令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月18日(月) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「曇りのち晴れ」で、最高気温17度、降水確率は10%、10%です。雨の心配は不要ですが、寒い一日になりそうですね。本日朝の慰霊巡拝は、「白梅之塔」「白梅学徒看護隊自決之壕」「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」「山形県の塔」「眞山(みやま)之塔」、「白梅之塔 上の壕」、「萬華之塔」、「アンディラガマ/真壁千人洞」、「真和の塔」「真壁宮」「山雨の塔」を訪ねました。

「白梅之塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.1

県道54号線から別れて200メートルも行かないうちに「白梅之塔」が現れます。この霊地は激戦が展開された国吉にかなり近いのですが、糸満市真栄里ウテル原になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていた男性に、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。

因みに国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。沖縄守備軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉丘陵が与座に連なる防衛陣地の要衝であった事が解ります。国吉丘陵での戦闘は攻める米軍は第一海兵師団で守る沖縄守備軍は第二十四師団隷下部隊です。

沖縄戦を戦った米軍の公式記録に近いと言える、米国陸軍省編の「沖縄 日米最後の戦闘」にも国吉丘陵での戦闘について触れていて、「(490ページ)国吉丘陵での戦闘の光景は、まるで気が狂ったようなものだった。兵はうろたえ、多数の犠牲者を出し、肉弾相撃つ白兵戦がこの沖縄南部の地点に展開されたのである」と、書いている程なのです。

所在地ご紹介

「駐車場、トイレあります」

林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。

この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日富盛の本部壕での解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。

解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.2

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「白梅之塔」全景です。此処に立つと不思議と学徒さん達の清楚なイメージが沸いてきますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.4

「白梅之塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄県立第二高等女学校は、現在の那覇市松山公園の辺りにあった女学校です。同塔は、沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。「白梅之塔」は何時来ても管理清掃が行き届いているなと感じます。それとまた千羽鶴も。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.5

「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

【白梅之塔 碑文】

沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。

米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。

戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。さその場所は殆ど不明である。

また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。

平成10年6月23日 
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名」碑ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.7

現在の慰霊塔は四代目で平成4年(1992年)6月に建立されました。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.8

納骨堂ですね。多くのご遺骨が国立戦没者墓苑に移された為か、スマートな納骨堂となっていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.9

昭和22年(1947年)1月に建立された初代の「白梅の塔」です。塔名は彫った文字穴に白い色で描かれていましたが、年々薄くなってきています。ご覧のような琉球石灰岩製の簡素で小さな塔なのですが、終戦から一年半後に建立されたと言う事ですね。米軍による激しい砲爆撃で、割れないお皿は無いと言われる程、あらゆる物が粉々に破壊されました。戦いが終わった沖縄は、山野には兵士や避難民の屍と、瓦礫の山だけが残されたのでした。終戦後の数年間は生活物資は何もなく、生きていくのが精一杯の時代だったのです。この小さな塔は、小さくとも大きな意義を内包していました。「戦没された学友達の供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの精一杯のご尽力と連帯により建立されたのです。そして同時に同窓生等の予てよりの悲願であった、第一回目の慰霊祭が執り行われたのでした。

この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に二代目の立派な慰霊塔が完成した時に併せて移設されたものです。そして現在の姿の「白梅之塔」が建立されて現在に至っています。ちなみに現在の塔は四代目です。現地に行かれましたらぜひ、時代を映す鏡として、この初代「白梅の塔」も探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.10

初代の「白梅の塔」の背面に彫られている詩です。
散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
元教諭 金城宏吉 昭和二十二年一月建立

沖縄戦体験者世代である同窓生やご遺族の高齢化に伴い、沖縄県にある慰霊塔、各塔での慰霊祭挙行も難しい状況にあると、頻繁に伝え聞くようになって参りましたね。ここ「白梅の塔」の毎年の慰霊祭開催も遂行が難しくなりつつあるようです。そうしたなかで、白梅同窓会を支え、「白梅学徒隊の沖縄戦を語り継ぎ、白梅之塔の慰霊祭を継承する」と言う二つの目標を掲げた「若梅会」というボランティアグループが、令和2年(2019年)春に誕生したようです。琉球新報記事を引用させて頂きます。

白梅学徒の体験継ぐ「若梅会」発足 慰霊祭運営に初参加

【琉球新報】令和元年(2019年)6月23日

〇教員や大学生など20代から50代の9人で結成した「若梅会」。沖縄戦に動員された県立第二高等女学校の元女子学徒らでつくる白梅同窓会(中山きく会長)、白梅之塔慰霊祭協力会とともに「白梅継承の会」として本年度から慰霊祭の運営や戦争体験の継承活動に携わる。高齢化が進む同窓会会員の思いを受け継ぎ、「次世代に継承したい」と強い思いを持つ。

若梅会は白梅同窓会の中山会長の呼び掛けをきっかけにことし2月ごろ発足。代表を務める雑誌モモト編集長のいのうえちずさんは(50)は「きくさんの熱量を受け取った気持ち」と気合が入る。

絵本作家の磯崎主佳さん(47)は中山さんの体験を主題とした絵本「白梅学徒隊 きくさんの沖縄戦」の絵を手掛けたことがきっかけで関わり始めた。

「若梅会」のメンバーに遺族や戦争体験者はいない。いのうえさんは「体験者に寄り添うことと同時に、体験者じゃないからこそ沖縄戦を一歩引いて見ることができる。考えて伝えることができる」と話す。

若い世代へ白梅学徒隊の体験や思いを“伝える”こと、遺族や同窓会の方々の気持ちに“寄り添うこと”を2つの柱として活動する。23日の慰霊祭を出発点として戦跡ツアーや同窓会の方々との街歩きなどさまざまなワークショップも展開していく予定だ。
(上里あやめ)

「琉球新報」から転載させて頂きました

戦後三十五年目の卒業式

沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)

《書籍ご紹介》

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版

【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)

(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。

日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる

懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。

「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」

卒業証書

稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。

例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。

時は過ぎました。そう、三十五年も…。

塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。

式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』

「白梅」から転載させて頂きました

「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。

同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。

校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。

ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。

石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。

本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。

《書籍ご紹介》

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

【沖縄白梅の悲話】

(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。

この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。

白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。

帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。

渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。

石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。

与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。

「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」

石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。

私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」

河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。

―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。

沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。

県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。

「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。

戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」

石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。

「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」

石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章 白梅の香り永久には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?

「萬魂之塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.11

霊域の参道左手にある「萬魂之塔」です。戦後付近一帯に散乱していた戦没者の遺骨を、集落の人々が凡そ四千柱集められ、当初は付近の壕に納められいましたが、昭和30年(1955年)5月に、現在の「萬魂之塔」が完成したので、ご遺骨が移されて現在に至っています。四千柱のご遺骨の多くは、この国吉・真栄里一帯で最期を遂げた第二十四師団隷下の第22連隊、第32連隊、そして第89連隊の将兵だそうです。そしてまた注目すべきは、集落の人々が建立した軍人の為の慰霊塔と言う事で、数少ない事例の一つと言えるでしょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.12

霊域の参道左手にある「陸軍大尉 中村巌之碑」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.13

良く見ると、小さな石碑も複数建立されていますね。第三十二軍陸軍将兵の名前が刻まれていました。ご遺族の方々が建立されたのでしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.14

こちらは霊域の参道右手にある二つの石碑です。赤子を抱いた地蔵様と言う事で、勒親子地蔵尊と思われます。また左手の石碑は碑文が彫られているような、いないような‥‥。と言う感じですね。(^^;)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「白梅之碑」の背面を見ています。例年は鬱蒼としたジャングルが展開していましたから撮影する事も無かったのですが、今回背面が余りに明るくなっていたので撮影してみました。来年以降どうなっているでしょうか。畑になっているのかな?

「白梅学徒看護隊自決之壕」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「白梅学徒看護隊自決之壕」の石碑です。この石碑の右側に壕の出入り口があります。因みに、ほらこの石碑の背面も例年になく凄く明るくなっているでしょう~。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.17

「白梅学徒看護隊自決之壕」を地元の方々は「マチドーヌティラ」と呼ぶようです。ガマの由来や沖縄戦当時の白梅学徒隊の軌跡が書かれていますのでテキストに起こしてみました。

【マチドーヌティラ】

字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーとう伝統行事が国吉自治会によって行われています。

また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うこととなりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食料や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡しました。

戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅之塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「南禅廣寺」の社殿です。上掲の自然洞穴「マチドーヌティラ」についての解説文にも書かれていましたが、「南禅廣寺」広場で、旧歴9月9日(10月23日)に国吉集落の旧暦行事「寺ムヌメー(物参り)」が行われているとの事です。「寺ムヌメー」は、集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事で、神事やカチャーシーを踊ったりと多彩な行事が含まれ、学校や会社が休みとなる日曜日に合わせて行われているようです。確かにそうした視点で見ますと、「南禅廣寺」前広場は円形劇場にようになっていて、20mぐらいの広場の周りは、一段高くなっていて草地であり若干の勾配もある事から広場を舞台とした観客席のように見えます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「南禅廣寺」の右側に来ています。ここは昔からずっと縦穴がありました。今年は開口部がそのままになっていますね。完全に塞がれた事もあるのですが‥‥。修学旅行生等の平和学習に利用する壕という観点で、色々と試行錯誤されているのかもです。ご覧のように蔓植物も生えたりして、工事は終わったと言う雰囲気ですね。この状況だと壕内部に光が入るという感じですが‥‥。中に入ってみれば解りますかね。

ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、ここ二三年前から修学旅行生への平和学習が恒常的に行われる事となったようです。この縦穴がある場所付近が、最も壕内部への落盤の危険性が高かったという点でした。崩落の可能性を指摘されている「マヤーアブ」よりも、格段に崩落の可能性が高いと言えるでしょう。

《過去の写真ご紹介》

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.20

【令和02年(2020年)1月11日撮影】
「南禅廣寺」の右側に来ています。ここは昔からずっと縦穴がありました。今は完全に塞がれました。壕内部はしっかりと落盤防止措置が講じられているはずです。

ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、ここ二三年前から修学旅行生への平和学習が恒常的に行われる事となったようです。この縦穴があった場所付近が一番壕内部への落盤の危険性が高かったという点と、縦穴から光が壕内に漏れていましたが、完全に遮断して光のない壕を演出する事となったのだと感じます。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.21

「南禅廣寺」の内部の様子です。最奥部に祭壇らしき物がありますね。ご神体などが安置されているのかも知れませんね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.22

この壕は、沖縄戦当時「下の壕」と呼ばれていました。地元では古くから「マチドーヌティラ」と呼びます。ティラとは神が鎮座する洞穴の事を指すと言われ、集落の人々が聖地として大切にしていた壕ですね。それでは壕に入ります。現在はコンクリート製の階段になっていますので、とても歩きやすいです。降りてみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.23

間もなく階段も終わりですね。前方は突き当たりとなっています。壕としての坑道は突き当たりから右側に深く伸びています。因みに大昔から「マチドーヌティラ」と呼ばれ、聖地として大切にされてきた場所は、階段が終わり、最奥部にある拝所までが同洞窟であったかも知れません。

突き当たり部右側から始まる横坑道は、沖縄戦当時に構築されたものかも知れません。この壕の10m程右側には、先ほど写真撮影した縦穴がありますから、それぞれ単独の壕を地下部で連結した可能性も考えられます。と言うのも、ここは巨大な一枚岩の岩盤の下を掘り進めて坑道を構築しているのが見て取れます。巨大な一枚岩の岩盤の下は、岩石と土が混じった地層なので、人力で容易に掘り進めるのが可能であるからです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.24

コンクリート製の階段を降りきって、通常は右側の坑道に進みますが、この写真は突き当たりの左側を撮影したものです。土砂は戦後堆積したのかもしれませんが、それなりに広い空間がありますね。もしかしたらこの辺りにも負傷兵が大勢居られたのかもしれません。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.25

壕の天井部分を撮影しています。少し解りにくいですが、鍾乳石の氷柱が折られているという点を知って頂きたく撮影しました。少しでも坑道の高さを確保するため、そして安全を確保する為に折られたのだと思います。また壕内は米軍の火炎放射攻撃などで壁面が真っ黒になっている場合も多いですが、この壕もまたよく見ると攻撃された後と見られる黒い煤が付着しているのが見て取れます。

6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡したとされています。米軍の馬乗り攻撃では、現在階段になっている壕口からドラム缶に入ったガソリンを落とし込まれたと言われています。二十年三十年前は、煤で壕内はかなり黒かったですが、年々黒色が薄くなっていく印象があります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.26

ここで亡くなられたご遺族の方でしょうか。いつ来てもここにご覧のような、一つの鎮魂の場として色んな人形が置かれています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.27

最奥部の拝所です。ここは「マチドーヌティラ」としての拝所のような印象です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.28

コンクリート製の階段を降りきってから、右側を見ています。平和学習の為でしょう、しっかりと坑道が歩きやすいように整備されています。歩く部分には砂利も敷かれているのが見えますね。今はこうして歩道のように歩きやすくなっていますが、昔は岩だらけで行き来するのが大変でした。その困難さは次の写真で紹介致します。

写真に写されている横坑道は沖縄戦に備えて掘られた可能性が大きいと思います。天井面の岩盤層の下は、ご覧のように岩とか土砂ですから、掘り進めるのは比較的容易だったと思えます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子69

【平成26年(2014年)2月11日撮影】
坑道の奥まった部分が黒く三角形をした穴のようになっていますが、そこが上掲写真の「頭上注意」の看板があるところです。この頃の坑道はとても歩きにくい状況だったのがよく解る写真です。この壕は繰り返し繰り返し遺骨収集が為されていましたから、地形が変わったと感じる事がよくありました。因みに国吉勇さんも、この壕で熱心に遺骨収集をされていました。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.29

坑道は高さがありません。特に高さが無い場所は、ご覧のように「頭上注意」の看板も設置されています。この壕の見学はヘルメットは必須ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.30

壕の最奥部空間が見えて来ました。この辺りも頭上注意です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.31

一番奥まった空間に到達しました。結構な広さがある空間ですね。沖縄戦当時は、ちこの辺りに負傷兵が並んで居られたと思われます。ここは高さが十分にありますので、頭上を気にする事なく安心して立てる場所です。足下もしっかりと砂利が敷かれて安定しています。昔はこの辺りは遺骨収集で何度も何度も掘り返されていて、岩と共に土が多くて歩きにくく滑りやすかった場所です。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子70

【平成26年(2014年)2月11日撮影】
上掲写真とは撮影方向が少し違いますが、一番奥まった所を撮影しています。ご覧のように写真では、カメラ目線で見ても天井部がかなり低いのが解りますよね。昔の最奥部で立って歩ける場所は、現在の状況よりも狭かったです。平和学習実施の為に土砂を搬出したと思われます。

ご覧のように繰り返される遺骨収集の為に、地盤が大きく掘り返されているのがお解りになると思います。遺骨収集で地盤が掘り返された時期が古いのか新しいのかは、目で見ると意外と解るものです。言葉では説明しにくいですけどね。この写真の時も、最近掘り起こされたのがハッキリと認識出来ました。

この広場は、現在は砂利も敷かれ比較的平らな面となっていますが、撮影した時はごく緩い傾斜面といって良いほどで、平らな面は全くありませんでした。そうした所を病院壕として利用した訳ですから、軍医や衛生兵そして学徒看護隊、また運び込まれた患者さんのご苦労が忍ばれます。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.32

地際付近にご覧のように、煤で黒くなった場所がありました。炊事をした場所かも知れません。ただ良く見ると、近年ここに土を寄せたという雰囲気がありますので、断定は出来ませんけどね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.33

右側天井部に開口部があります。「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分ですよね。天井面の岩肌に注目です。開口部に近づく程に、岩肌に煤が付着しているのが見えます。開口部から爆雷やガソリンを流し込まれ煤で黒くなったものと思われます。下掲写真でアップしてみました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.34

(拡大したので画面が荒くなっています) 戦後七十余年を経て、煤で黒くなった色合いは年々薄くなっていますが、それでもご覧のようなタールが付着したような色合いとなっているのが解ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.35

「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分を下から撮影しています。岩盤の崩落を防ぐ目的で数多くの鉄パイプとジャッキが設置されているのが見えますね。岩盤の色で判定できますが、天井面は鍾乳石氷柱が形成されている事から、一枚岩に近い堅固な鍾乳石灰岩で出来ていますが、地面部分に展開する飴色の土石類は極めて崩れやすいのが一目瞭然となっています。

しかしながら、現在沖縄では沖縄戦に関わる構築壕を中心に落盤の恐れがあるという理由で、立ち入り禁止となる壕が増えています。地権者とのトラブルもあるやに聞いていますが、それは取りも直さず修学旅行での平和学習の場が失われるという事を意味し、関係者は苦慮していると聞いています。この「白梅学徒看護隊自決之壕」(マチドーヌティラ)は、目の前の落盤危険地のみをきっちり管理できれば、その他の壕内部については、落盤の危険度ゼロと言って良い程安全な場所です。この壕内の往復の時間や移動距離も、平和学習に適切な時間で運用出来ますから、この壕での平和学習は長く続けられるかも知れませんね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.36

