平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月11日(月) 朝早く自宅を出発/海軍司令部壕巡拝

ジャーン!! 今年もやってまいりました沖縄に。毎年の事ながら、飛行機から空港施設に入ってすぐ、蘭やブーゲンビレアの花が陽気に迎えてくれる。そして光が白いですよね。それに暖かな空気!!。この瞬間が「沖縄に来た 」事を、実感させてくれるのですね。

沖縄に到着して、まず最初にやる仕事!  それはコートを脱ぐこと。(笑)

米国のサブプライムローン破綻問題の影響か、我が超ミニミニ会社も影響を受けたようで、今年に入ってから仕事もあまり忙しくなく、心おきなく仕事を離れて、一週間沖縄で遺骨収集奉仕活動に取り組む事が出来そうですよ。

「財布は軽いけど、頑張って取り組んでこい!」 という神様のご配慮でしょうか~。

今年は東京出発を少し早めたので、12時前には那覇空港に到着してしまいました。空港ロビーにて『琉球新報』と『沖縄タイムス』を買い求め、空港内のレストランで新聞に目を通しながら、まず腹ごしらえをしました。

私が那覇に到着してまず最初に思うこと。それは「無事な帰還」と「初心に帰ること」の二つですね。

「無事な帰還」 は、摩文仁で危険なジャングルに入ったりしますので、責務を果たし無事に家族の元へ帰る事が出来ますように、という意味です。

特に一人でジャングルに入る日も予定していますから、事故を起こしたら関係者の方々に多大なご迷惑をお掛けしてしまいますので、事故は絶対に避けなければなりませんからね。

しっかりとした装備と共に、慎重さが第一に求められる事になります。

無事な帰還こそが、笑顔で送り出してくれた妻への、最大のお土産となりますからね。

「初心に帰ること」 は、遺骨収集に限らず何事においても言える事ですが、同じ行為を繰り返していると、その「経験」が、しらずしらずに眼球を曇らせてしまう事があるのです。

私達の思考は、居心地の良い既得の考え方に安住しがちで、「先入観」が新鮮な感性を発揮する機会を奪うことが多いのです。

「先入観」を出来るだけ排除し、"新しい発想"で物事を見る習慣をつけるようにすれば、複眼的な見方や、異次元の思考力が鍛えられる可能性が高まります。

今から24年も前ですが、昭和61年「第10回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」に参加させて頂ける事になり、初めて沖縄の南部戦跡「摩文仁之丘」に立った時の、あの新鮮で胸躍る気持ち…。

可能な限り、あの初心者たる原点に帰る事を、いつの時も目標にしています。

今日の那覇は、晴れ時々曇りといった天候で、安定しています。

今日の予定では午後3時30分に松永氏と「轟(とどろき)の壕」で待ち合わせです。その前に、時間的余裕がある事から、摩文仁に向かう前に豊見城市にある、「旧海軍司令部壕」 を巡拝していく事にしました。

私もそこは15年前に一度訪問しただけであり、久しぶりに訪ねるので身も引き締まりますね。

大田實少将と「旧海軍司令部壕」

昭和19年に入ってからの戦局は、益々日本軍の劣勢が顕著となり、各地の戦闘で敗退を続けるようになっていくという流れの中で、「南西諸島防備急速強化に関する件」の意見書が海軍大臣に送られ、4月10日に、海軍における沖縄方面根拠地隊と、第四海上護衛隊が新設されました。

一方陸軍も3月22日に、沖縄守備軍として第32軍を創設したのです。

6月には陸海軍の間で、大本営陸海軍部の「陸海軍中央協定」の、「南西諸島作戦ニ関スル現地協定」により、陸海軍が協力して沖縄を守るこ事となり、沖縄方面根拠地隊は、第32軍の指揮下に入り、地上戦闘を展開する事となったようです。

