平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月25日(金)故具志八重さんのお墓参り、松永光雄氏と与座調査
- 1月26日(土)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 1月27日(日)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月09日(土)松永光雄氏と平和学習往来ルート整備
- 2月10日(日)真栄里住宅裏の壕見学、真栄里で調査
- 2月11日(月)吉田幸生氏、松永光雄氏と安里で調査、照屋壕見学
- 2月12日(火)吉井球三氏合流、宇江城、「南冥之塔」西側で調査
- 2月13日(水)松永光雄氏、吉井球三氏と摩文仁南斜面調査
- 2月14日(木)福岡勇一氏合流、摩文仁南斜面調査
- 2月15日(金)田中由美氏合流、与座調査、平和学習サポート
- 2月16日(土)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月17日(日) 第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
早いもので二日目の最終日です。天気もバッチシですよ。降水確率なんと10%、最高気温22度、天候は晴れの予報という、昨日に続いて二日間共に天候に恵まれましたね。(^o^)
本日は4時から「沖縄戦全戦没者現地慰霊祭」が仕えられますから、少し早めの作業撤収ということになります。さあ今日も怪我の無い様に気をつけて頑張りましょう。
朝のご祈念/ミーティング
昨日と同じく、まず最初に摩文仁山上に向かい朝のご祈念を行います。
林先生が登壇され、昨日の収骨状況を説明して下さいました。各班共に取りこぼしと思われるご遺骨少数を収集されたという事です。また5班の方々は、昨日午後遅くなって大腿骨等が埋もれている場所を発見したそうで、本日朝から本格的に調査・収集活動をされるという事です。
5班以外は昨日と同一区域で範囲を移動しながら継続して収骨作業を進めることとなりました。
林先生の説明に耳をかたむける参加者の皆さんです。
林先生の説明に耳をかたむける参加者の皆さんです。
今朝は沖縄在住の嶺井さん主導での朝の体操が始まりました。しっかり身体を動かして眠っているままの筋肉を目覚めさせてやりましょう。きっと事故防止に役立ちますよ。
手足をギュッギュッと、可動範囲限界まで動かすと気持ちよいですよね。わずかな運動量ですが、限界まで手足を伸ばしましょう。
お三方共に一般参加者です。左側から沖縄出身の安谷屋さん(今回初参加でしょうかね?)、沖縄戦戦没者に限らず、先人先達に慰霊の心を尽くす事の大切さを、いつも私達に話して下さる窪山さん、そして大学生の頃からこの金光教の遺骨収集奉仕活動に参加され、社会人になった今も摩文仁に馳せ参じてくださる神尾さんです。
出発前の5班、沖縄の信奉者さんと一般参加者の皆さんです。
遺骨調査・収集活動の様子
5班の皆さんです。これから収骨作業に入りますが、入山前の班長さん主導のご祈念をしているところです。それでは本日もよろしくお願いします。
ここがご遺骨発見現場です。ご覧のように直径が20mは超える大きな岩の地際で発見されました。ご遺骨発見現場の岩場は西北西側に向いており、ある程度艦砲射撃の直撃は避けられたと思われます。
近づいて撮影しました。大きい骨は足の骨のようです。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
さっそく数人で収骨作業が始まりました。慎重に収骨する人、運搬する人、フルイにより細骨を拾い出す人等、役割を分担しながら作業を進めます。
フルイを用いて土砂と細骨を分別していきます。
白布の上に収骨されたご遺骨が並べられていますが、露出していたご遺骨の収骨は済んだようです。これから下に下にと掘り進んでいくことになります。
収骨場所は狭いので全員が作業に関われませんから、それ以外の方は周囲を探します。一カ所見つかると周囲でまた発見されたという話はよくある事ですからね。