それでは帰りましょう。天井面の氷柱にヘルメットをぶつけないように注意して進みます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.37

地面は、ご覧のように砂利が敷かれ、とても歩きやすくなっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.38

壕口が見えて来ました。壕に深く入ると、いつも思うのですが、普段は日常生活の中で光をありがたいとは思いませんが、暗い壕から再度こうして光を浴びると、光のありがたさ偉大さが身にしみますね。因みに現在の平成4年(1992年)6月に建立された四代目である「白梅之塔」の形状は、「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事ですよ。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.39

この写真だと、鍾乳石の氷柱が折られているのが解りやすいですかね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.40

拝所付近の天井にある鍾乳石氷柱も見事ですね。広く見渡してみても、現在は氷柱の先に水滴は全くありません。雨の日は解りませんが、氷柱の形成がすでに終了しているという事になります。あちこちの壕の中には、現在進行形で鍾乳石の氷柱が形成されている所も多いですよね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.41

帰りは「南禅廣寺」の参道を通って車道に出ました。同寺の入り口にはご覧のような「南禅廣寺」と彫られた石碑が立っています。道路を走る車から見ると、この写真のような光景が見える事となります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「白梅之塔」及び「下の壕」の慰霊巡拝を終えたので、今度は「上の壕」及び各慰霊塔を巡りたいと思います。写真奥の方には「山形の塔」などが見えています。手前には収穫を終えたサトウキビ畑が広がっていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.43

出荷するサトウキビの山がありました。指定した日時までに、ご覧のように、運搬出来るように束ねておくと、製糖工場の集荷車が運んでくれるのだそうです。

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.44

糸満市字真栄里にある「歩兵第三十二連隊終焉之地」と書かれた石碑です。碑名には呼名として「霞城聯隊、満州八〇三部隊、山三四七五部隊」と刻まれています。歩兵第32聯隊は島尻に撤退以降も、国吉大地を中心に米軍と激突し、米軍側にも多大な出血を強いました。平成17年(2006年)建立ですから、比較的新しい石碑ですね。場所は、「白梅之塔」から歩いて2分程度です。「山形の塔」に隣接するように建立した理由は、碑にも「霞城聯隊」と書かれているように、明治29年秋田に設置された連隊本部が、日露戦争後、秋田から山形城(雅名は霞城)へ転営し、徴募区が山形県になった事によると思われます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.45

裏面の碑文です。問題なく読めますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.46

石碑の横面に書かれている文言です。軍旗を奉焼した場所が書き記されています。「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」と書かれていますね。地図上で確認してみますと、バクナー中将慰霊碑の少し北側には高地帯になっていて稜線が通っており、その崖下の低地で焼いたという可能性が高いですね。と言いますのも、そのバクナー中将慰霊碑の北側の高地帯は、真栄里集落の北側を貫いており、そこには数多くの構築陣地があり、第三十二聯隊や第二十二聯隊による最後の激闘が展開された場所でもあります。私も一度その中の一つの構築陣地に入ってみましたが、立派な壕で100人以上入っても余裕があるというような大きな陣地でした。こうした陣地が散在している地でもあります。

動画ご紹介

「大日本帝国陸軍『歩兵第32連隊』山形・東北地方の誇り!三十二連隊の歩み【歴史解説】」

《書籍ご紹介》

「沖縄戦 24歳の大隊長」 陸軍大尉伊東孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研 平成27年(2015年)初版

この本は歩兵第三十二聯隊第一大隊長である伊東孝一大尉の軌跡を綴った本ですが、この本の中に同隊の軍旗奉焼に関わる記述がありますのでご紹介します。

軍旗奉焼

調査の結果、日本の敗戦は歴然としていた。今となっては一日も早く戦闘を終結させて、一人でも犠牲を少なくすることだ。

全力で戦うことと、見事な負けっぷりとは、いずれ劣らぬ大事である。問題は聯隊長以下全将兵をどう納得させるかだ。

伊東は決して話上手ではなかった。言葉で気持ちを伝える術を持たない。ただそのまま調査の実態を報告するしかない。(あとは自分という人間を信じてもらうだけだ)

伊東はそう心に決め、夜になって樫木副官と佐藤軍医見習士官を従えて聯隊本部へと赴いた。

聯隊長以下十名ほどの全将校が、伊東が来るのを待ちかまえるようにして集まっていた。伊東は調査の結果について順を追って淡々と述べ、最後に「日本の降伏を信ずる」と報告を結んだ。誰からも、質問も反論もなかった。ほっとした一方、気が抜けた感じもあった。しばし沈黙が続いたが、結局、武装解除を受諾することに決まった。

しかし誰からも具体的な方法が出てこない。交渉は伊東に一任された。

翌日、伊東は、日本軍第三十二聯隊は米軍による武装解除を受諾すると回答し、その上で次の事を要求した。

一、武装解除の日は八月二十九日とする
一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること
一、このため四周に米軍から警戒兵を配置し、他の米兵の侵入を禁ずること

米軍側は直ちにこれを承知した。さらに警戒のために飛行機を使用し、米軍将校と通訳をジープと共に国吉集落中央に配置することを申し出た。ただし夜は恐ろしいから引き揚げさせてくれ、とのことだった。最後のくだりが伊東には少し愉快だった。米軍がいかに国吉台周辺の日本軍に痛い目に遭っていたかがわかろうというものだ。

‥‥‥。

武装解除の前夜、歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼が行われることになった。伊東は樫木副官を伴い、聯隊長に指示された場所へと向かった。

明治三十一年の創設以来、歩兵第三十二聯隊の伝統と団結、そして栄光のシンボルだった軍旗は、日露戦争以来の戦歴を物語るように、布地が破れ周囲の金モールの縁取りと紫色の房だけを残していた。

紋章を槌でたたき潰し、棹を鋸で三つに切断し、旗と共に油を注いで焼く。

将校たちは挙手の礼をもって焼かれていく軍旗と決別した。折しも、群雲が月を覆い、小雨が降ってきた。涙雨だったのかもしれない。

「沖縄戦 24歳の大隊長」から転載させて頂きました

「一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること」

上掲の様に米軍に約束させたと言う事は、陣地周辺は全く昼夜別なく安全に、そして自由に行動できた事を意味しますので、狭い壕内で煙にむせながら、コソコソと軍旗を奉焼する必要は感じられません。歩兵第三十二聯隊は毅然と、聯隊の象徴とも言える軍旗の奉焼に際しては、堂々と胸を張って矛を納める儀式に臨んだはずです。と言う事で「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている様に、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」という記述が事実と思われます。

「山形の塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の向かいに「山形の塔」があります。案内碑には「山形県の塔」と書かれていますが、慰霊塔には「山形の塔」となっています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.48

「山形の塔」の説明板です。読めますね。ただちょっと気になる記述がありますね。軍旗の奉焼場所についてですが、ここから10m離れた所にある「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の側面に記載されている碑文には「ここより西北西470mの低地で軍旗を奉焼した」と書かれていますが、この説明板には、「歩兵三十二連隊が軍旗を‥‥この壕内で奉焼した」と書かれています。

軍旗は主将の所在を示す旗であり、その軍旗の奉焼という軍事行為は諸部隊の尊厳と名誉に関わる事柄です。両方の説明掲示は10メートルしか離れていないにも関わらず真逆とも言える説明文となっています。両塔と石碑は設置に40年(再記は23年)の差があり、爾後歴史的真実が解明されたと言う事なのかもしれませんが、10mと言う至近距離で、真逆と言える歴史記述が書き込まれているのは問題なので、どちらか早期の訂正をお願いしたいですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.49

歩兵第三十二聯隊の残存部隊兵士が入っていた壕です。ご覧のように立ち入り禁止となっていますので、残念ながら壕内を見る事は出来ません。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.50

途中右に曲がっているのが見えます。沖縄戦当時コンクリート階段部は結構な急勾配となっている状況からして、出入りは大変だったかもですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.51

階段部の一番奥を撮影しています。階段が終わっているようですが、その先がよく見えません。恐らく壕は横坑道となるのだと思います。横坑道は地表面から4メートル以上ありそうですから、艦砲砲撃にもびくともせず耐えたのでしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.52

砂利道を少し歩くと右側に「山形の塔」見えてきました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「山形の塔」です。山形県の出身将兵、三万八千余の英霊が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.54

塔の背後には碑文がありましたので、テキストに起こしてみました。ご覧くださいませ。

【山形の塔建立記】

大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのびみ霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建立したのである

昭和四十年二月六日 
建設期成同盟会長 加藤富之助 

「眞山(みやま)之塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.55

「眞山(みやま)之塔」が見えてきました。「山形の塔」と隣接して建立されていました。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.56

「眞山(みやま)之塔」です。この慰霊塔は特定の部隊等は無く、第二十四師団隷下の各部隊と表現されていますね。凡そ100名の将兵がこの付近の壕に布陣していたと言いますから、恐らく「山形の塔」横にある壕で玉砕したと言う事なのかもしれませんね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.57

碑文ですが読みにくいので文字を起こしました。(^o^)

【眞山(みやま)之塔 碑文】

怒濤の南進を続ける米軍に対し第二十四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるもついに昭和二十年六月十七日この付近の壕内において玉砕せる

ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め長くその偉烈を伝う

昭和四十二年五月 財団法人沖縄遺族連合会 

「白梅之塔 上の壕」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.58

「山形の塔」を過ぎ「眞山之塔」を横に見ながら更に森の中に進みますと、「白梅之塔 上の壕」の碑が見えてきますので、注意深く探してみて下さい。奥まった所に進むと、ご覧のように碑が見えてきます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「白梅之塔 上の壕」碑です。沖縄戦当時この壕は「上の壕」と呼ばれ、沖縄守備軍の集積所兼白梅学徒看護隊員の仮眠所として利用されていたようです。背後にある縦穴があり、碑文には「6月22日米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した」と書かれています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.60

碑文です。問題なく読めますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.61

「白梅之塔 上の壕」碑から見た壕の状況です。上から見た限りでは縦穴ではなく、天井のない横穴と言った方が正しい状況です。当初は縦穴だったのでしょうが、米軍による激しい攻撃で、北側の壁が破壊されてしまい、このような姿になったのかも知れませんね。軍需物資は壁面に沿って可能な限り擬装されて保管されたのでしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.62

縦穴の縁を反時計回りで歩いています。しばらく進むと横穴らしき黒い影が見えてきましたね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.63

影でした。現実は小さな横穴という感じですね。ここから見た限り横穴は見える範囲で終わっている印象です。岩盤は石灰岩で構成されてはいますが、縦穴に直撃弾もしくは迫撃弾を受けたら‥。という印象を受けました。この壕は軍の集積所兼白梅学徒看護隊員の仮眠所とされていたようなので、ご覧のような横穴の一番奥まった場所などで眠ったのでしょうかね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.64

碑の真向かいまで進んで参りました。ほとんど露天と同じで、雨宿りが出来る程度であり、被弾を防ぐのは困難だった事でしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.65

サトウキビの花ですね。ご存じのようにサトウキビは沖縄県特産である黒糖の原料という事になります。イネ科サトウキビ属の植物で、沖縄の方言では「ウージ」と呼ばれるそうです。THE BOOMが歌う「島唄」の歌詞にも、「ウージの森であなたと出会い、ウージの下で千代にさよなら‥」という部分がありますよね。

サトウキビは沖縄県の基幹作物になっているそうで、農家の7割以上が栽培し耕地面積の約5割、農業生産額の約2割を占めるという、沖縄の基幹作物となっているそうです。サトウキビは沖縄で一番多く栽培されているという事のようです。これは意外でしたね。それはともかく、この幻想的なサトウキビの花は12月頃から咲き始めますが、糖度が増しましたよ~、収穫してくださ~い!という合図なんだそうで、この花が咲くとサトウキビの収穫が開始されるそうですよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「白梅之塔」の慰霊巡拝を終え、次の「萬華之塔」へ向かう道すがらで撮影しました。サトウキビの花が揺れるその先の、遠望される小高い丘は嘗て「真壁グスク」があった場所です。現在は公園になっていますが、一角には「真和の塔」があり、またその前方300m先には、目指す「萬華之塔」があるという地理的状況です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.67

「萬華之塔」など諸慰霊塔が並ぶ真壁の霊域を撮影しています。看板に書かれている「山3474部隊」とは通称号で、正式な部隊名は歩兵第二十二聯隊です。私は以前にこの看板を頼りに、前方で同塔をくまなく探しましたが、結果的に見つける事が出来ませんでした。6月15日まで歩兵第二十二聯隊の本部は、真壁タヂリガマの壕を使用していたとの事で、そのタヂリガマのある方向を指し示している可能性がありますが、壕は埋められてしまったのかも知れませんし。

近年になってこの霊域内に「山3474部隊慰霊之碑」が移設されているのに気づきました。と言う事で、この案内看板は私と同じように、前方に慰霊碑があるのではと探して歩く方が出てしまう恐れがあります。早急に撤去して頂きたいですね。

「萬華之塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.68

「萬華之塔」です。この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付を募り納骨堂を建てたものだそうです。また霊域には部隊単位での、或いは個人での慰霊塔・慰霊碑も数多く配置されています。その慰霊碑の多さを垣間見ただけでも、ここ南部島尻で果てた戦没者の無念が偲ばれます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.69

参道の左側を見ています。「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」や「馬魂碑」、そして一番奥に「砲兵山吹之塔」などがあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.70

参道の右側を見ています。「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」や将兵個人の碑などがあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.71

最奥部にある「萬華之塔」です。昭和26年8月に真壁部落の住民が、集落内に散在していたご遺骨19,207柱を収集し、寄付金と三週間にわたる勤労奉仕とで納骨堂を建立し合祀したものです。初代「萬華之塔」は昭和26年8月に建立されましたが、現在の慰霊塔は二代目で平成15年に立て替えられた塔です。よく見ると新しい建物の雰囲気が少し残っていますよね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.72

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料 070
撮影地:
撮影日:1966年 8月
写真解説:
【原文】
【和訳】 森清総理府総務長官、上村千一郎総務副長官 山野幸吉特連局長ら11人来沖 糸満 真壁 萬華之塔

最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていたのをご存じでしょうか。初代の「萬華之塔」に、何故十字架が設置されたのか?

