ゆっくりゆっくりと接岸していきます。約1時間10分の船旅も間もなく終了です。五年ぶりの船旅でしたがとても楽しかったです。(^o^)

渡嘉敷島へ19

無事に接岸しました。私達も下船しターミナルに向かいます。

渡嘉敷島へ20

フェリーターミナルで、皆さんがこれからの行動予定を確認しています。車が準備できた段階で、慰霊祭会場に向かいます。

渡嘉敷島へ21

渡嘉敷島に渡ってみますと、思いの外大きな島であると感じます。徒歩ではとても島巡りは出来ません。多くの方が、運行されているバスを利用したり、オートバイなどのレンタバイクを利用して海水浴場などに向かうようです。渡嘉敷島は主に夏の海水浴客がメインなのかもしれません。

渡嘉敷島へ21

渡嘉敷フェリーターミナルから車で2分ぐらいでしょうか、海岸沿いに車を走らせると、慰霊祭会場である儀津海岸がありました。この場所は林先生が事前調査で訪れて、とても気に入った場所だとの事ですよ。ご覧のように渡嘉敷村役場のご協力で、テントとテーブルそして椅子等を貸与して下さいました。しかも見て下さい、すでにテントは設営済みでした。

足を組んで一からテントを設営するのと比較して、これは助かりますよ~。写真で暑さを表現は出来ませんが、現在気温は30度は超えていると思われ、とても暑いですからね。テント設営が無いというのは本当に助かると感じました。有り難うございます。

渡嘉敷島へ22

林先生をはじめ皆さんが一丸となって、道路にある車から慰霊祭備品をテントまで運んでいます。

渡嘉敷島へ23

慰霊祭会場からフェリーターミナル方面を見ています。カメラの広角側で撮影したので、実際よりも小さく建物が見えています。

渡嘉敷島へ24

海上に見える島は城島で、左側に霞んで見えるのは前島です。私のオンボロカメラでは、残念ながらスカイブルー色した素晴らしい海辺を表現しきれていませんが、南国特有の素晴らしい景観が目の前に広がっています。今日はこの慶良間諸島に散在する米艦船をめがけ、特攻攻撃を仕掛けて散華された特攻隊員の皆さんの慰霊祭を執り行います。間もなく式典の準備が整います。準備万端整いましたらお声がけさせて頂きますので、皆様お集まり下さいね。

祭壇設営開始

祭壇設営開始1

比嘉さんがテントの足を砂に埋めてテント全体を水平にするためのレベル調整をしているところです。

祭壇設営開始2

まず何より祭壇の準備ですよね。驚いたのは、祭壇を設けるテーブルを建築職人が使用する水平器を用いてキッチリ水平にするのですね。確かに傾いた祭壇は少しかっこわるい印象がします。ご覧のように水平にした二台のテーブルに白い布を載せ、祭壇の組み立てに入っています。

祭壇設営開始3

霊標の位置も定まりました。また大榊も飾られました。

祭壇設営開始4

折鶴ですがよく見て下さい。黒い模様に見える部分、実は文字なんです~。書かれている文字は人の名前で、沖縄を守るために慶良間諸島海域で米艦船めがけて突入し散華された特攻隊員1,036名全員の名前が書き込まれているのです。この一枚の紙は20センチ×20センチです。1.5センチの枡目に四人の名前を書き入れると計算上全員書き込めると確認した上で、名前書きに取り組んだそうです。

林先生は、願わくば慰霊祭会場で、招魂のために特攻戦没者1,036名の名前をお一人お一人、海に向かって大声で呼びたいと願っていました。しかしながら、炎天下での氏名読み上げは、読み上げだけで1時間程の所要時間を必要とする事から、参列者に耐えがたい負担を強いる可能性があるとして断念されたのです。現地での読み上げに代えて、お広前での招魂として、4月の終わり頃から、戦没者の所属部隊名と、各氏名1,036名の記名を三回繰り返し、お呼び出しをされたそうです。

祭壇設営開始5

細めの八垂れ40枚の弊が大榊の掛けられ、そして全特攻隊員の名前が記された折鶴が中央に飾られました。

祭壇設営開始6

少しずつ祭壇が整っていきます。先生方の手際の良さには見ていて驚くばかりです。いつも不思議に思っていたのは、野菜の盛り合わせやフルーツの盛り合わせが、すごく高く盛りつけられているんですよね~。なぜ崩れないのかいつも不思議に思っていたのですが、ご覧のように紐を使ったりして上手く積み上げているんですね。

