平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月10日(日) 真栄里○○○番地裏の壕見学、真栄里で調査

日中の天気予報は曇りです。雨の心配はなさそうで良かったです。(^o^)

本日から遺骨収集に向けての調査を開始します。一年間溜め込んだエネルギーを9日間で一気に燃焼させる時が来たのです。頑張るぞ~。

それでは恒例となっている、朝の慰霊塔・慰霊碑の巡拝です。今朝は「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」(球 3109)を訪ねてみました。

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」

遺骨収集の様子1

慰霊碑は糸満市大渡にあります。国道331号線の信号機表示が「大渡」になっている交差点がここです。米須から摩文仁方面に向かっていると、ご覧のように道ばたに小さな標識が見えてきますので、この交差点を左に曲がるとすぐの所に慰霊碑はありました。

遺骨収集の様子2

奥の交差点が先ほど左折した場所です。交差点からすぐの所にありますね。

遺骨収集の様子3

慰霊碑は階段を登ったところにあり、位置的には海に面して設置されてありました。野戦重砲兵二三聨隊隊員の勇敢に戦いそして戦没された皆様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子4

慰霊碑碑文です。下記を参照下さいませ。

【【慰霊碑碑文】

この碑は、太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始勇敢に戦って散華した野戦重砲兵第23聯隊(球3109) 戦没将兵の霊を祀ったものである。部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵部隊の戦斗によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。その遺勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関係者一同相協力して、これを建立した。

昭和53年 3月19日 野重二三戦友会・戦没者遺族一同

遺骨収集の様子5

海岸線がすぐ近くに迫っています。写真は米須海岸線を遠望しています。慰霊碑は海岸まで600メートルぐらいの位置にありますが、遠望される一帯はほとんど隠れる場所が無いのが見てとれますね。野戦重砲兵二三聨隊の慰霊碑がこの場に設けられた経緯は不明ですが、近くには玉砕の舞台となった「独立高射砲27大隊本部壕」もある事から、慰霊碑が壕でない平地に建立されていることからして、ひとつの推測として部隊の最後の痕跡を記した場所に設けられたのかもしれませんね。(写真手前の堀切は、この場が少し前まで採石場だったようで、大きく穴が開いていました)

「真栄里○○○番地裏の壕」

「入ってみたい壕があるんだ」と松永さんは語りました。
その壕は「真栄里○○○番地裏の壕」(※番地には三桁の数字が入りますが、個人宅を特定できる恐れがあり○○○と表記させて頂きました。以降同じ表記となります)と呼ばれ、かなり以前から把握されている壕で、糸満市の壕リスト230にも掲載されていますし、国が過去に集中的に遺骨収集をされた場所であると聞いていますが、この壕で最近新たな動きがあったそうです。

沖縄遺骨収集の第一人者である国吉さんが、この壕の新しい入り口を見つけて発掘・遺骨収集をされたようなのです。国吉さんが壕入り口を新たに発見したと言うことでは無いようです。新たに発掘され出入りできるようになった入り口は、ずっと前からこの場所の地主の方が「敷地内に小さな穴がある。もしかしたら日本軍が使用した壕かもしれないので調査をしてほしい」と沖縄県に要請していたらしいのですが、なかなか下見・調査に来られなかったようです。

そうした経緯を経た後、国吉さんもこの壕入り口を発見し、地主の許可を得て発掘調査を行ったという情報を、沖縄在住の松永さんも知るところとなったようです。

松永さんはこの壕を見つけるべく、早朝からこの壕がある糸満市真栄里にある「ロンドン杜公園」に出向いて探したのですが、どうしても見つからないようです。後に知ることとなりますが、とある住宅の裏庭に壕入り口があったという事で、通常ではまず探しきれません。それに個人宅の裏庭ですから、許可をもらわずに入れば問題となってしまいますからね。

どうしても見つからないことから、「戦没者遺骨収集情報センター」の担当の方に相談した結果、「個人宅敷地内に壕があるので普通は入れません。ご主人の許可を得るために仲介してあげましょう。」という事になり、現地まで出向いて下さって仲介して下さいました。有り難うございました。本当に助かりました。

私たちは個人宅のご主人にご挨拶し、敷地内を通らせて頂くことが出来ました。

「真栄里○○○番地裏の壕」は入ってみてビックリです。とても巨大な壕である事が解りました。特に碁盤の目のように縦横に壕が掘り進められていたのには驚きました。

それではご一緒に、「真栄里○○○番地裏の壕」に入ってみましょう。(^o^)

