令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月19日(火) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天候は晴れ時々曇りで、最高気温19度、降水確率は10%、10%です。雨の心配は不要で安心して取り組めそうです。本日朝の慰霊巡拝は、「南冥の塔」「金井戸」「沖縄師範健児之塔」「第三十二軍司令部壕」「勇魂の碑」「高摩文仁グスク」「黎明之塔」「独立高射砲27大隊本部壕」を訪ねました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.1

摩文仁集落のとあるお宅の生け垣を撮影しています。ブロック塀の上に生け垣として屋根を造形しているのが見えますよね。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.2

お宅の玄関がある側に移動して撮影しました。しっかり屋根のような刈り込みが為されているのが見えます。生け垣の樹種はガジュマルだそうです。ブロック塀の上だけでなく、ご覧のように塀の内側のお庭も見事に盆栽仕立てになっているのが解ります。以前塀の外で撮影していましたら、中から家のご主人が出てきて、「よろしければ中も見ていきませんか」と、優しく声を掛けて下さいましたので、お言葉に甘えて中も見せて頂きました。その時に撮影した写真がありますので、ご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.36

【平成30年(2018年)1月27日撮影】
摩文仁集落にある、とあるお宅のブロック塀の上に展開する生け垣を写しています。敷地内の刈り込まれた植栽も見事です。ブロック塀に沿うこの生け垣は屋根の形を模しているのですね。実に整然と剪定されています。どうしたらこんな直線を維持できるのでしょうか…。素晴らしいの一言ですね。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.37

塀の中に招き入れてくださり、お相手をして下さったのは、60歳前後と思われる家のご主人でしたが、庭の植栽を手入れされているのは、その方のお父さんのようです。敷地内でまず最初に案内されたのがこの写真に写されている扇形に剪定された植栽です。玄関横の目立つ場所に植えられています。木はガジュマルです。この扇形を維持するのは本当に手間が掛かるし、第一難しいらしいですよ。ですからお祖父さんにとっては、この扇は一番の自慢のようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.38

10年とか20年とかのスパンで、じっくり育てる必要があるのでしょうね。この扇形の植栽の前での立ち話が一番長かったですから、最も熱を入れて取り組んでいる作品なのでしょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.39

お庭の様子です。見事ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.40

庭はL形になっていて、奥の方一帯を写しています。剪定シーズンともなると、お父さんは庭に張り付くように連日取り組まれるそうです。勿論脚立も使った危険な作業だそうですが、道楽として楽しんでやっているという話です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.41

中央付近を写しています。いや~、有り難うございました。

令和3年(2021年)1月20日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」の参拝をする場合は、写真奥の駐車場を利用させて頂く事となるのですが、今年初めてご覧のような立ち入り禁止のマークが掲示されていました。心配になってお住まいの方に確認しましたら、慰霊塔の参拝はオッケーだそうですよ。長時間駐車を排除するために立ち入り禁止のマークを設置したとの事です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ここが参道入り口ですね。この先に「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」、そしてここから「黎明之塔」にも行けますし、摩文仁海岸に出る事も出来ますよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.5

少し進むと道の両側は石垣となっているのが見えますね。沖縄戦当時は、摩文仁山稜がこの辺りまで続いていて、高くはないですが、それなりの小山が続いていたのでした。米軍はこの先海岸まで続く岩場に隠れている将兵や避難民を殺害しよとしました。それにはこの部分の小山を削り、戦車が行き来出来るようにする必要があると判断したようです。そうなんです。ここは山を削り、戦車が通れるようにした「戦車道」なのです。

話は変わりまして、多分皆さんは信じられないと思いますが‥‥。昔は、この「沖縄師範健児之塔」や「南冥の塔」に至る、この目の前の参道右側に、同塔参拝に訪れた方々にお土産品やドリンク類を販売するお店が、数珠つなぎのように並んでいいたのです。記憶では十軒以上並んでいました。各お店には、おばさんが一人ずつ居られました。沖縄戦でご主人を亡くされた方が多いと聞き及んでいます。

お店の面積は一畳ぐらいで屋根は無くテーブルだけの、白布や布地で装飾された平らな台にお土産品やドリンク類が所狭しと並べられていました。私も当時暑かったので、ドリンクを購入した記憶があります。昔は慰霊塔への参拝客が想像以上に多かった事を表す事例だと思います。勿論、先ほど駐車した広場に立つ建物には、お土産屋さんが少なくとも三軒は賑やかに営業をしていました。こうして当時を思い起こすと、今とは隔世の感がありますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「沖縄師範健児之塔」に向かう参道に写真の緋寒桜がありました。近年は全く元気がありません。これまで三十年ぐらいこの緋寒桜を見守り続けてきましたが、可哀想に近年は元気がありません。かつて勢いよく咲き誇った樹勢と比較して何十分の一程度に花数が減っています。樹勢が衰えた原因として考えられるのが、平成24年(2012年)に巨大台風が二度襲来しました。この場所は遮蔽物がなく、海から塩分を含んだ強烈な風が吹き付け、枝葉が塩を浴びて深刻なダメージを受けたと考えられます。いずれにしても現在は、本葉がちらほらと見えるだけです。新葉の成長点も見えません。枯れないように祈るばかりです。次の写真で元気だった頃の様子をご覧下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子21

【平成23年(2011年)1月29日撮影】
ヒカンザクラ(緋寒桜)です。別名をカンヒザクラ(寒緋桜)とも言いますね。順序が逆になっただけですけど。ご覧のようにソメイヨシノ等と比較してみると、花が開ききらず、俯き気味に咲くのが特徴です。花弁や、ガク(萼)も緋色をしていますね。東京の靖國神社にも大木がありますし、その他上野公園にもありますし、東京にもあちこち植えられていますね。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.7

道路を挟んでトイレの向かいには「クワデーサー」(モモタマナ)の木が植えられています。毎年グングンと大きく育っています。潮風が強烈に当たる場所であり、緋寒桜が元気がないのと対照的に、こちらはすこぶる元気です。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.8

「クワデーサー」の果実の種ですね。よく見かける種でもあります。椰ヤシガニはこの種をどうやって割るのか‥‥。機会があれば知りたいですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.9

トイレの近くにある「南冥の塔」の案内板がありました。これは容易に発見出来ると思います。それでは案内石碑の矢印の方向に進んでみましょう。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「南冥の塔」の案内石碑の右側にある樹木です。ご覧下さいませ。一種類の樹木かと思いきや、よく見ると元々あった樹木にガジュマルの木が絡んでいるというのが実相の様です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.11

そうなんです。ガジュマルの木は別名「締め殺しの木」とも言われています。写真をご覧になってどうでしょうか?。ガジュマルの木が着生した樹木、つまり元々の樹木を強く締め付けているのが見えますね。

「沖縄師範健児之塔」参道前駐車場の一角にあった木も、ガジュマルの木が絞め殺してしまった結果、所有者がガジュマルも切り倒してしまいました。この写真に写されている元々の樹木も何年か先には、可哀想に同じ運命を辿る可能性が高いですね。これはしっかりと追跡調査を続けましょう。(^^;)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.12

キチンと整備された歩道がありますので、夏などでもハブ等の出没を気にすることなく参拝できると思います。写真奥に「南冥の塔」があります。

突然ですが皆様、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。金光教那覇教会の林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた昭和50年(1975年)の頃は、この道は一切無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。私達が車を止めた大きな駐車場横にあるお土産屋さんを経営されていた、前門キヌさんという方に案内されて初めて林先生は「南冥の塔」の存在を知ったそうです。その頃の前門キヌさんは「南冥の塔」の墓守をしていたのです。人との縁が繋がって道が開けるという良い事例ですよね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.13

直進すると白い掲示板が見えてきます。掲示板の右側に「南冥の塔」があります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.14

左側の巨岩が「南冥之塔」の背後にある巨岩で、奥まった所にある岩場もまた巨大ですが、山上に登る事が可能です。同岩の北側は緩斜面となっているからです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.15

遊歩道の右側にはご覧のような巨大な岩が鎮座しています。巨岩が連なっているこの付近一帯を、地元ではボージャーシーと呼ぶ様です。これら巨岩は「黎明之塔」のある89高地からよく見えますので、良い目印にもなっていますね。

因みに、この巨岩の裾には、国吉さんが発見した約7000年前の遺跡とされる「摩文仁ハンタ原遺跡」があり、遺骨収集などは出来ない状況となっています。国吉さんから説明を受けた過去の写真をご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子2

【平成22年(2010年)2月19日撮影】
ご覧のように巨岩の下は、雨が直接降らないので草木が生えていません。ここは金光教でも遺骨収集で何度も土を掘り返した場所です。今でも細かい御遺骨は探せば出てきます。岩にはよく見ると化石がたくさん含まれていまして、それを見る事が出来ます。岩壁の所に小さな白い看板が見えますが、下の写真のような文章が書いてあります。

遺骨収集の様子3

国吉さんにより発見された、この約7000年前とされる遺跡は「摩文仁ハンタ原遺跡」と命名されたようです。国吉さんは、ここ以外にも何カ所か、古代遺跡や古代人の人骨、その他化石などを発見していると語っていました。

遺骨収集の様子4

「岩には化石がたくさん含まれている」と聞いた上で、よく岩を観察すると、確かにたくさん化石がある事がよく見えますね~。写真では解りにくいですが、たくさん化石が写されていますよ。

遺骨収集の様子5

古代人の骨が発見された場所です。後日実施される調査の前に、第三者により遺跡を破壊されないように、土嚢が盛られていますね。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.16

ここは特にそうですね。緩やかな緩斜面ながら地面そのもの全体的に平坦です。ハンタ原と呼べそうな場所がこの辺り一面に広がっているのが解ります。

因みに遺骨収集をされている方々が警戒するのがクワズイモです。写真に写されている大きな葉の植物がそれです。ジャングル内の移動に際して切り倒しながら進まなければならない事も多いです。その場合は鎌等をなるたけ体から離して振りかざしたり、樹液が四散しないようにズバッと一気に切り倒すなど、樹液を浴びないように注意すれば大丈夫です。またクワズイモを切り倒す際は防護メガネを掛けていればより安心です。

いずれにしてもクワズイモの樹液が皮膚に触れただけでも大変です。特に粘膜に樹液を接触させると悲鳴を上げる事態となります。死に至る毒草ではないので、あまり深刻に捉える必要はありませんが、一度樹液が皮膚に触れる体験してみると良く理解できる所です。

《過去の写真ご紹介》

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.17

【令和02年(2020年)1月撮影】
クワズイモの花です。この写真はこの場所で撮影したのではなく、今次遺骨収集で他のジャングル内で咲いていたものをご紹介しています。長年遺骨収集をしていて、クワズイモの花に遭遇するのは非常に希です。元々開花時期が初夏から夏と言いますから、遺骨収集を実施する1月とか2月では季節外れという事もあるでしょうからね。この写真は、その希少なクワズイモの花のご紹介でした。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.18

歩道突き当たりには、ご覧のような南冥の塔説明文が設置されています。この説明文も新設されたものですが、すでに結構汚れていますよね。季節によってはスコールと呼ぶべき強い雨も頻発したりしますから、亜熱帯に属する沖縄は年間を通して厳しい環境にあると言えるかもしれません。本文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。

この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。

現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。

ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.19

歩道を突き当たると碑の説明掲示板があり、右上に「南冥の塔」が見えてきます。

「南冥の塔」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「南冥之塔」です。平成26年に改築新装なって、真新しく精々しい雰囲気となっていますね。ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていた前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。前門キヌさんに「南冥之塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが昭和51年、今から43年前の話という事になります。これ以降林先生による「南冥之塔」での慰霊祭は、現在まで途切れることなく続けられているそうです。毎年本当にお疲れ様でございます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

「沖縄師範健児之塔」や「南冥之塔」を慰霊巡拝する場合、参道手前にある駐車場に車を止めるのが一般的です。その駐車場横にある住宅にお住まいだった前門家を、「南冥之塔」を語る際には外せません。金光教の遺骨収集は、特に26年続いた運営委員会時代の300人から400人が全国から参集する大規模な遺骨収集活動には発展しましたが、前門光雄さん抜きにそれは為し得なかったと断言しても良いかも知れません。そんな金光教の遺骨収集に於いて掛け替えのない前門光雄さんですが、平成14年(2002年)満50歳の若さで急逝されました。

前門光雄さんのお母様は、「南冥之塔」への道が無かった時代から同塔の墓守をされていた方です。前門光雄さんは子供の頃からお母様に手を引かれて、山野に散在するご遺骨の収集を続けられました。そのお母様と那覇教会の林先生とが出会い、そのお母様の願いにより、「南冥之塔」で金光教の祭式に則った慰霊祭が挙行されるに至りました。そして林先生は前門家と共に遺骨収集活動をする流れに発展して行きました。その後石原正一郎氏や帯同する学生奉仕団も加わり、より規模の拡大した遺骨収集活動として受け継がれていきました。因みに「南冥之塔」前での慰霊祭は現在でも、毎年沖縄慰霊の日に挙行されています。

私も前門光雄さんとは良く話をしました。米軍放出の暗緑色の作業服と編上靴をいつも身に纏っておられましたから、いつもすぐに発見できました。地味で目立ちたがらないタイプでしたから、一見無愛想に見えましたが、沖縄の人の典型と言える様なとても心根の優しい方でした。彼の語る言葉の中で、一番印象に残っている言葉は、「沖縄の心は、おばあの心です」と言うのがあります。この言葉は私だけでなく、多くの参加者が耳にしているかも知れません。前門光雄さん自身を表すような、とても印象深い言葉でした。ご冥福をお祈りいたします。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.21

そして傍らには、冬に開花するツワブキの花が咲き誇っていました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.22

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる 一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前での慰霊祭に参列して頂こう…。という動きが金光教運営委員会で持ち上がりました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきています。いすれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレブル松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。 しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、氏のご家族の方が直接語られたと聞いております。こうした事実に当時の私も衝撃を受けた記憶があります。戦争を生き抜いて尚、回復する事のない心の傷の深さに思いを致す時、ヤマモトタツオ氏のいくばくかの忘却への道筋と、心の安らぎとを祈らずには居られません。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.23

慰霊塔の左側に壕がありまして、ご覧の様な開口部が見えます。この壕は摩文仁集落住民の避難壕であった様です。この壕も含めて摩文仁集落の避難壕は、この付近に三カ所あったようです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ホウキとゴミ袋が置いてありました。昔はこの壕に住み着いて墓守をしているおばさんが居ましたが、現時点では生活用品が少ない事から、住んではいない印象で、通って来るものと思われます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.25

洗濯物を干すための紐が岩場に取り付けられています。今年は何も干してありませんでした。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.26

壕から出た所にも、ご覧のように段ボール箱がありました。写真には写しませんでしたが、その外にも日用品的な物品が置いてありました。一昨年からこの様な状態です。

何年か前も、この壕で寝起きして墓守をするおばさんが居たと書きましたが、備品のそろえ方、備品の置き方等を観察すると大きく違っていますので、以前居られたおばさんとは違う、別の人ではないかと推測しています。また備品が少ない事から、住んでは居ない印象で、通って来るものと思われます。

因みに前回住んでいたおばさんに聞いたところでは、南城市に自宅があり、時折やって来てこの壕では墓守をしていると言う話でしたし、何日か泊まって帰ると言うのを繰り返しているとの事でした。その話しぶりからして、認知症ぎみのおばあさんが、変な事をしているというような印象は全くありません。キチンとしたおばさんでした。

因みに今回の方は、備品の種類や揃え方の様子からみて、宿泊まではしていないと思います。いずれにしてもこうした霊域で墓守とは立派な行いですよね~。とても真似は出来ません。だってこの壕内で夜寝るなんて、死んでも真似は出来かねますよ~。(^^;)

