令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(土) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「曇り」で、最高気温23度、降水確率は30%、20%ですから、昨日に続き、雨の心配は無さそうです。今日も安心して作業に取り組めそうです。本日朝の慰霊巡拝は、「ひめゆりの塔」「赤心之塔」「梯梧之塔」「沖縄陸軍病院第一外科壕」「沖縄陸軍病院之塔」を訪ねました。

そして調査・遺骨収骨作業を終えてから、NPO法人沖縄鍾乳洞協会が管理運営している「ハンターバンの森」の見学を実施しました。「ハンターバンの森」ガイドマップには、「天空の説絶景と地底の迷宮を歩く驚きの大地の割れ目、具志頭・多々名地溝帯」と銘打ったトレッキングコースとなっています。実際に歩いて見ると、天空と地底において迫力ある風景に出会えて、私達は全員感動しました。ぜひご一緒に歩いて見てくださいませ。(^o^)

「ひめゆりの塔」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「ひめゆりの塔」入り口にある献花販売店です。すでに複数回ですが県道331号線の献花販売店前の前を車で通っているのですが、いつも閉まっているので嫌な予感がしていましたが、やはりコロナの影響で長く店じまいしているようです。献花販売店の人達とも仲良くさせて頂いてたので、コロナが収束し再び皆様と笑顔で出会える事を願っています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、周囲のお土産屋さんの施設を利用させてもらいます」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.2

寄贈者である儀間真一氏を顕彰する為の掲示ですね。下掲の写真に詳しく掲示されています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.3

読めますね。篤志家たるハーリー・シンイチ・ギマ氏を顕彰している碑のようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ひめゆりの塔及び資料館などの施設案内です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.5

ひめゆり学徒隊の軌跡を記したものです。動員・撤退・解散という三タイトルに絞って解説しています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「ひめゆりの塔の記」という碑文がありました。ひめゆり学徒隊の軌跡やひめゆりの塔設立の経緯が記されています。

【ひめゆりの塔の記】

昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。

日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

いはまくら かたくも あらむ やすらかに
ねむれ とぞいのる まなびの ともは

ひめゆり学徒隊の軌跡が描かれた本は沢山出版されていますが、ここでは四冊をご紹介しています。ご紹介する五冊の初版日を見ますと、最初に出版された「プリンセス・リリイ」(ジョー・ノブコ・マーチン著)が昭和60年(1985年)で、最後の「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著)は平成7年(1995年)に出版されました。沖縄戦が終了してから40年とか50年の時を経て、ようやく体験談が出版されるに至りました。

恐らく戦後長く沖縄戦の話さえ口にするのが憚れたという時代が続いたのでしょう。語る事は級友を傷つける事になるという配慮もあったかもしれません。いずれにしても、戦後40年とか50年経過してやっと語る事が出来た、記述する事が出来たというのが実情であろうと思います。そうした心の葛藤に思いを馳せる時、著者のお一人お一人について言える事と思いますが、三ヶ月に渡る沖縄戦が如何に深刻な体験であったかという事の証左でしょう。語る事、本を出版する事、それはまた心の中に沈潜した深い傷を思い起こす事に繋がったであろうと、読み進める中でその痛みが此方にも伝わってくるようでした。

あの忌まわしい沖縄戦の事は忘れよう、二度と思い出したくないと沈黙を守り続けた生存者が、語り始める事となる大きな契機がありました。昭和57年(1982年)に「ひめゆり祈念資料館」の建設を同窓会にて決議したという流れが、学徒隊の皆さんの背中を押したようです。この動きがなかったら未来永劫、学徒隊の出版は為されなかった‥。と思えてしまいます。

「ひめゆり祈念資料館」の建設の過程で沖縄戦体験を伝えるという伝承事業に意義を見いだしたと言います。しかしながら、それはまた亡き学友の死が掘り起こされ、新たな悲しみを誘うという繰り返しであったようです。今はそうした皆さんの願いが叶い「ひめゆり祈念資料館」により、戦争の本当の姿を知り、改めて命の尊さ、平和の大切さを伝えて行く場となっています。

《書籍ご紹介》

「プリンセス・リリイ」

ジョー・ノブコ・マーチン著 新日本教育図書(株) 昭和60年(1985年)初版

著者はジョー・ノブコ・マーチンさんです。沖縄戦を自らの体験を元に、小説仕立てでの作品となっているのが特徴と言えるでしょう。ジョー・ノブコ・マーチンさんは、旧姓は与那城信子さんで沖縄で生まれ育ちました。戦後戦争花嫁として米国に渡りまして、英語で小説を書きたい一心で、ミシガン大学で学び三つの学位を取得したそうです。同著書はまず英語で書かれました。その後日本語での出版となったようです。日本語版出版に際しては、関係方面から記載内容について指摘を受けたり、出版を見合わせるよう要請された経緯があるようです。著者であるジョー・ノブコ・マーチンさんは、「この作品において戦争を描写したかったのではなく、戦争をバックグラウンドとして人間を描きたかった」と述べています。著者が語るようにこの本はフィクションであり、何処までがリアルであるのか戸惑いを持ちながら読み進めましたが、第八章 チルの旅立ち(思い出の記)に、「新編 辻の華」(上原栄子著)の舞台である辻遊郭が描写されているのには驚きました。

 

「私のひめゆり戦記」

宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

著者である宮良ルリさんも、6月19日陸軍病院第三外科壕において米軍によるガス弾攻撃で、多くの犠牲者が出た中で奇跡的に生還されたお一人です。そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。南風原陸軍病院での看護活動を書き綴る「脳症とウジ」では傷病兵への対応や手当、そして命がけの飯あげ、切断された手足を弾痕の中に捨てに行くなどの生々しい戦場の様子が描かれています。また戦場では生も死も紙一重であるのが良く解ります。山城本部壕がやられた後のひめゆり学徒隊員の軌跡がそれをよく表しています。いずれにしても、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃に際しては、著者である宮良ルリさんは、「こんなところで死んでたまるものか。生きるのだ。生きるのだ。絶対に死なない。こんな洞窟の中で死んでたまるものか」と強く自分に言い聞かせたそうです。そして冒頭述べたように奇跡的に生還されたお一人である訳です。

 

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)6月初版

この本はひめゆり学徒隊に関わる著作ではありませんが、同隊員が居住した第三外科壕への米軍のガス弾攻撃について詳述しているのでリストアップしています。軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還されたお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。

 

「ひめゆりの沖縄戦」

伊波園子著 (株)岩波書店 平成4年(1992年)6月初版

 

「ひめゆりたちの祈り」 沖縄のメッセージ

香川京子著 朝日新聞社 平成4年(1992年)6月初版

 

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」

宮城喜久子著 (株)高文研 平成7年(1995年)初版

6月18日ひめゆり学徒隊への解散命令が出た後、引率していた仲宗根政善先生が生徒に、「解散命令が出たので、壕から出ないといけなくなった。目立たないように何名かずつ組を作って行きなさい。なるべく出身地が同じ人と一緒になった方が良い。助け合って国頭の方向へ逃れて行きなさい。決して早まったことをしてはいけないよ」と諭すように話されたというのが印象的でした。また荒崎海岸で岩陰に隠れている時に、米兵に小銃を連射され、タッタッタッタッ‥。悲鳴と白煙が立ちこめる中、悲劇の地と言える場所には「ひめゆり学徒散華の跡」の碑が建立されています。その碑のある大きな岩の下で右と左に別れたその動きの瞬間判断で、大きく生死の明暗を分けたようです。左に身をかわした著者である宮城さん等二人は生き残り、右に身をかわした平良先生以下生徒は手榴弾で自決されたのでした。ほんの一瞬の出来事であったようです。

動画ご紹介

「語り残す―戦争の記憶― 激戦を生き抜いたひめゆり学徒隊員」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.

奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前9時前です。まだまだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を色鮮やかに飾っています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.7

琉球王朝末裔であられる井伊文子氏の歌碑です。詠めますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.8

日中は修学旅行生などで賑わうひめゆりの塔献花台前ですが、この時間はほとんど観光客を見かけません。ゆっくり心静かに参拝するにはもってこいの時間帯ですね。「ひめゆりの塔」慰霊巡拝に際しては、私が最初に献花すると言うケースが多いのですが、今年は献花する花そのものが無いので、とても残念に思います。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.9

白い石組みで清楚さを表現している「ひめゆりの塔」です。「ひめゆりの塔」裏手に納骨堂があります。この「ひめゆりの塔」は平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」には、教職員・学徒戦没者219人が合祀されています。

「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であった為と、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって建立されました。戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔をひらがなを交えて「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯で、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.10

手前がいわまくら碑で、詩が刻まれています。 「いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは 昭和二十一年四月十五日 真和志村村民一同」 と彫られています。また奥の碑は、初代の「ひめゆりの塔」ですね。金城和信真和志村村長と村民の協力と献身により建立されたものです。金城和信氏は、四人のお子さんが居られましたが、沖縄戦戦禍のなかで長女の信子さん(師範学校女子部在学)と、次女の貞子さん(県立第一高等女学校在学)の二人亡くしておられます。

同塔は昭和21年の年明け早々には完成していましたが、慰霊祭挙行については、米軍の許可が下りませんでした。なんとしても乙女達の御霊を鎮めるお祭りをしようと金城和信氏は一計を案じ、表向きは塔の清掃作業をすると言う形で米軍の許可を取りまして、実際には真和志村民と近在のひめゆり同窓生が集って、4月7日に第一回目の慰霊祭を斎行したのだそうです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.11

刻銘碑です。「沖縄師範学校女子部一高女職員戦死者」「沖縄県立第一高等女学校生徒戦死者」と書かれ、戦没者氏名が縦書きで網羅されています。

「沖縄陸軍病院伊原第三外科壕」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.12

ひめゆりの塔前には、大きく口を開けた「沖縄陸軍病院伊原第三外科壕」があります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.13

沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。この壕は概略二段階になっており、沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。 6月18日解散命令が出た翌日未明の頃、脱出直前というタイミングで米軍による馬乗り攻撃ともいえるガス弾攻撃を受け、陸軍病院関係者、通信兵、集落住民など壕内に居た96名のうち87名が犠牲になりました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.14

カメラを持つ腕を精一杯伸ばし壕口の上で撮影しました。上掲の断面図に書き記されている最初の平坦な場所が壕口の下側に見えますね。そこまでは設置された板ハシゴを使い上り下りしたようです。ハシゴで中段に降りると、そこから更に自然に出来た大小の横穴が幾つかあり、各横穴では民家から運んだ畳や板で床を作り、そうした場所に十人程度のグループとなって入って居たと言います。因みに、伊原の第三外科壕では、患者の医療行為は行われなかったとの事です。 島尻が戦場になる前の第三外科壕のある辺りは、松林となっていて壕開口部も見えないぐらいだったと言います。ただ爆撃され松林が吹き飛んでしまうと、ご覧のように開口部は大きいですから、偽装したにしても発見されやすかったと思います。また上部が開口していますから、迫撃砲弾の集中射を浴びやすいと常々懸念をされてもいた様です。

因みに沖縄では昔から集落の一角に病死した家畜や動物を捨てる壕があったそうです。それは家畜などの病死骸の廃棄は、安全を確保する観点から集落単位で設けられていたと言う事の様です。伊原集落ではこの第三外科壕と呼ばれたこの壕を病死家畜の廃棄場所としていたという話です。そうした事から沖縄陸軍病院が野戦病院を設置するに際して、牛や馬の死骸とか骨を外部に搬出したのではないか推測されます。ちなみに八重瀬町仲座にある独立混成第四十四旅団司令部壕、ここは二年前に調査で入った壕ですが、近年まで仲座集落の病死骸等の捨て穴だったそうで、戦後捨てられたと思われる、リアルな牛の骨がゴロゴロしていました。

長田紀春氏と具志八重氏の共著となる「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」の中で、著者であり沖縄戦当時軍医見習士官であった長田紀春氏が、沖縄戦後一年程経過した昭和20年6月に第三外科壕に入った時の感想を述べていますが、その中で沖縄戦後の第三外科壕について記述していますのでご紹介致します。

(254ページ)
沖縄戦に参加した或る兵隊から「第三外科壕の近くに駐屯していた米軍が、壕の中から出てくる蠅やうじを殺すために大量のガソリンを撒いて、壕の中を焼いていた」という証言を私は直接耳にしたことがある。

また、沖縄タイムス社発刊の『沖縄の証言』の中に、初めて(四十六年三月二十日)壕内に入った田原惟信氏の話として「遺骨は灰になってピラミッド状につまれてあった。付近に米国製のドラムカンが数個ころがっていたので、おそらく米軍がガソリンで遺体を焼いただろうと思われる」と記載されている。私が壕に入った時は、その御遺骨は収骨された後だったのである。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.15

ひめゆり学徒隊を引率した仲宗根正善先生が詠まれた哀悼の歌「いわまくら碑」です。 いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは と彫られています。

「陸軍病院第三外科職員之碑」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「陸軍病院第三外科職員之碑」です。陸軍病院第三外科鶴田軍医大尉以下、戦没職員32名が祀られています。陸軍病院第三外科は、五月下旬南風原町にある壕から当壕に移動し、野戦病院として傷病兵の看護に当たりましたが、6月19日の米軍によるガス弾攻撃でほとんどが殉職しました。かつて木製の碑が立てられていただけでしたが、1970年、長田紀春氏、具志八重氏が中心となり建立されました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「沖縄戦殉職医療人之碑」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.17

右側の大きな碑が「沖縄戦殉職医療人之碑」です。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。一方左側の碑が「陸軍病院第三外科職員之碑」です。次の写真で解説します。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.18

1954年10月28日建立 沖縄督療園と書かれています。

「沖縄戦殉職医療人之碑」について

(345ページ)
昭和二十年九月には、沖縄の熾烈な戦争も全て終わりを告げ、翌二十一年になると、医療関係の方々も各地区の病院や診療所に配属され、各々の技術を駆使して、戦後の多数の戦病者の治療に活躍するようになった。

その頃、各地区に分散され収容されていた家族、親類、知人の消息が日を追って明らかになるにつれ、祖国のために一身を捧げて犠牲になられた医療関係者の御名前も次第に判明したが、その悲報が伝わるや、御家族並びに関係者一同は、悲嘆の憂いに包まれ、涙を流して追慕の念を深くされたのである。

時にひめゆりの等(昭和二十一年一月)、第三外科の碑(同上七月)が相次いで建立されたのを知られるや、期せずしてご遺族はその近隣に地を定められ、木製の碑を建て、殉職者の御霊を御慰め申し上げ冥福を祈られた。昭和二十二年夏に開催された沖縄医療団の会議席上に於いて、十月二十八日に合同慰霊祭を現地に於いて執り行うことと、医療人の碑の建設案が提出され、全会一致で可決された。

やがて各地の医療関係者を中心にして集められた浄財により、ひめゆりの塔の塔傍に現在の「沖縄戦殉職医療人之碑」が完成し、昭和二十三年一月二十八日に除幕式が挙行された。題字は?宮城瑞芳先生の揮毫である。同碑は戦没された民間の医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、獣医師、助産婦、医療技術者)を祀ると同時に、戦死された軍医、衛生兵、軍病院関係の職員の御霊をひろく合祀し、毎年六月二十三日の慰霊の日には、御遺族や医師会等の三師会及び関係者が参拝される。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」から転載させて頂きました

「ひめゆり平和祈念資料館」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.19

この時刻ではまだ門は閉じられていますが、「ひめゆり平和祈念資料館」です。昭和64年/平成元年(1989年)6月23日に開館しました。同館は沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です 私も二度ほど見学させて頂きました。中庭を周回するように各展示室が配置されていますし、第三外科壕を底から見上げた形での原寸大のジオラマも見る事が出来ます。沖縄に旅行した際はぜひ一度訪ねる事を推奨したいですね。

昔は沖縄戦を体験された方の講話が聞けました。実際に身をもって体験された話なので、聞いてとても心に強く訴える語りであったと、印象深く脳裏に刻まれています。しかしながら現在は証言する方の減少や高齢化などで、平成27年(2015年)で直接話を聞く事が出来る講話は終了されたとの事です。

「赤心之塔」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「赤心之塔」です。ひめゆり平和祈念資料館に到る手前20メートルぐらいの位置で、左手をご覧下さい。ご覧のような高さ60センチほどの小さなちいさな「赤心之塔」が見えるはずです。

「赤心之塔」は、多くの方々が慰霊に訪れる「ひめゆりの塔」や「伊原第三外科壕」と同じ敷地内にありますが、個人的な慰霊碑が、なぜ同一敷地内にあるのか、その理由を説明させて頂きます。

ひめゆり学徒・職員の多くが亡くなられた「伊原第三外科壕」と呼ばれる壕は、沖縄戦開始の頃は民間人のみが入って避難生活をしていましたが、6月上旬に沖縄陸軍病院が南風原からこの地に撤退して来まして、沖縄陸軍病院がすでに多くの住民が避難していたこの壕に入るに際しては、陸軍病院先発隊の説得によってほとんどの住民は壕を出ましたが、意外にも壕内にそのまま残留した地元住民が居たのです。