祭壇設営開始7

祭壇以外でも皆さんがそれぞれ持ち場の仕事をこなしています。

祭壇設営開始8

写真では解りにくいのですが、皆さんもう汗だくです。予想最高気温は34度ですから、とにかく暑いの一言です。写真を通してこの暑さを感じてもらえないのが残念です。もう立っているだけで死にそうなんですから~。

祭壇設営開始9

皆さんが玉串を作成しています。

祭壇設営開始10

素晴らしいです。間もなく完成という所でしょうか。

祭壇設営開始11

後方でも急ピッチで作業が進められています。

祭壇設営開始12

祭壇が完成しました。(^o^)
高さ160センチの白木の「沖縄戦特別攻撃隊員之霊」の霊標、その前には神籬・大榊に細めの八垂れ四十枚の弊が掛けられ、その中央には先に記した特攻隊員全隊員の名前が記された折鶴が飾られています。また手前のもう一代のテーブルには、御饌御神酒をはじめ三方九台に調えられた神饌物が用意されました。そして霊標の両脇には1,036羽の折鶴とこのお祭りの為に奉納された千羽鶴が飾られています。台風の影響は微塵も感ずることなく、快晴無風という絶好のコンディションに恵まれました。予定通り13時になりますと慰霊祭が始まります。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭・沖縄海域平安祈願祭

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭

嶺井さん鳥越さんの龍笛による奏楽のなか、沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭・沖縄海域平安祈願祭式典が始まりました。
祭主 林雅信(那覇教会)、典礼・先唱役 中村 健先生(金光教山口教会)、後取・賛者 大倉真道先生(金光教四條畷教会)により仕えられました。

式 次 第
先、拝礼
次、霊前拝詞 奉唱
次、祭主 祭詞奏上
次、祭主 玉串奉奠
次、参拝者 玉串奉奠
次、祖先賛詞 奉唱
次、拝礼
祭主 挨拶
御神酒 奉納

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭1

那覇教会長林先生主導により霊前拝詞奉唱です。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭2

霊前拝詞奉唱です。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭3

霊前拝詞奉唱です。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭4

霊前拝詞の詩が海域に拡散していきます…。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭5

祭主による慰霊祭祭詞奏上が始まりました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭6

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭7

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭8

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭9

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭10

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭11

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭12

祭主が祭詞を奏上しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭13

祭詞と同じ文書が参加者に配布されていますので、目読し一緒に文面を追います。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭14

祭詞と同じ文書が参加者に配布されていますので、目読し一緒に文面を追います。

【沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭】 併せて 沖縄海域平安祈願祭 祭詞

このたび国立公園に指定されました慶良間諸島、その一つ、これの渡嘉敷島の港にほど近い砂浜、右手目前に城島が聳え立ち、左手遠くに前島があり、それら島と島との間、遙か彼方に沖縄本島を臨むことのできるこれのところを今日の仮の祭場と斎い定めて、神籬立てはやし、お招き申し上げ斎きまつり拝み奉ります。先の太平洋戦争末期、沖縄戦に特別攻撃隊員として臨まれ、沖縄海域に眠り鎮まりてあります、第45振武隊 藤井一彦之霊神様をはじめ一千三十六柱の霊神様たちの御前い、祭主 金光教那覇教会長 林雅信 謹んで申し上げます。

畏れながら、天地自然のみ働きは、今年も変わることなく、季節はうりずんから若夏へ、そして梅雨へと移り、その梅雨も上がり、陽射し厳しき盛を迎えました。春夏秋冬、このように季節は年ごとに確かにめぐり来ますが、逝きませし汝達は幾年待ちましても再び帰り来ませず、遙かに広がる大海原を美晴るかし、在りし日の思い出のみが甦り、面影のみが慕われますことは、誠に辛いことでございます。

「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」と申しますが、正に光陰矢の如く、「海の青さに空の碧」と歌われますほど、美しき天然に恵まれ、希有な歴史、優れた文化を備えたこの沖縄が戦場となり、鉄の暴風が吹き荒れ、二十五万余の貴くもかけがえのない人の命が失われ、山も河もその姿を変え、形あるものがことごとく灰と化しました沖縄戦より六十九年の年月が流れました。

