遺骨収集の作業手順
遺骨収集では、"山野に入って御遺骨を探す" というのは誰でも容易にイメージ出来るでしょうが、その先のもう少し具体的なイメージとなると体験していないと想像しにくいものがありますよね。私も初参加の時は、遺骨収集とはその言葉だけを知っているという、全くの未知の世界の話でしたから、一般的な漠然としたイメージしか思い描けませんでした。
ここでは遺骨収集とは、どのような手順で進められていくのか解説はさせて頂きます。私は昭和61年(1985年)から「金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」に一般参加者として、信者さんと一緒に遺骨収集を続けていますから、その活動の様子を紹介する意味も込めまして、「金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」における遺骨収集作業手順を解説していきたいと思います。
皆様も一緒に遺骨収集をやるつもりになってご覧下さいませ。それではこれから沖縄の "ジャングル" に一緒に入ってみましょう~!。(^o^)
1,ご遺骨を捜す
いかがでしょか、これが沖縄の "ジャングル" ですよ。「イノシシじゃないんだから、これじゃ前に進めないよ」な~んて弱音を吐かないで下さい。地面はほとんど見えませんね。縦横に枝葉を展開させた亜熱帯の植物が茂り、トゲのあるツル植物も思いの外多く、それらが腕や足に絡まり容易に前に進めません。こうした場所を植物をかき分けながら前進する場合に、最も注意しなければならない点は、目の前に現れた木やツルなどに、手で力一杯寄りかかってしまうと、それが枯れ木だった場合、支えを失いドーンと倒れ込んでしまう場合があります。地面は岩場の不整地が多いので強く倒れ込むと、捻挫や骨折などの重大事故に発展する可能性が高まります。
これまでに何人かの方が、枯れ木に手をさしのべて転倒してしまい、ケガをするという事例が発生しています。遺骨収集ではケガをしないことが最優先です。慌てる必要はありませんから、自分ペースでゆっくりと足下をしっかり見ながら、安全を確認しながら前進しましょう。
遺骨収集作業は、10人から15人程度の班編成で行うのが、無理のない人数ですね。班員全員が横一列に並び、山の斜面の下側から山頂に向かってゆっくり前進しながら探すのが、一番確率がよいとされています。そうした状況の中でも、遺骨を探しているとついつい気持ちを集中させ過ぎてしまい、気がついたら周りに誰もいなかった…。な~んてという事態になる事も希にあります。私だけかな。そのような時は、ただちに声を出したり笛を吹いたりして、周りに人がいるか確認しなければなりませんね。
遺骨収集を行う場所というのは、起伏が激しく見通しのきかない場所が多いです。写真のように、10メートル離れたら人が視界から消えるなんていうのは、ごく普通だと思って下さい。地面ばかり見ていたら自分一人迷子になってしまったという事例もまた、これまで何度も発生しています。これまで最終的に全員無事が確認されていますが、他の人に迷惑を掛けないためにも、常に周りに人がいるのを確認しながら前進する事が大切ですね。
『摩文仁之丘』南斜面には、写真のような自然壕が至るところにあります。この壕は、比較的入り口の大きいものですが、入ってみると横に穴が深く展開しており、何カ所かに枝分かれしていました。壕の中は風雨にさらされていないので、露地に比べて遺骨の残存状況も良いので見つかる可能性が高いですね。
壕の中に入る場合は、酸欠やガスの滞留に十分注意しなければなりません。私達も念のためロウソクの火を灯しながら、壕の中を前進する事も珍しくありません。ロウソクが灯っているという事は、酸素があるという事ですからね。