その居残った地元住民とは、大田家の子供3人を含む5人の家族でした。子供が居るからという配慮で残留出来たようです。しかしながら安全な壕に残れるという喜びもつかの間、「伊原第三外科壕」は6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ “馬乗り攻撃” が開始されたのです。この攻撃により沖縄陸軍病院職員や従軍看護婦の方々、そしてひめゆり学徒の皆さんと共に、大田家の子供三人と夫の母の四人が壕内で壮絶な死を遂げられ、大田家の生存者は子供達の母であるトシさん唯一人となってしまったのです…。

トシさんはなぜ生存できたのか?。
トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていました。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまいます。

結果として米軍によるこの日の第三外科壕におけるガス弾攻撃により、大田家は掛け替えのない9歳、5歳、3歳の三人の子供と、夫の母を一度に亡くすと共に、防衛隊に招集されていた夫一雄さんも前線で戦死され、沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。

戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。

「赤心之塔」と金光教那覇教会の林先生とは、とても深い係わりがありますのでここでご紹介させて頂きます。

具志八重さんといえば二年前にお亡くなりになりましたが、「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動に初期の頃から参加されていましたが、その具志さんが、平成6年といいますから今から19年前になりますが、金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たそうです。

平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。詳細は下掲の写真の中で説明させて頂きますが、爾来今日まで「赤心之塔」前での慰霊祭は続けられています。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、以降は有志による慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられる手はずとなっています。

「赤心之塔」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.21

赤心之塔を立って撮影しました。ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立って行うと見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話をお聞きしました。

「赤心之塔」です。沖縄陸軍病院第三外科壕は軍が病院として使用しましたが、軍が入る前からこの壕に避難していた民間人である大田家の六人家族は、軍が使用するようになってからも第三外科壕での居住が許されていました。しかしながら6月19日の米軍による馬乗り攻撃で、ひめゆり学徒、陸軍病院関係者と共に、大田家六人家族のうち五名が戦死してしまったのです。

大田家唯一の生存者となってしまった母のトシさんは、たまたま用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受けてしまい壕に帰れなくなりました。結果として三人の子供と夫、そして夫のお母さんを亡くしてしまいました。そのトシさんは戦後、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。

トシさんはなぜ生存できたのか? トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていたのです。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまったという訳です。

トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。

トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。

事の発端は、故具志八重さんと言えば「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。その具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動にも初期の頃から参加されていましたが、平成6年の時に金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たのが「赤心之塔」前での慰霊祭の始まりだそうです。

その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、平成7年以降は有志により慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられています。

私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.22

「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。一雄さんは防衛隊に招集され前線で戦死されました。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。

【太田家の御霊に祈り】 「赤心之塔」で慰霊式

「沖縄タイムス」平成25年(2013年)6月20日

【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。

大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。

島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

【犠牲者の冥福祈る】 「赤心之塔」有志が慰霊祭

「琉球新報」平成25年(2013年)6月20日

【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。

同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。

慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.23

「ひめゆりの塔」隣の「でいごレストラン」の駐車場奥に「梯梧之塔」があります。ご覧の様に案内看板も、あまり目立ちませんが設置されています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.24

献花販売店のすぐ裏手にある壕です。ドリーネ(窪地)と言うのが適正かも知れませんね。戦後は長く米軍関係のゴミ捨て場となっていたそうです。壁面が煤で黒くなっているのが見えますね。

「梯梧之塔」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.25

「梯梧之塔」の案内看板が見えますね。同塔はご覧のように「でいご」店の裏手にありますので、駐車場もこのお店の駐車場を利用させて頂く事になりますが、塔に近い所に駐車すれば、来店のお客様に迷惑を掛ける事はないと思われます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、周囲のお土産屋さんの施設を利用させてもらいます」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.26

広い駐車場の更に奥まった所に「梯梧之塔」はあります。見えてきましたね。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.28

「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますがテキストを起こしましたのでご覧下さい。

【梯梧の塔説明碑文】

梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな んで、「梯梧の塔」として建立された。

昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。

4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。

無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。

梯梧同窓会 

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.29

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.30

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「梯梧之塔」前にはピンク色のハイビスカスが咲き誇っていました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.32

亡くなられた乙女らの心情を吐露する様な芳香を感じました。いずれにしても霊域に似合う清楚な花ですね。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.33

戦没された学徒58名、教職員4名を祀る「梯梧之塔」です。この「梯梧之塔」は昭和23(1948)6月に学校の校舎跡地に建立されましたが、その後昭和46年に(1971)6月に、多くの犠牲者を出したゆかりの場所に程近い、糸満市伊原に移設されたものです。

「梯梧之塔」のデイゴは赤い花を咲かせる熱帯植物でインドが原産です。また沖縄県の県の花にもなっていまして、沖縄昭和高等女学校の近くに、でいごの並木道があった事から、学校のシンボルにもなりました。校章も、でいごの葉が表現されているそうです。昭和高女は戦前、事務員を養成する学校として、簿記とかを教える商業学校だったそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.34

長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。 お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.35

お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。思えば藤岡中将はお気の毒な方でした。大本営は米軍による沖縄侵攻が三月か四月にあると判断し、状況急迫裡であると認識しながら、三月に沖縄第三十二軍首脳部の定期人事異動を大規模に実施したのです。

第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将も人事異動の対象となり三月に沖縄に着任されました。定期人事異動で沖縄に着任された陸軍の指揮官は、沖縄本島だけで七名おられるのですが、例を挙げれば米軍と正面で対峙する手筈となっている独立歩兵第十四大隊や歩兵第二十二聯隊の各隊長も直前となって異動したのですから驚きを隠せません。「沖縄決戦 高級参謀の手記」の著者である八原高級参謀も、将兵の士気に関わる一大事と見たのでしょう、このような直前の大規模な更迭は失当であると暗に非難しつつ、「第六十二師団長藤岡中将は着任してわずか半月の後、戦闘が始まった。まったく沖縄に死ににきたのも同然である」と述懐している程です。

藤岡豊子氏が第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様であると教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。 経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。

なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30余年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子13

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。平成2年(1990年)2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。

この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。

遺骨収集の様子14

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。同じく平成2年(1990年)2月に撮影ですから懐かしい写真です。林先生や大庭さんをはじめとする関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれているのが印象的ですね。この慰霊祭の時は旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されていました。

「沖縄陸軍病院第一外科壕」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.36

ご覧の「第一外科壕入口」は、国道331号線沿いに設置されていますので、速度を落として慎重に運転していれば発見できると思いますよ。(^o^)

所在地ご紹介

「駐車場はありません。但し一台程度なら慰霊碑の横に路上駐車出来ます」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.37

国道331号線から150mぐらい農道を進むと、左手にご覧の様な樹木が茂る場があります。ここに第一外科壕があります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.38

「沖縄陸軍病院第一外科壕跡碑」が建立されている場所は糸満市伊原になりますね。沖縄戦当時は壕の周囲にある樹木等は砲撃で吹き飛ばされたでしょうから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴開口部が見えますね。穴が見えないように偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。恐らく開口部は米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。

沖縄陸軍病院第一外科壕について、「ひめゆり平和祈念資料館」の説明書きによりますと、「伊原第三外科壕と共に、南部撤退後に沖縄陸軍病院職員やひめゆり学徒隊が避難していた壕の一つで、最初糸数分室の勤務者が入っていたが、後から第一外科と津嘉山経理部の勤務者が合流した。6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷。その翌18日に学徒らに解散命令が出され、19日未明に負傷者9名を残し、壕を脱出した」と書かれていました。

まず読めませんので、公式サイトから転載させて頂きました。

【慰霊碑 碑文】

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。

米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった。軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死わかれの地点である。

ここで負傷戦没した生徒。

古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。

1974年6月 ひめゆり同窓会 

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.39

道路から土のスロープになっていますので、雨の後など滑りやすくなっています。ご注意ください。私もこけた事があります。下に落ちなかったのが幸いでした。ご覧のように、岩盤が大きくバックリと口を開けていますが、ここはまだ壕口ではありません。下に降りてみましょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.40

巨岩の底部にある献花台が見えてきました。献花台の左側が壕口となります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.41

この場所が祈りの場となっているようです。私もここで手を合わせました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.42

この場まで降りてきて祈りを捧げる方が多く居られる証ですね。いつ来ても、折り鶴をはじめとする何らかの物品が献納されています。左側の折り鶴ケースは昨年飾られていました。という事で、右側の折り鶴ケースはここ一年の間に納められたと考えられますから、ご遺族か関係者かは解りませんが、毎年参拝に訪れる方が居て、その都度折り鶴ケースを置いていかれるという事なのでしょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.43