その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具代わりにしたり、本国へ帰国する際の"おみやげ" にする為、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事件が多発したからなのです。持ち去りが後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架が架けてあれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな盗難防止の願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ盗難防止という意味で、「ひめゆりの塔」にも、最初に建立された納骨堂に十字架がかけられていたのです。ちなみに大東亜戦争の最中の話ですが、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵の頭蓋骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という新聞記事がありますのでご覧下さいませ。

【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】

「産経新聞」平成21年8月24日

【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。

地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。

大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。

戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。

また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。

クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。(太字:サイト管理人が加えました)

これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。

在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。

(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)

「産経新聞」から転載させて頂きました

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.5

昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。

手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、野戦重砲兵第一連隊(球第4401部隊)の中隊長だった方なのです。

石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来られたと思います。

毎年6月22日に「萬華之塔」で戦没者慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.73

「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっと慰霊塔を守り続けて下さったのです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.74

5円、10円とか20円の寄付が多いですね。100円もお一人おられます。これらの円は、米国占領時代「B円」(ビーえん)としての円だと思います。昭和26年の10円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。戦後の焼け野原状態での寄付に金額では計れない温情を感じます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.75

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。

B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう。

【B円】

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。

正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。

沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。

1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。

しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。

これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。

当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。

「Wikipedia」から転載させて頂きました

動画ご紹介

「20150622 萬華之塔・砲兵山吹之塔慰霊祭」

「砲兵山吹之塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.76

「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊(球4401)、山根忠隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。

碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は、宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.77

野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊戦没者が記載された墓誌です。同部隊の戦没者名を各県毎に掲載しています。写真では解りにくいと思いますが、墓誌の冒頭右上最初の位置に、同隊に配属された一中鉄血勤皇隊、つまり鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者10柱の氏名が記載されています。因みに野戦重砲兵第一連隊には、一中鉄血勤皇隊員が沖縄戦開戦当初から82名が配属され、弾雨の中を伝令や負傷兵護送などの任務に当たっていました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.78

「砲兵山吹之塔」と同日、昭和41年(1966年)6月22日建立された野戦重砲兵第一聯隊顕彰碑です。野戦重砲兵第一連隊の軌跡を表す碑文が、一面ビッシリと書き記されていますが、劣化しており極めて読みにくい状況です。判読出来ない文字は「〇」と表記して、碑文をテキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【野戦重砲兵第一聯隊顕彰碑 碑文】

我等野戦重砲兵第一聯隊は遠く明治二十三年創設せられたる要塞砲兵第一聯隊を始祖に後東京湾要塞砲兵聯隊と改称せられ日露戦役には野戦重砲兵聯隊を編成し鴨綠江旅順奉天の諸会戦に参加赫々たる武勲を奏す これ実に国軍における野戦重砲兵の〇〇であり明治四十年に至り改編された銃砲兵第一聯隊こそ我が聯隊の母体であって大正七年発祥之地千葉懸市川国府台に転営し始めて野戦銃砲兵第一聯隊と呼称す

昭和十四年三月ソ満国境ノモンハン事件勃発するや勇躍征途につき優勢なるソ聯機械化兵団に対し勇戦奮斗よく国軍砲兵の威力を発揮し全軍の期待に応えたるも全軍八月聯隊本部及第一大隊は守勢地区にありて敵戦車群への大攻勢に遭遇激戦を展開し我が将兵の壮烈鬼神も哭く奮戦は敵に甚大なる損害を與えその攻撃破〇に寄具せる戦果多大なりしも遂に衆寡敵せず火砲と運命を供にす 爾後聯隊は関東軍隷下の満州第八一六部隊と呼称し満州〇黒河省神武屯に駐屯しソ満国境警備の任につく

昭和十六年十二月太平洋戦争開戦〇〇第十四軍隷下の比島派遣軍第六五二三部隊と呼称しマニラバターン半島コレヒドール要塞攻略戦に参加疾風電撃よく機械化砲兵の威力を発揮し殊勲を奏す 爾後再び神武屯に瓵環し北辺の護りにつきたり

斯くして昭和十九年六月二十日我が聯隊は沖縄第三十二軍に転出仝年七月十二日沖縄到着第五砲兵団長和田孝助中将(元聯隊長)隷下の球四四〇一部隊と呼称し聯隊本部及第二大隊を沖縄本島に第一大隊を宮古島に配備し沖縄攻防戦に参加す 昭和二十年四月米軍沖縄本島に上陸を開始するや熾烈なる敵の艦砲射撃と間断なき砲爆撃下全軍の骨幹となり勇武を誇る聯隊の名誉と光輝ある伝統を遺憾なく発揮し奮戦敢斗せるも遂に〇〇敵せず仝年六月二十二日聯隊長山根忠大佐以下七三九柱の将兵は祖国日本の永遠の平和と繁栄を祈念しつつ我国悠久の大義に殉じこの地南冥の島に火砲と運命を供にし玉砕せり

この〇〇〇戦友遺族相志し今は亡き戦友の御霊を弔い遺勲を〇〇に〇〇〇べく野戦重砲兵第一聯隊終焉の地に慰霊碑を建立しかつて亡き戦友と〇〇〇〇〇らい唱い親しんだ砲兵歌の一節より砲兵山吹之塔と名づく

ここに謹んで砲兵歌の一節を〇く
〇には映ゆる 山吹色の
軍の骨幹 誇りも高き
我等〇砲兵 御国の誇り

昭和四十一年六月二十二日 
野戦重砲兵第一聯隊 山吹会・有志一同 

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.79

「萬華之塔」の左側に「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と書かれた碑がありました。碑も小さいですが、文字も極めて小さいので写真では全く読めませんから、テキストに起こしてみました。平成4年5月15日 沖縄復帰二十年記念として建立されたもので、「野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 文責建立石原正一郎氏」と記載されていますので、石原正一郎氏が起案した文章である事が解ります。

野戦重砲兵第一聯隊会及び石原正一郎氏が、「萬華之塔」「砲兵山吹之塔」の建立に尽力された経緯と共に、真壁住民の御厚情に対する感謝の念を強く表出しています。また戦没された方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる文面です。そして金光教那覇教会の林先生も現地慰霊祭に深く関わっているのが見てとれます。少し長いですがお読み下さいませ。

【萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記】

この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。

砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。

因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)

荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。

昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。

因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。

碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。

諸霊よ安らかに

平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 合掌 文責建立

(サイト管理者注:常用漢字にない漢字は常用漢字に変換しました。その他は原文ママ)

「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」碑文を起草された石原正一郎氏とは、ご自宅を訪問するなど交流させて頂きましたが、本文に出てくる「篤志家栃木県高岡敏郎氏」とも金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で出会い、爾来石原正一郎氏同様長いお付き合いをさせて頂きました。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という書籍の第十章 白梅の香り永久に には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんが書かれています。高岡敏郎さんは昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

私と石原正一郎氏と高岡敏郎氏との連絡手段は、携帯電話やインターネットの無い時代でしたから、通信手段はもっぱら手紙です。電話という便利な通信手段があるにも関わらず手紙でした。殆ど常に手紙でやり取りしました。文通といってもよい程です。昔の方は電話よりも手紙の方が、圧倒的に自分の気持ちを表すのに良い手段だと感じていたのだと思いますね。電話は邪道だと。(笑)

私の親世代でもある石原正一郎氏、高岡敏郎氏が書き記す文面は、実際に電話での会話では言い表すことのできない程の深みのある、実に含蓄ある言葉がちりばめられ、体験したからこその説得力ある文脈で全編綴られていました。

ただ一つ私が難儀したのは、送られてくる便箋の枚数が毎回半端ない数だったことです。十枚以上というのが時折ありました。皆様考えてもみてください。例えば便箋10枚の手紙をもらった場合、返す便箋枚数が1枚というのは失礼に当たると考えてしまいますよね。(^_^;

そこで文章量をかさ上げしなければなりません。10枚もらった場合は、最低でも3枚は書かねばなりません。そこで七転八倒の苦難を味わうのです。(笑)

今となっては懐かしい思い出ですが、石原正一郎氏、高岡敏郎氏が沖縄に向ける熱情は、人の心を揺り動かさずにはいない程の強さがありました。同時に私が金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けた事も強く影響し、子供が親の背中を見て育つように、この私もまた沖縄へと沖縄へと心が向かったのでした。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子36

「砲兵山吹之塔」です。野戦重砲兵第一連隊(球第4401部隊)、山根部隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。野戦重砲兵第一連隊の中隊長だった石原正一郎さんが同塔前で手を合わせているところです。学生と共に遺骨収集している際に訪れたと語っていました。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。昭和63年に撮影された、この写真は上掲の十字架の架かる萬華之塔の写真と共に、石原正一郎氏から頂いたものです。

沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲兵第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。そうした経緯で「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」建立に尽力されました。そして石原さんは毎年6月22日に催されるこの地での慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。

過去の写真掲載はここまでです。

南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.80

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:B0400
アルバム名:米海兵隊写真資料53
撮影地:
撮影日:1945年 6月
写真解説:
【原文】 LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.
【和訳】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。

第10陸軍司令官バックナー中将戦死について、詳細に記述されている本を二冊ご紹介します。

《書籍ご紹介》

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下)

ジョージ・ファイファー著/小城正訳 早川書房 平成7年(1995年)初版

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下) では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(332-334頁)
しかし、その地区に散在していた日本軍の砲兵部隊は、まだ散発的にに激しい射撃を行っていた。活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。…自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。

真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。

その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。

ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。

その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。(※)出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。

※ 大方の記事には、珊瑚礁の破片となっているが、砲隊鏡の位置に配置されていた砲兵隊員は、岩石の破片が最大の打撃となったといっている。

作戦の終わる時期が近くなったからといって、決して戦死するおそれがなくなるわけではないことを最初から知っていた歩兵部隊の将兵にとって、この事件はそうした考えが正しかったことを証明する物であった。新たに戦場に投入された海兵第八師団のある人物は、「私にいわせれば、全軍の司令官ともあろう人物が、あんな前線に出てくるべきではなかったんだ」といった。(※)

※ アメリカ軍の間に、沖縄の民間人に対して残虐な行為を犯した者が生じたのは、この事件に対して復讐したいという気持ちがあったからかもしれない。六月十八、十九、二十日の三日間に計六十名を殺害した事件は、十八日におけるバックナーの戦死直後に起きており、そのすべてが同じ地区で発生している。その中の数件は、観測所のあった稜線のすぐ下の真栄里で起きたのである。

「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編/外間正四郎訳 サイマル出版会 昭和43年(1968年)初版

「日米最後の戦闘」は、翻訳に難があるという指摘もありますが、基本的に米国陸軍省の公式見解であるとも言えるでしょう。同著では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(255-256頁)
米軍にくらべれば、日本軍の損害率は、しだいに高くなっていったとはいえ、米軍のほうもまた、狙撃兵を求めて南部で掃討戦にはいったり、あるいは真栄平、真壁の部落での戦闘で、かなり多数の戦死傷者をだしていた。日本軍の組織がくずれさったことで、米軍は攻撃の手をゆるめたわけではなく、これまでと同じようにはげしい攻撃を展開、日本軍のほうでは、首里戦線のときよりも、多くの損害を出していた。首里陥落後の日本軍の前線が、崩落するまでに蒙った第十軍の損害は、千五百五十五人の戦死、六千六百二人の負傷であった。

この戦死者のなかに、バックナー中将がいた。中將は、6月18日の昼過ぎ、ちょうど、島の南西端近くにある、第二海兵師団第八海兵連隊の前戦観測所に立ち寄ったところだった。この師団は、4月1日と19日に陽動作戦を行っただけで、どの部隊もまだ実際には上陸せず、6月に入ってから、最後の戦闘に参加するための第八連隊が、はじめて上陸したのである。バックナー中將は、この海兵隊の進撃状況を、視察しているところだった。そこへ午後1時15分、日本軍の一発の砲弾が観測所真上で炸裂。こなごなに吹き飛ばされた岩石の一つが、バックナー中將の胸にあたった。中將はその場にくずれるようにして倒れ、10分後には絶命したのである。バックナー中将にかわって、沖縄作戦の上級司令官ロイ・S・ガイガー海兵隊少将が、第十軍の指揮をとった。そして六月二十三日には、ジョセフ・W・スチルウェル将軍にかわった。

バックナー中将が戦死した翌日、第九六師団の副師団長クロウデュス・M・イーズリー准将も戦死した。イーズリー准将は、前線の勇士として、全軍将兵から尊敬されていた。ちょうど、日本軍機関銃陣地のある地点を指揮していたところを、飛んできた二発の機関銃弾に、前頭部を撃たれて即死したのだ。この両将軍のいのちも、沖縄戦勝利のかげに眠る、第十軍七千以上の、尊い犠牲のなかに加えられた。

「日米最後の戦闘」から転載させて頂きました

「馬魂碑」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.81

「馬魂碑」です。「愛馬よ安らかに眠れ」と書き記されていました。沖縄戦では沢山の軍馬も動員されましたが、そうした戦場に果てた軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方で沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。

「国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う」

愛馬行進曲の一番の歌詞をご紹介しました。曲は六番までありますが割愛させて頂きます。因みにこの軍歌の作詞者は誰だと思いますか。?

意外や意外、私も知らなかったので偉そうに書けませんが、大東亜戦争中に只一カ所だけ攻める米軍側の死傷者が多かった戦場。そうです硫黄島での硫黄島守備隊(小笠原兵団)を指揮した栗林忠道陸軍中将です。硫黄島の戦いは沖縄戦の二ヶ月ほど前の2月19日から陸上戦闘が始まりました。因みに栗林中将は軍歌「暁に祈る」も作詞されています。硫黄島の戦いと言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を思い出しますが、見られた方も多いのではないでしょうか。この映画は日本軍側の視点で描かれていますが、米軍側の視点を描いた「父親たちの星条旗」という映画もありましたね。

沖縄第三十二軍司令部には、参謀部や副官部のいわゆる幕僚部のほかに、経理部や法務部など色々ある中に獣医部というのがあり、軍馬はその獣医部が管理していました。沖縄戦が開戦するまでは、獣医部は那覇市内第一高女の運動場の隅に馬繋場や水飲み場、厩舎等が設けられていたようです。沖縄戦に動員された軍馬の総数は二千頭は超えていたと言われます。大変な数ですが、弾薬、糧秣、陣地構築資材などは、その殆どが輓馬隊が行っていましたから、第三十二軍総数が十一万人余りである事を勘案すると、もしかしたら少ないと言える頭数なのかもしれません。軍隊では食料を「糧秣」と言いますが、「糧」は兵士用の食料を指し、「秣」は「まぐさ」つまり馬の飼料を指すようです。愛馬行進曲の歌詞を読むと納得できますが、正にこの時代の軍隊とは軍馬一体なのですね。

「牛飲馬食」という四時熟語があります。牛は水を大飲みし、馬は大食いだという意味だそうですから、二千頭を超える馬の飼料を確保するのも大変だったと推測されますし、馬は繊細な動物で戦場など悪環境では神経質になり病気に掛かりやすかったと言います。こうした軍馬を管理する部隊は、世話に追いまくられ筆舌に尽くしがたい苦労をされたようです。沖縄戦では軍民併せて二十余万人が亡くなられましたが、ここにご紹介したように二千頭を超える軍馬もまた、開戦二ヶ月ほどでほとんどが戦死したと言われています。こうした事を肝に銘じ改めて軍馬に対しても慰霊の念を深めていきたいですね。

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.82

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」です。部隊名をご覧下さい。山3480部隊(野砲兵第42聯隊)と通称号が先で正式な部隊名は後回しとなっています。防諜上の理由から通称号が用いられている訳ですが、沖縄戦ではほとんど通称号が使われたみたいで、こちらが一般的な呼称となっていたようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.83

山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文です。テキストに起こしてみました。

【山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑 碑文】

山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。

翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。

やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。

また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。

沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。

これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。

昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.84

山3480部隊戦没者氏名が書き記されています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.85

裏面も同じように戦没者氏名が列記されています。

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.86

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」です。台座部に「沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱」と記されていました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.87

諸部隊の慰霊碑や個人の慰霊碑など、ご覧のように数多く碑が設置されています。

「山三四七四部隊(元満州第八八部隊)慰霊碑」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.88

「山三四七四部隊(元満州第八八部隊)慰霊碑」です。満州から派遣された第二十四師団の主力部隊で、吉田勝中佐率いる歩兵第二十二連隊です。北海道出身者が多かったようです。

霊域の入り口に表示してあった部隊名ですよね。字真壁のタヂリガマに慰霊碑が建立されましたが、そこは個人所有地だったのですね。地盤損傷と永代供養などを考慮し、この地に慰霊碑が移設されたと言う事のようです。碑文はギリギリ読めますが、下に掲示しましたのでご覧下さいませ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

【山三四七四部隊(元満州第八八部隊)慰霊碑 碑誌】

山三四七四部隊の慰霊碑は、1981年(昭和56.11.5)に字真壁の個人所有地タヂリガマに建立し22年間慰霊祭を開催。ところが地盤損傷と永代供養も考慮し、地元字真壁区長金城一男様他役員の格別のご高配を賜り、2003年(平成15.11.3)に萬華之塔敷地内に移設しました。

慰霊碑を守る会 奥田武志・新垣純子・小林良男・小西正二 

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.89

砲弾が立っていました。1トン爆弾というのを見た事がありますが、この砲弾はそれよりも小さいですから、〇キロ爆弾という呼称なのでしょうか。?

