平成26年(2014年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月24日(金)故具志八重さんのお墓参り
- 1月25日(土)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 1月26日(日)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月08日(土)糸満市山城一帯、マヤーアブを調査
- 2月09日(日)糸満市束里、糸洲一帯を調査、午後は単独で摩文仁調査
- 2月10日(月)糸満市束里一帯を調査、午後は単独で摩文仁調査
- 2月11日(火)具志頭ヌヌマチガマにて清掃作業と遺骨収集
- 2月12日(水)ヌヌマチガマとガラビガマ間往復、ヌヌマチガマにて遺骨収集
- 2月13日(木)八重瀬町富盛一帯を調査、具志頭クラシンウジョウガマを見学
- 2月14日(金)平和学習ルート清掃、富盛一帯の壕調査、午後平和学習サポート
- 2月15日(土)第41回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月16日(日)第41回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 7月05日(土)波上宮参拝・摩文仁南部戦跡慰霊巡拝
- 7月06日(日)第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者(沖縄特別攻撃隊員)慰霊祭
2月13日(木) 八重瀬町富盛一帯を調査、具志頭クラシンウジョウガマを見学
本日の天気予報は終日雨だと。(^^;)(^^;)(^^;)
実際にホテルを出発する時にすでに雨でした。天候にはすっかり見放されてしまいましたが、めげずに朝の慰霊巡拝に出発しましょう。今日は伊原にある「赤心之塔」と「ひめゆりの塔」「「琉風(りゅうふう)の碑」の三カ所です。
「赤心之塔」
糸満市伊原にある「ひめゆり平和祈念資料館」です。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です。「赤心之塔」はこのアプローチの手前左側にあります。小さな石碑ですから注意深く探してみて下さい。
「赤心之塔」の解説文が書かれている掲示板と、奥の方に見える小さな石碑が「赤心之塔」です。
戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。
豪華に生花が飾られています。全部私がお供えしたと申し上げたいところですが、私が供えたのは二つだけで、あとは別のどなたかが、今朝という事はないと思えますから、昨日あたりにお供えしたものでしょう。ちなみにこうして毎日ひめゆりの塔の生花販売所で生花を買い求めますから、販売員の方も私を覚えてくれていて、よく会話をします。今日などは販売所の女性から「暖かいお茶を飲んでいきませんか」と言われて、お茶を頂いてしまいました。
「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。
※「赤心之塔」にまつわる詳しい情報は、昨年の平成25年参加記の2月11日(月)の記事をご覧下さいませ。力を入れて書きましたから、かなり詳細に記述してありますよ。(^o^)
「ひめゆりの塔」
新緑鮮やかな生け垣の先に「ひめゆりの塔」が見えますね。平成22年頃に慰霊塔や通路などの整備が為されましたね。まだ早朝である事から観光客はまだ誰も居ませんでした。
新旧の慰霊塔(納骨堂)ですね。手前の石碑が初代ひめゆりの塔です。1946年4月戦後間もない頃に建立された初代「ひめゆりの塔」は、終戦後の真和志村村長である金城和信氏が、村民と共に建立した「魂魄の塔」に続き建てられたものです。金城氏は沖縄戦で2人の娘を失っており、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」建立に尽力されました。
焼香台ですね。この焼香台も初代ひめゆりの塔と同時に設置されたような雰囲気ですよね。
「沖縄師範学校女子部一高女職員戦死者」「沖縄県立第一高等女学校生徒戦死者」と書かれています。この碑も初代に建立されたものと思われますね。
