令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月13日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月14日(木)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月15日(金)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月16日(土)慰霊巡拝(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月17日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月19日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月20日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月21日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月22日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月14日(木) 慰霊巡拝
今日は本年の遺骨収集初日です。今朝の時点での天気予報は「晴れのち曇り」で、最高気温20度、降水確率は0%、10%ですから、雨の心配は無いと言えるでしょう。幸先良いスタートとなりました。本日朝の慰霊巡拝は、「轟の壕」、「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」、「栄里之塔」を訪ねました。
そして調査・収骨作業を終えてから、慰霊塔ではありませんが、糸満市にある「幸地腹門中墓/赤比儀腹門中墓」を訪ねました。本日の調査・遺骨収骨作業は非公開となっていますので、作業記録の開示はありません。ご了承下さいませ。m(_ _)m
「轟の壕」
「轟の壕」は国道331号線(名城バイパス)に隣接して交差点の角に入り口階段があります。案内板とか掲示板は無いので交差点が一つのキーワードです。駐車場は国道331号線に接する形で数台駐車するスペースがありますのでご安心下さい。写真階段の左手に駐車場はあります。登り坂に随伴する形状での駐車場となっていますが、見れば駐車場と判断出来るはずです。駐車したらご覧のような階段を上っていきます。この階段も道路の拡幅工事に伴い一新されました。因みに階段を登り切ると、50mほど小道を進むと壕口となります。また「轟の壕」は修学旅行での平和学習をする場ともなっているらしく、壕に隣接する道路に大型観光バスが連なって駐車している光景を目撃する機会も多いですよね。
所在地ご紹介
「駐車場は、轟の壕への階段の左側にあります。トイレはありません」
階段を上り終えるとご覧のような道が現れます。そして50mほど進むと壕口となります。
昨年の出来事ですが、「独立高射砲27大隊本部壕」慰霊巡拝に際して、道路から参道に入ってすぐの所でキツネが目の前を横断したのです。キツネ君も私の存在に気づいて、こちらを見たので目と目が合いました。その時はカメラを構えていなかったので、残念でしたがキツネを撮影する事はなりませんでした。カメラを手に持っていれば‥‥。と強く悔やまれたので、それ以降車から降りて、参道や細い道に入る段階からカメラを手に持つようにしました。これならいきなりキツネなどの小動物に遭遇した場合に、撮影出来る可能性が高まりますからね。
今回も参道を歩き始めたらすぐに動く小動物が逃げていくのを目撃しました。カメラを手に構えて歩むようにしていたので、早速撮影に成功しました。写真にも道の奥の方に写っているのが見えますね。結果としては猫でしたが、このようにカメラを持って参道に入ると、これからもハクビシンなど色んな小動物を撮影出来るかも知れませんよ。(^o^)
轟壕の壕口に解説文が掲示されていました。ギリギリ読めますね。
「轟の壕」入り口に参りました。壕は自然洞穴で、全長約100メートルほどの長さがあり川が流れています。地表部の見える部分と川が流れている壕部分との高低差は20mから30mぐらいでしょうかね。沖縄戦当時の轟の壕の内部構造については、「上の壕」「下の壕」と呼ばれていましたが、戦後は地下1階~地下3階と呼称するようです。今私が立っている場所が地上1階として、川が流れている坑道部分が地下3階と呼ぶようです。ですから目の前の階段を降りて行くと、まずは地下1階と呼ばれる場所に到達するようです。