ただ不思議なのは、墓守をする方が「南冥之塔」だけに現れて、「沖縄師範健児之塔」には現れません。向こうにも寝泊まり出来る壕があります。元々こちらの壕は摩文仁集落住民の避難壕だったので、摩文仁の住人であるなら御遺族だろうと思えますが、前回居られた方は南城市に住まいがあるとの話でしたから、遺族と言うのも断定しかねますよね‥‥。よく解りません。来年おばさんに会えたら、よく話を聞いときます。(^^ゞ

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.27

壕内の様子です。それほど広くは無いですね。しかしながらこの付近では、かなり大きい壕と言えるかもです。この付近でこの壕よりも広い空間のある壕は一カ所しかありませんからね。

何年か前から壕の底面を大きく掘り起こした状態になっています。写真の通りですね。この壕の壕底がどこなのか見た限り、良く解りません。この壕は堅固な鍾乳石で出来ていますから、壁・天井面の崩落は考えられません。この壕は戦後何度も何度も遺骨収集が為されて、壕底が解らなくなったと考えられますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.28

雑草の影に隠れて見えにくいのですが、壕前には守備軍将兵個人の慰霊碑が数基建立されています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.29

「南冥之塔」から西側を見ています。巨大な崖が続いています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.30

トイレ前の遊歩道分岐点まで戻って参りました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.31

水くみに来た将兵や避難民の多くが狙撃され殺害されたとする「金井戸」に慰霊巡拝して参りましょう。まずは海岸に向かう遊歩道に入りました。眼前の遊歩道を下っていきます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.32

エンジェルストランペットです。もう20年以上前から、ここにに生えている元気な花木です。但し今年は花数が極端に少ないですね。因みにこの花は、昔はダチュラという名でした。ですから私もダチュラとつい呼んでしまいますが、今は改名してエンジェルストランペットと呼ぶそうです。大きなラッパ状の花がぶら下がるように開花する熱帯花木ですね。品種によっては夜間、花が香るそうです。

熱帯植物ですが寒さには比較的強く、関東地方のほとんどの地域では地上部が枯れても地下部から芽が出てまた開花します。確かに東京の新宿でも通勤途上ですが、毎年元気に花を咲かせるエンジェルストランペットが植えられています。鉢植えでは大株に仕立てないと花が楽しめず、また風で倒れやすいので庭植えにして楽しむほうがお勧めとの事です。庭植えにして大株にすると、一度に50~100輪ほどのたくさんの花が咲く事があります。通勤途上で見かけるエンジェルストランペットもそうでした。ものすごい花数で壮観でした。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.33

エンジェルストランペットの元気が無い理由がわかりました。犯人はトウツルモドキでした。昆虫のゲジゲジのように左右に葉を広げながら蔓が伸びているのが見えますね。トウツルモドキは、海岸の日当たり良好な林縁に生えており、長さ10メートル以上にもなる大型のつる性植物です。先端に巻きひげがあって、その先端が他の植物に絡みつき勢力範囲をぐんぐんと広げていきますので、文字通り藪を枯らすヤブガラシと同じぐらい、他の植物には脅威であると思います。来年以降も観察を続けますが、どうなりますか‥‥。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.34

エンジェルストランペットの新しい株が、違う場所に繁っていました。写真中央の株がそれです。こちらはヤブガラシの伸張もなく、しばらくは安泰のように見えます。昔はこの株は無かったので、こぼれ種から発芽したのでしょうかね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.35

遊歩道を更に下っていくと左に曲がって行きますが、曲がってすぐ左手に金井戸及び金井戸川があります。ご覧の様にこの辺りも湿地帯になっているのでしょう、クワズイモが群生しています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.36

遊歩道を左に曲がりました。ヒェ~~。雑草が繁茂していて金井戸に行く道が隠れて見えません。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.37

海岸に至る遊歩道から見た「金井戸」、地元ではチンガーと呼ばれる井戸です。草刈りが為されていないので雑草に背が高く井戸が見えません。またその井戸から写真手前に溝が出来ていて、これが川であり「金井戸川」と呼ばれています。因みに今は水は流れていません。そもそも現在水が貯まっている井戸の位置と、この金井戸川の川底の位置を比較すると、井戸の水位の方がかなり低いので、水が川のように流れようがありません。梅雨時はどうなんでしょうか解りませんが‥‥。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.38

雑草をかき分け前進すると見えてきました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.39

「金井戸」の横にモクマオウの木がありますが、なぜか元気がありません。下の方にガジュマルが絡みついていますので、こちらもガジュマルが原因かも知れませんね。このモクマオウの木は、「黎明之塔」高台からも見えるので、しっかり現在位置の目印になりますから、これからも枯れずに存続してほしいですね。

「金井戸」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.40

「金井戸」です。地元ではチンガーと呼ばれるそうです。沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉が…」と書かれていますから、沖縄戦当時と比べて湧水量は僅かとなっていると思われます。ただチンガー背面と東側に広大で緩やかな勾配の傾斜面を有していますから、広範囲の降雨の受け皿になりますから、梅雨時などかかなりの水量の湧き水があるのかなと思われます。

また摩文仁之丘には井戸は二カ所しかありません。もう一カ所は海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先にありまして「ワシチガー」と言います。両井戸ともに米軍に井戸の存在が知られていましたから、チンガーを含めた両井戸への水汲みは決死の行動だっに違いありません。

チンガーの現在の様子ですが、セメント等の構築物は戦前のものか戦後のものかは不明です。昔から井戸は使わないと枯れると言われる事もありますが、正にそのような状況になっています。

沖縄戦解説本などで見るチンガーの項目では、「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」という表記が為されていたりしますが、井戸の南側は小高い丘になっており、海に居並ぶ米艦船からはチンガーは全く見えません。井戸の畔に立ったとしても海からは一切姿は見えません。ですから井戸の畔に集まった人々を機関銃で直接狙撃する事は出来ません。

チンガーは死の泉として恐れられた事は間違いありませんが、米軍はチンガーの前面に哨戒艇を常駐させていたので、恐らく迫撃砲など曲線を描く砲撃が多用されたのではないか、或いはチンガーの周囲50メートルとか100メートル内に入る人影を狙って機関銃などで狙撃するという状況ではないかと推測されます。いわゆる曲射砲によるめくら撃ちですね。

戦後七十余年を経て、現在のチンガーの周囲は緑豊かな木々が茂っていますが、沖縄戦当時の白い石灰岩の丘陵であった事をイメージすると、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰しても、思いのほか岩などの遮蔽物が少ないです。夜間に水汲みに成功する将兵や避難民も居たでしょうが、遮蔽物が全くない傾斜面は確実に人影が曝露し、照準が合わせられている機関銃などで狙撃された可能性があります。

一方上掲文でご紹介した摩文仁にもう一カ所ある泉についてですが、チンガーから見て、海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先の、摩文仁のもう一つの井戸である「ワシチガー」は、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰した場合、傾斜面は一切の遮蔽物はなく、海岸の岩場しか遮蔽物はありません。ですから井戸及び周囲の広範囲がに米軍艦艇に曝露しており、こちらの「ワシチガー」井戸の方がよほど命がけであったと推測されます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「金井戸」の背後にある巨岩を写しています。良く見ると、機関銃で銃撃された弾痕が無数あるように見えませんか? 如何にも弾痕穴と言えそうな穴が無数ありますよね。左側の赤い部分の岩肌は、戦後岩が剥落して下に落ちたのではないでしょうか。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「金井戸川」と書かれた石碑です。現在は書いてある文字は全く解りませんね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子34

「金井戸川」と書いてありますね。昔は川とよべるほど湧水量が多くて、井戸から溢れた水は、川となって流れ出たと言う事でしょうかね。

遺骨収集の様子35

ご覧のように川がありました。水路の両脇が石垣になっています。一部埋もれたりしていますが、ご覧のように沖縄戦当時も水路があったようです。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.43

摩文仁海岸線には二つの井戸しかありませんでした。今は静かに時を刻む、その一つの「金井戸」ですが、往時に思いを馳せると心が痛みます。
「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」と言うのですからね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.44

この写真は金井戸の少し西側に立って撮影しました。写真中央部が一番低い所、ご覧の様にくぼんでいる場所であるのが見て取れます。位置的には金井戸川の川底よりも少し低い位置になります。池の畔に立った状態、つまりは海上に浮かぶ哨戒艇から、この金井戸に立っているのが見えてしまう可能性が一番高い場所です。

写真には木々繁り海は全く見えませんが、沖縄戦当時のように木々が無いイメージで観つつ、金井戸から坂道を少しずつ道を登って、もうこの位置だと海上に浮かぶ哨戒艇から見えるかな‥。という所で撮影してみました。この私が立っている場所は金井戸から結構高い位置になっています。私は立って撮影しているので、日本軍将兵が匍匐前進でこの写真に写されている場を通過するなら、艦船からは全く見えないと断言できるでしょう。

この金井戸には戦死体が山の様に積まれ、井戸の水は赤く染まっていたという証言があり、現場は常に悪臭と共に悲惨な状況だったようです。と言う事で、水を求めここで亡くなられた日本軍将兵は、照準を合わせられて狙撃されたというよりは、曲射砲によるめくら撃ちで亡くなられた可能性が高いと感じます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.45

金井戸よりも少し高い場所から、海側にカメラを向けて撮影しました。ここも金井戸川の川底よりも高い位置になります。ご覧のように海は全く見えません。金井戸よりも一段高い所に立っても見えないのですから、匍匐前進する事なく、井戸際に普通に立っていても、海上に浮かぶ哨戒艇などから発見される可能性はゼロである事が解ります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.46

金井戸の背後には巨岩が控えていますが、その右端の岩の袂付近を撮影しています。小さな拝所がありました。また拝所の裏手にはクワズイモが群生していますね。水気がある場所の様です。平和祈念公園内に「空華之塔」がありますが、同塔のある崖下辺りを水源とする川とは言いませんが、稜線の北側なのですが緩やかな勾配のある低地がこの写真の所まで約250m続いている事により、この辺りは湿地帯となっているものと推測されます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「金井戸」の背後です。ご覧のようにジャングル帯で巨岩がゴロゴロしています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.48

遊歩道をこのまま進むと海岸に出ます。「金井戸」を過ぎると、ご覧のように稜線を越えますと、今度は海岸まで一気に下っていきます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.49

遊歩道も間もなく稜線越えとなりますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.50

稜線を越えると、海岸に向けて一気に降りていきます。解りにくいですが、海岸や海も見えていますよ。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.51

再び遊歩道分岐点に戻りました。「沖縄師範健児之塔」に向かうため、一番左の遊歩道を降りていきました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.52

駐車場に車を留め参道を降りていくと、70メートルぐらい進んだ所にトイレ休憩所があります。そのトイレ前の道が三叉路になっており、「沖縄師範健児之塔」に行く道、「南冥の塔」に行く道、そして海岸に到る道(途中「金井戸」という湧き水が出ている場所あり)の三方向に分岐しています。この分岐から更に50メートル程進むと、眼前にご覧のように「沖縄師範健児之塔」が見えて来ます。一昔前は、樹木が生い茂り、一人で訪ねるのが憚られるぐらい鬱蒼として暗く陰気な雰囲気でしたが、現在は樹木も伐採され明るい雰囲気となっています。

因みに「沖縄師範健児之塔」があるこの場所は、摩文仁のハンタ原と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありません。遠くから見ると平らなように見えるというレベルでの平坦さです。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、周囲が隆起した岩場だらけですから、目の錯覚か原っぱであると見えてしまうのです。その例えは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。但しこれは「黎明之塔」から、つまり遠くから俯瞰した情景であり、その「原っぱ」に降りてみれば岩場だらけですから、その場に立てば、例えば北アルプスの剱岳八合目を登っているような印象を持つかもしれません。(^^;)

「沖縄師範健児之塔」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.53

昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場は、短時間の駐車なら広場に駐車OK、トイレあります」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.55

仲宗根政善氏が詠んだ歌ですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.56

沖縄師範健児之塔の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が書き記されている碑です。テキストに起こしてみました。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、一九四五年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。

鉄血勤皇師範隊は、三月二十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて一九四七年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年五月二十五日この塔を完成した。

【鉄血勤皇師範隊の編成】

本部(隊員一六名 戦死一三名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当

情報宣伝隊(隊員二二名 戦死九名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など

斬込隊(隊員五七名 戦死四六名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など

野戦築城隊(隊員二四三名 戦死一二二名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や祖絶、弾薬や食料等の搬送など

特別編成中隊(隊員四八名 戦死三六名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など

現地入隊(隊員七五名 戦死六四名)
一九歳に達した学友が三月一日現地部隊に入隊

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.57

こちらは「沖縄師範学校沿革」です。ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.58

沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。また奥に見える立像は「平和の像」です。

「平和の像」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

因みに三体の立像の下に碑の説明文があるのが見て取れます。実は最近まで碑文の存在に気づきませんでした。どうしても目線が三体の像に行ってしまうので、雰囲気的に何かの模様かなと思っていました。(^^;)

今回の慰霊巡拝で文言を確認出来ましたから、テキストに起こしてみました。

「平和の像」碑文

昭和二十年三月三十日、第二次世界大戦最中、沖縄師範学校全職員生徒は、軍命により、第三十二軍司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員された。然るに同年六月二十二日、南西諸島方面軍最高司令官牛島満中将が自決するに及び師範隊は解散するに至ったが、この間、総員四百八十名中三百有餘名が守備軍と運命を共にしたのである。ここに、生存者の手によって「慰霊の塔」が建立されたのであるが、更に大田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」の出版並に同名映画の上映記念事業として、廣く江潮の有志の方々の御後援の下に、この「平和の像」は建てられたのである。若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎された平和への希願を永久に傳えるべく生存者達は心から祈るものである。

発起者 沖縄師範學校生存者 

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.60

「平和の像」です。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.61

平和の像の右下にご覧のように、初代の「健児之塔」がひっそりと建っています。碑は正確には「健兒之塔」と書かれているそうです。なぜ初代の「健児之塔」はここに建てられたのかなと思ったら、この石碑の下には沖縄守備軍管理部の壕があり、師範学校男子部の生徒が大勢亡くなった事を金城和信氏が探し当てたからなのですね。

男子中学校学徒を祀る塔も建てたいと念じていた金城和信氏は、ある時真和志村民から「井戸近くの壕で、鉄血勤皇隊の生徒たちが自決を遂げたらしい」と言う話を聞き、金城夫妻と当時衛生課長だった方、軍司令部付で最期まで牛島閣下に付き添われた方等6名で、勤皇隊生徒が自決したという壕を探したところ、その日の内に壕は発見され、安らかに眠っているかのような学徒達のご遺体が重なるようにあったと言います。

この初代の「健児之塔」は、終戦後米軍から真和志村村長に任命された金城和信氏が、昭和21年(1946年)に入ってから、「魂魄之塔」「ひめゆりの塔」に続いて建立したものですね。金城和信氏は、沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、また米軍の遺骨収集の許可が容易に下りないなかで粘り強く交渉を続けるなど、慰霊塔(碑)の建立と遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に生涯を通し全力で取り組まれた方です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.62

フィッシャーがあります。ここを降りていくと、健兒之納骨堂がある壕空間に行くことが出来ます。ちょっと危険なので降りた事は無いのですが。(^^;)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.63

この碑文も判読が厳しい部分もありますがご紹介してみます。 ひとすちにくにをまもらんと わかうとらいのちはてにき え里をたゝさむ  昭和三十九年献 渕上房太郎

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.64

詩が詠まれている様なのですが、ご紹介出来るレベルで読めません。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.65

