平成28年(2016年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月29日(金) 故具志八重さんのお墓参り、旧海軍司令部壕慰霊巡拝
- 1月30日(土) 遺骨収集事前調査(林先生他4名)
- 1月31日(日) 第10回摩文仁清掃奉仕、遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月13日(土) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月14日(日) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月15日(月) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月16日(火) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月17日(水) 初参加の南埜さんと共に遺骨収集(※岩盤崩落あわや大惨事に)
- 2月18日(木) 金光教遺骨収集の為のルート整備
- 2月19日(金) 松永さん吉井さん福岡さん田中さん南埜さんと摩文仁で遺骨収集
- 2月20日(土) 第43回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加(最終回)
- 2月21日(日) 第43回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加(最終回)
- 5月29日(日) 「天地金乃神大祭 併せて沖縄布教五十年記念祭」参加
1月29日(金) 故具志八重さんのお墓参り、旧海軍司令部壕慰霊巡拝
飛行機もほぼ定刻の午前11時過ぎに那覇空港に到着しました。本日の那覇の天気ですが、事前予報では曇り、そして那覇空港到着時は予報通りの曇り空でした。雨の心配は不要なようです。(^o^)
毎年恒例となっているのですが、到着したら沖縄戦当時に沖縄陸軍病院の婦長として従軍していた、今は亡き具志八重さんのお墓参りに行くことになっていますが、今年は金光教那覇教会の林先生から昨年末に電話があり、林先生も具志八重さんのお墓参りに行きたいので、同行させてほしいとのご連絡がありました。
伺ったところ、林先生は具志八重さんのお墓参りに行ったことがなく、場所も知らないという事でした。私たちが毎年具志八重さんのお墓参りをしている事を林先生はご存じでしたから、今年で金光教沖縄遺骨収集も終わりになるので、この機会に墓参したいと思われたようです。
と言う事で、今年は林先生と松永さん、そして私の三人で具志八重さんのお墓参りに行ってまいりました。
松永さんは遺骨収集に取り組む切っ掛けを作ってくれたのが具志八重さんだと常々語っています。一方私も遺骨収集を長く続けられたのは、具志八重さんとの出会いという側面も大いにありますので、その出会いに感謝し、遺骨収集を通じて慰霊の気持ちがしっかり表出されるように心を込めて祈って参りました。
故具志八重さんのお墓参り
故具志八重さんは、サトウキビ畑の先に見える墓所の一角に安置され眠りについています。 今年は林先生も同行して下さり、林先生は簡略ながらご祈念して下さいまして、具志さんのご安心をお祈りして下さいました。ここに改めて、故具志八重さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m。
具志八重さんの墓参を済ませた後、ホテルに帰るには日が高いので、豊見城にある「旧海軍司令部壕」と、南風原町にある「南風原文化センター」及び「陸軍病院20号壕」を訪れました。
「旧海軍司令部壕」
右側の丸い建物がビジターセンターで入り口となります。左側の丘の上には慰霊塔があります。慰霊塔は最後にご紹介します。それではビジターセンターで入館手続きをしましょう。
エントランスに立っています。ここが地下壕と言える旧海軍司令部壕に入る入り口となります。
30メートルほどの高低差を、105段の階段を使用して降りていきます。ます。この階段は旧国鉄技術陣がこの壕を発掘・修復した際に設けたもので、当時は無かったという話ですよ。