写真でご覧いただけるように、収骨場所の前は比較的急な斜面になっています。台風などの際に豪雨と共に土砂がご遺骨のあった場所まで流れていき、数十年の歳月の後、ご遺骨は土砂に埋まってしまったものと思われます。
ご遺骨発見現場から10mほど離れた場所で一人の方が作業していました。
彼が1個発見したようです。胸椎、胸あたりの脊椎ですね。
第7回摩文仁清掃奉仕
沖縄宗教者の会主催による摩文仁清掃奉仕も、今年は第7回を数えるまでになりました。この清掃奉仕活動は、昨日がゴミを吊り上げるために滑車設置等の下準備をし、本日は清掃作業本番の日でしたが、今回に限り金光教の遺骨収集奉仕活動と重なってしまい、本日の清掃奉仕には、遺骨収集に参加された方の中から、有志を募り清掃奉仕活動に参加するという形態をとる事になりました。
この宗教者による清掃奉仕活動は、糸満市清掃局の全面的なご協力の下、「摩文仁清掃奉仕」 と銘打って、摩文仁に放置されたゴミを大規模に撤去する事を主な活動とし、企画&実施は 「沖縄宗教者の会」 が主導します。今年で第7回を数えますから、主催者側もボランティアで参加する方々も要領を得ており、特に説明することが必要ないぐらいスムーズに事が運ぶようになっている印象を持っています。
「沖縄宗教者の会」 とは、沖縄県内の各宗教・宗派の15団体で組織され、各宗派それぞれの信仰や信条を尊重しつつ、相互にに協力しながら恒久真の平和を築かんとして、「沖縄から世界へひろげよう平和の祈り」をスローガンとして、沖縄県内各地で諸活動を展開しています。
清掃奉仕の主な作業は、ジャングル内に放置されたゴミをバケツなどに入れて回収し、地表まで引き上げた上で、燃えるゴミと燃えないゴミとの分別作業を経た後、「沖縄師範健児の塔」のある広場から、駐車場までのおよそ200メートルの区間、バケツリレーよろしくゴミリレーで、袋詰めされたゴミを、待機しているゴミ運搬車のところまで運び上げようという訳なんですね。
ゴミ収集場所は、昨年と全く同じですが、二カ所から搬出する予定です。毎年の事ながら、割れた瓶を回収しなければならず、作業はとても危険な局面もありますが、作業に携わる方々の士気は高く、皆さんが本当に熱心に一生懸命取り組まれる姿に、いつもいつも感動しています。
どうぞ傷害事故に気をつけて頑張って下さいませ。
昨日の準備作業および本日の本番作業についても、天理教の「災害救援ひのきしん隊」が主体となって運営する運びとなっています。サイト管理人も「沖縄宗教者の会」の広報担当としてゴミと格闘する人達を熱くリポートしたいと思います。
それでは、瓶類等の危険なゴミと格闘する参加者の奮闘ぶりをご覧下さいませ。
摩文仁ゴミ清掃の様子
今年は二カ所からゴミを収集すると書きましたが、ここはそのうちの一カ所です。ご覧のようにものすごい量の空き瓶・空き缶が捨てられています。今までの体験から、今日だけではとても搬出できません。何年かをかけて全部出すという段取りになると思います。瓶は破損している物も多いのでとても危険です。皆さん気をつけて作業して下さいませ。
ゴミを収集しているこの場所は壕の中です。健児之塔から30mぐらいしか離れていない場所にあります。開口部が小さく砲爆撃を避けるには絶好の場所だと言えるでしょう。そうしたこともあり、このゴミの下にはご遺骨があるのではないかと推測されています。来年には全て搬出し終えてご遺骨の存在の有無を確認したいと念願しています。
これまで事故は発生していませんが、ご覧のようにとても危険な作業を伴っています。作業する方々は連携しながら危険を避け、第一線のゴミをバケツに入れる作業に携わっている方々は、疲れてきたら適宜交替するなど、作業効率を高めるように努めています。
この場所でバケツに入れられたゴミは、写真上側の小さな開口部から地表に運び出されます。
地表から撮影しました。壕の中からこのうよにしてゴミバケツが出てくることになります。
地上では人が並んでゴミバケツをリレーで手渡していきます。
写真奥のあたりがゴミのある壕があるところです。舗装されている参道までの距離30mといった所でしょうか。ガラス製瓶をバケツ一杯に入れると結構な重さとなりますから、30mのこのアプローチは男性が受け持つことになります。