それから、壕の中に入る場合は一人では絶対に入ってはいけませんね。何らかのアクシデントがあって、出られなくなったりしたら大変な事態になりますからね。自分が御遺骨になっちゃった…。な~んて言うこともあり得ますよ。壕に入る場合は、周りの人に必ず一声掛けて入るか、複数人で一緒に入るとより安全です。
沖縄守備軍が、摩文仁之丘南斜面に構築した陣地です。陣地前面に岩を積み上げて構築しているのが見てとれます。陣地上部の岩盤は、写真では見えませんがとても巨大で、どんな爆撃でも破壊されないと思えるほどでした。開口部は南側太平洋を向いており、海面に連なる米軍の動向を探査していたのでしょうか?。この付近の陣地は横に長く展開しており、なんと長さ100メートル以上断続的に陣地が構築されていました。
このような "陣地" 内やその周辺部は、御遺骨の発見確率が俄然高くなりますね。ただこの場所のように、誰が見ても明らかに守備軍陣地と解るために、あらゆる団体がこのような場所はすでに調査し終えている場合が多くて、私達が調査した時もやはり御遺骨の発見はなりませんでした。
もの凄い破壊力を伴う艦砲射撃に耐えられる堅牢な自然壕は、摩文仁でもそれほど多くはありません。ですから逃避行を続ける避難民は、危険と解っていても、わずかな岩の隙間や小さな壕に入って爆撃を避けるという事になります。写真の様に、"ちょっとした岩陰や隙間" からも多くの御遺骨が発見されます。この場所も奥行きわずかな穴でしたが、御遺骨が発見され発掘作業が進められていました。
南部の掃討戦では、避難民が狭い地域である摩文仁の岩場に息を殺すように身を隠しました。ですから人が一人入れるレベルの小さな穴といいますか壕は、どこでも御遺骨が発見される可能性は高いですね。過去の経験から、写真のような人がギリギリ入れる縦穴壕も、十分捜索する価値があります。写真ではご覧のようにロープを使って探索を実施しました。
私達は、このようなリスクの高い壕などでも、ためらう事なくロープを垂らしたりしながら、細身の人間を選んで中に降りていきます。残念ながらこの壕では御遺骨は発見されませんでしたが、確率が高いとか低いとかの問題ではなく、可能性のある所は全てチェックするという徹底的な調査が、遺骨収集では大切ですね。
この写真は、下の写真とセットで見て頂きたいのですが、写真中央に人がギリギリ入れるような小さな穴が見えますね。入り口は小さくとも、中に入ってみると奥がとても深い壕でした。入ってみると奥深く空間が続いていたのです。戦時中は、入り口付近を草木などでフタをして、入り口であることをカモフラージュしたのではないでしょうかね。壕は、奥深くそして地中深くあるほど爆撃にも耐えられますが、深ければ必ずしも安全とは言えないようです。
米軍は、あらゆる手段を用いて摩文仁を責め立て攻撃を続けました。毒ガス弾や爆雷、黄燐弾や爆雷などを壕に投げ込んだり、ガソリンを流し込み壕内を灼熱地獄にして殺戮しました。悲しいかなこの壕の奥深い場所から、かなりの数の御遺骨が発見されました。
この壕は入り口は狭かったですが、一歩入ってみれば写真のように奥深く通路が延びていました。中からは兵隊さんの軍靴の一部や装備品、そして銃弾や医薬品、バッテリーのような遺品が多数発見される事も多いですね、この壕内からもたくさんの遺留品が見つかりました。戦時中は真っ暗な壕内をどのように移動していたのでしょうか?。何か明かりがないと真っ暗な壕の中での移動は容易ではないですよね。
そして悲しいかな、この壕からもたくさんの御遺骨が発見されました。岩の表面をご覧下さい。煙がたくさん立ち上ったのでしょうか。黒っぽく焼けたような壁面となっています。大量のガス弾や爆雷を投げ込まれたのか…。火炎放射戦車による攻撃か?それとも大量のガソリンを直接流し込まれたのか…。攻撃を受けた時の兵隊さんはさぞ苦しかったでしょうね。外に逃げ出す事も出来ないまま、もがき苦しみながら息絶えたのでしょうか…。