ガジュマルが行く手を阻み、またその他の木々が生い茂るなど窪地の様子もここからは見えませんが、沖縄戦開戦当時も同じように木々が生い茂り、天然に偽装されていたようです。島田叡知事以下の県庁首脳部がこの轟の壕に移動して参りましたが、先遣隊として知事一行よりも一足早くこの壕に入った後方指導挺身隊佐敷分遣隊長の伊芸徳一は、「中央の岩盤上には大きな雑木が数本繁り、丘の中腹からも、節くれだった古木の梢がその頭をのぞかせていた。(中略)ひろげる枝々が、円筒型の口を蔽い、天然の偽装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた」(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著から引用)と語っています。
窪地を少し降りていきますと、ある程度見通せるようになりました。ご覧のような光景になっていますから、窪地になっているのがハッキリ解るようになりますね。ちなみに階段はコンクリート製になっていますので、比較的安心して歩けますが、やはり雨の日は要注意という印象ですね。
目の前に拝所とちょっとした広場が現れてきました。戦後の呼び名である地下1階と呼ばれる場所のようです。
広場に到達しました。地下1階と思われます。拝所がありました。よく見ると拝所は複数ありますね。
こちらも拝所ですね。轟の壕に設けられた拝所は複数ありますが、今回はこの場所で手を合わせました。大きな岩に「母しん あまんちゅうだ とぅるるち」と読めますが書き記されています。「母しん」は母心とか母神とも表せますし、「あまんちゅうだ」は、あちらの世界とか‥‥。「とぅるるち」は轟壕の名称でして地元ではそのように呼ぶようです。轟の壕内では子供も亡くなったと聞き及んでいますから、母と子の供養のために設けられた拝所なのかも知れませんね。一つの推測ですが‥‥。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
写真は沖縄戦当時に「上の壕」と呼ばれていた場所です。壕ではなく穴みたいな印象ですが、米軍による馬乗り攻撃で大規模に破壊された可能性もありますから、沖縄戦当時と今とでは状況が違うかも知れませんね。因みに轟の壕については、沖縄戦当時「上の壕」と「下の壕」と呼ばれる場所がありました。「下の壕」は川が流れている最下層の洞窟で、戦後の呼び名である地下3階を指しています。
写真左手に小さな壕口が写されています。沖縄戦当時は「下の壕」、戦後の呼び名である地下3階への入り口となる場所です。「下の壕」への出入り口はここ一カ所だけのようですがの、壕内部を流れる川下から外に出たと言う証言もあるようです。
戦時中は最も多い時で軍民合わせてむ千人は超えて入っていたと言われています。「轟の壕」には島田叡(あきら)知事をはじめ沖縄県県庁が6月5日(諸説あります)に移動して参りましたが、知事一行の先発隊として下見した職員は、「広げる枝々が円筒型の口を半分以上も蔽い、天然の偽装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を、無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた」と述べています。
6月5日から「轟の壕」で県庁業務が開始されましたが、島田知事は6月15日(諸説あります)には警察部も含めた沖縄県県庁を解散すると宣言したのです。掃討戦を展開する米兵は戦車を先頭に刻一刻と島尻に迫っていたのでした。県庁職員の方々も壕外で業務もまともに出来ない状況下、解散宣言はやむを得ない決定であったと受け入れられたようです。そうした意味で「沖縄県庁最後の地」とも呼ばれます。 ちなみに6月16日(諸説あります)島田知事は摩文仁の司令部壕に向かうため「轟の壕」を離れました。島田知事と荒井警察部長の軌跡、特に轟の壕以降の動向詳しく知りたい方は、下掲の「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著をご覧下さいませ。
《書籍ご紹介》
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版
「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」
TBSテレビ報道局「生きろ」取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)初版
壕入り口が見えてきましたね。今日は階段部表面が乾いているので、滑る心配はほとんどありませんが、雨の日の訪問は地面がとても滑りやすいです。何しろ直径約30mのドリーネ(窪地)に降った雨の多くが、この壕口目掛けて流れ込むのですからね。轟の壕に避難していたのは老人や女性が多かったようですし、沖縄戦当時は時節が梅雨時であり、壕口の急勾配と共に土の斜面と言う事で、壕の出入りは本当に危険で大変だったと思われます。
