平成19年(2007年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月13日(火)朝早く自宅を出発/読谷村方面慰霊巡拝
- 2月14日(水)南風原文化センターと南部戦跡慰霊巡拝
- 2月15日(木)単独で摩文仁之丘南斜面に入り遺骨収集
- 2月16日(金)地元情報により旧知念村で事前調査&遺骨収集
- 2月17日(土)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月18日(日)第34回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月13日(火) 朝早く自宅を出発/午後は読谷村方面慰霊巡拝
今年の沖縄遺骨収集奉仕関連活動も、昨年同様に5泊6日のロングスケジュールで取り組むことにしました。今年は2月17日(土曜日)・18日(日曜日)の二日間が、第34回金光教沖縄遺骨収集奉仕となっています。有り難いことに今年も参加させていただくことになっていますが、少し早めに沖縄入りして沖縄戦戦跡の巡拝や、遺骨収集に関わる情報収集をしておこうという訳ですよね。
毎年のことですがこの時期の私の仕事はかなり忙しく、超ハードスケジュールの毎日となっていますが、幸い沖縄行きを前に仕事の区切りも良く、肉体的には疲労がかなり貯まっていますが、精神的には100%沖縄遺骨収集に振り向けることが出来そうですよ~。
この沖縄遺骨収集の期間だけは「大切にしている仕事・家庭・趣味等すべて忘却の彼方に押しやり、全てのエネルギーを摩文仁に向けたい!」
これが私の偽らざる心境なんです。もちろん現実的には仕事を完全に切り離すのは無理です、妻の顔も時折脳裏に浮かんできますし……。しかし少年時代に戻ったかのように、遺骨収集という一つのことだけに集中して取り組む環境を、毎年確保できることに心から感謝していますよ。特に妻にね。
埼玉県から始発に近い電車に飛び乗り、特段のトラブルもなく予定通り10時35分発のANA121便に搭乗し、昼過ぎには那覇空港ロビーに到着しさっそく情報収集を開始しました。
人影もまばらな空港ロビーにて『琉球新報』と『沖縄タイムス』を買い求め(この二紙は滞在中継続して買い求めます)、コーヒーを飲みながら午後に予定している読谷村方面の巡拝ルートを最終チェックしました。天候も晴れ時々曇りといった雰囲気ですから、夕方まで順調に活動できそうですよ。
今回の遺骨収集では、次の課題に取り組みました。
1,米軍上陸の読谷村から戦線後退に沿って首里までの主要戦跡を慰霊巡拝する。
米軍は沖縄本島への準備艦砲射撃を3月23日に開始し、4月1日に読谷・北谷、および嘉手納の水釜海岸など、幅10km以上の海岸線に分散しながら上陸を開始しました。上陸前砲撃で2万5千トンの砲弾が消費されたといいますから、上陸の「地ならし」として凄まじい鉄の雨が降り注いだということになります。
米軍上陸地点から日本軍守備隊司令部のある首里までの距離は、およそ20kmから30kmの距離があります。
米軍上陸は日本軍が持久戦法をとった事により無血上陸となりましたが、米軍上陸後数日経過すると日米両軍による激しい戦闘が開始されました。
劣勢の火力、補給が途絶する中で日本軍は強靱さを発揮し、本当によく戦いました!。しかしながら圧倒的な火力の差と補給力の差により、日本軍は劣勢を挽回することなくジリジリと後退を続け、日本軍の首里撤退を決行する5月27日までは、首里以北での戦線を維持し続けたのです。
見方を変えてみれば、圧倒的な砲爆撃能力を持つ米軍をしても、首里制圧までに二ヶ月を要したという事ですね。
制空権・制海権の無い中での無補給という苦しい戦いでしたが、この二ヶ月間日本軍将兵は世界史に残るような敢闘精神を発揮し、肉弾攻撃を主体に本当によく戦いました。
「日本軍将兵は戦場で何を見、何を感じたか…。
どの様な気持ちで肉弾突撃し死んでいったのか…。」
読谷村付近から首里まで、主要な戦跡を静かに歩き、当時に思いを馳せたい…。と考えています。
2,南部に散在する主要なガマ(自然壕)を慰霊巡拝する
例えば「轟の壕」とか「ヌヌマチガマ」など、本島南部には大小さまざまなガマ(自然壕)が散在しています。これら主要な壕の多くは現在でも見学が可能であり、実際修学旅行生などが平和学習の一環として数多く訪ねていますよね。
日本軍の首里撤退以降の南部の壕や洞窟には、日本軍敗残兵や民間人で埋めつくされていました。
米軍の「馬乗り攻撃」などの厳しい掃討戦により、人々はジリジリと南端へと追いつめられ、壕内外や山野の逃避行の中で多数の戦死者や戦傷者を出したのです。
特に恐れられたのは米軍の壕への「馬乗り攻撃」で、中に隠れていた数多くの民間人がブルトーザーなどにより生き埋めにされたり、爆雷や黄リン弾などを投げ込まれたり、ガソリンを流し込まれたりと攻撃されて死んでいきました。現在でもその機械力により埋められた未発見の壕が、かなりあると言われています。
壕の中に入っても、沖縄戦当時の面影はほとんど失われている可能性が高いですが“当時の空気”は感じ取れるはずですからね。暗い壕内に入り“当時の空気”に思いを馳せたいと思います。
訪ねたい場所がかなり多いので、今回だけでは終了しそうにありません。そして初めて訪問するところばかりですので、場所探しに時間をとられる可能性もあります。
という訳で、まずはアバウトにルート設定をして、到着した現地の状況に応じて、見学や巡拝を進めていこうと思いますよ(^o^)。
「ゆいレール」で空港離れ、予約していたレンタカーを借りて、北部へ向けていざ出発という時に、沖縄で「平和学習ガイド」をしている松永氏から私の携帯に電話がありました。