バケツリレーの様子二枚目です。30mといっても結構距離がありますよ。
ゴミバケツがさんどう横の空き地まで持ち上げられました。ここで燃えるゴミ燃えないゴミに分別され、ビニール袋に詰め替えられます。ここから先はバケツではなく、ビニール袋のリレーが始まることになります。
今回のゴミ収集場所は二カ所です。もう一カ所の現場に行ってみましょう。このアルミ製ハシゴを利用して降りていくことになります。
ゴミ収集現場が見えてきました。
この現場のゴミの総量は半端でないボリュームでしたが、ゴミの山表面から2mちかく収集された事もあり、ご覧のようにゴミに土が交じるようになってきまして、一見ゴミでないように見えますが、よく見ますと土混じりの割れた瓶が大量に含まれています。
この場でのゴミ収集は、今年でなんと四年目です。水色のヘルメットを被っている方は、摩文仁ゴミ清掃を主導する天理教の「災害救援ひのきしん隊」のメンバーなのですが、写真中央の方のヘルメット位置の壁面に注目して下さいませ。ヘルメット位置の上側と下側で壁面の色が少し違って見えませんでしょうか。ヘルメットの下側はゴミの山に埋もれていたこともあり、飴色をした壁面となっています。ここのゴミ山はすでに人の背丈ほどもゴミ収集が為されたと言うことになります。
ゴミ山も2m近く搬出されて、ボチボチ沖縄戦当時の地表面が出てくるような雰囲気ですが、今のところまだどこもその地盤には達していないようです。ゴミの山はピラミッド型をしていますから、掘り進めれば進めるほど幅が広がりますから、回収に時間を要することになります。
ご覧の写真はゴミを回収した空のバケツが下に降ろされているところの写真です。上に架台が組まれ電動滑車が組まれており、その設備を利用してバケツを昇降させています。
電動滑車で吊り上げられたゴミバケツは、地表に運び上げられて、ここまで水平に移動して、ここで燃えるゴミ燃えないゴミに分別され、新たにビニール袋に移し替えられます。
ビニール袋に詰め替えられたゴミは、「健児之塔」参道を人間によるバケツリレーで駐車場で待つゴミ回収車まで運び上げられます。ちなみにビニール袋に詰められたゴミの量は、高齢のご婦人や子供さんも参加されていることから、これまでの経験により、足腰に過度の負担がかからない、無理のない程度の量が詰められています。
それではビニールに詰められたゴミ袋の後を駐車場まで追いかけてみましょう。
ご覧のように女性が圧倒的に多いですね。
女性でも運びやすい重さに設定されていますので、皆さん頑張っておられますね。
緋寒桜が植えられているここが中間点ぐらいでしょうか。更に先に行ってみましょう。
さあ後半の部ですが、階段が急になってきましたから、ゴミ袋の引き上げも少し難易度が増すでしょうかね。頑張って下さいませ。
オッ 駐車場で待つゴミ回収車が見えてきました。
まもなくゴミ袋もゴミ回収車の投入口に投げ入れられる事にまります。参加者は100人以上居られたと思いますが、参加された皆様お疲れ様でした。そして有り難うございました。
摩文仁ゴミ清掃奉仕を主導した「天理教災害救援ひのきしん隊」の皆様が閉会式をしている所です。ちなみに開会式も今朝されていました。「天理教災害救援ひのきしん隊」は天理教のボランティア活動の一翼を担っていますが、それだけでなく緊急災害派遣隊のような即応体制を持つ組織だと言えます。左側にたなびいているのは、「天理教災害救援ひのきしん隊」の旗です。
「ひのきしん」とは、初めて聞く言葉だという方が多いと思います。 漢字だと「日の寄進」と書きますが、天理教では無償で、つまり手弁当でボランティア活動の連関として、資金を無償提供したり、労働力を無償提供したりする、つまり天理教教会員が無償の奉仕活動をする際に用いる言葉のようです。「摩文仁で清掃奉仕をしてひのきしんをする」というように用いるようです。
【激戦地山林のごみ撤去】 糸満市・摩文仁 100人で3トン分回収
「沖縄タイムス」平成25年2月21日
【糸満市】摩文仁の沖縄師範健児之塔南側の山林で17日午前、不法投棄ごみの撤去作業があった。宗教関係者らを中心に民間ボランティアや市職員ら100人余りが参加し、約3時間で空き瓶や空き缶など約3トンを回収した。
