令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月20日(水) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「曇り時々晴れ」で、最高気温22度、降水確率は10%、10%です。雨の心配は不要で安心して取り組めそうですが、暑くなりそうですよ。本日朝の慰霊巡拝は、「魂魄の塔」「金城和信翁の胸像」「有川中将以下将兵自決の壕」「開南健児之塔」「ずゐせんの塔」「南北之塔」「捜索二十四聯隊慰霊の碑」を訪ねました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「魂魄の塔」横にある生花の無人売り場です。「ひめゆりの塔」横の献花販売店も休業されているなど、コロナの影響でバッタリ売れなくなったのでしょう。寂しい限りですね。昔は無人ではなく、おばさんがいつも居られて生花を販売していました。

「魂魄の塔」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「魂魄の塔」です。昭和21年(1946年)2月、金城和信村長と真和志村民のご尽力により、沖縄で最初に建立された慰霊塔です。また沖縄県の慰霊塔が無い事から、「魂魄の塔」が沖縄県民の塔と捉える方も居られると聞き及んでいます。同塔は糸満市米須にあります。ここ米須霊域には、他県の慰霊塔が複数建立されていますし、隣接して平和創造の森公園があるなど、激戦の地であった付近一帯は、今は静かで緑豊かな霊域となっています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレあります」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.3

アップで撮影しました。魂魄の「魄」の字は、死んだ肉体が骨だけになるの途上、まだ髪の毛などが残っている状態を表すとの事です。因みに写真に写されている魂魄の文字は、建立に尽力された金城和信氏自身の揮毫です。

同塔は、米須霊域の中心的存在と言えるでしょう。戦後、米軍占領下で強制的に移動させられた真和志村住民が見たものは、畑や山野に無数に散乱する戦没者のご遺骨と、全てが破壊され荒れ果てた山野だったのです。「魂魄之塔」は、戦後同地に収容された真和志村民が、米軍占領下という厳しい状況下、戦没者を祀るなどは一種の米軍政への抗議運動と見なされ、厳しい目を光らせていた中で、戦後の沖縄で最初に建立を為しえた慰霊塔なのです。

今でこそ、各県の慰霊塔などが、数え切れないほど建立されていますが、それらは講和条約により沖縄の独立が実現した以降の設立であり、米軍統治下では慰霊塔の建立は勿論、戦没者の遺骨収集さえも米軍から許可がおりないと言う状況だったのです。

同塔は、敗戦による人心虚脱と混乱の中において、英霊と共に生きるという金城和信氏の信念と熱情とにより、地域内に散在していた遺骨約三万五千柱を収集し、昭和21年(1946年)2月に建立された慰霊塔であり納骨堂です。またその後御遺骨の一部は国立沖縄戦没者墓苑に転骨されています。設置管理者は県遺族連合会です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.4

「魂魄の塔」碑文です。読めますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.5

「魂魄の塔」を解説しています。こちらはテキストに起こしてみました。碑文の立ち位置を見て理解するところですが、魂魄の塔の説明と共に、同塔を建立した金城和信翁を顕彰する文言も含めた碑文となっています。

【魂魄の塔 碑文】

沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、二十万余の同胞が散華した。かかる中で、昭和二十一年一月二十三日、九死に一生を得た真和志村村民は、米軍によって当地に集結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。

この光景を痛嘆した金城村長は、先ず御遺体を弔うべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我二万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年二月二十七日、金城村長は 之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。

更に金城夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年四月五日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を 建立した。ひめにりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第一高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。続いて金城御夫妻は、同年四月九日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。

後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。今では方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。

東京大学名誉教授 宇野精一 

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」

平成7年(1995年)に除幕された碑で、金城和信真和志村村長と共に遺骨収集に奔走された、当時の県立糸満高校真和志分校長の翁長助静氏の詩です。「和魂」は、「にきたま」とか「にぎたま」と読みまして、穏やかな神霊の意味です。また「おくつき」は墓の意味ですね。戦没者は穏やかな神霊となりて、この霊域に眠る。その上を吹き抜ける優しい潮風‥‥。みたいな感じですかね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.7

裏面を見ています。「歌意は‥‥」と書かれているのが見えますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.8

「魂魄の塔」の後ろに廻りますと、ご覧のように、戦没者個人の慰霊碑が幾つか並んで建立されていました。

「金城和信翁の胸像」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「金城和信翁の胸像」です。胸像は「魂魄の塔」の隣に建立されました。正にゆかりの地に建立されたと言えるでしょう。胸像の製作は北村西望先生で、除幕式は昭和55年10月23日に執り行われました。金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に任命されました。米軍占領下において、山野に散乱するご遺骨を収集したいと、米軍政に持ちかけますが許可されませんでしたが、粘り強く交渉を続けた結果、「遺体拾集の目的のみに限り許可する」と米軍政から許可が下りたとの事です。早速納骨隊を地域住民の協力を得て編成し、風雨に曝されたままのご遺骨の収集を、一体一体丁重に拾い上げたと言います。そうして昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立されました。その後、「ひめゆりの塔」や「健児之塔」を建立していきました。また昭和29年には沖縄戦没学徒援護会を設立しました。昭和53年11月17日死去。享年80歳。沖縄師範学校卒業です。

金城ご夫妻には、四人の男の子一人、女の子三人の子供が居られましたが、沖縄戦戦禍のなかで長女の信子さん(師範学校女子部在学)と、次女の貞子さん(県立第一高女在学)の二人のお嬢さんが戦死されたのはご承知の通りです。また沖縄戦開戦時、金城和信氏は第二大里国民学校の校長をされていました。ですから戦後は教育界に戻って欲しい、校長になってほしいと各方面から懇願されたようですが、金城和信氏は「たくさんの教え子を戦場に失ひ、また多くの人々が戦死してしまったのに、自分はこの人たちに顔向け出来ずかうして生き延びてしまった。いまさら二枚舌を使って、どうして教育界に戻ることが出来やう。私は英霊と共に生き、英霊と共にこれからの人生を歩むだけだ。戦死された方々が、私に後をよろしく頼むと言ってゐるやうな気がしてならない」と、断り続けたそうです。

沖縄戦でお二人のお嬢さんを亡くされ、また沖縄戦戦没者の慰霊に生涯を掛けて奔走された、金城和信氏の常日頃の口癖は、「私は十八万の英霊と共に生きている」、「沖縄はソロモンやニューギニアと違って、日本固有の領土である。ここに一体でも野ざらしの遺体があっては、あいすまんことです」だったそうです。

金城和信翁のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.10

顕彰碑文です。こちらはテキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【顕彰碑文】

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる

思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた

然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ

爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った

しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る

見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを

昭和五十五年十月

金城和信先生威徳顕彰会議 
文化勲章日展会長北村西望書 

琉球新報記事をご紹介致します。

金城和信氏の胸像建つ 二十三にに除幕式、遺骨収集、遺族援護に生涯

【琉球新報】昭和55年(1980年)10月21日

一木一草まで焼け尽くした南部戦跡で戦後いち早く遺骨収集に着手、「魂魄の塔」「ひめゆりの塔」「健児の塔」などの建立に精魂を傾け、遺族の援護に生涯をささげた金城和信さん(前沖縄県遺族連合会長、昭和五十三年十一月十七日死去)の胸像と顕彰碑が、遺骨収集ゆかりの地・糸満市米須の魂魄の塔隣にこのほど建立され、二十三日午後二時から除幕式が催される。

魂魄の塔のほか北海道、大分、広島などの各県の慰霊碑に囲まれる霊域に金城さんの胸像と顕彰碑は建立された。胸像は銅製で、およそ八十センチの高さ(台座を入れると二メートル三十センチ)。製作したのは長崎の平和祈念像などを手がけた日展会長の北村西望氏。南部戦跡一帯を静かにながめるような表情の胸像だ。

金城さんの碑を建立しやうという話は、金城さんが亡くなった後、各方面で出てゐたが、去年七月に遺族連合会およぴ関係者を中心に「金城和信先生遺徳顕彰会」ができて具体化した。費用は約一千二百万円で、このうち各県遺族会が日本遺族会を通じて百二十五万円のきょ金があったほか、北海道の遺族会は北霊碑の建立の際、金城さんに格別に世話になったといふので、別に百万円のきょ金か゜あったといふ。