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.90

霊域に隣接する畑では、ご覧のように春キャベツが植えられていました。結構大きく育っていますよ。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.91

春キャベツ、立派に育っていますね。土壌をご覧下さいませ。関東地方などとはまるで違う土壌の様相です。太古からの珊瑚礁などから出来た琉球石灰岩の風化や、堆積した島尻層群の泥灰岩からできた土壌なので、本土に比べミネラル分たっぷりの土壌になります。土壌の種類として、「ジャーガル」と呼ばれ、ご覧のように灰色から灰褐色をしているのが特徴です。南部戦跡一帯は、この色の土壌が多いです。この土壌は、雨が降るとグチャグチャの粘着性の泥になるので大変です。またアルカリ性が強く、酸性を好む果樹(パイナップル等)には不向きとされているようです。それから南部戦跡一帯では、「島尻マージ」と言う土壌も広く分布していますが、こちらは赤褐色をしているので見分けが付きやすいと思います。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.92

「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと大きく口を開けた壕がありますので、行ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.93

壕口が見えてきましたね。鬱蒼とした雰囲気です。ただ何年か前の巨大台風の被害により、倒木が多かったのでしょうか、近年は昔よりも日差しが入るようになり、先に進むのが怖いような雰囲気は和らいでいます。(^^;)

近年は実際にご覧のように樹林の外側に光が見えますから安心して歩けます。昔は全く日差しが見えなかったんですよ。とは言っても、曇りの日や雨の日は、相変わらず暗くて怖い雰囲気になりますので、見学する場合は曇りや雨の日は避けたほうが無難です。(^^;)

ちなみにこのアンディラガマから南南東方向に150メートルぐらい行った場所に、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」があり、私も松永さん、吉井さんと共に、一度最奥部まで調査したことがあります。

「アンディラガマ/真壁千人洞」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.94

「アンディラガマ(真壁千人洞)」の壕口が見えてきました。大きな開口部です。沖縄戦当時は擬装もままならなかったと思われます。ご覧のように、天井面は一枚岩と言う雰囲気です。これから壕内部に入りますが、内部もまた賢固な琉球石灰岩で構成されており、比較的安心して入れる壕となっています。壕内には立ち入り禁止の看板が掲示されていますが、少なくともその地点までは合法的に入れますので、見学に訪れた方々も是非火炎放射攻撃で真っ黒になった壁面を、沖縄戦の残像としてご覧になってみて下さいませ。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.95

最初は下って行きます。それでは中に入ってみましょう。但し一つ注意しなければならない点は、この壕内には絶滅危惧種のコウモリが生息しているとの事です。ですから、コウモリの巣であるコロニーに強い照明を当てるなどは厳禁ですからね、その点は注意しなければなりません。ただこれまで壕の奥深く入っていないせいでしょうか、一度もコウモリを見た事はありません。因みにアンディラガマ(真壁千人洞)の全長は250メートルぐらいあるそうです。最奥部には水源もあるとの事です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.96

地面を見ています。この辺りは土壌と言えるほど土が多い印象です。その土壌には戦争遺品、特に瀬戸物やガラス瓶の破片が目立ちますね。この壕は戦後繰り返し遺骨収集が為されたのでしょう。地面はガチガチに固くなっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.97

こちらもそうですね。細かい破片が沢山埋もれているのが解ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.98

遺骨収集をした時に集められた遺品でしょうか。一カ所だけですが、ご覧のような遺品が沢山置いてある場所があります。壕の深い場所から運び出された物品でしょうか。こうして見ると、一部軍需品が写されていますが、兵隊さんが持つような物品ではないので、やはりこの壕には避難民の方々が多く居られたのでしょう。元々が真壁集落の方々の避難壕でしたからね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.99

更に奥に入ってみましょう。写真は壕空間の左側を歩いて撮影しました。こちら側はもう少し進んだ場所から先へは進めず行き止まりになっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.100

天井面を見ています。真っ黒だった天井面も、戦後の鍾乳石氷柱から滴り落ちる水滴により、洗い流されるのか縦に筋が付いていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.101

壕の右側の壁面等を撮影しています。壁面が火炎放射攻撃による煤で真っ黒ですね。この辺りは、沖縄戦当時の色合いをそのまま残していると言う印象ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.102

少し解りにくいですが、登り坂になっていて、写真中央上部に小さな穴があります。人が屈めば入れるという大きさです。ここまではとても広い壕空間でしたが、ここから一気に狭くなり坑道のような様相となります。壕に入る人はヘルメットが必須です。それではその狭い坑道に入ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.103

相変わらず、壁面は煤で真っ黒ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.104

鍾乳石氷柱が折られているのが見えます。また奥には少し広い空間がありますね。相変わらず立っては歩けない高さです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.105

この辺りの天井面は一段と怖いぐらいに真っ黒ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.106

この辺りも同じです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.107

ここで立ち入り禁止の看板と出会う事となりますから、ここで前進は断念しなければなりません。奥の方は相変わらず狭く坑道にようになっています。壁面も真っ黒です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.108

立ち入り禁止看板の左側を見ています。ガチガチの琉球石灰岩と言う感じですよね。落盤の可能性は低いので、もう少し先に進ませてくれても良いと思いますがね。最奥部には水が流れていると言う事で、酸欠の可能性も無いのですから‥‥。

一昨年の立ち入り調査では、設置された立ち入り禁止の看板よりも前進出来た事もあり、一昨年撮影した写真を、狭い坑道入り口から再掲載させて頂きますのでご覧下さいませ。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.109

右側に回るとやはり坑道がありました。壕口からすでに30メートルぐらい入っているので、これ以上前進するのは危険だとは思いましたが、あと20メートルを限度に前進して見ることにしました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.110

鍾乳石の間を潜るようなイメージで不思議と空間が続いています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.111

立って歩くことは出来ませんが、屈んで歩ける程度の高さはありますね。もう少し前進してみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.112

少し狭くなってきましたが、まだ前進できます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.113

狭い坑道になってから20mぐらい前進しました。もっと奥まで行きたいという思いは募るのですが、ここで引き返しましょう。このガマはご覧のようにガチガチの鍾乳石から成る石灰岩の空洞です。大昔この空洞に水が流れていたと言う事になります。この空洞は見ての通り落盤の危険性も無く、また最奥部に水源があるとの事ですから酸欠の恐れもありません。という事で、まだ先に行きたい思いは強いですが、万が一事故を起こしたら社会に大変な迷惑を掛けてしまいます。

またこのアンディラガマ(真壁千人洞)には絶滅危惧種のコウモリが生息しているようなのですが、少なくとも私が前進した位置20mぐらいまでの範囲では、飛翔や威嚇がなかったので巣は無さそうです。いずれにしても、この壕の全長は250mぐらいあると言われています。見て解る通り、壕内は恐ろしい程の火炎放射攻撃を浴びて真っ黒けです。この黒さ加減は、「独立高射砲27大隊本部壕」と双璧を為すものです。更に奥はどの様になっているのか‥。慰霊行脚という意味で、いつの日か状況が許せば、松永さんにガイドして頂きながら、南部戦跡遺骨収集会の全メンバーで見学したいと念じています。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.114

無事に壕開口部付近まで戻って参りました。ヘッドライト無しだとこんな感じですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.115

この壕内で多くの方々が、火炎放射攻撃を受けて熱風と酸欠のなか絶命されました。改めて戦没者の御霊安らかにと手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「萬華之塔」前の道路を東に100メートル程行くと、小高い樹林帯となっている丘がありまして現在真壁公園となっています。その丘の頂上には昔日の古城である「真壁グスク」があったそうです。

真壁グスクの発掘調査を実施した市教育委員会によると、出土したグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭等を調査した結果、14~16世紀の三山分立時代に南山城の出城として築かれたグスクである事が判明したそうです。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入り口近くには真壁神宮寺が建っています。

その真壁公園の一角に「真和の塔」がありまして、この塔は平成21年ですから、今から10年前に慰霊巡拝で初訪問しています。同塔が地図に掲載されていない事から、探し当てるのにかなりの時間を要したのを覚えていますが、二度目である今回は久しぶりの再訪という事になります。

「真和の塔」は第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は首里戦線でも比較的残存率が高く、島尻の新陣地即ち具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里に至る最後の防衛ラインの、主に真壁と真栄里に布陣した砲兵部隊は、島尻の戦いでも正確な砲撃で米軍を圧倒する場面もありましたが、戦車や火炎放射攻撃で迫る米軍に圧倒されるなど、6月中旬には砲門などの兵器も全て破壊され尽くした為、他の部隊と同様、砲兵部隊もまた斬り込みを敢行し玉砕して散華されました。同隊の生存者が居なかった為に、慰霊碑建立等は遅れたと言います。

「真壁公園、真壁グスク」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.116

真壁公園は「萬華之塔」から100mぐらいの距離にありますので、ぜひ訪ねて見て下さい。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.117

「真壁グスク」の解説です。問題なく読めますね。

「真和の塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.118

「真和之塔」が奥まった所に見えますね。公園に入ってすぐ右側の所にありますから、見落とす事はないと思われます。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.119

「真和之塔」です。昭和41年(1966年)3月に建立されました。同塔は第24師団の第5砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は真壁と真栄里に布陣しましたが、その布陣のゆかりの地である真壁に慰霊碑を建立したという事でしょうね。塔名の文字は、元総理府総務長官の臼井荘一氏の揮毫です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.120

慰霊碑碑文です。テキストにしましたのでご覧下さいませ。

【真和の塔 碑文】

昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。 ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う

昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.121

「真和之塔」のすぐ裏のジャングルを見ると、すぐに急傾斜の岩場になっているのが見えますね。周囲がほとんど平坦部なだけに孤立しているように見えるこの丘は、集中的な攻撃に晒されたに違いないという印象を持ちました。古くは真壁グスクのあったこの丘には、「寺山壕」と呼ばれる軍の構築壕があったと言います。壕出入り口は五カ所ありました。しかしながら、崩落して何れの壕口も塞がれているようです。第5砲兵団隷下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊が占領していたのかもです。

今日「真和之塔」を慰霊巡拝したのは、数年前に具志頭での調査・遺骨収集作業中にメンバーが、野戦高射砲第81大隊将兵が身につけていたと思われる認識票を発見した事によります。日本軍の認識票は単なる識別番号みたいなものですから、個人が名前を彫り込むなどしない限り、身につけていた将兵の氏名を追跡する事は叶いません。但し所属部隊は判明するケースが多いです。

その認識票に書かれている記号・番号を、参加メンバーが沖縄から帰ってから精力的な調査を行った事により、所属部隊名が判明したのです。発見された認識票の持ち主は、この慰霊塔に祀られている野戦高射砲第81大隊の兵士だったのです。福岡さんは、この部隊の編成地である福井県鯖江市嶺北忠霊場に「福井県平和祈念館」があると聞いて、何か情報が得られるかも知れないと車で出かけて行ったりもしました。結果として新たな情報は得られませんでしたが、それにしても驚くべき行動力です。

こうした経緯もあり、今こうして認識票の兵隊さんが所属していたであろう部隊の慰霊碑に向かってご冥福をお祈りした次第です。長く遺骨収集をしてる立場の責務として、こうしたきめの細かい慰霊活動はとても大切だと感じています。

《書籍ご紹介》

「沖縄の最後」

古川成美著 河出書房 昭和42年(1967年)初版

著者の古川成美氏ですが、大東亜戦争が始まった昭和16年に大学を繰り上げ卒業し、その二ヶ月後学徒兵として中部第24部隊に入営するも教育要員として学校勤めに戻され、今の高校生にあたる青少年の教育に打ち込んでいましたが、昭和19年(1944年)当時28歳で、「七月二十日午前九時、福井県鯖江ノ聯隊二入隊セヨ」と召集令状が来たとの事。そして配属先が独立高射砲第八一大隊、球一二四二五部隊と決まった‥。

「沖縄の最後」冒頭の記述を一部抜粋しましたが、この本は出版後一年で8刷に達するベストセラーとなったようです。また再販を重ねる内に、内容文の一部更新しているとの事です。私が購入した書籍は第一刷となっていました。またその後高級参謀であった八原博通氏より、1000枚に及ぶ沖縄戦手記の提供を受け、昭和24年(1949年)に「死生の門─沖縄戦秘録」を出版しましたが、こちらも重版を重ねたようです。因みに「死生の門─沖縄戦秘録」は読めば一目瞭然、八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」とほぼ同じ内容なのだそうです。登場人物を架空の名前にしてストーリーに加えたようです。

著者の所属する部隊である独立高射砲第八一大隊は、中頭郡読谷村にある北飛行場で防空任務に就きました。初戦は昭和19年10月10日の対空戦闘の参戦でした。そして沖縄戦開戦、以降北飛行場、前田、翁長、小波津、与那原、そして慰霊塔「真和之塔」のある真栄平までの転戦の様子が筆致鋭くリアルに描かれています。著者は真壁部落の東側の小高い丘の斜面にあったトーチカで負傷し、傷病兵の悲惨さをなめ尽くして沖縄戦を生き抜かれた方です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.122

「真和之塔」の左隣の山裾に井戸がありました。現在は四角い石組みの中に少し水が貯まっているという風情です。井戸は使わないと涸れる‥‥。と言われます。グスクの近くには井戸が必ずあると言うのは、その通りですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.123

接近して撮影しました。手前側のコンクリート製の仕切りは兎も角、前方の石積みは往時に積まれたのがそのまま生きている印象ですね。構築壕である寺山壕で戦った将兵も、水だけは事欠かなかった可能性がありますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.124

井戸の前方はご覧の様に擁壁もあるなどで、しっかりと小川という雰囲気ですよね。その昔は井戸からこんこんと水が湧いていたのかもです。この小さな丘に降った雨が、琉球石灰岩に染み込んで、井戸から湧出したのでしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.125

「真壁グスク」を見学したいと思います。「真壁グスク」は築城者は不明で、連郭式と言う築城形式で曲輪が配置されているとの事です。連郭式とは、本丸とその他の曲輪を、連続的に連なるように並べて配置したものを差すようです。ですから、ここ真壁グスクも低いところから一ノ郭、二ノ郭、そして三の郭と曲輪が整えられていたようです。また遺構が少ない為か、史跡指定はされていないようです。

グスクの遺構などは山の上部にあるでしょうから、それらしき道があったので登りましたら、この写真の所に出ました。ご覧のように、眼前には道を挟んで大きな岩が覆い被さるようにありますね。大きな岩の向こう側も含めて、この辺りの平らな場所に二ノ郭があったようです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.126

遊歩道の左側にあった、バックリと割れている岩があったので撮影しました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.127

遊歩道はご覧のように階段となり、一気に高い部分まで登ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.128

長い階段を登り終えると、一気に視界が開けました。この小さな丘の山上に出たようです。この広場に一ノ郭があったようですから、お城もこの辺りに建てられていたのでしょう。ご覧のように、写真の一番奥に展望台があるみたいですから、行ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.129

ここが「真壁グスク」の一の郭があったとされる場所のようです。結局「真壁グスク」の痕跡のような遺跡は見つける事が出来ませんでした。グスクの遺構が少ないから史跡指定になってないのかも知れませんね。気持を切り替え、展望台に登ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.130

写真中央部に注目して下さい。与座にある陸上自衛隊レーダードームが見えています。距離は約2kmあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.131

展望台から降りていますが、高台から糸満市喜屋武方面を見ています。解りにくいですが、海も少し見えていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.132

真壁公園はあちこちで樹木が切り倒され、草が刈られています。大規模な改修工事の前段階なのでしょうか? ご覧のように、この丘は大きな岩がゴロゴロしていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.133

ついつい壕はないかと探してしまいます。

「真壁宮」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.134

丘から降りて平らな場所に出ました。霊石を祀った「真壁宮」ですね。但し公園入り口右側に、糸満市教育委員会の案内掲示では、「真壁神宮寺」と表記されていたので戸惑いましたが、本殿宮内にはしっかりと「真壁宮」と掲示されていました。旧暦の9月9日が宮祭りだそうで、南部各地から大勢が訪れるとの事です。

ご覧のように、本殿はコンクリート製のようです。本殿の周りは広い回廊となっていて、コンクリート製の柵で囲まれています。敷地面積全体はかなり広い印象を受けます。同宮のご利益は、海上安全、災難除けなどで、特に漁業に従事する人々の信仰を集めているようです。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.135

「真壁宮」は、「真壁のティラ」と呼ばれているようです。ティラとは、神が鎮座する場所や洞穴の事を指すと言われるのはご承知の通りです。今から490年前の1531年以前に創建されたとされており、糸満市教育委員会の案内掲示によると、「真壁按司の子孫である首里大屋子が、海から飛んできたといわれる霊石を祀るために祠を建てました。また、17世紀後半ごろに、那覇にある臨海寺の頼久和尚が、阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩を勧請しており、社殿が壊れた時には村人によって再興されています。現在は航海安全などの神として、県内各地からの礼拝者があり、祭祀は新垣家(屋号兼元)が行います。祭日は旧暦9月9日です」と記されています。

「真壁宮」の扉は開かれ室内を見る事が出来ました。祭壇には丸い御神鏡が置かれ、天照皇と書かれたお札もみえますね。木造の神殿を模した母屋もありました。また天井面には真壁宮の扁額が掲げられていました。また真壁宮と真壁グスクとは密接な関係にあったそうです。グスクには城内ノ嶽(神名「ヨイギヨラノ御イベ」)と城下ノ嶽(神名「アコウノ御イベ」)があったそうです。残念ながら、これらは探し当てられませんでした。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.136

「真壁宮」参拝を終えて帰路につくと、不思議な光景が目の前に現れました。写真右側の三段のコンクリート製の階段は、果たして設置する価値があるのか‥‥。夜も眠れないぐらい考え込んでしまいそうです~。(^^;)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.137

ここにも遊歩道がありました。この遊歩道は利用しませんでしたが、山上に行けもものと思われます。

「山雨の塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.138

糸満市の宇江城という集落の一角に「山雨(やまあめ)の塔」があります。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。フロントにモクマオウの木が一本ありますが、近年は枯れ枝も目立ち少し元気がないです。一方クワデーサー(モモタマナ)の方は元気です。毎年グングンと大きく育っています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.139

「山雨の塔」です。軍旗捧焼の地でもあります。山雨の塔(やまあめのとう)とは、第24師団の通称である山部隊の「山」、そして師団長である雨宮巽中将の「雨」を併せて命名されました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.140

「山雨の塔」です。この慰霊塔は1962年に建立され、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。

この師団は満州に駐屯していましたが、昭和19年8月に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にあるクラガーガマ壕内で自決し、同師団は壊滅したのでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.141

書かれている碑文が年々読みにくくなっていますでテキストに起こしました。

【山雨の塔 碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会 

「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版

伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。しかしながら予想通り、戦記物にしては文体が優しく、戦場の息を呑むような臨場感が伝わってこないのが残念です。それはともかく、「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。

歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。

この「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊藤孝一の戦い」笹 幸恵著/(株)学研パブリッシングに、第24師団長 雨宮巽陸軍中将が、山雨の塔の左手にある「クラガーガマ」の中で自決した時の様子が記述されていますので転載させて頂きます。

(251-253頁)
6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。

苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。

「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」

雨宮は短く答えた。

壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」

その夜、動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」

わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。

仁位は説得をあきらめた。

夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」

周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世間話をしていた。

仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった‥。

この手記から、雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸恵/(株)学研パブリッシング) 第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記よりから転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.142

ほとんど毎年のように慰霊塔巡りをしていますと、時折ですが関連施設として新しく設置されるものがあります。この碑も昨年はありませんでしたから、この一年で新設された碑である事が解ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.143

読めますね。母親が29才で沖縄戦の戦場に果てたご子息に思いを馳せ詩を読んでいます。

戦没者の母親が、第二十四師団(山部隊)隷下の部隊に所属していて戦死されたのでしょう。慰霊巡拝に際して、この碑文が彫られた石板を、この霊域に置いて行かれたのです。昭和四十年晩秋と書き記されていますので、驚く事に56年の歳月を、風雪に晒されながらこの地に置かれていたのでした。長いスパンでは霊域のあちこちにたらい回しされるかのように移動していました。昨年などはフェンスに斜めに立て掛けられていましたが、現在はご覧のように、割れた部分は接着剤で固定され、またしっかりと構築物に収められたので、この碑自身にとっても安息の地を得られたと言えますから、私自身も安堵の気持ちが湧いて参ります。糸満市のご配慮に感謝感謝です。(^o^)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.144

小さな石板に詩が書き記されています。この霊域に置かれていると言う事は、第二十四師団隷下の部隊に所属していて戦死されたと思われますが、戦死された兵士のお母さんが、参拝の折りにこの地に置いていった小さな石碑です。昔から土に固定されたり埋められてはいませんでした。私が最初にこの「山雨の塔」に最初に慰霊巡拝で訪れた際には、邪魔者扱いされるかのように、霊域の片隅にすでに置いてありました。ある年からは石板が割れていました。心が痛むので、同塔に訪れた際は必ず手を合わせています。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.145

「山雨の塔」の北側には、ご覧のような遊水池が設けられています。宇江城のこの辺りは低地になっていて、付近に降った雨水などは、多分ですが「クラガーガマ」を通って大渡方面に流れていくものと思われます。実際に余剰水は、「クラガーガマ」に入るようになっています。

「クラガーガマ」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.146

「クラガーガマ」です。昔はこの鉄柵は無かったのですが、近年設置され鍵まで掛けられている年もあります。今年は鍵は掛けられていませんね。また今年は壕口までもしっかり草刈りが為されています。一応立ち入り禁止となっているのは明白ですから、鍵は掛けられていませんが、立ち入らないことにしました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.147

金属柵の中に腕を入れて撮影しました。「クラガーガマ」の壕口はまだ見えません。今年は草が刈られて少し先まで見えるようになっていました。ここ数年ガマに入った事は無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元では呼ばれ、「暗井戸」という意味なのだそうです。沖縄戦では、地元民の避難壕として利用され、島尻の戦闘では軍民同居の壕となりました。また壕内は川が流れている事から、貴重な避難民の水くみ場として利用されたと言います。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子6

平成19年(2007年)に「クラガーガマ」から発見された御遺骨です。
金光教の遺骨収集で「クラガーガマ」から発見された、頭蓋骨が焼かれ真っ黒になっているご遺骨です。

御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく御遺骨を見つめなければなりません。また 私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

雨宮師団長や幕僚が自決したこの壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また水くみ場を兼ねていたといいます。現在の壕の入り口は大きく開放されていますが、沖縄戦当時は米軍にこの壕の存在を把握してからは、米軍により出入り口をブルトーザーで塞がれてしまったという話です。

米軍の馬乗り攻撃においては、どこか穴を開けられてガソリンを流し込まれたり、爆雷を投げ込んだりの徹底的した「馬乗り攻撃」が為され、壕内で亡くなった日本軍将兵が、一説には千人とか二千人に上るとも言われているそうです。壕内空間の広さを知る私としては、即座にその人数は入れないとは感じますが‥。

私も以前にこの壕内の奥深く進めるところまで行ってみた事があるのです。壕は少なくとも200mは容易に前進できます。そこから先は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。

壕内調査を終えた後、地上に出て反対側に出入り口があるかどうかの調査も行いました。反対側にも入り口があるという地元の方の情報があったからです。私達も300m先のジャングルの中を丹念に探索しましたが、残念ながら反対側の出入り口は発見できませんでしたね。

不思議だったのは、そのジャングルの中に川が流れているのですが、道路の路肩付近で地面の中に吸い込まれていくのです。私たちが入った「クラガーガマ」の水の流れも奥へ奥へと流れていますから、位置的に見てジャングル内の川と壕内を流れる川が合流している可能性もなきにしもあらずと感じられました。

地元では「クラガーの中は二股に分かれており、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっている」という話もあり、壕の奥の方がどのようになっているのかは、これからの課題として順次調査を進めたいと思いますよ。

この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのですね~。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。

戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200m先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。

いずれにしても、水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています…。この汚泥の中から、平成19年(2007年)金光教の遺骨収集で、アメリカグループのロンさん達が、上掲の黒く焼けこげた頭骨などの完全一体のご遺骨を発見したのでした。

翌年には発見された場所の周辺部を探索してみる必要があるというロンさんの提案で、アメリカグループと4班の皆さんが、この壕内で汚泥と戦う事となったのです。私も壕内に入ってアメリカグループと4班の皆さんの悪戦苦闘ぶりを見て、本当に心から、その悪戦苦闘ぶりに驚きを隠せませんでし。これから汚泥と戦う写真を見て頂きます。どうぞ彼ら彼女らの奮闘ぶりを、賞賛してやって下さいませ~。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子31

【平成20年(2008年)2月16日/一日目の様子ご紹介】
「山雨の塔」横にある「クラガーガマ」壕口の様子です。壕の洞窟空間はこのまま奥の住宅地方面に伸びています。この壕口は米軍の馬乗り攻撃により、ブルドーザーで埋められてしまったという話です。壕口は戦後復活したという事の様です。

遺骨収集の様子32

壕入り口付近の様子です。女性が進もうとしている方向が壕内となります。作業の効率性を高めるために発電機を利用して投光器を壕内に設置しました。

遺骨収集の様子33

ご覧のように壕内は小川のように常時水が流れています。沖縄戦当時はこれ程水量は無かったのではないかと推測しています。

遺骨収集の様子34

金光教の皆さんが無心に作業しています。各自持ち場にへばりつくように頑張っていました。

遺骨収集の様子35

班長の吉永さんをはじめ皆さんが泥んこになりながら、一生懸命作業を進めていました~。嘗てこれ程困難極まる作業風景は見たことがありません。皆さん本当にお疲れ様です。水が流れている位置が沖縄戦当時の路面と思われます。汚泥の厚みが本当に凄いですよね。

遺骨収集の様子36

黒く焦げた頭蓋骨を含む一体分のご遺骨を発見したアメリカグループのロンさんです。この方も金光教の遺骨収集に長年参加されているお一人です。因みに金光教の遺骨収集の内、運営委員会時代は、アメリカの軍人・軍属の方々が常時100人から200人参加されていた時代もありました。「ロンさん、お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子37

ロンさんが銃剣が見つかったと見せてくれました。水に浸かっている為かなり錆びているようですね。

遺骨収集の様子38

アメリカグループのメンバーです。「お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子39

ヒョエ~~~~~。(^^;)
健太郎君! 僕は少なくとも、君のその笑顔に救われたよ。

遺骨収集の様子40

少量のご遺骨と共に、万年筆・信号発信器・石けん箱なども発見されましたね。

遺骨収集の様子28

【平成20年(2008年)2月17日/二日目の様子ご紹介】
壕内はこのように立って歩ける空間が少なくとも100m以上続いています。因みに写真には丸く光る玉「オーブ」が写されています。「霊に違いない」とか「霊魂が写されている」とかの話も耳にしますが、オーブが写された写真を何十年間も撮影している体験からして、霊の現象ではなく科学的な現象であり、「水滴面に照射したストロボ光が、レンズとしての水滴面からそのまま、投射光の一部が反射してカメラの露光面に写し込まれたもの。露光面の円形の大きさは水滴の直径の大きさ、そして結露面からカメラまでの距離により決まる」と言うのが、一番適切であり正しい様に感じます。(^o^)

遺骨収集の様子29

投光器に照らされながら、班長の吉永さんや山根さんをはじめ、皆さんが昨日と同じように泥んこになりながら、汚泥を掻き出してご遺骨の有無を確認する作業を続けていましたよ。
本当に本当に、本当にお疲れ様でございます。m(_ _)m

遺骨収集の様子30

4班の女性陣も頑張って汚泥と格闘していました。

遺骨収集の様子31

奥の方を見ると高さ2メートル以上の場所まで汚泥が堆積していることが解ります。つまり台風などによる増水時は、2メートル以上も水位が上がることを意味していると思われます。

遺骨収集の様子32

ただひたすら前を向いて作業していたアメリカグループの一人ですよ。本当にお疲れ様です。

遺骨収集の様子33

彼が発見した小物をみせてくれました。小さな瓶や靴底、そして針のように尖った部分のある何かの「道具」でしょうか?。 道具の名前や使い方などをご存じの方は教えて下さいませ。

遺骨収集の様子34

ヒョェ~~~~~。 初参加の健太郎君は今日も頑張っていま~す。これが遺骨収集の全てではないからね。(^^;)
来年も必ず来るんだよ! いや来て下さいね~。(^^;)

遺骨収集の様子35

吉永さんが黒く焼けこげた脊髄の骨を見せてくれました。細かいご遺骨は散見されるとの事ですが、昨年のようにまとまったご遺骨の発見はまだ無いそうです。吉永さんが居る場所は、壕入り口から40m程の距離です。この場所で焼死したのかも…。

遺骨収集の様子36

軍靴の靴底がありました。私は何時もの事なのですが、靴底を見ると一人の兵士が亡くなった事を意味し心が辛くなります。

遺骨収集の様子37

小さなご遺骨が結構見つかっていますね。銃弾や電信を打つ機械なども見つかっています。他にも万年筆が見つかっていますが名前は確認されませんでした。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.148

時代は変わりました。稲刈りに用いるコンバインと同じような機能を持つ、サトウキビを自動で刈取り収穫する機械で、大型ハーベスタと呼ぶ機械のようです。実際に私の目の前で収穫作業が行われていました。運転手も乗っているのが解りますよね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.149

こちらの写真は、大型ハーベスタでネットに入れられたサトウキビのチップです。畑一面にチップ状態に切られた枝葉が散乱している事から、茎以外の枝葉については、機械に通す段階である程度排出され、茎のみが収穫されると言う流れのようです。便利になりましたよね~。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.150

こちらは、従来の方法である、農家の方が手作業でサトウキビが収穫された写真です。この手作業による収穫では、余計な枝葉はほとんど鎌で切り取られるので、収穫物であるサトウキビの茎だけが結束されているのが解ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.151

広い畑一面に見事な野菜が育っています。結球レタスですね。この畑は毎年結球レタスが栽培されていますので、連作障害が心配です。(笑)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.152

本葉が展開を続けている段階ですが、結球が始まった雰囲気も垣間見えます。人は厳しい冬の寒さを経てこそ呪縛から解き放たれたように、新春の時節には気持ちが高揚しますが、同じく真冬の関東地方から来て、このような青々と元気に育つ野菜を見ると、こちらまで新春のパワーが貰えそうで何か心持ちが凄く元気になりますね。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.153

マンゴーの木です。レタス畑の隣にビニールハウスがあって、ご主人が作業していました。「レタス畑の写真を撮らせて下さい」とお声掛けしたところ、話し好きなご主人みたいで、是非自慢のマンゴー栽培を見ていって欲しい‥‥。そんな雰囲気のなか、問わず語りでマンゴー栽培について色々話して下さいました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.154

ハウスの中には数え切れない数のマンゴーの木が植えられています。全て接ぎ木して木の高さを抑えているとの事。100本以上植えられているマンゴーの中で、写真のこのマンゴーの木が一番の自慢なようです。草姿はもちろん、品種的にも自信作だと言う感じです。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.155

摩文仁の丘の最奥部にある休憩所で、荷造りなど出発準備をしていたら、海上を自衛隊艦船2隻が航行していたので写真に収めました。艦艇はゆっくりと西に舵を取り進んでいました。日本の海を守る海上自衛隊艦船を、私はとても誇らしく思います。しかしながら、国防を担う陸海空自衛隊は、悲しくも建軍の本義を与えられず、そして忠誠の対象も明確にされないまま、軍隊なのか大きな警察組織なのかよく解らない特別職国家公務員と呼ぶ、一公的職業人に甘んじているのが実情です。更に言えば、命を掛ける尊い仕事であるにも関わらず、給料が驚くほど安い‥‥。陸海空自衛隊が、日本そして世界で存分に活躍出来る環境を整える事が叶わず、日本国民の一人として、誠に申し訳なく思っております。

下掲の衝撃的なニュース記事をご覧下さいませ。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.

太平洋を航行する中ロの艦隊=23日/Sun Zifa/China News Service/Getty Images
CNN 2021.10.27 Wed posted at 07:14 JST 「中ロ合同艦隊が日本を「一周」、これが大きな出来事である理由」から転載させて頂きました。

【ニュースの核心】中露艦隊が列島一周…なめられた岸田政権 選挙運動などしている場合か? 核「持ち込ませず」はフィクション、領海法改正含めた対応を

【zakzak by 夕刊フジ】令和3年(2021年)10月30日

中国海軍とロシア海軍の艦艇計10隻が17日から23日にかけて、日本列島をぐるりと一周するように、日本海から青森県と北海道を隔てる津軽海峡を抜け、その後、日本列島に沿うように太平洋を南下し、鹿児島県の大隅海峡を通過した。初めての事態である。

ところが、岸田文雄政権の動きは、まったく鈍い。政権の命運がかかった衆院選(31日投開票)の最中とはいえ、選挙運動などしている場合か。

これは「国家の危機」だ。直ちに国家安全保障会議(NSC)を開いて、対応策を協議すべきだ。

中国はミサイル駆逐艦、ロシアは駆逐艦などが艦隊を組んだ。伊豆諸島付近では、中露の艦艇がそれぞれヘリコプターを発艦させた。長崎県沖では、中国艦艇のヘリコプターが発着艦する場面もあった。

ロシアは「中国海軍との合同パトロール」などと言っているが、明らかに軍事訓練の一環である。にもかかわらず、岸田首相は27日、やっと都内での応援演説で、中露の動きを受けて、「皆さんの命、日本の平和や生活を守るため、しっかりとした外交・安全保障を進めなければならない」と語った。磯崎仁彦官房副長官は「高い関心を持って注視している。警戒監視活動に万全を期す」などと言うにとどまっている。

日本列島が中露艦隊に包囲されたも同然で、「パトロール」までされたというのに、何という鈍さなのか。

相手は、発足したばかりの岸田政権の「度胸」を試している。これでは「岸田首相は大したことない。次は、潜水艦を交えて、海峡で合同軍事訓練でもやるか」と思ったとしても不思議ではない。

なぜ、こんな事態になったかと言えば、日本が領海法で両海峡を含めた5海峡について「領海は3カイリ(約5・5キロ)まで」とし、中間を公海扱いにしているからだ。本来、国際法が認めている12カイリ(約22キロ)よりも狭く設定しているのだ。

なぜかと言えば、核を積んだ米国の原子力潜水艦がこれらの海峡を通過すると、12カイリだと「日本の領海に侵入した」かたちになってしまう。非核3原則の「核を持ち込ませず」を守るためには、「公海部分を残した方がいい」という判断があったからだ。

だが、3原則の「持たず、作らず」はともかく、「持ち込ませず」はフィクションである。米国の原潜や空母が、わざわざ核兵器を降ろして日本に来るわけがない。

12カイリに改めても、公海に面した海峡は、軍艦を含む外国艦船に通過通航権が認められる。そうだとしても、日本の領海にすれば、他国の軍艦が領海内で軍事演習をするのは「挑発も極まれり」で、論外になるだろう。

岸田首相は領海法改正を含めて、直ちに抜本的対応を検討すべきだ。相手は選挙前だからこそ、挑発している。

それなのに、政権のスポークスマンが「引き続き警戒する」などとお茶を濁しているようでは、話にならない。

国民は不安を感じている。多くの有権者は「応援してもらいたいなら、政権はやるべき仕事をしっかりやれ!」と思っているはずだ。

■長谷川幸洋(はせがわ・ゆきひろ) ジャーナリスト。1953年、千葉県生まれ。慶大経済卒、ジョンズホプキンス大学大学院(SAIS)修了。政治や経済、外交・安全保障の問題について、独自情報に基づく解説に定評がある。政府の規制改革会議委員などの公職も務めた。著書『日本国の正体 政治家・官僚・メディア-本当の権力者は誰か』(講談社)で山本七平賞受賞。ユーチューブで「長谷川幸洋と高橋洋一のNEWSチャンネル」配信中。