鉄血勤王師範隊学徒が配属されていた「沖縄守備軍管理部の壕」を訪ねてみましょう。首里の司令部壕と比べて、ここ摩文仁の司令部壕は極めて弱小なので、司令部の機構を丸ごと収容する場所はありませんでしたから、摩文仁司令部壕を中心として、あちこちに分散された形で司令部機能を維持したものと思われます。それでは写真中央の階段を降りて行きましょう。

この階段を登ると摩文仁之丘の最も高い場所、沖縄戦当時は摩文仁89高地と呼ばれた場所に建立されている「黎明之塔」、「勇魂之碑」、そして「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」に行けますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。小さな壕なのですが開口部は大きいです。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。また壕内はL形になっていて、直撃弾を浴びる可能性も低いです。ここは絶好の避難壕だと感じました。この壕内で昔、遺骨収集をやった事がありまして雑骨が多数発見されました。その時に頭に浮かんだのは、この壕で亡くなられた将兵はナパーム弾にやられたのだろうなと考えました。

ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも「平和の像」横にある階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から下に目をやると、40メートルぐらい先には司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと推測されるとても大きな壕があります。私と吉井さんで確認していますが、立哨兵が立っていたと思われる石組みで造作された半坪ほどの平坦な地面が、周囲の風景に不自然なほどキチンと整地されていた事から、二人でそのように推測しています。話が少しそれましたが、当然重要なその二つの壕を伝令や食料や水を調達するために将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。鉄血勤皇隊師範隊の特別編成中隊の任務には、軍司令部護衛というのもあったと書き記されていますのでね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.67

ここが壕口です。と言っても奥の方には反対側の光が見えていますね。と言う事で、とても小さな壕と言えるでしょう。ここが沖縄守備軍の管理部の壕と呼ばれる場所です。

すでに鬼籍に入られていますが、大田昌秀氏(92歳)は、琉球大学教授として沖縄戦と戦後史研究の第一人者として活躍されると共に、沖縄県知事を二期八年務められ、参院議員などを歴任されました。その大田氏は沖縄戦当時、沖縄師範学校男子部の生徒でした。そして昭和20年3月に第32軍司令部直属部隊として従軍しました。師範隊の千早隊は戦況情報の収集や戦況の宣伝が主な任務でした。千早隊も第32軍司令部の島尻撤退に伴い摩文仁に移動、大田昌秀氏もこの管理部の壕に一時的に滞在した事があります。その時の様子が綴られた文面がありましたのでご紹介します。

《書籍ご紹介》

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」

潮書房 平成元年(1989年)初版

(451ページ)
百メートルほども進まないうちに艦砲の破片で足裏をそがれて、わたくしは歩けなくなった。そこへ迫撃砲の集中攻撃を受け、「生死はもろともに」と言い交わしていた三人は、ちりぢりになってしまった。

ほとんど這うようにしてわたくしは、夜明け近く、軍司令部の管理部の壕までたどりつくことができた。そこは、厚い岩盤におおわれ、砲撃されても比較的安全であった。

だが、敵も考えたものだ。翌二十日、米軍はこの一帯の岩山に飛行機からガソリンを散布したり、ガソリンタンクを落下した後、焼夷弾を落として火攻めにした。文字どおりの地獄絵図が目のあたりにくりひろげられた。

逃げ場を失った敗残兵や挺身隊の女性たちが、狭い壕内で黒焦げになって斃れていった。そこでも奇しくも生きのびたわたしは、死者の腐臭に居たたまれず、二日後の夕方、海へ出た。

疲れ切った体で泳げるはずもないのだが、陸路を歩けないので泳ぐしか道はない。海上の敵艦船から発せられるサーチライトの幅広い光帯が、海上をゆっくりと移していく。敵が、早くも摩文仁部落まで押し寄せてきたので、この一角に追い詰められた人びとは、泳げようと泳げまいと海へ飛びこむしかなかった。

人びとは、弾がこない方へと本能的に移っていったのである。しかし結果は悲惨そのものであった。せっかく、ここまで生きのびてきながら、水死するものが後を絶たなかった。

「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.68

壕の中にある納骨堂が見えて来ましたね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.69

「平和の像」の下の壕内の様子です。ブロックで囲まれているのが納骨堂です。管理部の壕と付近に散在していたご遺骨を集めて納骨したものと思われます。いつ来ても生花とか飲料が供えられています。一定の人達が入れ替わり立ち替わり参拝に訪れているとしか思えません。また納骨堂前はとても暗いです。ライトが無いと足下を含め危ない状況ですから、恐らくライト持参で参拝されている可能性があります。

ブロックで仕切られた内部は納骨堂になっています。ブロック塀は岩の下に積み上げられている関係で工事の仕上がりが甘く、上端がキチンと埋められていないため納骨堂内部を容易に見られるのです。ですから定点観測のつもりで、ついつい中を見てしまうのが実情です。

納骨堂内部については、30年ぐらい前は満杯レベルで大腿骨や頭骨など大きなご遺骨が山のようになって納められていました。驚くほどの大量のご遺骨を見るのは初めての体験でした。しかしながら近年は地面が見えるぐらいに激減しています。推測するにご遺骨は土の中にあるよりも、一定の湿気がある空間にある方が微生物分解による滅失が早いのではないかと感じます。空間の湿度がカラカラに乾いていれば別でしょうが、この壕内の納骨堂は、この壕内の一番低い部分に設置されていますので、恐らく台風などの大雨の時は水浸しになる可能性もあると思われます。比較的乾燥しているこの時期でも、ここに入ると湿気を感じるぐらいですからね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.70

「健兒之納骨堂」と書き記されています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.71

納骨堂の左側面の様子です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.72

納骨堂の右側にご覧のような空間があります。穴と言って良いかもです。決して広くは無いですが、突き当たりから左側にも空間があります。すでにこの辺りでも、前屈みにならないと頭を打つ可能性がある状況です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.73

この辺りは、納骨堂の真裏になりますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.74

ここが突き当たりの左側の一番奥まった空間です。ここでは四つん這いにならないと移動できないレベルで高さがありません。またこの管理部の壕内も床面が綺麗になっています。「南北之塔」の背後にある「アバタガマ」内も綺麗に地面が片付けられていました。壕内の遺骨収集が計画的に行われているのかも知れませんね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.75

ここからは納骨堂の向かい側を見ています。ご覧のように光が入っているのが見えます。ちょっとした穴という感じです。そうした意味でも、この壕はナパーム弾攻撃かガソリン攻撃に極めて脆弱であったと推測します。

因みにこの写真に写されている地面で、昔そうですね。20年以上前ですが、手足等の細かい御遺骨を大量に収集しました。手足など大きい骨が収骨された後の、残りの小さな御遺骨という事ですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.76

ここにも、まずまずの空間がありますね。数人なら入れそうです。この辺りは少し複雑な構造をしています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.77

ちょっとした穴ですから、上を見るとご覧のように空が見えますし、無理なく登れる坂道があります。私の見立てでは、摩文仁高地にある司令部壕と下にある金井戸川という井戸や炊事場壕との行き来は、ここを通ったのではないかと推測しています。この壕の上にある沖縄師範健児之塔が設置してある場所は海から丸見えですし、そこから先は金井戸川に向けて隠れ場所がないのです。一方ここを登っていくと海から見えませんし、少なくとも後30mぐらいは金井戸川に向けて珊瑚礁の岩陰を進む事が可能なのです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.78

この遊歩道の階段を登ると「第三十二軍司令部壕」や「黎明之塔」まで行けます。ここからその距離は直線で約100mです。第三十二軍司令部の食事は、ここから南西方面40mぐらいの場所にある「炊事壕」で煮炊きされ、司令部壕まで食事が運ばれました。「炊事壕」から第三十二軍司令部まで運ぶルートは当番兵により違っていたでしょうが、敵艦船に見張られている中で、岩陰を進むと言う意味で、この付近の崖下をまず登って行ったに違いありません。

沖縄戦末期には、その「炊事壕」から第三十二軍司令部壕までの飯上げが如何に危険であったか‥‥。『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「海岸の洞窟で焚いた食事は、敵前百メートルの断崖の道を山頂の洞窟に、挺身斬り込みの要領で当番兵たちが運ぶのである。この危険な任務に服する登板兵たちの表情は、日ごとに深刻になる。参謀長の当番兵の一人が、断崖の中腹で犠牲になったのも、このころであった。‥‥」と書き記されています。

実際に現地をご覧になれば明らかですが、第三十二軍司令部壕の海岸側壕口までの、最期の40mぐらいは急峻な崖を登らねばなりません。しかも岩場では無く土も多くて、極めて滑りやすい土壌帯となっているのです。そして急峻な崖になっているのみならず、遮蔽物は一切ありません。海上の米艦船に完全に露出しているのです。

この壕口の急峻な崖については、『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、八原高級参謀も司令部壕脱出に際して、この急峻な崖を降りようとした訳ですが、最初の第一歩から転倒し滑落したと記述されています。(397頁)月光の加減で緩やかに見えた断崖は、やはり急峻であった。私は第一歩より転倒し、土砂岩石と一緒になり、非常な速度で二、三十メートル転落した。そのはずみで、右手にした拳銃が一発轟然と暴発した。敵の射弾が八方より集中する。転落しつつ頭、身体、ところきらわず岩石にぶつかる。とうとうここで死ぬるのかと観念する‥‥。と書かれていました。

第三十二軍司令部の食事は、ここから南西方面40mぐらいの場所にある「炊事壕」で煮炊きされ、直線で100mぐらいの所にある司令部壕まで運ばれると書きました。その第三十二軍司令部の炊事壕に、平成27年(2015年)の遺骨収集で内部調査した事があります。その時の写真がありますので、次にご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子38

【平成27年(2015年)2月9日】
吉井さんが立っている場所について、吉井さんは「もしかしたら歩哨が立っていた場所かもしれない」と語りました。確かに地面が平らになっています。手前側は石を積み上げて壕口通路を確保したように見えますしね。写真では解りにくいですが、吉井さんのすぐ前には壕口がありますので、その可能性はありますね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な奇岩に囲繞された洞窟とは、今私達がたたずんでいるこの壕以外には見当たりません。「沖縄師範健児之塔」の裏手にも壕が幾つかありますが、それは巨大とはとても言えない小さな壕群なのです。そして炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思いますので、警備のため歩哨が立つというのも納得できますね。

遺骨収集の様子39

近づいてみますとしっかりと石組みされています。この石を積んだ理由としては、戦後の遺骨収集ではその理由はあり得ないですし、石垣の風合いや劣化具合からして沖縄戦の渦中に積んだとみるのが妥当だと思えます。またこの辺りは何度も遺骨収集に入ったでしょうが、石組みを崩す必要が無かったから、今日まで往時のまま現存していると言えるかもしれません。という考察の上で、衛兵が長時間立つ場所だからこそ、地面を水平にしたという事なのかもしれませんね。

遺骨収集の様子40

それでは一緒に壕に入ってみましょう。

遺骨収集の様子41

結構複雑ですね。吉井さんが先行しています。吉井さん速いですね~。

遺骨収集の様子42

炊事壕に入ってから最初の明かりが見えました。壕口がありますね。人の出入りも十分出来そうです。この壕口は、私達が最初に入った壕口よりも、数メートル高い位置にありますね。

遺骨収集の様子43

ここは広い空間になっていますね。それにしても、やばいですよ。紆余曲折しています。方向感覚に自信のある私ですが、なんか迷子になりそうです。

遺骨収集の様子44

また壕口がありました。出入りするに十分な大きさですね。東側に口を開けていると思われます。二つ目の壕口よりも一段高い位置にある印象です。外部には目の前に巨岩があるので、壕口があるようには見えないと思います。

遺骨収集の様子45

吉井さんが一歩先行して、ルートを見つけてくれています。

遺骨収集の様子46

吉井さんが「遺品があるよ」と声を掛けました。近づいてみましょう。

遺骨収集の様子47

ビール瓶がありました。瓶の裏を見ています。私はアルコールが駄目なので、ビール瓶について詳しくないのですが、アルコール好きの吉井さんが、「このマークは大日本麦酒株式会社の印だね。その昔、札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒(サッポロ、アサヒ、ヱビス)の三社が合併し誕生。戦後は財閥解体により、朝日麦酒と日本麦酒に分割された」と語ってくれました。と言う事で、沖縄戦当時の瓶のようですよ。

遺骨収集の様子48

ここも広い空間になっています。それにしても複雑な壕ですね~。そして文字通り巨大な壕である事が判明しました。とても大きな岩の中をくり抜いたように坑道が走り、所々に口が開いている‥‥。そんなイメージの壕である事が解りました。

遺骨収集の様子49

またまた開口部です。人の出入りはギリギリといった所でしょうか。お~。出ようと思えば出られそうです。光が差し込んでいるので逆光になっていて解りにくいですが、ここも広いです。外は障害物が無くて開けた空間がありそうです。何が見えるか開口部に近づいてみましょう。

遺骨収集の様子50

開口部はギリギリ人が出入りできそうです。そして外は開けているなと感じていましたが、見える風景にビックリです。ご覧下さいませ。写真中央に見えるのは「黎明之塔」です。同塔の上から2mから3mぐらいの上の部分ですが、柵も含めて白い塔がハッキリ見えています。また89高地山上も併せて見えていますね。写真では識別しにくいかもしれませんが間違いありません。写真の右下方向に第三十二軍司令部壕がある事になります。第三十二軍司令部壕まで、ここから直線で100mぐらいと語りましたが、あながち間違っていない事が判明しました。現在私達が居る場所は、この巨大な「炊事壕」の真北辺りに居ると思われます。

ここから見る風景は、今はこうして大きな樹木に覆われていますが、沖縄戦当時のように、木々がほとんど全て無かったとしたら、第三十二軍司令部壕の海岸側の壕口が、もしかしたらここから見えるかもしれません。そうだとしたら、有線でなくとも、ここから手旗信号で情報をやりとり出来るかもしれませんね。想像が過ぎますかね~~。(^^;)

遺骨収集の様子51

ここからは少し下に向かっているようです。

遺骨収集の様子52

更に下っています。ここも広い空間ですね。

遺骨収集の様子53

ここが「炊事壕」の一番底の部分と言って良いでしょう。「炊事壕」内部を一巡して来たようですが、ここまで見てきた通り、かなりの巨大な壕である事が判明しました。あちこちに広い空間がありましたし、通路部分も含めれば、かなりの人数の収容力がある事が判明しました。崖上の第三十二軍司令部壕と共に、この壕にも大勢の司令部首脳や直属部隊の兵士が寝起きしたのかもしれませんね。

不思議な現象です。この後最初に入った壕入り口部分に出ました。あれ~~~。何か狐につままれたような印象です。方向感覚を保持したまま、壕内を巡回していたと思っていましたが、全然違っていました。方向感覚に強い私でしたが、方向感覚は長時間壕内に留まると、結構狂ってしまうのですね~。まあ無事に出られたから由としましょう。「炊事壕」の印象としては、巨大な迷路と言った感じを受けました。今回は時間が無かったので、クマデや金属探知機は使用しませんでしたが、機会があればじっくり調査してみたいですね。(^o^)

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.78

遊歩道の階段を登っています。勾配はまずまずと言ったところですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.80

勾配も少しキツくなってきました。階段がずっと続いていますね。この辺りでも金光教の遺骨収集が行われました。懐かしい場所です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.81

オッ先が見えてきたと言う感じですよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.82

「黎明之塔」のある崖下まで来ましたね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.83

第三十二軍司令部壕で手を合わせていきましょう。この階段を降りると海岸方面に口を開けた壕口があります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.84

