令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月13日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月14日(木)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月15日(金)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月16日(土)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月17日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月20日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月21日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月22日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月15日(金) 慰霊巡拝
今朝の時点での天気予報は「曇りのち晴れ」で、最高気温23度、降水確率は20%、10%ですから、昨日に続き、雨の心配は無いと言えるでしょう。暑いぐらいの天候になるかも知れません。いずれにしても安心して作業に取り組めそうです。本日朝の慰霊巡拝は、「波上宮」、「殉職警察職員慰霊之碑」、「高野山真言宗護国寺」、「世持神社」、「沖縄県護国神社」、「琉球八社沖(おきの)宮」を訪ねました。
そして調査・遺骨収骨作業を終えてから、「大渡海岸」、「マヤーアブ」、そして「ひめゆり学徒散華の跡」を訪ねました。本日の調査・遺骨収骨作業は非公開となっていますので、作業記録の開示はありません。ご了承下さいませ。m(_ _)m
「波上宮」
「波上宮」です。那覇市若狭の旭ヶ丘公園内にある波上宮に到着しました。駐車台数は多くないのですが(多分20台ぐらい駐車可能)、駐車場の存在は知っていたのでその点は気が楽でした。眼前のこの鳥居は「二の鳥居」ですね。最初の鳥居は50メートルほど坂道を下った場所にあります。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
二の鳥居一礼してから参道を進むと沖縄独特の赤瓦建築様式が印象的な社が見えてきました。沖縄戦では鳥居を残して全てが消失してしまったようです。そして戦後は昭和27年から28年に掛けて、ハワイ移民の寄進などにより本殿と社務所を再建、そして昭和36年(1961年)には拝殿が再建されました。また昭和62年(1987年)旧社務所並びに参集所を撤去し、新しい社務所が新築され、現在の姿と同じ波上宮が整ったようです。
午前9時を過ぎた頃撮影したので、年配のおばさんがお一人居るだけの静かな参拝となりました。波上宮の背後にある波の上ビーチという海岸から見ると良く解るのですが、波上宮の奥津城は大きな岩の上に鎮座するという、極めて神秘的な雰囲気を醸し出しているのが印象的です。ちなみに波上宮は「なんみんさん」「ナンミン」などの名で親しまれ、お正月や節分、また5月17日の例大祭などは終日多くの参拝者で賑わうそうですね。また向かいの波之上臨港道路まで登ると、今度は海側から絶景の波上宮を眺めることができますので、時間に余裕のある方は回ってみてください。
ここ波上宮の正式名称は、「旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮」と呼ぶようです。「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。その後この聖地に…」と書かれていることから、創建はかなり古そうですね。 波上宮は、琉球八社の筆頭だそうです。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮を指すそうです。まだ波上宮しか参拝していませんが、機会を見て全神社に参拝したいですね。 また波上宮は沖縄県のパワースポット三選にも選ばれているのは良く知られていますね。特に恋愛系のパワースポットとして有名です。良縁結びのご利益もあるそうですよ。そして波上宮で神前結婚式を上げられます。実際に以前参拝に訪れた際には、祭壇の前での神前結婚式が執り行われていまして、しばし時間を忘れて見学した事もありました。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
【平成26年(2014年)7月5日の写真】
拝殿から見ています。本殿前では結婚式が執り行われているようです。しばし拝見させて頂きましたが、とても厳粛で良い雰囲気でした。神式も味わい深いなと感慨を新たにしました。
新郎新婦そして巫女さんの後ろ姿を見ながら、これまで31年間一度も参拝に訪れなかったことを詫び、金光教による沖縄遺骨収集の目標完遂が為されますように、また全ての沖縄戦戦没者の鎮魂を祈願すると共に、明日の慰霊祭が無事に執り行われますように、そして私達夫婦が冬の間だけ沖縄に移住出来ますように…。などと沢山の御願いして参りました。
過去の写真掲載はここまでです。
神社には「狛犬」と「獅子」が鎮座していますよね。この像は左側にあり、口が閉じている事から「狛犬」でしょうかね。沖縄らしい姿、色合いで制作されています。この狛犬は、沖縄のシーサー作りの名人、故「島常賀」さんの作品です。島常賀さんの狛犬作品は、海洋博記念公園、空港や博物館 等に飾られたり、記念切手の図柄にも使用されているそうですよ。(^o^)
波上宮本殿の左側に二つの小さな社がありました。案内板には左側の社が「世持神社(旧郷社)仮宮」、そして右側の社が「浮島神社(旧県社)仮宮」と書かれています。
まずは左側の「世持神社(旧郷社)仮宮」から見ていきます。立札の由緒書きには、「沖縄を救い繁栄をもたらした三恩人を沖縄救祖と仰ぎ昭和十二年に祀る(創建)以来世直しと殖産振興の神社として広く崇敬さる」と記されています。
世持神社とは昭和12年(1937年)に創建され、社名の「世持」は「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」を意味する沖縄古語であるとの事です。奥武山公園にあった世持神社は沖縄戦で社は燃えましたが、戦火を逃れたご神体は戦後沖縄総鎮守の波上宮に預けられました。戦後那覇市は奥武山公園内に社を再建することを決めており、社殿は奥武山、神体は波上宮にあるという状態になっているようです。
次に右側の「浮島神社(旧県社)仮宮」です。立札の由緒書きには、「宝徳3年、尚金福王時代、国相懐機が長虹堤の築堤に当り二夜三昼祈願し、神助により完成。天照大神に奉じて長寿宮奉称、朝野の尊崇をあつむ」と記されています。
それでは浮島神社の本宮は何処にあるのか! ネットで調べてもよく解りません。(^_^; 戦前長寿宮であった社名を浮島神社に改めましたが、戦後に長寿宮の祭神・天照大神を祀ることになりましたが、浮島神社は借地問題で立ち退きを迫られ、波上宮へ移転する羽目になりまして、仮宮のまま現在に至っているようです。因みに大昔の那覇は浮島であったようです。首里とは「長虹堤」という海中道路で結ばれていたようなのです。那覇が浮島だったというのは驚きですよね。「長虹堤」で検索してみてください。いろんな画像が出てきますよ。(^o^)
明治天皇の銅像です。下には碑文があり、明治天皇銅像建立の由来が書かれています。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
昭和天皇の最後の願いは、全国巡幸で唯一残された沖縄訪問でした。昭和62年は秋に沖縄で国体が開催される年でしたから、国体1巡目の最後となる沖縄国体出席でその機会をようやく得たのです。昭和天皇の初の沖縄訪問実現に向け宮内庁では水面下での準備が着々と進められていました。昭和天皇もまた4月の誕生日の会見で、「念願の沖縄訪問が実現することになったならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」と訪問への希望を述べられていました。しかしながら9月に入り昭和天皇は体調を崩してしまい、沖縄訪問一ヶ月前に腸の手術をする流れとなり、昭和天皇の沖縄初訪問はついに実現しませんでした。冒頭の詩は、昭和天皇の沖縄訪問中止を発表した際の心情を詠まれたものです。
【慰霊碑 碑文】
※この碑文はご名代として訪問された皇太子ご夫妻が、天皇のお言葉として代読されたものです。
昭和天皇のお言葉
さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき深い悲しみと痛みを覚えます。
ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたいと思います。
終戦以来すでに四十二年の歳月を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。
健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います。
皆には、どうか今後とも相協力して、平和で幸せな社会をつくり上げるため、更に協力してくれることを切に希望します。昭和六十二年十月二十四日
昭和62年の訪沖を断念して以降も、昭和天皇の側近たちは陛下の悲願をかなえたいと思っていました。昭和天皇が「健康が回復したら、できるだけ早い機会に沖縄を訪問したい」と何度も口にされていたからです。陛下のご負担を軽くするために、那覇から摩文仁までヘリで往復し日帰り日程なども検討されました。昭和62年と言えば昭和天皇が崩御される一年半前の出来事です。こうした経緯を経てあれほど念願されていた昭和天皇による沖縄訪問はついに実現しませんでした。