「遺骨があるかもしれないという民間情報があるので、明日一緒に調査に行こう」というお誘いの電話でした。
松永氏は長年沖縄で「平和学習ガイド」として活躍しておられる事から、沖縄戦などについて膨大な情報を持っているのです。私の知らない話をお聞きする事が多いので、今年も金光教沖縄遺骨収集奉仕でお会いできることを楽しみにしていましたが、その前にお会い出来、しかも一緒に遺骨収集できるという事でとても嬉しく思いましたよ。明日がとても楽しみになりましたね~(^o^)。
米軍嘉手納基地
レンタカーに乗り込み、まずは読谷村に向けて車を走らせることにしました。那覇インターから高速道路に入り、沖縄南インターで降りて、米軍嘉手納基地の北側にある「安保の丘」とほぼ同じ場所にある「道の駅かでな」を最初の見学ポイントとしたのです。
高速道路を降りて、しばらく北上を続け県道74号線に入ってくると、左側は広大な米軍の嘉手納飛行場施設が見えてきました。市街地の街並み混雑さとは別世界であるかのように、広大な敷地の中にゆったりと諸施設が整然と並び、芝生などの手入れが行き届き、そのあまりにも大きな対比に愚痴の一言も出ようというものですよ(^^;)。
嘉手納基地は、沖縄市・北谷町・嘉手納町にまたがり、その広大な広さは2007万㎡とのこと。とにかく反対側が霞んで見えないほどです(^^;)。
基地内には約2万人の軍人・軍属とその家族が住み、紛れもなく基地内は“合衆国”ですよね。
この嘉手納基地のほぼ北側に、基地に面するように「道の駅かでな」はありました。車を駐車して、最上階の展望デッキに出てみましたが、広大な嘉手納基地のかなりの部分を展望できることに驚きましたね。時々激しい轟音と共に離発着する戦闘機などが行き交い、正に軍事基地そのものの雰囲気でした。
そして道の駅最上階の展望デッキから見ると、前の道を挟んで目の前に「安保の丘」はありましたよ(^o^)。一昔前は嘉手納基地内を見渡せる数少ない場所として注目された「安保の丘」も、現在はより高い位置で嘉手納基地を見ることの出来るこの道の駅展望台があるので、「安保の丘」にわざわざ訪れる人はかなり少ないのではないかと思われます。
この「安保の丘」は、ベトナム戦争当時は北爆に発進するB52戦略爆撃機を見ることが出来ることから、かなりの人々でごった返していたという事です。そしてもちろん、安保闘争の時代には数多くの反戦の闘志達によって、広くはないこの丘の上に人々が集まり、怒号に埋めつくされたことでしょう。
現在の嘉手納基地に関わる沖縄県民の関心事は、いつ米空軍最新鋭ステルス戦闘機F22Aラプターが降り立つかという事のようですよ!。 本土の新聞でも関連記事を目にしていましたが、到着がすでに何度か延期となっており、来ることは間違いないがいつ来るかは誰にも解らないようです。
所詮、米国にしてみれば最新鋭戦闘機の飛来も、対北朝鮮の六カ国協議の駆け引きに利用しているにすぎず、沖縄を守るためにやってくるわけではない。そもそも地元ではF22Aラプターの配備を反対しているのです。もちろん基地の機能強化につながると考えているからですよね。
展望デッキには、修学旅行生らしき集団も居ましたし、高価なカメラを持つプロの写真家らしき姿の人もチラホラ居ましたから、嘉手納基地内を見たり撮影するために、年間を通して大勢がここにやってくるのではないかと感じました。
米軍嘉手納基地
「道の駅かでな」から展望する米軍嘉手納基地の様子です。基地の広さは2007万㎡。見渡す限りの広大な規模であることが解りますね。
こちらは道の駅から一段低い場所にある「安保の丘」から見た米軍嘉手納基地の様子です。
沖縄県本島及び諸島は、東アジア地域のなかで台湾と共に極めて地政学的要衝に位置しています。その重要性は沖縄の人たち自身が肌で感じている感覚ではないでしょうかね。
沖縄は琉球と呼ばれた遠い昔から、中国や台湾をはじめ東アジア諸国との交易により栄えてきたのでした。実際に沖縄県を中心として地図を見た場合に、驚くほど東アジアの主要拠点である台湾や北京そしてソウルなどに近いことが実感出来るでしょう。
20世紀に入ってからの「沖縄の悲劇」は、この東アジアのあまりにも地政学的要衝に位置していた為とも言えるのではないでしょうか。
おそらく米空軍最新鋭ステルス戦闘機F22Aラプターの嘉手納基地配備を、沖縄県や地元自治体がどれほど反対運動を展開しようとも、いずれは打撃戦闘集団と共に正式配備される事になるでしょう。
米国はトランスフォーメーションという形で東アジアの軍備再編を進めていますが、再編の内容を詳細に見ていけば、米軍は沖縄を防備するつもりは無いという事実が見えてくるでしょう。更には、日本有事の場合には日米安保条約により米軍が日本を守るという根幹さえも空洞化していこうとしているのが解ります。
米軍再編というキーワードは、米国における将来への国際戦略と連動して動いているというのは言を待ちません。この米国の進むべき方向を見定めることが、沖縄の軍備がどのように変わっていくのかのガイド役を果たしてくれるでしょう。
現在米国は、世界覇権の維持を賭け中東やヨーロッパをはじめ、中央アジアなどでさかんに生き残り戦略を展開していますが米国のこれから先の国家戦略とは何か?。
それは、
1,米国繁栄の源泉である「ドル基軸通貨体制」を死守する。
2,中東や中央アジアの石油を米国のコントロール下に置く。
これが米国の最重要な国家戦略なのです。
これは共和党政権であろうが民主党政権であろうが、変わることない不変の国家目標といえるでしょう。
この国家戦略に基づいての実際行動が、米国によるアフガニスタン攻撃であり、イラク侵攻であったのです。
例えば米国のイラク攻撃は、石油資源確保が真の目的だったとする見解を、前米連邦準備制度理事会(FRB)議長のグリーンスパン氏も、自身の回顧録の中で暴露したのです。