これらの重要決定は、沖縄戦が始まる一年前という事になりますね。

昭和20年1月20日、米軍の沖縄本島への上陸必至という戦況の中で、大田實(みのる)少将は佐世保海軍警備隊司令官から、日本海軍沖縄方面根拠地隊に着任されました。

大田實少将は、明治24年に生まれ、千葉県長生郡長柄町出身。かつ夫人と共に11人の子宝に恵まれる。着任時の年齢は54歳だったといいます。

米軍が上陸する1ヶ月前の2月25日には、第四海上護衛隊が切り離され、司令部は沖縄方面根拠地隊専任となり、海軍小禄飛行場を中心とした陣地を地区一帯に構築し、小禄半島の防備にあたったのです。

現在の那覇空港がある場所が、海軍小禄飛行場のゆかりの地という事になりますね。

私達が沖縄に到着する時に必ず利用する、滑走路やエプロンそしてその周縁部は、まさに日本海軍沖縄方面根拠地隊将兵が一丸となって、血みどろの戦いを強いられながらも敢闘し、また第32軍牛島満司令官の、南部への撤退命令をも固辞し玉砕した、「沖縄方面根拠地隊終焉の地」でもあったのです…。

私は戦史にあまり詳しくありませんので、沖縄での戦況を追いながら大田實少将と、「旧海軍司令部壕」の運命を論ずるのはためらわれますが、大田實少将といえば、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文ですよね。

あの有名な電文だけは、皆様にしっかりとご紹介したいと思います。

公刊戦史によれば大田實司令官の自決は6月13日午前1時となっています。

また沖縄県民への思いやりに満ちた電文は、旧防衛庁防衛研究所が所蔵している、「昭和20年6月南西諸島方面綴」によりますと、6月6日20時16分、沖縄方面根拠地隊司令部発となっているようです。

太田實司令官は、昭和20年1月20日に着任し、6月13日に自決するまでの期間。わずか5ヶ月しか沖縄に滞在しなかった事になりますね。

たった5ヶ月の在任ながら、あの慈愛に満ちた電文に鑑み、大田實司令官の人柄を抜きには考えられないでしょう。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の著者田村洋三氏は、この電文について、「人間味溢れる文章は、当時の日本軍の文書は勿論、世界の戦史にも例がない(フオ)の電報と言えよう。その原点は、これまで縷々綴ってきた太田司令官の、文・武・仁の人間性の発露であることは言うを俟たない」と語っています。

首里にある第32軍の主力部隊が南部に撤退を開始したのは昭和20年5月27日です。そして5月31日、米軍は沖縄本島上陸から二ヶ月を経て、ついに首里高地一帯を占領してしまったのです。

6月4日 早朝、米軍は小禄半島攻略に際し、攻撃準備射撃として日本軍陣地に対し、75ミリ野砲から36センチ艦砲まで4,300発を超える砲弾を撃ち込んだのです。

そして午前5時、米第6海兵師団の偵察隊は奥武山に、本隊は西小禄へ怒濤のように上陸して来ました。

大田實司令官や参謀が自決する、6月13日までの9日間の激戦の幕が開けられたのです。

同日豊見城の第74高地に司令部を置く、沖縄方面根拠地隊は、この段階に至りもはや陸軍との共同作戦は不可能と判断し、南部島尻へ撤退せず、小禄方面死守を打電したのです。

米第6海兵師団三個連隊は、那覇沖に居並ぶ米艦隊の艦砲射撃援護を受けながら多方面から進撃し、沖縄方面根拠地隊の消耗は激しく、次第に小禄半島の狭い地域に押し込められていきます。

6月6日 米軍は小禄飛行場と周辺海岸線を制圧、根拠地隊は司令部壕を中心に半径2Kmの地域に包囲され、大田實司令官は小禄地区の失陥はもはや時間の問題とし、夕方5時23分、辞世の句を織り込んだ決別電を大本営に向け発しました。