しかしながら、日本の元号も令和となりまして、202年ぶりに生前退位された上皇陛下は、昭和天皇に負けないぐらいに沖縄に強い思いを寄せられていました。その思いは訪問回数にも表れており、皇太子時代も含めて合計11回沖縄を訪問されているのです。そして「日本人として忘れてはならない4つの日」として、終戦記念日、広島・長崎への原爆投下の日と共に、沖縄戦終結の日(6月23日) を挙げておられ、お子様達にその旨を語り伝えておられるのはよく知られている話でもあります。日本国民たる私達も、上皇陛下のそうした志やまなざしをいつの時も硫黄島と並び激戦が展開された沖縄に向けたいものです。
波上宮界隈は、その昔首里や那覇の人達の、そぞろ歩きにお勧めの、のどかさや夕涼みを満喫するのに絶好の場所として有名だったそうです。地図を開いてみますと、波上宮前を走る県道47号線の向かいの地は辻という地名で、現在は風俗街として知られていますが、1526年尚真王時代から大東亜戦争沖縄戦による空襲で焼失するまで、遊郭として栄えた場所でもあるようです。遊郭というのは語らずともご承知の通りで、東京には江戸時代から戦後の昭和32年まで、吉原遊廓というのがあったそうですね。
ここで一冊の本をご紹介したいと思います。沖縄戦に関する本は年間数冊程度購入し続けています。多い年は十数冊購入する事もありまして、そのいずれもがネット検索で探し、これはという本を購入して、沖縄戦をそして沖縄そのものを学び続けてきました。ある時ネット検索していると沖縄戦に参戦した将兵の戦記本に交じって、沖縄出身の一人の女性の生き様を描いた「新編 辻の華」(上原栄子著)という本が目にとまりました。
著者である旧姓上原栄子さんは、上掲の波上宮に隣接する辻遊郭で遊女として働いていた方で、数え年4歳の時に辻遊郭に売られて来て大人になるまでそこで育ちました。そして十・十空襲や沖縄戦により辻遊郭は灰燼に帰してしまい、三千人居たとされる遊女は四散の憂き目に遭う事態となってしまいました。そうした激動の戦前戦後史に翻弄されたながらも、4歳の時に辻遊郭に売られから、辻遊郭の復興を願い戦後の混乱した社会を力強く生き抜いた彼女自身の、波瀾万丈の一代記だと言えるでしょう。
遊郭と聞けば、とかく搾取とか場末の悲惨さとかがつきまといますし、男が支配する世界というイメージがありますが、辻遊郭は大きく違っていました。驚く事に遊郭の運営に携わる男性はかつて一人もおらず、実に400年余年もの長い間、女性の力のみで築かれた世にも珍しい花園だったのです。また義理・人情・報恩が辻の三原則であり、暮らしの信条にしていたと言います。信じられない程の純な心と報恩、そして遊女に似合わぬ人間としての誇りを持って生きている事に心が打たれました。特に痛く胸に響いたのは、子供が親に売られるのが当然のような時代にあって、我が子を売って当座の生活をしのぐより術がなかったであろう父母に対して、孝養を尽くす事を持って報恩したと言うのです。「ウヤフワーフジ」(親先祖)に孝行を尽くすという生活習慣が沖縄では根付いていたにしてもです。
物が溢れ金さえあれば何でも手に入るという豊かな社会に生きる私達は、心もそれに比例するように豊かになったと言えるでしょうか。現代は自分の子供を売るなど考えられませんが、かつて貧しさが普通であった時代の人々の生き様や考え方、そうした社会で身を寄せて暮らす人々の揺るぎない絆を垣間見るのも無駄ではありません。沖縄の過去史として捉えるのではなく、貧しくとも誇りを持って生きるとはどういう事かという視点に於いて、恵まれてはいるけれど「誇りを持って生きる」という言葉が死語になっているところの、今を生きる私達こそ読んでみたい一冊です。(^o^)
《書籍ご紹介》
「新編 辻の華」
上原栄子著 時事通信社 平成22年(2010年)初版
この本を読み始めた時、力強い筆致に圧倒されグイグイと引き込まれました。これは遊郭という普通の社会では垣間見る事のない、裏社会の実体験が赤裸々に綴られているという面もありますが、社会からの差別という目線に耐え、花街に内包される社会秩序は、抱親様(アンマー)を筆頭とする、実に秩序立った女性だけの社会で、義理・人情・報恩を暮らしの信条とし、実に人間味溢れる穏やかな雰囲気の中で、お互いを信頼し尊重しあう生活を営んでいたという事柄が新鮮でもあり驚きの連続でした。花街で生きる事に誇りを持っている遊女らを描写しつつ、辻を、そして沖縄をこよなく愛した琉球女性の生き様を活写した上原栄子さんの一代記となっています。
《書籍ご紹介》
「母の問わず語り」 辻遊郭追想
真喜志きさ子著 琉球新報社 平成29年(2017年)11月初版
「殉職警察職員慰霊之碑」
波上宮の二つ目の鳥居横から横に逸れて、旭ヶ丘公園方面に歩みを進めるとご覧のような風景になり「殉職警察職員慰霊之碑」が見えて来ます。住所は那覇市若狭1-26 旭ヶ丘公園内になりますね。広場の北側を注意深く探してみて下さい。(^o^)
所在地ご紹介
「小さい声で、波上宮の駐車場・トイレをお借り出来るかもです (^^;)」
昭和29年(1954年)11月に建立された「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦開戦前の十・十空襲や沖縄戦戦没者を含み、且つ現在までの警察職員殉職者の慰霊顕彰碑です。昭和29年(1954年)11月に建立された「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦開戦前の十・十空襲や沖縄戦戦没者を含み、且つ現在までの警察職員殉職者の慰霊顕彰碑です。
「島守之塔」のところで述べましたが、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長は、沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下での沖縄県民の疎開政策と食糧不足対策に尽力しました。二人が推し進めた疎開政策により、沖縄戦を生き延びた沖縄県民は二十万人にも達し、沖縄戦犠牲者が日米双方で約二十万人であることを考えると、もっと高く評価されても良いと思えます。 荒井沖縄県警察部長は、轟の壕に滞在中だった頃から、胃腸障害と消化器伝染病であるアメーバ赤痢になっていたとの事で、摩文仁へは病を押しての移動となり、心身共に厳しい状況にあったと言えるでしょう。無事に摩文仁に到着した荒井沖縄県警察部長は、1945年6月26日、島田沖縄県知事と一緒に摩文仁の軍医部の壕を出たのを最後に消息不明となったままです。島田沖縄県知事と同様に御遺骨も発見されていません。その意味でも荒井沖縄県警察部長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中央公論新社 平成18年(2006年)初版
著者である田村洋三氏は、沖縄戦について数冊出版されており、その全てを購入済みです。氏の著作は綿密な現地調査による徹底した情報収集にあります。元読売新聞記者にして、”生涯一記者” を自認する著者だけあって、現地調査に重点を置き、足で記事を書いていると言えるでしょう。氏の執筆の課程では、必ずと言って良いほど取材対象の核心を知る人物に出会いますし、大いなる協力を得るに至るのは、他ならぬ氏の熱情が至らしめる必然であるとも言えるでしょう。
著者自身がこの本は共著であると言うほど、知念堅亀氏との出会いは大きかったようです。知念氏は自ら沖縄戦で九死に一生を得た方で、沖縄戦の民間研究者ですから、同氏との出会いにより、県庁行政が担われた14の壕の全てを明らかにする事となったのです。著者が語るように、「県民の安全を願いながら、県民に戦争への協力を求めなければならない、二律背反に苦しみつつ、自らの使命に徹して職に殉じた県首脳や職員の姿を明らかにしたかった」と語る程に、沖縄戦に於けるこれら県首脳や職員の動向が詳細に綴られています。
平和祈念公園内に、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」があります。 同著は沖縄戦に於ける、島田叡沖縄県知事と荒井退造沖縄県警察部長の二人をメインとして、随伴する県職員の方々の軌跡を明らかにしています。まず島田沖縄県知事は沖縄戦の僅か二ヶ月前に赴任、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、なり手のない沖縄県知事を受諾。在任五ヶ月たらずの間に、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなど、全力で県民行政に取り組みましたが、43歳で摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。
そしてもう一人である荒井沖縄県警察部長は、島田氏よりも一年七ヶ月前に栃木県から赴任、県民の県外疎開など県民保護のレールを敷き、その上で島田沖縄県知事と共に、沖縄守備軍との調整、折衝を含め全力で県政に取り組まれました。荒井沖縄県警察部長もまた同じように、44歳の若さで摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。荒井沖縄県警察部長についての著作は、この本以外には見当たりません。ぜひご一読を推奨いたします。
【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】
「産経新聞」平成27年6月11日
郷土史研究家が功績伝える
終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。
◇
講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。
■7万3000人を県外疎開
荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。
「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。
4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。
日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。
戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。
■顕彰へ機運高まる
塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。
「産経新聞」から転載させて頂きました
沖縄の島守 荒井退造の業績しのぶ
【とちぎテレビ】令和02年(2020年)9月23日
宇都宮市出身で、太平洋戦争末期の沖縄戦で多くの沖縄県民の命を救った荒井 退造の生誕120年を記念するシンポジウムが19日、宇都宮市で開かれました。
荒井 退造は今から75年前、日本における唯一の地上戦とされる沖縄戦で当時、沖縄県の警察部長として沖縄県民の疎開に力を尽くし、20万人以上の命を救いました。
この「島守」シンポジウムは、今年生誕120年の荒井 退造の人物像を紐解き、多くの人に命の尊さや平和の大切さを伝えようと開催されました。
シンポジウムの中では荒井 退造と最後の官選知事、島田 叡などを描いた映画、「島守の塔」で監督を務めた五十嵐 匠さんによる基調講演が行われました。
さらに栃木と沖縄、島田 叡の出身地である兵庫県との交流を深めようと、元宇都宮高校校長の齋藤 宏夫さん、元沖縄県副知事の嘉数 昇明さん、それに神戸新聞の小野 秀明さんがパネリストとして登壇しました。
映画「島守の塔」は、現在新型コロナウイルスの影響で撮影を休止していて、2022年の公開を目指しているということです。
「とちぎテレビ」から転載させて頂きました
殉職された警察官の氏名が列記されています。沖縄戦前のいわゆる十・十空襲や沖縄戦で殉職された警察官を含む、明治12年(1879年)に県警が創設されて以来今日まで、犯罪捜査や暴力団抗争などに巻き込まれるなどして亡くなられた殉職警察官140名が祀られているとの事です。現在でも記名が続けられていますから、今後も殉職警察官総人数は増えていく事でしょう。ちなみに殉職警察職員慰霊祭は現在でも継続されており、毎年10月頃執り行われているようですね。
1954年11月吉日に建立されたと記されています。
「當局の依属を體し謹みて潤色す」と書かれていますが、意味は‥‥。
波上宮を海上側から見てみようとしています。旭ヶ丘公園から海岸に出て、そこから海上道路から、つまり背後から波上宮を見てみましょう。今日は天気も良いので徒歩での散歩も快適に進められそうですよ。(^o^)
波上宮ビーチに出ました。しばし砂浜を歩いてみましょう。このビーチは沖合に道路が走っているので景観はイマイチなのですが、警備員が常駐するなど那覇市内から至近の場所にあると言う事で人気があるそうです。因みにこのまま進んで、海上道路を今度は奥から手前に歩いてくるという状況になります。
海上道路から撮影しています。波上宮奥津城と社務所、そして波上宮ビーチが見えます。まだ朝ですし曇り空なので、海水の色はパッとしませんね。海上道路は波之上臨海道路と近年開通した那覇西道路とが平行して走っています。
少しずつ近づいています。砂浜の海岸に巨大な岩が一個鎮座していると言う雰囲気ですね。
波上宮の背後の風景です。実に神秘的な風景ですよね。海水面に接する岩場は海食作用により削られているのが見えます。海食が進むと波上宮奥津城も崩落しかねませんが、後10億年は大丈夫ですね。
海上道路からグルッと敷地を一回りする形で、波上宮一ノ鳥居まで回ってきました。「殉職警察職員慰霊之碑」前にある波上宮ビーチを出発して、比較的早足で回りましたが、所要時間は16分ぐらいでした。
波上宮一ノ鳥居の鳥居の色調を見て、あれっ何処かで見たことがあるような‥‥。と、しばし考えたら思い出しました。靖国神社の巨大な一ノ鳥居と同じ色調だったのです。そこで調べましたら、鳥居もやはり木材不足と安全性確保の観点から、近年は耐候性錆安定化処理が為された鋼板で鳥居が作られるケースが増えていると言います。これらの耐候性鋼板の最大の特徴は、鋼の表面に強固な錆層を形成する事にあるようです。一般的なイメージとして鉄に錆は大敵みたいな関係にあると思っていましたが、その逆を行って錆を利用すると言う訳なのですね。この錆層が一種の塗装と同じ効果を発揮して、鋼板の腐食を防ぎ、年月の経過と共に美しい黒褐色へと変化していくのだそうです。知りませんでした~。
一ノ鳥居のすぐ横に、波上宮の由緒書が掲示されていました。
この石階段を登ると波上宮があります。二ノ鳥居も見えていますね。
「高野山真言宗護国寺」
「高野山真言宗護国寺」です。波上宮一ノ鳥居の右側には、高野山真言宗護国寺がありました。真言宗の開祖である空海に連なるお寺と言う事になりますね。ここ沖縄では最古の寺院のようですよ。また往古は当波上宮の別当寺でもあったようです。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
階段を登り、仁王様の居られる山門を潜ると本殿社がありました。社は近代的な作りの印象ですし、沖縄らしい雰囲気も併せ持っていますね。
波上山三光院護国寺です。ウエブサイトには略縁起として次のように記載されていました。
1368年に創建され、開山は薩摩の国(鹿児島県)坊津の一乗院より来琉された頼重法印(らいじゅうほういん)とされております。当時の琉球国王察度(さっと)の尊信を得て勅願寺として建立され、天下泰平、鎮護国家、五穀豊穣、万民豊楽を祈願し、県内で最初の密教道場となりました。以来、武寧王より最後の尚泰王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされています。
琉球王国時代を描いた小説『テンペスト』(池上永一著)の中でも、ベッテルハイム博士の滞在地として登場する当寺ですが、現在でも境内には「ベッテルハム博士」並びに同博士から牛痘種痘法を伝授された「仲地紀仁」両氏の石碑が建っております。
「世持神社」
奥武山公園までやって参りました。「世持神社」を訪ねたいと思います。同神社は奥武山公園内にあります。それでは最初の鳥居から入って参拝してみましょう。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
沢山の提灯が飾られていますね。今年の旧正月は1月25日ですから、旧正月用に飾り付けだと思われます。
最初の鳥居から50メートルほど進むと、今度は右に曲がります。赤い屋根の「世持神社」が見えて来たようです。
階段を登ると後少しです。提灯が一際賑やかですね。
世持神社は昭和12年(1937年)に創建され、沖縄県内唯一の郷社(当時)に列せられ、世直しと殖産振興の神社として県内の砂糖業界・農林業界・教育界から崇敬を受けました。奥武山公園にあった世持神社は沖縄戦で社は燃えましたが、戦火を逃れたご神体は戦後沖縄総鎮守の波上宮に預けられました。戦後那覇市は奥武山公園内に社を再建することを決めており、社殿は奥武山、神体は波上宮にあるという状態になっているようです。
沖縄県神社庁のホームページには、「世持神社」について次のような記述がありましたので転載させて頂きます。
世持神社由緒】
沖縄を救い繁栄をもたらした3恩人を沖縄救祖と仰ぎ昭和12年に祀る。 以来、砂糖業界、農林業界、教育界各関係者を中心に世直しと殖産振興の神社として広く崇敬される。「世持(よもち)」とは、沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味。 その後、昭和14年に県内唯一の郷社に列せられたが、戦火によって破壊された。更に立地上の理由で戦後占領米軍が社地への再建造営を禁止したため、移転創立計画中の境内地を失い、昭和27年より那覇市大道にて奉斎。昭和33年、「社団法人世持神社」として琉球政府の認可を受け、昭和47年の祖国復帰にあたっては「宗教法人世持神社」として承認を受け、現在は波上宮の境内地に仮宮を設けて祀られている。
【御祭神】
具志頭文若命(蔡温)
野国総管命
儀間眞常命【御祭神三恩人の功績】
三恩人の多岐にわたる功績については、広く知られているところだが、まず野国総管については、中国から「甘藷(イモ)」を導入したことがあげられる。一六〇五年(万暦三十三・中国暦)、進貢船で帰国する際、鉢植えにして持ち帰り、故郷の北谷間切野国村(現嘉手納町)や野里村で栽培したといわれている。毎年台風が襲来し、農作物に甚大な被害の出る沖縄にとって、地中で生育し、台風の被害の少ない「イモ」の導入は、人々にとって大きな福音だったといえるだろう。 次に儀間真常の功績については、イモ作の普及、製糖法の導入普及、木綿織りの導入普及があげられる。野国総管からイモを譲り受けて国中に普及させた。一六二三年(天啓三)には領地の真和志間切儀間村の村人を中国に送って製糖法を学ばせ、同村から順次各地に普及させた。また一六〇九年(万暦三十七)に島津侵入を受けて尚寧王が鹿児島へ連行された際には、お供として鹿児島に行き、そこで木綿に着目し、帰国にあたって種子を持ち帰って栽培、その後木綿布を冬の防寒用の衣類として普及させた。
また、蔡温は王府時代の沖縄を代表する大政治家で、四十年間も三司官の要職に就いていた。この間、中・北部の植林などの林政、羽地大川を始めとする大小数十の河川の改修及びそれを通しての漁業の振興、更に検地から耕地の手入れや農民の心構えなど、広く農政について、多岐にわたる施策を行った。蔡温の施策は、その後長く沖縄の農業、林業の指針となった。
このように、野国総管、儀間真常によって導入普及された「イモ」は、その後長く沖縄の人々の主食と成り、儀間真常の導入した製糖法は沖縄糖業の基礎となり、沖縄第一の換金作物・商品として王府財政を支え、県財政を支え続け、現在に及んでいる。蔡温の農政・林政は、野国、儀間の仕事をうけて、それを確立し、発展させたといえるだろう。
「世持神社」の右側にある鳥居と碑です。
左側の室内の様子です。
初めてこの看板が出現しました。宮司さんらしき人が室内で作業していたので、この掲示は初めて見たので経緯を教えて下さい‥‥。と伺ったところ、昨年から沖宮、つまり「琉球八社沖(おきの)宮」が世持神社を管理するようになったと語り、実際にこうした沖宮から宮司さんが来られて、管理業務と日々の作業を行っているとの事でした。