「イラク戦争はおおむね、石油をめぐるものだった。だが悲しいかな、誰もが知っているこの事実を認めることは政治的に不都合なのだ…」と語ったのです。
米国は、ベトナム戦争介入の理由もでっちあげだったように、恐るべき事に9・11米国同時多発テロを自作自演してまでもです…。
「9・11米国同時多発テロは米国の自作自演ではないか!」
これを実証しようと試みるサイトや書籍は多数ありますが、ここで私も読んだ一冊を皆様にご紹介したいと思います。
「9・11テロ捏造 日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ」
ベンジャミン・フルフォード著 徳間書店 平成18年(2006年)初版
原油決済をドル以外のユーロや円で行うと発言し、実際にそのように動き出しているイランも米国のターゲットとなっています。米国はやがてイスラエルと共にイランの核関連施設や主要な軍事施設の空爆という形で実際にイラン攻撃を始めるでしょう。
日本軍による真珠湾攻撃の前、米国は日本を太平洋戦争に引きずり込むべく、軍事外交戦略を駆使して「ハル・ノート」に表記されているように、石油禁輸措置を含むあらゆる政治・経済面で、日本側を締め上げることに全力で取り組みました。
日本が真珠湾攻撃に駒を進めざるを得なかったように、米国はいま同じようにイラン海軍を真珠湾にむけ出航させようと画策しているのだ。 実際にイラン海軍が太平洋を横断していくわけではありませんが、「リメンバー パールハーバー!」と叫ぶためにイランの先制攻撃が必要なのです。
イランによる米国への先制攻撃をさせるために、米国はいま水面下であらゆる方面からイランの締め上げを進めているところです。
つい最近にも動きがありましたね。イランの革命防衛隊をテロ支援組織として認定したのです。これにより、イラクなどで革命防衛隊の介入や武器支援をでっち上げるのが容易となりました。
こうしてジワリジワリと締め上げていく…。イランの悲鳴が聞こえてきそうですよ。
戦争とは、砲弾やミサイルが飛び始める頃は、すでに戦いの終盤を迎えているという事なんですよね…。
おそらく来年には、イランが戦端を開くか米軍を挑発をしたとかの理由をつけ、米国・イスラエル連合はイランの空爆を開始するでしょう。 あるいは、戦火はまずシリアやレバノンから上がるようにし向けるかもしれない。
中東のどの国から戦火が上がろうとも、最終的には米国のイラン攻撃は開始される事に間違いはなく、結果としてイスラム同胞の国々を刺激し、シリアやレバノンの反米国家や、エジプトやサウジアラビアをも巻き込んで、中東全域に戦火が拡大するに違いない。
歴史はこれを第5次中東戦争と命名することになるでしょう。
イランを黙らせれば、中東の石油はすべて米国のコントロール下に入るのです。米国は国家の存続を賭け全力で中東支配に取り組む事になるでしょう。
ということで、イラク駐留米軍が早期にイラクから撤退することなどあり得ないと言えます。
あり得ないと言えば、このように米国はこれから先、軍産複合体による戦争経済を益々強化していくことになりますので、米国の次期大統領候補である民主党のヒラリー・クリントンが次期大統領になることもあり得ないとなります。
何故なら彼女は、ウォール街の利益を代表してはいますが、軍産複合体とのパイプは細いからです。
米国の次期大統領は、軍産複合体に連なる人脈から選ばれる事になるので、民主党ではなく共和党が引き続き政権を担う事になるでしょう。
米国は今まさに斜陽だ!。他通貨に対してのドルの下落スパイラルが止まらない!。
およそ10年前には、貿易等の決済に対するドルのシェアは50%を越え敵無しを誇っていたが、今のそれは限りなく20%に近づきつつある…。
これはブッシュ大統領が無能だという証左でもあるが、米国が覇権崩壊の過程を早めている事に起因しているのは明らかです。米国の国力の源泉であったドルの基軸通貨としての地位崩壊が、我々の視界の先に見えてきた!。
帝国の終焉は、いつの時代も通貨の崩壊と共にやってくるのだ!。
米国は敗北感に打ちひしがれながら、これからはドル安(=円高)で経済の舵取りをしなければならないだろうし、ドル安により輸出主導型の経済に変換していかなければならないので、当面は豊かさという実感もお預けとなる。
なにより米国金利はこれから先数年は上げられないだろう…。サブプライムローン危機で米国経済界は大混乱に陥っているが、舞台は幕を開けたばかりであり、この危機は来年が本番なのだ。危機を回避するため安易に利下げを行うだろうが、あと三回利下げしたらドルは致命的なダメージを受ける事になる。
ゼロサムゲームである金融が実体経済を圧倒的なパワーで主導した時代はこれで幕を閉じる事になる。これは米国の覇権と繁栄が折り返し点を回ったと誰もが認めざるを得ない認識へと繋がっていくでしょう。
従って、膨大な貿易赤字を垂れ流す米国が、国家破産を避ける道はただ一つ!。石油収入に潤う中東各国にこれでもかというほど武器を売却し(同盟国以外の敵対する国も含む)、そのあげくに米国軍隊により最終的にそれらの国を叩きつぶす…。
軍産複合体は二度にわたり、売り上げを伸ばすことが出来るという訳ですよ!。
日本の公共事業といえば土木・建設工事が思い浮かびますが、米国の公共事業といえばそれはズバリ戦争なのだ!。兵器産業ほどウハウハの商売は無い!。米国は戦争行為を「儲かるビジネス」に変えた画期的な国なのだ。軍事占領することにより戦後復興ビジネスも独占できる!。
原油がグングンと値上がりしていますね。確かに米国国民にとってもやり繰りが大変になっているのは事実ですが、米国のこれからの国家戦略にとっては追い風となっているのです。何故なら、テロを相手にチマチマと戦うのではなく、デカイ戦争が出来るからです。