旧海軍司令部壕底部に到着しました。見取り図ですね。オレンジ色の部分が公開されていて、水色の部分は埋没している、或いは危険だなどの理由で非公開になっています。ちなみに、この司令部壕は昭和19年に日本海軍設営隊(山根部隊)により掘られたものです。
階段を降り順路に従うと、最初に現れる部屋がこの「作戦室」です。壁には「作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です」と書かれています。
「作戦室」を出ますと、ご覧のような狭い通路にでます。地盤が深いだけに、岩盤という雰囲気ではないので、基本は機械で掘るにしても、ツルハシ等の手彫りも併用できそうな雰囲気です。
天上面を撮影していますが、ツルハシを使用したであろう筋がしっかり見えますね。
沖縄戦当時の「配電用碍子」です。発電設備があり照明が灯されていたようです。壁面の煤と思われる黒々とした色が、当時の壕内への激しい馬乗り攻撃を物語っていますね。
「幕僚室」です。「幕僚室」と「作戦室」が近いというのは納得ですし、そうであるべきですね。
「幕僚室」です。壁面のこの無数の穴は、幕僚が手榴弾で自決した時にあけられたものだそうですよ。
また通路になります。
そしてメインの通路に出ました。
「暗号室」です。結構広い部屋です。当時は机が沢山並んでいて、通信に携わる多くの兵士が、暗号電文の送信に携わっていたのでしょうね。
再びメインの通路に出ました。
「医療室」です。メイン通路沿いに穴といいますか空間があるという状況です。イメージ図が描かれていますが、大勢の負傷者がこの周囲に横たわっています。
ここは発電機が据え付けてあった場所のようです。
メインの広い通路から、また狭い通路になっています。前進してみましょう。
「下士官室」です。下士官の方々が居られた場所と言う事ですね。しかしながら6月に入りますと、この部屋は立錐の余地もない程で、将兵達は立ったままで睡眠や休憩を取ったと言われています。
再び通路です。突き当たりが凄く明るいですね。通路が暗い分余計にそう感じてしまいます。
出入り口ですね。立ち入り禁止ですから、窓の所まで行けません。方向感覚が狂っているので、断定はできませんが、この出入り口は北側を向いているかもしれませんね。
再びメインの通路に出ました。
広いメイン通路からご覧のような狭い通路がありまして、奥の方に「司令官室」がありますので、狭い通路に入ってみましょう。
沖縄方面根拠地隊大田實司令官が居られた「司令官室」です。
この部屋で自決されたのですね。
「神州不滅」の文字が見えます。
「大君の御はたのもとにししてこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」(幕末の志士の和歌)
これは大田實司令官の愛唱歌でもあったようです。
多くの配置された部屋や設備、そして出入り口等を見学しました。順路的には写真奥までこのままま直進して外に出るという流れになります。
「旧海軍司令部壕」の真上にある慰霊塔です。豊見城市(とみぐすくし)にある「旧海軍司令部壕」は整備された海軍壕公園の中にあります。この高台は沖縄戦当時は「74高地」と呼ばれ、地下要塞として「旧海軍司令部壕」は掘り進められ、昭和19年12月に完成しました。総延長約450mの中に司令官室、作戦室、幕僚室などが配置された地下要塞です。現在は、このうち275mが公開されているといいます。この高台はその昔「火番森」と呼ばれ、船の来島をのろしで首里に告げる要所であったようです。
読めますね。
ちょっと難しいかな。
敢闘した参加部隊および参加艦艇の名称が記載されています。「軍艦 大和」という記載も見えます。大和も特攻艦艇として沖縄に向け出撃したのでしたね。
戦没された各部隊兵士のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
第74高地から北西の方向(那覇港)方面を見ています。写真左側付近、西小禄方面から米軍第6海兵師団は上陸を敢行し攻め上がりました。
大田實少将と「旧海軍司令部壕」
昭和19年に入ってからの戦局は、益々日本軍の劣勢が顕著となり、各地の戦闘で敗退を続けるようになっていくという流れの中で、「南西諸島防備急速強化に関する件」の意見書が海軍大臣に送られ、4月10日に、海軍における沖縄方面根拠地隊と、第四海上護衛隊が新設されました。