ここで手を合わせました。昔はこの手前の柵は無かったのですが、何らかの理由で二重に柵が設けられたようです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.85

柵には鍵が掛けられていますが、良く見ると中に入れてしまいますね。(^^;)

「第三十二軍司令部壕」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.86

壕口です。柵の中にカメラを入れて撮影しました。八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」で、氏は海側に面したこの壕口を「副官部出入口」と表現されていますね。因みに同著では、摩文仁集落側の壕口は、「参謀部出入口」、摩文仁山頂にある壕口は、「山頂出入口」などとしています。 この壕口は米艦船からは丸見えですから、激しい砲撃を受けた事でしょう。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.87

階段の下側を撮影しています。ご覧のように、鉄網に石を入れた基礎の上に階段が設けられているのが解ります。つまりこの平地部分は沖縄戦当時は無かったと言う事になりますね。沖縄戦当時の壕口の前に平らな場所はあったのか‥‥。牛島司令官は壕口から約十歩辺りに座したとあります。今こうして体を大きく階段からせり出して下の地面を観察すると、三人の将軍が自決するに相応しいぐらいの平地はあるように見えます。

『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、牛島司令官と長参謀長が自決される前の様子を次のように記述しています。
「洞窟の外に出ずれば、月未だ南海に没せず、浮雲の流れ迅く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁霧脚麓より静かに谷々を埋めて這い上がり、万象感激に震えるかの如くである。洞窟出口から約十歩のあたり、軍司令官は断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。残存の将兵は出口に起立して、大いなる瞬間を待つ」とあります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.88

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国海兵隊
アルバム名:米海兵隊写真資料19
撮影地:
撮影日:1945年 6月27日
写真解説:
【原文】 Gen. Stilwell (center) talks to Marine and Army Generals after inspecting cave in hill #89 which was Japan's 32nd Army General Command Post ( LtGen Ushijima). The cave's mouth can be seen in the background.
【和訳】日本陸軍第32軍総司令部(牛島中将総司令官)の置かれた89高地の壕を視察した後、海兵隊や陸軍の司令官と話すスティルウェル大将(中央)。背後にその壕の入口が見える

サイト管理人コメント:
米軍が第三十二軍司令部壕前で撮影した写真ですが、この写真を見る限り、刀を振るう介錯人も含めて、自決の為に三名が座する場所はギリギリあるように見えます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.89

第三十二軍司令部壕から崖下を見ています。急な崖になっているのが解ります。私はここを何度か上り下りしていますが、とにかく急峻な坂です。現在は木が茂っていますから滑落はありませんが、沖縄戦当時は木々は全て砲撃で吹き飛ばされていました。炊事場からの食事を当番兵が運ぶわけですが、この丸裸の坂道を最後は登る事になります。米艦船からは将兵の上り下りがよく見えた事でしょう。

『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、著者の八原氏も脱出行の第一歩から、この崖上から崖下まで一気に滑落したと書かれています。
「月光の加減で緩やかに見えた断崖は、やはり急峻であった。私は第一歩より転倒し、土砂岩石と一緒になり、非常な速度で二、三十メートル転落した。そのはずみで、右手にした拳銃が一発轟然暴発した。敵の射弾が八方より集中する。転落しつつ頭、身体、ところきらわず岩石にぶつかる。とうとうここで死ぬるのかと観念する‥‥」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.90

第三十二軍司令部壕の慰霊巡拝を終えて、崖上に上がっていきます。あと少しです。

「勇魂の碑」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.91

長い長い階段を登り終えると、山上(89高地)に出ると共に、「勇魂之碑」があります。摩文仁の奥まった場所、展望台の近くにあります。通路上に建立されているので、見落とす可能性は無いと思います。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.92

「勇魂之碑」です。第三十二軍司令部の将兵と軍属約六百人を祀った鎮魂碑ですね。「勇魂之碑」の左側には、「第三十二軍司令部戦没者名碑」が設けられていました。沖縄守備軍第三十二軍司令部の指揮下で、沖縄を守るため、祖国日本を守るため、六万五千人余りの他府県出身軍人と二万八千人余りの沖縄県出身軍人と軍属が、渾身の限りを尽くして雄々しく戦い、そして散華されたことを長く語り伝えたいですね。

米国軍事評論家 ハリソン・ボールドウイン氏は次のように論評しました。「太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍で最も良く戦ったのは、沖縄防衛部隊である。また太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとすれば、陸軍の牛島と海軍の田中である」(注記:田中とは第二水雷戦隊司令官の田中頼三海軍中将です)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.93

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国海兵隊
アルバム名:米海兵隊写真資料02
撮影地:
撮影日:
写真解説:
【原文】 Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force;(2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.
【和訳】1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.94

少し見にくいですが、大きな岩の下に書かれている碑文によれば、「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」と記されています。

米軍が撮影し、現在は沖縄県公文書館が保管している、第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓に関わる写真を下に転載させて頂きます。ご覧下さいませ。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.95

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
アルバム名:占領初期沖縄関係写真資料 陸軍01
撮影地:糸満市摩文仁
撮影日:1945年 6月28日
写真解説:
【原文】 A Jap prisoner of war stands in front of the graves of Gen. Isamu Cho, Chief of Staff, and Lt.Gen. Mitsuru Ushijima, former Commanding General of the 32nd Imperial Japanese Army, on hill 98. Picture made at request of the Office of Psychological Warfare.
【和訳】98高地にある第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓の前に立つ日本軍捕虜。心理作戦部隊の依頼で撮影

サイト管理人コメント:
和訳部分に、「心理作戦部隊の依頼で撮影」と書かれいますように、この写真は沖縄守備軍将兵に投降を促すプロパガンダ戦の為に撮影されたもので、真実とは異なる描写が為されている可能性があります。その点を含み置いてご覧下さいませ。

「高摩文仁グスク」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.96

「高摩文仁グスク(たかまぶにぐすく)」と書かれていますね。この周囲一帯は、中世の遺跡である古いグスクがあった場所のようです。ただグスクの築城時期や築城者は不明のようです。この掲示がある場所は、平和祈念公園最奥部の「黎明之塔」の少し手前に設置されています。ちなみに糸満市からここ摩文仁までの地域一帯は、沖縄本島全体の中でも、際だって古城の多い地域として知られています。

例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。これはこの地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。

これは与座の東西に連なる断層崖、また「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形ですね。

お城と言えば大概高台にあります。またお城のある所には、付近に必ず湧き水や川が流れています。沖縄守備軍が構築した陣地壕も将兵への新鮮な水の補給を意識して配置された事は間違いありません。こうした理由から、古城のあった場所、或いは古城の近くに守備軍陣地を構築するのは必然であったとも言えるでしょう。

ちなみに高摩文仁グスクとしての残存する遺構は、僅か数メートルの切石積の石垣がのこ残るのみとなっていますが、ロケーションが糸満市喜屋武の具志川グスクに似て素晴らしい眺望ではあります。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.14

【平成29年(2017年)1月12日撮影】
鹿児島県の慰霊塔「安らかに」です。「高摩文仁グスク」の遺構として残存する切石積の石垣は、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」の背後にあります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.15

松永さんが見つめている背後の石垣が「高摩文仁グスク」の遺構として残存するものです。写真の上の方には構築物がありますが、歩道になっており、「勇魂の碑」や「黎明之塔」へ到る通路になって居ます。推測するにわざわざ橋にしたのは、この「高摩文仁グスク」の石垣を保護する為だと考えられますね。その証拠として橋脚に注目して下さい。右側の橋脚はコンクリート製で、石垣のある左側は、石垣を保護するかのように橋脚を設けていません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.16

写真左側の雑な野面積みの石垣は、一つの推測ですが公園整備の際に積まれた石垣で、写真中央から右側の布積みの石垣が「高摩文仁グスク」の石垣ではないかと推測されます。勿論右側の布積みの石垣自体も、そのほとんどが戦後再構築されたものに違いありません。なぜなら摩文仁に第三十二軍司令部があると判断した米軍は、艦砲砲撃などでで摩文仁89高地を徹底的に破壊し、月世界のように白い石灰岩の小山にしてしまったのですから。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.17

歩道橋の下から、振り返って撮影してみました。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.18

歩道橋の下をくぐり撮影しています。奥に進むにつれて石垣の高さも僅かな高さになります。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.19

歩道橋を越えたあたりの石垣です。この辺の石垣の色も、通常の石灰岩の劣化による変色とは違い、砲撃の際に付着した黒煙なのかとても黒っぽいし、雰囲気的に米軍の攻撃による破壊を免れて、戦前から残存する石垣のような印象です。あくまで印象だと断っておきますが…。また石垣の高さが1メートルぐらいしかありません。これでは敵からの防御は出来ませんから、上の方にはもっと高く石垣があったのかも知れません。

2017年1月12日/遺骨収集の様子no.20

石垣の一番奥です。この先は北側に位置しますが、今度は崖になっています。そんなに高い崖ではありません。高摩文仁グスク全体で、場所により違いますが、3~5メートルぐらいの崖になっています。ですから敵からの防御という意味では、この東方に面する石垣側の防御態勢が城の防衛力を示す事になるでしょう。

過去の写真掲載はここまでです。

「黎明之塔」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.97

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将を祀る「黎明之塔」です。現在の塔は、昭和37年10月南方同胞援護会の助成により建立されたものです。揮毫は戦後総理大臣となった吉田茂氏です。この慰霊塔の近くには沖縄を守る第三十二軍の最後の司令部壕がありまして、6月23日黎明午前4時30分、司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は自刃して果てました。またこの「黎明の塔」は、裏側から見ると司令官牛島満中将が割腹自決を遂げる姿になっていると言われています。

「黎明之塔」は摩文仁之丘の最も高い場所にあり、正式には摩文仁岳と呼ばれる標高は89メートルの位置にあるそうです。またこの付近一帯は高摩文仁グスクの跡地でもあり、鹿児島県の慰霊塔付近に、往時を偲ぶ石垣が残されています。

第三十二軍司令官牛島満中将と島田叡(あきら)沖縄県知事にまつわる話として、次のような会話がありました。6月16日沖縄県庁の島田知事が「轟の壕」を後にして、牛島満中将と参謀長長勇中将をこの司令部壕に訪ねて来ました。島田知事は「最後の行動を共にさせて頂きたいので、この壕に居らせてほしい」と頼まれたそうですが、牛島満司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません」と言われたそうです。牛島満司令官は島田知事が司令部壕に居ると、危機が迫った時に自決しかねないと思われたようで、結果として司令部壕から東側200メートルぐらいの場所にある軍医部の壕に入るように勧められ、そのように軍医部の壕に移られたそうです。(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著より)

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、平和祈念公園内の施設を利用出来ます」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.98

碑文です。年々劣化していますね~。更には鈍器で擦ったか、石を打つけたのか‥‥。えぐり取られている場所が何カ所もありますよね。悲しい事態です。(^^;)

【黎明之塔 碑文】

第三十二軍は沖縄県民の献身的協力を受け力斗奮戦三ヶ月に及んだがその甲斐も空しく将兵悉く祖国に殉じ軍司令官牛嶋満大将並びに参謀長長勇中将等此の地おいて自刃す時に昭和二十年六月二十三日午前四時三十分茲に南方同胞援護會の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 
財団法人沖縄遺族連合會 

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.99

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料
撮影地:
撮影日:1959年 1月
写真解説:
【原文】
【和訳】 自由民主党青年部慰問団(深沢充団長) 糸満 摩文仁 黎明之塔

サイト管理人コメント:
昭和27年(1952年)6月に建立された初代の「黎明之塔」です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.100

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料172
撮影地:
撮影日:1961年 2月5日
写真解説:
【原文】
【和訳】 日本政府派遣医師団 糸満 摩文仁 黎明之塔

サイト管理人コメント:
見渡す限りの草原が見えます。この写真は昭和36年(1961年)に撮影されました。この頃はまだ国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔は全く無かったのですね。写真では、沖縄戦から戦後16年が経過した摩文仁山上の姿が映し出されていますが、ご覧のように草原と言ってもよい状況であり、大きな樹木が全く見当たりませんね。人の背丈を超えるぐらいの樹木も散見されますが、幹が細く、沖縄戦後の16年の間に芽吹いた樹木であるような印象を受けます。ここ摩文仁は第三十二軍司令部があったと言う事で、空から海からと、米軍による徹底した砲撃による集中射を浴びた場所でもありますが、一木一草残らず砲爆撃で吹き飛ばされたのを裏付けるような光景が広がっているのが印象的ですね。

沖縄および沖縄近海の制海・制空権を失い、本土などからの補給路を遮断された沖縄守備軍は、昼夜を分かたず打ち込まれる砲爆撃に耐え、孤立無援の中で、昼間は陣地壕に潜み、肉弾攻撃的な夜襲にて奪われた陣地を奪還するという、限られた戦い方しか出来ませんでしたが、日本軍将兵はそれに良く耐え戦い抜いたと言えるでしょう。

米軍は進軍するに際し、準備砲撃として、守備軍陣地の背後を徹底的に砲撃したといいます。これは、守備軍の補給路を断つという意味であり、道路も寸断され大きな穴だらけの荒野を、前線まで重い砲弾一発でも運ぶのは困難を伴うというのは、私達にも十分理解できるところです。このように米軍は沖縄守備軍の補給路を断った上で、守備軍陣地に向け進軍してくるのです。沖縄守備軍の、補給が途絶するか寸断された前線では、驚くことに戦死した米兵の武器や食料なども持ち帰るなどして食いつなぎ、戦闘を継続していったといいます。

沖縄戦での日米両軍の戦力比は、総合すれば1対30にも達するといわれたのです。勝てる戦争でないのは誰の目にも明らかだったのかもしれません。結果的に沖縄守備軍は敗北を喫してしまいましたが、1対30というようなような、その圧倒的な物量があり、無尽蔵の補給の裏付けがある完全武装の米軍に対し、日本軍将兵の肉弾攻撃に頼るこの類をみない敢闘精神は、もっと高く評価されるべきであり、実に賞賛に値するものであるといえるでしょう。

思えば、太平洋戦域の将兵はもちろん、沖縄守備軍も同様に一部の職業軍人を除き、前線で死闘を展開した多くの兵士が、徴兵制により招集された人達だったのです。軍隊に入る前は農夫であったり、サラリーマンであり、職人さんであったろうし、沖縄県民の壮青年であり、沖縄の将来を担うと目されていた若き男女学生たちだったのです…。これは大東亜戦争の目的意識を全ての国民が共有していたからこそ桁外れの国威となったと言えるでしょう。

第9師団の台湾への抽出。第84師団の派遣中止。水際作戦から持久作戦への転換に伴う、戦列の再配置と既存の構築陣地からの撤退などなど…。大本営の作戦変更などにより、防備体制の再構築に多大な時間を割かねばなりませんでしたが、そうした状況の中で沖縄守備軍第三十二軍は、圧倒的な砲爆撃で攻めてくる米軍に、歩兵と巧妙に連携した砲火網を組織し、米軍をしばしば撃退したし、「洞窟戦法」で粘り強く戦ったといえるでしょう。

航空特攻をより効果的に運用するために、本島の飛行場確保も重要ではありましたが、飛行場を守るためにわずか一週間そこそこで玉砕するよりも、洞窟陣地を拠点として粘り強く戦い、敵に出血を強要し、少しでも長く米軍を沖縄に留め置く…。第三十二軍長勇参謀長は、本土決戦への時間を稼ぐという強い決意を、「われ本土の捨て石とならん」という言葉で、関係各兵団に表明したのです。