胸像の建立について遺族連合会の座喜味和則事務局長は、「金城先生は戦後いち早く遺骨収集に尽くされ、慰霊碑の建立や遺族への援護など、遺族会の大恩人です」と話してゐる。二十三日の除幕式には県外からの遺族も含め知事、県議会議長など多数が参列することになってゐる。

「琉球新報」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「沖縄の戦禍を背負ひて」 金城和信の生涯

殉国沖縄學徒顕彰會編 金城和信先生遺徳顕彰会 昭和57年(1982年)6月初版

「有川中将以下将兵自決の壕」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「魂魄の塔」の向かいにある道路、農道と言った方が良いかも知れませんが、その道を奥へと50mぐらい進むと「有川中将以下将兵自決の壕」があります。慰霊塔があるようには見えない場所であり、少し見つけにくい場所に建立されている印象を受けます。私も一番最初は発見に時間を要しました。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレあります」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.12

昭和56年6月に建立された、藤岡武雄中将を師団長とする第62師団(石部隊)の歩兵第六十四旅団戦没者を祀る「有川中将以下将兵自決の壕」です。因みに第62師団(石部隊)は嘉数高地等の戦闘で多くの犠牲者を出した部隊です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.13

碑の台座には、ご覧のような建立経緯が刻まれています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.14

碑文です。読めないので、テキストに起こしてみました。

【慰霊碑 碑文】

石第六四旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く将兵は悉く玉砕し旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で時は昭和二十年六月二十一日の未明であった茲に全国篤志家の賛助を受け記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾

昭和五十六年六月二十一日建立 
鹿児島県沖縄戦没者慰霊会 

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.15

慰霊碑のすぐ横に立っています。ここから見る壕開口部はかなり広く見えますね。いずれにしても壁は切り立っており完全な縦穴ですね。

慰霊碑の横にある樹林の中に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。壕口は大きいです。全景は見えないのですが、直径10mぐらいでしょうかね。縦穴的な壕ですが、壕底から横に掘り進めて一部構築もしたようです。一度は降りてみたいと思いつつ私もまだ降りた事がないのです。降り口を探したのですが、調査が甘いせいかまだ降り口を探せずにいます。壕は深くありません、降り口が解れば簡単に降りられそうなので、何時か降りたらレポートします。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.16

左回りで壕の縁を歩いています。そして少し進んだところで撮影。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.17

もう少し進んだところで撮影。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.18

かなり廻ってきましたよ。横穴も若干ですが構築されたようですが、まだその横穴は見えませんね。反対側ぐらい回らないと見えないかもです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.19

更に廻ってきました。壕の壁と底がよく見えます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.20

一番奥まった位置から撮影しました。切り立った崖になっているのが見て取れます。一番手前の岩辺りが降りられそうな印象ですが、一人なので冒険はしません。これで大体の壕の構造は把握する事が出来ました。何時か機会があったら壕底部に降りてみたいですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.21

壕の横穴に見える場所を撮影しています。壁面は煤で真っ黒という状況ですね。沖縄戦当時はかなり深い横穴の坑道があったようなのですが、ちょっと見当たりませんね。全ての壁面を見ている訳では無いので、無いと断言は出来ませんが‥‥。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.22

ご覧のように、壕開口部を一周するような感じで、道が出来ていますね。何か白っぽい標識のような物が見えています。近づいてみましょう。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.23

これは何だ? 測量に用いたのかな? 壕開口部に沿うように設けられていました。

「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、シーガーアブの配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。詳細な図で説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。(新しいウインドウで開きます)

「糸満市米須 名護市辺野古基地の埋め立て工事用土砂搬出地」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.24

「有川中将以下将兵自決の壕」から見て左手の山の斜面が裸になっているのが見えたので、訪れてみました。「有川中将以下将兵自決の壕」から1分で到着。ご覧の風景が広がっていました。直感的に、ここがそうか‥‥。

ご覧のように8時を過ぎているのに人気も無く、現在は土砂等の搬出作業は中断されているようですね。ここは、米軍普天間飛行場移設に伴う、名護市辺野古にある海兵隊基地の埋め立て工事に関わる土砂搬出地と言う事で、現在この件が、沖縄で大問題になっているのは皆様もご承知の事と思います。

元より本島南部一帯は、米軍による激しい掃討戦が展開された場所であり、沖縄戦戦没者のご遺骨が何処でも見つかる可能性のある、艱難の大地なのです。戦没者のご遺骨が、埋め立て用の土砂と共に造成地の土と化すのは、実に悲しい顛末であると言えるでしょう。「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う提言は、全くその通りであると感じます。

しかしながらですよ、不思議な事に、こうした「遺骨が混入した土砂が使われることはあってはならない」と言う声は、昨年供用が開始された那覇空港の新滑走路増設工事や、現在進められている那覇埠頭・泊埠頭・新港埠頭・浦添埠頭の四つの埠頭での、大規模改造・改良工事である「那覇港の港湾計画」では一切聞かれません。本土の人間として沖縄を誰よりもウォッチしている私からしても、実に不可思議と言わざるを得ません。

故に、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」などの、沖縄戦戦没者ご遺骨の尊厳を守るべきと言う、これら反論の余地のない最もだと思える正義の声は、 米軍が関わる名護市辺野古基地の埋め立て工事だけをターゲットにしていると言う点において、明々白々に、中華人民共和国共産党独裁政権が背後で狡猾に仕掛ける、日米離間工作のプロパガンダである と申し上げておきます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.25

令和2年(2020年)3月26日供用が開始された、那覇空港の新滑走路です。右側の昔からあった滑走路が、とても小さく子供のように見えてしまう程です。新滑走路の護岸延長は8.5km、面積160ha、そして新滑走路の幅は60m、長さは2,700mもあります。また津波を考慮したのでしょう、海面から露出している高さと言う意味で標高が3.3mもあります。そして全体の埋め立てボリュームは約1,000万立方メートルです。想像を超える程の、巨大なボリュームの土砂が投入されたのが解ります。

この増設された新滑走路の土砂も本島南部地域から運び込まれました。しかしながら、新滑走路建設の着工前も、5年もの長期にわたる建設工事中も、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う声は一切向けられませんでした。
(画像は内閣府沖縄総合事務局 「那覇空港プロジェクト」からお借りしました。ありがとうございました)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.26

那覇港管理組合HPに掲載されている「那覇港の港湾計画」です。「那覇埠頭・泊埠頭・新港埠頭・浦添埠頭」の4つの地区の整備、再開発、岸壁・港湾施設の新設等の工事が行われています。その中で浦添埠頭地区は、米軍の牧港補給廠(キャンプ・キンザー) の一部返還された海側を再開発し、国際貨物埠頭の整備、国道58号線の混雑解消を目的とした臨港道路浦添線の新設、自然保護地域を作る計画のようです。これらは平成24年(2012年)からの長期の工事となっています。ここでも膨大な土砂が南部地域から運び込まれるでしょう。ググると、地元建設会社の受注内容や海面埋立の概要を知る事が出来ます。しかしながら、ここでも言えるのですが、建設工事着手前は勿論、建設工事中の現在も、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う声は一切向けられていません。
(画像は那覇港管理組合HPからお借りしました。ありがとうございました)

「傷ついた南部地域 那覇空港 新滑走路完成後の摩文仁周辺の痛々しい姿‥‥」
新滑走路造成の為に、南部地域の二百数十ヘクタールに及ぶであろう掘削され地肌が剥き出しとなった地表面の様子です。不思議な事に、名護市辺野古の埋め立て工事中止を絶叫する人達のうち誰一人として、5年に渡る新滑走路建設工事期間中に抗議や中止の声を上げてくれなかったので、これら掘削地に残されていた沖縄戦戦没者のご遺骨は、悲しくも新滑走路のアスファルトの礎となって消えた。