間もなく壕に入りますが、こうして見ても壕口は驚くほど狭いですよね。とは言っても昔から見るとかなり大きくなりました。近年になって恒常的に修学旅行生の平和学習をするようになってから、生徒の安全を考慮して通行しやすいように広げられました。それでもまだご覧のように狭い状況には変わりはありません。壕内に入る場合は、汚れても良い服装、そして手袋とヘルメットは必須です。ライトも勿論必須ですが、欲を言えば懐中電灯ではなく、両手が使えるヘッドライトが良いのですけど、予算の面で難しいかもですね。
壕の中に入りました。写真のこの辺りが最も狭い部分です。数年前に拡幅され、そして突起物なども削られて丸くなり、開口空間は凄くスマートになりました。併せて床面も可能な限りセメントで固着され、階段みたいな段差が設けられて、とても歩きやすくなりました。
最難関な場所は数メートルです。少し下ると高さは同じように無いのですが、幅はご覧のように徐々に広くなってきます。天井面をご覧下さいませ。よく見ると煤で黒ずんでいるのが見えますね。「轟の壕」は、6月18日から米軍による激しい馬乗り攻撃が始まりました。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたものを落とし込むなど、執拗な馬乗り攻撃は三日三晩続き死傷者が続出したそうですが、そうした攻撃の残像が今も残されていますね。
ここまで来ると流れる川の水音が大きくなってきますね。今年は川の流量が少ないのか、水音は小さめでした。
轟壕の壕底に到着しました。沖縄戦当時は「下の壕」と呼ばれていた場所です。また戦後は地下3階と呼ばれている場所です。洞窟の長さは100mぐらいあるとの事です。私も川上から川下まで全部歩いて見ましたが、100mは無いというのがその当時の印象でした。また沖縄戦当時は轟の壕に最大千数百人が居たとされますが、全員が立っていたとしても、その人数は恐らく収容出来ないのではと言う印象を受けました。とにかく人が居られる平坦な地面が少ないのです。そうした意味で、沖縄戦当時の6月24日25日の両日に、約600人の避難民が救出されたと記録されていますが、こんな狭い空間に600人が暮らしていたこと自体に驚きを禁じ得ませんでした。
因みに轟の壕は地元の方々はカーブヤーガマと呼ぶそうです。カーブヤーとはコウモリの事で、昔はこの壕内にコウモリが沢山生息していたそうです。私はかなりの回数入っていますが、コウモリを見たことは無いですね。平和学習が頻繁に為されていると言う事で、コウモリ君達にしてみると安息の地では無くなったと言うことですね。
鍾乳洞の川が流れている場所に降りると、左手に拝所がありました。壕口を入ってからすぐ右手にも拝所がありましたね。
この写真は降りてすぐ右側を撮影しています。こちらが水上という事になります。どちらかというと水上側の方が乾燥していて居心地は良かったとされています。
ヘッドライトだけでは暗くて見えないのでカメラのストロボで撮影しました。右側は川が流れていますが、今年は流量が少ないように感じます。沖縄戦当時は、「下の壕」と呼ばれていた場所で、この辺りも大勢の人々が居たのでしょう。洞窟空間の高さは十分あり立って歩く事が可能ですが壁側に近づく場合は頭上も警戒しなければなりません。ここでは全く光を確認できません。また洞窟で川が流れている場所は酸欠事故は起こらないとされていますので、この洞窟内は酸欠の心配は不要と言う事ですね。
今日は一人なのでこれ以上奥には行けませんが、川沿いに道といいましょうか、広かったり狭かったりしますが平坦面があります。川の最終点を見たことはないのですが、岩に消えていくそうです。沖縄戦当時も川に流された人が居たといいますが、川そのものが岩陰に消えるのですから、流された人の消息は全くの不明ですね。また川が流れる一番奥まった所には池があり、地上の酪農家が設置した給水配管が降りてきています。その辺りが人の居住できた最奥部の場所と思われますが、私も一度その最奥部で調査したことがあります。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
天井面をご覧下さい。ご覧のように沢山の氷柱状鍾乳石が見えますね。よく観察しますと垂れ下がっている鍾乳石が切られているのが見てとれます。沖縄戦当時中に入った方々が怪我をしないように切り欠いたものと思われます。こうした措置はヌヌマチガマでも見られますね。
また地面をご覧下さい。壕内ですから雨が降る訳でもないのに地面が濡れています。氷柱状鍾乳石から水がしたたり落ちているのだと思われます。今現在は冬ですから雨の少ない時節にも関わらず地面が濡れているのですから、もしも時節が梅雨時なら‥‥。
氷柱状鍾乳石の先端部をご覧下さいませ。何かキラキラしていますよね。これは水滴が光っているのです。これは即ち氷柱状鍾乳石は成長を続けていると言う事になりますね。洞窟によって違いはあるでしょうが、地表からあまり深くない洞窟は、雨が降ると氷柱状鍾乳石からしたたり落ちる水滴量は確実に増すでしょうね。因みにこうした水滴があちこちから落ちる壕で遺骨収集の作業をすると体中がびしょ濡れになります。これは体験した人なら解りますが、想像を超えて不快ですよ。ですから沖縄戦当時この洞窟で過ごした避難民の方々も、飢えと共に何もかもが生きるために我慢我慢の日々だった事でしょう。