「いはまくら碑」ですね。
いはまくら
かたくもあらん
やすらかに
ねむれとぞいのる
まなびのともは
「陸軍病院第三外科職員之碑」です。沖縄陸軍病院第三外科の鶴田基行軍医大尉以下29人の職員の御霊が合祀されています。戦没職員のほとんどが6月19日の米軍によるガス弾攻撃で戦死したという事です。
「沖縄戦殉職医療人之碑」です。戦時体制になると、医師の大半が本土に疎開するなかで、沖縄に留まり軍に協力して、住民の衛生、保健、負傷した際の治療に従事して戦没された、医師や歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。
「琉風(りゅうふう)之碑」
「琉風之碑」です。米国の施政権下の1955年12月15日に、全国の気象台職員の芳志により建立さました。碑のある場所は糸満市伊原です。国道331号線から脇道に入り100メートルほど進と左側に見えてきます。「ひめゆりの塔」からは直線で150メートルぐらいの近さに有るのではないかと推測しました。それにしても、訪れる人もほとんど無いような印象で、少し寂しかったです。
沖縄地方気象台職員の沖縄戦における軌跡を書き記した著書をご紹介します。
「特攻に殉ず」
田村洋三著 中央公論新社 平成16年(2004年)初版
題名からもお解りのように、気象台職員の方々は日々の気象状況を懸命に沖縄守備軍に報告し続け、彼らの計測した気象情報が、鹿屋や知覧など本土からの特攻攻撃の発進に際し活かされていたという事になるのですね。
沖縄気象台職員は、軍隊への派遣職員をも含めて、身を守る銃器などは携帯していなかったかもしれませんね。そうしたなかで、彼らは戦争に必要な、特に特攻隊にとって極めて重要な気象情報を収集し発信し続けていた訳です。身の危険を常に感じながら、身を挺して見事に職務を全うした気象台職員戦没者に、私たちも手を合わせ心から哀悼の意を表しました。
【琉風之碑碑文】
沖縄戦も集結に近い昭和二十年五月下旬、選局は小禄村鏡水の沖縄地方気象台近くまで前線化した。職員は近くの壕内で業務を続けていたが、ついに五 月二十七日には壕を放棄し南へ後退せざるを得なくなった。
この一団は、豊見城村饒波をとおり、六月三日真壁村真栄平につき、そこで首里石嶺から軍気象隊とともに撤退してきた同隊への派遣職員と合流し、一体となってさらに南下をつづけ、この伊原の地にたどりついた。
約一か月にわたる苦難の道をたどり、死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し、いまや全く力つき果て、六月二十二日に至り生存者僅かに十二名となり、この岩陰に集り最後の解散をしその後それぞれの悲しき運命をたどった。
ここに、この地を元沖縄地方気象台職員の終焉の地として、戦没者七十柱の御霊を祀るため、全国の気象台職員の芳志により、昭和三十年十二月十五日琉風の碑が建立された。
いま御霊の三十三年忌にあたり、哀切新たなる?見え碑建立の概要を記し昇天の霊にささげる。
昭和五十二年六月二十三日
碑のある背後の山は小さな小山程度の大きさでした。林の中に少し入ってみましたが、壕らしきものは見当たりませんでした。天を突くようにそびえ立つ碑の周りには、沖縄戦当時は小木か無かったであろう木々が、今では大きく成長しそびえ立っていました。
沖縄戦で戦没された沖縄気象台職員70柱の名前が刻まれています。
午前の遺骨収集調査を開始
今日も雨。これだけ雨が続くと慣れっこになり、苦になりませんね。(笑)
本日は、富盛のとある場所で遺骨収集調査を開始しました。さあ最期まで全力で取り組みますよ。十分な成果が得られますよう頑張りましょう。
イエ~~。ちょっとはしゃぎすぎかな。
ご覧のように結構な雨脚になっていますが、雨ごときに負けるわけには参りません。すでに壕を発見しまして、これから中に入ってみようというところです。
小さな壕口ですし、開口部は山側を向いており、見た目は絶好の壕と見ました。それでは中に入ってみましょう。
まず松永さんが入っていきました。中はあまり広くないとの第一報です。狭いですが問題なく入っていけるようです。
内部はとても狭いですね。壁面は焼け焦げたような状況ではないです。
中で作業するには4人ぐらいが限界です。遺留品がないかしっかりと土石を除けていきます。