顧みますと、昭和二十年三月、これの慶良間諸島を攻略した米軍は、四月一日沖縄本島への上陸を開始、歴史上かつて類なき物量もて迫る米軍との間に砲撃斬り込みの死闘が展開され、およそ二ヶ月にわたる悪戦苦闘の末、首里にありました日本軍司令部は潰れ、南部に後退を余儀なくされ、最期の拠点を摩文仁に移し、各部隊は喜屋武半島にかけて最期の戦線を収縮、その中には三万の将兵と十数万に上る沖縄県民の群れが凝縮されていました。

この沖縄戦の様相は、従軍した米記者が、「生きるために戦うもの(米軍)と、死ぬために戦うもの(日本軍)との世界史上空前絶後の大決戦」と報じておりますような壮絶悲惨なものであり、友軍また県民の一人一人が祖国の為、郷土の為あらん限りの務めを果たされまたが、物量はるかに勝る米軍の前に如何せんすべもなく、わが軍は玉砕したのであります。実に戦没者は二十五万六千余名を数え、誠に悼ましく可惜しきことの極みでございます。

さて追い詰められた日本軍は、レイテ沖海戦で敢行した、海軍による体当たり部隊「神風特別攻撃隊」を陸軍でも組織することになり、本土最南端の知覧飛行場を最前線本部基地として、万世、都城、熊本、浅間、大刀洗、台湾などの基地から飛び立ち、特別攻撃を敢行したのであります。

その始まりは三月二十六日、慶良間諸島海域に集結した米艦船群に対して行われ、参加したのは「誠第十七飛行隊」伊舎堂用久彦をはじめ十名の隊員でした。その後連日のごとく特別攻撃は敢行され、多い日は、五月二十四日の百二十五名、次いで五月二十五日の七十一名、四月十二日の五十一名、四月十六日の五十一名などその数一千三十六名に上りました。そのなか二十六歳以上が七十五名、実に九割以上が十七歳から二十五歳までの若者たちでした。

それがたとえ時代の与えた宿命であったとはいえ、わずか二十年そこそこの命の終焉に臨むにあたって、どのような思いが若者たちに去来し、いよいよその時を迎え、機上の人となり、沖縄までの飛行時間、汝達の胸にはなにがあったのでしょうか。押し量りても量れず、ただただ断腸の思いが致します。ひたすらに、お国の為にとの一途の思いであられたのでありましょう。

あの沖縄戦が終わりまして六十九年、今年三月五日、慶良間諸島は国立公園に指定されました。ここで改めて、汝達のことが思われ、畏れながら、この海域に鎮まれたままの汝達の御霊をお慰め申し上げたく思い、ささやかながら、御前に御饌御神酒をはじめみ恵みのものお供え致し、思いを同じくする者御前に集い、沖縄海域戦没者・特別攻撃隊員慰霊祭併せて沖縄海域平安祈願祭お仕え申し上げます状をなにとぞ御心も安らかに清やかに御聞き届け御受け取りくださいませ。

このようにお仕え致し改めて申し上げますことは、人々の平和への願いとは裏腹に、世界の各地で今も紛争は続いており、汝達の思いに応えるためにも、今こそ人間が「万物の霊長」と言われ、「天地の性、最も貴き者」といわれる所以を知り、人が人である真の姿に目覚め立ち返り、天地への畏敬の念を持ち、互いに助け合い支え合い、みんなが笑顔になる世界を創造して参らねばなりません。

なにとぞ汝霊神様たちには、一際安らかに、慶良間ブルーと言われる、清らかに、この上なく美しい神府にお鎮まりくださり、更なる幽世の冥福を蒙られ、遺族をはじめ関係者一同の行く先を御守りくださり、更に事別けて御願い申し上げますことは、このたび国立公園に指定されました慶良間諸島海域、更に広く沖縄海域がとこしえに平安であり、安全であり、名実ともに国立公園として弥栄えてまいりますことの上を御守りくださり、そして世界真の平和が達成され、この沖縄が、世界平和の礎の島となりますよう御導き輔いくださいますよう、玉串を捧げ奉りまして、謹んで、御願い申し上げます。

平成二十六年七月六日

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭15

那覇教会長林先生による誠心を込めた慰霊祭祭詞の奏上が終わりました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭16

渡嘉敷村村長の座間味氏が玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭17

次いで渡嘉敷村民政課課長の仲間氏が玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭18

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭19

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭20

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭21

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭22

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭23

参拝者一同が順次玉串を奉奠されました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭24

那覇教会長林先生主導により祖先賛詞の奉唱が始まりました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭25