中東の石油支配の見通しがつけば、米軍は東アジアにやってくるに違いない。
東アジアに目を向けてみますと、米国による「中国を民主化しドルの支配下に置く」という国家戦略が存在します。
米国が望む時に中国バブルを崩壊させ、同盟国と連携し一斉に資本を引き上げ、結果として中国国内に失業者を溢れさせ、民衆の不満を爆発させ暴動を頻発させるようにし向けるはずです。
もちろんこれは、中国共産党が民衆の不満のはけ口を、外の世界へ向けさせるだろうと読んでいるからですよね。米国は、ここでも中国に先に手を出させ、反撃の口実を作るのです。
中国共産党政権は、アンフェアな競争社会の中で地球上の出来事とは思えないほどの貧富の格差が拡大し、食品などの生命に対する脅威を感ずるような、人間が住める環境ではないレベルの環境破壊により、爆発寸前の中国民衆の苛立ちを外に向けるために、
1,台湾に向け電撃的に軍事攻撃を仕掛ける。
2,尖閣諸島にミサイルを撃ち込み、軍隊を駐留させようとする。
現状では中国の軍事攻撃は、尖閣諸島攻撃の可能性のほうが高いと思われます。
なぜなら台湾攻撃は米国の反撃という大きなリスクがありますが、尖閣諸島攻撃にはそれが無い…(^^;)。
また、米国がそのような工作をしなかった場合でも、そして中国バブルがソフトランディングしたとしても、中国共産党は北京オリンピックが終われば、台湾への武力侵攻へ向けた動きを加速させる可能性があります。
いずれにしても日本は、アジアの平和と安定に責任を持つ国家だと自覚するのであれば、集団的自衛権問題などを早急に解決し、起こりうる脅威に対抗しうる防衛態勢を、早急に整えておかなければならないのは申すまでもありません。
特に南西諸島における防護態勢は、すぐにでも即時対応の練度を上げておく必要があると思われます。
遅くとも中国での2010年上海万国博が終わり、中東での第5次中東戦争が峠を越えれば、東アジアは激動の時代がやってくると見て間違いありません。
これから先10年ほどは、米国の覇権衰退という事態もあり、東アジアのパワーバランスが大きく変動する可能性が高いですね。
米国が東アジアでの国益を追求するにあたり、沖縄が極めて重要な拠点と考えている事が御理解頂けたのではないでしょうか。その中でも米軍嘉手納基地は、米国による中国支配に向け戦略的に極めて重要な役割を果たしていくことになります。
これらを総合的に俯瞰しますと、沖縄の願いも空しく米国は嘉手納基地をはじめ、沖縄に散在する軍事施設を世界戦略の最重要拠点として、半永久的に使い続けるつもりでいるのです。
沖縄は日本の領土なのに、米国は日本国や沖縄県の意向に関わらず当たり前のように、軍事基地として使い続けるという訳です。
これは戦後60有余年続いている米国による戦後占領体制が、これからもずっと続くのと同義ではないでしょうか…。
私はこの文章を読んで下さる皆様に、ぜひ提言したいですね(^^;)。
私達の身の安全を、そして国家の安全保障を、日本の若者でなく米国の若者にお任せしていることが、不自然と思わない事自体に違和感はないでしょうか…。
沖縄県民の願いである米軍基地撤去は達成できるのか。沖縄に戦後はやってくるのか。日本は真の独立国家となれるのか…。
それはまず 「日本国は自分たちで守る」 という強い気概を、まず日本国民一人一人がしっかりと持たないことには、米国軍隊を沖縄及び日本国から追い出す日は、永遠に訪れないのではないでしょうか。
話がかなり逸れてしまいました~(^^;)。
沖縄は軍事的に極めて重要な位置にある事が判りましたが、これを経済面から見据えれば、強力なメリットとして極めて有利な立場にあると言えるのではないでしょうか。
「沖縄は米軍基地が存在することにより日本の高度成長の波に一緒に乗れなかった」残念ですがこの現実が沖縄の経済活動に、今でも大きく尾を引いていることに間違いありません。
国への財政依存が40%を越えるという補助金漬けの経済、失業者特に若者の完全失業者率が全国平均の二倍の13%もあり若者の活力を削いでいる等々。
また義務教育レベルの学生の学力レベルが全国で最下位であることなど、経済や教育に於いて構造的に抱える問題も多い沖縄ですが、観光産業はこれからも伸長が期待できますし、沖縄の持つ地理的諸条件を有効に活用していけば、沖縄の未来は限りなくバラ色と言えるのではないでしょうかね~~(^o^)。
基地縮小に伴い広大な敷地が沖縄に返還されますので、産業誘致やリゾート開発などが可能となりますよ。那覇空港を強化し東アジアのハブ空港として貿易や物流の拠点とするのはいかがでしょうか(^o^)。
そして地震がほとんど無いという優れた地理的条件を生かして、沖縄を本土におけるデータのバックアップ基地にする等々…。
「チャンプルー」とは混ぜ合わせるといった意味だそうですが、この混ぜ合わせる事こそが琉球時代から連綿と続く沖縄文化の強みではないでしょうか。
米軍基地の存在に翻弄される「ウチナンチュウ」ではありますが、チャンプルー精神であらゆる困難を逆手にとって琉球文化・沖縄文化をこれからも、日本にそして広くは世界に向けて飛躍させてほしいですね(^o^)。
嘉手納基地の、もの凄い轟音と共に飛び立つジェット戦闘機…。
「沖縄の一等地」を我が物顔で使っている米軍嘉手納基地を見たら、ついつい熱くなりひどく話が脇道に逸れてしまいましたね~。(^^ゞ
サッ急いで次の目的地まで進みませう(^^;)。
米軍楚辺通信所(象のオリ)
道の駅の展望デッキから下の階に降りて遅い昼食を食べ、空いていたお腹も満たされたので、午後の活動に向かって出発です!。
次に訪ねる場所は米軍楚辺通信所(象のオリ)に決めました。