そしてその言葉通り、沖縄守備軍第三十二軍は、硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団の陣地構想と同じである、内陸部縦深防御方式に叶う強固な洞窟の築城に励みつつ強い敢闘精神をもって、圧倒的な弾雨に耐え粘り強くその目的を実現していったのです。

米軍による沖縄攻略は、約一ヶ月と見込まれていましたが、守備軍の頑健な抵抗により、米軍側に硫黄島の二倍近い戦死者を出させると共に、支援する高速空母機動部隊も同時に釘付けにするという、米軍の沖縄攻略後の作戦行程を、大幅に遅延させることに成功したのです。戦後、沖縄守備軍第三十二軍は、米国から「太平洋戦争中、日本軍で最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と、最大の評価を受けた事からも言えるように、牛島満司令官、長勇参謀長を始めとする沖縄守備軍第三十二軍将兵は、歴史に刻まれるべき優れた敢闘精神を持って、与えられた任務を十分に果たしたと言えるでしょう。

沖縄戦末期の6月18日、自刃の5日前ですが、第三十二軍司令官牛島満中将が大本営と直属上司の第十方面軍司令官安藤利吉大将宛てに次の決別電報を送りました。

大命を奉じ、挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘、ここ三ヶ月、全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず、陸、海、空を圧する敵の物量制しがたく、戦局まさに最後の関頭に直面せり。

隷下部隊本島進駐以来、現地同胞の献身的協力の下に、鋭意作戦準備に邁進し来り、敵をむかうるにあたっては、帝国陸海軍部隊呼応し、将兵等しく、皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、満、不敏不徳の致すところ、事志と違い、今や沖縄本島を敵手に委せんとし、負荷の重任を継続し能わず。

上、陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申しわけなし。ここに残存手兵を率い、最後の一戦を展開し、一死以て御詫び申し上ぐる次第なるも、ただただ重任を果たし得ざりしを思い、長恨千載に尽くるなし。

最後の血闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。 戦雲碧々たる洋上なお小官統率下の離島各隊あり。何卒よろしくご指導賜りたく、切に御願い申し上ぐ。

ここに平素のご懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任ぜられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遙かに微哀を披瀝し以て決別の辞とする。

(第三十二軍司令官牛島満中将辞世の句)
秋待たで枯れ行く島の青草も 皇国の春に甦らなむ

矢弾尽き天地染めて散るとても 天がけりつつ皇国護らむ

(6月18日/参謀長長勇中将の辞世の句)

醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海 敢闘九旬一夢裡 万骨枯尽走天外

《書籍ご紹介》
第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将、そして八原博通大佐の作戦計画立案や指導の様子、「沖縄県民斯く戦へり…」という感動的な電文を送信した大田實海軍中将に関わる記述。また日米双方から俯瞰した沖縄戦そのものの意義や戦況に関わる著書をご紹介します。

「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社 平成13年(2001年)1月初版

「魂還り魂還り皇国護らん」 沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯

将口泰浩著 (株)海竜社 平成24年(2012年)7月初版

「官牛島満軍司令官沖縄に死す」

小松茂朗著 (株)潮書房光人社 平成28年(2016年)8月初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長 勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社 平成15年(2003年)初版

「沖縄決戦」 高級参謀の手記

八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版

牛島司令官、長参謀長そして八原高級参謀と、沖縄第三十二軍の指揮した八原博通陸軍大佐の著作です。沖縄戦を深く知りたいと思われる方には必須の、第一級著作であると思います。同著を読んでの第一印象は、あたかも八原高級参謀の横に居て沖縄戦を俯瞰できたという点を強調したいです。同著により沖縄戦が目の前で展開しているような錯覚を覚え、気持ちの全てが本の中に入ったように感じた程でした。また一兵士の書いた戦記は一兵士の目線から(この目線で数冊読破しています)、八原高級参謀の手記は指揮官からの目線で書かれた言う意味で貴重な著作であると感じます。

大部の著作には、「序」とか「まえがき」、そして「あとがき」と言うのが大概ありますが、そこにこそ著者の書かねばならなかった動機や書いた事の総括や結論が書き込まれている場合が多いですね。この著作もその例外でなく、そうした八原高級参謀の強い思いが表出しています。それではまず同著の「序」から見ましょう。

「戦後、幾多の史書に、軍が拱手して、アメリカ軍を上陸させたとして、とかくの批判がある。しかしこの時機におけるわが軍の行動について深く掘りさげた論議をあまり聞かないのは残念である」

「実に奇怪な沖縄戦開幕の序景ではある。戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻を基幹とする、強大なアメリカ太平洋艦隊。有力なるイギリス艦隊、彼我地上軍あわせて三十万、敵味方の飛行機数千機、そして多数の沖縄県民をまき添えにした陸海空一体の歴史的大会戦の序景にしては、いかにも腑に落ちない異常さである。アメリカ軍は、ほとんど防御のない嘉手納海岸に莫大な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない。沖縄の地上軍は、首里山上から悠然皮肉な微笑みをもってこれを眺めている」

また「あとがき」には次のような記述が見られます。

「私には沖縄作戦全般を通じて、痛憤禁じ得ないものがある。それは現実を遊離して夢を追う航空至上主義と、はだか突撃で勝利を得んとする地上戦術思想とに対する懸命な抗争であった。このような主義や、理想は太平洋戦争の緒戦期には、確かに通用した。しかしその中期、特に後期においては、現実にはもはや幻想となっていた」

「私はこうした先見と洞察のもとに、沖縄作戦の構想を決め、全軍十万の将兵はこの方針に従い、数ヶ月の間戦闘を準備したのである。もちろん軍司令官、参謀長も私の考えを承認されていた。しかるに、敵が嘉手納に上陸するや、大本営、方面軍はにわかにあわてて北飛行場への全軍突撃を命令した」

「しかし、中央の軍に対する攻勢要求は、参謀長の性来の攻撃的性格に油を注ぐ結果となった。そして四月十三日の夜襲、ついで五月四日の攻勢を蜂起し、私の構想は根本的に破壊されたのである。大攻勢が失敗した五月五日夕、軍司令官は直接私を呼びつけ、軍の作戦の失敗と、私の一貫した判断の正当であったことを認め、自今軍全般の作戦を私に一任する旨申し渡された。しかし時すでに遅く‥」

上掲文の文脈通り、八原高級参謀の書かねばならなかった理由が強い筆致で明かされていると感じました。

大部な著作を読破して感じた事は、昭和19年7月に大本営は捷号作戦を発令し、9月末までに3個師団半といえる、第九師団、第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成四十四旅団の戦備を完了していました。これは長参謀長の算定した希望兵力であった事から、この時点では第三十二軍として必勝の信念に燃えていたと思われます。しかしながら、あろうことか大本営は第九師団の台湾への抽出を伝えてきました。第三十二軍司令部にとって、これがどれほどの痛恨事であったかは、11月4日に台湾の台北で開催された会議への牛島司令官の指示によく表出されています。

第九師団の抽出は、米軍の鉄量何するものぞと必勝の信念に燃えていた第三十二軍が、一朝にして戦意を喪失する結果となりました。もし第九師団の抽出がなければ、沖縄作戦の様相は一変し、一度や二度は米軍に苦杯をなめさせた可能性があるように思えてなりません。

そしてまた沖縄第三十二軍の戦意を重ねて喪失させる事態が起こりました。第九師団の穴埋めとして第八十四師団の沖縄派遣を第三十二軍に伝えましたが、何と翌日には派遣を中止すると通告して来たのです。第九師団の抽出と第八十四師団の沖縄派遣が一日で中止‥。この二つの事態がダブルパンチとなって、すでに書いたように第三十二軍の戦意が喪失すると共に、上級方面軍や大本営に対して、強い不信感を抱く事となったのです。この二点については、悔やんでも悔やみきれない、大本営の沖縄作戦最大の過失であると感じました。

「沖縄かくて壊滅す」

神 直道著 (株)原書房 昭和42年(1967年)8月初版

著者はまず最初の「はしがき」で、「沖縄戦について、もう概に数多くの戦記や物語が発表されてきた。ある本は悲惨さに重きを置き‥。フィクションに近い想像を逞しうしているもの‥。多分こうであろうくらいの思いつきを、いかにもまことしやかに書いた‥。沖縄戦の体験者が現存しているのに記録が概にそのようである。これから先、記憶の薄れと共にどのようなものが書かれるかと思うと実はたまらないのである」と出版を決意した動機が述べられています。出版の動機が航空決戦と持久戦略との齟齬によるものかと推測されましたが、八原高級参謀との意見の食い違いではないようです。実際に八原高級参謀の手記は5年後に出版されています。

昭和20年3月1日に現地沖縄第三十二軍に赴任しましたが、それ以前に防衛総司令部にて沖縄軍の育成に努めたり、台湾の飛行師団の幕僚として、また沖縄軍と生死を共にするはずの協力飛行部隊の一員として、沖縄守備軍を見守ってきた、としています。沖縄第三十二軍では航空参謀でしたが、第六航空軍参謀(九州)、第八飛行師団参謀(台湾)も兼任していたようです。

同著は沖縄戦の作戦・戦術・戦闘状況の考察で埋め尽くされています。これは当時の周囲への目配りの違いか、或いは執筆の目的による必然なのか不明なのですが、八原高級参謀の手記とは大きく対局を為すものです。それはともかく、神参謀が沖縄で作戦指導に従事したのは正味2カ月半程でした。それは長参謀長の命を受け、大本営や陸海軍航空部隊に実情を話し、もう一度航空作戦を再考するよう依頼する目的で5月30日の夜8時に糸満の名城海岸を出発した事によります。奇跡的に東京への帰還に成功しましたが、その脱出行も詳述されています。

 

「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」

防衛庁防衛研究所戦史部著 (株)朝雲新聞社 昭和43年(1968年)初版

この本も大部なボリュームです。正直全部読破していません。全編読破するほど沖縄戦戦況に興味はありません。今のところ事典の同じような形で利用させてもらっています。(^^;)

 

「沖縄の最後」

古川成美著 (株)中央社 昭和22年(1947年)11月初版

「沖縄戦秘録 死生の門」

古川成美著 (株)中央社 昭和24年(1949年)1月初版

「赤い蘇鉄と死と壕と」

冨里誠輝著 (株)秋田書店 昭和38年(1963年)8月初版

「沖縄かく戦えり」

浦崎 純著 徳間書店 昭和42年(1967年)初版

「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」

吉田俊雄著 (株)オリオン出版社 昭和44年(1969年)10月初版

「沖縄の戦場に生きた人たち」

池宮城秀意著 (株)サイマル出版会 昭和45年(1970年)月初版

「写真記録 これが沖縄戦だ」

大田昌秀著 琉球新報社 昭和52年(1977年)9月初版

「逃げる兵」 サンゴ礁の碑

渡辺憲央著 (株)マルジュ社 昭和54年(1979年)6月初版

「This was The BATTLE of OKINAWA」

MASAHIDE OTA著 NAHA PUBLISHING CO. 昭和56年(1981年)初版

「沖縄・八十四日の戦い」

榊原昭二著 (株)新潮社 昭和58年(1983年)5月初版

「沖縄戦とは何か」

大田昌秀著 (株)久米書房 昭和60年(1985年)4月初版

「日本軍の沖縄作戦」

沖縄戦史刊行会編纂 月刊沖縄社 昭和60年(1985年)9月初版

「沖縄旧海軍司令部壕の軌跡」

宮里一夫編著 ニライ社 昭和61年(1986年)5月初版

「沖縄戦に生きて」 一歩兵小隊長の手記

山本義中著 (株)ぎょうせい 昭和62年(1987年)10月初版

「沖縄戦」

佐久田 繁著 月刊沖縄社 昭和63年(1988年)6月初版

「丸別冊 最後の戦闘」

出口範樹著 潮書房 平成元年(1989年)11月初版

「わが部隊かく戦えり」 沖縄戦 真実と美化の激突

飯田邦光著 (株)閣文社 平成4年(1992年)4月初版

「ある沖縄戦 慶良間戦記」

儀同 保著 日本図書センター 平成4年(1992年)5月初版

「汚名 第二十六代沖縄県知事 泉守紀」

野里 洋著 (株)講談社 平成5年(1993年)12月初版

「沖縄戦・ある母の記録」

安里要江・大城将保著 (株)高文研 平成7年(1995年)2月初版

「沖縄 平和の礎」

大田昌秀著 (株)岩波書店 平成8年(1996年)12月初版

「マッカーサーと征露丸」 ニッポン伝統薬ものがたり

町田 忍著 (株)芸文社 平成9年(1997年)2月初版

「南風原が語る沖縄戦」

南風原町史編集委員会編 沖縄県南風原町 平成11年(1999年)3月初版

「ガマに刻まれた沖縄戦」

上羽修著 (株)草の根出版会 平成11年(1999年)2月初版

「沖縄 近い昔の旅」 非武の島の記憶

森口 豁著 (株)凱風社 平成11年(1999年)9月初版

「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」

石原昌家著 (株)集英社 平成12年(2000年)6月初版

「わがふるさと沖縄」 琉球王尚家の長女として生まれ

井伊文子著 (株)春秋社 平成14年(2002年)10月初版

「図説 沖縄の戦い」

太平洋戦争研究会編 河出書房新社 平成15年(2003年)6月初版

「糸満市史 戦時資料(上巻)」

糸満市史編集委員会編 糸満市役所 平成15年(2003年)12月初版

「沖縄悲遇の作戦」 異端の参謀八原博通

稲垣 武著 光人社NF文庫 平成16年(2004年)1月初版

「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」

深沢敬次郎著 元就出版社 平成16年(2004年)初版

「特攻に殉ず 地方気象台の沖縄戦」

田村洋三著 中央公論新社 平成16年(2004年)6月初版

「沖縄決戦」

(株)学習研究社 平成17年(2005年)4月初版

「ドキュメント沖縄 1945」

毎日新聞編集局・玉木研二著 (株)藤原書店 平成17年(2005年)8月初版

「沖縄陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」

(財)沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会立平和祈念資料館編 平成17年(2005年)12月初版

「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」

外間守善著 角川書店 平成18年(2006年)初版

「ざわわ ざわわの沖縄戦」

田村洋三著 (株)光人社 平成18年(2006年)5月初版

「沖縄戦の絵」 地上戦 命の記録

NHK沖縄放送局編 日本放送出版協会(NHK出版) 平成18年(2006年)6月初版

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)7月初版

「語り伝える沖縄」 命どぅ宝のこころ

安斎育郎監修 (株)新日本出版社 平成19年(2007年)3月初版

「沖縄県民斯く戦へり 大田實海軍中将一家の昭和史」

田村洋三著 光人社NF文庫 平成19年(2007年)7月初版

「沖縄戦集団自決 虚構の『軍命令』」

藤岡寛次著 (株)明成社 平成20年(2008年)1月初版

「今なお、屍とともに生きる」 沖縄戦 嘉数高地から糸数アブチラガマへ

日比野 勝廣著 夢企画大地 平成20年(2008年)3月初版

「沖縄戦と民間人収容所」

七尾和晃著 (株)原書房 平成22年(2010年)12月初版

「最後の決戦 沖縄」

吉田俊雄 (株)潮書房光人社 平成25年(2013年)4月初版

「血と水の一滴」 沖縄に散った青年軍医

芹澤健介著 丸善プラネット(株) 平成26年(2014年)6月初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

(株)ポプラ社 平成26年(2014年)8月初版

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊東孝一の戦い」

笹 幸恵著 Gakken 平成27年(2015年)初版

ここからは、米軍側から見た沖縄戦です

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編 加登川幸太郎訳 産経新聞社出版局 昭和43年(1968年)初版