祖先賛詞を奉唱しています。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭26

13時慰霊祭開始、そして13時35分祭典終了、所要時間は35分でした。外気最高温度34度という極めて厳しい気象状況のなか、また90歳を超えた方も参列されている中、一人の事故や怪我人も出ず、慰霊祭祭典は予ての予定通り恙なく終了しました。参列された皆様に改めて御礼申し上げます。

金光教那覇教会教会長林先生が、なにより戦没された特攻隊員の鎮魂を願っての慰霊祭でした。そして参列された皆様もまた、心を一つにしつつ哀悼の真心を込めて列席されました。繰り返しますが、この慶良間諸島海域で米艦船めがけて突入し散華された特攻隊員1,036名全ての将兵が、何よりもお喜びになられた慰霊祭祭典であったと思えてなりません。

台風接近が迫る中、こうして無事に慰霊祭開催にこぎ着けられたこと自体が奇跡なのです。きっと御霊様が強く願った故の、無事な慰霊祭開催であったと思わずにはいられません。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭27

無事に慰霊祭が終了しましたので、祭主の林先生が、渡嘉敷村村長の座間味氏、民政課課長の仲間氏、そして県内外より渡嘉敷島まで参拝下さった方々へ御礼の挨拶をしているところです。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭28

お供えされていた三本の御神酒を、村長の座間味氏、中村先生、大倉先生のお三方が、海に注ごうとしているところです。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭29

御神酒が、村長の座間味氏、中村先生、大倉先生のお三方により、海に注がれました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭30

可能であれば千羽鶴などを鐘楼流しのように海に流したいという衝動に駆られますが、昨今の環境への配慮もありますから、林先生は流す事は断念されまして、米艦船めがけて突入し散華された特攻隊員1,036名全員の名前が書き込まれている鶴一羽に紐をつけて、しばし波間に泳いでもらい最終的に紐を引き上げて回収されました。特攻隊員への鎮魂の思いが込められた、印象深いイベントでした。有り難うございました。m(_ _)m

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭31

祭典終了後、図らずも渡嘉敷村村長の座間味氏がマイクを持ちお話をされました。

沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭32

渡嘉敷村村長の座間味氏です。まず最初に本島に先立ち沖縄戦の上陸作戦があったこの島で、金光教による渡嘉敷島での慰霊祭開催に対し、感謝の意を表して下さると共に、これからも沖縄戦戦没者の慰霊と、平和への祈りを続けて下さいとのお話でした。また座間味氏ご自身も、沖縄戦開戦の時は4歳だったとの事で、当時村で起きた集団自決などを関連づけて、戦時下にあった当時の島の様子を色々と話して下さいました。有り難うございました。

【特攻隊員悼み 初の慰霊祭】 金光教那覇教会

「琉球新報」平成26年7月11日

【渡嘉敷】金光教那覇教会(林雅信会長)は6日、渡嘉敷港入り口を望む儀津海岸で、沖縄海域戦没者(沖縄戦特別攻撃隊員)慰霊祭と、沖縄海域平安祈願祭を初めて開いた。

慶良間諸島国立公園に指定されたのを機に沖縄戦時、同諸島を中心とした沖縄海域で「神風特攻隊」として戦死した1,036人の隊員の慰霊祭と併せて、慶良間諸島と沖縄海域の永久な平安、安全を願うことが目的。

慰霊祭には県内外の同会会員ら約23人のほか、村から座間味昌茂村長も参加、戦没者の御霊を慰めた。林会長は「この沖縄が世界平和の礎の島となりますよう玉串をささげます」と祭詞を読み上げた。引き続き渡嘉敷島の慰霊塔「白玉之塔」を訪れ、折り鶴をささげた。

座間味村長は「沖縄戦の地上戦が始まったこの慶良間諸島で亡くなられた御霊を慰めていただき感謝します」と礼を述べた。

参加者の大誠永盛さん(78)=北中城村=は「毎年各地域で巡回慰霊祭を行っており、渡嘉敷村では二回目、恒久平和を祈りたい」。那覇市の40代の女性は「叔父の弟が特攻隊で亡くなったので参加した」と感慨深げに語った。