「真栄里○○○番地裏の壕」

遺骨収集の様子6

ロンドン公園を通過し真栄里集落に入って参りました。壕は海岸まで1.5kmぐらいの距離にあります。少し高台になっているので見晴らしは良かったです。遠望される島々は慶良間列島の渡嘉敷島などです。

遺骨収集の様子7

真栄里集落の北方にある小高い山の様子です。写真では山の様子が見えませんが、かなり広大な裾を持つ小山となっています。山裾の道路からすぐの所に拝所がありました。集落の人たちの聖域になっているのかもしれませんので、私たちもここで手を合わせ黙礼しました。

遺骨収集の様子8

拝所の様子です。背後にある小高い山が聖域となっている印象ですね。

遺骨収集の様子9

道を挟んで琉球新報社が設置したボックスがありました。この箱の用途は何だと思いますか~。

正解は松永さん曰く、「強いて言えば新聞配送所みたいなものだね」という事のようです。本土では新聞社それぞれに各地域に新聞配送所があって、そこからオートバイに乗った少年達により新聞が宅配される訳ですが、沖縄ではこのように集落とか地域とかの一定の範囲にご覧のような箱が設置されており、この箱に新聞社から配送される新聞が投函され、アルバイトの人がこの箱から新聞を取り出して宅配するという流れのようです。知りませんでしたね~~。

遺骨収集の様子10

個人宅の裏庭です。ご覧のようにインパチェンスが咲き誇っていました。インパチェンスといえば、本土では一年草ですが、こちらでは多年草の範疇に入るかもしれませんね。

遺骨収集の様子11

シランも咲いていました。時節は春そのものですね。

遺骨収集の様子12

個人宅の裏庭です。敷地内でブロック等で仕切られているのは、恐らくハブ対策ではないかと思われますが、二つ目の門を開け更に奥へと進んでいきます。この先に壕入り口があるようです。

遺骨収集の様子13

開口部が広げられ人間が出入りできるようになった壕入り口です。二メートルほど垂直に降りなければならないようです。この開口部は国吉さんによって最近になって広げられたもので、入り口付近は念入りに遺骨収集が進められたようです。ここは昔から人間が入れないレベルの小さな穴は開いていたそうで、地主さんは沖縄戦当時日本軍が使用した壕かもしれないので調査してほしいという要望を以前から県に申し出ていたようです。

遺骨収集の様子14

私が先行し、後から入ってきた松永さんを写しています。上半分は黒煙の付着が激しいので沖縄戦当時そのままの壁面である事が見てとれます。下半分に堆積した細かい土砂は戦後流入したものと思われます。いずれにしても入り口付近は這って前進するようになります。

遺骨収集の様子15

10メートルほど進みますと堆積した土砂も無くなり、20メートルぐらい前進しますとしっかり構築された壕といった趣になりました。この辺りはまだ火炎放射攻撃等を受けたのか壁面が黒っぽくすすけていますね。

遺骨収集の様子16

更に前進しますと壁面の煤も取れて白っぽい岩肌となってきました。勾配が少しありますから下に下にと進んでいるようです。

遺骨収集の様子17

壕でよく見かけるクロイワトカゲモドキ君と出会いました。「こんにちは」。アレッ 真っ暗だから「こんばんは」…かな。人間への警戒心を持たないのか、かなり近くまで接近できます。クロイワトカゲモドキ君はその名の通りトカゲではなくイモリなんですね。イモリとヤモリの差は前足の指の数で違ってくるのだそうです。指の数を数えている暇はありませんでしたが、ヤモリは屋守とも書き人間に大切にされたそうですよ。少し話が逸れてしまいましたが。

遺骨収集の様子18

カニ君も居ました。(笑)
この暗闇の閉ざされた壕の中にイモリやカニが居るということは、彼らの餌があるという事なのでしょうね。ちなみに後ほど出てきますが、コウモリも壕ではよく見かけますね。

遺骨収集の様子19

何を写したかといいますと、少し解りにくいですが、この岩の下を見ますと水が貯まっていました。雨の少ないこの時節でこれだけ水があるという事は、6月あたりでは結構水を確保できたかもしれないですね。

遺骨収集の様子20

何を写したかといいますと、壕通路上にある “小部屋” を撮影しています。もちろん壁で仕切られた部屋ではありませんが、壕通路の横に一定の大きさの空間があり、そこに “将官の個室” があったりする訳ですが、ここは正にそのような空間でした。こうした部屋はこの先にもいくつかりました。