「沖縄 陸・海・空の決戦」

B・M・フランク著 外間正四郎訳 (株)サイマル出版会 昭和46年(1971年)初版

「天王山(下)」

ジョージ・ファイファー著 小城 正訳 (株)早川書房 平成7年(1995年)6月初版

「沖縄 米海兵隊地獄の7日間 シュガーローフの戦い」

ジェームス・H・ハラス著 猿渡青児訳 光人社 平成19年(2007年)初版

「ペリリュー・沖縄戦記」

ユージン・B・スレッジ著 伊東 真/曽田和子訳 講談社学術文庫 平成20年(2008年)初版

「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」

マクスウェル・ティラー・ケネディ著 中村有以訳 ハート出版 平成22年(2010年)初版

ここからは、学徒隊の沖縄戦です

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」

仲宗根政善著 (株)角川書店 昭和57年(1982年)4月初版

「プリンセス・リリイ」

ジョー・ノブコ・マーチン著 新日本教育図書(株) 昭和60年(1985年)初版

「私のひめゆり戦記」

宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版

「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録

金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)5月初版

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)6月初版

「ひめゆりの沖縄戦」

伊波園子著 (株)岩波書店 平成4年(1992年)6月初版

「ひめゆりたちの祈り」 沖縄のメッセージ

香川京子著 朝日新聞社 平成4年(1992年)6月初版

「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」

宮城喜久子著 (株)高文研 平成7年(1995年)初版

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)5月初版

「沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上・下)」

兼城 一編著 (株)高文研 平成12年(2000年)6月初版

「沖縄一中 鉄血勤皇隊」

田村洋三著 (株)光人社 平成22年(2010年)12月初版

「少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか」 沖縄護郷隊の戦い

宮本雅史著 (株)KADOKAWA 平成27年(2015年)5月初版

「陸軍中野学校と沖縄戦」 知られざる少年兵(護郷隊)

川満 彰著 (株)吉川弘文館 平成30年(2018年)5月初版

ここからは、遺骨収集に関わる書籍です

「命どぅ宝」 金光教沖縄遺骨収集記録

金光教沖縄遺骨収集運営委員会編・発行 平成17年(2005年)6月初版

「ぼくが遺骨を掘る人『ガマフヤー』になったわけ」 サトウキビの島は戦場だった

具志堅隆松著 合同出版(株) 平成24年(2012年)9月初版

「ガマ」 遺品たちが物語る沖縄戦

豊田正義著 (株)講談社 平成26年(2014年)6月初版

「遺骨が呼んでいる」 国吉勇さんの遺骨収集人生

豊里友行著 沖縄書房 平成30年(2018年)9月初版

ここからは、人骨に関わる書籍です

「骨を読む」

埴原和郎著 中央公論社 昭和40年(1965年)9月初版

「骨は人を語る」 死体鑑定の科学的最終手段

埴原和郎著 (株)講談社 平成9年(1997年)月初版

「骨が語る」 スケルトン探偵の報告書

鈴木隆雄著 (株)大修館書店 平成12年(2000年)4月初版

「ぜんぶわかる骨の名前としくみ事典」

山田敬喜・肥田岳彦監修 成美堂出版 平成30年(2018年)4月初版

「骨が語る兵士の最後」 太平洋戦争・戦没者遺骨収集の真実

楢崎修一郎著 (株)筑摩書房 平成30年(2018年)7月初版

ここからは、沖縄の慰霊塔・戦跡に関わる書籍です

「沖縄戦戦没者を祀る 慰霊の塔」

大田昌秀著 那覇出版社 昭和60年(1985年)6月初版

「静かに過ぎ去る時とともに」

中谷行雄著 (株)労働教育センター 平成7年(1995年)月初版

「読谷村の戦跡めぐり」

読谷村史編集室編 読谷村役場 平成15年(2003年)3月初版

「沖縄の慰霊の塔」 沖縄戦の教訓と慰霊

大田昌秀著 那覇出版社 平成19年(2007年)2月初版

「沖縄戦と戦争遺跡」 戦世(イクサユー)の真実を伝えるために

沖縄県平和祈念資料館編 (合)沖縄時事出版 平成19年(2007年)10月初版

「沖縄の戦争遺跡」

沖縄県平和祈念資料館編 (合)沖縄時事出版 平成19年(2007年)12月初版

「死者たちの戦後誌」 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶

北村 毅著 (株)御茶ノ水書房 平成21年(2009年)9月初版

ここからは、沖縄の文化・歴史に関わる書籍です

「なぜユタを信じるか」

友寄隆静著 月刊沖縄社 昭和56年(1981年)8月初版

「観光コースでない 沖縄」

新崎盛暉・大城将保 他七名による共著 (株)高文研 昭和58年(1983年)5月初版

「沖縄の歴史と文化」

外間守善著 中央公論社 昭和61年(1986年)4月初版

「琉球王国の歴史」 大貿易時代から首里城明け渡しまで

佐久田繁編著 月刊沖縄社

「時代を彩った女たち」 近代沖縄女性史

外間米子監修 ニライ社 平成8年(1996年)9月初版

「沖縄修学旅行ハンドブック」 学び・調べ・考えよう

平和・国際教育研究会編 平和文化 平成9年(1997年)6月初版

「沖縄からアジアが見える」

比嘉政夫著 (株)岩波書店 平成11年(1999年)7月初版

「沖縄学への道」

外間守善著 (株)岩波書店 平成14年(2002年)1月初版

「沖縄の神と食の文化」

赤嶺政信監修 (株)青春出版社 平成15年(2003年)4月初版

「読谷村文化財めぐり」

読谷村教育委員会 平成17年(2005年)3月初版

「沖縄拝所巡り300」

比嘉朝進会 那覇出版社 平成17年(2005年)6月初版

「熟年 沖縄ゆとりの旅」

(株)林企画工房・仲村麗子編 増田義和 平成18年(2006年)1月初版

「琉球王国のグスク」

中田真二・高橋一正・中田広二著 東京地図出版(株) 平成20年(2008年)7月初版

「沖縄イメージを旅する」 柳田國男から移住ブームまで

多田 治著 (株)中央公論社 平成20年(2008年)8月初版

「沖縄ルール」

都会生活研究プロジェクト(沖縄チーム)著 (株)中経出版 平成21年(2009年)2月初版

動画ご紹介

「義号作戦 玉砕覚悟の敵地奇襲 奥山道郎大尉(大佐)ひきいる義烈空挺隊 AIカラー化 白黒写真をカラーに」

第三十二軍司令部の沖縄戦における初期の作戦計画では、米軍上陸地点での水際撃滅作戦でしたが、沖縄戦開戦時には、本島深く縦深陣地を構築し、洞窟陣地に立て籠もっての持久作戦での戦闘となりました。日本軍が常用した水際撃滅作戦から、縦深陣地に依る持久戦への作戦変更です。その新戦術の原形が、昭和19年9月のパラオ諸島ペリリュー島の戦いにあったのですね。このペリリュー島の戦いでは、米軍の指揮官は三日で落とせるだろうと自信を見せましたが、日本軍守備隊は完全制圧まで一ヶ月も頑強に戦い、米軍に多大な人的損害を与えたのです。そのパラオ諸島ペリリュー島の戦いの動画がありましたのでご紹介致します。ペリリュー島は、とても小さな島ですが、島嶼戦と言う事で、沖縄本島と似た部分も多く、また戦況が重なる部分もあるので参考になると思います。

動画ご紹介

【ペリリュー島の戦い】日本陸軍第十四師団と米軍最強部隊の攻防戦

《書籍ご紹介》

「ペリリュー島戦記」 珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖

ジェームス・H・ハラス著 猿渡青児訳 (株)光人社 平成22年(2010年)4月初版

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.101

「黎明之塔」から東側の摩文仁海岸線及び太平洋を見ています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.102

「黎明之塔」から西側の摩文仁海岸線及び東シナ海を見ています。写真中央部の少し右寄りに、樹木が赤っぽく見える所がありますよね。そこが先ほど通った遊歩道でトイレがある場所です。その樹木が赤っぽく見える所から、少し奥に丸い形をした巨大な岩がありますよね。その巨岩の袂に「南冥の塔」があります。また写真中央部の少し左寄りに、モクマオウの木が一本あるのが解りますかね。そこが金井戸のある場所です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.103

良く見て下さい。海岸に一番近い樹林が、小さな山脈のように連なって壁のようになっているのが見えますね。また手前側には解りにくいですが、崖が左右にずっと続いています。つまり写真中央部辺りは、谷底と言う事になります。写真に写されている範囲に降った雨は、写真右端から50mぐらい先にある金井戸、金井戸川に向けて流れていきます。ですから金井戸付近にクワズイモが繁茂しているのも頷けますね。

また写真に写されている谷底は、当然の事ながら海上の米艦船からは見えません。ですから、私は大渡と具志頭との間を行き来しようとする将兵や避難民は、夜間その谷底を通って往来したとみています。この辺りは避難する壕も沢山ある事から、それは又戦没ご遺骨がある可能性が高い場所であるとも言えるでしょう。断定は出来ませんが‥‥。と言う事で、谷底で遺骨収集をやりたいと思っています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.104

摩文仁之丘から北側方面を見ています。写真中央部には「沖縄平和祈念堂」が見えています。写真左手には摩文仁集落も見えます。現在では緑豊かで住戸も増えましたが、摩文仁は昔から「枯れ摩文仁」と呼ばれて、水が乏しく農業に適しない岩盤地帯でした。終戦時の摩文仁は、そんな僅少な土壌も米軍による砲爆撃で吹き飛ばされ、地形は変貌し白い岩肌がむき出すなど、人が住めるような状態では無かったと言います。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.105

写真は第三十二軍司令部壕の出入り口は三カ所ありまして(厳密にトイレ開口部を加えると四カ所)、ここは摩文仁之丘山上部にある垂坑道です。は米軍による摩文仁攻略の最終曲面で爆雷を投げ込まれ、近くに居た日本軍将兵の多くが犠牲になりました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.106

帰路につきました。駐車場に戻ります。この写真に写されている植物は「トックリヤシ」だと思います。徳利に似ていますよね。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.107

遊歩道の左手に大きなガジュマルがあります。気根が凄いですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.108

新しくアルミ製の階段に作り直された遊歩道です。以前は木道でしたから、これで長期使用に耐えるでしょう。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.109

まだ階段は続きます。階段上部と下部の高低差40mぐらいかな?

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.110

平和祈念公園内の平地部分まで降りました。ここから駐車場に向かいます。

「独立高射砲27大隊本部壕」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.111

今から「独立高射砲27大隊本部壕」に向かいます。壕口まで少々歩かねばなりません。同壕に行くには、まずは糸満市大度の国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」(もしかしたら廃業しているかも?)を目標にし、同レストランの崖下側に小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。国道331号線からご覧の脇道に入ります。路面は舗装されていますから歩きやすいです。またこの歩道は門中墓の参道であり、そこを通らせて頂くと言う事を頭の隅に入れておく必要があると思います。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.112

昨年は無かった設備が設けられたようです。ご覧のようにチェーンが新たに設置されました。設置状況から推測するに、車を入れないようにする為の設備であり、「独立高射砲27大隊本部壕」に慰霊巡拝される方を排除する為の物では無いと思われます。このまま中に入らせて頂きます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.113

昨年の参加記をご覧になった方ならご存じのように、昨年この歩道部分で、少し先の歩道を横切ろうとするキツネを発見したのです。キツネ君もビックリしたらしくこちらを見ていました。すぐカメラを取り出して撮影しようとしましたが、後の祭りでキツネは去ってしまいました。

昨年のこの事態を教訓にしまして、車を降りてジャングル帯に入る時は、すでにカメラを手にするようにしました。こうする事で何年かに一度程度でょうが、思いもよらぬ動物写真を撮影出来るかも知れませんよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.114

100m進まないうちに、ご覧の風景になります。この先に門中墓がありまして、そこを右に曲がり坂を降りていく事になります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.115

門中墓が見えて来ましたね。ここまでは全く問題なく来られますね。歩道の幅も広いですし、怖いと言う雰囲気もありませんから、安心して歩みを進める事が出来ると思います。但しここまでです‥‥。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.116

門中墓です。お名前は消してあります。崖をくり抜いて作られたお墓ですね。門中とは、概ね血族を同じくする集団で、同一村内で本家を同じくする人々の事をいいます。ただ家族や親族であっても、他村に移り住んだ人は門中から外されるようです。厳しいですね。また親族以外でも門中の本家より、請うて竃の灰を貫い受ければ、加わる事が可能なようです。門中員は相互扶助の生活をなし、死後は一つの墓に納まり永遠に眠ると言う信仰的な繁りで強く結ばれているとの事です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.117

門中墓から右折して坂を降りていきます。ご覧のように、舗装路面はなくなり、いきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りがあるので迷う事はないと思われます。道なりに進んで下さい。曇りの日はかなり暗くなりますが、勇気を持って進んでください。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.118

階段部を写しています。黒い袋は土嚢袋ですね。昨年は無かったので新設されたようです。慰霊塔の手入れがされていると言う事で、何か嬉しい気持ちになりますね。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.119

なぜか歩くのに邪魔な位置に土嚢袋が設置されていますね。また歩く時に、土嚢袋を踏みつけたら、あっという間に破けてしまいますし‥‥。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.120

階段を30m程度下ると左に曲がり、ご覧のように今度は水平移動になります。草刈りが為されて居らず、例年通り雑草が繁茂していますが、そうした中、少し道が出来ていますね。直近で誰かが通行したようです。

因みにこの冬の時期はハブはいませんから、雑草が繁茂していても心配いりません、その点はご安心下さいませ。ただこうして毎年慰霊巡拝を続けていますと、目の前に広がる風景が、“人間の関与” が失われ草の丈が伸び、木本があちこち増えてやがて樹林となるという変遷の姿を垣間見ると、ちょっと寂しいものがありますね。昔はしっかり雑草が刈られ、手入れが行き届いていたのを見ているだけに、とても残念に思います。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.121

間違いないです。ご覧のように、誰か入っていますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.122

進行方向左手を見ながら50メートルほど進むとご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つの入り口という事になります。それでは近づいてみましょう。

沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊(第三中隊?)が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。 独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていたと言われています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.123

壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。 また写真中央部に少し黒い部分がありますが、そこからもう一つの壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いてみましたが、落盤していて進む事はできませんでした。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.124

もう一つの壕と繋がっている壕口を拡大して撮影しました。結構大きめの開口部であるのが見て取れます。壁面をご覧くださいませ。昔と比べたら随分と黒色が薄くなりましたが、それでもご覧のように黒い煤が付着しており、激しい火炎放射攻撃を受けた事が想起されますよね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.125

壕口上部はコンクリート製です。丸太を転がし型枠代わりに使ったと思われます。勾配がかなりあるのが見て取れます。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経ていますが、既に10センチ以上成長した鍾乳石が垂れ下がっていますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.126

丸太を並べてセメントを流し込み整形したと言うのが良く解る写真です。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.127

それでは大きい方の本部壕に向かいましょう。雑草が刈られ道が出来ていますね。

「独立高射砲27大隊本部壕」

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.128

奥まったところに、本部壕の壕口が見えてきました。ここが「独立高射砲27大隊(球12517部隊)本部壕」です。草木が繁茂して、昔と比べ壕口が発見しにくくなっていますよね。昔はこんな事は無かったのですが、各慰霊塔については、遺族会等の活動が縮小・収束に向かいつつあるという事で、やむを得ない事態ですね。手前に木が切られているのが見えます。やはり誰か直近で訪れましたね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子14