6年前から毎年行っているが、完全撤去にはほど遠く、別の場所にも長年放置されたごみが残る。関係者は「県が音頭を取れば多くの人が集まるはず。私達だけでは何年、何十年もかかる」と県主導の必要性を訴えている。
投棄場所は、生い茂った草木をかき分けて足場の悪い斜面を6~7メートル下りた崖下。大量の空き瓶や空き缶のほか、腐食したビニールや弁当がらなどで埋め尽くされている。
重機が入れないため手作業で回収した。投棄現場に下りたら5~6人が土などと一緒に掘り出す。引き上げたごみは、ごみ回収車が待つ駐車場まで約200メートルの坂道にボランティアらが列をつくり、手渡しで運んでいった。
参加4回目の照屋豊子さん(75/沖縄市)は「私も戦争で父を失った。苦しんで亡くなった戦没者が眠る場所に、ごみが放置されるなんて許せない。動ける限りは参加してきれいにしたい」と話した。
呼びかけ人で金光教那覇教会の林雅信さん(73/那覇市)は遺骨収集に約40年間携わる。ごみの下に埋もれた遺骨を初めて目の当たりにした時を振り返りながら、「霊域や平和の象徴といわれる場所がこのままでよいのか。『山林は市の管轄』と県は言うが、県が旗振り役になるべきだ。ぜひ多くの人々に現状を知らせて動いてほしい」と訴えた。
「沖縄タイムス」から転載させて頂きました
【遺骨収集続けて40年】 摩文仁之丘で清掃 宗教者の会メンバーら
「中外日報」日平成25年4月13
金光教沖縄遺骨収集奉仕グループは、昭和49年から沖縄戦戦没者の遺骨収集に取り組んでいる。終戦50年となる平成7年以降、それまで遺骨収集を行っていた多くの団体が撤退していく中にあっても中断することなく続け、今年で40年目を迎えた。
慰霊塔などが群立する糸満市の摩文仁之丘周辺のごみ投棄問題が深刻となっており、6年前から遺骨収集に合わせてごみを撤去する清掃奉仕も行っている。
40回目となった今年の奉仕活動は2月中旬に2日間の日程で実施され、全国から教師、信奉者、一般奉仕者ら約100人が参加し、摩文仁之丘周辺で遺骨収集作業に当たった。
集中的に作業が行われたのは沖縄健児之塔下の崖一帯。その結果、「完全一体」の遺骨と多数の骨片が収集された。
また、ごみ収集作業を今年は遺骨収集に合わせて2日目に行った。沖縄宗教者の会に加盟する天理教を中心に立正佼成会、パーフェクトリバティー教団の関係者や、糸満市職員、一般ボランティアなども参加し、健児之塔下の崖の岩場などから、観光客らが投棄した空き缶や瓶、弁当容器などの大量のごみを清掃した。
摩文仁之丘一帯は、沖縄戦で多くの人が命を落とし、現在では県別や学校などの団体別の慰霊塔や平和の礎がある平和を祈る場所だが、観光客などが捨てたごみが堆積して問題となっている。過去に堆積したごみの下から遺骨が収集されるなど、心が痛むケースもあったという。
2日間にわたる作業の最後には、遺骨収集奉仕グループ代表の金光教那覇教会の林雅信・教会長祭主のもと、今回見つかった遺骨を祀って慰霊祭が営まれた。
林教会長は「戦没者の鎮魂と平和を祈る沖縄の心を象徴する聖地といわれる、沖縄戦終焉の地である摩文仁周辺は多量のごみで埋もれ、そのごみの下にはまだ遺骨が放置されたまま。この事実を多くの人に知ってもらい、清掃が進むことを願っている」と語っている。
「中外日報」から転載させて頂きました
昼過ぎ摩文仁ゴミ清掃奉仕作業も、一人の怪我人を出すことなく無事に終了しました。金光教からも、自ら手を上げられた方20名が参加し、総勢100名ほどが清掃作業に従事されたようです。
今年取り組んだ二カ所のゴミ放置場所について、どちらもまだ沖縄戦当時の地盤には到達せず、道半ばで作業を終えましたが、来年には到達するのではないかと思えます。もしかしたら戦没者のご遺骨も発見されるかもしれません。またご遺骨が無かったにしても、沖縄師範学徒が摩文仁唯一の井戸である金井戸との間を、多く行き来した場所であるだけに、ゴミを全て撤去し「ご遺骨が無かった」という “不存在” を確認することも意義のある事と思えます。
沖縄のために、そして日本のために戦われた沖縄戦戦没者のご遺骨が、南部戦跡に関わる沖縄観光業者の投棄したゴミの下に眠っているというのはあまりに悲しいです…。摩文仁が聖地と呼ばれるにふさわしい場となるように、来年以降も真摯にゴミ清掃と向き合っていきたいですね。