遺骨収集の様子21

更に少しずつ前進しますと、壕通路空間が一段と大きくなって参りました。

遺骨収集の様子22

この穴は重機を用いて壕を掘った事を示しています。この辺りの岩盤はまだかなり固いです。壕を調査する場合は、時折シノで壁面を叩き、そして少し掘ります。岩盤がどのような形質のものかを知るために行う訳ですね。

遺骨収集の様子23

進めば進むほど方向感覚が怪しくなってきました。頭の中の感覚と、磁石の北とが益々ずれてきています。現状では迷ったら戻れば良いわけですから、不安はありませんが、壕の位置関係を知るためには、頭の中に壕の見取り図を描けなければならない訳ですから、常に磁石の北と頭の中を一致させるように努めています。

遺骨収集の様子24

目視したさいに文字のようにも見えましたので撮影してみました。画像処理ソフトで拡大し精査してみましたが文字では無いようです。

遺骨収集の様子25

この黒っぽく写っているのはコウモリの糞です。大量に糞が堆積していましたが、上を見ても、また今回の壕の調査全体でもコウモリは見かけませんでした。

ちなみにコウモリにフラッシュを当てないようにと松永さんにきつく言われていますので、今後もコウモリの写真は掲載する事はありません。コウモリにフラッシュを当てるとビックリしたり怖がったりするので避けなければならないという話です。私たちはこのルールを守りたいですね。

遺骨収集の様子26

壕の構造が変わったのにお気づきでしょうか。壕に天井が現れました。天井部分は巨大な岩盤と言ってよく、ここまで歩んできた壕壁面はすべてこの固い岩盤でしたが、その岩盤は層のようになっており、その岩盤層の下は、比較的柔らかい粘土層のような感じになっています。ニービ質の滞積した粘土と言ったところでしょうか。

遺骨収集の様子27

もう少し前進しますと、ご覧のように見事に天井の固い岩盤と、その下の比較的柔らかい粘土層に分かれているのがよく確認できます。天井部分は掘るのに多大な労力を要しますが、壁・床面の粘土層は容易に掘ることが出来たのではないかと推測されます。この場所に来てから先は、この写真の様に掘り進められた壕空間が、碁盤の目のように縦横に走っていました。驚きました。気をつけないと迷子になってしまうほど市街地のように通路が走っています。写真では構築されたその壕の複雑さを写し止められないのが残念でなりません。

遺骨収集の様子28

碁盤の目状の壕通路に入ってからは、一段と磁石を多用しました。うかつに何度か通路の角を曲がってしまうと、同じ風景が続くが故に完全に方向を見失ってしまいますので、私たちは慎重に前進しました。特に初めて入る壕というのは、内部に何があるか全く解っていないわけですからね。特段の慎重さが求められる所以です。

今回は壕出入り口は複数あると聞いていましたし、風の流れを感じていましたから、二人が一定の距離離れて行動する等々、酸欠への配慮・対策はとっていませんが、壕調査のリスクは常に頭に入れておきたいですね。

遺骨収集の様子29

壕内部では遺品などの存在に注意しながら前進しましたが、思いの外遺品はありませんでした。ご覧の遺品はその数少ない遺品です。この壕は国が以前調査を進めた壕ですから、遺品もすべて壕外部に持ち出されたのかもしれません。

遺骨収集の様子30

ご覧のように天井から根が伸びてくるようになりました。「地表は近い」事を表しています。

遺骨収集の様子31

入壕してから40分ほど経過したところで、ついに反対側の出入り口を見つけました。(^o^)

遺骨収集の様子32

なにか光がとても恋しいです。壕の調査も30分が限度ですね。(笑)

遺骨収集の様子33

ガーン。先ほどの開口部は小さくて人間が出入りできませんでした。

私たちは他の出入り口を見つけるべく、再び流浪の旅に出なければなりませんでした。

遺骨収集の様子34

手榴弾では無いことは明かですが、ご覧のように火薬が入った爆発物のようですね。

遺骨収集の様子35

オッ、またもや光を発見。(^o^)

この壕の出入り口は複数あると聞いていましたから、先ほどの発見した出入り口が出られないと知ったとき、最初に入った入り口に戻ることはしませんでした。二つ目の出入り口は、最初に発見した場所とそれほど離れていないようです。今度は出られるかな~。