【平成23年(2011年)2月17日撮影】
「独立高射砲27大隊本部壕」です。吉井さんが壕の中に入ろうとしている写真です。現在の様に雑草が繁茂していません。実に行き来しやすい状態ですよね。ご覧のように、本部壕までの通路については、昔は驚くほどキチンと整備されていました。松永さんの話では、自衛隊員が手弁当で草刈りや通路整備を行っているという話を聞いた事があります。それはこの本部壕だけではなく他の慰霊塔や碑でも取り組まれていたという事のようです。残念ながら、現在はそうしたボランティア活動も下火になったのでしょうかね。

過去写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

【平成25年(2013年)2月15日撮影】
三回目のヒェー~~~。(^^;)
壕入り口を見つけたと思ったらご覧下さい。上から落ちたのでしょう。大きな岩が入り口を塞いでいます。この巨岩は、上掲の平成23年(2011年)に撮影した時にはありませんでした。また昨年の二つの巨大台風で倒れたのでしょうか、大きな木が倒れ込んでいます。

過去の写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.129

昨年は無かった看板です。この一年内に設置されましたね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.130

ここが独立高射砲27大隊本部壕の壕口です。壕入り口に大きな岩が鎮座していますが、この巨岩は平成24年(2012年)ですから今から9年前という事になりますが、沖縄で大きな地震があり、その揺れで崖上の巨岩が落下したものです。壕入り口を塞ぐように落ちたのには驚きました。犠牲者が居なかったと言うのは幸いでしたよね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.131

沖縄戦では、独立高射砲第二十七大隊将兵574名のうち、464名の将兵が戦死されたそうです。首里戦線から、この島尻の大渡陣地壕まで、大変な犠牲者を出したと言う事になりますね。私はこの場所で手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」が、昔はこの本部壕の真上にあったようです。そこは「おきなわファミリーランド」という遊戯施設がありました。オーナーのご厚意により無償で慰霊碑や観音像が建立されていたようです。そして恐らく同施設閉鎖に伴ってだと思われますが、平成14年(2002年)2月に同部隊ゆかりの地である島尻郡八重瀬町安里に移転されたとの事です。ここに「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」に書かれている碑文をご紹介します。詳しく書かれているので、同隊の沖縄戦での軌跡が碑文により垣間見えると思います。

「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」 碑文

旧沖縄派遣独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)は、昭和十九年五月二十日、山口県下関高等女学校にて編成完結、同月二十三日汽車にて下関から鹿児島へ向かい、二十四日仮兵舎第七高等学校(現鹿児島大学)に宿泊、二十八日輸送船「富山丸」にて鹿児島港を出港、途中、徳之島近海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受けるも、六月一日那覇へ上陸、八月一日現地沖縄召集兵入隊、十一月三十日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌二十年二月一日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入し、二十七大隊は、将兵五七四名(大隊本部約一〇〇名、第一、第二、第三の各中隊にいづれも約一五〇名)で編成される。

二十七大隊本部(大滝大隊長)は、那覇市小禄垣花台地、第一中隊(中村中隊長)は、那覇市小禄四八・二高地、第二中隊(内田中隊長)は、那覇市天久台地(四九・五高地)、第三中隊(光本中隊長)は、中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上にそれぞれ配備する。昭和二十年五月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進、同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊の主力は与座中座付近に転進、同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。

六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。

二七会の調べでは、沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵五七四名中四六四名が戦死であった。

合掌 

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.132

本部壕内の様子です。これまで何度も遺骨収集が為されたと思われます。ご紹介した「独立高射砲第二十七大隊英霊の碑」 碑文によれば、
「5月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進。‥。第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った」

と書かれている様に、この本部壕は昭和20年6月20日夜に、米軍による馬乗り攻撃で死傷者続出し、23日の夜、大隊は玉砕するに至ったとの事。23日と言えば、牛島司令官と長参謀長が、未明に摩文仁の司令部壕で自決した日でもありますよね。まさに断末魔の島尻戦線と言ったところです。それではご一緒に本部壕の中に入ってみましょう。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.133

卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の戒名などが、見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.134

壕内の別の場所にも、卒塔婆がありました。こちらは薄らと文字が残存しています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.135

本部壕の最初の広い空間の天井付近を撮影しました。長い歳月を経ているので、色合いが薄くなっていますが、黒い煤が付着しているのが解ります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.136

壕の中へ10m程入った所から撮影してみました。ご覧のように開口部は結構な大きさがあります。偽装はしたでしょうが、危うい大きさですよね。兵員の出入りだけでなく、高射砲もここから出し入れしたのでしょうか? もしそうだとすると、沖縄戦当時は平坦になっていたはずです。しかし現在では、ご覧のように土石で壕入り口は山盛りになっています。

元々はこの壕は二中隊が高射砲一門を配備して、南方からの攻撃に備えていた予備陣地でした。ですから高射砲は一門しか配備されていなかったようです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.137

ご覧のように、最初の広い空間には、二つの出入口があります。右側の出入口の方が開口部が広いので、より中に入る場合は右側の出入口を入っていきます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.138

ここが右側の出入口です。坑道の広さはこんな感じで、立っては歩けない状況です。爆風よけの為に意図して狭くしていると思われます。それでは中に入ってみましょう。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.139

少し進むと、この場所に出ます。十字路のようになっていますね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.140

十字路の右側の空間を見ています。この壕内で一番広い空間です。多くの将兵がここに居られたのではないかと推測されます。良く見てください、壕の奥まで煤で真っ黒ですね。とにかく激しい火炎放射攻撃を受けたようです。昔入った時に、木材が木炭になっているのを見ましたからね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.141

十字路から正面を見ています。ここにも坑道が続いています。いずれも中を撮影したい所ですが、あまり深く入って事故ったらまずいので、残念ですがここで引き返します。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.142

十字路の左側を見ています。坑道は奥まで続いています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.143

十字路の天井付近を見ています。色合いは薄くなっていますが、昔に戻るほど、煤で真っ黒だったのが推測されます。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.144

この辺りも真っ黒ですね。

独立高射砲27大隊本部壕に関連して忘れてはならない事柄として「患者壕」があります。患者壕は現在の大渡海岸最南端部より少し東側に位置しています。本部壕と患者壕との距離は、直線で900mぐらいでしょうか。この壕は同大隊の重傷患者50名余りが収容されていました。沖縄戦末期に同隊が本島南端に追い詰められ、乏しい食料の節約と壕の定員過剰の緩和の為に、もともとは戦死者を埋葬(安置)する場所であったものが、やがて戦えなくなった傷病兵を置き去りにする場所になったと言われています。

傷病兵たちは傷の治療や看護はおろか、水や食料も与えらなかったそうで、死体の腐臭、垂れ流した糞尿の悪臭の中で、傷の痛みや飢えや渇きにもがき苦しんでいたそうです。そうした中で米軍の馬乗り攻撃により、水陸両用戦車からの榴散弾や黄燐弾などあらゆる砲弾を撃ち込まれ、また最後には米軍兵士が崖を上がっての火炎放射攻撃を受けてしまいました。壕内は凄まじい轟音と共に阿鼻叫喚の地獄絵となった様です。

壕内は焼け爛れた死体の山になったまま戦後30年間放置され(頭蓋骨は終戦直後回収されたらしいです)、1970年代になってカビが生えたご遺骨が回収されたと言います。それでは、その患者壕を撮影した過去記事がありますので、再掲載させて頂きます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子41

【独立高射砲27大隊の患者壕/平成23年(2011年)2月17日撮影】
ここは大渡海岸南端まで歩いてきて、更に数十メートル回り込んだ場所です。引き潮の時のみ徒歩で来られる場所にあります。目の前にある崖の中央付近に穴があるように見えますね。ここが独立高射砲27大隊の“患者壕”があった場所だと言われています。今からそこに入ってみましょう。

遺骨収集の様子42

少し離れて遠くから写してみました。この付近一帯は、引き潮時なら誰でも容易に到達する事が出来ますが、満ち潮のタイミングをしっかり把握した上で訪ねる事をお勧めいたします。

遺骨収集の様子43

ご覧のように “患者壕” に入るには縄ばしごを登らねばなりません。高さは4メートルぐらいあるでしょう。こうした状況で沖縄戦当時重症患者等をここから運び上げたのか…。この壕は沖合に居た米艦船から丸見えですし、何より患者を引き揚げる困難さが、未だに「本当に患者壕だったのかな」という疑念が未だ捨てきれないのが率直な感想です。

遺骨収集の様子44

吉井さんが登って前に歩き出したところです。開口部周辺はかなり複雑な構造をしていますが、岩盤が一枚岩ではなく比較的もろい団粒構造ですから、執拗な砲爆撃を受けてかなり崩れたのではないかと推測しています。また開口部より下側の岩肌は比較的本来の地色が出て綺麗ですが、開口部より上側半分は煤でかなり黒色に染まっているのが見てとれます。榴散弾や黄燐弾が水陸両用戦車から打ち込まれ、最後は火炎放射攻撃を受けたという事で、内部が激しく焼かれ相当長時間黒煙が舞い上がっていたのではないかと思われます。

開口部付近は台風襲来時には、雨風で岩盤表面が洗い流されると思われますが、そうした状況下で66年も経て尚これだけ岩面が黒いというのに驚きを隠せませんね。高熱により焼却ススが焼付け塗装のように強固に付着しているのかもしれません。

遺骨収集の様子45

ハシゴを登ると岩石を削って平らにしたのではないかと思えるほど、平らな床面となっています。10メートル程奥に入ると、ご覧のように一段高い床面との段差に突き当たります。すべての壁面は強く黒ずんでいます。おそらく火炎放射戦車は海沿いを回ってきて、ここまで到達し壕に向けて火炎攻撃をした可能性が高いです。沖に停泊する米艦船からこの開口部は良く見えますから、もちろん艦砲による砲撃も強烈にあったでしょう。

遺骨収集の様子46

ご覧のように奥に行こうとすると、1.5メートル程度の段差の上に登らねばならない構造となっています。「上の段」の床面も概ね平坦であり、人工的に削ったという印象を受けます。岩盤をよく観察しますと、一枚岩ではないので、掘削は比較的容易だったのではないかと推測されます。ご覧のようにすごく焦げている箇所が多いですね。光は大きな開口部からまだ十分差し込んでいますので、この写真もストロボ無しで撮影されています。

遺骨収集の様子47

上の段に上がってみますと、平坦な床面が結構な面積でありました。天井はほとんどすべて、概ね立って歩けるレベルの高さが確保されています。一度空間が狭くなって、写真の様に奥にもう一度広い空間がありました。広い空間の中央部には現在も使用していると思われる拝所が設けられていました。爆風避け、あるいは壕の爆撃に耐える構造を維持するために、広い空間を連続させないで狭い開口通路を間に挟んだりするのでしょうか?。一枚前の写真にも、空間のど真ん中に柱がしっかりとありました。

遺骨収集の様子48

拝所及び広い空間の右側を見ています。この広い空間は天井が少し低くなっており、少し屈んで歩かないと頭を岩にぶつけてしまうおそれがありました。拝所はコンクリートブロックで構築され縁取られていましたが、ブロックは砲爆撃による破損も全く見られませんし、現在の規格寸法で作られていますから、戦後設置したと思われます。この壕が患者壕という事になりますと、この広い空間に大勢の重症患者が横たわっていたという事になりますね。

遺骨収集の様子49

湿気が高く霞が掛かったように写されています。奥の方には、なにやら四角く切り取られた石が積み上げられていました。明らかに石を積んで塞いだという雰囲気でした。目地はセメントのようなものが詰められていましたので、ゴシゴシと少し削ってみましたが、思いの外柔らかいことから、セメントは含まれていない可能性があり、拝所と同時に設置されたのではなく、戦前から設置されていた可能性が高いと思われます。

遺骨収集の様子50

壕内部から外を撮影してみました。ここに壕がありますと宣言しているような、とても大きな開口部…。米艦船からも望遠鏡を使わずともハッキリと視認出来たはずです。いかがでしょうか。重症患者であったとしても、あなたならこの壕に居続けたいと思いますか。??? (米軍の集中攻撃を受けるまでは、この患者壕の開口部はもっと小さかった可能性はあります)

この患者壕の存在が米軍に知られて最初の攻撃を受けたのは、6月23日前後だと言われています。 この患者壕への最初の攻撃は戦車からでした。最初の攻撃では、戦車砲から戦車砲弾、りゅう散弾、黄燐弾とあらゆる砲弾が、壕内めがけて打ち込まれ、砲弾の炸裂音と硫黄の悪臭と悲鳴とで言葉で表せないほどの地獄絵と化したそうです。

また沖合からピタリ照準を定めた米艦船の巨大な破壊力を持つ艦砲が火を噴き、砲弾は直撃弾として壕内で炸裂…。その時の様子は、この壕に収容されていたおよそ50名の患者の内、たった一人奇跡的に死を免れた兵士により語り伝えられています。

昭和50年、大隊本部壕と患者壕の遺骨収集が戦友会と御遺族により行われ、本部壕には白骨が十数体、患者壕には青カビの生えた50人分の御遺骨が、当時のまま山のように積み重なっていたといいます。しかしながら「戦いの果てに負傷した兵士を患者壕に捨てた」という非難を耳にしますが、誰がリーダーになろうとも、おそらく選択肢は無かったと思えます。大渡海岸および集落裏手ジャングルには、守備軍が構築した大隊本部壕以外の自然壕なんて全くありませんし、患者壕付近一帯の満ち潮時人を寄せ付けない断崖部分を俯瞰しても、“この患者壕よりも安全だと思える壕” は全くありませんでした。選択肢がなかった――。悲しいけれど、これが大渡海岸一帯を調査しての結論でした。

私たち三人は、黒く煤けた壕内の往時の悲惨さに想いを馳せ、戦争の不条理さを改めて噛みしめながら、戦後66年経過した壕内に立ち戦没者との無言の会話をしながら、ここで亡くなられた兵士の皆さんのご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子51

この患者壕がいかに苛烈な砲爆撃を受けたか…。患者壕に向けて激しい砲爆撃があった事を想起させる “物” が海岸線浅瀬に残っていました。この引き潮で露出した海岸の岩場に、無数に今も残る砲弾破片と思われる錆びて黒色をした鉄の塊です。驚くほどの数が散在しています。引き潮時に通行可能な患者壕付近の海岸線に散在する、幾多の肉体を貫通したかも知れぬ戦争の残像としての膨大な数の鉄片…。 この地で戦争があったという確かな証として、錆び尽きて消えるまで、少なくとも後100年は残存し続けるに違いありません。

※私の靴を写し込んでおきましたから、鉄片の大きさを靴と比較して下さいませ。砲弾の炸裂と共に、このような鉄片が強烈な爆風・轟音と共に360度全ての方向に飛び散るのですから、爆風を直接浴びると生死を分ける極めて致命的な結末に至る事をご理解頂けると思います。

遺骨収集の様子52

このような鉄の塊が、砲弾炸裂と同時にぶっ飛んでくるのですよ…。

遺骨収集の様子53

海岸に無数に残る砲弾破片その三。

遺骨収集の様子54

海岸に無数に残る砲弾破片その四。

遺骨収集の様子55

海岸に無数に残る砲弾破片その五。

過去写真掲載はここまでです。

ネットを検索していましたら、独立高射砲27大隊本部壕に関連した「患者壕」の内部を撮影した動画がありましたのでご紹介致します。リアルに「患者壕」のある崖や内部が撮影されています。因みに、ご紹介する動画は、沖縄戦当時の「患者壕」としては全く認識されておらず、あくまで動画タイトルに書かれているように、洞窟の中に拝所がある‥‥。と言う視点で撮影されています。その点をご了解の上ご覧下さいませ。