【電文】

敵を迎え撃つこと二ヶ月余、陸軍との緊密なる共同のもと、敵撃滅のためのあらゆる努力にもかかわらず戦い利にあらず。

根拠地隊は、すでに陸戦隊の精鋭四個大隊と、使用可能の火砲を陸軍の指揮下に派遣し、部隊の戦力低下はまぬがれず、加うるに敵の装備は我にまさるものあり。

ここに小官に委託されたる皇国護持の任を果たし得ざりしことを、陛下に深くお詫び申し上げる。

指揮下の部隊は帝国海軍の伝統にしたがい、勇敢に戦い、敵の砲爆撃、沖縄の山容を改めしといえども、我が将兵の奉公の念は改むるを得ざりき。

……この地にたおれる将兵の家族に深甚なる考慮を賜わらんことを願う。

我が将兵と共に、陛下の万歳を三唱し皇国の弥栄を祈る。

「身はたとえ沖縄の辺に(オ)つるとも 守り遂ぐべし大和島根は」

司令官 太田實

そして大田實司令官は、豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に、指揮所を移動した同日夜8時16分に、痛ましい犠牲を払うこととなった沖縄県民への、後世にわたる特別の配慮を真っ正面から要請した、あの心打たれる文脈の、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文を発したのです。

【「沖縄県民斯ク戦ヘリ」電文】

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ概ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下□□□風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ

所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□□ 真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ワレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ) 只管日本人トシテノご奉公ノ誇ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□□□□□□

一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄縣民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

【電報の現代語訳】

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした、頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。

県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。

「ウィキペディア(Wikipedia)」から転載させて頂きました

6月11日 米軍は午前7時30分を期して、八個大隊を動員して大攻勢を掛けてきました。この時の様子を、「見ているのも辛いほど集中砲火を浴びていた」という証言が、一方的な激しい攻撃を物語っています。

同日午後には、大田實司令官は第32軍参謀長宛に 「敵後方で攪乱、または遊撃戦をさせるため、相当数の将兵を残置しておく。これは将来のために一言申し残しておく次第である」 との文面を発信しました。

これは海軍の将兵が陣地を脱出した際に、脱走などと誤解されないようにとの配慮であったと言われています。

どこまでも、将兵の行く末をおもんぱかる司令官であったのですね。

そして同日の夜、壕への熾烈な攻撃にもはやこれまでと、第32軍牛島満司令官に最後の訣別電を発したのです。

敵戦車軍は、わが司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日午後11時30分玉砕す。
従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る

(11日夜の玉砕は思いとどまったようです)

6月12日 根拠地隊司令部壕のある74高地は米軍に占領されるに至りました。同日夜8時、最後の非常呼集があり整列した者約270名を前に、司令官や参謀が顔を揃えるなか、山田参謀が声を張り上げ、大要次のように語ったという。

司令官及び幕僚は、本日自決される。

これまで諸官と共に随分奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。

自力で行動できる者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動できぬ者は、残念ながら自決してくれ。

自力で行動できる者は、只今から自由行動を取れ。

残された傷病兵約300名も、壕内で手榴弾などにより壮絶な最後を遂げました。これ以降沖縄方面根拠地隊の電信は沈黙したのです…。

沖縄方面根拠地隊は、第32軍に抽出された兵力を除き約5,500人でしたが、うち約4,000名が小禄戦線で非業の死を遂げました。

公刊戦史によれば、大田司令官他4名の幕僚の自決は、6月13日午前1時となっています。

旧海軍司令部壕

旧海軍司令部壕1

壕入り口です。深さ30メートルほどあり105段の階段を降りていきます。この階段は旧国鉄技術陣がこの壕を発掘・修復した際に設けたもので、当時は無かったという話です。

旧海軍司令部壕2

105段の階段を降りると、水平に通路が縦横に走っていました。この司令部壕は昭和19年に日本海軍設営隊(山根部隊)により掘られたものです。

旧海軍司令部壕3

「作戦室」です。階段を降り順路に従うと部屋が最初に現れます。壁には「作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です」と書かれています。