最初の広場の一番奥まった所にも拝所がありますね。何年か前の話ですが、この洞窟内に霧が発生していて、この拝所が薄らとしか見えないと言う事がありました。川の水の温度と洞窟内の温度との差が逆転した場合に霧が発生すると推測されますが、洞窟内の霧と言うのは、これまで一度だけしか見ていませんね~。
壕の最奥部にある池の調査をした事があります。松永さんが、轟壕の中にある池を調査してみたいと以前から語っていたからです。轟壕では、大雨の時に壕内に大量の雨水が流れ込み、壕内に避難していた民間人が流されたという情報があるのだそうです。ですから、もしかしたら池の中に流された人達のご遺骨が沈んでいるかもしれないと言うのです。という事で、虫取りネットのような道具を持参して、壕内にある池を調べた時の写真があるのでご紹介致します。
《過去の写真ご紹介》
【平成22年(2010年)2月19日撮影】
さすがに夕方6時を過ぎて外は暗くなってきましたが、どうせ壕内は真っ暗だから問題ないか~。(笑)
轟壕の階段を下りていきます。松永さんが手にしているのが、捕虫ネットがついた棒です。念のためお伝えしておきますが、これから壕内にセミやカブトムシを取りに行くのではないですからね。
壕内の天井にはご覧のようなツララがたくさん見られます。気の遠くなる年月が経過して出来たものです。
壕内の様子を松永さんが私たちに説明をしてくれているところです。何千年何万年の時が洞窟を作り、ツララを生成します。壁面もよく精査すると化石が多く見られるそうです。
台風や大雨の時に、壕内に流れるこの川が氾濫して、避難民が流されていったという話があるそうです。
ここが御遺骨がまだあるかもしれないと推測される池です。(池の撮影は失敗しました)
この付近は台風や大雨の時は、水浸しとなりしばらくの期間立ち入り出来なくなるそうです。
池は縦横10メートル以上の大きさがあります。深さはそれほど深くない印象です。
捕獲ネットを取り付けた棒を池の中に入れてみることにしました。
池の中の底をすくい、ヘドロをかなりの量上げましたが、遺品や遺骨は発見されませんでした。遺品などが見つかれば、後日継続調査する予定でしたが、30分ほど皆さんが交代で棒を操作しましたが、結局遺品や遺骨は全くありませんでしたので、棒が届く範囲をすべて探索したのち、見切りを付けて作業を終えました。
過去の写真掲載はここまでです。
壕から出ます。帰り道は登り坂となりますから、入る時よりも楽ちんに移動出来ますね。これから一番狭い空間を通って出ますので、ヘルメットを被っているとは言え強烈な頭突きには注意ですよ。(^^;)
壕口を超えて外が見えてきました。光がとても眩しいです。
壕口から撮影しました。轟の壕はすり鉢状になっているのが良く解る写真ですね。この写真では周縁部が見えてない部分もありますが、すり鉢状の直径は30mぐらいと言われています。
窪地の周縁部を写しています。戦後は地下2階と呼ばれている場所です。この辺りは壕はありませんが、穴みたいな場所は複数ありますね。目の前には大きな岩がゴロゴロしていますが、艦砲弾などで周縁部の岩が破壊されて下に落ちたのかも知れません。
同じく窪地の周縁部を写しています。そういえば地下2階部分は見ていなかったなと思いつき、時間も若干の余裕があるので、写真に写されている奥まった場所を見学したいと思いました。
階段の横は多くが柵がしてあるのですが、付近を見渡すと写真に写されている場所のみが通路のようになっていて、そこだけ柵がありませんでした。地面を見ると足跡も沢山あるので、立ち入り禁止にはなっていないと感じ、この狭い通路を進んでみました。
狭いながらも道が出来ていました。相当な人達がここを通っているような印象です。
絶壁周縁部に到達しました。ご覧のように土は人々の通行でしっかりと踏み固められています。そのせいで雑草も生えていません。これらの状況は明らかに多くの人々が行き来している証ですよね。また壁面は激しい攻撃を受けたのでしょう。よく見ると煤で黒くなっているのが解ります。
窪地の突き当たりに壕らしき穴もありますね。近づいてみましょう。この辺りは人通りが少なくなると見えて、雑草が結構生えています。ただ壁際の部分はやはり道が出来ているのが解ります。
壕とはとても呼べず、ちょっとした穴と言う感じですね。轟の壕の資料によれば、この岩陰辺りに佐藤喜一特高課長が居られたと記されています。佐藤特高課長は、沖縄戦当時宮城県出身の警察官僚として、首里陥落後は轟の壕で業務を遂行していまして、壕に居た佐藤特高課長と共に警察・県庁職員らが「住民が壕を出るのを認めてくれ」と、陸軍軍人を説得したとされている方で、結局、六百人余りの避難民が米軍に投降し命をつないだとされています。そんな身を挺して避難民を救おうとした佐藤特高課長が、至近弾を浴びれば全員即死みたいな、こんな危険な岩陰に滞在していたとは‥‥。