巨大な嘉手納ローターリーを回り、国道58号線を北上し、地図を頼りに右に左に曲がって進むと、お馴染みの通称象のオリと呼ばれるに相応しい、巨大な鉄骨の構築物が現れてきましたよ(^o^)。
道に迷うことなく無事に楚辺通信所通称「象のオリ」前の駐車場に到着しました。
ここの敷地面積は何と約53ヘクタールに及び、高さ37メートル、直径約200メートルという巨大な直径の鉄骨構造物となっています。
読谷村内にあるこの「象のオリ」は沖縄基地問題の象徴として、繰り返しテレビなどで映し出されたことから、見たことがあるという方は多いはず!。
国を挙げての土地返還運動が実り、昨年12月これから訪ねる予定の読谷補助飛行場跡地と共に、日本側へ全面返還が決まりました(^o^)。
ですから、今はこうして静かにたたずむ「象のオリ」も、年内には解体工事が始まるものと思われます。従って、来年の今頃は更地となっているはずですから、見学も本年がラストチャンスだったという訳ですよね(^o^)。
ただ喜んでばかりはいられませんよ!。解体費用の1億7000万円は米国が負担するのではなく日本国費から出すんですよ!。なんか納得できませんよね~~。
それから「象のオリ」などが返還されてもなお、読谷村の実に36%に及ぶ面積の地域が、いまだ米軍弾薬庫など米軍基地関連施設として占領されたままとなっているのですからね。単純には喜べませんよ。
米軍楚辺通信所(象のオリ)
高さ37m、直径約200mの巨大な鉄骨構造物である米軍楚辺通信所(象のオリ)の様子。日本への返還が決まり年内に解体されることから見学はラストチャンスでした。
読谷補助飛行場跡
米軍楚辺通信所の次は「読谷補助飛行場跡」を目指すことにしました。
地図で見ると飛行場跡は米軍楚辺通信所のすぐ裏手に位置しているようです。すぐに発見できるでしょう(^o^)。
しばらく車を走らせると、広々とした荒野のような場所に出ましたので、もしかしたらこれがそうなのかなと直感で感じましたね。
元飛行場ですからかなり広いですよ(^o^)。地図で見る限り滑走路らしきものが二本並行しています。私は二本のうち左側の駐機場が、一定の間隔で並ぶ側に車を進入させました。
元滑走路部分の道路となっている以外の場所はというと、耕作放棄地のような、そうでないような雰囲気の農地が広がっています(^^;)。
ここ読谷補助飛行場跡は、海岸線から見るとちょっとした高台にあり、滑走路としての機能面は抜群の環境なのだと言うことが一目で分かりました。
沖縄戦の時には日本軍の航空基地として「北飛行場」と呼ばれ、東洋一の規模だとされていました。沖縄戦を戦うにあたり、日本軍は離島も含め「北飛行場」など15カ所を「浮沈空母」として、飛行場建設を決めたようです。
ただ残念なことに、この北飛行場も米軍による1944年の「10・10空襲」により、壊滅的な打撃を受けましたし、戦況の悪化から飛ばす戦闘機なども無く(^^;)、多大な労力で建設した飛行場の割には、有効に活用したとはとても言えませんね。
ここ「北飛行場」も米軍上陸の4月1日のうちに占領されてしまったのでした~~(^^;)。
米軍占領下戦後から今日まで「読谷補助飛行場」は、米軍のパラシュート降下訓練に使用されていました。降下してくる戦車に地元の子供が押しつぶされ死亡するという事故など、痛ましい人身事故が多発したようです。
しかし嬉しいことに、米軍楚辺通信所と共に昨年12月日本側に返還されることが決まりましたので、今後の活用に期待が集まりますよね。 ぜひ沖縄の産業活性化の切り札として、再開発を進めてもらいたいですね(^o^)。
読谷補助飛行場跡
広大な野原に一直線に伸びる旧滑走路!。ここは「北飛行場」と呼ばれていました。写真奥に赤い屋根の読谷村役場が見えます。日本側への返還が決まりましたので、これからの土地活用に期待ですね。
飛行機になったつもりで滑走路をぶっ飛ばしました。
つぎの目的地は読谷補助飛行場跡内にある日本軍の飛行機の格納庫を見学することでした。
驚くことに、日本軍が当時建設した格納庫が三カ所現存しているというのですよ。これは絶対に見ておくべきだと感じたのです。
ただ持参の地図上では、その場所は全く解りません…。
探すのに時間がかかりそうだな…。
どうしようかなと思案しながら車を走らせていると、目の前に大きな建物である読谷村役場が見えてきました。一瞬のひらめきでしたが「そうだ、役場で聞けばすぐ教えてくれるだろう」と思いつき、さっそく車を止めて訪ねました。
予想通り現存する格納庫の場所や、これから訪ねる予定の「シムクガマ」や「チビチリガマ」の場所を記した地図などももらうことが出来ましたよ。ヤッターといった気分でしたね。
さっそく格納庫が現存すると思われる場所に向かいました。ですが場所を言葉で教えてもらったものの、距離感がつかめずかなり回り道をしてしまいました~(^^;)。
どうしても探しきれなかったので、車を降りてサトウキビの収穫をしている人が居たので「格納庫のある場所をご存じないですか」と訪ねました。
そしたら「すぐ後ろにあるよ」と教えてくれました。
「ヒョエ~、後ろ~」。
確かに言われたとおり後ろを振り返ると、格納庫らしき小さな建物がありました。
探すのに手間取ったのもうなずけます。もっと大きな大きな構築物だとイメージしていたからでした~。目の前にある格納庫は思いの外小さいものでした。
正式名称は掩体壕(エンタイゴウ)と呼び、戦闘機などを格納していたようですが、コンクリートで作られたと思われるアーチ状の屋根となっている格納庫は、現在農家が倉庫や休憩場所として利用しているようです。
掩体壕の作り方は至って簡単。ドラム缶をアーチ型に積み上げ、その上に土を一定の厚さに盛り、その上にコンクリートを流し、コンクリートが固まったらドラム缶を外すという手順だったようです。