「zakzak by 夕刊フジ」から転載させて頂きました

上掲の記事のように、中華人民共和国海軍とロシア海軍の軍艦計10隻が、10月17日から23日にかけて、津軽海峡と大隅海峡通過も含めて、日本列島を一周するかのようにパトロールと称して航行しました。中ロ合同艦隊に日本列島を一周されても、選挙公示日に北朝鮮からSLBMを日本海に向けて発射されても、国防や安全保障の強化、そして9条改正が衆議院選挙の争点とはならない日本。即ち日本の政治家は、国防や食料、そしてエネルギー政策と言った安全保障政策の遂行と、国民の雇用と生活を守る為に活動すべきであって、LGBTや夫婦別姓とかに、かまけている場合ではないはずですが‥‥。

ほぼ時を同じくして、台湾の蔡英文総統は、中華人民共和国が「一国二制度」による統一を主張し、武力行使も辞さない姿勢を維持している事に対し、中華人民共和国の軍事的脅威は「日に日に」増していると指摘した上で、中華人民共和国の圧力には「断固として国家主権を守る」と強調、そして、台湾は「民主主義のための防衛の最前線に立っている」と述べたと言います。日本も台湾と同じように、例えば尖閣諸島や沖縄の主権を決定的に侵害されているにも関わらず、その反応は正反対のように見えます。

追 記

中華人民共和国共産党独裁政権は、台湾を先制軍事攻撃するつもりはありませんし、その能力もありません。そうした見立ての上で、中華人民共和国共産党独裁政権が台湾を先制軍事攻撃するかもしれないと言う演出は、米国と対峙する為の共同戦線、即ち外省人国民党と中華人民共和国共産党独裁政権による、現代の国共合作である可能性も排除出来ません。警戒が必要です。

日本と台湾との関係は、民主主義等の価値観を共有し、また特に李登輝元総統の時代に賢固な絆が結ばれたが故に、そうした確たる友情への安住は、弛緩を呼び隙を生む懸念に着目しなければなりません。台湾は大切な盟友であるのは自明の事柄ですが、外省人が裏で支配している事をいつの時も忘れず、油断せずに表裏を複眼で観察する必要があるのです。

因みに、中華人民共和国共産党独裁政権お抱えの人民解放軍は、武装船や海警などの末端組織を含めれば、規模では米国をも凌ぐ世界一デカい軍事組織であるのは間違いありません。ですから観閲式典や実弾演習は、実に壮麗であり派手に演出してやみません。しかしながら、インド軍と棍棒で殴り合う事があっても、例えば米国や日本との、ミサイルなどが飛び交う近代戦としての熱戦は絶対に仕掛けて来ないと言えます。

なぜか? 中国人は三度の飯よりも金儲けが好きなだけであり、自分や一族の私益しか興味がなく人心はバラバラ。しかも国家の為に死を賭して戦う人間は絶無。故に熱戦をすると人民解放軍が、世界一見かけ倒しのヘタレ軍隊であるのがバレてしまうからです。(笑)

《書籍ご紹介》

「失敗の中国近代史」 阿片戦争から南京事件まで

別宮暖朗著 並木書房 平成20年(2008年)3月初版

「中国ガン」 台湾人医師の処方箋

林 建良著 並木書房 平成20年(2012年)12月初版

話は変わりまして、昨年とても嬉しいニュースがありました。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

朝日新聞の植村隆氏が従軍慰安婦問題について提起した記事を、最高裁が「捏造である」と認定したのです。朝日新聞の植村隆氏が捏造した従軍慰安婦問題記事は、当事者である朝鮮人すら知らない驚愕の内容と言えるほどで、朝日新聞の悪質さが際立つ捏造記事だったのです。因みに現時点で、日本軍官憲による奴隷狩りのように強制連行した事を裏付ける一次資料としての公文書は、国内は勿論、朝鮮半島でも一切発見されていません。このように強制連行を裏付ける証拠は、日韓両国で皆無と言える慰安婦問題であるが故に、韓国は、都合の悪い事は隠蔽しつつ、元慰安婦の偽証だけを歴史の証言として、この植村隆氏の捏造記事に反応し便乗しました。結果として国連が性奴隷であったと言い出すまでに国際問題化されてしまったのです。

また植村隆氏の韓国人妻の母親が、韓国では著名な反日左翼活動組織である「太平洋戦争犠牲者遺族会」代表者梁順任さんであると言う点も着目しなければなりません。植村隆氏のそうした繋がりから、慰安婦問題に大きく影響を与えたとされる、元「朝鮮人従軍慰安婦」だと名乗る金学順さんを登場させたのです。因みに金学順さんのルーツは北朝鮮です。金学順さんを、当時の朝日新聞は「初めて慰安婦名乗り出る」と大きく報じたのです。

金学順さんは、貧しさ故に売られて、キーセン(妓生)学校に通っていた過去のある方なのですが、朝日新聞はその部分を意図的に隠蔽したうえで、官憲に強制連行されたように書いて報道を続けました。因みに、「太平洋戦争犠牲者遺族会」の梁順任さんは、元慰安婦など約三万人から一億二千万円騙し取ったとして、後に詐欺罪で逮捕された人でもあります。

今でこそ金学順さんは、ヘリコプターとかジープ、赤い靴などの朝鮮戦争絡みと思われる文言を発したり、自身の発言内容が毎回コロコロ変わると揶揄されるなど正体がバレていますが、当時、金学順さんの証言は驚愕の事実として受け止められ、繰り返しテレビや新聞に登場して、日本糾弾を続けていました。結果として、日本国民の空気として強制連行があったと言う雰囲気が醸成され、河野談話へと繋がります。このように、日韓間の慰安婦問題は、韓国側から問題提起されたのでは無く、日本側の朝日新聞が捏造した記事から始まり、その捏造記事に韓国側が乗ったと言うのが実情なのです。

慰安婦巡り元朝日記者の敗訴確定

【共同通信】令和2年(2020年)11月19日

元朝日新聞記者の植村隆氏(62)が、従軍慰安婦について書いた記事を「捏造」とされ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリスト桜井よしこ氏(75)と出版社3社に謝罪広告の掲載と損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は植村氏の上告を退ける決定をした。18日付。請求を棄却した一、二審判決が確定した。

一、二審判決によると、桜井氏は、韓国の元慰安婦の証言を取り上げた1991年の朝日新聞の記事について「捏造」「意図的な虚偽報道」などとする論文を執筆した。

植村氏は「事実に基づかない中傷で激しいバッシングを受けた」と2015年に提訴した。

「共同通信」から転載させて頂きました

元朝日記者の敗訴が確定 慰安婦報道訴訟

【朝日新聞】令和2年(2020年)11月20日

元慰安婦の証言を伝える記事を「捏造(ねつぞう)」と記述されて名誉を傷つけられたとして、元朝日新聞記者で「週刊金曜日」発行人兼社長の植村隆氏がジャーナリストの櫻井よしこ氏と出版3社に計1650万円の損害賠償などを求めた訴訟で、最高裁第二小法廷(菅野〈かんの〉博之裁判長)は植村氏の上告を退けた。請求を棄却した一、二審判決が確定した。18日付の決定。

植村氏は1991年、韓国人元慰安婦の証言を朝日新聞で2回記事にした。これに対して櫻井氏は2014年、月刊誌「WiLL」「週刊新潮」「週刊ダイヤモンド」で「捏造記事」などと指摘した。18年11月の札幌地裁判決は、韓国紙や論文などから、植村氏の記事が事実と異なると櫻井氏が信じる「相当の理由があった」と請求を退けた。今年2月の札幌高裁判決も一審を追認した。

「朝日新聞」から転載させて頂きました

慰安婦報道訴訟、元朝日記者の敗訴確定 最高裁

【朝日新聞】令和3年(2021年)3月12日

韓国人元慰安婦の証言を書いた1991年の朝日新聞記事を「捏造(ねつぞう)」と記述され名誉を傷つけられたとして、元朝日新聞記者で「週刊金曜日」発行人兼社長・植村隆氏が、西岡力(つとむ)・麗沢大客員教授と「週刊文春」発行元の文芸春秋に賠償などを求めた裁判で、最高裁第一小法廷(小池裕(ひろし)裁判長)は植村氏の上告を退けた。名誉毀損(きそん)の成立を否定した一、二審判決が確定した。11日付の決定。

東京地裁は、日本軍や政府による女子挺身(ていしん)隊の動員と人身売買を混同した同記事を意図的な「捏造」と評した西岡氏らの指摘について、重要な部分は真実だと認定。東京高裁は指摘にも不正確な部分があると認めつつ、真実相当性があるとして結論は支持していた。(阿部峻介)

「朝日新聞」から転載させて頂きました

動画ご紹介

【2015年1月9日】「私は捏造記者じゃない/元朝日新聞記者が慰安婦報道批判めぐり提訴」

サイト管理人コメント:
朝日新聞記者であった植村隆氏ほど、「稀代の国賊」と言う言葉が似合う男はいないでしょう。朝日新聞社は、日本の名誉を傷つける事に異常な執念を燃やす反日日本人の巣窟と言えますが、植村隆氏はその筆頭だと言えます。私達日本人は朝日新聞記者であるこの男の捏造劇に、長い事付き合わされ振り回されたと言うのが実態でした。因みに朝日新聞は、大東亜戦争開戦に向けての戦意高揚を、最も煽った新聞社でもありました。こうした戦前・戦後の朝日新聞社の狡猾な態度を見るにつけ、私達は 朝日新聞社員や記者、そしてすでに退職した記者連中も含めて「恥を知れ」 と言いたいですよね。

この植村隆氏は、当時、韓国人の反日感情に火をつけ煽る為に、戦時中、日本軍官憲が若い朝鮮人女性20万人強制連行して従軍慰安婦にしたと言う捏造記事を、キャンペーンと言えるほどに、これでもかと書き続けたのです。嘘も百編言えば真実になる‥‥。こうして植村隆氏と朝日新聞により捏造された慰安婦問題は、今や国境を超え世界に伝播し拡散されてしまい、国連までもが性奴隷と言う表現を使うようになってしまったのです。

日本国が被ったいわれのない濡れ衣は、お金に換算できないほど甚大であり、何よりも強調したいのは、大東亜戦争を戦った日本軍将兵の尊厳を最底辺に貶め、世界から痛罵せしめられた点であり、更には今もなお日本国の尊厳を大きく毀損し続けていると言う現実です。こうした嘘情報の世界への拡散に対し、朝日新聞社は国際世論への誤謬を正す努力を放棄し、突然無口となって頬被りを続けているのです。

【2018年11月16日】「慰安婦記事訴訟 ジャーナリストの櫻井よしこ氏が会見」

【2021年7月5日】「『慰安婦は強制ではなかった』と結論づけた米国教授へ、韓国が学術的に反論できず、人格攻撃。強制だった証拠は全くない!」

【2021年8月9日】「ラムザイヤー論文の衝撃 「慰安婦」はみな合意契約をしていた【WiLL増刊号#596】」

《書籍ご紹介》
出版年月日順に掲載しています。慰安婦問題における出版日は重要な要素です。

「夜の基地」

神崎 清著 社會書房 昭和28年(1953年)9月初版

「戦後日本の賣春問題」

神崎 清著 社會書房 昭和29年(1954年)2月初版

「水子の譜 引揚孤児と犯された女たちの記録」

上坪 隆著 (株)現代史出版会 昭和54年(1979年)8月初版

「慰安婦と戦場の性」

秦郁彦著 (株)新潮社 平成11年(1999年)6月初版

「戦時演芸慰問団『わらわし隊』の記録」

早坂 隆著 中央公論新社 平成20年(2008年)7月初版

「慰安婦と医療の係わりについて」

天児 郁・麻生徹男著 (株)梓書院 平成22年(2010年)2月初版

「よくわかる慰安婦問題」

西岡 力著 (株)草思社 平成24年(2012年)12月初版

「マッカーサーは慰安婦がお好き」 かの米国総司令官の初仕事は、日本に慰安婦を供出させることだった!

高山正之著 (株)新潮社 平成25年(2013年)8月初版

「歴史戦」 朝日新聞が世界にまいた「慰安婦」の嘘を討つ

産経新聞社著 平成26年(2014年)10月初版

「朝鮮総督府官吏最期の証言」

桜の花出版編集部編 桜の花出版(株) 平成26年(2014年)8月初版

「ひと目でわかる『慰安婦問題』の真実」

水間政憲著 (株)PHP研究所 平成26年(2014年)11月初版

「国連が世界に広めた『慰安婦=性奴隷』の嘘」 ジュネーブ国連派遣団報告

藤岡信勝著 (株)自由社 平成28年(2016年)5月初版

「父の謝罪碑を撤去します」 慰安婦問題の原点 「吉田清治」 長男の独白

大高未貴著 (株)産経新聞出版 平成29年(2017年)6月初版

ジャーナリストで、世界を縦横に取材するなど足腰が軽く、貴重な情報を発信しておられる大高未貴氏の著書です。氏は慰安婦問題にも長く関与し、深く掘り下げた洞察と見解をお持ちです。同書は、吉田清治氏が、私費で韓国の「望郷の丘」に建立した「謝罪碑」の碑名を「慰霊碑」に、そして「吉田清治」を本名である「吉田雄兎」と、書き換える事に成功した長男さんの軌跡を、ノンフィクションで書き記したものです。長男さんは、抱える苦悩の果てに‥‥。「終わらせる」事を最大目標として取り組まれたとの事で、その真摯で熱き思いがヒシヒシと伝わって来ました。また併せて、慰安婦問題における、朝日新聞と朝対委や挺対協、そして北朝鮮と日本の旧社会党が裏で連携しての、洗脳工作活動であったと言うのが分かります。

 

「朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実」

雀 吉城著 (株)ハート出版 平成29年(2017年)11月初版

「スマラン慰安所事件の真実」 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記

岡田慶治著 (株)芙蓉書房出版 平成30年(2018年)4月初版

「決定版・慰安婦の真実」 戦場ジャーナリストが見抜いた中韓の大嘘

マイケル・ヨン著 (株)育鵬社 平成30年(2018年)11月初版

「慰安婦はみな合意契約をしていた」 ラムザイヤー論文の衝撃

有馬哲夫著 ワック(株) 令和3年(2021年)8月初版

「朝鮮総督府官吏最期の証言」

桜の花出版編集部編 桜の花出版(株) 平成26年(2014年)8月初版

ここで「朝鮮総督府官吏最期の証言」と題された、慰安婦問題に関連する著作の中で、最も印象深い書籍を、引用文を交えてご紹介致します。朝日新聞は、「軍が20万人もの若い韓国人女性を拉致した‥‥」と主張しています。そうだと仮定して、正にその若き女性達が陸続と拉致されているその時期に、朝鮮總督府官吏、つまり朝鮮にあって行政事務を司る官吏(かんり)であった方なのです。官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、官公庁や軍などの国家機関に勤務する者を指します。

この本は、朝鮮總督府官吏であった、大正4年(1915年)生まれの西川 清氏へのロングインタビュー形式で綴られています。西川氏は昭和8年(1933年)に朝鮮に渡り、江原道産業部で奉職が始まり、朝鮮總督府江原道属寧越郡で内務課長に昇進するなどして、終戦により本土に帰還するまでの12年間、朝鮮での地方行政官として勤務されました。と言う事で、この本は西川 清氏による、朝鮮總督府内部から俯瞰した証言本と言えるでしょう。

まず特筆したいのは、西川さん自身の真面目な人間性、もしかしたら「超」がつく位の‥‥。ですから、この本には、朝日新聞がお得意の「捏造」など一ミリも無いと言えるかも知れません。正に生真面目さが満ち満ちている本でもあります。「日本人は相手の非を世界中で宣伝することは、みっともないと思っている」、「しかし、これにも限界がきたように思う。これ以上、嘘で日本人の尊厳が世界中で傷けられることには我慢の限界がある」、こうした義憤とも言える強い思いが本を執筆する動機となったようです。

西川さんは断言しています。日本軍官憲が若い朝鮮人女性20万人を強制連行したと言う話について、軍はどこに若い女性が住んでいるかを知り得ず、戸籍を管理している朝鮮總督府の協力なくしては達成出来ない事と前置きした上で、強制連行があったとか無かったとかではなく、それは不可能であると断じているのです。

同著を読み進めますと、朝鮮總督府の官吏目線で見た、慰安婦問題、創氏改名、徴用などの解説は、他の慰安婦問題関連本とまるで違う観点から掘り下げる見解であり、私も同時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えるほど強く引き込まれてしまい、一気に読み進める事が出来ました。慰安婦問題を語る上で、この本を読むのは必須ですし、且つ後世に残すべき貴重な証言であると思えます。