動画ご紹介

「【洞窟探検】干潮の大度海岸を磯歩き!午之方御嶽の真下にある洞窟の拝所は神秘的!」

調査・遺骨収集作業開始です

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.145

今日も高気圧の下で晴れ間が広がっており天気は問題ありません。最高の気象状況です。有り難いです。本日は右から戦没者遺骨収集情報センター長である岩下さん、松永さん、福岡さん、NPO法人沖縄鍾乳洞協会会長の山内さん、そして三浦さんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.146

福岡さんが手にしているのはハブを捕まえる棒だそうです。今朝持参された方が居られたので撮影させて頂きました。見たとおり木製ですね。Y字をした部分でハブの頭や体を押さえて捕獲すると言う道具みたいです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.147

昨日と同じ壕に到着しました。これからワイヤーラダーで全員壕底に降りる事になります。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.148

まずは山内さんが準備をして下さっています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.149

同じく山内さんが準備をして下さっています。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.150

昨日のワイヤーラダーによる登降を踏まえ、本日は若干の更なる安全対策を施しているようです。ワイヤーラダーのワイヤー部分やビレイロープを鋭い岩角から保護する為のローププロテクターを装着しているようです。ワイヤーラダーやロープが破断しないような施策ですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.151

昨日と同じように、まず最初にサイト管理人である私が降りました。最初に降りる人は大変です。ワイヤーラダーが右に左にと振れるからですね。二番目からは、私が下でワイヤーラダーを踏みつけ固縛するように努めますので、比較的楽に降りる事が可能となります。

昨日は初めての体験でしたから、とても緊張した登降でしたが、本日は二回目という事で昨日と比較して冷静に降りる事が出来ました。二回目の体験で感じたのは、昨日は腕力で登降していたなという印象を持ちました。それは無理もありません。落ちるかも知れないという不安が強いですし、足下は全く見えないので、ワイヤーラダーのステップに足が乗っているのかどうか確信が持てないのです。実際には乗っているのですが、不安が先に立ち確信が持てない精神状態でもありました。恐怖感が先に立つと自分の行動が信用出来なくなってしまうのですね。ですから結果として目に見える範囲にある腕力に頼ってしまうのだと思います。この方式だと腕力勝負ですから、あっという間に腕力のエネルギーを使い果たし疲労困憊に陥ってしまいました。

ところが今日は、緊張せず冷静に対処できたからでしょうか、思いのほか冷静に見えない足の動きがしっかりと感じ取れました。足先の靴底の感覚も目に見えるようです。ですから無理なく足で一歩一歩降りられました。昨日は絶対に離さないぞとばかりに力一杯使っていた腕力ですが、今日は手をワイヤーラダーにオーバーハングして回しているだけのような感じなりました。足の筋肉で降りるとこんなに楽ちんなのですね。

確かに腕力は降りる最初の所、ワイヤーラダーに足を乗せ終わるまでの、ステップの二ないし三段目までは強く使いましたが、宙ぶらりん状態の場所では、ワイヤーラダーのステップを一段一段靴の土踏まず部分を乗せた後に体重を預けるという流れで降りると、ほとんど腕力や肩の筋肉を使わずに下降する事が出来ました。今日の夕方には二度目の登攀がありますが、昨日よりも上手くやれそうな気がします。少なくとも登り終えてエネルギーを使い果たしたような疲労困憊状態にはならないと思われます。

宙ぶらりん状態の登降を通じて思うのは、人間は何よりも体験が大切ですね。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.152

こちらの写真の方が上部までしっかり写されていますね。ワイヤーラダーは10mの長さがありまして、1m弱壕底部に余っていますから、縦穴部の高さはおよそ9mと言う事になりますね。写真でお解りのように、ワイヤーラダーは宙ぶらりん状態です。この状態での上り下りは、普通の足を一段一段入れての上り下りのやり方では、ワイヤーラダーが大きく振れて危険な姿勢となり、結果として上り下りは時間も掛かり困難を極めるかも知れません。

上り下りは独特のやり方がありました。山内さんが説明して下さいましたが、ワイヤーラダーを抱き込むようにして上り下りするのです。言葉ではなかなか理解しがたいと思われますから、次の写真で説明させて下さい。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.153

写真は下掲の楽天のショッピングサイトから転載させて頂いてます。ありがとうございます。宙ぶらりん状態におけるモデルさんの登攀の姿勢に注目して下さい。手も足もワイヤーラダーを抱き込むようにしているのが見えますね。この写真のような姿勢ですと、ワイヤーラダーが大きく振れないので、比較的安全に上り下りが可能となります。

またモデルさんをよく見ると、一本のロープが装着したハーネスとカラビナで結びつけられているのが見えますね。これがケービングにおけるビレイロープ(ライフライン)と呼ばれるものです。私達もこの写真と同じようにビレイロープを、ハーネスこそ装着しませんが腰に巻いたローブとを繋いでの登降でした。これなら足を踏み外しても滑落は確実に避けられますし、少なくとも「死ぬ事は無い!」と、安心して登降が出来るという訳ですね。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.154

最後に降りてきた山内さんです。最後に降りる人は、アッセンダーを用いてのセルフビレイで降りる事になります。私達が降りた時と同じように、ワイヤーラダーから足を踏み外しても滑落する事はありません。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.155

山内さんが洞内の測量を開始しました。測量を終えると私達による調査・遺骨収集作業が開始されます。

因みに洞窟探検に測量図はつきもののようです。洞窟は既成の地図で形状を知る事は出来ません。山内さんは玉泉洞を発見した事で知られていますが、沖縄鍾乳洞協会会長として、幾多の洞窟探検と共に洞窟の測量図を書き記して来られました。直近では摩文仁の第三十二軍司令部壕や与座の第二十四師団司令部壕なども測量されています。洞窟探検家が書き記した洞窟の地図‥‥。見てみたいと思いませんか。(^o^)

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.156

松永さんが木製の測量ポールを持って、基点2に立っています。基点1はセオドライトを設置している場所ですね。ご覧のように測量は二三人で取り組むと効率よく測量作業を進められるという印象ですね。因みに測量機器をセオドライトと呼びますが、一昔前はトランシットと呼ばれていましたよね。ネットで調べますと、現在はセオドライトと呼ぶのが一般的なようです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.157

山内さんが手にしているのが、フィールドノートです。実測データを記録していきます。セオドライトをよく見ると、基点1からの距離を測るために、垂直に垂れた水糸があるのが見えますね。基点の真上にセオドライトが設置されるようにしているようです。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.158

基点を表すプラスチック製の基点標です。長さ10cmぐらいです。基点毎に番号を付加していきます。当然のことながら、基点標設置の場所は簡単に動かないように、岩であったり固めの地盤が理想的ですね。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.159

先ほど松永さんが測量ポールを持っていた基点2の場所に、セオドライトを持った山内さんが移動してきました。

令和3年(2021年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.160

測量ポールを持って基点3に立つ松永さんです。

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福岡さん手伝って、基点2と基点3との基点間距離を巻き尺で測定しています。建築の測量みたいにミリを争う訳ではないので、この程度の精度で十分でしょう。

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写真中央部に私達が降りる時に使用したワイヤーラダーやビレイロープが見えますね。測量はすでに西側に移りつつあります。基点3と基点4間の測量になりました。松永さんが立つ場所は狭く坑道と呼べるような狭い場所になって来ました。

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基点4と基点5間の距離を測定しています。狭い坑道は緩く右にカーブしています。測量場所がカーブしている場合は、見通しが効きにくくなるので、見通しの効く距離での測量を何回も重ねていく事になりますね。

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基点4を表すプラスチック製の板です。釘で地面に固定されています。

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坑道部分の狭い空間の上部は、ご覧のようになっています。フィッシャーと呼ぶに相応しい割れ目となっていますね。

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セオドライト等を用いた測量機器で距離や勾配を測量し終えると、山内さんは基点毎の断面図を作成する作業に着手しました。壕の断面図は基点毎に作成していきます。断面形状の高さ幅などの寸法は勿論、壁の形状や特徴、二次生成物の記入、そして遺骨収集に関わる調査ですから、追加で露出している遺品の名称や個数などもフィールドノートに記入していきます。この作業は山内さんお一人で出来ますから、一人静かに順番に記録して行かれました。

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フィールドノートに断面図に記載する情報を書き入れている山内さんです。写真では文字等は見えないと思われますが、通常見かけない記号や数字が並んでいます。洞窟調査に必須の専門の記号を用いて書き込まれているようです。この壕の測量図は、後で私達も頂けるとのお話なので、手に入りましたらサイトでもご紹介しますよ。(^o^)

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山内さんのフィールドノートへの記録が終わった基点1付近から、私達は調査・遺骨収集作業を開始しました。東側の一番奥から、しっかりと作業を進めて行く予定です。

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どれくらい深く掘ったら良いのか‥‥。まずはその辺から試行していきます。ほとんど沖縄戦当時の地盤が露出しているという状況は、写真を見れば一目瞭然です。勿論場所により、土砂が多く流入している場所も限定的ですがありました。という事で、掘ると言う労力はそれほど大きくはならない見込みです。(^o^)

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奥側が東となります。東側はすでに測量を終えて、調査・遺骨収集作業を開始している場所です。手前は山内さんですね。基点毎の断面図を作成すべく測量調査を続けている状況です。

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私達が昇降に利用する設備です。ワイヤーラダーとロープ二本が見えますね。ロープの一本はビレイロープで安全確保の為のロープで、先端にカラビナが付いています。この確保ロープがあるお陰で滑落等の転落事故は未然に防ぐ事が可能です。逆にこの安全確保ロープが無かったら、私達はこの縦穴壕への挑戦は諦めていた事でしょう。もう一本のローブは、山内さん自身が、アッセンダー(登高器)やデッセンダー(下降器)を用いてセルフビレイする為のロープです。

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埋もれていなかった事もあり、私達の最も関心を引いた一つがこの遺品です。ランプではないか! がメンバー全員の見解です。しかしながら、軍用ランプでは無いのが明らかですよね。

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慌てず急がず、慎重に慎重に作業が進められます。遺骨収集情報センター長も一緒に作業して下さっています。(^o^)

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沖縄戦当時、壕口に向けてハシゴが掛けられていたとすると、写真中央部の平坦になっている場所に設置されていた可能性が高いです。その平坦部からだと縦穴部はおよそ7mぐらいの高低差になるからです。

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広い空間側から狭い坑道側を見ています。結構高低差があるのが見て取れます。

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東側である広い空間の奥の方から調査・遺骨収集作業が進められています。今の時点では、遺品は沢山収集しましたが、未だ歯も含めてご遺骨は見つかっていません。

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フルイでボタン等の細かい遺品を逃さず見つけ出します。

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東側の一番奥は、ご覧のように地面も細かい土だけとなり、ほぼ探し尽くした状況となりました。徐々に西側に向けて移動していきます。

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壕の天井を撮影しています。鍾乳石の様子が特異な印象です。

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こちらも壕の天井を撮影しています。鍾乳石の様子が特異な印象です。少し黄色みを帯びていますね。

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福岡さんが定規が発見されました。擦ってみると、文字らしきものが書かれています。(^o^)

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泥の汚れを落としてみると、「大坪」とハッキリ読めますよ。(^o^)
しかしながら、名字は判読できましたが、下の名前は書かれていません。定規が真ん中辺りで切断されて、二つに分かれてしまって短くなっています。折れた切断面がギザギザしているのが見て取れますね。名前が書かれているであろう、もう一枚の定規を探すべく、皆さんが時間を掛けて頑張って探しましたが、残念ながら今のところ発見されていません。

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本日のこの縦穴壕における調査作業は終了です。まずは山内さんが登って行きます。山内さんは久しぶりに登高器であるアッセンダーを装着されたと語っていましたが、ご年齢に似合わず凄いスピードで登っていきます。(^o^)

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全員無事に壕から出ました。朝一番に集合写真を撮影しましたが、写っていない方が居られるので、ここで再度集合写真を撮影しました。前列右から福岡さん、吉井さん、仲里さん、遺骨収集情報センター長である岩下さん、後列右から三浦さん、NPO法人沖縄鍾乳洞協会会長の山内さん、そして松永さんです。皆さん口にこそ出しませんが、ワイヤーラダーの登降では緊張したと思います。何より無事に壕から出たという安堵感が、写真に写る皆様の表情に表れているような気がしますね。皆様お疲れ様でした~。(^o^)

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昨日ご遺骨が少し発見された壕に戻りまして作業再開です。壕口から少し降りた場所を観察して、どれくらい掘り進めたら良いか福岡さんが見極めようとしています。

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足場も良くないです。滑落しないようにしなければなりません。

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もう少し降りると、昨日ご紹介した横穴があります。

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ここも横穴ですね。

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ここは昨日紹介しなかった横穴です。この横穴は高さこそありませんが、地面が土なので横になったり眠るのには最高の場所かも知れません。

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壕口に戻りまして三浦さんが作業している様子を写しています。昨日に続き壕口を広げる作業をしています。沖縄戦当時の壕口はもっと高さがあったに違いありません。実際に掘っている課程で遺品が色々と出てきていますからね。

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一番奥に福岡さんが居てバケツに土砂を入れる作業をしています。

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今福岡さんが土砂が入ったバケツを三浦さんに渡そうとしています。

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バケツを受け取った三浦さんが、今度はソリに乗せて地表面に出そうとしています。

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壕の外では松永さんと吉井さんが待機していて、搬出された土砂をフルイに掛けてご遺骨や遺品を探します。

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私達の遺骨収集では、ご覧のようにソリが大活躍ですね。(^o^)

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福岡さんが頑張って掘っています。一人しか入れない空間ですが、徐々に広くなっていますよ。福岡さんには引き続き頑張って貰いたいです。

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福岡さんが「大きな鉄の塊がある」と声掛けがあり撮影しました。でかいですね。

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バケツに入れて出します。

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大きい鉄の塊です。砲弾の破片とかでなく、クサビのようです。一昨日もこの壕でツルハシが見つかりましたよね。クサビやツルハシは築城隊の資機材という事になるでしょうから、そうした部隊がここに居たという事なのでしょうか。

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今の時点での発見したご遺骨と遺品の様子です。

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外では松永さんと吉井さんが頑張っています。

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写真がピンボケになってしまいましたが、また脊髄が発見されました。

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ご遺骨が非常に脆くなっているので、慎重に掘り出しました。右手の下にあるのが遺品入れです。便利な小物入れといったところですね。福岡さんはこう言う点がマメできめが細かいんですよね。

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三浦さんです。福岡さんから搬出バケツを待っているところです。

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外では松永さんと吉井さんが黙々と作業を進めています。

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夕方となってので、これで本日の作業は終わりです。今の時点での発見された遺品の様子です。ご覧下さいませ。写真上側はほとんどが鉄の破片です。即ちこれらは砲弾の破片だと言えるでしょう。皆様、考えてもみて下さい。畳半畳の狭い場所を30cm前後掘り返しただけで、これだけの砲弾破片が出たのです。想像するに、米軍が日本軍の司令部があると知り、ここ摩文仁に如何に大量の砲弾を撃ち込んだかが解るというものです。しかも破片をよく見ると、手榴弾とか迫撃砲弾とかの小さな破片ではなく、戦車砲弾とか徹甲弾とか、そして艦砲砲弾などのでかい砲弾の破片に見えますよね。こうした大地を揺るがし絶え間なく降り注ぎ、激烈な破壊力で襲いかかる砲爆撃に耐えつつ、沖縄守備軍第三十二軍は劣勢の状況下最後まで全力で戦い抜いたのです。

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動物の骨も出ましたが、こちらは人骨と思われるご遺骨です。脊髄とか肋骨とか、そして仙骨もありますね。

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