最初に入った壕は、遺留品等はありませんでした。引き続き斜面を精査しながら前進していきます。
オ~~~。開口部がありますよ。入り口が小さいですし、入り口には土嚢を積み上げたように、中が見えないようになっていますから(恐らく土砂を積み上げたのでしょう)、直感的にここは間違いなく日本兵が居たと思えました。
三メートルほど入ってから入り口を撮影しました。他の壕もそうですが、山裾に掘られた壕は、戦後69年の間に土砂が流入し入り口を少なからず塞いでいますから、沖縄戦当時の開口部はもう少し広かったと思われます。
壕内部の様子です。南部戦跡の多くの壕で言える事ですが、ここも天上面は賢固な鍾乳石の岩盤。その下の部分の柔らかい土石を掘り出して、内部空間を作る構築壕と言えるでしょう。富盛や与座では、急ごしらえの壕ですから、立って歩けるような空間はありませんが、横に長い壕が多いというのも一つの特徴と言えるかもしれません。実際にこの壕も、横穴がずっと奥まで続いている印象です。当然のことながら、その横穴に所々に出入り口がある事でしょう。
割れていない茶碗がありました。割れていない茶碗は、断定できませんが、もしかしたら初めて見たかもしれません。それぐらい珍しいです。
ガラス瓶の破片がありました。飲料水を入れていたのでしょうね。
松永さんが、「光が見える」と叫びました。この奥にも出入り口があるようです。横長で複数の開口部がある壕ということですね。
ご覧下さい。ツルハシで掘ったあとがりますね。地質からして、恐らく発破などで破壊しなくとも、ツルハシやスコップなどの道具でも、結構掘り進めたのではないかと推測されます。
これもツルハシ等で掘った跡がありますね。
これまで出入り口は二カ所ありましたが、更に奥まで掘られており、少なくとも奥まった所には、まだ出入り口があと思われます。
遺骨収集はすでに終えていると思われますが、しっかり土石をチェックして遺骨や遺留品がないか探します。
一番奥まった所に入っていきます。ちょっと狭いですが、ギリギリ入れました。風を感じますので、酸欠の心配は無いことから、どこまでも入っていきますよ。
かなりの水が流れ込むようです。出入り口からは、あるいは山側のどこからか…。断定はしかねますが、固い地盤まで掘り進めてみました。
遺品らしきものがあるという事で、松永さんが一生懸命掘っています。
午前の遺骨収集調査は終了です。皆さんお疲れ様でした。
お昼ご飯ですよ (^o^)
今日はアグー(豚肉)カツカレーです。美味しかったですよ。
昼食を食べさせてもらった食堂のガラス戸に、ご覧のような不発弾処理のチラシが掲示してありました。沖縄ではこのような不発弾処理が今でもあちこちで続いているのですね。
午後の遺骨収集調査開始
吉田さんがまず最初に、摩文仁を防衛する最期の防衛ライン言われた八重瀬岳斜面に私達を案内して下さいました。遠くに同ラインの一つ、与座岳が見えますね。霞んで少し解りにくいかもしれませんが、レーダードームも見えます。双方の斜面にある陣地壕に守備軍が立てこもり、連携して米軍を迎え撃ったのではないかと吉田さんは話します。ちなみに私達は階段を15メートル登ったところに立っていますから良く俯瞰できる状況です。
この黒焦げた部分は、沖縄戦当時のものではないかという話です。
この穴の奥まった所も、黒く焦げていますね。
「クラシンウジョウ」慰霊巡拝
具志頭の具志頭城跡のすぐ横に「クラシンウジョウ」(暗御門)という壕があります。これまでも何度も慰霊巡拝で訪れていますが、メンバーの中に今年も慰霊巡拝をしたいという意見があったので、雨脚も強くなり天候も悪くなるばかりですから、訪ねようという話になりました。
「クラシンウジョウ」は、米軍が港川から上陸に備えて、自然壕だったものを武部隊(第九師団)が陣地壕として拡幅構築しました。武部隊(第九師団)は1944年の暮れに台湾に移動してしまいましたが、その後の運用は山部隊(二十四師団)が引き継いだようです。山部隊(二十四師団)も首里の前線に出撃したために、この壕の経緯の詳しい事は良く解っていないそうです。また「クラシンウジョウ」の壕についての住民証言は「具志頭村史」にも記載されていないそうです。
そして沖縄戦末期の6月になると、この壕には独立混成15連隊が入り、更に高射砲を失った独立高射砲27大隊の一部部隊が入ったという記録があるそうです。全体として記録が少なく詳細がよく解っていない壕という事のようですね。