戦没者遺留品の様子
日本軍の兵隊さんの食料である缶詰ですね。全ての缶が開封されていました。
【平成26年(2014年)2月撮影】
日本軍の兵隊さんが身につけた装備に飯ごうがありますが、写真はその飯ごうの蓋の部分が見えています。驚くことに小さな穴が開いているのが見てとれます。これは恐らく銃弾が貫通して開いた穴だと思えます。通常飯ごうは背中に背負うようですが、だとすれば貫通した方向は人体には外れているように見えますが、兵隊さんが無事である事を祈るばかりです。
【平成21年(2009年)1月撮影】
残された兵隊さんの軍靴…、そして御遺骨の一部が…。裸足で逃げる理由はなく、一人の日本兵がここで亡くなった事を意味します。ここは壕内ですが、壕内は露天と比べて、御遺骨は勿論、遺留品の残存率も高いのが特徴です。壕内を調査・遺骨収集する場合は、記名遺品が残されている可能性が高いので、その点に留意して取り組んで下さい。
【平成16年(2004年)2月撮影】
大渡海岸の近くにある、独立高射砲27大隊本部壕の内部です。火炎放射器などで馬乗り攻撃を受けたのでしょう。ご覧のように壕内壁面は煤で真っ黒です。時折見かける枕木にしていたと思われる木材も炭化しているような状況でした。
【平成23年(2011年)2月撮影】
ガソリンを流し込まれたのか、全てが燃え尽き灰燼に帰した壕内の様子です。ここにも日本兵の軍靴の一部が…。私が初めてこの壕に入った時は、すでに大規模な遺骨収集は終わっているという状況でしたが、試しに一部掘ってみると、細かい御遺骨が数多く出てくるというような状況でした。
【平成21年(2009年)1月撮影】
日本軍将兵が装備していた九十九式小銃の実弾ですね。装弾子に納められていますから、発射はされていない未使用の実弾という事になります。
【平成16年(2004年)2月撮影】
ジャングルの中を歩くと、守備軍将兵が携帯していた小銃弾や手榴弾などの遺留品に出会う事も多いです。遺骨収集で手榴弾が出てきた場合は、撃針や雷管が納められている信管部分に強い衝撃を与えないようにすれば、持って移動させても問題ありません。
これまで沖縄遺骨収集奉仕活動で他団体も含めて、手榴弾が現場で爆発したという話は聞いた事がありません。手榴弾も爆発物の一つと理解し、慎重に取り扱えば大丈夫です。と言いつつ、あくまで人を殺傷するのを目的に作られたものですから、慎重に取り扱う必用があります。砲弾や手榴弾など、収骨作業でどうしても移動しなければならない場合は、衝撃を与えないよう慎重に取り扱う必要がありますから、静かにそっと動かさなければなりませんね。
爆発する危険性のあるものは地表の一カ所に集め、金光教方式では赤テープを巻いて危険である旨の表示をします。必要に応じて手榴弾や砲弾の周囲に赤テープを巻き、危険物の存在を知らしめるようにします。そうする事により、後から遺骨収集に来る方々の安全も確保されるという訳ですね。(^o^)
【平成25年(2013年)2月撮影】
ご遺骨と共に大量の戦没者遺留品がありました。記名遺品が無いかと丹念に調べましたが、残念ながら氏名等は発見できませんでした。「兵隊さんは灼熱地獄のなか何を思い亡くなっていったのか…」、私はこの戦没者遺留品を発見したときは、単独行動をしていたという事もありまして、遺品を前に辺りをはばかることなく声を出して泣き、しばし感涙の海に沈みました…。
【平成21年(2009年)1月撮影】
多くのガラス製品が溶けているが見てとれます。ガラスが溶けた原因は「ナパーム弾攻撃」だと言われています。ナパーム弾は
"超強力な焼夷弾"