本年のゴミ清掃に関わられた宗教者の会の皆様、本当に有り難うございました。また来年もよろしくお願い申し上げます。
3班皆さんが昼食を食べ終え、食休みをしていました。
5班の収骨作業の様子
再び5班の収骨現場に戻って参りましたら皆さんは昼食を食べ終え、食休みをしていました。
さあ午後の作業が始まりました。ご遺骨は思いの外多くは出てきませんが、細かいご遺骨の発見が続いているようで、まだまだ継続して収骨を続けるようです。
現時点での収骨状況の様子です。三角定規とか硬貨も出てきているようです。
喉仏がでました。金光教ではこの喉仏を大切にしていますよね。
3班の皆さんです(^o^)
3班の皆さんも、昨日とほぼ同じ範囲を丹念に探していました。
高尾さんが作業していました。この付近に散在するゴミを集めているとの事。お疲れ様です。ここは「南冥之塔」のすぐ横ですから、参拝に訪れた方々が、瓶や缶などのゴミを投げ捨てたと思われます。
3班が探している地域は、壕が縦横に繋がっており複雑な構造をしています。壕と呼べないような空間もあり、もしかしたらこのあたり巨岩が連なっていますから、艦砲砲撃で破壊された岩盤がごっそりとはげ落ちてこのような岩陰を作ったのかもしれませんよ。ひとつの推測ですが。
ツルハシ等を打ち込んで土石を崩しているところです。
多くはありませんが細かいご遺骨が出てくるようです。
写真に写されているご遺骨の内、一番下のご遺骨はあまり見かけないですね~。最初このご遺骨を発見された方も、人間の骨ではないと思われたそうです。この骨は骨盤の一部で、「仙骨」と名称もあるんですね。
小林さんが5班の収骨現場から少し離れた場所で、お一人でコツコツと収骨していました。取りこぼしだと思われますが、ご覧に様に小さな骨片が出てきているようです。
小林さんが収骨されているご遺骨の内、少し大きめのご遺骨が出てきまして、これはどこの部位かという話になり、骨盤の一部だと同定しました。
作業撤収時、再度訪れましたら、細骨も少し増えてこれだけの骨片を収骨され、「もうここには無いと思うよ」というぐらい徹底して探したそうです。お疲れ様でした~。
小林さんも金光教の遺骨収集奉仕活動に長~く参加されているお一人です。いつも真摯にご遺骨と向き合っていると言えるでしょう。そしていつも決まってラガーシャツを身につけてらっしゃいますから、一目瞭然すぐ居場所が解ります。(笑)
毎年毎年懲りもせず同じ服装で参加するというのは、笑ってしまって申し訳ありませんでしたが、周りから覚えてもらえる、居場所がすぐに解る等々、有用な面が多いような気がしますよ。
誰か居ますか~。と声をかけたら、昨日に続き竹内さんがこに壕の中で作業をしていました。
竹内さんという方もお一人でコツコツ探していらっしゃいましたが、今日まででご覧のような脊椎と肋骨を収骨されました。
2班の皆さんです(^o^)
大きな岩陰で飯島さんが土を掘り返していました。頑張って下さいませ。
伊澤さんと武田さんのお二人です。頑張って下さいませ。
機動の吉井さんと、北田さんが掘っているところから遺品が出てきているようです。
どうでしょうか、農作業などで使う鍬(くわ)ではないでしょうか。壕を掘り進める際に使用したのでしょうかね。ずいぶんと錆が進んでいますが、木の部分はとうに朽ち果てたのですね。
再び5班の皆さんです(^o^)
当初から見るとずいぶんと掘り下げましたね~。
フルイでしっかりと土と骨片とに分別しています。
歯ブラシですね。戦野では使わないでしょうに携帯されていたのですね。
長い時間頑張って目の前の大きな岩が移動できそうです。頑張って下さい。
沖縄戦当時の地盤を露出させたのではないか…。という結論になり収骨作業を終えることになりました。終日本当にお疲れ様でした。
三角定規、歯ブラシ、ボタン、硬貨などの遺品も出て参りました。これら全てここで亡くなられた方の持ち物と思われますね。
明らかに学生服のボタンですね。沖縄の学生さん達が着用していたものなのでしょうか…。残念ながら記名遺品はありませんでした。
最終的に収骨されたご遺骨の様子です。頭骨から足先まで万遍なくご遺骨がありますね。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