帰路につきました。来た道を帰ります。この写真は壕口を撮影していまして、写真中央辺りに壕口が見えますね。修学旅行生は左側に写されている手摺でガードされた通路を行き来しています。この写真で注目して頂きたいのは、壕口の手前の右側地面をご覧下さいませ。水こそ流れていませんが、現状を観察しますと枯れた沢みたいになっているのが解ります。想像するに大雨が降ると、ここは沢のように水が流れて壕口に入っていくと推測されます。先ほど壕口から出入りした坑道部分は、大雨の時にはきっと川のように水が流れた事でしょう。沖縄の梅雨入りは関東よりも約1ヵ月早いゴールデンウィーク明け頃に梅雨入りして、1か月半ほど続くのが通例です。沖縄戦当時の梅雨明けは6月5日頃だったと言われています。ですから、この梅雨の期間は壕口からかなりに水量が川のようになって流れ込んだと思われます。
修学旅行生が行き来する通常のルートを撮影しています。写真中央部辺りが複数の拝所がある場所となります。沖縄戦当時は「上の壕」があった場所ですね。
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」
見つけにくいと思われますが、頑張って探して下さい。住所としては糸満市真栄里です。木々が茂るこの小高い丘は交差点の近くにありますので注意深く周囲を観察してみて下さい。「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」は、目の前の階段を上るとあります。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」
階段は途中で踊り場がありますね。慰霊塔が見えてきました。
霊域で最初に目にするのは、「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」です。写真では解りにくいのですが、英語と日本語で碑文が刻まれています。日本語では「米国陸軍准将 クローディアス・M・イーズリー 1891年‐1945年 1945年6月19日 この地に於いて戦死す」と書かれていますね。戦死した日付が19日となっている事から、サイモン・B・バックナー中将が戦死した翌日に、同じように狙撃されて戦死しました。与座で日本軍陣地に対する戦闘指揮中に飛んできた二発の機関銃弾によって前頭部を撃たれての即死だったようです。
「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」の碑文のように見えますね。意味は残念ですが‥‥。
霊域全体の様子です。「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」と「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」の二つがあると言う感じですが、私は見落としてしまったのですが、「陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊長エドウィン・T・メイ慰霊碑」もあるようです。今度慰霊巡拝で訪れた際には撮影してみたいと思います。
ここから「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」になりますね。
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」の全景です。サイモン・B・バックナー中将は米第十軍の司令官で、沖縄戦も終末が近づいた昭和20年6月18日に守備軍による砲撃で戦死したのです。米軍が沖縄占領を宣言する6月21日から見ると、僅か三日前と言う段階での米軍最高位指揮官の死でした。
同日午後1時15分頃、観測所で戦闘指揮中に沖縄守備軍が放った砲弾がこの観測所の真上で炸裂し、吹き飛ばされた岩石の一つがバックナー中将の胸部を直撃したのです。バックナー中将はその場に崩れるように倒れ、十分後には絶命したとされています。
「沖縄戦は峠を越した。後は最後の追い込み戦だけだ」とバックナー中将は、6月15日に語っています。また同日訪れた観測所は第二海兵師団第八海兵連隊の前線観測所でした。警備が手数と見られていますし、軍装からも高い地位にある将官であると解る出で立ちであったようで、客観的に見て油断があったとみるのが順当かも知れません。因みにこの第二海兵師団諸部隊は、4月1日と19日に海上から陽動作戦に参加しただけで、各部隊は一度も上陸していませんでしたが、6月に入ってから最後の戦闘に参加する為に上陸し、真栄里での同隊の進撃状況を視察している所だったのです。
サイモン・B・バックナー中将の遺体は沖縄に仮埋葬されていましたが、終戦後にバックナー中将の故郷であるケンタッキー州のフランクフォート墓地に埋葬されたと言います。