旧海軍司令部壕4

沖縄戦当時の「配電用碍子」です。発電設備があり照明が灯されていたようです。壁面の黒々とした色もまた当時の壕内の雰囲気を想像させますね。

旧海軍司令部壕5

「幕僚室」です。壁面のこの無数の穴は、幕僚が手榴弾で自決した時にあけられたものだそうですよ。

旧海軍司令部壕6

沖縄戦当時の「発電機台」です。ここで発電機により電気を起こし、壕内に配電していたのですね。

旧海軍司令部壕7

通路のこの場所は少し狭くなっています。壁面には兵隊さん達が頑張ってツルハシで掘った跡がしっかりと見えますね。

旧海軍司令部壕8

木材を柱として埋めてあった場所です。坑道を木組みで支えた当時の様子がうかがえますね。

旧海軍司令部壕9

沖縄方面根拠地隊大田實司令官が滞在した「司令官室」です。「神州不滅」や「醜米覆滅」などの文字が見えます。「大君の御はたのもとにししてこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」(幕末の志士の和歌)も読めます。

「旧海軍司令部壕」地上部分の様子

旧海軍司令部壕10

豊見城市(とみぐすくし)にある「旧海軍司令部壕」は整備された海軍壕公園の中にあります。この高台は沖縄戦当時は「74高地」と呼ばれ、地下要塞として「旧海軍司令部壕」は掘られました。

旧海軍司令部壕11

「旧海軍司令部壕」の慰霊塔です。昭和19年12月に完成しました。総延長約450mの壕に司令官室、作戦室、幕僚室などが配置された地下要塞です。現在は、このうち275mが公開されています。この高台はその昔「火番森」と呼ばれ、船の来島をのろしで首里に告げる要所であったようです。

旧海軍司令部壕12

敢闘した参加部隊および参加艦艇の名称が記載されています。「軍艦 大和」という記載も見えます。大和も特攻艦艇として沖縄に向け出撃したのでしたね。

旧海軍司令部壕13

第74高地から北西の方向(那覇港)方面を見ています。写真左側付近、西小禄方面から米軍第6海兵師団は上陸を敢行しました。

旧海軍司令部壕14

第74高地から西南西の方向を見ています。米軍第6海兵師団は「鏡水」→「大嶺」→「具志」方面へも迂回して攻め上がってきました。

「沖縄旧海軍司令部壕の軌跡」

宮里一夫著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」

田村洋三著 光人社 平成9年(1997年)初版

上記文献を参照させていただきました ありがとうございました。

松永氏と「轟の壕」で待ち合わせ

松永氏との待ち合わせの時刻である3時半より少し前に、無事に糸満市(いとまんし)にある「轟の壕」の駐車場に到着しましたよ(^o^)。

駐車場や壕に至る50メートル程のアプローチには人影も無かった事から、松永氏は壕内でまだガイドしているものと思われますので、私も装備のうち懐中電灯だけ持って壕内に降りていきました。

壕内へ至る階段を中程まで降りたちょうどその時、壕の中からガヤガヤと若い学生達が賑やかに出てまいりました。そして最後尾についている松永氏が、「もう少し待っててね」と声を掛けてくれました。

松永氏は、壕内での「平和学習」を終えると、観光バスなどに乗り込む前に、最後の締めとして駐車場前で、5分ほど話をするのを習慣としているようです。

その話も終わりますと、学生達から拍手がわき上がり、「平和学習」は無事に終了したようですね。

学生達が観光バスに戻った後、松永氏に近づいて一年ぶりのご挨拶をしましたが、この日は女性のTさんも同行していました。聞けば、どうやらTさんは、「平和学習ガイド」を目指している方のようです。

Tさんは、片手に録音装置を手にしていましたから、現在は"勉強中"という事でしょうかね。

つまり松永氏は、平和学習ガイドの育成にも、積極的に取り組んでいらっしゃるという訳です。

書籍で沖縄戦を学ぶ事はもちろん大切ですが、実際に壕に入ったりしてリアルな体験をしながら、沖縄戦で実際に起こった出来事を聞くというのも、とても刺激的ではないでしょうか。