「沖縄県護国神社」に向かう途中に、大きなガジュマルの木がありました。これだけの大木になると幹なのか根なのか良く解りませんね。
「沖縄県護国神社」
「沖縄県護国神社」の霊域の右側にある石碑です。この石碑も同神社の関連施設のようです。碑文は何とか読めますね。「志司毛大主御世」と書かれています。ちょっと意味は解りませんが‥‥。(^^;)
「沖縄県護国神社」です。同神社は那覇市の奥武山公園内にあります。大きな施設ですから公園内に入れば、発見は容易だと思えます。ただ奥武山公園は広いので、公園駐車場に駐車した場合は、かなり歩かねばなりません。この「沖縄県護国神社」に参拝される方のみ、同神社の社の横にある専用駐車場まで、公園内を運転して行く事が出来るのです。同神社のみ参拝されるという方は、かなりの時間短縮が可能となりますから覚えておくと便利だと思います。
手順としては、国道331号線から大きな鳥居のある場所から奥武山公園の駐車場に入り、駐車場内に受け付けゲートが二つありますから、左側のゲートに進んで警備員に「護国神社へ」と告げると、護国神社専用駐車場に行けるゲートを開けてくれるので、そのまま前進すれば護国神社専用駐車場まで車に乗ったまま進む事が出来ますよ。(^o^)
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
沖縄県護国神社由緒書ですね。ギリギリ読めますが、後ほどテキストにしたものをご紹介致しますので、次の写真に進んで下さいませ。(^o^)
沖縄県護國神社二の鳥居です。沖縄は旧暦を採用しているのはご存じの通りです。旧正月は毎年移動しますので、その点が少しやっかいですが、それはともかく本年2021年の旧正月は2月12日から始まりますね。沖縄県護國神社は、初詣にとても人気の高い場所との事ですよ。(^o^)
「沖縄県護國神社傷痍軍人夫婦像」です。碑文をテキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。
【傷痍軍人夫婦像 碑文】
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は傷痍の身となった。特に沖縄戦においては、民間人も戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。
昭和二十九年一月沖縄傷痍軍人会を結成し、二千六百三十名余の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗炭の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。
平成二十三年六月二十二日
財団法人沖縄県傷痍軍人会
沖縄県傷痍軍人妻の会
ここから、一時脇道にそれます。ご了解の程願います。
傷痍軍人と「彰古館」、「しょうけい館(戦傷病者史料館)」
上掲で、「沖縄県護國神社傷痍軍人夫婦像」をご紹介しましたが、「傷痍軍人」と言う言葉が登場しました。戦争などによる、戦傷やその他の公務のために傷痍を負った軍人、軍属を指す言葉です。戦争で傷つき、そして亡くなられた方々への、「恩給法」や「傷病年金」、そして「戦傷病者戦没者遺族等援護法」などでも援護されている方々です。大東亜戦争後は、戦場の各地で傷ついた数多くの「傷痍軍人」が、平和となった戦後の社会で、ご家族と共に、苦労と困難の中で日常生活を営んでいたのはご承知の通りです。
傷痍軍人(しょういぐんじん)
戦傷やその他の公務のために傷痍を負った軍人、軍属。軍人恩給法によって増加恩給・傷病年金・傷病賜金の受給権有資格者をさす。日本では、1931年(昭和6年)11月までは廃兵と呼称された。多くの国で軍隊の士気を維持するために手厚く保護され、社会復帰への配慮が強力に実施されている。恩給法により増加恩給、傷病年金または傷病賜金などが受給でき、軍人傷痍記章を授与される。1636年にアメリカのプリマス植民地で、傷痍軍人に対して終身、生活扶助を与える法律が立法されたが、これが恩給や年金の始まりとされている。
ウィキペディアから転載させて頂きました
ここでは、「傷痍軍人」と言う視点から、二つの施設をご紹介致します。我が国の医療史博物館と言える「彰古館」と、戦傷病者史料館と銘打った「しょうけい館(戦傷病者史料館)」です。両館が掲げている趣旨と主眼は、避けて通れない戦争に付随する諸問題であり、遺骨収集を続ける立場にある人間として、見ておかねばならないと感じ、昨年に豊澤さんと二人で見学に行って参りました。私は靖国神社まで地下鉄で三駅ほどの所に職場があるので、両館共に交通の便が良く、比較的楽に移動出来ました。初めて知る事となる衝撃の知見と事実。そしてそれは又、非常に印象深い行脚となりました。
「彰古館」
「彰古館」は、東京都世田谷区にある、陸上自衛隊三宿駐屯地内にあります。ですから自衛隊の基地に入る事となります。同駐屯地内には陸上自衛隊衛生学校や自衛隊中央病院なども併設されており、敷地面積はかなり広い印象ですね。陸上自衛隊三宿駐屯地は、その昔は陸軍の駒沢練兵場として整備されたもので、昭和30年に久里浜からの衛生学校の移駐に伴い、陸上自衛隊三宿駐屯地として開隊されました。
「彰古館」は、戦時医療史料館と言ってもよいですが、明治の頃は軍陣医療が民間の医療に先じていましたから、その意味では、我が国の医療史博物館であると言えるでしょう。同館には、明治初期からの日本陸軍の軍陣医学関係の資料等、西南戦争から日清・日露戦争、義和団の乱、第一次、第二次大戦までの、医療の歴史と遷移に関わる貴重な資料が展示されています。
「彰古館」見学の難点は、予約申し込みをしないといけないと言う点ですね。見学の際には、専属の学芸員の方が案内して下さいますので、そうした人材の観点から混み合わないようにしているのだと思われますが、予約無しで見学できるようにして頂きたいですね。将来、新しい施設が出来ると言う話もあるようですから、その際は一般の博物館と同じように、いつでも見学出来るようになれば、見学者が倍増するでしょう。
因みに同館は撮影禁止とは言っていませんが、外部への公開は避けて欲しいと言う含意がありました。ですから私も撮影はしませんでした。また予約申し込みの手順は、「陸上自衛隊衛生学校 - 彰古館」がオフィシャルウエブサイトになっていて、そちらで申し込みの手順を紹介していますので、見学したいと言う方は訪ねて見て下さい。
所在地ご紹介
「陸上自衛隊三宿駐屯地 「彰古館」」
《ウエブサイトご紹介》
「彰古館」のオフィシャルウエブサイトです。陸上自衛隊衛生学校サイト内のコンテンツとなっています。
【個人サイト】「帝国陸海軍現存兵器一覧」と言うウエブサイトに、彰古館について記述しているコーナーがありましたので、ご紹介致します。
【個人サイト】「太平洋戦争史と心霊世界」と言うウエブサイトに、彰古館について記述しているコーナーがありましたので、ご紹介致します。3回に分けて掲載していますので、リンクを辿ってみて下さい。掲載写真が多いので、視覚的にも参考になると思います。
《書籍ご紹介》
「彰古館」 知られざる軍陣医学の軌跡
防衛ホーム新聞社編纂 (株)防衛ホーム新聞社 平成21年(2009年)10月初版
「彰古館 知られざる軍陣医学の軌跡」を読ませて頂き、まず驚いたのは、小学生等が背負うランドセルは、「赤一文字の医療背嚢」が原型であると言うのにはビックリです。因みに、赤一文字とは、まず赤十字徽章はジュネーブ条約に加盟しないと勝手に使用出来ないと言う事で、日本国はまだ加盟していないので、医療背嚢には、赤十字徽章から縦線を取った赤一文字が軍医部のマークとして制定されたそうです。明治19年に条約加盟を果たすと、赤一文字から赤十字マークに書き換えられたとの事です。
軍隊内で最も恐れられた病気は、伝染病と共に脚気がありました。脚気は、手足のしびれに始まり、最後は呼吸困難に陥り死に至ると言う怖い病気でした。たかが脚気と軽く見る事は出来ません。陸軍における脚気が原因で死亡する兵士は、日清戦争時で、4,064名、日露戦争時で、27,800名と、戦死者と比しても驚くほどの兵士が亡くなっていたのです。詰まるところ、脚気はビタミンB1不足が原因ですが、ビタミンと言う概念がまだ無かった明治の頃は、細菌によるものとされますが、真の原因は不明のまま試行錯誤が繰り返され、脚気による死者を減ずる努力が続けられたのです。そうしたなか、昭和2年にようやくビタミンB1不足が原因であると突き止められて、脚気による死者を減ずる事に成功したのです。医療皇位や技術の進歩に感謝すると共に、こうした難儀な歴史があった事に驚きました。
「近代形成外科の原点」と題して、大東亜戦争での戦傷者の中には、顔面の損傷が激しく、社会復帰に不安を抱く方も多かったようです。「彰古館」には、治療を行った顔面損傷の模型が展示されており、失礼ですが正視出来ない程の酷い顔面損傷の方が、まずまずのお顔になっていく課程を見る事が出来ました。何度か繰り返された整形外科手術により、まずまずの普通のお顔になられた方は、きっと幸せな後生を送られたと思わずにはいられませんでした。
砲爆撃で戦傷者となり、て手や足が無いと言う方も多かったに違いありません。「彰古館」には、義手や義足に関連する物品も展示されていました。日露戦争後に陸軍大将乃木希典が自ら開発した乃木式義手もその一つです。この義手は、次のコーナーで解説している「しょうけい館」にも、当時の技法そのままに再現したレプリカを作製し恩賞のシンボルとして展示されていますね。見た目、所謂審美的な義手・義足と、動く機能としての義手・義足とで、足の方は両者を満足させる機能が開発されたようですが、手はその機能が複雑で、審美的機能と機能性の両方を併せ持つ義手の開発には時間を要したようです。
「しょうけい館(戦傷病者史料館)」
しょうけい館は、戦傷病者とそのご家族等の戦中・戦後に体験した様々な労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です。(以上は同館ウエブサイトから転載)