5班の皆さんが収骨場所でミニ慰霊祭を執り行おうとしているところです。
嶺井さん主導でご祈念しているところです。
5班の皆さんです。作業撤収後皆さんで記念撮影です。朝から本当にお疲れ様でした。
再び3班の皆さんです(^o^)
「地形が変わった」と言えるほど掘り下げましたね~。
所定の時刻となったので、作業を撤収する事になりました。
最終的に収骨されたご遺骨の様子です。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
3班の皆さんです。作業撤収後皆さんで記念撮影です。朝から本当にお疲れ様でした。
1班の皆さんです(^o^)
1班の皆さんです。今回1班の皆さんはなかなか遭遇できなくて申し訳ありませんでしたが、作業を終え参道まで出て小休止しているところでバッタリ出会いました。
1班の皆さんです。作業撤収後皆さんで記念撮影です。朝から本当にお疲れ様でした。
再び2班の皆さんです(^o^)
昨日に続き三名の方が同じ壕内で収骨作業を続けていました。
掘り出された遺品の数々です。すごいボリュームですね。記名遺品がないか一生懸命探したそうです。
最終的に収骨されたご遺骨の様子です。この壕は、過去に本格的に収骨された壕だと思われますが、お三方は「今回がこの壕の最後の収骨作業だ」という強い思いで皆さんが一生懸命探したそうですよ。
三人がかりの終日の努力の成果としては誠にささやかなものではありますが、考えてもみて下さいませ。この巨大壕で亡くなられた御霊様、わけてもここに収骨されたご遺骨は、なんと68年ものあいだ、この真っ暗な壕内で、いつの日か収骨されるその日を、来る日も来る日も待っていたのです。そしてついについに三人の暖かな手により収骨されたのでした。
誰にも看取られず、誰にも泣いてもらうことなく、戦野で非業の死を遂げられた戦没者の唯一の願いは、ここに至っても尚、“人々の血の通う暖かな手によりて収骨されたい” という事ではないでしょうか…。そう思えてなりません。
本当にお疲れ様でした。三人ともに一般参加者で、左から浅木さん、田中さん、戸辺さんです。御霊様もきっと喜んでおられると思いますよ。繰り返しますが、本当にお疲れ様でした。(^o^)
2班の皆さんです。作業撤収後皆さんで記念撮影です。朝から本当にお疲れ様でした。
さあジャングルから出ましょう~。
ひめゆり学徒隊の引率教官として、米軍による激しい掃討戦が繰り広げられた南部の戦野を、生徒たちと共にさまよい奇跡的に生還した仲宗根政善氏は、ご自身の著書のあとがきで、次のように述べています。
「沖縄島最南端の喜屋武岬の断崖に追い詰められて、誰にもしられず、いよいよ最後を遂げて、岩陰に汚ちはててしまうのかと思ったときほど、さびしいことはなかった。沖縄の山野には、幾万の同胞が、こうした孤独感を抱いたまま今も埋もれている…。」
仲宗根政善氏の著書「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」に出てくるこの言葉が今でも脳裏から離れません。文字通りそのさびしい死を極限状態の中で垣間見た著者だからこそいえる、戦野に果てた戦没者の、至って普遍な魂の叫びだと思わずにはいられません。
「誰にも看取られず、誰にも泣いてもらうことなく、戦野で非業の死を遂げられた戦没者の唯一の願いは、ここに至っても尚、“人々の血の通う暖かな手によりて収骨されたい” という事ではないでしょうか…。」と、私も記事中で書かせていただきました。
こうして改めて摩文仁に目をこらすとき、苔むした岩陰で、そして洞窟の最奥部の砂礫の下で、死してから人の声を未だ聞かず…。すでに68年の歳月が流れていますが、仲宗根氏の語る “さびしい思い” を抱いたまま戦野に果てた屍の全てに、血の通う暖かな人の手が差しのべられる日が来ることを願ってやみません。
現地慰霊祭
例年通り午後4時から現地慰霊祭が執り行われました。祭壇中央には 「沖縄戦全戦没者之霊」 と書かれた霊標が立てられ、その横には参加者全員による二日間の捜索で発見された御遺骨が、お清め班により清められ整然と納められて安置されています。林先生は5班が発見したご遺骨について、ご遺骨の総量は少ないものの頭から足先までの部位が万遍なく揃っているとして一柱の完全一体のご遺骨として箱に収められています。