一方陸軍も3月22日に、沖縄守備軍として第32軍を創設したのです。6月には陸海軍の間で、大本営陸海軍部の「陸海軍中央協定」の、「南西諸島作戦ニ関スル現地協定」により、陸海軍が協力して沖縄を守るこ事となり、沖縄方面根拠地隊は、第32軍の指揮下に入り、地上戦闘を展開する事となったようです。これらの重要決定は、沖縄戦が始まる一年前という事になりますね。
昭和20年1月20日、米軍の沖縄本島への上陸必至という戦況の中で、大田實(みのる)少将は佐世保海軍警備隊司令官から、日本海軍沖縄方面根拠地隊に着任されました。
大田實少将は、明治24年に生まれ、千葉県長生郡長柄町出身。かつ夫人と共に11人の子宝に恵まれる。着任時の年齢は54歳だったといいます。
米軍が上陸する1ヶ月前の2月25日には、第四海上護衛隊が切り離され、司令部は沖縄方面根拠地隊専任となり、海軍小禄飛行場を中心とした陣地を地区一帯に構築し、小禄半島の防備にあたったのです。現在の那覇空港がある場所が、海軍小禄飛行場のゆかりの地という事になりますね。
私達が沖縄に到着する時に必ず利用する、滑走路やエプロンそしてその周縁部は、まさに日本海軍沖縄方面根拠地隊将兵が一丸となって、血みどろの戦いを強いられながらも敢闘し、また第32軍牛島満司令官の、南部への撤退命令をも固辞し玉砕した、「沖縄方面根拠地隊終焉の地」でもあったのです…。
私は戦史にあまり詳しくありませんので、沖縄での戦況を追いながら大田實少将と、「旧海軍司令部壕」の運命を論ずるのはためらわれますが、大田實少将といえば、何よりも「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文ですよね。この有名な電文だけは、皆様にしっかりとご紹介したいと思います。(^o^)
公刊戦史によれば大田實司令官の自決は6月13日午前1時となっています。また沖縄県民への思いやりに満ちた電文は、旧防衛庁防衛研究所が所蔵している、「昭和20年6月南西諸島方面綴」によりますと、6月6日20時16分、沖縄方面根拠地隊司令部発となっているようです。
太田實司令官は、昭和20年1月20日に着任し、6月13日に自決するまでの期間。わずか5ヶ月しか沖縄に滞在しなかった事になりますね。たった5ヶ月の在任ながら、あの慈愛に満ちた電文に鑑み、大田實司令官の人柄を抜きには考えられないでしょう。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の著者田村洋三氏は、この電文について、「人間味溢れる文章は、当時の日本軍の文書は勿論、世界の戦史にも例がない(フオ)の電報と言えよう。その原点は、これまで縷々綴ってきた太田司令官の、文・武・仁の人間性の発露であることは言うを俟たない」と語っています。
首里にある第32軍の主力部隊が南部に撤退を開始したのは昭和20年5月27日です。そして5月31日、米軍は沖縄本島上陸から二ヶ月を経て、ついに首里高地一帯を占領してしまったのです。
6月4日 早朝、米軍は小禄半島攻略に際し、攻撃準備射撃として日本軍陣地に対し、75ミリ野砲から36センチ艦砲まで4,300発を超える砲弾を撃ち込んだのです。
そして午前5時、米第6海兵師団の偵察隊は奥武山に、本隊は西小禄へ怒濤のように上陸して来ました。大田實司令官や参謀が自決する、6月13日までの9日間の激戦の幕が開けられたのです。
同日豊見城の第74高地に司令部を置く、沖縄方面根拠地隊は、この段階に至りもはや陸軍との共同作戦は不可能と判断し、南部島尻へ撤退せず、小禄方面死守を打電したのです。
米第6海兵師団三個連隊は、那覇沖に居並ぶ米艦隊の艦砲射撃援護を受けながら多方面から進撃し、沖縄方面根拠地隊の消耗は激しく、次第に小禄半島の狭い地域に押し込められていきます。
6月6日 米軍は小禄飛行場と周辺海岸線を制圧、根拠地隊は司令部壕を中心に半径2Kmの地域に包囲され、大田實司令官は小禄地区の失陥はもはや時間の問題とし、夕方5時23分、辞世の句を織り込んだ決別電を大本営に向け発しました。
【電文】
敵を迎え撃つこと二ヶ月余、陸軍との緊密なる共同のもと、敵撃滅のためのあらゆる努力にもかかわらず戦い利にあらず。
根拠地隊は、すでに陸戦隊の精鋭四個大隊と、使用可能の火砲を陸軍の指揮下に派遣し、部隊の戦力低下はまぬがれず、加うるに敵の装備は我にまさるものあり。