「しょうけい館(戦傷病者史料館)」は、千代田区九段南1-5-13にあります。最寄り駅は都営新宿線とメトロ東西線の九段下駅となります。九段下には靖国神社がありますし、他には靖国の遊就館とか、昭和館などの戦争や歴史関連の博物館が集まっている場所でもあります。因みに、同館は表通りには面していないので、探すのに若干苦労されるかも知れません。靖国神社まで程近いので、同神社参拝の折りにでも立ち寄られるのが良いかもです。
「しょうけい館(戦傷病者史料館)」は二階建ての建物で、1階には傷病者の戦争体験談を流している「証言映像シアター」と図書室・視聴覚室などがあり、戦傷病者とその家族等の戦中・戦後に体験した労苦に関わる資料が陳列されています。椅子席も多いので、じっくりと腰を据えて聴取する事が出来ます。また2階が展示室となっていて、圧巻は「野戦病院の等身大のジオラマ」ですね。あまりにリアルすぎて怖いと感ずる方も居られるかも知れません。まずは遠くから眺めてみる事をお勧め致します。
告白しますと、私は「野戦病院の等身大のジオラマ」を見た後、精神がおかしくなってしまいました。同等身大のジオラマが、八重瀬公園にある「白梅学徒看護隊之壕」の手術室の風景とピタリ重なっていると見えてしまい、あたかも沖縄戦当時の手術の現場に居合わせているように感じてしまった結果のようです‥‥。自宅に帰り着く頃には、なんとか平常心になっていましたが‥‥。(^^;)
館内は全体的に見て、展示品も沢山陳列されていました。負傷兵が所持していたメモ書や手紙が陳列されていたり、千人針もありましたね。出征兵士の為にご婦人方が一つ一つ編んだという願掛けですよね。義足や義手・義眼などの補助具も色々とありました。また医療関連の視点から見た戦傷病者の歴史も哨戒されていました。こうした点では、上掲の「彰古館」の展示品と似ている面がありましたね。因みに館内は撮影禁止となっています。1階の一部の陳列品については、撮影可能との事でした。
所在地ご紹介
「しょうけい館(戦傷病者史料館)」
《ウエブサイトご紹介》
「しょうけい館(戦傷病者史料館)」のオフィシャルウエブサイトです。
《ウエブサイトご紹介》
「日本看護協会出版会」が編纂したサイトです。第一回 戦傷者の実態と題して、同編集部が作成したものです。撮影禁止の内部を写真で説明しているので、展示品などの理解が進むと思われます。
脇道から、元の 「沖縄県護国神社」に戻ります。ありがとうございました。
二ノ鳥居を過ぎますと、本殿や拝殿のある敷地内に入ってまいりました。
左右に鎮座するのは「狛犬」と「獅子」です。そして沖縄県護国神社です。同神社は、昭和11年に招魂社として創建され、昭和14年に護国神社と改称されました。昭和20年(1945年)4月から始まった沖縄戦により社殿を焼失し、昭和34年(1959年)4月に仮社殿を竣工しました。そして昭和40年(1965年)10月、現在の社殿が竣工したのです。
日清日露戦争以降、大東亜戦争までの国難に殉じられた軍人・軍属、そして一般住民、並びに本土出身の御英霊を祀っている神社でもあります。また同神社は、神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社でもあります。こうして見ると立派な建物ですよね。今回の南部戦跡遺骨収集会による作業において、慰霊のに志が果たせますようにしっかりと祈願してまいりました。(^o^)
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
《ウエブサイトご紹介》
「沖縄県護国神社」サイトに、同神社の由緒について次のような記述がありましたのでご紹介致します。
【沖縄県護国神社の由緒】
当神社は、昭和十一年に招魂社として創建され昭和十四年に護国神社と改称、昭和十五年七月に内務大臣指定護国神社となり、県社相当の社格を与えられました。日清日露戦争以降、先の大戦までの国難に殉ぜられた沖縄県出身者の軍人、軍属をはじめ、沖縄戦にて散華された一般住民並びに本土出身の御英霊を祀る神社です。
昭和十五年、那覇市による皇紀二千六百年を祝う筆頭事業として護国神社の社殿・施設の拡充が計画され、昭和十六年九月本殿改修工事が終了し、同時に拝殿、神饌所等も建立されました。しかし、昭和二十年の沖縄戦により神社も戦災を被り、戦後は本殿ほか一部の施設のみを残す状態でした。
その後境内地は学校用地として一時供用されましたが、沖縄戦での戦没者をお祀りしようとの声が県内各地から起こり、昭和三十四年四月に仮社殿が建立され戦後第一回春季例大祭を斎行しました。同年十一月に靖國神社により沖縄戦にて散華された全国の御英霊の御霊代が奉移され、同神社権宮司池田良八氏を斎主に第一回秋季例大祭を斎行しました。
昭和四十年十月、社団法人沖縄県護国神社復興期成会(会長具志堅宗精氏)の尽力により、現在の本殿、拝殿が竣功し、十一月に天皇陛下から幣吊を賜り、還座祭並びに奉祝祭を斎行しました。昭和四十七年五月の沖縄本土復帰を機に県へ宗教法人認証申請の結果、昭和四十八年十二月十八日宗教法人沖縄県護国神社として認証されました。その後県民の神社として崇敬を集め、多方面からの奉賛を戴き、念願であった新社務所を、平成二十二年十二月に完功しました。
那覇市奥武山 沖縄県護国神社
沖縄県護国神社ウエブサイトから転載させて頂きました
「琉球八社沖(おきの)宮」
先ほど慰霊巡拝した世持神社の日常管理業務を行う事となった「琉球八社沖(おきの)宮」を訪ねて見ました。場所は沖縄県護国神社の裏手と言ったら解りやすいかも知れません。世持神社参道も、旧正月用の飾り付けであるピンク色の提灯が沢山飾られていましたが、こちらの本家もしっかりと飾り付けられて準備が整っているという印象です。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
神社本庁に属さない単立の神社であり、沖縄県護国神社と同じように無格社のようです。祭神は、天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ。天照大御神)、天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)、天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)、そして熊野三神(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を祀っているようです。また明治の神仏分離までは「沖山三所権現」(沖の寺)と称して、神仏習合で阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音を祭っていたと言う記録もありますね。
《ウエブサイトご紹介》
「琉球八社沖(おきの)宮」サイトに、同神社の由緒について次のような記述がありましたのでご紹介致します。
【琉球八社沖(おきの)宮の由緒】
沖宮の創建は、尚金福王の時代である1451年という記録があります。江戸城築城が1457年、コロンブスのアメリカ大陸到達が1492年です。同じ世紀の出来事と考えると遥かなる歴史に感慨を覚えます。
1713年琉球王府発刊の「琉球王国由来記」によると15世紀中頃に那覇港内で不思議に輝くものを国王が首里城よりご覧になり、漁夫に命じて探らせると、尋常ならざる古木を得たそうです。翌夜より水面が輝くことがなかったので、この地に宮社を建て古木をお祀りし、以後、国王始め一般の尊崇をあつめ、 特に中国往来の進貢船や薩摩往来の貢船、離島航路などの航海安全の祈願に尊信されたということです。
琉球舞踊の話になりますが、旅の無事を祈る琉球舞踊「上り口説(ヌブイクドウチ)」の歌詞の一節「沖ヌ側マディ親子兄弟連リティ別ユル…」とある「沖」は、実は沖宮のことです。琉球の王様をはじめ、江戸方面へ上る多くの人々が、よき旅となるよう沖宮へご参詣された情景に思いを馳せると、歴史とロマンを感じていただけるのではないでしょうか。
沖宮は、創建当時、現在の那覇港にありました。明治41年(1908年)、築港工事の為、琉球八社の一つ安里八幡宮の境内地隣域に遷座されました。その古式ゆかしい本殿は、昭和13年(1938年)伊東忠太(いとうちゅうた)博士の推挙により国宝に指定されますが、第二次世界大戦により残念ながら焼失してしまいました。戦後、昭和36年(1961年)に通堂町へ仮遷座し、昭和50年(1975年)に奥武山公園内へ遷座し現在に至ります。
琉球八社沖宮ウエブサイトから転載させて頂きました
「アギーガーのクワディーサー」
糸満市内の県道134号線を走っていると、一際大きな樹木が目に入ってきたので立ち寄ってみました。車を安全な場所に駐車し、大木に近づいてみますと「クワデーサー」(モモタマナ/桃玉名)の木でした。クワデーサーは葉がおお大きい事から、木陰を作るという事で村落の集会所や墓地などで植えられているケースが多いですよね。またクワデーサーの果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。
このクワディーサーが植えられたのは、賀数集落から日露戦争に出征した大城亀兵士が、無事帰ってきたのを記念して植樹したとの事で、1904年(明治37年)の話ですから、今から何と117年前に植えられた樹木なのですね。また1882年(明治15年)に、区民総出で掘ったアギーガーと言う井泉に近い事から、地元ではこの大木を「アギーガーのクヮディーサー」と呼ぶ事となったようです。アギーガーと言う井泉について、糸満市史に記載があると言う事で、下にご紹介致します。
【アギーガー】
アギーガーは、賀数から八重瀬町字当銘・志多伯に向かう県道134号線沿いの賀数原230番地にある。1882(明治15)年に区民総出で掘った井泉(カー)で、水量が豊富で地下から吹き上げるように湧き出たのでアギ-ガーの名が付けられ、水道が敷設されるまで賀数の水源として活用された。現在は農家の灌水用に利用されているが、ンブガーであることに変わりはなく、正月の若水もそこから汲んでいる。
カーの側にある見事な枝ぶりのクワディーサー(モモタマナ)の大木は、1904(明治34)年に賀数から最初の兵隊として日露戦争に出征した東仲伊元(アガリナカイームトゥ)の大城亀が無事に帰還したのを記念して、国吉(クヌシ)の大城樽らが植えたとのことである。