《書籍ご紹介》

「戦争プロパガンダ 10の法則」

アンヌ・モレリ著 永田千奈訳 (株)草思社 平成14年(2002年)3月初版

「誰も書かなかった沖縄」 被害者史観を超えて

恵 隆之介著 PHP研究所 平成12年(2000年)7月初版

「沖縄問題の起源」 戦後日米関係における沖縄1945-1952

R・D・エルドリッチ著 (財)名古屋大学出版会 平成15年(2003年)6月初版

「沖縄の占領と日本の復興」 植民地主義はいかに継続したか

中野敏男/波平恒男/屋嘉比 収/李孝徳編著 (株)青弓社 平成18年(2006年)12月初版

「Voice 第357号 沖縄の言い分」

中澤直樹編 (株)PHP研究所 平成19年(2007年)月初版

「ほんとうは怖い沖縄」

仲村清司著 (株)新潮社 平成22年(2010年)4月初版

「沖縄 空白の一年 1945-1946」

川平成雄著 (株)吉川弘文館 平成23年(2011年)2月初版

「報道されない沖縄」 沈黙する「国防の島」

宮本雅史著 (株)角川学芸出版 平成24年(2012年)4月初版

「強欲チャンプル 沖縄の真実」 すべては “軍命による集団自決” から始まった

大高未貴著 (株)飛鳥新社 平成27年(2015年)3月初版

「オキナワ論」 在沖縄海兵隊元幹部の告白

ロバート・D・エルドリッチ著 (株)新潮社 平成28年(2016年)1月初版

「沖縄はいつから日本なのか」 学校が教えない日本の中の沖縄史

仲村 覚著 (株)ハート出版 平成30年(2018年)4月初版

「沖縄県民も知らない沖縄の偉人」 日米の架け橋となった男たち

恵隆之介著 (株)育鵬社 令和元年(2019年)8月初版

「狙われた沖縄」 真実の沖縄史が日本を救う

仲村 覚著 (株)ハート出版 令和3年(2021年)5月初版

「自立自尊であれ」 元県知事仲井眞弘多が語る沖縄振興の現実

OXメンバー著 (株)幻冬舎メディアコンサルティング 令和3年(2021年)6月初版

「中国侵攻で機能不全に陥る日米安保」

西村幸祐・ロバート・D・エルドリッチ著 (株)ビジネス社 令和3年(2021年)12月初版

「開南健児之塔」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「海南健児之塔」です。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつです。 塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。地面には砂利が敷き詰められ、両側にはクワディーサー(和名:モモタマナ)が植えられています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.28

参道の両側に植えられているクワディーサー(和名:モモタマナ)ですが、今年はやけに緑がかっていますね。元々沖縄では本土のような紅葉はありません。ごく一部の木が紅葉するだけで、大概の葉は枯れたようになるだけの印象を持っていますが、クワディーサーはその数少ない紅葉をする木で、赤みを帯びつつ枯れ葉となります。今年は落葉して残った葉が赤みを帯びるという様子が少ないです。暖冬だったのでしょうかね。

《過去の写真ご紹介》

2016年2月17日/遺骨収集の様子 NO.29

平成28年(2016年)に開南健児之塔慰霊に訪れた際のクワディーサー(和名:モモタマナ)の様子です。毎年観ているからこそ気づく差異なのですが、別の場所と思える程違った光景となっています。何年も前の記憶との差異に気づく‥。この感性は遺骨収集奉仕活動で極めて有用なので、これからも大切にしていきたいですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.30

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「開南健児之塔」です。沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が祀られています。沖縄戦では、在校生68名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織し、第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部などに配属されました。同部隊は、激戦地となった宜野湾から浦添戦線の前線に配備された部隊であり、この部隊に入隊した生徒は全員戦死しました。また島尻国吉での戦闘では、米軍野営陣地への斬り込み突撃をして多くの犠牲者が出たようです。生徒達の任務は不明な点が多いそうですが、危険な任務に就くことも多くあったとされ、66名の犠牲者を出しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.32

沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が期毎に記載され祀られています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.33

印象深いのは、ご覧のように第一期生から犠牲者が出ていると言う点ですね。海南中学校は、戦前の沖縄県では、唯一の旧制私立中学校でした。昭和11年(1936年)に創設されましたが、沖縄戦により9年と言う短い歳月で廃校になってしまったのでした。

犠牲者数が「不明」だった学徒の名簿も 沖縄戦で動員された学徒の名簿発見

【琉球新報】令和元年11月13日

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.34

国立公文書館が公開した学徒名簿

沖縄戦に動員された学徒の名前や部隊名、住所などを示した厚生労働省の「学徒名簿」がこのほど国立公文書館で公開され、資料を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭が12日、報道陣に公表した。資料には、これまで実態解明が進まず、動員数や犠牲者数が「不明」とされてきた私立開南中学校の学徒71人の名簿も含まれていた。開南中の動員学徒数が公的な資料で初めて示された形だ。

資料にあるのは主に県立一中、三中、農林学校、私立開南中学校の名簿で、学徒が亡くなった場所や所属部隊名、住所や家族の名前などが記載されている。作成時期は不明。そのうち、開南中学校は71人分の名簿があり、13歳で動員され、犠牲になった人もいた。一方、開南中の同窓会の調査では、動員されて犠牲になった人数は190人だとしており、今後、資料が作成された経緯や実態解明が求められる。

国立公文書館が公開した文書から学徒名簿を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭=12日、松城中学校
さらに、開南中の犠牲者の名簿と共に、従来は学徒の区分にはなっていない「名護青年学校」や「通信講習所」の名簿もあり、それぞれ1人ずつ名前が記載されていた。名護青年学校の名簿に「未帰還者」として記されている「真栄城守計さん」は第32軍司令部(球1616)に所属していた。

一方、資料によると一中は600人が動員され、249人が死亡し、生存者は341人、状況不明10人との記載があった。一中の卒業生でつくる「養秀同窓会」のまとめによると、動員数は463人で、死亡者は257人としている。今回公表された資料とは動員数などで大幅な違いがある。

学徒について詳しいひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は、取材に対して「動員数などは多い気がする。だが、貴重な資料だと思う。今後調査を進めてみたい」と語った。

資料は2017年に厚労省から国立公文書館に移管したものとみられる。大城教諭は今年8月に資料を請求し、個人情報が含まれるため「要審査」となったが、9月ごろから順次公開された。

これまでも沖縄戦に関する資料を収集してきたという大城教諭は今後、沖縄戦に動員された県内21校の元生徒らでつくる「元全学徒の会」などに資料を提供していく考えだ。大城教諭は「今回発見した資料を遺族や県民のために生かしたいと思って公表した。教育現場でも、生徒に年の近い人たちが亡くなったことを伝えて考えてもらいたい」と語った。

琉球新報から転載させて頂きました

「ずゐせんの塔」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.35

「ずゐせんの塔」です。国道331号線米須にある米須西交差点、ここは「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点ですが、交差点を折れてすぐのところに「ずゐせんの塔」はありました。ちなみに隣接して「ひむかいの塔」もあります。慰霊塔は道路に面していますから、道路に立つとこんな感じで見えます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.36

「ずゐせんの塔」です。ずゐせんの塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に最初建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果として昭和34年6月、ゆかりの地である米須に移築されたものです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.37

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.38

沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、動員された4年生61名のうち戦没学徒33名、同窓生54名、計102柱が祀られています。 同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

【ずゐせんの塔 碑文】

ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並に職員同窓会員の御霊を祭ってある。昭和二十年一月二十五日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、三月二十七日野戦病院壕で卒業式を挙行、直ちに第六十二師團、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里、摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥○の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.39

沖縄県立首里高等女学校の校章です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.40

沖縄県立首里高等女学校同窓会員戦没者が刻まれています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.41

詩が読まれています。「夕照」氏が詠まれたようです。
この道も この岩肌も 乙女らが弾にたたかれ 踏み惑ひしところ

『南北之塔』は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にある「アバタ壕」の入り口手前に「南北の塔」はあります。沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。

集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴い壕内に納められていたご遺骨は平和記念公園に移されたという話です。

付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。

「南北之塔」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「南北之塔」と併置されている「捜索二十四聯隊慰霊之碑」が見えてきました。ところで沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読みます。ですから30年以上前の話ですが、「真栄平にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね。(^o^) と言いつつ、初めて「南北之塔」を訪れる方は、まず一発で発見出来ないと思いますよ。それくらい場所探しは難しいです。念のため!