です。火炎は1000度を超え、熱風空間のあらゆる生物や物が焼き尽くされ燃え尽きて、且つ酸素を奪われ一寸の生命も生き延びられません。ナパーム弾攻撃を体験した兵隊さんの話では、「ナパーム弾攻撃を受けた場所は、24時間経過しても岩が熱くて触れなかった」と証言している程です。
【平成21年(2009年)1月撮影】
2,遺骨を収集する
〔見やすいように草木を取り払った段階の写真です〕
頭骨の一部が見えますね。他にも多数の御遺骨が散見されます。草木を取り払った段階で、数人規模の御遺骨であることが一目瞭然でした。
私が遺骨収集を始めた頃は、この様に数人規模で発見される御遺骨が多数ありました。家族同士なのか、仲間同士なのか、死ぬときは一緒との思いで、大勢で逃避行の日々を送ったのでしょうね。
【昭和62年(1987年)2月撮影】
複数人の御遺骨と思われる場合は、可能な限り個別に収集するように努めます。完璧には出来ませんが、大腿骨など特定の御遺骨の本数や配置により、ある程度分別出来ます。この場所の御遺骨は4人ではないかと判定され、遺骨収集が進められました。班員が供えたミカンやおにぎりが悲しさを誘いますね。御遺骨の上に菱形をした白い紙のようなものが置かれていますが、金光教では大切にされている
"御札" です。御霊様の御冥福を祈念するもののようです。
【昭和62年(1987年)2月撮影】
〔見やすいように草木を取り払った段階の写真です〕
こんな小さな岩陰で亡くなられたのですね。この様な小さな岩陰であっても、何もない地平面よりは爆撃による被弾を避けられるでしょうが、悲しいかなこの場所にいた人は、亡くなってしまいました。遺骨収集を続けていると、この様な
"小さな岩陰"
で発見される御遺骨は数えきれないほどにのぼります。
御遺骨が見つかった場合は、遺骨が四散している可能性もあるので、状況に応じて半径3メートルとか5メートルの範囲の草木をまずきれいに刈り払い、徹底した収骨を心がける必要が在りますね。
【平成6年(1994年)2月撮影】
上記写真の遺骨収集が終了しました。御遺骨と共に、名前の彫られた万年筆が発見されました(^o^)。それと「佐世保工廠」と記名された革製ケースも同時に発見されました。御遺骨だけでは男女の識別や民間人かどうかの判定は出来ませんが、記名遺品があれば氏名が判明する可能性が高まります。この御遺骨発見場所は摩文仁南斜面にあり、最も激しい艦砲射撃を受けた場所でもあります。
各班には記録係がいますので、収骨の様子を写真撮影したり、発見場所や御遺骨の収骨状況などを出来る限り詳細に記録を残す事になっています。今回記名遺品が見つかりましたので、戦没者名簿などを通して遺族を捜す手続きに入る事になります。(万年筆の名前から御遺族が判明し、御遺骨は御遺族の元へお返しする事が出来ました)
【平成6年(1994年)2月撮影】
写真は、壕の中で遺骨収集を進めている様子です。沖縄では自然壕は巨大なものから、人一人入れるような小さいものまで無数にあります。壕の中は風雨による御遺骨の腐植が少ないために、露天に比べて御遺骨や遺留品の残存状況が良い場合が多いですね。壕内での収集作業では、懐中電灯やヘッドライトは必須です。大規模な御遺骨発見で、長時間の作業となる場合は、発電機と投光器などによる本格的な機材も必要になります。
壕は奥深いものだと百メートルを軽く超える長さの壕もあると言われています。壕の形状はいろんなケースがあり、横穴であったり、縦穴であったり、そして縦横に枝分かれして延びている壕も珍しくありません。狭い壕内では収集作業がやりにくいので、布バケツを使い遺骨の混じる土砂を壕の外に運び出して、壕の外で分別作業に取り組む場合も時折ですがありますね。