若い人達の心に直接的に、平和の尊さなどを刻むことが出来る可能性が高まりますので、ガイドの人達もまた世代交代を経ながら、"戦場"での意義ある「平和学習」を継続していただきたいですね。

平和に慣れきっている今こそ、また「沖縄戦を風化させない」ためにも、悲惨な体験をした沖縄の"戦場"でこそ、学習をする意義があると感じています。

「轟(とどろき)の壕」での平和学習

遺骨収集の様子

学生の皆さん「壕内に入っての体験は如何でしたでしょうか?」
「轟の壕」内部の学習を終え「君達若者が今の平和な社会を維持する努力をしてほしい」と訴える松永氏です。

摩文仁の「ゴミ放置壕」を調査

松永氏は、非常に気になっている自然壕があるというのです。

詳しく聞けばその壕は、私も昨年一緒に調査した壕なのですが、沖縄戦当時にかなりの人達が、その壕内に避難していたという地元情報があるとの事で、再度壕内の状況を調査したいという話でした。

ただ問題は私も承知していますが、壕内には大量の生活ゴミが投げ込まれているという事なのですよね~。

場所によっては生活ゴミの堆積は数メートルに上り、この放置ゴミを搬出しないことには、遺骨収集作業は手をつけることさえ出来ないのです。

この壕に流れ込む水は、摩文仁の海岸線のどこかに出ているという地元情報があるそうですが、昨年入ったときの状況では、ゴミが散乱しているため排水路口は発見出来ませんでした。

排水路口はゴミで塞がれているとみえ、大雨が降ると巨大な水瓶のように一時的になってしまう程なのです。

壕の近くの道路脇に車を止め、私たち三人は壕への最短ルートを探索しようと、以前は畑だったと思われる草生す藪を切り開き前進しました。

昨年は農家の敷地内から壕に向かいました。そして今回はその反対側の位置から壕に向かったわけですが、こちら側からの方が道路からの歩行移動距離が短く、ゴミなどを搬出する場合にも労力の軽減が計れそうです。

寄りつきの道路から壕までの直線距離は、およそ40メートル程度です。思いのほか接近しているのでラッキーでした!。しかもほぼ平坦な昔の畑地とあって、摩文仁の崖下からゴミを搬出する事を思えば、こちらはかなり効率的に作業を進められそうですよ。

このゴミ満載の自然壕は、降り口は縦穴となっており、下に降りると横にも空間が広がっています。おそらく排水路口も同じように横壁のどこかに開いていたのでしょうが、現在はゴミで埋まっていて、その部分を見ることは出来ない状況です。

縦穴部分は高さ15メートルぐらいでしょうか。20メートルは無いと思われます。ロープなどを使わなくとも降りられますので、沖縄戦当時一般市民も避難壕として、苦労することなく利用出来たと想像できますね。

壕は横にも展開していますので、直撃弾さえ浴びなければ、比較的安心して避難して居られたと思われます。

私も昨年今年と二年続けて、壕底部に降りてご遺骨の存在の可能性を探りましたが、ゴミに埋もれた部分については、全く確かめる術がありません。

松永氏は誰も手をつけていないこの壕で、遺骨収集作業を進める事を目標としているようです。また、この大量の生活ゴミをも搬出・処分して、摩文仁の霊域を清めたいという思いも、併せて強く持っていらっしゃるようです。

摩文仁にはあちこち生活ゴミや産廃ゴミが捨てられていますが、金光教那覇教会の林先生も、その現状に心を痛め、少なくとも神聖な霊域である摩文仁からは、全てのゴミを搬出したいと願われています。

ゴミの処分については、人的な大量動員と行政との連携が欠かせないわけですが、摩文仁に捨てられている生活・産廃放置ゴミが、いつの日か搬出され、「沖縄戦跡国定公園」のあるべき姿 に立ち帰る日を、関係者の一人として願わずにはいられません。