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「南北之塔」は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にあります。また「南北之塔」のすぐ横には「アバタガマ」があります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタガマ」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年(1966年)に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。

この付近一帯は北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は摩文仁の平和記念公園にある沖縄国立戦没者墓苑に移されたという話です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.44

「南北之塔」の碑文です。テキストに起こしました。

【南北之塔 碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会 

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.45

「クワデーサー」の木が植えられています。和名はモモタマナ(桃玉名)です。同じ沖縄でも離島ではクバディサーと呼ぶ地域もあるそうです。沖縄では珍しく紅葉する落葉樹でもありますね。三十年ぐらい前は小さな木でしたが、毎年グングンと大きく育っています。紅葉した葉が何時も見られるのですが、今年はまだ紅葉していないですね。沖縄では紅葉した葉があまり無いですよね。「クワデーサー」は、葉がおお大きいことから木陰を作るという事でしょうかね。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。

沖縄では死者の魂を鎮める木とも言われ、この木を “人の悲しみや涙を飲んで育つ木” と言われていているそうです。松永さんも「人の泣き声を聞いて成長する」と仰っていました。「クワデーサー」は、平和の礎にも沢山植えられています。平和の礎に、かくも多く植栽されているのは、陽射しの強い時節に参拝に訪れた方々へ日陰を提供するという意図を持った心遣いでしょうかね。

「捜索二十四聯隊慰霊の碑」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.46

「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。

【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】

昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した

捜索二十四聯隊山三四七八部隊 
生存者 陸軍伍長 渡部 満 

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.48

「捜索二十四聯隊戦没者」です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.49

この付近及び「アバタ壕」等での戦没を特定できた方が多いのでしょうね。個人の慰霊塔やお墓もご覧のように数多く並んでいます。

「アバタガマ」

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.50

「アバタガマ」の壕口が見えてきました。ご覧の様に壕口は思いの外小さいです。擬装も容易だったと推測されます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「アバタガマ」の説明書きですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.52

「アバタガマ」入り口です。戦後一時期、仮納骨堂として地元集落に散在していた御遺骨を収めた場所でした。壕入り口は擬装や隠蔽したとしても結構目立つ大きさですね。壕の奥行きはおよそ40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。

それでは「アバタガマ」に入って見ましょう。壕口からは結構な急勾配となっているので、革靴等では滑りますから要注意です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.53

2020年巡拝から綺麗になった。壕内の様子です。びっくりです。散乱していた岩や土砂が綺麗に片付けられています。ここ一年以内に遺骨収集が為され、その時に石や土砂等を綺麗に片付けたと思われます。昨年の写真と比較してみましょう。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.54

昨年撮影した写真です。今度はストロボ光で撮影しました。岩や土砂が散在しているのが見て取れます。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.55

今度は壕内左側の写真です。右側と同じ様に散乱する岩や土砂が綺麗に片付けられています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.56

4mぐらい降りた所から上を見上げてみるとご覧のような感じです。壕口からは結構な急勾配となっています。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子9

「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を、昭和56年の遺骨収集奉仕活動において壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、昭和19年8月まで北九州市の小倉にある北九州防空隊に所属した戦友だったのです。その戦友は同年8月末に転属となり、以降連絡は途絶しましたが、二年前に戦友会を催す案内状を送ったところ、戦友の長男さんから「父は沖縄で戦死しています」との通知が届いていた事を発見し、早速黄色い石けん箱発見のお知らせをしたとの事でした。

そうした経緯がありましたが、その前段として「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査が行われたようです。そうした懸命な努力を含めて、遺品である「黄色い石けん箱」は、38年ぶりに無事御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。一番左に写っている後ろ姿の男性と、写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です。

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動を長年続けるなかで、多くの御遺骨を発見されもしました。

ご遺族の感謝の念は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間もの長きにわたって、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、遺骨収集活動を続けられた事に、それがよく表出されていると思えます。病気が悪化し最後の段階では、病を抱えながらも身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な言動と姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.57

「南北の塔」のある敷地から南西方向を見ています。地形的に海に向かって緩やかに下っているのが解ります。また太平洋の海原が展開しているのも見えますね。写真左端辺りが大渡海岸です。ここから大渡海岸までおよそ2.5キロメートルです。また写真中央やや左よりに束里の清掃工場の白い煙突が見えますね。

調査・遺骨収集作業開始です

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.58

昨日の19日に壕内を測量した訳ですが、今朝その測量図を、NPO法人沖縄鍾乳洞協会会長の山内さんが持参されました。速い~~。平面図や断面図、そして壕口からの垂直部の断面形状などがありますね。方眼紙に書き込まれていまして、1cmが1mになってるので、感覚的にも距離感が掴みやすいです。断面図に注目して下さい。東側(図では右側)半分が平坦な場所、そして西側(図では左側)が勾配があり、狭く坑道のようになっているのが見て取れます。また図には、すでに発見されている遺品も書き記されています。今日から壕内で本格的な調査が始まりますのでね。この図面に発見された遺品の名称などを書き込んでいく事になります。山内さん、ありがとうございました。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.59

写真では壕口の光が印象深いですね。沖縄戦当時のこの壕底に居られた将兵も、同じように壕口の光を見たのでしょう。(^o^)

無事に全メンバーが壕底に降りました。本日も壕底での作業が続く予定です。あまり掘り返さなくとも沖縄戦当時の地盤が露出するので、後二日程度で調査・収骨作業が終るような印象です。さあ今日も頑張っていきましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.60

この場所の沖縄戦当時の地盤はどこか? 皆が意見を述べ合いました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.61

この辺りも結構遺品が多いです。この辺りは居住区域だったと推測されます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.62

缶詰の缶が転がっています。開けたような穴がありますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.63

福岡さんです。フルイに掛けて小さな遺品も漏らさず収集します。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.64

松永さんです。腰を据えてじっくり取り組んでいます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.65

遺品が収集され地盤がご覧のように綺麗になっていきます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.66

ワイヤーラダーで降りた地点を基点として、東側を撮影しています。東側は将兵が居住した区域と思われます。この東側を三つに分けて作業しています。写真の奥に白布に集められた遺品は、一番奥である居住区域の東側で見つかった遺品です。現在松永さんと福岡さんは居住区の真ん中辺りで作業しています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.67

これらの遺品は居住区域の一番奥から収集された遺品です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.68

アップしています。大きなカスガイがありますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.69

アップしています。将兵の下着である襦袢に取り付けられていたボタンも4個ありました。透明円盤は防毒面のレンズが曇るのを防ぐ為の物で雲母のような材料で作られているようです。戦場で蓄電池と並んで頻繁に発見される遺品の一つでもありますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.70

松永さんが昔のお金が見つかったと見せてくれました。確かに昭和のお金ではなく、和同開珎とか古い時代のお金みたいです。そんな古いお金がどうして、この壕内で見つかったのか‥‥。謎ですね~。松永さんが持ち帰って清掃してみると話しておられました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.71

この辺りは沖縄戦当時の地盤がそのままあるという雰囲気ですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.72

福岡さんが黙々と作業を続けています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.73

居住区域の西側辺りで収集された遺品類です。軍靴がありました。相変わらず皮製品が多いですね。皮製品は角がある事から将校用背嚢とかの大きな物ではなく、弾薬盒相当の大きさの物品と推測されます。またここでも超大きなカスガイが出ました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.74

フルイをしっかり凝視する福岡さんです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.75

松永さんが部分的に深く掘っています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.76

松永さんが深く掘っている場所から、ご覧のように光学機器の部品が出たと言います。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.77

この場所で炊事をしたのか、ご覧のように壁面は煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.78

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.79

松永さんが作業しています。徹底して調べています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.80

福岡さんです。ご覧のようにフルイが大活躍です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.81

松永さんです。通常の地盤よりも少し深いところから遺品が出るようです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.82

確かに土の色合いが少し違いますね。クマデを打ち込んだ時の土の硬さは大きな変化は無いようです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.83

居住区域西側で収集された遺品類です。本当に革製品が多いです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.84

一枚の白布では足りなくなり、もう一枚追加しました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.85

アップしました。四角く細長い遺品はセルロイド製で、形状から思いつくのは歯ブラシ入れですよね。石けん箱も含めて、こうしたセルロイド製の所有物が氏名が書き込まれてる可能性が高いので、洗って精査する事になります。