従軍慰安婦問題などは記憶が鮮明なはずの終戦直後には話題にすらならなかった。何故なら当時は実態を知っていた人が日韓で数多くおり、強制連行などが嘘であることがすぐ分かってしまうからである。初代大統領の李承晩や日韓国交正常化時の朴正熙元大統領も問題にしていない。この事実が何より真実を雄弁に語っている。

まず最初に、「朝鮮総督府官吏最期の証言」の冒頭に書かれている、ごく短い文章を転載させて頂きご紹介しました。皆様もこの引用文をお読みになられて、どのような印象をお持ちになったでしょうか。私は従軍慰安婦問題を語るには、論文のような長文の文章にしなければ語り尽くせないものだと認識していました。ですから、この短い一文に書き込まれている含意に衝撃を受けました。そして確信したのです。従軍慰安婦なるものは存在しなかったし、ましてや20万人強制連行が捏造である事を、万語を用いて語る必要はありません。145文字の、この文章だけで決定的に証明できるように思います。

因みに、引用させて頂いた「初代大統領の李承晩や日韓国交正常化時の朴正熙元大統領も問題にしていない。この事実が何より真実を雄弁に語っている」についてですが、これは中華人民共和国共産党独裁政権が主張する南京大虐殺についても、全く同じ事が言えますね。この南京大虐殺についても、中華人民共和国共産党独裁政権側から問題提起されたのでは無く、日本側の朝日新聞記者である本多勝一氏が捏造した記事から始まり、その捏造記事に中華人民共和国共産党独裁政権側が乗ったと言うのが実情なのです。即ち毛沢東は、南京虐殺や南京大虐殺なる言葉を一度たりとも口にしていません。この事実が何より真実を雄弁に語っていると思えます。

更に言わせて下さい。靖国神社についてです。現在、靖国神社には、天皇ご親拝や総理大臣が公人として参拝出来ない状況となっています。非常に残念な事態となっているのが実情ですが、靖国神社参拝が突然、中華人民共和国共産党独裁政権や朝鮮半島の外交カードになった原因も、朝日新聞記者が、昭和60年から東京裁判で罪に問われたA級戦犯が合祀されているのは問題だと記事を書き続け、併せて中華人民共和国共産党独裁政権に注進した事により、それに中華人民共和国共産党独裁政権が乗ったと言うのが実情です。

因みに、朝日新聞記者が問題提起する前は、総理大臣が毎年問題なく靖国神社に参拝していたのです。細かく言えば、過去の15名の総理大臣が計68回ほど靖国神社に参拝していたのです。従前のこれらの靖国神社参拝について、中華人民共和国共産党独裁政権や朝鮮半島二国は、一切抗議の声を上げませんでした。

それでは、ここから「朝鮮総督府官吏最期の証言」の本文を引用をさせて頂きます。一番最後の引用は、西川氏が97歳の時に書かれた、安倍首相宛ての手紙をご紹介致します。「私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります」と言う書き出しで始まり、氏が渾身を込めて書かれたと思われる感極まる手紙となっています。全体として長い引用となっていますが、タイムマシンに飛び乗り、ご自身が朝鮮総督府官吏になったつもりで、じっくりとお読み下さいませ~。(^o^)

創氏改名の実態

(108頁) 創氏改名や徴用などは總督府の正式な行政手続きを踏んだものです。創氏改名は強制ではありません。強制ならば、總督府からの指令があったはずです。これについて、總督府がはっきり言っているのです。

「創氏改名は自由である」と。

むしろ、朝鮮人が日本名を欲しがったという話も聞いたくらいです。道庁の朝鮮人官吏の人でも、創氏改名しない人は沢山いました。はっきりと覚えていませんが、私のまわりでは半数以上といったところでしょうか。「創氏改名しろ」という命令があったのなら、朝鮮人の官吏は、真っ先に改名しなければならなかったでしょう。

總督府の組織の人間である官吏の朝鮮人が、国の言うことを聞かないということはできません。それが名前を変えなかったということは、創氏改名は自由だったということです。

戦後に日本の新聞で、日本人の校長先生が創氏改名を強制したことがあったという記事を読みました。これは本当だったかどうかは分かりませんが、自分の手柄になると思ってやったのかもしれません。しかし、それはごく一部の人が個人として強制したのであって 行政側が行ったことではありません。

道庁にも、創氏改名した朝鮮人も、創氏改名しない朝鮮人もいましたが、何とも思われていませんでした。創氏改名が必要というより、あの当時は同じ日本人なのだから、したかったらしたという感じでした。無理にしろということではありません。

もし、創氏改名が出来なければ差別になります。日本人と同じと言っておきながら、朝鮮人が日本名に変えることはできないとなると、これは一つの矛盾となります。朝鮮人は日本名を名乗る権利があったのです。

 

いわゆる「従軍慰安婦」について

(112頁) こうした總督府の組織、命令系統を理解した上で、いわゆる慰安婦連行について説明します。創氏改名や徴用など總督が行った政策と慰安婦連行など次元の違う話を一緒にしてはいけません。慰安婦連行を行政機関が命令させたということは、絶対にありません、不可能なことです。

朝鮮の売春について、もう少し解説をします。当時の売春宿として、「スルチビ」と、「カルボチビ」というのがありました。こういうものは軍隊が行くところは商売になりますから直ぐに集まってきます。

「スルチビ」というのは居酒屋さんで、朝鮮のマッカリというお酒や、日本酒を売っていて、お酒を飲ませるのが主です。しかし、女の子も一人か二人いて、その子が売春をするということもありました。

それと違って、「カルボチビ」というのは、日本でいうところの、売春を目的とした宿屋といったところです。泊まることもできる、いわゆる売春宿です。こういう場所は、朝鮮の田舎でも、役場があるような大きな村であればどこにでもありました。どちらも朝鮮人が経営していて、私も「スルチビ」にはお酒を飲みに行きました。

ここに居るのは朝鮮人だけで、日本人との遊びとなると料亭となります。こちらは芸者遊びとなり値段が高くなりますから、売春目的となれば「カルボチビ」にいくことになります。

日本でも、東北の干ばつで貧しくなった地方で、若い女性が身売りされたという悲しい出来事があったと思います。東北だけではありませんが、日本にも遊郭など長い歴史があったことです。

朝鮮でも親が子供を売ったということはありました。当時、貧しさから親が自分の子供を本人にそうと知らせず、売ってしまったこともあるでしょう。

また、女衒という身売りを職業としている人がいて、こういう女衒が女性を甘い言葉で騙したこともあったでしょう。

 

女衒(ぜげん)について

(113頁) 女衒というのが今の人には分からないと思いますが、日本にもいた売春婦の世話をして生活していた人達です。親から娘を買って、「スルチビ」、「カルボチビ」に売ったりする人達です。女衒は朝鮮人がやっていました。朝鮮人の娘を集めるわけですから、どこに娘がいて、どこに売るかとなれば、朝鮮人でなければ出来ません。日本人がいきなり行って、言葉も土地もよく知らぬままではできないのです。

「スルチビ」や、「カルボチビ」といった所に売られた女性が、女衒によって南の地方や満州に連れていかれたということはあったと思います。しかし、それは朝鮮人の民間人がやったことです。

朝鮮軍司令部は、女性がどこにいるのかなど分かりませんから、もしも、集めようなどということがあったら、徴用のように道→郡、郡→面へと集めてほしいという依頼があったはずですが、そんなことはありませんでした。

もしもそんなことを公的機関がしていたら、絶対に文書で残っているはずです。日本の組織は文書で命令が下りてくるのです。そんなもには、見たことも聞いたこともありません。もし、個人が無理にやったら巡査も憲兵もいるのですから、捕まります。道の役所や警察にも朝鮮人がたくさんいるし、知事や私の上司の多くは朝鮮人でした。

憲兵は軍人を取り締まり、巡査は一般の人を取り締まります。憲兵が一般の人に、「何をしているんだ」ということはありません。なぜなら、管轄が違うのです。日常の日本と基本的に変わらない、特別なことはないのです。

 

内務課長として断言する

(114頁) 私が郡の内務課長をやっていたから、有り得ないと分かるのです。もし、道庁の一部の事務しかしていなかったら、売春婦を強制連行したとかしなかったとか分かりません。

しかし、私が郡の内務課長をしていたから、日本の官吏(朝鮮人官吏も合わせて)が、売春婦を集めて、軍に送ったとか、強制的に連行していったということは「ない」と、自信をもって言えるのです。内務課長をしていなかったら、そんな全体的なことは分かりません。

ただ、単に、禿山の監督をしていたというのなら分かりませんけど、内務課長として一般の行政をしていたから、日本が売春婦を強制的に連れて行ったということはないと、自信をもって言えるのです。

行政組織というのは、今でもそうですが融通が利かない縦社会です。徴用では郡で十人集めることにも總督府は苦労し、私は地域の実力者である三長官に協力をお願いしたほどです。

そして、軍隊が、そういうことをしていなかったということも分かります。統制の取れた戦前の厳しい組織で、戦場ではない日常の朝鮮で、しかも官吏や警察に多くの朝鮮人がいる中で、勝手に連れて行こうと思っても不可能なのです。

だから、朝鮮において、終戦までに、慰安婦を強制的に軍や官が拉致したとか、連れて行ったということは有り得ませんと私は自信をもって言えます。大体、「従軍慰安婦」という言葉を当時は聞いたことも見たこともありません。

 

日本は立派な統治をした

(162頁) 私が朝鮮總督府地方官吏の内務課長をしていなかったら、いわゆる「従軍慰安婦」について語ることは出来ませんでした。現在、私のように施設側で働き、断言できる者はいないのではないかと思います。同じく朝鮮から引揚げしてきた方でも、民間にいた人では国や軍の関与までは分からないと思います。

十二年間朝鮮で働いていて今思うことは、朝鮮統治に関して日本としては模範的な立派な統治をしたと思います。誰かに後ろ指を差されるところはどこにもないと思っています。

殖産、工業、教育、衛生、日本人は「朝鮮人と共に」全力を挙げて、朝鮮の為に力を注ぎました。そして、日本人は差別なく取り組みました。差別を無くすことは總督府の大方針でした。アメリカにおけるように、黒人を差別するようなことはなかったのです。こんな立派な施政をした国はないと思います。

しかし、台湾の人には、その施政の影響が現代にも生きていますが、朝鮮はどうして反日一色になったのかと思います。竹島の東側に李承晩(初代大統領)が国境を引いてから、ものすごく悪く変わってしまいました。

戦後は、李承晩と金日成(北朝鮮建国者)が反日というテーマで国をまとめたと思います。そして、自分達への批判から目をそらす為に、「日本憎し」としました。それに、特に朝日新聞を代表とした日本のジャーナリズムが向こうの肩を持ってばかりになった為に、現在があるのです。

いわゆる慰安婦問題というのが盛んになってきたのは、朝日新聞の記者が嘘を書いてからだと思います。朝日新聞は戦前と戦後ではまったく変わってしまいました。戦前の朝日新聞は国の為にむしろ良かったくらいです。朝鮮に慰安婦問題なんて始めからないのです。だから、日本人も朝鮮人も戦後はこんな話をしませんでした。

もし、今のように従軍慰安婦なんて言い出しても、日韓両国に実態を知る人が多くいるので、その時はそれが嘘だと直ぐに分かります。私と同じ朝鮮にいた韓国側の人も分かっていたはずのことです。そもそも「従軍慰安婦」という言葉などなかったのです。

「従軍」というのは、ある意味で聞こえの良い言葉です。「従軍」というのは、「従軍記者」や、「従軍カメラマン」、「従軍看護婦」であって、従軍慰安婦なんて言葉は本当に当時にありませんでした。

南方の戦地に、日本軍が売春婦を連れて行ったのか私は知りません。しかし、それは軍が朝鮮人の女衒に売春婦の数が足りないと言って、女衒が女性を集めたものではないかと思います。軍が拉致して直接連れて行くというのはなかったと思います。

今の朴槿恵大統領のお父様である、朴正熙元大統領は親日的だったのに、今はまるっきり反対になってしまいました。反日的外交政策が、今の韓国世論に受けるのでしょうし、特に韓国のマスコミに対して言っているのでしょう。しかし、私が知っている一般の韓国人の日本人に対する心情は違いました。皆、良い思い出しか残っていません。

日本が朝鮮や台湾で統治した実績は、世界でも珍しい事例だと思います。皆、(植民地にした国から)搾取して、そこの住民は苦しんだというのに、日本は、朝鮮でも、台湾でも、同じ日本人だとしました。一緒に懸命になって幸せになろうと努力しました。日本が搾取しようとしたわけではないのです。こんな事例は、世界で日本以外にありますかと問いたいです。

私は朝鮮總督を一度しか見たことがありません。今でいう首相以上の存在です。私は歴代の總督が、悪政を強いたなどという話を聞いたことがありません。台湾と同じように朝鮮で行った日本統治を、どうして理解できないのかと思います。

 

日本は独立国ではない

(168頁) 戦前に私の郷里にも支那人が来ていて、チャンコロと言われて差別されていたことを覚えています。これは日清戦争の後のことですから、仕方ないことです。
でも、朝鮮人のことは皆が、
「朝鮮さん」
と呼んでいました。大阪は朝鮮人は多かったのですが、和歌山ではそれほど多くはありませんでした。何かのことで郷里にも朝鮮人が来ることがありましたが、悪く言っていたわけじゃありません。
日本と朝鮮は戦争をしたことがないからです。

私が言いたいことは、いわゆる従軍慰安婦なんてものは、無かったということです。これは戦後に作られた机上の空論です。

それから、日本の政治家を見ていると、腹が立つことばかりです。今の日本の男は性根が抜かされているのが、情けなくて仕方ありません。

今と同じように昔も日本人といっても色々な人がいたと思いますが、朝鮮の為を思って生きた日本の先人を愚弄することはやめて頂きたいと思います。

日本の政治家は、特にしっかりしてほしいのです。謝る必要のないことまで謝ってばかりで、もっと強く出ればいいのにと思います。

日本国憲法は、全部改正してほしいです。九条がどうだの、前文がどうだの、そんな細かいことは言わず、全部作り直してほしいです。この憲法があるがために、日本人は魂が抜かれたような人間になったと思います。

私はアメリカの大統領にこう言ったらいいと思います。

「日本人は、隣の人の悪口をよそに行って言いふらすのを大変嫌います。しかし、韓国の大統領は日本の悪口ばかり他国で言って、日本人の誰も良い気持ちはしません。そんな国に、どうやって仲良くしろと言うのですか。アメリカ人は自分の国が隣国にこんなに叩かれても仲良くしますか」と。

慰安婦がどうのこうのと言うのなら、
「アメリカの兵士だって、日本で強姦もしているではないですか。いくらでも例を挙げます、証拠も見せます。日本では、軍規が厳しくて、それほど現地の兵隊さんでも、悪い事をしておりません。アメリカ、韓国だって、ベトナムで大概悪いことをしているじゃないですか」と。

「日本はそんなことを外交の場では言いません。しかし、もし今アメリカが日本からそんなこと言われたら、腹が立ちませんか」と堂々と言ったら良いのです。

向こうが、どう言うだろうか、こう言うだろうかと、機嫌ばっかり取って情けないと私は思います。

現憲法はアメリカの占領下で作られた為に、今の日本は何も発言できなくなっています。同じ敗戦国のドイツだって、もう十回以上憲法改正をしています。占領軍の作った憲法の下で、暮らさなければならないなんて、本当の独立国とはとても言えないと思います。

アメリカとは、本当の意味での同盟を結ぶ必要があります。上下関係があるままでは、本当の同盟ではありません。日本が強く出られないというのは、現憲法のためだと思うので、まずは憲法改正をしてもらいたいものです。

あまりに事実と違うことが流布しているので、何度も何度も繰り返しますが、“従軍慰安婦”なんていうものは、最初から有り得ませんし、終戦後でも話題にすらならなかったことを知っておいて下さい。

 

事大主義

(172頁) 朝鮮の学校では日本と同じく、「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」という大方針がありました。私の小学校時代は、
「強く御民(みたみ)となるべし」
と言われたのに、今の日教組の人達は、「優しい人になれ」とばかり言っています。強くなれと言ったら右翼、軍国主義と叩かれるでしょう。これはおかしいと思います。強い人は優しくなれるが、弱い人は優しくなれないことを彼らは理解していません。

朝鮮の人、個人個人は、とても良い人です。官吏養成所で、一緒に学んで文系的なことについては本当に頭が良いと思いました。朝鮮の人は、喜怒哀楽の表現が大きいのですが、国民の気質としては、事大主義を改めたら良いと思います。

しかし、事大主義とは、自分の信念を持たず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする考え方です。やはり改めるべきです。

 

日韓の友好 第二の故郷

(173頁) 今の大統領なんか、日本と戦争した以上の悪感情を持っています。やってもないことを皆、あげつらっています。反日教育を小さい頃から叩き込まれた今の韓国の若い者は、「ああ、日本人は自分の国に来て悪いことばかりしていた」
と、頭にきているのでしょう。
これは日本にとっても、韓国にとっても良いこととは思えません。