ここに小官に委託されたる皇国護持の任を果たし得ざりしことを、陛下に深くお詫び申し上げる。
指揮下の部隊は帝国海軍の伝統にしたがい、勇敢に戦い、敵の砲爆撃、沖縄の山容を改めしといえども、我が将兵の奉公の念は改むるを得ざりき。
……この地にたおれる将兵の家族に深甚なる考慮を賜わらんことを願う。
我が将兵と共に、陛下の万歳を三唱し皇国の弥栄を祈る。
「身はたとえ沖縄の辺に(オ)つるとも 守り遂ぐべし大和島根は」
司令官 太田實
そして大田實司令官は、豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に、指揮所を移動した同日夜8時16分に、痛ましい犠牲を払うこととなった沖縄県民への、後世にわたる特別の配慮を真っ正面から要請した、あの心打たれる文脈の、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文を発したのです。
【「沖縄県民斯ク戦ヘリ」電文】
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ概ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下□□□風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□□ 真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ワレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ) 只管日本人トシテノご奉公ノ誇ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□□□□□□
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄縣民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
6月11日 米軍は午前7時30分を期して、八個大隊を動員して大攻勢を掛けてきました。この時の様子を、「見ているのも辛いほど集中砲火を浴びていた」という証言が、一方的な激しい攻撃を物語っています。
同日午後には、大田實司令官は第32軍参謀長宛に 「敵後方で攪乱、または遊撃戦をさせるため、相当数の将兵を残置しておく。これは将来のために一言申し残しておく次第である」 との文面を発信しました。
これは海軍の将兵が陣地を脱出した際に、脱走などと誤解されないようにとの配慮であったと言われています。どこまでも、将兵の行く末をおもんぱかる司令官であったのですね。
そして同日の夜、壕への熾烈な攻撃にもはやこれまでと、第32軍牛島満司令官に最後の訣別電を発したのです。
敵戦車軍は、わが司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日午後11時30分玉砕す。
従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る
(11日夜の玉砕は思いとどまったようです)
6月12日
根拠地隊司令部壕のある74高地は米軍に占領されるに至りました。
同日夜8時、最後の非常呼集があり整列した者約270名を前に、司令官や参謀が顔を揃えるなか、山田参謀が声を張り上げ、大要次のように語ったという。
司令官及び幕僚は、本日自決される。
これまで諸官と共に随分奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。
自力で行動できる者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動できぬ者は、残念ながら自決してくれ。
自力で行動できる者は、只今から自由行動を取れ。
残された傷病兵約300名も、壕内で手榴弾などにより壮絶な最後を遂げました。これ以降沖縄方面根拠地隊の電信は沈黙したのです…。
沖縄方面根拠地隊は、第32軍に抽出された兵力を除き約5,500人でしたが、うち約4,000名が小禄戦線で非業の死を遂げました。