因みに若い方々はセルロイド製と聞いても意味不明に感ずるかも知れませんね。セルロイドはニトロセルロースと樟脳を合成する事で作られた世界初の人工プラスチックです。1856年にイギリス人のアレキサンダー・パークスによって発明されました。ただセルロイドは170度以上で自然発火するなど、可燃性の高さから火災事故等の主たる原因となって問題視されるに至り、合成樹脂が発明された以降は徐々に姿を消していきました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.86

アップしました。大きなカスガイです。バリカンもありますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.87

アップしました。針金のような物があります。電話などの通信線も含まれています。蓄電池の部品も多いです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.88

アップしました。四角いセルロイド製のケースでしょうか。今で言うところのクリアーケースと言ったところでしょうか。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.89

アップしました。軍靴ですね。なぜか軍靴を見ると悲しくなります。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.90

アップしました。本当に革製品が多いです。こんなに革製品が多い現場は初めてです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.91

アップしました。ビール瓶ぐらいの大きさの瓶です。今のところこの壕で見つけた瓶類は二つです。壕の大きさや遺品の多さから比較して、飲料水の容器が少ない印象です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.92

この砲弾は調べてみましたら、現時点では米軍の75mm砲弾の可能性がある事が解りました。75mm砲弾と言っても種類は沢山ありますから、完全には突き止められないと思われますが、頭の形状とか、お尻に付いている突起などを手がかりに、引き続き調べていきたいと思います。いずれにしても、大きな砲弾は移動する訳にはまいりません。そのままの状態で、砲弾の周りの遺品は綺麗に収集されました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.93

散乱していた遺品類も綺麗に収集され、地面がスッキリしてきました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.94

こちらは居住区域東側で収集された遺品類です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.95

アップしました。これは銅板と思われます。強く擦ると銅

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.96

お金も出てきました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.97

カスガイのすぐ下をご覧下さいませ。真空管だと思われる部品がありました。通信機器があったと言う事でしょうかね。銅板もそうした通信に関係しているのでしょうか?

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.98

割れたランプのガラス部です。軍用では無いと思えます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.99

ガラス瓶以外のガラス製品も多いですね。窓ガラスと言う訳では無いでしょうから、何に使われていたのでしょうかね?

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.100

気持ちが良いほど地盤が綺麗になりました。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.101

居住区域西側で収集された遺品類です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.102

二枚目の白布に収集された遺品類の様子です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.103

アップしました。写真中央部に三角形の形をした透明ガラスがあります。三角プリズムレンズと呼ばれる物で、光を全反射させる事で、光の進行方向を90度または180度偏向させる為に用いる物ですよね。その右には金属製のいわゆるルーペのような物があります。これらは光学機器は塹壕双眼鏡など砲兵部隊が所有する機材ですよね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.104

発見されたワイングラスはここに置いてあります。き

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.105

飲料水の容器として使用したと思われる瓶です。ビール瓶くらいの大きさです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.106

東側の居住区域はこれで終了しようという話になりました。遺品類を撮影している松永さんです。これ以降西側での作業となります。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.107

結構なボリュームの遺品類が収集されましたが、残念ながらご遺骨は小片や歯の1個も発見出来ませんでした。これだけ遺品があるのに実に不思議です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.108

ワイヤーラダーの西側は、坑道と呼べるような狭い通路となっています。今からはこちら側での収集作業となります。坑道側は迫撃砲弾が散在していますので、慎重に慎重に収集作業を進めねばなりませんね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.109

福岡さんの持つ金属探知機もあちこちで反応しています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.110

ご覧のように通路は人が一人通れるぐらいの狭さとなっています。ご覧のように、右側縁に遺品があるのが見て取れますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.111

ご覧のように擲弾筒弾があちこちありますが、この砲弾の種類を調べてみましたら、八九式重擲弾筒(はちきゅうしきじゅうてきだんとう)の弾である事が判明しました。曲射砲弾であり小型の迫撃砲でもあります。いずれにしても、信管部分がしっかりしている雰囲気もあり、この八九式重擲弾筒弾には十分警戒しなければなりません。これから自衛隊の不発弾処理班の方々にに回収してもらうまでは、なるたけ触らないようにしましょう。遺品や八九式重擲弾筒弾は両側の坑道壁面のうち、向かって右側の壁面にのみ集中して置いてあります。恐らくは右側壁面の最下部は窪地となっていて物品を置きやすかったのではないかと推測されます。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.112

ご覧のように小石の層が結構深いです。どこまで掘るか微妙なところです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.113

同じ種類の瓶が三個見つかりました。一番左の瓶の中は黄緑色をしていますが、内容物の色か、もしくは内容物によるカビの色かも知れませんね。いずれにしても医薬品関係でしょう。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.114

珍しい遺品がありました。この遺品は、どうみてもカミソリですよね。一枚刃の剃刃はこれまでに何度か見たことがありますが、沖縄戦当時にもすでに、こうした安全剃刀は存在したのですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.115

八九式重擲弾筒弾が半ば埋まっています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.116

西側の坑道部において、今の時点で発見された遺品です。予定時刻を過ぎたので、本日の作業はこれで終了です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.117

作業終了です。順番に登って行きます。一本のローブが見えますが、私達を滑落から守るビレイロープです。このロープのお蔭で安心して登攀出来ますね。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.118

しんがりの私も無事に登り終えました。写真に写されている場所まで登るとホッとしますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.119

白い布はローププロテクターですね。鋭く尖った岩角からロープを保護する為に用いる資材です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.120

この白い布もローププロテクターです。見えませんがロープを守っています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.121

壕口はこんな感じです。壕の外にある大きな樹木にロープは固縛されています。どれくらい荷重を掛けても抜けるような事はありません。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.122

松永さんが収集した古いお金です。江戸時代にこの壕に人が住んでいたはずはありませんから、沖縄戦での将兵が持ち込んだのでしょうかね。二枚ありますね。文字が彫り込まれているのが見えますから、綺麗に清掃するとどんな文字が浮かび上がるのか‥‥。楽しみです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.123

ご遺骨が発見されている壕での作業再開です。吉井さんが壕口を広くすべく作業を進めて下さっています。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.124

広くなりましたね~。(^o^)

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.125

さっそく福岡さんが中に入り作業再開です。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.126

福岡さんがバケツに土砂を入れると、松永さんが中継して壕の外に土砂を運び出します。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.127

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.128

吉井さんのところも遺品が出るようです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.129

福岡さんのところも遺品が出ています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.130

当初は匍匐前進していた壕通路も、ご覧のように二人がゆったり入れる大きさになりました。

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岩と岩の間の土砂に細かい遺品が含まれているようです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.132

また何かあるようです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.133

被甲(ガスマスク)の部品ですね。丸い物は、アセテートのレンズを調整する為に取り外せるようになっている金属プレス製のレンズ押さえですね。もう一つの物は、吸収缶と呼ばれるガスを濾過する物質が入っている缶です。全ての将兵が持っているという事もあるでしょう。この吸収缶もよく残存していて見かける遺品の一つです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.134

被甲(ガスマスク)のレンズの内側に取り付けられる曇止板を入れる黒い容器です。透明円盤である丸い曇止板と黒い容器もまたよく見かける遺品です。

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吉井さんがフルイで遺品を探しています。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.136

土の部分がまだありますから、色んな遺品がまだ出てきそうですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.137

本日の作業終了です。これまで福岡さんが収集した小さな遺品が入ったケースです。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.138

福岡さんが収集した遺品です。被甲(ガスマスク)のレンズ面が曇った時に不凍液を塗る事がありますが、これらはその不凍液を塗るための道具で、ディスペンサーとスポイトですね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.139

スポイトのアップです。「不凍液」と書いてありますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.140

私達は、作業を終えてから「勇魂の碑」を訪ねました。福岡さんが発見したセルロイド定規には、「大坪」と姓だけしか掘られていないので、私達は落胆し何でも良いから名前に関わる手掛かりが欲しいと言う思いに駆られたのです。定規が発見された壕の摩文仁に於ける位置関係からして、第三十二軍司令部要員ではないか‥‥。との見立てで、摩文仁山上にある「勇魂の碑」を訪ねました。その「勇魂の碑」の隣には「第三十二軍司令部戦没者名碑」があり、司令部要員の戦没者氏名が記載されているのを知っていたからです。