ここはまだ壕内ではありません。献花台の左側にある空間を写しています。壕口の横にある場所と言う事で、この辺りには衛生機材や軍事物資が置かれていた可能性もあると推測しています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.44

ここが壕口です。幅は2mぐらいです。高さはあまりないです。現状は這って進まないと入れない状態ですね。推測ですが、壕の高さについては、上から土砂が落ちて塞いだ可能性があるので、沖縄戦当時はもう少し容易に出入りできる高さがあったのではないかと感じます。いずれにしても、今年は滞留した水が少ないみたいです。壕の中が見えますからね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.45

最も下に降りた壕口から開口部を撮影しました。壕口は小さいですが、空から見る地表の開口部はかなり大きいのが見てとれます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.46

昨年ほどではないですが、今年も滞留した水が少ないので壕の中が見えます。これは何度も第一外科壕を訪れていますが非常に希な事態なのです。気持ちが高揚しますが、抑えて、抑えて!。壕口は急勾配ですし土が主体なので滑りやすいです。皆様も見学時は誤って中に落ちないでくださいね。(^^;)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.47

例年は水没して見えない部分が見えています。昨年はもっと水位が低くて、より広く見えたのですが‥‥。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月27日/沖縄遺骨収集の様子no.48

一昨年撮影した壕口の写真です。滞留した水で池のようになっていて、壕内を見る事は全く出来ませんでした。この状態が通常の姿と言って良いかも知れません。

過去写真掲載はここまでです。

「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、伊原アブチラガマ(第一外科壕)の配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。このサイトによりますと、私が撮影した壕内について、更に奥の方に壕の坑道がある様ですね。いずれにしても、第一外科壕の詳細な説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。

冒頭でひめゆり平和祈念資料館の説明書きによると‥。でご紹介した「6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷」と、書かれている砲弾が直撃した場所は、上掲写真の壕口の直ぐ奥辺りに居られた学徒の方々が死傷したのではないかと見ています。また死傷の規模からして艦砲砲弾が炸裂した可能性があると感じます。砲弾が落下・直撃した場所は、私が撮影する為に立っている場所辺りではないかと思います。それでは砲弾が直撃した直後の様子が生々しく書き綴られている「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著/(株)高文研)を引用させていただきます。

流れる血、叫ぶ声

(116頁)
六月十七日の夕方、砲弾が止み、やっと水汲みと食べ物さがしに生徒たちは外に出ました。私は石川先生と玄米を炊きに近くの岩かげに行きました。枯れ草に火をつけようとした、その瞬間です。突然、第一外科壕のあたりで砲弾の炸裂音がしました。

「壕の近くに爆弾が落ちたようだ。すぐ壕に戻ろう!」
先生はそう叫ぶなり、走り出しました。私も、先生の後を追って走りました。

壕の入口近くに大きな砲弾が落ち、あたりは硝煙の匂いがたちこめていました。壕の中は騒然として、さまざまな叫び声が飛び交っていました。恐る恐る中に入ると、入り口近くには折り重なるように人が倒れていました。おびただしい血が流れ、歩くとぬるぬるとすべります。その中を奥へと進みました。そこで目にしたのは、「助けて!」「痛い、痛い!」と泣き叫んでいる学友たちの姿でした。足元には どろどろした血の中に人の体が横たわっていました。ぶるぶると体中が震えました。まさに阿鼻地獄です。

比嘉勝子さんは脚を負傷し、「早く包帯して!」と叫んでいました。そこへ照屋貞子さんが、ひざを負傷し、外から運ばれてきました。牧志鶴子さんは「足がない!足がないよ!」と大声で叫んでいたそうです。鶴子さんは大腿部を取られて亡くなったのです。そのほかに師範予科三年の小波蔵満子さんが即死でした。

師範本科一年の荻堂ウタ子さんは、内臓がとび出すほどの重傷で、師範生に囲まれて倒れていました。「おなかがやられた人が助かることはない。私はいいから他の人を見てあげて」と叫ぶように話しているのが聞こえました。砲弾が落ちた時、壕の外にいた山里幸子(現姓、山田)さんが荻堂さんのところへ行った時は、もう息を引き取る寸前でした。幸子さんと荻堂さんは幼なじみでとても親しい間柄でした。「幸子、もんぺを上にあげてちょうだい。私は三報よ。あなたはきっと生きて、私のお母さんに、ウタは先になると話してちょうだい」と幸子さんに苦しい息の下から話したそうです。「三報」というのは、助かる見込みのない患者ということです‥。

‥。砲弾の破片で顔面を削られた人、かかとをえぐり取られた人、大腿部やひざをえぐられた人‥。あまりの痛さに泣き声をあげる友だちの前でね私たちはなす術もなく、ただうろうろしているばかりでした。出血した人に水をあげると、どっと出血して大変なことになると言われていたので、水をあげることにちゅうちょしましたが、苦しむ姿を見るとたまらなくなり、口元から少しずつ水をたらすようにしてあげました。

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」から転載させて頂きました

「沖縄陸軍病院之塔」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.49

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内には、大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな木が何本もあり鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように見通しのきく明るい雰囲気となっています。

所在地ご紹介

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.50

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「沖縄陸軍病院之塔」です。塔の前の広場には、石造りの椅子が数多く並んでいるのが印象的です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.52

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.53

碑文です。ご覧下さいませ。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.54

戦没者の死を悼み詠んだ詩ですね。

「沖縄陸軍病院本部壕」

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.55

「沖縄陸軍病院本部壕碑」です。霊域の西端部に「沖縄陸軍病院本部壕」ありますので、ご一緒に入って見ましょう。ちなみに壕の呼称は山城にある事から、「沖縄陸軍病院山城本部壕」と呼ぶ場合もあります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.56

「沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)」の説明板です。本説明板は一昨年は無かった事から、二年前に設置されたようですね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.57

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。実際に壕に入ってすぐの、写真では左側辺りに艦砲砲弾の直撃を受けて、多くの人々が一瞬のうちに亡くなったり重傷を負いました。沖縄戦当時もご覧のような壕に降りていくスロープがあったようです。スロープに沿って手摺りも設けられていたと記録に残されています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.58

バックリと岩が割れていますね。砲弾炸裂で割れたのでしょうか?

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.59

スロープを下り始めてすぐに左手を見ると、ご覧のような風景が見えます。分厚い一枚岩の下に壕空間があるのが解ります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.60

虎ロープが設置されましたね。この壕も頻繁に修学旅行生等の平和学習に利用するようになったと言う事でしょう。ただ壁際にあるのは意味解りません。沖縄戦当時は左側の崖側に、落っこちないように手摺が設けられていたようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.61

触れるなと書いてあれば、触りたくなるものです。(^^;)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.62

壕の三分の一ぐらい入ったでしょうか。スロープのような場所を降りてきましたが、この部分は沖縄戦時でも同じ形状をしていたと推測されます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.63

写真は壕口に程近い場所で、米軍迫撃砲弾が落下した辺りを写しています。写真左側辺りに落下したのかな?

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.20

この写真は米軍迫撃砲弾が落下した際に、負傷したり死亡した方々の場所を明示した見取り図です。ギリギリ見えますね。9番が迫撃砲弾着弾点です。左側2番の所で、橋本伍長、兵一名即死、宮原軍曹重傷。4番の所で、中林伍長即死、軍属炊事婦二名即死。5番の所で、院長負傷。と書かれています。着弾点は壕の天井の無い窪地部分でしたので、遮る物がなく広範囲に砲弾破片が飛び直撃したと思われます。

過去写真掲載はここまでです。

上掲配置図の9番が迫撃砲弾着弾点ですが、下掲の著書の中に砲弾が広場の隅に落下し炸裂した瞬間の惨状を書き記した記述がありましたので、転載しご紹介させて頂きます。「廣池病院長の最期」と題した、軍医見習士官長田紀春氏と衛生材料室勤務樋高嘉𠮷氏による著述です。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」

長田紀春・具志八重共著 ニライ社 平成4年(1992年)初版

【廣池病院長の最期】

(50ページ)
六月十八日の午後五時頃、廣池病院長は壕の中の岩の上に敷いた板敷きの床から、目を覚まし起き出した。

昼間は米軍の空からの爆撃や陸海四方からの熾烈な砲撃の絶え間が無くて、壕外に出るのは危険であった。しかし夜になると空や海からの攻撃は減り、陸上からの砲撃も手を緩めてくるので、砲弾の落下は少なくなる。特に日没直後と夜明けの一時間位は米軍の勤務交替や食事の関係であろうか、砲弾の落下する間隔が長くなるし、時には一時静まりかえることさえあった。病院職員はこの時とばかりに壕の中から飛び出して水を飲んだり、食糧集めに行ったり、用を足したりしたものである。