またこの高台には「バックナー中将戦死の碑」が、米軍により昭和27年(1952年)に建てられていましたが、昭和49年(1974年)にキャンプフォスターに移設されたため、昭和50年(1975年)6月に沖縄県慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)により、新たにこの高台に建立され現在に至っていると言う状況のようです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
サイモン・B・バックナー中将は、沖縄戦における勝敗の帰趨は決したと判断したのでしょう。6月11日付けで、「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ」と題して降伏勧告文を発出していますが、その文面が第一線の手を経て第三十二軍司令部に届けられたのは、6月17日であったようです。軍使を出されよとする6月12日から五日が経過していたという事になりますね。まずはサイモン・B・バックナー中将から発出された降伏勧告状を見てみましょう。
【降伏勧告親書文】
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。
然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりました。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。
明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。 米軍上陸軍司令官 シモン、バックナー中将より
昭和二十年六月十一日
米軍側から見て戦況の帰趨も見えてきたと言う状況下、第三十二軍司令部首脳がサイモン・B・バックナー中将の18日の真栄里での戦死を、6月21日の夜か翌22日未明に知ったと、下掲の矢原博通著「沖縄決戦」に書かれています。バックナー中将の戦死に対する軍首脳部の反応も含めて一部引用させて頂きご紹介致します。
《書籍ご紹介》
「沖縄決戦」 高級参謀の手記
矢原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版
(277ページ)
アメリカ第十軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無情の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は踊り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもが喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の面前で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました
個別に見ていきましょう。「諸霊よ安らかに」と日本語で書かれていますね。下の英文も多分、亡くなられた沖縄の人々、アメリカそして日本の人々の諸霊よ安らかに‥‥。と言う意味合いでしょうかね。
《過去の写真ご紹介》
【昭和63年(1988年)撮影】
この写真も、野戦重砲兵第一連隊の中隊長として指揮をとっていた石原正一郎さんから頂いた写真です。石原さんは、昭和61年(1986年)6月18日に建立された、「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」についても設置に向けて尽力されました。石原さんは、毎年沖縄の慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていると語っていました。
サイト管理人コメント:
「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」が建立されてから二年後に撮影された写真ですので、同碑などはまだ真新しい印象を受けますね。
過去の写真掲載はここまでです。
「米國第十軍司令官シモンBバクナー中将戦死之跡」と刻まれた石碑です。
大きな岩に碑文が埋め込まれています。英文ですが、日本語で書かれた碑文が同じ岩の反対側にありまして、その日本語文と同じと言う印象ですね。
反対側の日本語文を見ています。日本語文では「一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す」と刻まれていますね。英文表記とほぼ同じと思われます。
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1946年 1月
写真解説:
【原文】 Stone with tablet on it showing spot where Gen. Buckner,
Jr. was killed.