写真は司令部の全戦没者を収めていますが、こうして改めて戦没者名碑を拝見すると、沖縄県の方が多いですね。一番下に沖縄県出身の司令部要員戦没者名が列記されていますが、全県で一番多い戦没者となっています。次いで多いのが九州出身者であるのが解りますね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.141

戦没者名碑を確認しましたら、ありましたね~。碑には「大坪佳嗣」と書かれています。福岡県出身の方ですね。この碑に限定すれば、「大坪」姓はお一人だけでした。当然の事ながら、定規には名が無いので、今ここで「大坪佳嗣」氏の定規であると断定は出来ません。一つの可能性として頭に入れておきたいと思います。

因みに、福岡さんが、平和の礎にある検索システムで「大坪」姓を探すと20名以上の名前が抽出されたとの事です。と言う事で、姓だけでは、戦没者を特定出来ないと判明したのです。

定規を発見した福岡さんは諦めきれず、自宅に帰ってから、色々と調べられたそうです。その結果、「第三十二軍司令部戦没者名碑」にも戦没者として記載されている「大坪佳嗣」氏の、お父様が出版された書籍、「大坪佳嗣書簡集」が販売されていたので購入したとの事です。私もその本を福岡さんからお借りして読ませて頂きましたので、一部引用させて頂きながら解説させて頂きます。

《書籍ご紹介》

「大坪佳嗣書簡集」

大坪得二著 昭和57年(1982年)初版

「大坪佳嗣書簡集」には、氏の生前に交わした二百余通の書簡が収められていました。文中に「球第1616部隊」との表記が散見されています。将兵には守秘義務が厳しく課されているはずですが、所属部隊名は手紙などに書いて良いみたいですね。「球第1616部隊」とは、「沖縄第三十二軍司令部」の通称名を指します。即ち大坪佳嗣氏は、「沖縄第三十二軍司令部」に勤務していたと言う事になります。沖縄戦当時は、スパイ防止などの観点で、固有の部隊名を使わず、通称名を多用していました。実際に沖縄戦を戦い抜いた方々は、正式部隊名よりも「武」「球」「石」などを頭に付けた、通称名による部隊名を記憶している県民が多いとの事です。

「大坪佳嗣書簡集」を読んで感ずるのは、書簡の多さに感心もしましたが、氏の実直で誠実な人柄を偲ばせる筆致と文章に驚くと共に、親への尊崇と兄弟への慈愛を感じさせ、また優しい人柄であったのが文脈に迸り出ていました。因みに、特攻隊員として散華された方々の遺書も、家族を思いやる文言が印象的に書き込まれていますが、今こうして大坪佳嗣氏の書かれた文面を追いながら、お若いのに立派な志を持たれている事に脱帽せざるを得ません。

大坪佳嗣氏は、書簡によると、昭和16年12月に大倉商業高等学校を卒業し、すぐに就職するも翌年2月に臨時招集を受けて、西部四十六部隊に入隊。そして昭和19年6月に、沖縄へ渡り、第三十二軍司令部(球1616部隊)の軍司令部参謀後方勤務司令部要員書記と言う軍務に就きました。そして沖縄戦も首里戦線での激闘が続く昭和20年5月、司令部警備特編中隊の分隊長に任命されました。また入隊後3回目の正月は、沖縄の第三十二軍司令部で迎えたと記されています。

因みに、書簡には「球第1616部隊」に所属していると言う文言は登場しますが、当然の事ながら、詳細な軍務内容については一切記述されていません。球1616部隊での詳細な軍務については、別枠で著者でもある大坪佳嗣氏のお父様が、恐らく戦友などから聞いたり、自ら調べたりして経歴として書き記されたものです。

そうした中で、書簡集では戦後の話となりますが、大坪佳嗣氏の沖縄戦における戦死日時等について、お父様とお役所とのやりとりの書簡の中に、大坪佳嗣氏が戦死した際の様子を、氏を知る戦友がかなり詳しくお父様に伝えている書簡や、ご遺族の元に届けられた、大坪佳嗣氏の戦死した日時・状況、死因等が書き記された「現認証明書」がありましたので、ここにご紹介致します。

最初の書簡は、戦死された大坪佳嗣氏の戦友が、著者である大坪佳嗣氏のお父様へ、氏の戦死された際の様子を伝えている手紙です。二通目の書簡は、死亡通知書と言う意味合いの「現認証明書」です。

昭和二十一年五月二十二日 大坪得二殿

拝啓
御照会の御令息大坪君の状況に就きましては、小生が氏と話をした日は、昨年六月二十一日氏が最後の攻撃をする日でした。氏は軍高級副官より部下三名を以て迫り来る戦車(二台)に向いて肉薄攻撃の命を受け出発。数時間後目的を達し帰隊。然し部下三名の消息知れず。戦果報告の後、氏は単独再び敵地に向わんと陣地より約二、三十米出でし時、不幸敵弾に依り戦死(六月二十二日午前三時頃)。場所は軍陣地付近、沖縄島摩文仁という所です。当時小生は負傷の身、御互に無事元気を祈りて別れましたが、戦友より氏の戦死の悲報に接し、氏の責任感の旺盛なるを一同して賞し語り合いました。終戦の今日御一家の事を思う時、感憾無量胸に迫るものがあります。何卒、氏の御冥福を御祈り下さいませ。実は御手紙戴いたる所は本籍地にて数ヶ年他国に来て居ります関係遅延いたしましたが、何卒、悪しからず御許し下さいませ。終りに御一家の御幸福を御祈り申し上げます。

熊本県阿蘇郡〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇 

※文中の太字はサイト管理人が加入

現認証明書

本籍地  福岡県朝倉郡〇〇〇〇〇〇〇〇〇番地
現住所  東京都芝区〇〇〇〇〇〇
所属部隊 第三十二軍司令部(球第一六一六部隊)
徴収年  昭和十七年
官等級  陸軍軍曹
氏 名  大坪 佳嗣
一、受傷年月日 昭和二十年六月二十二日
一、受傷場所  沖縄県島尻郡摩文仁
一、受傷箇所  胸部砲弾破片創
一、戦死年月日 昭和二十年六月二十二日(午前三時頃)
右現認す

第三十二軍司令部管理部 
陸軍准尉 佐伯 正光 

上掲の「現認証明書」に注目しますと、大坪佳嗣氏の戦死時の階級が、「陸軍軍曹」となっていますから、氏は兵科に属していた事になりますね。兵科以外の、例えば経理部に所属している場合には、「陸軍主計軍曹」とかの記載となっているはずですから、経理は全く関係ないようです。大坪佳嗣氏は、大倉商業高等学校を卒業しているので、経理の仕事をしていた可能性があるのかなと、私はいつも頭の隅に入れて読み進めましたが、「陸軍軍曹」と言う事で、その可能性は無くなりました。

また大坪佳嗣氏は、沖縄へ赴任後は、常に球1616部隊要員として軍務に服していましたが、最終的な軍務として昭和20年5月からは、司令部警備特編中隊の分隊長であった、と言うのはご紹介した通りです。仕事の内容は部隊名からして、司令部首脳陣を守るのが仕事であったと推測されますよね。

戦死された大坪佳嗣氏の戦友が書いた書簡によれば、大坪佳嗣氏が戦死されたのは、「場所は軍陣地付近、沖縄島摩文仁という所です」と言う事で、摩文仁89高地には第三十二軍司令部壕他に多数の陣地壕があった事は明白ですから、摩文仁山上の複数ある陣地の一つから、米軍のM4型戦車肉迫攻撃隊員として出撃したと言う事が解ります。その出撃は、大坪佳嗣氏は軍高級副官の命により、6月21日の夕暮れを待って壕から出たと推測されます。

大坪佳嗣氏は作戦を終え一度帰隊しましたが、部下を戦死させた事への責任感の強さ故か、再度の出撃を敢行した際に戦死されました。戦死は6月22日午前3時頃と記されています。因みに、6月19日から牛島将軍と長参謀長が自決された6月23日までの間は、第三十二軍司令部壕や他の壕からも、最後の挺身斬り込み出撃が相次いだ時期でもあります。