廣池院長もこの日の夕方頃、砲撃の静まるのを待って壕の入り口の広場に出られた。この山城の自然壕は入口から下り坂になって中に入って行く穴井の形の壕であり、中には水も流れていた。下り坂の麓になる部分は、十畳位の広場になっていて、入口から見下ろすと薄暗い岩の広場が見える。この広場に立って、廣池病院長は雨期の過ぎたばかりの南の島の美しい夕明かりを仰いでおられた。そして、軍医部からの緊急指令や各科への連絡、学徒隊への対応等緊迫した戦況を脳裏に浮かべながら、静かに深呼吸を始められた。

その時である。轟然たる爆発音と同時に閃光がひらめき、砲弾が壕内入口の広場の隅に落下し炸裂したのである。

そこは炊事をしていた場所であり、付近にいた兵隊や炊事婦が、この直撃弾で一瞬にして死亡された。中林伍長、炊事婦三名の方が即死し、近くにいた橋本伍長も戦死、宮原軍曹も重傷を受けて戦死された。

病院長は着弾地点より少し離れて立っておられたが、右足を負傷して倒れられた。直ちに創傷の応急手当を受け、奥の寝床に運ばれて看護を受けられたが、傷の状態は急速に悪化し、浮腫が進行していった。

全身状態も良くない。佐藤少佐、西平中尉は容態を見守りながら、爆傷からの瓦斯壊疽と診断し、この上は大腿部からの切断手術以外に方法はないと判断した。

手術は受傷後五~六時間たった夜中に、急造の板床の上で両軍医の執刀で行われた。しかし翌十九日になると容態は更に悪化し意識混濁が続いた。

「進め、進め」等と頻りにうわごとを言われたが、午後になって力尽き、遂に息を引き取られたのである。同夕刻、僧侶出身である伊藤上等兵が読経を上げられた後、壕より北へ三十メートルのところにある岩の近くに丁重に埋葬された。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.64

米軍迫撃砲弾が落下した場所の上部の様子を捉えています。壕口付近はご覧のようにドリーネ(窪地)のようになっているのが解ります。実際に大きな開口面積があるように見えますから、元々危険な壕だったと言えるでしょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.65

更に奥へ進んでみましょう。壕の地面に注目して下さい。写真に収められている場所は、壕の天井があり雨が降らない場所なのですが、地面をよく見ると低い部分を水が流れたような跡がはっきり見えますね。水は低い所に流れ進みますから、ドリーネ(窪地)の範囲に降った雨が、全部この辺りを流れて、更に壕の奥へと流れていくのだと推測されます。もしもこれが事実だとすると、沖縄戦当時は梅雨の期間も含まれるので、壕の奥に行くに従って、床面は濡れて居心地は悪かったのではないかと思われます。

長年壕の中で作業していると、壕の中でも雨(岩から垂れる雫ですが)は降りますし、強い雨の場合は川のように水が流れると言うのが解ってきました。ですから壕と言うのは安全かも知れませんが、決して居心地は良いとは限らないと言う事ですね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.66

この辺りから急に狭くなっているのが解ります。そしてここまで来るともう真っ暗です。更に前進してみましょう。この奥に雨期には水が流れる川があります。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.67

壕は一人で入ってはいけないのですが、外にレンタカーが駐車してありますし、この壕で遭難しても早期に発見してもらえる予感がするので、ついつい壕の最奥部まで入ってしまいます。ご覧のように壕の奥の方に進むとかなり大きな池があります。上掲の壕の解説でも、雨期に水が流れる小川となると書かれています。雨期とは梅雨の事と思われますが、そうした雨期以外は、今もそうですが、ただの水たまりと言った状況なのかも知れません。

池の周りにロープが張られていました。一昨年設置されたようです。この壕もスロープ部分に手摺が設けられるなど整備されて、修学旅行生等の平和学習に利用するようになったのでしょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.68

池の中を撮影しています。この壕は水には困らなかったと言う事ですね。そしてやはり今年は水位がかなり低いですね。第1外科壕と同じ状況です。雨期には水が流れる川であると書かれていますので、沖縄戦当時の梅雨入りは5月6日で梅雨明けは6月5日辺りだったと言います。その頃は川のように水が流れていたのかも知れません。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.69

天井を写しています。結構水滴が垂れているのが解ります。雨の少ないこの時期でも、ご覧のように雫が垂れるのですから、雨期には‥‥。ですよね。今でもこの奥まった部分は非常に湿っぽさを感じます。地面はジメジメしていますし‥‥。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.70

別の場所の天井を写しています。こちらも雫が結構垂れています。光っているのがそれです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.71

飲用水を入れたと思われる一升瓶ですね。この瓶は何十年も前からここにありますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.72

化石かな? と思い撮影してみました。断定は出来ませんか。壕内で貝の化石はよく見ますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.73

さあ帰りましょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.74

ヘッドライトを消して、壕の一番低い場所から壕口を見るとこんな感じです。開口部がバックリと口を開けているのが見てとれますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.75

付近の畑の様子です。結球レタスの畑ですね。定植したばかりと言う状況でしょうか。白いマルチが敷かれていますが、アブラムシなどの虫除けを兼ねて設置されていると思われます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.76

こちらはトウモロコシ畑ですね。葉がダメージを受けているのが目立ちます。恐らく寒さにやられた可能性が高いです。沖縄といえども寒い日は寒いですよね~。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.77

こちらは先ほどと同じ結球レタスの畑ですね。大分成長しています。案山子らしき物も設置されています。旗のようなものも。多分鳥よけなのですね。

日中の作業は、非公開での調査・遺骨収集を実施しました。ご了解下さいませ。m(_ _)m

日中の調査・遺骨収集作業を終え午後3時からは、NPO法人沖縄鍾乳洞協会が八重瀬町の山稜にコース設定をした「ハンターバンの森」を見学する事になりました。エキサイティングコースみたいですから、皆様もご一緒に歩いて見ましょう。(^o^)

具具志頭ハンターバンの森散策と付近の守備軍陣地の調査作業開始です

NPO法人沖縄鍾乳洞協会は、八重瀬町の山稜に「ハンターバンの森」と銘打った熱帯カルストツアーとしてのトレッキングコースを設けたそうです。すでに有料でガイドがついて案内するシステムで運用が始まっているそうです。「ハンターバンの森」の全行程は2時間程度。山あり谷あり、更にフィッシャー(岩の割れ目)や洞窟があるなど見どころ満載のトレッキングコースだそうです。そんなエキサイティングなトレッキングコースを今日は松永さんと原田さんが案内して下さるとの事で、とても楽しみです。途中一部コースから外れて沖縄守備軍陣地跡も見学する事になりそうです。

ここ具志頭から港川に掛けて、米軍が上陸の陽動作戦を展開した為に、沖縄守備軍は具志頭山稜付近を中心に陣地を構築しました。結局港川からは米軍の上陸はありませんでしたが、沖縄守備軍の首里撤退後、この具志頭は摩文仁の司令部陣地を守る東の要衝として、米軍との間で激烈な戦闘が展開された地でもあります。今日はそうした沖縄守備軍の陣地跡も見て回るとの事で楽しみです。

《サイトご紹介》

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.78

「ハンターバンの森」のパンフレットです。

「ハンターバンの森」 探索開始です (^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.79

市道から少し入った所で撮影しました。写真中央部に見える小道が「ハンターバンの森」の入り口のようです。左側のつなぎ服を着ているのが、この「ハンターバンの森」コースを、休日を中心に案内していると言う原田さんです。右側に写るご夫婦は地元の方で、膝をついているご主人の前には拝所があり、手を合わせる為に訪れたそうです。写真にはピンク色の丸い物が見えますが、逆光の時に現れる現象ですよね。しかし時刻は午後3時ですし、このカメラは南西の方角を向いていますし、カメラは下向きになっています。逆光が入る余地はないと思うのですが‥‥。不思議な現象です。拝所に御霊様が居られたのかも知れません。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.80

拝所とご夫婦が御供えしたお盆を写させて貰いました。ご夫婦は毎年この時節に、この拝所にやってくるそうです。昔はもっと山の中に入って拝んだそうですが、年を取ったので近年はこの場所で手を合わせているとの事でした。私達も一緒に手を合わせました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.81