【和訳】 バックナー将軍が戦死した場所を示す石碑
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon
B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon
B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板
日米で激烈な戦闘が続いた国吉集落方面を見ています。視界の先には「白梅之塔」や、8月28日に軍旗を奉焼し翌日鉾を納めたと言う「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」などがあります。
今度は西側にある海岸方面を見ています。解りにくいと思いますが海が見えていますね。海岸までかなり近いという印象を持ちます。慶良間諸島は写真右側にありますが、木の陰で見えないと思われます。
「栄里之塔」
「栄里之塔」の全景です。住所としては糸満市真栄里ですね。見通しの効く道路の交差点の一隅にありますので、結構見つけやすいと思われます。因みに交差点の反対側には、先ほど慰霊巡拝した「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」がありますので、是非両塔を慰霊巡拝される事を推奨致します。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」
「栄里之塔」です。昭和27年(1952年)3月に建立、そして昭和43年(1968年)3月に改装されました。「栄里之塔」には、この付近に布陣した第二十四師団(山部隊)の、主に歩兵第二十二連隊将兵と住民約12,000余柱が合祀されています。
ぎりぎり「栄里之塔」と読める文字が、後世の人間として何とかしたいなという思いを抱かせます…。真栄里一帯は6月中旬頃最も激しい戦闘が展開された場所ですが、戦後この付近に散在する御遺骨を、真栄里部落の住民が収骨し慰霊塔を建立したものです。
沖縄の納骨堂全般に言える事ですが、昭和32年に日本政府が当時の琉球政府に委託し、那覇市識名に「戦没者中央納骨所」を建設しました。同年以降、各地に収められている戦没者のご遺骨は、「戦没者中央納骨所」への転骨が推進されていったのです。この「栄里之塔」も、かつては大きな納骨堂がありました。転骨すると集落の慰霊の場が奪われるとして住民達が反対した為に、沖縄遺族連合会は、南方同胞援護会からの助成金を用いて新たな慰霊塔を建立し、そこに象徴としてのごく少量のご遺骨を残したと言う経緯があるようです。
碑文です。ギリギリ読めますが文章化してみました。
【栄里之塔 碑文】
歩兵第二十二連隊は第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。
住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。
終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨12,000柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。
昭和四三年三月 財団法人沖縄遺族連合会
歩兵第二十二連隊(山3474部隊)は、首里戦線における幸地での激戦が特に知られていますよね。北海道の歩兵第八十九連隊や山形の歩兵第三十二連隊と連携し、地形を生かした防御戦闘により米軍に多大な出血を強いたのです。5月27日からの第三十二軍司令部と全軍の撤退に際しては、退却する守備軍の退却援護を命じられていました。島尻での戦闘では、6月11日米軍第一師団の猛攻で小禄の海軍部隊が全滅すると、隣接して配備についていた歩兵第二十二連隊も壕を馬乗り攻撃され死傷者続出するも残存兵は真栄里に転戦布陣し、米陸軍最精鋭師団の鋭鋒を挫いたのでした。歩兵第二十二連隊第一大隊長小城大尉は、「ここが、我々の最後の陣地だ。我々は、ここで死ぬ」と訓示し、歩兵第二十二連隊将兵も呼応し最後の一兵まで手榴弾を投げ続け徹底抗戦をしたと言います。
歩兵第二十二連隊旗を託された本田昇少尉は、6月24日に宇江城の二十四師団司令部に後送のうえ奉焼したとの事です。現在クラガーガマの横には「山雨の塔」が建立されていますが「第二十二連隊軍旗奉焼の地碑」もありますね。また糸満市真壁にあるタヂリガマに歩兵第二十二連隊(山 3474部隊)本部があったと言う事で、「萬華之塔」敷地内には「山3474部隊慰霊之碑」が建立されています。
「栄里之塔」の東側を見ています。遠くには「白梅之塔」などがある方角ですね。この辺りはご覧のように平坦ですから、縦横に米軍戦車が行き来したと言います。
「真栄里の風景」
「真栄里入口」と真栄里集落入り口に石碑が掲示されています。またここから1300m程先には、ご覧の慰霊塔が建立されています。数多くの慰霊塔がある事という事は、真栄里で如何に激戦が展開されたかという証左でもありますね。現在のロンドン森公園にある守備軍の陣地壕の複数箇所に入った事がありますが、他にも数多くの陣地があったようです。