壕などから運び出された土砂の中から、細かな御遺骨を見つける作業をしているところです。写真のように、白い布を広げてそこに御遺骨混じりの土砂をバケツから移し、大勢で協力しながら土砂の中から小さな御遺骨を見つけ出します。私が金光教の遺骨収集作業で感服した事のひとつが、この御遺骨の混じった土砂から、実に丁寧に御遺骨を拾い出そうと努力している点ですね。遺骨収集においては、この姿勢は高く評価されるべきものだと考えます。土砂に混じる御遺骨を見つけるのは、最初は難しいと思えるのですが、何度か体験すると全く問題なく分別出来るようになりますよ。 (^o^)
3,現場でミニ慰霊祭を執り行う
御遺骨や遺留品の収集が終わりましたら、御遺骨発見現場毎にミニ慰霊祭を執り行います。御遺骨を白布の上に安置し、儀式としてロウソクを灯し線香を焚き、御神酒や御菓子・ミカンなどのお供え物をしまして、班長がリーダーシップをとり、御祈念の手順に則り儀式を進めてまいります。私は信者さんでないので、御祈念の言葉の意味は未だに掴みかねていますが、"祖先賛辞" という言葉がいつも語られるので、私達の父祖である御霊様の安らかな冥福をお祈りしていると理解しています。信者さんが奏上するその言葉の意味は解りませんが、聞いているだけで涙がにじむ思いがいたします。
水色のつなぎ服を着ている班長が、ミニ慰霊祭を主導し御祈念の言葉を述べているところです。遺骨発見現場で収集をしている最中は、無我夢中で御遺骨や遺品を探し求め、精神を集中させ緊張感を持って探索を続けていますが、収集作業を無事に終えて、ミニ慰霊祭を行うために御遺骨の前にひざまつく段階ともなりますと、御遺骨の山野をさまよい歩いた末の、この地で最後の日を迎えなければなかった悲しさに、私は思いを馳せずにはいられません。そんな思いに沈むのは私一人ではなく、御祈念の最中は多くの方々が涙を流し、そして目頭を押さえながらお祈りを続けています。私達の心を込めた御祈念に、御霊様も発見してくれた事をきっと感謝しながら、涙を流しておられると思わずにはいられませんでした。
4,収集した御遺骨を清掃する
収集された御遺骨は本部に集められ、「お清め班」の方々により、御遺骨の清掃が行われます。御遺骨は長年山野にあり、苔むしていたり土が全体に付着していたりとかなり汚れた状態になっているのが一般的です。金光教の遺骨収集では、収集したら終わりではありません。この清掃作業をもって遺骨収集が完結すると言っても良いでしょう。清掃は、ジャングルに走るには体力的に無理な方とか、足腰の弱い方、お年を召した方などが中心となって進められます。金光教では、この御遺骨の清掃作業を、『お清め』と呼んでいますよ。
沖縄で遺骨収集を実施している団体や個人は、現時点でも複数ありますが、それら各団体が集めた御遺骨も、最後の清掃だけは金光教に依頼するという例も珍しくありません。それくらいに、金光教の "御遺骨清掃" は広く知れ渡っているようですね。(^o^)
写真は、名前が判別出来る記名遺品があった事から、他の御遺骨としっかり分離した形で収集された御遺骨です。ご覧のように、御遺骨と共に遺留品がたくさん出てまいりました。遺留品に兵隊さんの名前が書いてある場合が多々あります。所属部隊や氏名等が特定出来れば、御遺族へ遺品や遺骨をお届けすることが可能となる訳ですから、特段の注意力をもってこの御遺骨は扱われることになります。
(※写真の氏名はぼかしてありますが、この御遺骨は氏名が特定され、御遺族の元へお届けすることが出来ました。引き渡しの際は、涙涙の会見となったようです。)
昔に遡るほど記名遺品により遺族が判明した事例が多くありますが、年月の経過と共に記名されていても判別が難しくなっていきますので、近年になればなるほど戦没者とそのご遺族の確定は難しくなっているのが現状です。ちなみに、名前の彫られた遺品などがあったとしても、例えば「鈴木」とだけ掘られていた印鑑では、まずご遺族は捜せませんね。