公刊戦史によれば、大田司令官他4名の幕僚の自決は、6月13日午前1時となっています。
※旧海軍司令部壕関連書籍をご紹介します。
「沖縄旧海軍司令部壕の軌跡」
宮里一夫著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」
田村洋三著 光人社NF文庫 平成9年(1997年)初版
「悲風の丘」「陸軍病院20号壕」
南風原文化センターです。平成21年ですから、今から7年前に竣工したまだ比較的新しい建物です。ちなみに以前の南風原文化センターは一度だけですが館内見学をしています。背後の小高い山が黄金森ですね。私は9年前の平成19年に、悲風之丘という慰霊碑と飯あげ道見学のために、この地にやってきましたが、このセンターのあった場所は畑が一面に広がっていました。
また平成19年6月に黄金森の壕群の一つの壕である20号壕が見学可能になったという情報を得ていたので、早速翌年平成20年の遺骨収集時に20号壕を見学しましたので、今日も壕内部こそ時間の関係で見学できませんが、20号壕のある場所まで徒歩で行ってみようと思います。駆け足となりますがご一緒に見て回りましょう。
「飯あげの道」です。黄金森には陸軍病院壕が沢山掘られていましたから、戦傷患者も大勢収容されていました。そうした方々の食料や飲料は外部から運ばれていました。この坂道がその名の通り、ご飯や味噌汁などの食料を運んだ道という事で、戦後飯あげの道と命名されたという訳です。それではこの飯あげ道を登って行きましょう。
飯あげ道を50メートルほど登ると、右側に何か見えてきましたよ。
「悲風の丘」です。沖縄陸軍病院壕群のあった場所に建立され、同病院で戦死された2,200名余りの霊が祀られています。この病院壕群はひめゆり学徒隊が配属された野戦病院としてよく知られていますよね。
「南風原陸軍病院壕趾」と書かれています。碑の背後に元々は壕があったようなので、その事を史跡として残そうとしているのだと思います。現状では入り口は埋め戻されているという印象を受けますが、現在は20号壕が見学可能となっていますので、壕内部の様子を知ることができます。
ちょっと読みにくいと思いますが、概要を知る程度には読めると思いますので、ぜひご覧下さいませ。
「悲風の丘」の慰霊も無事済みました。ご覧の飯あげの道を更に続いています。9年前に訪れた時の印象としては、登り100メートル、下り50メートルぐらいという距離感でした。それでは更に登ってみましょう。
飯あげの道の頂上付近にやって来ました。ここからは下っていきますが、二つの道があります。一つは旧来の道で、登山道のような道です。もう一つが写真の道で、こちらは新しく設けられたものです。恐らく南風原文化センター竣工と同時に作られたのではないかと思われますが、案内板にも書いてありますが、雨の日はこの道がとても便利だと思いますよ。旧来の道はあくまで登山道のような坂道ですから、雨の日はとても滑りやすいですし、服を汚してしまうかもしれませんからね。
黄金森を登って降りると、この場所にでます。舗装路を100メートルぐらい進むと、目指す20号壕に到着します。
20号壕が見えてきました。
20号壕入り口にある建物です。ちなみに受付はすぐ横にある建物で済ませます。壕入り口に扉があるのは、壕内の気温や湿気等を一定に保つためと思われます。乾燥すると壕壁面は劣化しやすいですからね。
平成20年に初めて訪れた時は、完全予約制であると告知されていたので、入壕は最初から諦めていたのですが、ダメ元で御願いしてみたら、何と予約無しで入壕できましたし、更にガイドも付けてくれて無事に内部を見ることができました。現在も完全予約制が継続しているのかどうか不明ですが、心配な方は南風原文化センターサイトから問いあわせてみて下さいませ。
壕入り口に掲示されている案内文です。ギリギリ読めますね。
「沖縄県護国神社」
那覇市の奥武山公園内にある沖縄県護国神社です。明日からの遺骨収集に先立ち、先人への感謝の気持ちを表明するために訪れました。
参道も長く立派ですね。心が清められます。
沖縄県護国神社は、昭和11年に招魂社として創建され、昭和14年に護国神社と改称され現在に至っています。日清日露戦争以降、大東亜戦争までの国難に殉じられた軍人・軍属、そして一般住民、並びに本土出身の御英霊を祀っている神社です。