「糸満市史 第8節 祭祀と信仰」から転載させて頂きました
平成三十年二月二十三日に認定されたと掲示してある「アギーガーのクワディーサー」です。
樹高13m、幹回り4.35m、推定樹齢113年と言う堂々たるクワディーサーですよね。
糸満市座波の県道134号線から見た与座と八重瀬岳の様子です。こうして見ると、一際両山上が屹立しているのがハッキリ視認出来ますよね。一番高いところは八重瀬岳で麓から90mもあり、米軍も容易に近づけないと言うのが解ります。両高地目指して進軍するのは陸軍第二十四軍団です。八重瀬岳の形状から同軍の将兵は、この山を「大きなリンゴ」と呼んだそうです。また与座岳は国吉集落の方で崖になっており、国吉丘陵は第三上陸軍団の作戦地域となっています。
首里退却後の沖縄守備軍は、東西約8キロの断崖続きの天然の要塞に守られる、南北約4キロの喜屋武半島に立てこもり、最後の戦いを試みんとする陣地でした。
日中の作業は、非公開での調査・遺骨収集を実施しました。ご了解下さいませ。m(_ _)m
「大渡海岸」
ホテルに帰る途中、「大渡海岸」に立ち寄りました。因みに大渡海岸と言う呼び名についてですが、沖縄戦当時は小渡海岸と呼んだそうです。公園内の駐車場に車を止めて少し歩くと、ご覧のように砂浜となり、やがて海岸に出ます。
所在地ご紹介
「大渡浜海岸に駐車場・トイレあります」
大渡海岸に出ました。写真中央部に見える物はコンクリート製の海中歩道で、満潮時には没します。満潮時の様子を次の写真でご紹介します。満潮時は手前の石ころが沢山ある場所も海水の下になりますね。
《過去の写真ご紹介》
【平成22年(2010年)2月12日撮影】
夕方摩文仁での調査を終えての帰り道、大渡海岸の満潮時はどのようになるのかなと思い、海岸に立ち寄りましたら、ご覧のように海の歩道は完全の海水面下に没していました。崖下に白く微かに見える石碑が「御地未之方女神」ですが、干潮の時にしか参拝に行けないようです。
過去の写真掲載はここまでです。
海中歩道を写してみました。潮が完全に引き切っていませんね。又は満ちきっていないとも言えます。と言いますのも、完全に潮が引いた状態の時に、私は海中歩道を凡そ100mぐらい歩いた事があるからです。竜の背を歩くような気分になれますから、海中歩道を歩く機会に恵まれた方は、是非とも歩いて見てくださいませ。写真の様子に戻りまして、ご覧のように、現状は40mぐらいしか歩けない印象です。因みに、この海中歩道が何故設けられているのかは不明です。
崖下をご覧下さいませ。二つの白い石碑が建っているのが見えますよね。潮が完全に引くと、両石碑前に徒歩で行く事が可能となります。また逆に満潮時には両石碑を訪れる事は叶いません。
まずは手前側と言いましょうか、砂浜に近い方にあるのが「御地午之方男神」(牛ぬふぁ男神)です。
続いて、より海側にあるのが、「御地末之方女神」(未ぬふぁ女神)です。午の方と羊の方に向かい、それぞれが鎮座しています。ご覧のように、現在は完全に潮が引いてない状況なので、ここから先へは進めませんでした。また男神と女神の間には、「御先七御水」と呼ばれる真水が岩の間から湧き出している場所があります。男神と女神は、琉球国の世替わり、沖縄の歴史を見守って来た国四鎮の中で、南の龍宮神(シアヌファ)で、大渡竜宮神と呼ぶようです。
因みに、独立高射砲27大隊本部壕に関連した「患者壕」へ行くのは、この崖下を徒歩で進む事になります。長靴ではなく普通の靴で歩くには、完全な引き潮状態でないと、たどり着けないし帰ってこられないと言う事になります。
「御地午之方男神」の左側の崖部分に洞窟がありました。貫通しているようです。何やら斎場御嶽の「サングーイ」に似ている印象がありますね。中に入って観察して見ましょう。ついつい遺骨収集の癖が出てしまいますね。
ご覧のように、別世界のようにジャングルになっていますね。今すぐにでもジャングルに入ってみたくなります。(^^;)
大渡海岸及び大渡米須海岸を遠望しています。海岸線の先端部辺りは荒崎海岸となります。束里にある糸豊環境美化センターの大きな建物も見えますね。
道路から海岸に出た場所を逆に撮影しています。喜屋武方面から摩文仁方面に行く方、そして逆の動きをする方、何れの方々も海岸線を移動する場合は、この砂浜を通る事になりますね。
崖の上側を撮影しています。樹木が生えていない部分について、金光教那覇教会の林先生は、「ドクロに似ている」と語って居られました。確かにそう言えば、そんな雰囲気ですよね。
大渡海岸からの帰り際、農家の畑を撮影しています。綺麗に手入れされている様子に感動し、撮影させて頂きました。(^o^)
これは恐らく果樹の木だと思われますが、何でしょうかね。ご存じの方は教えてくださいませ。(^o^)
車から降りて、大渡の嘗て「おきなわファミリーランド」があった高台を撮影しています。高台の麓には、沢山の建物が並んでいますが、大渡集落の住宅群です。独立高射砲第27大隊本部壕の壕口も高台斜面のどこかにあるはずです。
サトウキビが順調に育っていますね。植物が生き生きとしていると、こちらも気持ちが良くなります。(^o^)
「マヤーアブ」
「マヤーアブ」のある場所にやって参りました。壕のある場所は糸満市山城にある「平和創造の森公園」内です。ですから写真はすでに公園内に入って撮影しています。
久しぶりの訪問で楽しみにしていたのですが、公園内に入り壕に近づくにつれて嫌な予感がしました。「マヤーアブ」に行くための道に金網が設置されていたからです。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、平和創造の森公園の施設を利用できます」
「マヤーアブ」のある場所の様子です。鉄扉の両サイドもしっかりガードされているのが見えますね。危険だから立ち入り禁止したのでしょうけど、閉鎖はちょっと残念ですね。
「マヤーアブ」の解説板です。
賢固な鉄扉で閉鎖されています。
鉄扉に手を入れて撮影しました。壕口への道も完全に消えていますね。鉄扉から10mぐらいで壕口となっていました。
《ウエブサイトご紹介》
「沖縄戦とガマ(壕)」と言うウエブサイトの中に、「マヤーアブ」の断面図があるのでご紹介致します。広い壕だと言う印象を持ってもらえると思います。
沖縄戦で住民避難のガマ、県が立ち入り禁止に 「子や孫のため」住民が公開求める
【毎日新聞】令和2年(2020年)8月24日
太平洋戦争末期の沖縄戦で住民が避難した沖縄県糸満市のガマ(自然洞窟)を巡り、管理する県が崩落の恐れなどの危険を理由に立ち入りを禁止し、地元住民らが公開の継続を求めている。「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の猛烈な攻撃から身を潜めたガマは住民にとって「命をつないだ壕(ごう)」。修学旅行生らに戦時の状況を伝える平和学習にも活用されてきただけに、住民は「戦争体験を次世代に伝えるためにも公開を続けてほしい」と訴える。
平和学習の場として活用
ガマは糸満市山城(やまぐすく)にある「マヤーアブ」。現在は県平和創造の森公園の中にあり、入り口から最深部で地下約20メートル、奥行きは約30メートル、幅は最大で約17メートル。1945年3月ごろから、集落の住民約200人が避難したとされる。45年4月1日に米軍は沖縄本島中部に上陸。海・空・陸から激しい攻撃を加えた。マヤーアブは沖縄本島南端の海岸線まで約500メートルの場所にあるが、中にいた住民に死傷者は出なかった。しかし、米軍の侵攻で日本軍が本島南部に撤退すると、マヤーアブに日本兵が来て住民を追い出した。
糸満市史によると、住民は当初、入り口を畳で塞いで拒否したが、日本兵は畳を軍刀で切り裂き「戦いに勝つためだから出ろ」と言った。住民は家族ごとに分かれて逃げたが、相次いで砲弾などに襲われた。当時の山城集落の住民のうち64人が死亡。マヤーアブもその後に攻撃を受け、日本兵が亡くなったとみられる。
仲門(なかじょう)キクさん(87)は当時12歳。母ときょうだい4人でマヤーアブに避難した。夕方に米軍の攻撃がやむと、母と一緒に集落に戻って米を炊き、ガマに運んできょうだいと食べた。壕から追い出された後は森の木陰に隠れた。「海から弾がボンボンと上がってくる。大変だったよ」と顔をしかめる。
市史には、マヤーアブを追い出されて別の壕に隠れた住民の証言もある。その壕にも日本兵が来て、子供の泣き声で米軍に居場所が見つかることを恐れ、3歳以下の幼児数人を毒物注射で殺害したとされる。仲門さんも同様の話を聞いたことがあり、「一度息を吹き返し、2回目の注射で亡くなった女の子がいたと聞いた。私が戦後に結婚した夫のめいだった」と話す。
マヤーアブは戦後、平和学習の場として使われてきた。県観光ボランティアガイド友の会は、修学旅行生ら年間約1万7000人をマヤーアブに案内し、沖縄戦時の状況を学生たちに説明していた。高嶺典子事務局長は「市史にも証言が多く残っていて平和学習に適した場だった。暗いガマから外に出ると公園の芝生や海が目に入り、現在の平和な風景と戦時の状況の差を感じてもらえた」と話す。
県「亀裂見つかり危険」住民「現場で説明しないと実感できず」
しかし、県は2018年4月に「調査の結果、内部に亀裂や落石が多数… (ここから有料記事)「毎日新聞」から転載させて頂きました
平成26年(2014年)に「マヤーアブ」内部を撮影しましたので、ここでご紹介致します。
《過去の写真ご紹介》
【平成26年(2014年)撮影】
「マヤーアブ」は、糸満市山城にある広大な平和創造の森公園内の北西端部にあります。発見するのに時間を要するかも知れませんね。マヤーとは沖縄方言で、「猫」という意味だそうです。この壕の所在地は、もしかしたら公園の整備された芝地に隣接するジャングルの中にありますから、所在は公園外にあるといえるかしれません。いずれにしても、壕口に至るには公園の中を通らなければなりません。