また第三十二軍司令部壕の馬乗り攻撃が迫っている状況下、米軍による摩文仁山上への集中射が始まっている段階でもありました。ですから、司令部警備特編中隊の分隊長であった大坪佳嗣氏も、そうした最後の決戦、全軍の斬り込み部隊が各所から出撃する中で、摩文仁に陣取る米軍のM4型戦車への肉迫攻撃隊員として、私達が遺骨収集作業をした垂直壕から出撃され、結果として被弾し胸部砲弾破片創により戦死されたのだと思います。

八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」に、6月19日から牛島将軍と長参謀長が自決された6月23日までの、牛島司令官や長参謀長が自決せんとする、沖縄戦最終局面での第三十二軍司令部壕内の動きや、司令部壕の近在である摩文仁や小渡、そして米須などの戦況の様子が描かれているのはご承知の通りです。下掲で引用させて頂きましたが、断末魔の摩文仁にありて、引用文中には、大坪佳嗣氏の動静に関わる事柄も含まれていると思われてなりません。ぜひ皆様も大坪佳嗣氏の死の出撃に関わる状況や情報として、ご一緒に考察してみましょう。こうした追憶こそが、戦没者の慰霊に繋がると思うからです。

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

(371頁)
十九日の夕迫れば、参謀室内は異常の重苦しい空気に包まれる。人々は多くを語らず、ときどき低音私語するのみである。軍司令官、参謀長への申告を終えるや、彼らは出撃の服装にかえた。両将軍の自決に立ち会い、軍司令部の最後を見届けた後、なおもし生あらば、新任務に就くべしと深く決意している私に対し、若い参謀たちは、私の運命を優しく労る如く、万感罩めてお別れの挨拶をした。そして矢張り両将軍を残して、去り行くのが気に懸かるのか、口を揃えて軍司令官、参謀長のお世話をよろしくお願いします、と言った。私もこの若い人々の、武運長久を心から祈り、そしていかなる危難に遭遇しても、不屈不撓、特に功を急ぐことなく、人知を尽くして任務を遂行するように注意した。

いよいよ出発の時間だ。だが通路両側の寝棚に腰かけて待機したまま、一同は重くロウソクの灯に影を落として容易に動こうとしない。心なしか、今夕は摩文仁高地に、吼え狂って落下する砲弾がとくにひどい。ときどき至近弾に洞窟の側壁が崩れ、灯も消えなんとする。かくしてはあらじと思ったのか、いちばん若い長野が、「私が先頭を致します。皆様万歳!」と叫び、決然として、洞窟の外に突進した。これをきっかけに、三宅、薬丸、木村の順序に、数分を間して、次々と死の出撃を了し終わった。

(372頁)
(二十日) 今日はいよいよ乱戦だ。やがて敵戦車二十数両が、東方のなだらかな稜線を越えて、摩文仁高地に集中射を加えながら徐々に接近してくる。摩文仁東方および北方近く、彼我歩兵の機重戦が漸次高潮に達する。第二十四師団方面は、真栄平東北高地、米須、さらに近くは小渡付近にまで敵戦車群が侵入しきたり、彼我戦線は、図上に記入して弁別することができなくなった。摩文仁部落の周辺を、さんざん暴れ回った敵戦車群が、東方稜線の彼方に後退し、姿を消すとともに二十日の日も暮れた。

(375頁)
二十一日の戦況はいよいよ混沌としてきた。夜が明けるとともに、敵戦車群は、例の稜線を越えて摩文仁部落に侵入、さらに西北進して小渡付近を西面して防御する友軍の背後をも衝くに至った。

私は摩文仁高地が直接敵の攻撃を受けるのは時間の問題と思い、司令部洞窟の三つの出口のうち、最も弱点である参謀部出口の閉塞を命じた。幸い洞窟内に、爆破した岩石が堆積していたので、これを利用して通信所長の工兵中尉が、衛兵、通信手、当番兵等を動員し、深さ五メートルの阻絶を数時間を出でずして完成した。

日が暮れるとともに、断崖下の洞窟にいた佐藤軍経理部長が、部員政井主計少佐に授けられて、司令部洞窟にやってきた。参謀の出撃で空席ができたので、そこに起居するためである。彼は軍参謀長が司令官のおともをして自決されるはずだと聞くや、ほろりとして、暫し言葉がなかったが、「私もおともしましょう。ああこれで胸がすっとした」といかにも安心した面持ちである。白髪禿頭、美髯のこの大佐は、軍参謀長と陸士同期の無二の仲良し碁仇き、口仇きの間柄であった。その最期の決意の神速で淡々たるを見て、私は、死を見ること帰するが如しという言葉があるが、真にこの人のことであろうと思った。

あまりにも心憎き態度なので、私は、「貴官のような一見年老いて見える人は、敵も問題にしないだらうから、避難民に紛れて、国頭方面に脱出されてはどうか?」と誘惑した。老部長は笑いながら、「先ほどこの洞窟に登ってきただけで、死ぬるような思いをした。私のように年をとった者は、もはや手も足も利かぬ。ここで死ぬるのがいちばん楽で仕合わせである」との返事である。

経理部長は、刻々と迫る死のことなど忘れたかの如く、よもやま話に打ち興じた。談、家庭のことに移ると、長男は幼年学校に在学中で、三人の娘はそれぞれ前途有為の青年に嫁しているので、思い残すことはさらさらないと語り、真から満足そうだ。

(379頁)
二十二日の夜が明けて間もなく、摩文仁の部落に猛烈な機関銃声が起こり、三時間ばかり続くと、はたと止んだ。松井小隊が全滅したのだ。さらば松井少尉よ! 戦車の走る音が、手にとるが如く聞こえ、戦車砲がわが洞窟に集中射を浴びせてくる。

正午やや前、参謀部出口で轟然数発の爆声が起こり、爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。それ! 黄燐弾だと皆防毒面を装着する。よく見ると、出口の阻絶は崩れていない。敵兵の足音と、不適な笑い声が聞こえる。私は来たな! と思ったので、「秋永中尉! ここは大丈夫だ。中央の山頂出口を固めろ!」と叫ぶ。声に応じて、秋永は駆け出した。

「ただ今敵に山上を占領されました。敵の爆雷が垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室あたりには、死傷者がいっぱい転がっています」

秋永中尉が駆け出してから、まだ十分も経たぬのに、もうやられたか。垂坑道から敵に侵入されたのでは一大事だ。まず参謀長、軍司令官がいちばん危い。そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。私は蛍電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯血なま臭い。電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている。

参謀長室は、無惨に吹きとばされていた。長将軍は憮然として隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。避退した将兵は、両将軍を囲んで総立ちになり、まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。

ついに山頂は敵の有となった。敵はいつ垂坑道から侵入するかも知れぬ。唯一残された副官部出口は、敵に海上から制せられており、さらに山頂の敵から手の届くところとなった。容易に自決の日を示されなかった両将軍も、わがことすでに終われりと観ぜられたものか、今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、二十三日黎明摩文仁部落方面に玉砕突撃を敢行、牛島中将、長参謀長は山頂において自決するに決せられた。

※文中の太字はサイト管理人が加入

「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました

断崖下の洞窟にいた佐藤軍経理部長が、部員政井主計少佐に授けられて、司令部洞窟にやってきた。

「断崖下の洞窟」と言うのは、正に私達が入った縦穴壕と言う印象を受けます。と言うのも、摩文仁89高地で、「断崖下の洞窟」と呼べそうな壕は、私達が入った垂直壕以外にはありません。小さな壕は複数点在していますが、司令部の部長クラスの将官が、そうした小さな壕に入るはずもありません。また摩文仁のV字谷には、大きいの小さいの数多くの壕が点在していますが、V字谷にある壕ならば、八原高級参謀も、「断崖下の洞窟にいた‥‥」と言う表現は使わないと思います。

話を元に戻して、その「断崖下の洞窟」に、第三十二軍司令部の佐藤軍経理部長が居られたと言う事は、警備要員として司令部警備特編中隊の分隊長であった大坪佳嗣氏が、随伴していた可能性は極めて高いと思われます。