生活ゴミが大量に放置された摩文仁の自然壕

遺骨収集の様子1

壕の開口部を見ています。開口部はかなり広いのですが、周囲は雑木林に覆われこのようにカモフラージュされています。

遺骨収集の様子2

カメラで撮影した位置あたりから投げ込まれたと思われる大量の生活ゴミです。この壕は横付けできる道路から30メートルほどの所にあり、目立たなくて捨てやすかったのかな?。

遺骨収集の様子3

ごらんのようにペットボトル・洗剤容器・発泡トレイ・タイヤ…。紛れもなく生活ゴミです。浴槽やドアなど大型のゴミもかなりありました。

とにかく摩文仁には放置ゴミが至る所にありますよね。

「遺骨収集が収束したら、こんどはゴミ収集だ!!」
これが私たちの合い言葉になりそうですよ~。

沖縄本島南端の摩文仁は、多くの血が染みこんだ悲劇の場所であり、よって後世の私たちが末永く大切に見守っていかなければならない、鎮魂と祈りの場であるはずです。

本当に心から悲しむべき事態ですよ!。

現況の摩文仁の姿は、私たちの心のありようを描き出す鏡であるとも言えるでしょう。

多くの戦没者の苦悩と汗と涙と血が染みこんだこの艱難の大地が、こっそり不法投棄された生活ゴミで溢れかえっているという現状は、享楽にふけり感恩報謝の心を忘れた、流浪の民の仕業だと言われても返す言葉もないでしょう…。

国立戦没者墓園

5時をまわり、松永氏とTさんとは流れ解散となり、日没までのわずかに残された時間を利用して、摩文仁之丘(まぶにのおか)にある国立戦没者墓苑を訪ねました。

夕刻が迫ってきているので時間的にみて、生花を売っているおばちゃん達と会えるかなと心配しながら駐車場に向かいましたが、幸い帰り支度をしているおばちゃん達がまだ居たので、国立戦没者墓苑に手向ける生花を購入する事が出来ましたよ(^o^)。

この時刻ともなるとさすがに賑やかな修学旅行生も居なくて、公園の広さがかえって寂しく感じられる雰囲気の公園を、一人摩文仁山上を目指して歩き出しました。

沖縄戦当時の記録映像などを見る限り、この摩文仁も激しい砲爆撃により地表の土や草木は吹き飛ばされ、石灰岩の巨岩が連なるガレ場と化していたのです。

おそらく何度も何度も激しい爆撃にあい、戦闘初期の段階で亡くなった将兵のご遺骨は、1メートル2メートルと次第に岩石が覆い被さり、埋葬されたように地中深く埋められてしまったのではないかと思われてきます。

今はこうして公園として整備され、緑の木々と芝が美しい南国風の公園となっていますが、この芝の敷き詰められた大地の下には、公園整備に際してもついぞ発掘されることの無かった多くのご遺骨が眠っているのではないかと思え、ドタドタと歩くことさえはばかられるというのが、この摩文仁での心境なのです。

国立戦没者墓苑に住まう御霊様は、今年も暖かく私を迎え入れてくれました。ありがとうございます。

金光教福岡教会の吉木先生がいつも語っておられた「健康と時間と財の三つのおかげ」 に恵まれまして、今年も沖縄遺骨収集奉仕活動に参加できる事を、心より感謝したいですね。

静かに夕闇が迫り、他の人は誰一人いない国立戦没者墓苑で、私は生花を手向け心ゆくまで手を合わせ続けました…。

国立戦没者墓苑

遺骨収集の様子4

沖縄戦での戦没者18万余柱が合祀されている納骨堂です。1979年に建立されました。

遺骨収集の様子5

琉球トラバーチン石一千個余りを琉球古来の方式で積み上げており、重厚な雰囲気を醸し出しています。

遺骨収集の様子6

既存の納骨堂の裏手に回ってみると、現在三棟目の納骨堂が建築中でした。これからも引き続き収集されるご遺骨が見込まれるという証左ですよね。

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