『お清め作業』により、きれいサッパリと清掃され、きれいになった御遺骨です。何となくアカ抜けた御遺骨に生まれ変わったような印象ですね。清掃された御遺骨は、このように段ボール箱にキチンと収納されて、生花と共に梱包されます。そして慰霊祭が執り行われるという手順となります。
ある意味では、このように収集される御遺骨は幸せなのかもしれません。山野には、死後発見されることなく、風雨による腐植により全て消滅していった御遺骨が、数多くある事は間違いありませんし、未だ山野に放置されたままの御遺骨も無数に上る事でしょう。
5,金光教による慰霊祭を執り行う
遺骨収集作業は二日間ですが、最終日の午後三時ぐらいから金光教による慰霊祭が開催されます。写真を見てお解りのように、神式で慰霊祭が執り行われていますね。祭壇に積み上げられた段ボール箱の中には、収集された御遺骨が納められています。段ボール箱がたくさん積み上げられていますが、まだまだ山野に御遺骨があるという証ですね。
慰霊祭の中のひとコマです。全国から持ち寄った『水』を献上しているところです。例えは、一番左のご婦人は北海道から参加しました。ですから北海道の水を持ってまいりました。その横のご婦人は東京から参加しましたので、東京の水を持ってまいりました。
ここ沖縄を守るために派遣された兵隊さんも全国から参集しました。北は北海道から鹿児島まで。そして沖縄県民も青年や学徒を含め、総動員態勢で守備を固めました。攻める側の米軍は前線への攻撃と併せて、食料保存場所や水場を破壊しようとします。逃避行の中で、喉が渇き水が飲みたくて水がほしくて、米兵が銃を構えて待ち伏せしている事が解っていても「水場」に向かい、ひと口の水の為に命を落とした人は数えきれないほど居たといいます。そうした「水」の為に亡くなられた御霊様のために、全国から「水」を持ち寄り飲んで頂こうという訳ですね。
慰霊祭の中のひとコマです。沖縄駐留軍人と軍属の人達が、御祈念の言葉を述べているところです。在沖米軍関係者は毎年ではありませんが、多いときには100人単位で、私達と共に遺骨収集に参加していました。何かとトラブルの多い在沖米軍ですが、少なくともこのような遺骨収集活動に参加される皆さんには、敬意を表したいと思います。特に、写真の中で手を挙げて御祈念している方は、10年以上前から参加されていて、平成15年と16年で私と同じ班で行動を共にしましたから、言葉は通じませんが、手話みたいな身振り手振りでそれなりに会話しながら、一緒に協力しながら遺骨収集活動を進めました。彼らは私達よりも率先して、よりリスクの高い崖や壕の中など狭くて危険な場所に挑んでくれました。
1時間ほどの慰霊祭も、終わりが近づいてまいりました。慰霊祭の一番最後には、唱歌である「ふるさと」や「赤とんぼ」の歌を、全員で合唱致します。戦地へ派遣された兵隊さんも、戦闘などで傷ついて野戦病院などに収容され、食料や水も満足に与えられず、治療するガーゼや治療薬もなく、痛みと失意の中で死に行く時に、最後に脳裏に浮かぶイメージはきっと「お国の為…」とかではなく、「お母さん」とか「ふるさとの風景」であったと言われています。
私たちは戦没者の為に、心を込めて「ふるさと」や「赤とんぼ」の歌を歌いました。
『兎追いし かの山 小鮒(こぶな)釣りし かの川 夢は 今も めぐりて 忘れがたき ふるさと…。』
この歌が流れ始めると、私もとめどなく頬を伝わる涙を止めることは出来ません。そして、ほとんどの人が涙を流しながら目を閉じながら歌っています。生きて再びふるさとに帰りたかったでしょうね。生きて再び父母に会いたかったでしょうね。今私達に出来ることは、共に涙することしか出来ませんが、もしも私達と共にふるさとへ帰れるのならば、一緒に飛行機に乗って帰りましょう。どうぞ私の肩に留まって下さい、一緒に帰りましょう…。