先ほどこの洞窟に登ってきただけで、死ぬるような思いをした。私のように年をとった者は、もはや手も足も利かぬ。ここで死ぬるのがいちばん楽で仕合わせである」

佐藤軍経理部長は、6月21日の日が暮れると共に、自身の居られた壕から登るようにして第三十二軍司令部壕にやって来たと記述されていますね。恐らく砲爆撃が極端に少なくなる夕刻を狙っての移動だったと推測されます。実は、私達が入った縦穴壕から第三十二軍司令部壕の「参謀部出入口」へは、少し登る程度で到達出来ますが、上掲引用文の如く八原高級参謀が記述しているように、6月21日の日中と思われる時間帯に、摩文仁集落側の出入口である「参謀部出入口」は、岩石で深さ五メートルの厚みで阻絶されしまい、中に入れなくなってしまいました。

ですから、佐藤軍経理部長は政井主計少佐と共に、日が暮れると共に一度、摩文仁山上に登ってから、今度は海側の出入口である「副官部出入口」に至りて、第三十二軍司令部壕内に入ったと推測されます。また山上の垂坑道からも入る可能性もあると思いますが、垂直に近い坑道であり、一部ではハシゴも上り下りしなければなりません。ですから誰でも気軽に出入り出来る訳ではありません。山上の垂坑道は兵士が出撃するなどの際に使用するのではなく、監視哨的な用途で設けられた坑道であると推測されます。

私達が入った垂直壕から摩文仁山上へは、健脚であれば簡単に登れる高さではあります。ですから「死ぬるような思いをした」と言う発言に驚きを隠せませんが、推測するに恐らく、首里戦線から転戦し、凡そ20日間ぐらい洞窟の中に居ると、恐らく足腰の筋肉も相当に弱くなっていたのではと思います。また満足な食事、栄養のある食事を摂取されていないと思われ、身体全体の脱力感や虚脱感もあったと推測されます。

因みに、佐藤軍経理部長は、発言に能わず牛島司令官と長参謀長の後を追うようにして、第三十二軍司令部壕内でピストル自決されました。八原高級参謀の記述通りであれば、死をも恐れぬ泰然さに圧倒されてしまいますね~。西郷隆盛の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり」と言う名言を思い起こしてしまいます。ここに改めて、佐藤三代治軍経理部長の御冥福をお祈りしたいと思います。m(_ _)m

二十二日の夜が明けて間もなく、摩文仁の部落に猛烈な機関銃声が起こり、三時間ばかり続くと、はたと止んだ。松井小隊が全滅したのだ。

大坪佳嗣氏は、22日、この日の午前3時頃に敵弾に倒れたとされていますので、正に摩文仁部落での、この未明の猛烈なる戦闘が始まる直前の時間帯に、敵弾に倒れた事になります。ですから、大坪佳嗣氏の第1回目の出撃、そして二度目の出撃も、同日の夜が明けたら、米軍による第三十二軍司令部壕への馬乗り攻撃が行われる段階です。即ち19日からすでに続いている、摩文仁山上への、地上軍や海上の艦船からの、間断のない砲爆撃の集中射を浴びせ続けられている状況下での、被弾による戦死であったと思われます。

八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」には、第三十二軍司令部壕が、米軍による馬乗り攻撃を受けるまでの、緊迫した壕内の様子が書き綴られていましたね。こうして八原高級参謀の文章を引用させてもらいながら、私の個人的な思い入れを込めて、大坪佳嗣氏の戦死に関連しそうな記述を掲載させて頂きました。ここで改めて、大坪佳嗣氏の摩文仁での動静を照らしてみると、正に第三十二軍司令部壕のある摩文仁山上が、米軍による馬乗り攻撃を受ける日の、未明の頃の出撃死であったと言うのが見えて来ました。

書簡集に収められている、摩文仁で戦死された大坪佳嗣氏と、私達が垂直壕で発見した「大坪」と彫られている定規の持ち主である大坪氏が、同じ人物である確証は何もありません。しかしながら、私達は、微かに細い糸が繋がっていると言う思いも募るので、無理強いながら想像を膨らませつつ、そうした視点で考察してみました。参加記のこのコーナーを読まれた皆様は、どのような印象を持たれたでしょうか。可能であれば拝聴したいですね。

最後に、「大坪」と書かれた定規の持ち主の方、そして書簡集に収められている大坪佳嗣氏、同一人物であるか別人であるか、定かではありませんが、改めて両氏の御冥福を、心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「追 記」
摩文仁にある第三十二軍司令部壕には、3カ所の出入口がありまして、八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」では、その3カ所の出入口について、海側に面した壕口を「副官部出入口」、摩文仁集落側の壕口を「参謀部出入口」、そして山頂にある壕口を「山頂出入口」などとしています。「垂坑道」は、山頂出入口を入った部分の呼称とみて良いと思います。「垂坑道」の名の通り、ほぼ垂直ぐらいの坑道となっていまして、司令部壕に降りる最後の4mぐらいは、ハシゴなどが無いと昇降するのは難しい状況です。摩文仁の第三十二軍司令部壕は、6月22日正午前には米軍による馬乗り攻撃を受け、その垂坑道から爆雷を投下されるなどして、十数名の死傷者が出たと書き記されていましたね。

私達は、平成31年(2019年)1月22日・23日にかけて、第三十二軍司令部壕内の、その垂坑道の真下で調査・遺骨収集を行いました。その作業で、驚く事に、黒く焦げた頭蓋骨片を二つ発見したのです。頭蓋骨が黒く焦げるくらいですから、馬乗り攻撃の規模が、大規模で執拗な攻撃であった事が推測されます。以下に、その時の調査・収骨作業の様子を三枚の写真を再掲載してご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.142

【平成31年(2019年)1月22日撮影】
田中さんが作業しています。トイレ開口部側から撮影していまして、田中さんが作業している場所は、垂坑道の真下という事になります。坑道の高さが一番高い場所でもありますので、ご覧のように十分な高さがあります。また壁面が煤で黒ずんでいるのが見えますね。この第三十二軍司令部壕は、米軍による馬乗り攻撃を受けまして、この垂坑道上部から爆雷を投げ込まれ、その際に十数名の死傷者が出ました。田中さんが居られる場所に、十数名の将兵が折り重なって倒れていたと言う状況であったと思われます。そうした場所である事から、壁面が煤で黒くなっているのも、その爆雷攻撃の爆煙が付着したものと推測されます。

沖縄戦を詳細に書き記した、八原氏の著作である『沖縄決戦 高級参謀の手記』によれば、「ただ今敵に山頂を占領されました。敵の爆雷が垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室のあたりには、死傷者がいっぱい転がっています」、秋永中尉が駆け出してから、まだ十分も経たぬのに、もうやられたか。垂坑道から敵に侵入されたのでは一大事だ。まず参謀長、軍司令官がいちばん危ない。そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。私は螢電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯血なま臭い。電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている‥‥。 と書かれていますが、正に田中さんが居られる場所こそ、その死傷者が折り重なっていた場所なのです。

平成31年(2019年)1月22日/沖縄遺骨収集の様子no.143

【平成31年(2019年)1月22日撮影】
ご遺骨も少々発見されました。細長いのは肋骨で、第9とか第10肋骨かも知れません。右側の黒っぽい小片も、何とご遺骨で頭蓋骨の一部です。ご覧のように黒焦げしているのが印象的です。見ての通り、頭蓋骨の表面側は勿論、内側面も真っ黒に焦げています。厚みのある頭蓋骨がこれだけ焦げるというのは、相当長く火炎を浴びるか、火力に晒されないと黒くならないと思われますね。

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.144

【平成31年(2019年)1月23日撮影】
豊澤さんが見せてくれました。手のひらにあるのは何だと思いますか? これは黒く焦げた頭蓋骨の一部ですね。ごく僅か湾曲していますから、前頭骨とか丸みを帯びた部分のご遺骨です。昨日も同じような黒焦げの頭蓋骨の一部が発見されましたね。これだけ焦げるには、一定時間火炎や火力に曝されないと焦げないと思われます。

過去の写真掲載はここまでです。

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