ここが「マヤーアブ」入り口です。ちなみに私達は何度もこの壕に入っています。金光教の遺骨収集でも入っています。ご覧のように開口部は比較的大きくて、偽装するのも難しかったでしょうね。実際に米軍の激しい馬乗り攻撃を受け、壕内部は煤で真っ黒けです。
すでに10メートルほど降りたところで、振り返り開口部を撮影しました。こうして見上げると、開口部の大きさが実感できると思います。また壕口からの緩斜面は比較的難なく降りられました。土の部分が多いですから、雨の日は滑りやすいかな‥‥。
壕口から降りて最初の広くて平らな場所です。天井を見上げますと、結構鍾乳石の氷柱が発達しているのが見て取れますね。この辺りは賢固な岩盤と言った感じ、落盤を感じる事は無いですね。
ご遺骨ですね。更に降りていくとご覧のような人骨が埋もれるように岩肌に張り付いていました。多分収骨しようとしても、ご覧のように鍾乳石化していますから、簡単には取れないと思われます。
こちらもご遺骨の様子を写しました。太い骨ですから大腿骨かも知れません。骨の色が飴色をご覧しているのが見て取れますね。風葬骨は白いのと、骨の肌が風葬骨独特の肌合いとなっている事から、目の前にあるご遺骨は、間違いなく沖縄戦戦没者のものと思われます。その点については、私と松永さんでは意見が一致していますが、69年の歳月は、これほどまでにご遺骨を鍾乳石化してしまうのですね。因みにこの場所は、壁の上部からごく僅かながら水が湧き出ているのが視認出来ます。カルシウムを含む湧き出た水が69年の歳月により、骨を丸ごと被覆してしまっているのでした。
ずいぶんと降りて参りました。でもまだ底ではありません。写真奥の写っている部分が、この「マヤーアブ」の一番奥深い部分、且つ深い場所となります。壕口から最奥部までの距離は、クネクネ歩いて降りたので正確ではありませんが、体感的に三十数メートルぐらいではないかと言う印象ですね。また幅も広いです。最奥部付近が一番幅が広くて二十メートル弱と言ったところでしょうか。
この辺りも天井を見上げますと、鍾乳石氷柱が発達してぶら下がっているのが見えます。賢固な琉球石灰岩で一枚岩のようです。相変わらず落盤という可能性は無いと言えるでしょう。ただ地盤は最悪ですね。ご覧のように大小の岩がゴロゴロしています。米軍の攻撃で落盤したという雰囲気でもありません。もしも真っ暗な中を手探りで移動するとなると、ちょっと危険ですね。
中間部辺りから遺留品も目立って多くなって参りました。食事に使用したお茶碗が多いですね。この壕は当初山城集落の方々が入っていたという事ですから、日用品的な遺品も多いという事ですね。また大きな壕である事から、大勢の人がこの壕に入っていたのでしょう。
水瓶や茶碗などの日用品に加え、軍靴などの革製品も多いですね。日本軍将兵も大勢居たと思われます。
壕の一番奥の場所で皆さんが思い思いに遺品を探しています。壁面が実に不気味でおどろおどろしいですよね。濡れていると言う事もあるでしょうが、煤で黒くなっていると言う影響もあると思います。
壕口付近は乾いていましたが、奥深くなるにつれて湿気を感じます。水滴がポタポタと沢山落ちている場所がありました。この水滴を24時間集め続ければ結構な量になるかもしれません。溜まった水は、右側の穴から入ってどこかに流れ出ているようです。ご覧のように壕底は土が多いです。雨の日の地面は恐らくグジャグジャかも知れません。
鍾乳石氷柱です。水滴が沢山垂れていました。鍾乳石の氷柱が今でも成長しているようです。
天井面を中心に煤でかなり黒ずんでいます。なんか怖い雰囲気ですね。(^^;)
よく見るとメガネですね。ガラス部分は外れて無くなっていました。
とにかく壕内が非常に暗いですね。この暗いトーンで、ここに居るだけで陰気な気持ちになってしまいます。湿気も強く、鍾乳石氷柱からポタポタ‥‥。地面は粘土状態でグシャグシャ…。ここに避難しておられた方々も、この環境には音を上げていたかもしれませんね。
水瓶などもありました。割れた瓶も見えますね。生活用品的な遺留品がとても多いです。それだけ大勢の人達がここに居て亡くなったのかもしれません。
この「マヤーアブ」で亡くなられた戦没者の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「ひめゆり学徒散華の跡」
この場所に到達出来れば「ひめゆり学徒散華の跡」に必ず参拝出来ると思います。ここから約70mで荒崎海岸に出ますから、海岸に出たら左側方面に進みます。その距離凡そ110mです。この写真の立ち位置から200m弱で間違いなく到達出来ますよ。海岸からは「ひめゆり学徒散華の跡」までコンクリートで舗装道路のようになっていますので歩きやすくなっていますが、路面は狭いですしデコボコしているので、しっかり足下をみて歩いて下さいませ。因みに私は最初の訪問で到達出来ませんでした。当時は車道も狭く掲示板も無かったりそして樹林が鬱蒼として怖かったりで‥‥。(^^;)
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」
現在はご覧のように、糸満市が巡回バスを出して入れているのですね。隔世の感があります。このバス停の横に小道がありますが、この小道が海岸に至る道です。
バス停から見て、北側にある農道です。私は糸豊環境美化センター方面からこの農道を奥の方からこちらまで車でやって来ました。昔はこのルートで慰霊巡拝するのが一番だと思っていましたし、それしか無かったので、ここは何度も行き来しましたね。このルートの難点は、農道が複数あるので、曲がるべき道を曲がらないと、とんでもない所に行ってしまうと言う点でした。その点さえ克服できれば、このルートは解りやすくもありました。しかしながら、これからはこのルートは使わなくなるでしょう。次の写真をご覧下さいませ。
ここはバス停からみて東側を走る道路です。次回からはこの写真の道路を使って「ひめゆり学徒散華の跡」慰霊巡拝に訪れる事でしょう。この先900mぐらい走ると県道223号線に出ます。そこは平和創造の森公園に接する道路でもあります。昔からこの道はあったのですが、寂れた農道レベルの道路でした。道路脇の草刈りも為されていないし道路は水たまりだらけで、車の底をぶつけないかヒヤヒヤして走ったものです。でもご覧下さいませ。バスが通れるくらい拡幅されましたし、水たまりも激減しています。これはこの先に採石場が出来て、ダンプが出入りするようになり、道路管理が適正に為されるようになったからです。本日はこの道を通ってホテルに戻ったものですから、そうした経緯が良く観察出来ました。
荒崎海岸へと歩みを進めると、次第に波の音が大きくなって来るのが解ります。
荒崎海岸が見えて来ましたね。海岸付近の植生はアダンが多いのですね。それはまた岩場が多いと言う意味でもあります。
荒崎海岸に出ました。あっと言う間に到達です。時刻は午後5時です。関東地方なら真っ暗という時間帯ですが、ここ沖縄はまだまだ明るいです。現在は潮が満ちている段階でしょうか、リーフ(サンゴ礁)が海水面に隠れていますね。荒崎海岸は砂浜と言うのはありません。30m先は断崖となっていて、海食された絶壁が続いていますから、断崖絶壁に近づく場合はご注意下さいませ。し因みに絶壁の下に一部ですが砂浜があると言う状況です。
荒崎海岸に出た場所から西側方面を見ています。ここから海岸線を1km程進むと、本島最南端の地となります。
荒崎海岸に出たら迷わず東側方面に向けて進みます。ここから「ひめゆり学徒散華の跡」までの距離は凡そ110mです。岩場や草地が広がる海岸一帯をよく見て下さい。何となく東に伸びている道らしいものが見えるはずです。その道らしい先を見ると、一段高くなった岩場に何やらコンクリート製の階段もあったりします。それらが見えたらしめたものです。因みに海の向こうの沖合に摩文仁之丘が見えますね。ここからおよそ4.2kmぐらいの距離があります。
東に向かって歩みを進めると、ご覧のようにコンクリート製の階段が現れます。このコンクリート製の階段を見つけたら、これ以降迷う事はあり得ません。(^o^)
コンクリート製の階段です。登り終えると一段と視界が広くなります。
階段を登り終えました。写真中央部に白っぽい物が見えますね。そこが目的の「ひめゆり学徒散華の跡」です。ここからは路面は狭いながらもコンクリート舗装が為されていますから、その道なりに進んで下さい。
狭いながらも道になっていますね。道の両側をご覧下さいませ。道が舗装路面になっている事のありがたさを感じられるはずです。
見えて来ました。間もなくですね。
「ひめゆり学徒散華の跡」です。戦後まもなくご遺族により最初の碑が建立されましたが、台風の直撃で損壊したので、昭和47年に現在の碑が再建されました。大きな岩に埋め込まれた碑文の他に、写真右下には歌碑が埋め込まれています。また石で出来た献花台も設けられていますね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「ひめゆり学徒散華の跡」の碑です。昔は文字がしっかりと読めたのですが‥‥。碑には、16名の戦没者氏名と、戦死の状況の内訳、昭和20年6月21日に14名がここで、他2名がこの付近の場所で亡くなったと記されています。それにしても6月21日に戦死されたと言う事ですから、返す返すも残念でなりませんね。
碑にはご遺族による鎮魂歌が一句埋め込まれています。
「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」
写真右下に歌碑が埋め込まれています。
「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに」
近づいて撮影しました。
「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに」
米軍は火炎放射器でアダン林を徹底的に焼き払っていました。残敗兵や避難民を炙り出し狙撃していったのです。人々は火炎を逃れようと海へ海へと追い詰められていったのです。歌碑のある場所がひめゆり学徒の自決の現場だと言われています。ご覧のようにごく狭い岩陰といった場所ですよね。ひめゆり学徒は、この場で手榴弾を炸裂させ自決されました。碑のある岩場の反対側にある横穴に、米軍の小銃弾が撃ち込まれて数人が殺害され、その後の自決…。ほんの数分の出来事だったといいます。