「具志頭遊歩道観察マップ」という大きな看板がありました。この場所が遊歩道の起点となっているようです。「ホロホローの森」は、サンゴ礁由来の石灰岩地の弱アルカリ性土壌のため、海側の具志頭浜までの約600mの自然散策路で、沖縄本島南部に植生する植物100種余りに出会うことが出来るようです。「ホロホロー」とはヤブニッケイのことを指していますし、沖縄の方言で、「うろうろする」事を「ホロホロする」とも言う事から、親みを感じる名称でもあるようです。遊歩道の前半は多分上り坂となるでしょうが、遊歩道の後半は太平洋が一望出来たりと、きっと素晴らしい景観の中を歩けるのでしょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.82

ジャングルに入りました。結構急な上り坂となっていますね。一気に頂上の山稜を目指すかのようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.83

しばらく登っていくと、小さな祠がありました。祠が古びていないので、比較的新しい印象を受けますが、ここに古くから祠があって、近年新しく作り直したと言う事も考えられますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.84

稜線上に到達したようです。写真は上り勾配が結構きつかったですが、時間的には10分掛からないぐらいで、比較的短時間に登り終えました。眼前には太平洋の大海原が広がっています。天候も快晴と呼べるぐらいの気象状況なので、かなり遠くまで見通せます。写真奥の方は、緑色の平坦部が広がっていますが、ザ・サザンリンクスゴルフクラブが運営するゴルフコースです。かなり広いですよね。ザ・サザンリンクスゴルフクラブの敷地は米海軍の専用弾薬庫でしたが、昭和52年といいますから、今から44年前に返還されたものです。返還された敷地はゴルフ場以外に、土地改良事業が実施されたうえで、農家に払い下げられたと言います。

私も金光教の遺骨収集で二度くらいゴルフコースの周囲のジャングルに入った事があります。一部砂浜がありました。海岸沿いは巨岩が連なっていますが、崖下や山稜全般に言える事ですが、壕は全然ありませんでした。これは即ち隠れる場所が無いという事です。特にゴルフコースがある区間は全て急峻な崖となっており、その崖下は潮が満ちると、緩斜面のような歩ける状態に通路はごく一部しかない状態となるのです。これはGoogleマップの航空写真でご覧頂くと一目瞭然です。ですから港川と摩文仁方面との行き来は、命がけだったのではないかと推測しています。海岸は現在引き潮の状態みたいですが、そろそろ満ちてくる時刻かも知れません。

因みにここから50mも西に行かない内に、国土地理院が設置した三角点という標識があるはずです。沖縄戦当時そこは91高地と呼ばれ、島尻摩文仁の防衛戦においては、独立混成第四十四旅団隷下の独立混成第15連隊(美田千賀蔵大佐)が布陣した場所です。今から私達も陣地壕を訪れると言いますから、同部隊の陣地壕かも知れませんね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.85

絶景ですね~~~。(^o^)
今度は東側を遠望しています。写真では解りにくいですが、世界遺産である「斎場御嶽」とか、沖合には「久高島」が写し込まれています。特に久高島は写真ではちょっと解らないですね。御嶽(うたき)とは、南西諸島や沖縄では神社に相当する聖地を指しています。わけても「斎場御嶽」は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地とされていますよね。私も一度参拝した事があります。

話が少し逸れてしまいますがご了承下さい。この「斎場御嶽」が如何に沖縄の中でも群を抜く聖地であるか、私は金光教那覇教会の林先生から教えて貰う事となったのです。それは平成19年(2007年)今から14年前の話で、金光教の事前調査班11名と遺骨収集で有名な地元の国吉勇さん、そして私の合計13名で、国吉勇さんが見つけたと言うご遺骨発見現場の場所を教えて下さるというので、「斎場御嶽」のすぐ背後の山上にある安座真城跡の山稜を調査した事があります。そこには斜面を活用した沖縄守備軍の陣地が沢山ありました。

一日掛けて国吉勇さんに同行した結果、沖縄戦戦没者の頭蓋骨と思われる遺骨が多数あるのを確認しました。その事を林先生にお伝えして対応して頂こうとしたら、林先生は「知念は沖縄発祥の地であり沖縄随一の聖地でもあります。私どものような者が足を踏み入れる訳には参りません」と語られたのです。実際に金光教も知念では一切遺骨収集をしていません。沖縄県民であり遺骨収集に誰よりも熱心に取り組まれている林先生が、知念には足を踏み入れてはならない‥‥。と語られる場所。私はこのように林先生のお言葉から、聖地の何たるかを学んだ気がしました。当時、知念を沖縄観光地の一つぐらいにしか思っていなかった私は、襟を正す事となったのです。

因みに安座真城跡付近で発見された数多くの頭蓋骨は、戦没者遺骨収集情報センターに情報提供しましたので、善処して下さったはずです。ご安心下さいませ。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.86

山稜から東北側を遠望しています。写真中央部辺りにこんもりした森がありますが、その方面から米軍がここ守備軍陣地めがけて攻め上がってきたのではないかと思い撮影してみました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.87

山頂で記念撮影です。右から福岡さん、原田さん、そして松永さんです。山頂には大きな樹木が無いので、本当に展望がききます。気分も最高になりますね。「ハンターバンの森」ツアーコースでの最高のビューポイントかも知れません。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.88

ここからは稜線沿いに水平に歩くという印象です。コース右側の岩肌は、多々名城の城壁のようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.89

城壁が続きますね。多々名城は、13世紀から14世紀の初期に、花城按司が築城したようです。築城した時は「花城(はなぐすく)」と呼んでいたそうですが、いつの頃からか「多々名城(たたなぐすく)」と言われるようになったと言う話です。推測するに、私達が居るこの稜線の更に西側に、隣接するするようにある上城と呼ばれる古城の説明板に「上城城主の上原按司は、後に多々名按司に滅ぼされ…」という記述があるので、ここの旧名である花城も多々名按司に滅ぼされ多々名城に名前が変わったと見るのが自然だと思われます。集落の名前が玻名城で多々名城の元の名が花城でどちらも同じ「はなぐすく」と呼び、何か紛らわしいですが、いずれにしてもグスクの規模は、南部地域では最大規模であったそうです。実際に私も多々名城の西側の城壁を平成29年(2017年)に見て全体像を俯瞰していますが、規模は確かに大きいのを実感しています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.90

獣道のような心細い道が続きます。背の高い樹木が増えてきました。ハブは木に登って樹上の餌を狙うので、冬は大丈夫ですが夏場はこの情景は怖いと思います。(^^;)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.91

凄いフィッシャー(岩の割れ目)ですね~。このフィッシャーの下を通るとかいってますよ。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.92

原田さんが立ち止まり説明して下さいました。ここは昔から御嶽として崇められている場所のようです。シャコ貝があるようで、子宝に恵まれますようにと、ここまで登ってきて願掛けが行われたようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.93

ご覧のようにシャコ貝が二枚、大きな岩に抱かれるように並んでいます。シャコ貝は昔から子宝とか安産の象徴として崇められているようです。子孫繁栄も含まれていたかもですね。琉球信仰の祈りの場と言うのは、このように本当に簡素であるのが特徴です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.94

小道は更に続きます。蔓植物が繁茂しています。夜は一人では歩けませんね。(^^;)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.95

小道の左側にフィッシャーが見えます。再びフィッシャーの下を通るとか言ってますよ。どういう事なんだ~。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.96

斜面を下り始めたので、いよいよ壕に入るなと思っていたら、目の前に壕口が現れました。松永さんがフィッシャーの底面を歩くと語っていたので、いよいよ地底の探索が始まるようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.97

完全に光の無い空間に入りました。すでにフィッシャーの中に居るという雰囲気です。降りたら程なくして沖縄守備軍の陣地に入ったようです。写真は少し解りにくいのですが、岩の割れ目に高さ60cmぐらいのコンクリートで壁を作り、水が貯まるような構築物がありました。沖縄にも給水部隊が駐屯していましたが、第三十二軍全軍の中での給水部隊の規模は余りに小さいものでした。戦闘が激化するにつれて、必然的に各部隊は自前で飲料水や烹炊用水を確保する必要が出てきました。という事で、長く遺骨収集をしていると、こうした水を得る為の構築物は結構目にしますね。濾過もしないのですから、赤痢やマラリアに罹患するリスクがあるなど、衛生的で無いのは火を見るより明らかですが、沖縄戦の開戦が4月1日、終戦が6月23日と言う事で、沖縄の梅雨時期を包含している事から、このような小さくて貧弱な構築物でも結構役立ったのではないかと推測しています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.98

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.99

前に進むのかなと思ったら、何と下に進むそうです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.100

福岡さんも一段下の坑道に入っていきました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.101

沖縄守備軍が陣地構築で多用したドリルの穴だと思われます。ドリルで穴を開けて、その中に発破を装填して爆破する‥‥。と言う流れで陣地を構築します。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.102

壁面のちょっとした平らな場所に軍靴の遺品が置いてありました。すでに守備軍陣地に入っているようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.103

正にフィッシャーそのものですね。「ウフワリミー」と呼ばれているようです。広さは十分あります。地面も比較的平坦です。歩きやすいです。艦砲弾などによる落盤や落石はあまり無いように感じます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.104

比較的広い空間になると、遺品が沢山ある場所に出ました。多くの将兵が居られた場所かも知れません。

瓶の破片、お碗、お皿らしき物も見えます。緑色の二重線が入った割れたお茶碗は兵士の所持品ですね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.105

茶碗と鍋の蓋でしょうかね?