二つあるうちの一つの格納庫前には、持ち主かと思われるご主人が居ましたので「撮影させて下さい」と声を掛けると、慣れた雰囲気で、オッケーという合図を返してくれました。
ご主人の慣れた対応に、恐らくは私のように戦跡である格納庫を訪ねてくる方々が、沢山いらっしゃるのではないかと感じましたね。
読谷村役場
「読谷補助飛行場跡」北端にある読谷村役場です。親切に戦跡のある場所を教えて頂きました。ありがとうございました。m(_ _)m
読谷村役場の道を挟んだ反対側にある「義烈空挺隊玉砕の地」という慰霊塔です。特攻出撃12機中1機が読谷飛行場に強行着陸し、搭乗員8名は一定の戦果を上げ玉砕しました。
旧「北飛行場」に現存する日本軍格納庫
コンクリートで作られたアーチ状の屋根の前に設置されたトタンも当時のもの?。現在は農家の農機具置き場となっているようですね。
アーチがいかにも格納庫といった雰囲気ですよね(^o^)。よく爆撃に耐えたものですね~。ここは農家の皆さんが休憩する場所になっているようです。
チビチリガマ
掩体壕の見学を終え、これから読谷村役場でいただいた簡易な地図を頼りに、「チビチリガマ」と「シムクガマ」を訪ねることにしました。
この二つのガマは、直線距離でたったの1km程しか離れていないのですが、「チビチリガマ」では集団自決が発生し80余名の尊い命が失われ、一方の「シムクガマ」では壕内に立て籠もっていた約1000人は全員が捕虜となって生還しました。
この隣接する二つの壕で、明暗を分けてしまった理由は何なのか?。壕を訪ねつぶさに見届けることにより、何か見えてくるのではないか…。
読谷村役場から車で10分ほどのところに「チビチリガマ」はありました。駐車場やトイレも完備され、すぐにここだと理解できました。
駐車場横にちょっとした森があり窪地となっていました。そして10メートルほどの階段を下に向かって下りていきました。すでに写真などで壕周辺の様子は確認してありましたので、すぐに目の前が「チビチリガマ」であることが解りました。右側には小川が流れています。壕の生活ではこの水が活用されたのでしょうか?。
壕入り口右側には波平地区の人たちが建立した「世代を結ぶ平和の像」が建立されていましたが、1987年に右翼により破壊されてしまったようです。
今現在設置されているものは、その後新たに再建されたもののようですね。
壕の左側には「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」と題した碑文が刻まれていますが、雨などにより汚れてハッキリと読み取れない部分もありましたが、文脈はだいたい理解できました。
壕の中に入ってみましたがすぐに行き止まりとなり、かなり狭いという印象です。壕というよりは横穴という表現がピッタリすると感じたほどでした。
「チビチリガマ」は、遺族会の意思により立ち入り禁止となっているのは承知していましたので、もしかしたら壕も更に横穴があったが塞がれたりした可能性もありますね。
いずれにしてもこんな狭いところに、地元の人たち140名近くの人たちが避難していたのか…。そして4月2日集団自決が発生し、この「チビチリガマ」で83名の方々が絶命していったと記録されています…。
証言に寄りますと、「アメリカ軍上陸後に、壕の中から男達が竹槍を構えて突撃していったが、男二人が壕の前で狙撃されバタッと倒れた。すると壕内の避難民は絶望感でパニックに陥り集団死が始まった」と答えたそうです。
私も前に進めるだけ進んで壕の底に入り込み、底部にたたずんでみて当時の人たちの心情を理解しようとしました…。改めて集団自決された人たちのご冥福を心よりお祈りしたいですね m(_ _)m。
この「チビチリガマ」は、地元の人たちが遺骨収集をしたあと、平和学習の場として整備され一般公開されていますので、皆さんもぜひ一度訪ねてみる事をお勧めしたいです。
「チビチリガマ」
駐車場から10メートルほどの階段を降りると、左手にガマが見えてきます。小さな森の中といった印象です。右側には小川もありました。
「チビチリガマ」の全景です。新しい千羽鶴が沢山供えられていました。右側は「世代を結ぶ平和の像」、中央が壕の入り口、そして左側に碑文が見えますね。
壕入り口から撮影しました。壕内の様子です。思いのほか奥行きがありませんし狭いです。ここで83名もの貴重な命が断たれました。
「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」と題する碑文です。雨などの汚れでちょっと読めない部分もありましたが、ストーリーは理解できました。
シムクガマ
心を重くしながら今来た階段を昇り、ここから1kmほど離れた同じ波平地区内にある「シムクガマ」を訪ねることにしました。
「シムクガマ」は楚辺通信所の北側に位置しているようなので、まずは高くそびえ立ち目標物としては最適な楚辺通信所の北側を目指しました。
地図を頼りに複数の部落といった町中を通過すると、かなり近づいてきたのではないかといった雰囲気の田園風景が広がって来ましたよ(^o^)。
「壕は近い」と感じさせる情景が広がっていましたが、結果として「シムクガマ」を探し当てるまでに、かなりの時間を使わなければなりませんでした。トホホ
住宅地の外れには、サトウキビ畑が広がっていました。畑のあぜ道をウロウロと…。楚辺通信所の北側をウロウロと…。
あっちの道こっちの道とかなり探し続けましたがどうしても解らないので、畑の外れにある民家の庭で母親と少年が草刈りをしていましたので、「シムクガマ」の所在を訪ねましたら、すぐ近くにあると母親が語り、少年に向かって「案内しておやり」といった雰囲気で語りかけました。