また祭壇には、ご神酒や沖縄の泡盛、タンカン、みかげ饅頭、金光煎餅などのお供え物も八台の三方に整え供えられており、慰霊祭の準備が整えられています。
4時になりましたので、参加者全員がテント内や周囲に集まり、龍笛と篳篥とによる中正楽が奏でられる中、祭主である金光教那覇教会の林先生の主導で第40回沖縄戦戦没者現地慰霊祭が始められました。
全員による 「霊前拝詞」 奉唱がまず行われ、そして那覇教会の林先生が朗々と、現地慰霊祭祭詞を奏上していきます。
続いて霊前拝詞奉唱、祭詞奏上と続き、そして祭主が玉串を捧げ奉った後は、続いて25名の参加者代表が玉串を祭壇に向け捧げました。最後に全員で祖先賛詞を奉唱して、現地慰霊祭を滞りなく終えました。
※サイト管理者注:
祭壇安置されている六箱の中には、お清め班により清められたご遺骨が納められていますが、金光教が発見した完全一体のご遺骨と、その他の現場で発見した細骨を除き、他のご遺骨の全ては、遺骨収集情報センターの委託を受けて、他の団体が収骨したご遺骨を、お清め班の手により清められたものを箱に納め祭壇に安置したものです。
これらのご遺骨は「収骨年月日、収骨団体、収骨場所」を、受託時にしっかり確認し、間違っても混ぜてしまわないように、お清め作業中もしっかり分別して作業が進められ、最終的に受託時の収骨袋に戻されてから箱に納められています。
現地慰霊祭
全国から総勢101名もの方々がここ摩文仁に集い「沖縄戦全戦没者之霊」と書かれた霊標の前で、那覇教会教会長の林先生主導で現地慰霊祭が始まりました。 現地慰霊祭は「霊前拝詞」から始まります。「あわれ霊神達はや 遠く久しき天地にまたなき生命享けまして 現身の齢の長き短きほどほどに 負いもつ務めに勤しみたまいし一代のみあとは永久に遣りて…」
参加者の皆さんが「霊前拝詞」を祭主の林先生と共に奏上している様子です。
参加者の皆さんが「霊前拝詞」を祭主の林先生と共に奏上している様子です。
那覇教会教会長の林先生による「現地慰霊祭祭詞」の奏上が始まりました。
那覇教会教会長の林先生が「現地慰霊祭祭詞」を奉上しているところです。毎年の事ですが胸に染み入る文脈です。 沖縄を誰よりも愛する林先生の、また惨劇の場たる沖縄の世界平和への礎にならんと、祭主たる林先生の思いが込められた長文の祭詞ですが、私たちも心を静め一緒に文脈を追います。
沖縄を誰よりも愛する林先生の「沖縄戦戦没者二十余万の霊の助かりなくして、沖縄の真の助かりはない」という思いを込めた文面となっています。
「祭詞」を聞き入る参列者の皆さんです。
現地慰霊祭は「祖先賛詩」奉唱の次第で締めくくられます。
【第40回沖縄遺骨収集を終えて】 金光教那覇教会 林 雅信
御取り次ぎを願い、御祈念を頂いて、平成25年2月16日、17日、第40回沖縄戦戦没者の遺骨収集奉仕をさせていただきました。参加者は、関東、中部、関西、中国、四国、九州など全国各地より73名(信奉者52名、一般21名)、地元沖縄より28名(信奉者16名、一般12名)、総員101名であった。
実施に際しては、1月26日、27日、及び本番直前の2月10日より15までの毎日ね他県からの応援者も含め6名により捜索予定地域の事前調査が行われた。当教会信徒会では2月3日、最終の準備会を開き、続いて用具の点検、整備を行い、12日午前中は傷害保険に関わる手続きが、午後からは、今回もお世話になる平和祈念財団、遺骨収集情報センター、糸満市役所、糸満警察署、南部病院、現地本部を置く平和祈念公園内の警備室他への挨拶回りが、さらに15日にはテントをはじめヘルメットや鎌、鍬などの用具類、本部で使用する接待用品などの現地本部への運搬が行われた。
初日16日、天気は晴れ時々曇り、最高気温19.1度、風はあるが穏やかな日和。那覇グループは午前7時15分より教会で御祈念、同30分車7台で出発、8時10分現地到着、受付準備やテント設営を開始、同30分頃より順次到着参加者の受付開始、捜索班1班から5班、本部・お清め班の順に集合整列、午前9時より御祈念、あいさつ、諸注意、保険についての説明、班長機動班ミーティング、各班ごとのミーティング、ラジオ体操と準備運動を行い、各班それぞれの捜索地域へ出発、活動が始められた。