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.106

地面を見つめる福岡さんです。彼の頭の中は多分「掘ってみたい」です。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.107

樹木の根が沢山見えるようになりました。地上が近いと思われます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.108

外界の光が入り始めました。明るいです。フィッシャーの下を通ると言うのは、今正に下を通っていると言う事なのですね。向きも間違いなく東に向かっているので、先ほど地上から見た割れ目を戻っているのに納得です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.109

完全に明るくなりましたね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.110

福岡さんが岩を登り始めました。「ウフワリミー」と呼ばれるこのフィッシャーも終わりのようです。因みに「ウフワリミー」のウフは沖縄では「大きい」を意味します。ですから「ウフワリミー」は、「大きい割れ目」と言った意味なのでしょう。所で八重瀬町富盛には、「富盛の石彫大獅子」が丘の山上にありますが、これは(ともりのいしぼりうふじし)と読みますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.111

結構な登り坂ですね~。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.112

松永さんも登って行きます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.113

またフィッシャーになりました。「ウフワリミー」はまだ続いていました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.114

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.115

福岡さんが地面を凝視しています。金属探知機とクマデを持ってこなかったのを悔やんでいるに違いありません。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.116

また明るくなってきました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.117

また登りが始まりました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.118

今度は「ウフワリミー」から出たようです。結構長かったですね。凡そ50m~60mぐらいでしょうかね。この全てが守備軍陣地のように感じました。フィッシャーは海岸線と平行に走っており、その両端から出入り出来るという点で陣地として最適です。また米軍はこの陣地までは入ってこないのは明らかですし、天井がある場所なら艦砲弾にも耐えられる賢固な岩盤です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.119

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令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.121

今度は降りていくようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.122

岩の割れ目です。奥に行けそうですよ。覗いてみたくなりました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.123

また登るようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.124

立ち止まり撮影するので、他のメンバーが見えなくなってしまいました。でもハッキリと道があるので大丈夫でしょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.125

これぞ正にジャングルと言えるでしょう。空中も地上も蔓植物が多いですね。いずれにしても写真で見る以上に、現地を歩くと壮観で圧倒されます。とにかく「ウフワリミー」を出た後の風景には圧倒されますし、本土には無い光景が続きます。亜熱帯特有の樹木や植生を包含する、この「ハンターバンの森」ツアーコースは、きっと人気が出ると思いますよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.126

福岡さん、松永さんの背中が見えてきました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.127

コースはまた下っていきます。大きなガジュマルの気根が見えます。岩だらけの痩せ地のはずなのに熱帯植物は元気です。大繁茂しているような印象です。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.128

「ガジュマルの樹根」がある場所に到着しました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.129

「ガジュマルの樹根」が檻のように並んでいますね。上に大きな岩盤があるからガジュマルの気根が分散して下垂したものと思われますが、確かに他では見たことが無いですね。「ハンターバンの森」ツアーコースの見せ場の一つと言えますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.130

檻の中で始まりましたよ~。本能的にどうしても探してしまうんですよね~。ガジュマルの檻の中は、ご覧のように畳20畳ぐらいの大きな空間がありました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.131

その大きな空間の片隅に、ご覧のように石を積み上げた場所がありました。前面に監視口が開いていて開口部は海岸方面を向いています。沖縄戦当時のまま残っているそうです。樹木が凄く繁茂しているので、この監視所から海が見えるかどうかは確認出来ませんでしたが、V字谷になっているので樹木が爆撃で全てなぎ倒されたら海上の艦船は見えると感じられました。これだけ偽装すれば、偵察活動をしていても米艦船から発見されるというのは無いかもです。

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令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.133

短い時間なのに、ご覧のようにな遺品を見つけました。小銃弾もありますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.134

これは軍靴の一部でしょう。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.135

福岡さんが呼んでいます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.136

福岡さんと松永さんで状況の確認をしています。ここも居心地の良さそうな場所ですね。

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意外にも下に降りていくようです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.138

松永さんも続きます。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.139

私も下り始めて撮影しました。壕底には立って歩ける空間があるようです。

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一瞬蛇かと思いドキッとしました。ツアー参加者のほとんどがビックリするそうですよ。(笑)

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.141

横に伸びる坑道がありますね。ガジュマルの檻部分が壕口で遺品などもありましたから、ここも守備軍陣地なのでしょう。

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お皿や割れた瓶の底がありますね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.143

瓶がありますね。水瓶だと思われます。将兵が飲む飲料水などを入れていたと推測されます。因みに風葬墓での骨壺として用いられる瓶は水瓶とは形状が少し違いますね。骨壺もお金のある人は、装飾の施された厨子甕で、無い人は素焼きの水瓶や油瓶に納めたそうですから、この瓶が当時骨壺として用いられた可能性は排除出来ません。ただ沖縄戦に突入すると風葬墓にあった瓶は、中に入っている風葬骨を全部出して、飲料水を貯水するなどして活用したでしょうから、風葬骨は兵士によって、その場の岩陰とか土の中に埋められた可能性があります。

ここに水瓶があったから、ここは風葬墓かと問われれば、その可能性はゼロだと答えるでしょう。これまで数多くの風葬墓を見てきて、壕の奥深い場所に風葬墓を設けたという例はありませんでした。どんなに奥深い自然の壕があったとしても、風葬墓は壕の入り口すぐの場所に設けます。少なくとも奥行き10mぐらいまでです。10mぐらいと言うのは、これは外の自然光が差し込む限界の距離という意味です。そうした意味で、ここは風葬墓ではないと断言できるのです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.144

また明るくなってきました。この辺りもフィッシャーみたいな雰囲気になってきましたね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.145

木の根もまた増えてきましたね。地上が近いです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.146

出口は近いようです。

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出ましたね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.148

右側は絶壁です。左手には道の迷わないようにロープが張られています。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.149

壁も地面も蔓植物が凄いです。夏は前進するのも大変かもです。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.150

バックリと大きな穴が開いています。陣地であったかもしれません。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.151

結構際どいところを通りますね~。エキサイティングではありますが‥‥。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.152

凄い窪みです。先ほどの所からずっと続いています。絶対に陣地でしたね。

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まだ続いています。鍾乳石の氷柱が見事です。

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コースは下り始めました。

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正にジャングルと言った趣ですね。

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ルートから外れました。どこか見に行くようです。壕口が見えますね。

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壕の中に入るようです。ここも守備軍陣地だったのでしょう。

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壕口は狭かったですが、中は比較的広いですね。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.159

大きな爆弾のような物が置いてありました。信管のある砲弾ではなく、発煙弾とかそう言う類いの弾丸だと思われます。

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小銃弾もありますね。

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同じような砲弾がまたありました。

令和3年(2021年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.162

左側の皮製品は弾薬盒(弾薬パウチ)かも知れません。兵士は三つの弾薬盒を身につけていたので、軍靴の次に見つかる遺品と言ったところでしょうか。右側は缶詰の缶ですね。パイン缶とかでしょうかね。開けた跡があります。銃剣などで開けるのでしょうか。

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ここにも沢山の遺品が転がっています。

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地面をよく見ると沢山の遺品が散在しています。

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松永さん曰く、時折ここを見学させる事もあるようで、なるたけ沖縄戦当時の様子を残しておく方針なので、地面に散在する遺品はそのままにしてあるとの話でした。ここは貴重な平和学習の場となりそうですね。

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壕から出ました。

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また獣道のような狭い道を進みます。

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エ~~~。ここに出ましたか。ガジュマルの檻の所に戻ってきました。グルッと一周してきたのですね。方向感覚が少し狂ってきた。(^^;)

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ガジュマルの檻の中に再び入りました。

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ガジュマルの檻の中に入りましたが、すぐに別ルートで移動するようです。

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ここからは先ほど通った道ではなく、別のルートのようです。

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いろんなルートが設定出来そうなぐらい道がありますね。

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ここを登って行くようです。

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エキサイティングですね~。(^o^)