「琉球新報」から転載させて頂きました

白玉之塔にて慰霊祭

白玉之塔にて慰霊祭1

林先生他祭員二名、そして県内外からの参拝者若干名により、慰霊祭会場から車で5分ほどのところにある、沖縄戦戦没者慰霊碑「白玉之塔」にて慰霊祭を開催しました。

白玉之塔にて慰霊祭2

那覇教会長林先生主導により祖先賛詞を奉唱しています。

白玉之塔にて慰霊祭3

祖先賛詞を奉唱しています。

白玉之塔にて慰霊祭4

祖先賛詞を奉唱しています。

白玉之塔にて慰霊祭5

祖先賛詞を奉唱しています。

白玉之塔にて慰霊祭6

戦没特攻隊員と同じ数の1,036羽の折鶴と、このお祭りの為に奉納された千羽鶴が奉納されました。

白玉之塔にて慰霊祭7

全特攻隊員の名前が記された折鶴も、慰霊塔の一部に安置されました。

白玉之塔にて慰霊祭8

白玉之塔が建立されている高台から見える風景です。慶良間ブルーとも呼ばれる海の色が印象的ですね。

白玉之塔にて慰霊祭9

渡嘉敷島での慰霊祭も全て終了しました。ホント見皆さんもう汗びっしょり~。祭員のお三方は更に暑そうですね~。天候に恵まれ最高の慰霊祭を執り行うことが出来ました。皆様本当におめでとうございました。

沖縄本島へ帰投

集合写真

(※写真拡大できます。)
祭員お三方の着替えも済み、県内外からの参拝者も若干の休憩を取る事が出来まして、16時発のフェリー乗船開始を待つばかりとなりました。大任を果たし終えた安堵感と共に、満面の笑みで集合写真に収まる皆さんで~す。(^o^)

皆さ~ん、今朝からの慌ただしい中での慰霊行事、本当にお疲れ様でした。90歳を超えるご高齢の方も参加している中、無事に終了したことが何より喜ばしい事ですよね。最高気温34度という厳しい暑さの中での祭典となりましたが、台風がすぐ近くまで接近しているという予報にも関わらず、天候のお陰をいただきまして、無事な慰霊祭開催となりました。皆様本当におめでとうございました~。(^o^)(^o^)(^o^)

 

沖縄本島へ1

16時の定刻通り、沖縄本島に向けフェリーが出航しました。地平線上には本島が霞んで見えます。台風が近づいていますが、ご覧のように風も無いので海面の波も穏やかそのものですね。船酔いしやすい私も、安心して乗っていられます。

沖縄本島へ2

望遠側での撮影ですが、写真中央に本島与座のレーダードームが見えますね。少し解りにくいかな。小高い丘の上に小さな白い塔のようなものが立っていますよね。

沖縄本島へ3

「高速船マリンライナーとかしき」とすれ違っています。渡嘉敷島までの乗船時間はフェリーの半分、35分という事ですから早いですよね。実際波の上をサーという感じで通り過ぎて行きました。

沖縄本島へ3-1

「高速船マリンライナーとかしき」の近撮です。船尾に発生する波しぶきが船の速さを象徴していますね。いつの日か機会があったら乗船してみたいです。

沖縄本島へ4

那覇市街が少しずつ近づいていますね。

沖縄本島へ5

那覇空港から飛行機が離陸したようです。

沖縄本島へ6

真上をものすごい轟音と共に通過していきました。

沖縄本島へ7

那覇空港のエプロンが見えてきました。

沖縄本島へ8

泊港が近づいて参りました。

沖縄本島へ9

再び波之上臨海道路の泊大橋の下をくぐります。壮観ですね~。

沖縄本島へ10

泊港港内に戻ってまいりました。フェリーも減速してゆっくりゆっくり進みます。やがてフェリーは埠頭に無事接岸し、私達も下船しました。最高気温34度という、暑くて長~~い一日、参列された皆様本当にお疲れ様でした、そしてありがとうございました。(^o^)

※サイト管理人追記
この日の渡嘉敷島へのフェリーは、往復共に波も穏やかで快適な船旅となり、結果として平穏無事に慰霊祭開催と相成りましたが、なんと翌日の7日(月曜日)は、台風8号の影響により、本島から離島へのフェリー・船便は、朝から全便欠航となったようです。

翌日の朝から全便欠航…。
たった一日の差での無事な慰霊祭開催となったのですね。
正に紙一重ですよね~。
この結末こそが、金光教の皆さんが言うところの、「お陰」「お繰り合わせ」を頂いたと思わずにはいられませんでした。本当に驚きました。

きっと沖縄特別攻撃隊員1,036名の御霊様が、大型台風の北上を遅らせ、予定通りに開催出来るよう事を運んでくださったと思えてなりませんでした。御霊様本当に有り難うございました。(^o^)

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