今回は、都合8日間の事前調査を基に検討協議を行い、捜索地域を摩文仁一地域に絞り込み、全班が集中捜索収集に取り組んだ。
二日目17日、天気は晴れ時々曇り、最高気温21.8度、前日に続きこの上ない日和のお繰り合わせを頂いた。各班ともに前日の継続。捜索地域は断崖下の密林、大小の岩で覆われたところが多く、その岩を掘り起こしての作業であった。わがお道ならではの実意を込めて丁寧に、どんな小さなお骨の一片たりとも残してなるものかと、土をふるいにかけてまで収集に努めた。
地表のご遺骨はだんだん少なくなりつつある。このことは本当は一番有り難いことではある。以前はご遺骨に出会わなければ皆気分が落ち込んでいた。このことが近年変わりつつあることが感じさせられ、真に有り難いことと思わせていただく。ご遺骨に出会う、出会わないにかかわらず、御霊様の安神を祈り、お土地が清められていくこと、すなわち天地の復興を祈りながら歩かせていただく、という思いであろうと思う。
二日間にわたる捜索の結果、完全一体一柱(頭部をはじめ胸部、脊柱、上肢、下肢、骨盤などが部分的にそろっており、取り残されたものではなく、確かに一人の人と判定できるもの)、そのほか部分遺骨(これまでの遺骨収集で取り残されたものと思われるもの、あるいは砲弾の破裂で飛ばされたものと思われる頭部、頸部、歯、胸部、脊柱、上肢、下肢、骨盤などの砕骨)を収集させていただいた。
一方、本部・お清め班は、遺骨収集情報センターの協力指導のもと、これまでに収集され県の遺骨安置室に保管されているご遺骨と、このたび収集されたご遺骨のお清め御用を祈りを込めて丁寧に進めさせていただいた。同時に、いろいろの沖縄ならではのお菓子と熱いおしぼりやお茶を用意して接待に取り組ませていただいた。また併せて二日目の午後からは調饌をはじめ慰霊祭の準備御用に当たった。総じて、私どもの奉仕活動の姿に、センター職員の方たちも感心と感激の気持ちを表しておられた。
また今回は、例年一月下旬に実施している、沖縄宗教者の会による第7回摩文仁之丘崖下の不法投棄ゴミの撤収清掃作業と重なり(17日午前中)、遺骨収集参加者の中より20名が参加くださり、こちらは総員100余名にて3トンのゴミを収集させていただいた。
各班とも、時間を見計らって捜索地での御用を打ち切り、現地本部に戻り、休憩ののち4時から慰霊祭に臨んだ。
午後4時からは現地本部において、龍笛、篳篥による中正楽が奏ぜられる中、祭主、林(那覇教会)で慰霊祭が仕えられた。
テントの中央に、「沖縄全戦没者之霊」と記された霊標が立てられ、その両脇に、お清めが済み真新しい段ボール6箱に収められたご遺骨が置かれ、その右上に教旗が飾られ、前に置かれた二段の八足には、御霊地の御神酒や御霊様のことを思い郷土より持ち寄られたお餅やお菓子、沖縄の泡盛やお水などが八台の三方に整えられ供え付けられている。
祭典は霊前拝詞奉唱、祭詞奉上、祭主に続いて班長、機動班、各班代表者ら25名が玉串を捧げ奉り、祖先賛詞奉唱の次第で仕えられ、祭典後、祭主より、二日間の総括を含め、感想と参加御礼の挨拶があった。
その後、現地本部の撤収、片付け、清掃、用具の運搬整理などを行い、現地での奉仕活動を終了した。(関係先への挨拶回りは19日に行われた)
その後、午後8時より、那覇市のキュア・ハート(レストラン)において、希望者による懇親会が開かれ32名が参加した。会は那覇教会信徒会長の軽妙な司会で進められ、多くの人から参加の喜びが語られ、感動の涙もあり、歌もあり、カチャーシーもあり、阿波踊りまで飛び出して大いに盛り上がり、来年の参加、再会を誓い合っていた。
多くの方のお祈りを頂きます中で、天候のことをはじめ万事にご都合お繰り合わせを頂き、無事に、予定通り、滞りなく運ばせていただくことができましたことは誠に有り難いことでありました。皆様の貴いご奉仕により、沖縄が助かります。
ご参加くださいました皆様に心より御礼申し上げます。お疲れ様でした。また、各地にて、御祈念賜りました皆様に御礼申し上げます。