朝鮮は、私にとって第二の故郷です。
今でも「アリラン」という有名な歌を唄うことができます。
今後、同じアジア人として日本と朝鮮が、一緒に手をつないで頑張っていけたらいいなと思います。昔のように、台湾や朝鮮と日本が頑張っていくことが出来たらと思います。かつてそれが可能だったことを、私は体験者の一人として、ここにその願いを残して置きます。

最後に、私は安倍総理に平成二十五年二月、手紙を書きましたので皆様にもお読み頂ければ幸いです。

 

 

【安倍首相への手紙】

拝啓 安部内閣総理大臣殿

和歌山県田辺市 西川 清(97歳) 

日夜国事に精励されている総理大臣に対し、
名もなき一介の老耄がお手紙を差し上げるご無礼をお許し下さい。

私は生きているうちにこれだけは申しおきたいと思う一事があります。
それは、いわゆる従軍慰安婦なるものについてであります。

結論から申せば、朝鮮(北朝鮮及び韓国)等の言う従軍慰安婦なるものに、日本の軍や官吏が強制連行など関係したことは絶対ありません。
かく私が断言することができるのは、私が朝鮮・紅原道の寧越郡及び原州郡の内務課長を歴任した経験があるからです。
以下、状況等について申し述べます。

私は昭和八年に朝鮮に渡り、紅原道庁に奉職致し、
敗戦により引き揚げてくるまで勤め、
その間一年間臨時招集により入隊しました。

朝鮮の行政は、總督府から県庁に伝わり、県庁から出先機関の郡庁に伝わり、
郡庁より府(ふ)・邑(ゆう)・面(めん 日本の市町村)を通じて施行されました。
(当時、紅原道内には府はなく、邑と面のみ)。
郡長は郡守といって、殆どが朝鮮人で、その下に内務課、勧業課があり、
内務課長は殆ど日本人で、経験豊かな四十歳を越す属官で、
人事その他一般事務を司り、郡庁の実権を握っていました。

内務課長の所管事務のなかに、邑と面の指導監督や兵事等もありましたが、
朝鮮人に徴兵の義務はありませんので、
兵事は主に在郷軍人に関するものぐらいでした。

朝鮮人男子青年には徴用があり、
總督府より道に対し人数の割り当てがあり、道はこれを郡庁に、
郡庁はこれを邑、面に対して割り当てをしました。

女子に対してはこのようなことは一切なく、軍が慰安婦を集めんとすれば、
朝鮮軍司令部が總督府に依頼して、
前述の系統をたどり集めるしかありませんが、
このようなことは一切ありませんでした。

売春婦が強制連行されたの拉致されたのというのは、
女衒その類いの仕業であって、
軍や官は一切あずかり知らぬことであります。

日本婦人でも売春婦として軍の居る所に多くいましたが、
一人として従軍慰安婦などという者が居たでしょうか。
日本人と違って、恥を恥とも思わず、金さえ儲かれば良いと思う輩が、
敗戦により日本人が萎縮しているのにつけこんで、
あらぬ噂を申し立ててくるなんて腹立たしい限りです。

今はもう、總督府の事務官はじめ、道や郡の行政府にも軍にも
当時の実情を知る者は殆ど亡くなられたものと思われます。
然るに、今を生きる日本人のなかにも、自虐性に富む輩のうちに、
従軍慰安婦なるものに軍や官が関与したなどと申す者がありますが、
朝鮮売春婦の故郷とも申すべきスルチビ(居酒屋)、
カルボチビ(娼家)の戦前戦中の実態も知らぬくせに、
いいかげんに机上の空論をもてあそぶのは誠に慨嘆に耐えません。

国威を失墜し子孫に負の遺産となる河野談話の見直しは、
安倍総理を除いては望むべくもありません。
ぜひぜひ誇りある日本の為に、
この際断固たる訂正を心からお願いし奉る次第であります。
最後になりましたが、邦家の為にも総理のご健康をお祈り致します。

敬具 

平成二十五年二月二十一日

「朝鮮総督府官吏最期の証言」から転載させて頂きました

調査・遺骨収集作業開始です

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.156

今朝の時点での天気予報は「曇りのち晴れ」で、天気は問題ありません。気分も右肩上がりで有り難いです。本日は右からNPO法人沖縄鍾乳洞協会会長である山内さん、福岡さん、松永さん、そして三浦さんです。今日は山内さんのご協力で、昨日発見した縦穴壕から下に降りる事になりました。楽しみです。それでは今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.157

NPO法人沖縄鍾乳洞協会会長である山内さんが、私達がお願いした翌日から動いて下さいました。ありがとうございます。感謝感謝です。山内さんのお蔭で、発見した翌日には縦穴部から全員降りられるという夢のような流れとなりました。写真は縦穴部から降りられるように準備を進める山内さんです。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.158

ワイヤーラダー設置を進める山内さんを見守る松永さんの後ろ姿が見えます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.159

壕の外でもロープ展開の準備を始めました。私達が出来る事はなるたけ作業をして、速やかに降りられるように準備します。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.160

山内さんが確保ロープを準備しています。ラダーテクニックで最も重要なのは、ライフラインと言えるビレイロープを用いた滑落防止の確保テクニックです。今回降りる事となった縦穴壕では、ワイヤーラダー設置だけでは滑落の危険性が常に付きまといますが、ビレイロープを用いれば、万が一ワイヤーラダーから足を踏み外しても、滑落する事は防げますからね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.161

ワイヤーラダーを降ろし、最終の安全点検をしている山内さんです。縦穴壕の最初の1mぐらいは、ご覧のようにワイヤーラダー等、手が掛けられれば、足場があるので降りられる事が判明しました。山内さんの足下からは暗黒の空間が広がっています。因みに山内さんの場所からも、壕底は見えないそうです。ただ昨日ここから石を落としてみましたが、壕底に石が落ちるまでの時間から推測して、深くて十数メートルではないかと思われます。設置したワイヤーラダーの長さは10mです。これで壕底に到達出来るかどうかは運次第ですね~。(^^;)

山内さんが立って足を乗せている場所から私が撮影している場所まで1.5mぐらいでしょうか。この斜面の岩については、登降するメンバー全員が足を乗せたり手を掛けたりと強い力が掛かる場所なので、浮き石は勿論、強い力が掛かった場合外れそうな感じであったら、必要に応じてあらかじめ外して下に落としておくのが安全です。作業員が登降中に落石したら大きな事故に繋がりかねません。これは先頭で降りる人だけではなく、各自が登降の途中で浮き石等見つけた場合は、メンバーに声を掛けて外して落とすようにするのがベターです。また範囲が狭小な面積の場合は、乾いた土なども併せて岩場から落としておくのが無難です。登降中に土が下に落ちて、下に居るメンバーの目に入ってしまうかも知れません。いずれにしても、懸垂下降の場合は、徹底的に落石を防ぐと言う視点を持つことが大切です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.162

ビレイロープと私達自身の体とを繋ぐ為に、各自2m弱のロープを腰に縛り付けようとしているところです。山内さんがその手順を説明して下さっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.163

福岡さんが同じように真似て腰にロープを縛り付けています。

壕底に降り立ちました

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.164

撮影者である私が一番最初に降りました。以降ワイヤーラダーを動かないように固定してメンバーが降りるのをサポートした為に、皆さんが降りる所を撮影できませんでした。ですからメンバー全員が無事に壕底に降りた所から撮影は再スタートです。夕方の帰る時には私が最後に登りますので、メンバーが登る姿を撮影出来るかも知れません。

ワイヤーラダーを降りるに際しては、私も結構緊張しました。正直に吐露します。ですが不安はありませんでした。ビレイロープに繋がれているから滑落は無いという安心感からでしょうか。一方でとてもエキサイティングな体験となりました。若者である程に、このような体験は興奮が高まる事でしょう。私もこれまで急斜面や急勾配での、ワイヤーラダーや縄ばしご展開による上り下りは何度もした事がありますが、フラスコ状の、それも中ぶらりん状態での降下は、私も含めて皆さん初めてのようで、同じように凄く緊張したと話していました。まずは兎にも角にも無事に降りられて安堵しました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.165

壕は長細い形をしています。ワイヤーラダーで降りた場所から東側、写真に写されている場所が、将兵が居たであろう空間です。結構広いですよね。ご覧のように、壕内は落石落盤、そして土砂の戦後の堆積なども少なそうで、沖縄戦当時の床面が多くの場で露出していると推測されます。それでは露出している遺留品を観察してみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.166

これから壕内を撮影していきます。しばしお付き合い下さい。まずは目の前に空き缶がありました。ご覧のように缶は開けられていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.167

ここはぱっと見で革の遺品が多いです。また錆びた鉄の部品もあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.168

革の遺品やかすがいも見えますね。腐植が進んだ木材も見えます。元々は板だったのでしょうかね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.169

右側に軍靴があります。左側には長さ30cmぐらいの大きなカスガイがあります。構築壕で木材同士を固定するカスガイは、これ程大きくは無いので、もしかしたらこの縦穴壕にハシゴなどを掛ける際に木材同士をこの大きなカスガイを用いたのかも知れません。あくまで推測ですが‥‥。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.170

砲弾ですね。対戦車砲弾と言ったところでしょうか?ただ迫撃砲のような筒による発射は、大きさからして無理があるような‥‥。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.171

革の遺品ですね。木材も少しあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.172

軍靴や革の遺品が散乱しています。飴色っぽい遺品があったので、ご遺骨かなと喜びそうになりましたが違いました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.173

軍靴の一部です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.174

瓶と革の遺品です。瓶は一升瓶ではなく、ビール瓶と同じぐらいの310ml程の小瓶サイズです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.175

下側に見える物は革の遺品です。写真上側に見えるのは、金属板に木材が一体化して固着されている様に見えます。この金属板は鉄板のようにボロボロに腐食していないので銅板かも知れません。木材で四角い形を作り、表面を金属的な板として銅板を貼り付けた‥‥。というのが考えられます。が、その用途は如何に‥‥。この壕内に同様な物が驚くほど沢山ありました。何であるか突き止めたいですね~。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.176

軍靴の一部と革の遺品ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.177

カスガイと金属的な遺品です。そして木材、元は板でしょうか。多くありますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.178

これも革の遺品ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.179

壕底から私達が使用したワイヤーラダーを撮影しました。ご覧のようにワイヤーラダーは宙ぶらりん状態ですからフラフラ揺れるんですよね~。初めての体験でしたから正直怖かったです。(^^;)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.180

三浦さんが写っています。三浦さんが居る場所は、ワイヤーラダーで降りた場所から見ると西側の空間に居ます。ご覧のように高さはありますが、幅は人が一人通れるぐらいの狭さですね。壕底に降りての様子ですが、ワイヤーラダーを基準として、壕底は東側の広い空間が半分、西側の半分は三浦さんが居る場所と同じように坑道のようになっています。それでは三浦さん居られる場所、坑道部分の遺品を撮影してみます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.181

軍靴の一部です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.182

まずは擲弾筒弾らしき弾丸が三発が見えますね。それと空き缶です。缶を開けたように見えます。次の写真でアップして見ましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.183

左側にある擲弾筒弾らしき弾丸のアップ写真です。木材もあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.184

右側の空き缶と擲弾筒弾らしき弾丸二発のアップ写真です。擲弾筒弾らしき弾丸は二つに分かれていますので、発射前の砲弾と思われます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.185

左隅に擲弾筒弾らしき弾丸があり、他は革の遺品です。革製品が多いですね。次の写真でアップして見ましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.186

擲弾筒弾らしき弾丸一発と、革の遺品のアップ写真です。木材もありますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.187

続いて擲弾筒弾らしき弾丸のアップ写真です。擲弾筒弾らしき弾丸が沢山ありますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.188

ここにも革や鉄の遺品が多くあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.189

ここにも擲弾筒弾らしき弾丸がありますね。また木材や革製品があります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.190

西側坑道の最奥部です。ご覧のように落盤して塞がれたような雰囲気ですよね。沖縄戦当時からこうした状況なのか、沖縄戦による激しい空爆で、出入り口があったのに落盤して塞がれたのか‥‥。何とも言いようがありません。しかしながら、ここが落盤していなくて、この坑道の先に壕の出入り口があったとすれば、この壕の出入りは非常に楽であったと推測されます。逆にここが壕口で無かったとすると、縦穴部にハシゴを設けて出入りしていたと推測されます。この壕内には通常の構築壕では見られない大きなカスガイが沢山露出して散在しています。そのカスガイの異常なくらいの多さに、私達は一応壕の出入りには木材でハシゴを作り、上り下りしていたと推測しています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.191

福岡さんが瓶を見せてくれました。内容物があるとの事で、よく見ますと沖縄戦当時のままの物質が中に入っているように見えます。蓋はしっかりしているので、中身は沖縄戦当時の物でしょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.192

割れたビール瓶が見えます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.193

こちらは軍靴の一部です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.194

これも革の遺品です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.195

軍靴ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.196

革や鉄の遺品がみえます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.197

空き缶ですね。その他鉄の部品も見えます。

これも革の遺品ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.198

坑道とも呼べそうな狭い通路部分を調べる福岡さんです。数多くの擲弾筒弾らしき弾丸は、福岡さんが居られる狭い通路のみに存在し、且つ向かって右側の壁際にのみある状況です。すでにご紹介したように、福岡さんが居られる数メートル奥は落盤したような雰囲気で行き止まりになっています。もしもの仮定ですが、福岡さんの居られる先が本当の壕出入り口であったとすると、坑道部分に攻撃用の擲弾筒弾らしき弾丸が山と積まれていた‥‥。と言うのは理にかなっていますね。私が仮に指揮官であれば、間違いなくそうするはずです。いずれにしても、将兵が出入りした壕口が何処だったのか‥‥。是非とも解明したいですね。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.199

この壕内は全くの暗黒の世界ですが、生物が居ましたね~。コオロギでは無いでしょうが、似ていますよね。ネットで検索するとマダラカマドウマの可能性があるように感じます。ご存じの方はメールで教えて下さいませ~。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.200

擲弾筒弾らしき弾丸の寸法です。二つが合体した状態だと、恐らく15cmぐらいでしょうかね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.201

ただ一つある大きな砲弾の寸法を計測しています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.202

二個目の瓶が見つかりました。右側の瓶ですが、少し黄色がかって見えますが、もしかしたら中身の物質の色かも知れませんね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.203

壕内では少なくとも二カ所でご覧の様な壁面が煤で黒くなった場所がありました。煮炊きした場所と推測されます。地面の岩を除けると、燃えかすや灰と思われる堆積物がありました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.204

ワイングラス? 戦場で見るのは初めてです。ステムとボウルのバランスが無いように見えますし、ボウル部分も見た目少し小さめですよね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.205

光学機器の部品でしょうか?

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.206

ここにも革の遺品あります。この壕は革製の遺品が本当に多いです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.207

軍靴ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.208

これは恐らく散髪用のバリカンでしょう。とても珍しいです。私は初めて見ました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.209

蓄電池の内部部品がありました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.210

これもカスガイです。結構大きいです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.211

ここにも大きなカスガイがありました。それと革製の遺品ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.212

福岡さんが山内さんに遺品の状況を説明しています。ここは壕の東側の広い空間のある側です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.213

この写真も東側の広い空間での撮影です。一番奥に松永さん、その手前に山内さんが居られます。壕内での調査収集作業を何時するか、どのようにするか‥‥。などの話し合いをしています。この縦穴部の昇降は、山内さんのお力添えが無いと出来ません。私達だけで実施するのは、あまりに危険でありリスクを伴います。山内さんが協力出来ないという事ですと、この壕内での作業は不可能になってしまいます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.214

壕内の状況も把握出来たので、本日の調査作業は終了です。山内さんが登攀の準備をしています。まずは山内さんが登っていきます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.215

登攀準備完了。山内さんが登っていきます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.216

山内さんがグングンと登っていきました。慣れているのでしょうか驚くほどの速さでした。腰周りにはハーネスを装着しているのが見えますね。またワイヤーラダーの他にロープが一本見えます。これはビレイロープと呼ばれ、最初に登って行く人は、アッセンダーという、ロープに装着した時に一方向しか動かない機器を用いて、セルフビレイ(自己確保)で登って行きます。二番目以降登る人は、私達が装着している腰ロープに、ビレイロープをカラビナで接続する事により、上で山内さんがビレイロープを操作して、私達が登るスピードに合わせて順次巻き上げて下さるので、滑落のリスクもなく安全に登る事が可能となっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.217

壕底から全員無事に帰還しました。引き続き使用する資機材は、雨の当たらない壕の岩陰に置いておきます。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.218

夕刻まで少し時間があったので、昨日から調査・収骨作業を続けました。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.219

本日の調査・収骨作業も無事終了しました。現時点での収容されたご遺骨や遺品の様子です。動物の骨も入っています。

PAGE TOP