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岩登りをしているような気分ですね。

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おっやっと地表に出られそうです。

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地表に違いありませんが、まだまだ登るようです。と言う事は、この「ハンターバンの森」コースの前半で、トータルでかなり下っていたという事なのですね。

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ご覧下さいませ。原田さんが居られる場所。守備軍の監視の為の陣地ですね。松永さんの話では沖縄戦当時のまま残っているそうです。やはり海側に向けて石垣を作り艦砲弾の防御をしているように見えます。す

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陣地の中はこんな感じです。哨戒時の弾よけに用いたのでしょう。拠点の陣地は、今私達が入っていた「ガジュマルの檻」の空間を含む陣地帯かも知れませんね。すぐ目の前にあるのですから。

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石組みの陣地のある場所は、ご覧のように巨岩が連なり、見通しが効かない場所にありますから、将兵の陣地間の移動はやりやすかったかもですね。

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砲弾が爆発した場所でしょうか? 黒くなっていますね。

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巨岩が林立しているので全く見通せません。

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凄い風景ですよね。私達は長年遺骨収集していて、こうした風景は摩文仁崖下でもよく見ているので、感激は薄いというのが正直なところですが、本土から来られた観光客が、初めてこうした風景を見たら、間違いなく絶景と捉え感激するのではないかと思いますね~。(^o^)

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この写真は、岩の下から根が伸びて、更に再び岩の中に入っていくという、たわいもない写真です。(^^;)

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巨岩の絶壁ですが、部分的に真っ黒ですね。砲弾が炸裂して何かが燃えたのでしょうか? 風景の全てを沖縄戦と結びつける‥‥。

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また下っていくようです。

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よくもまあ、こんなルートを見つけましたね~。(^o^)

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陣地のような横穴がありました。岩の上に遺品があるみたいです。

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割れた茶碗やガラス、そして蓄電池の部品なども見えますね。

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原田さんが立ち止まり、壁面を見て下さいと言っています。

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私達が目にする石灰岩は、「生物起源由来によるもの」と「化学的沈殿由来によるもの」との二つがあります。「生物起源由来によるもの」は、石灰質の骨格を持つサンゴや石灰質の殻をもつ貝などが死んで堆積し、長い時間を掛けて石灰岩の岩盤を形成する。このように海洋生物が石灰岩の要因となっている物を指します。一方「化学的沈殿由来によるもの」は、石灰岩の洞窟内で見られる鍾乳石や堆積物を指します。これらは岩盤などから滲出した石灰質を含む水が沈殿して、再石灰化した物です。このような物が化学的沈殿による二次生成物となります。

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シアノバクテリアの光カルスト 地球誕生から10億年後に誕生した最初の生物が「シアノバクテリア」と言われています。炭酸ガスを分解することで地球の大気を作り上げ、すべての生物の源となったものです。 人類が産まれるはるか昔、約28億年前にシアノバクテリアは、地球誕生後の最初の生物として、この地球に誕生しました。シアノバクテリアは、酸素発生を伴う光合成を行う細菌の一群を差しますが、先カンブリア紀にはシアノバクテリア(藍藻類)が光合成をするようになりました。そうすると二酸化炭素が吸収され、逆に大量の酸素が大気中に放出される事となり、結果として大気圏上層部にオゾン層が形成され、このオゾンが有害な紫外線を遮る事で、陸上で生物が生きられるようになったとの事です。二酸化炭素が減ってしまった現在では、一部の石灰岩の表面に生き残り続け、光合成を行いながら現在でも岩を侵食しているそうです。この浸食痕を光カルスト地形と呼んでいるそうです。

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更にフィッシャーを進みます。

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広い空間に出ました。ここも守備軍の陣地のようです。

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大きな鉄の破片がありますね。どう見ても鉄製の部品ではなく砲弾の破片のようです。瓶の破片や缶詰の缶がありますね。

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同じ場所を少し回って撮影しました。割れた水瓶や瓶がありますね。

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福岡さんが地面を見てあるあると言っています。地面には細かい遺品があるようです。

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またフィッシャーから出ます。

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結構な登り坂ですね。

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まだ続きます。

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フィッシャーを出ても、まだ登ります。

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ルートから外れました。しばらく歩きました。

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大きな壕口がありますね。中に入るようです。

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かなり奥深い壕だと思われます。ここも陣地だったのでしょう。

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大きな砲弾がありました。艦砲弾の不発でしょう。赤テープが巻いてありますので、金光教が巻いたと思われます。赤テープの劣化具合から、20年以上前に巻かれたのかも知れませんね。という事で、この壕は金光教の遺骨収集が行われていると言う事ですね。

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もう一発ありました。

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まだ下っていきます。

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広い空間に出ましたが、更に下っていくようです。

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割れた瓶がありました。飲料水を入れたのでしょう。

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壁面の一部がご覧のように、煤で真っ黒になっています。ここで煮炊きをしたのだと思われます。

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鉄の破片ですね。軍のヘルメット程には丸みを帯びていません。何でしょうかね。

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ここが壕の一番の底のようです。結構広いです。壕の奥深い場所ですから安全な場所と言えるでしょう。

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来た道を振り返るとこんな感じです。

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壁面を撮影しています。氷柱はありませんが、このような光景は時折見られますね。

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遺品類がすでに集められています。金光教の遺骨収集で集められたのでしょう。

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缶詰の缶です。開けられていますね。

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地面には沢山の遺品を見る事が出来ます。松永さんもここでは遺骨収集をしていないと言います。

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松永さんが見つけて見せてくれました。爆弾ではないようです。中身の火薬のような物が見えますね。

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皮製品ですね。

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割れた水瓶ですね。

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軍靴もあります。

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水瓶の蓋でしょう。

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この場所も煤で黒くなっています。消し炭のような物も見えますね。

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松永さんがビール瓶の底を見せてくれました。星マークがあるので、日本軍向けに大日本麦酒が製造したと思われます。大瓶小瓶とありましたが、大瓶の方でしょう。

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金属的な物もありますね。

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軍靴の底部分ですね。

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これらも軍靴の一部です。

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割れたお茶碗などがありました。

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缶詰の缶ですね。

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珍しい物があると松永さんが見せてくれました。

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缶詰の缶の中を見ています。内容物が干からびた状態なのかなと思いましたが違いました。

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福岡さんが慎重に中身を出しました。よく見ると間違いなく紙です。そうした視点で見ると、何やら文字が書かれているのが解ります。

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一部中身を出した状態です。これら中身の全部がきどうやら紙のようですよ。いずれにしても精査してみる事になりました。(^o^)

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しばし皆さんが思い思いに地面を掘り返して遺品を探しました。

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しばし皆さんが思い思いに地面を掘り返して遺品を探しました。

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軍靴とか水を入れる容器でしょうか?

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水を入れたのでしょうか。瀬戸物も多いですね。

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軍靴の一部ですね。

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沢山の遺品を見ながらの会話は尽きる事がありませんね。ここに居た将兵達も首里戦線に出撃したのか、或いは島尻摩文仁の戦闘で力尽きたのか‥‥。

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時間が押してきたので壕を出る事になりました。

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壕から出ました。こんな急峻な坂道を降りてきたのですね。

「ハナンダー(自然橋)」

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全員無事に下山しまして、本日の最後に松永さんが案内して下さったのが、この「ハナンダー(自然橋)」です。自然に出来た天然の橋のようです。説明板は読めますね。「ハンターバンの森」出発地である「南の駅やえせ」に程近い場所にあり、そのトレッキングルート途上にあるそうです。今から見学します。

所在地ご紹介

「駐車場は付近にあります。トイレはありません」

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これが「ハナンダー(自然橋)」と呼ばれる天然の橋です。橋の長さは約29m、幅は約10m、高さも約10mと言う大きさだそうです。下には白水川が流れています。ここから見ると結構な大きさですよね~。因みにハナンダーと呼ばれるのは、牛の鼻輪を思わせる形からそう呼ばれるようになったそうですよ。

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近くで見ると迫力がありますよ。荒々しい岩肌をよく見ると岩の氷柱があるので、かつては洞窟であったと言うのが想起されます。もしも洞窟だったとしたら、悠久の、且つ途方もない億単位の時間をかけて浸食され、今のような姿になったと言う事でしょう。

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橋の上はこんな感じです。結構な幅がありますね。歩道の両幅には手摺が設けられていたり、植生が為されているなどからして、現在でも地元の方々など家路につく人、畑に向かう人などの往来があるのでしょう。しっかり管理されていると言う印象を受けます。私達が訪ねた時には、橋の上で写真を撮られるなど観光客が何人か居られました。話し言葉から沖縄の人でした。遠目に撮影したので、掲載しても大丈夫でしょう。(^o^)

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