クラシンウジョウ」は暗御門とも呼ばれるそうです。ネットで調べますと、暗御門とは「洞窟の墓」という意味で、沖縄県内には、浦添城址、首里にも存在するそうです。また沖縄戦当時具志頭53高地と呼ばれた山上には具志頭城跡もありますから、沖縄県内でも特に歴史のある場所であると言えるでしょう。
暗御門とも呼ばれる「クラシンウジョウ」の壕内には、琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子の墓とされていますから、とても歴史のあるお墓ですし、それ故にとても神聖な場所であると言えますから、単なる陣地壕という視点だけで見るのではなく、琉球の建国の歴史をも包含している壕であると認識して入壕したいですね。それでは一緒に「クラシンウジョウ」の中に入ってみましょう。(^o^)
「クラシンウジョウ」慰霊巡拝
「クラシンウジョウ」に行くには二カ所のルートがありまして、道路側から入るのと、城跡側から入る二つの方法があります。今回も城跡側から入りました。
「クラシンウジョウ」の壕口が見えますね。吉田さんが立っている場所には、銃眼があり現在もそのまま残されています。
これが銃眼ですね。港川方向を向いています。
更に銃眼に近づいて撮影しました。木々が茂って解りにくいですが、港川方面がよく見えます。「クラシンウジョウ」は、米軍が港川から上陸に備えて、自然壕だったものを掘り進めて構築し、拡張して立派な陣地にしたものです。
「クラシンウジョウ」の入り口です。入り口は複数ありますので迷わないようにして下さいよ。ちょっとオーバーな表現ですが。
中に入ってから、入り口を見ています。ご覧のように視界が遮断されていることから、地上からは見えませんし、上空からも見えないようになっていますから、米軍によるこの壕の発見はかなり遅かったのではないかと勝手に想像しています。
私達は「クラシンウジョウ」に入ると、琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子の墓とされる焼香台のある拝所でまず手を合わせます。「クラシンウジョウ」は沖縄戦で利用されましたが、それ以前から沖縄の神聖な場所であったと認識しています。
この空間が一番広い空間ですね。ご覧のように石組みで囲まれた部分がありますが、これは沖縄戦の時に構築された物と思われます。
更に奥へと進んでみましょう。
真っ直ぐ進むとこんな感じですね。結構内部空間はひろいですよね。この辺りは自然の洞窟でしょうかね。右側に構築された坑道が幾つも伸びています。まずは前進してみましょう。
更に前進します。
更に前進しますと出入り口に出るはずですが、なぜかベニヤ板等で塞がれていますね。確かこの部分も出入り口のはずです。
こうして見ると全体としてかなり大きな壕ですよね。複数箇所出入り口がありますから、壕内生活は、風が通りますし、比較的快適だったのではないかと推測されます。
ここも構築されたものでなく、自然に出来た空間のようですね。
構築壕部分に入って見ましょう。ホラ、素晴らしくきちんと掘られているでしょう。当時は坑道は一間×一間が基準となっていたようです。ここも概ね一間×一間で掘り進められたようです。
横に伸びた坑道も長いところはかなりの距離となりますね。
一定の間隔で壁が凹んでいますが、坑木を設置した場所です。構築した部分は、とても屋柔らかい土といいましょうか岩で出来ているようです。守備軍の判断で、艦砲砲撃に絶えられるようにという事で杭で木組みをしたのでしょう。坑木は現在全く見当たりませんが、戦後地元住民が持ち出して生活のあらゆる部分に使用したのではないかと思われます。坑木は燃えにくい松などの樹種が選ばれたと言いますからね。豊見城の旧海軍司令部壕でも、そうした坑木の持ち出しが多くあったという話です。
坑道の様子です。
坑道の様子です。
小さな小部屋がありました。一番偉い人の部屋でしょうかね。奥の壁面には棚が設けられていますね。
物を乗せる棚も掘られていますよ。芸が細かいですね。ロウソクや灯油を燃やす台なら、煤で黒くなっているはずですし、この壕は守備軍の弾薬庫だったという説もありますから、もしそうだとすると火気厳禁という事になります。いずれにしても、一つは神棚でしょうかね。