沖縄の言葉なのでちょっと理解できませんでしたが、少年はうなずいてから畑のあぜ道を進んでいったので、私は母親にお礼を言ってから子供の後についていきました。
民家から100mぐらい草むらや雑木が茂る小道を歩くと、探していた「シムクガマ」の入り口が見えてきましたよ。
「シムクガマ」に到着するまで、子供と話をしながら進みましたが、ここいら周辺は子供達の遊び場となっているようです。「シムクガマ」の中に入ったりして遊ぶのかな…。以前、沖縄の子供達は戦死者の出た壕で、肝試しに入ることがあると聞いたことがあります。
「カメラで撮影するから少し待っててね」と少年に語り、20mほど壕に入り急いで何枚か撮影しました。
懐中電灯で照らして見ましたが、かなり奥が深そうです。壕の真ん中を小川が流れていました。そして両側に道が出来ていて全く問題なく歩いて中に進めそうです。
今回は少年が待っていますし、時間もないので奥へは進めませんが、全長3kmほどもあるそうですから、部落住民1000名余りが避難していたという話は理解できますよ。水には困らなかったでしょうし十分な奥行きがある事から、二つの壕は規模がまるで違うという差がある事は判りました。。
この「シムクガマ」に避難した部落住民の中に、ハワイへの移民帰りの人が二人居たそうです。
彼らが包囲した米軍指揮官と「民間人しか居ないので攻撃しないでほしい」と交渉しましたら、米軍は了承し避難民は全員壕から出て収容所へと向かったと言われています。
ハワイからの移民帰りの二人の名は比嘉平治氏と比嘉平三氏で、彼らの救命行為を顕彰する意味で、「シムクガマ」の壕内に「救命洞窟之碑」が建立されているそうですよ(^o^)。
少年を待たせているのであまり時間をかけるわけにはいきません。手短に撮影し少年の所に戻ると「ありがとね~(^^)/」と声をかけ、一緒に来た道を帰っていきました。
車に戻って、改めて読谷村役場で頂いた地図を見てみますと、正確に「シムクガマ」の位置が表記されていました(^^;)。すぐに壕を見つけられなかったのは、私が地図をしっかりと見なかったことが原因でした~(^^;)。
「シムクガマ」
住宅地の外れには広いサトウキビ畑が広がっていました。のどかな沖縄の原風景といったところでしょうかね(^o^)。
サトウキビはまだ人間の身長をこえていませんし、茎も細く緑も活き活きしています。来年あたりが収穫になるのかな。
サトウキビ畑を抜けてくると楚辺通信所の北側敷地に出てしまいました。53ヘクタールもの広大な敷地であることが納得出来るほどに広い芝地が広がっていました。
楚辺通信所の北側にある雑木林の中に「シムクガマ」はありました。初めて来た人にはちょっと解りにくいですよね。私もかなり探しあぐねました…。
これが「シムクガマ」入り口付近の様子です。左側に通路が出来ており、中央付近の窪みには小川が流れていました。
※壕の奥に丸い光が見えますが、ストロボ光が何に反射したかは不明です。
「シムクガマ」を20mほど中に入ったところから撮影しました。小川を挟んで左右に道が出来ていますので、難なく中に入って行けそうですね。
座喜味城趾
避難住民の生死の明暗を分けた「チビチリガマ」と「シムクガマ」を慰霊巡拝したあとは、読谷村役場北方にある座喜味城趾を訪ねることにしました。
座喜味城趾はすでに世界遺産にも登録されているほどの歴史建造物であり、また沖縄戦では日本軍の陣地も置かれて激しい戦いの舞台にもなりましたし、戦後米軍に占領されてからはレーダー基地が建設された為に、古来からの城郭は形跡を留めないほどに破壊されてしまったようです。
沖縄県が日本に復帰した1972年から復元整備工事が進められ、往時を偲ぶ城郭が復元されて国の史跡に指定されたり、世界遺産にも登録されたという推移があったようです。
読谷村役場から10数分走っただけで、小高い丘の上にある座喜味城趾駐車場に到着しました。
公園内を歩いて進み、しばらくすると城郭が目の前に現れてきましたよ。
江戸城のように直線の石組み面ではなく、曲線の多い石積みとなっているのが特徴でしょうか。
座喜味城は、1420年(尚思紹王代15)の頃、護佐丸により山田城の石を運ばせて築城したとされています。
城の上から見た展望が素晴らしいと聞いていましたので、まずは城の全体を把握すべく城壁の上の部分へと歩みを進めました。
天気が快晴に近い状況もあり、城壁の上から見渡す風景はとても素晴らしいの一言でした。標高は130mとの事ですが、気象条件が良ければ那覇市内までも見通すことが出来るそうですよ。
城壁の南端に来ると、先ほど訪ねた赤い屋根の読谷村役場や読谷補助飛行場、そして楚辺通信所などが眼前に見えます。そしてもう少し右に目をやれば、青く澄んだ東シナ海が見通せます。
城壁の上から見る城全体の風景も、実に曲線が多用された美しい城であったというのがよく理解できました。そして2000年12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産にも登録されたということです。
沖縄戦が始まった1945年4月1日、米軍は比謝川河口を中心として南北10kmあまりの海岸線から上陸してきました。
米軍は1,300隻以上の艦船と18万人もの兵員でこれら海岸線から分散上陸を開始したのでした。
日本軍が作戦上反撃しなかったこともあり、米軍はほとんど無血上陸を果たし、その日のうちに北飛行場やこの高射砲陣地のあった座喜味城趾をも制圧してしまったのです。
避難住民の生死の明暗を分けた「チビチリガマ」と「シムクガマ」のドラマも、上陸後すぐに眼前の壕で展開されたのですね…。
座喜味城趾