「ひめゆり学徒散華の跡」から西側を遠望しています。今来た舗装路面が写されていますね。ご覧のように荒涼たる海岸線が続いているのが解ります。正に岩の隙間に身を隠す以外に無いという状況ですね。
「ひめゆり学徒散華の跡」から更に東側を遠望しています。こちらもまた荒涼たる海岸線が続き、岩の隙間に身を隠す以外に無いという状況ですね。また摩文仁之丘も見えますね。距離は約4.2km離れています。ここ荒崎海岸は本島最南端の地でもあります。こうした隠れる場所も無い海岸線一帯に、何万人もの方々が追い詰められたという事です。海上からは艦砲が火を噴き、空からは戦闘機に銃撃され、地上からは歩兵に狙撃され‥‥。同じような惨劇が至るところで目撃された事でしょう。
「ひめゆり学徒散華の跡」から海側を見ています。もうすぐ海岸であるのが解りますね。この辺りは砂浜は無く、30m先は海食された絶壁が続いています。
《過去の写真ご紹介》
【平成25年(2013年)撮影】
※この写真は、第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕の初日の作業を無事に終えた後、荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」に、一般参加者でまだ参拝した事がない人が複数人居られるとの事で、吉井さんがご案内すると言う話になり同行させて頂いた時の写真です。
吉井さんが指さす先に小さな小さな壕があります。横から撮影しているので解りにくいですが、数人入ったら一杯になる程度の小さな岩の隙間という表現が適正だと思われるような場所です。この横穴に向けて米軍が狙撃し複数人の学徒が即死したと吉井さんは説明しました。
米軍に狙撃され即死する学徒が出てしまう一方、一瞬の隙を見て脱出し背後のジャングルに身を隠した二人の学徒は危機を回避しましたが、元の場所に戻ってみると先生と9名の仲間が自決していて、鮮血は岩をも染め、折り重なるように倒れていたと言います。
吉井さんが指さす方向は海ですが、石灰岩が浸食されて崖となっており、海岸に降りることは出来ないのですが、吉井さんの説明では、一部踊り場のようになっている平らな部分があるそうです。ひめゆり学徒が自決を遂げる21日の前日に、その踊り場にみなが集まり、乙女らは確実に迫り来る死を避けがたいものと感じたのか、私物を海に投げ捨て、着替えを持っている人は身支度をととのえ、そして「故郷」の歌を合唱して過ごしたのだそうです。
最後に参加者全員で慰霊巡拝の記念撮影をしました。
過去の写真掲載はここまでです。
「ひめゆり学徒散華の跡」の慰霊巡拝を終えて、平和創造の森公園内を走る県道223号線まで車を走らせました。県道から写真中央の分岐道路を進むと、1km程で「ひめゆり学徒散華の跡」前のバス停に到達します。ここから進んだ方が、糸豊環境美化センターからのルートよりも、道に迷う確率が格段に下がりますので、ぜひこちらのルートで慰霊巡拝してみて下さいませ。(^o^)
所在地ご紹介
分岐道路を少し入った所で撮影しました。右側に曲がる車のタイヤの跡が沢山ありますが、これはダンプカーが出入りしている為に鉄板が敷いてある事によりタイヤ跡が残っています。繰り返しますが、右側の道を1km程進むと「ひめゆり学徒散華の跡」バス停に至ります。ご覧のように直進すると荒崎海岸にすぐ出ます。
海岸に出てみました。海岸岩場の幅が狭いです。すぐに断崖絶壁になっています。ただここは波寄せる海岸に降りるルートはあります。珊瑚の岩礁を切り開いて階段まで設置されています。サーファーが利用する為でしょうかね。因みに日曜日などはサーファーの車で、平和創造の森公園に沿った県道223号線路傍は大変混雑するのが通例のようです。またこの辺りは荒崎海岸と大渡米須海岸との隣接地ですから、どちらの海岸なのかは不明です。(^^;)
平成24年(2012年)2月12日に「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加した事があり、その際に「ひめゆり学徒散華の跡」から、上掲写真の平和創造の森公園に隣接する海岸部まで、約1kmぐらいですが引き潮時を利用して、海岸のリーフ上を歩いて渡った事がありますのでご紹介します。荒崎海岸の切り立った断崖の様子をご覧下さいませ。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
【平成24年(2012年)2月12日撮影】
松永さんの背中が写っています。私と松永さんの二人は主催する「沖縄県遺族会」による、平和創造の森公園まで乗せてくれる送迎バスには乗らずに、海岸沿いにリーフ上を歩いて帰る事にしました。
摩文仁之丘が遠くに見えますね。写真は引き潮時の遠浅の海岸と言う風に見えますが、実は松永さんのすぐ目の前は断崖絶壁なのです。そうした目線でよく見ると、手前半分ぐらいに雑草が生えていて、奥側の半分は引き潮時にリーフが露出した状況であるのが解りますね。
参加記に何度か登場していますが、「ひめゆり学徒散華の跡」です。私たちは手を合わせ散華された学生さんのご冥福をお祈りしました。この碑のある窪地周囲で16名が銃撃され、そして自決して亡くなりました。その悲劇は6月21日起きたといいますから、あと数日他の手段で遊弋しつつ生き延びていてほしかったです。そうすれば全員が助かっていたかも知れませんからね。
「ひめゆり学徒散華の跡」を遠くから俯瞰しています。隠れるための深い穴などは無いので、艦砲が炸裂したら強烈な爆風で多くの避難民が吹き飛ばされたでしょうね。
「ひめゆり学徒散華の跡」から程近い場所に、リーフに降りられる場所を見つけました。ラッキーです。ごく希に見る岩の割れ目を早期に発見出来ました。すぐには降りられないと思っていましたから嬉しいです。
海岸のリーフ上から撮影しました。ご覧のように崖は峻立して絶壁を為しているので、どこでも降りられるという事では無いですね。波による海食でこうした切り立った崖になったのでしょう。
ご覧のようにリーフの海原が広がっています。引き潮だからこそ実行出来る冒険の旅です。東に向かって歩みを進めていますので、摩文仁之丘が少しずつ大きく見えるようになってきましたね。到達目標は1km程先にある平和創造の森公園の海岸です。そこには階段があり難なく道路まで戻れるようです。
引き潮で露わになった岩肌には、ご覧のように小さな貝がびっしりと付着していました。当然の事ながら、全部生きているのですよね。
おっとっと。ごめんなさい。居残りの魚が、私たちの足音にビックリして、海水の無い場所へ飛び出してしまいました。海水のある場所へすぐ戻してやりました。
砂浜です。不思議なのですが海岸線の所々で、ご覧のように砂浜となっています。これは荒崎海岸全般に散見される現象です。年月を経て細かく砕かれた岩が小さくなればなるほど、このような砂浜が形成されるという事でしょうかね。
こちらは砂浜と呼ぶには粒が大きいですね~。良く見ると、珊瑚礁のかけらなんですね。それも長い間に削られて丸くなっている粒が多いです。
更にアップしてみますと、珊瑚礁のかけらと共に、小さな貝も目立ちますね。いろんな色のもの、いろんな形状のもの、驚くほど種類が多彩です。時間をかけて探すのも楽しそうですね。(^o^)
私の靴が写っていますが、それが目的ではありません。靴の先に黒っぽい物がありますね。岩礁に溶け込むかのように埋まっている鉄片です。艦砲砲弾の破片でしょう。靴は砲弾破片の大きさを知って頂くために写しました。戦後67年を経ていますが、埋まっていると言う事は、鉄片が沈んだのか‥‥。大渡海岸の患者壕見学に際しても、数多くの埋め込まれた砲弾破片を目撃しています。
こんな大きな鉄の塊もありました。これもまた砲弾の破片でしょう。この鉄塊は砂浜を行ったり来たりで、角が取れ丸みを帯びているのが印象的ですね。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ…」。誰もが知っている島崎藤村作詞の童謡『椰子の実』ですよね。どこかよその国から流れ着いたのかどうかは定かでありませんが、漂着していた椰子の実を割ってみました。松永さんの話によりますと、椰子の実の汁は飲み、白い果肉部分は醤油などで炒めものにして食べるそうですよ。
海岸線をずいぶんと歩いてきました。断崖絶壁まだまだ続いています。摩文仁之丘も一段と大きく見えるようになって来ました。まだ登り口は見えていませんが、あと100メートルほど前進すると、平和創造の森公園の端部に到達する見込みです。
ついに平和創造の森公園の端部、隣接する道路に登る為の階段がある場所に到達しました。荒崎海岸からだいたい1kmぐらいあるいた計算になりますね。摩文仁も更に大きく見えるようになってきました。(望遠側で撮影したので大きめに写っています)
沖合にカメラを向けますと、何十人と沖合に出て何かをしています。サーフィンを持っていないので、潜水を楽しんでいる方々かも知れませんね。
平和創造の森公園横にある階段を発見しました。私達も階段を登ろうとした時、冷蔵庫が放置されているのに気づきました。メイドインコリアでした。ヒェ~。もしかして韓国で捨てられた粗大ゴミが、海流の乗って荒崎海岸に漂着したのかな~。海岸というのはいろんな面を見せてくれて楽しいですね。
階段を上り広場にある駐車場から撮影しました。潜水を楽しむ人達かな? こちらに向かって歩いて来ます。ご覧のようにこの時間ではまだまだ引き潮が続いていますね。
駐車場からもう一度摩文仁之丘を撮影しました。今度は標準レンズで撮影しましたから、裸眼と同じ大きさで摩文仁之丘は見えている状態です。摩文仁高地は第三十二軍司令部があると米軍に知られてからというもの、連日痛々しいほど激しい空爆を受けたと、こうした離れた場所からも、そうした一方的な攻撃風景がよく見えたという証言がありましたね。
過去の写真掲載はここまでです。
本日最後の写真です。摩文仁高地を俯瞰しています。時刻も午後五時半を回りました。影も大分長くなって参りました。戦没者の御霊安らかなれと祈りつつ、本日の慰霊巡拝を終える事にしましょう。