真栄里集落内にあった拝所です。崇める対象が面白い形をしている(不謹慎かもしれませんが‥‥)ので撮影してみました。
琉球赤瓦のお家があったので撮影させて頂きました。赤色の瓦と白色の漆喰とが醸し出す独特の雰囲気は、沖縄に来たな~という印象を私達に与えてくれますよね。ウィキペディアによりますと沖縄赤瓦について、次のような記述がありましたのでご紹介します。
「伝統的な沖縄赤瓦は、本葺瓦の系統に属する瓦で、平瓦に相当する女瓦と、丸瓦に相当する男瓦とからなる。瓦を葺く際には、まず女瓦を並べて、その左右の継ぎ目を覆うように男瓦を被せ、台風などの強風にも耐えるように瓦どうしの隙間を漆喰で塗り固める。このため、赤瓦を用いた屋根は、瓦の赤と漆喰の白とのコントラストが際だつ外観となる」
屋根の上に何か乗っていますよ。(^o^)
屋根の上に鎮座するシーサーです。面白い表情をしていますよね。(^o^)
もう一つのシーサーはこんな表情をしています。シーサーは沖縄県などでみられる伝説の獣像で、魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されることが多いみたいですね。
胴回りが太いユニークな木がありました。名前は知りませんが南国らしい雰囲気のある木ですよね。(^o^)
結球レタスの畑がありました。凄い数が植えられていますね。関東地方は冬のただ中にありますが、ここ沖縄は春物野菜がグングンと生長しているのですね~。(^o^)
まだ結球部は形成されていません。結球はもう少し成長を待たねばならないようです。
広いレタス畑の畦にバナナの木がありました。農家が植えたと推測されますが、ほったらかし状態に見えますが、それでもバナナはしっかり着果していますよ~。(^o^)
日中の作業は、非公開での調査・遺骨収集を実施しました。ご了解下さいませ。m(_ _)m
「幸地腹門中墓/赤比儀腹門中墓」
予てより、「幸地腹門中墓」(こうちばら)と、「赤比儀腹門中墓」(あかひぎばらりょうむんちゅうばか)を訪れたいと思っていましたが、その機会がやって参りました。道路上には、ご覧のように、案内板まで掲示してありますね。門中のお墓でありながらも、文化財のような扱いになっているのかもです。沖縄の観光ガイドでも紹介されているほどですからね。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。市街地なのでパーキングがあるかもです」
案内板に従い、道路に沿って進むと、どうやら入口らしき場所が現れました。
ここがお墓の入口のようです。入口は一つですから、「幸地腹門中墓/赤比儀腹門中墓」共に同一敷地内にあるのかもですね。
霊域に入りました。ヒンプンが設けられていますね。そして、そこに「幸地腹門中墓/赤比儀腹門中墓」と書かれています。両家併せると、広大な霊域となっているのに驚きです。敷地面積は約1,600坪もあるそうですよ。これは住宅の敷地面積ではないですよ、お墓の面積ですからね。念のため。沖縄では祖先崇拝と申しましょうか、先祖をとても大切にしているといのが、お墓に立つと解ります。
霊域の真っ正面から撮影しましたが、広大すぎて一枚の写真には全く収まれませんね。ヒンプンを写したと言えるような写真になっています。因みにヒンプンとは、門の内側にある目隠しで、魔物は角を曲がるのが苦手と言われ、直進して入らないようにする施設で、魔除けの意味も込められているとの事です。
霊域の左側を撮影しています。「赤比儀腹門中墓」ですね。
霊域の右側を撮影しています。「幸地腹門中墓」です。霊域全体で、トーシー墓(当世墓)が一基と、シルヒラシ墓が四基、そしてワラビ(童児)が二基の破風墓が並んでいるとの説明書きがありましたが、どれがどれに該当するのか解りませんね。沖縄県では最大級と言える、二つの門中の共同墓だそうです。創建は、1684年で、当初は小さな亀甲墓が一基あるだけでしたが、1935年に大改修され、屋根の形も亀甲形式から破風形式の家型の墓になったそうです。
いずれにしても、両墓共に日常的な管理がしっかり為され、沖縄の歴史を感じさせるお墓となっています。また「門中(むんちゅう)」又は、父系の血縁集団を表す言葉で、本島南部地域では、同じ意味で「腹」と呼ぶそうです。現在の二つの門中の子孫は、五千人ぐらい居られるとの話ですよ。(^o^)
「クワデーサー」の木が植えられています。「クワデーサー」は、葉が大きい事から木陰を作ると言う事で、沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられているようです。摩文仁の平和祈念公園内にある平和の礎にも沢山植えられているのはご承知の通りです。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)
「幸地腹門中墓/赤比儀腹門中墓」に関する説明と、沖縄のお墓事情、例えば門中墓についてとか、とても詳しく解説している、「みくにグループ」のサイトがありましたので、ここにご紹介致します。
《ウエブサイトご紹介》