座喜味城趾公園全体の俯瞰図です。緑豊かな小高い丘の上にある座喜味城趾は、曲線豊かな城壁で築城されていました。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された遺跡群の紹介図です。首里城も含めて9ヶ所が遺跡群として登録されているのですね。
ここが座喜味城の城門という事になります。シンプルで曲線を多用した入り口が、いかにも琉球王国といった雰囲気ですよね。
一の郭と二の郭とに挟まれた城壁の出入り口の様子です。ほとんど直線部分が無いのではないかと思われるほど曲線的な城壁となっています。
建物があった場所にある礎石のようです。礎石の規模からみた建物の大きさはそれほど大きい建物ではない印象ですね。
座喜味城趾から北側の風景を見ています。かなり遠くまで見通せましたが、北側は緑豊かな風景が展開されていますね。
座喜味城趾から南側の風景を見ています。読谷村役場や読谷補助飛行場が見えます。東シナ海の海岸線も遠くまで見通せますね。目の前の海岸線から18万人もの米軍が猛烈な艦砲射撃と共に上陸してきたのですね…。
座喜味城趾の西側の風景です。住宅街となっています。住宅街はウソで~す(^^;)。建物型をした沖縄独特の集合墓地でした~。
座喜味城趾の東側の風景です。かなり遠くまで見通せることが解りますよね。よく見ると貯水池がある事に気づきました。長浜ダムという名のダムがありまし。
座喜味城趾の見学も無事に終え駐車場に戻りました。かなり時間も経過しているので、今日の慰霊巡拝はそろそろ打ち止めとなりそうです。
座喜味城趾の次は、沖縄戦の中でも際だって激しく日米軍が激突した「嘉数高地・前田高地・慶良間チージ(米軍はシュガーローフと呼ぶ)」の三カ所と決めていたのですが、ちょっと時間が(^^;)。
これらの激戦の地は、大東亜戦争全体を通じても最大規模といわれる砲爆撃が集中した場所のようですよ。
まずは激しい準備艦砲射撃から陣地攻撃を開始する米軍にしても、5月12日から一週間続く慶良間チージ攻略では死傷者2,662人のほか、1,289人もの極度の精神疲労者を出したと記録されているとおり、米軍にとっても文字通りの沖縄戦最大の大決戦でもあったようですね。
日本軍将兵の尊い血で染まったこれら高地を自分自身の目でしっかりと見ておきたい…。
制空権・制海権を失い補給が途絶え、物資の不足を沖縄の地形を可能な限り活用し、圧倒的に優勢な米軍に肉弾で立ち向かった日本軍将兵の強靱なる敢闘精神は、世界戦史に慄然と輝くものであり、永久に顕彰していかなければならないと確信するものです。
この三つの高地については、まだトーチカなど若干の当時の構築物などがあるようなので、来年に時間をかけてじっくりと自分の目で見て、巡拝したいと考えました。
首里城
このままホテルに戻るは早すぎるので、勝手知ったる首里城に行ってみることにしましたよ(^o^)。
首里城といえば琉球王朝時代の宮城があった場所ですが、沖縄戦では第32軍司令部があったことから、国宝級の琉球文化にのシンボルでもある首里城は木っ端微塵に吹き飛ばされ、更には「石灰岩の白い岩山」になってしまったと言われるほどに激しく砲弾が集中した場所です。
現在の首里城といえば、沖縄が日本に復帰してから毎年のように首里城復元工事が進められ、1992年日本復帰20周年記念として首里城正殿の復元工事が為されましたね。
私も正殿内部も含めてお城は何度か見学させて頂いています。遺骨収集に参加した複数人のメンバーで見学に来たこともありましたね(^o^)。
この首里城敷地内にも見学ルートを少し外れると、第32軍司令部壕入り口など複数の戦跡を見学することが出来ます。
首里城正殿方向に進む前に、左側に樹木が生い茂る地域がありますが、そちらに進んでみて下さい。緑の林の中を探索すれば、そう時間をかけることなく司令部壕入り口など数カ所を発見できるはずです。
ただ温かい季節に草茂る林の中を探索する場合はハブに気をつけて下さいね(^^;)。
コンクリートで構築された壕入り口は、砲弾や銃弾が当たったとみられる欠損穴がたくさん見られますよ。
壕入り口は鉄柵などが設置され入れないようになっています。壕内部は陥没したり危険な場所もあるとのことで、あまり捜索はされていない。つまり当時のまま手つかずの部分もかなりあるとの事です。
米軍が本島に上陸した4月1日から第32軍司令部が南部に撤退した5月27日までは、司令部としてして機能していたし、日本軍将兵と共に民間人もかなり人数が壕に入っていたという話です。
白い石灰岩の禿げ山を想像しながら、あたりが暗くなるまで壕がある草むらにたたずんでいました…。
首里城内の第32軍司令部壕跡
1992年首里城復元と共にお化粧直しされた「守礼の門」の現在の様子です。決して豪華でなく壮大さもありませんが、それが守礼の邦琉球に相応しい雰囲気ですよね。
守礼の門をくぐり左側に降りてくるとこの道に出ます。左右に樹木が茂っていますがこの中に第32軍司令部壕入り口が複数箇所あります。
道を降りて平になると、森のほとりに円鑑池と島に建てられた弁財天堂ありました。朝鮮の李珠王から贈られた経典が収蔵されています。沖縄戦により焼失、1968年に復元されました。
コンクリートで構築された壕入り口です。かなり激しく破壊されている事が判りますよね。壕入り口のすぐ上は、観光客が行き交う通路となっています。
こちらもコンクリートで構築された壕入り口ですが、かなり大きいですね。手前の樹木なども当時は無かったと思われます。歳月の流れを感じますね。
鉄格子の中を撮影してみました。余り広い空間ではありませんでした。ここから横に奥深く入っていくのかな…。
「第32軍合同無線通信所」と書かれた目印がありました。
再び「守礼の門」に戻ってきたら門はすでにライトアップされていました。首里城郭周辺も毎夜ライトアップされるそうです。古を想起する幻想的な雰囲気ですね。