遺骨収集の様子36

オオッ、正に希望の光。

今度こそ出られそうですよ。

遺骨収集の様子37

無事に外に出られました。2時間20分の壕探検でした。

遺骨収集の様子38

ここは最初に発見した出入り口ですが、ご覧のように光は差し込むものの、現状では人間は出入りできません。私たちは話し合った結果、後に続く人たちのために、人間が出入りできるように開口部を広げようではないかという話になり、松永さんがクマデで掘り始めた様子です。見て下さい。スコップやツルハシがあれば容易に掘り進められますが、持って居る道具がクマデですから、それはそれは大変でした~。

遺骨収集の様子39

貧弱な道具しか持ち合わせていないので汗びっしょりとなり苦労しましたが、それでも二人で交替しながら30分ほど掘り進めた結果、無事に人間が出入りできる穴を開けることに成功しました。二人の努力により、この開口部も人間が出入りできる事となったのです。この北側斜面にはこの “新出入口” を含め、少なくとも三カ所の壕の出入り口がある事を確認しました。

無事に壕の調査を終えました。(^o^)
壕の様子を伝えようと多くの写真を掲載しましたが、残念なのは縦横に走る壕通路の壮大さをお伝えできない事です。人数に限れば、おそらく1000人の将兵が中で休息できるのではないかとも思われるほど縦横に走る通路の総延長は長く感じました。

とにかく内部は碁盤の目のように通路が縦横に走っています。驚嘆するのは、この縦横に走る壕を人力で掘ったという事は、この内部空間と同じ容積の土砂を外部に運び出したのとイコールです。そのご苦労に思いを馳せるとき涙さえ出そうです。日本軍将兵および現地召集の県民の皆様が一丸となっての共同作業により、穴を掘り進め土砂を搬出したのでしょう。

その土砂も出入り口のすぐそばに捨てたのでは、壕を掘っていますと米軍に教えるようなものですから、おそらくは数百メートルとか離れた場所に掘った土砂を捨てた…。多分当たっていると思います。改めて当時の兵隊さんのご苦労が忍ばれます。

平時ではありません、戦時に掘り進めたのです。10・10空襲などもあり各種備蓄が毀損されました。また米軍上陸に備え食料・飲料を備蓄しておかねばなりません。壕掘削作業で疲れ果てているなかでお腹一杯食べられない、喉の渇きを癒やせるほど水を飲めないのは火を見るよりも明らかです。その過酷な条件下での皆様のご苦労に思いを馳せる時に、児孫である私たちは頭を垂れない訳には参りません。本当にお疲れ様でございました。

この壕における守備軍の軍事的経緯は知るよしもありませんが、この壕から多くの兵隊さん達が首里方面の前線へと進軍したのでしょう。空っぽになったこの壕が、その後沖縄県民の避難場所になったのか、そうであるなら多くの人々の命が救われたに違いない…。そう思わずにはいられませんでした。

遺骨収集の様子40

真栄里集落の中心地にやってまいりました。道すがらに拝所があるので手を合わせてきました。手前の屋根は、雨天時の拝礼には助かりますね。恐らくその為の屋根だと思います。

遺骨収集の様子41

拝所の様子です。

遺骨収集の様子42

小石が散乱しているのが少し気になりますが、写真左下床面に2006年と掘られた数字が見えます。この年に拝所の修繕をしたという意味でしょうかね。

遺骨収集の様子43

拝所周囲は村の鎮守杜といった雰囲気になっています。樹齢何十年という木も複数見られます。

遺骨収集の様子44

お昼ですよ。動き回ったのでお腹はぺこぺこ、てびち(豚足煮付)を美味しく頂きました。

午後も引き続き真栄里での遺骨収集に向けての調査を続けることになりました。松永さんは予てよりこの地域を調査してみたいと思っていたようです。確かに現場を見た限り、穴場的な印象も受けます。その調査地域は真栄里南端、国道331号線の南側といった場所にあります。それでは引き続きご一緒にジャングルに入ってみましょう。

真栄里での遺骨収集に向けての調査

遺骨収集の様子45

道路から見える風景は樹木が茂っているもののただの平坦な場所…。に見えましたが、入ってみてビックリです。かなりアップダウンのある地域だと解りました。

遺骨収集の様子46

ご覧のように大きな岩が連なり谷間のような雰囲気です。石組みが見えますが、瓶などが散見されることから、もともとここは風葬墓があった場所のようです。岩壁が海側にある事からここは艦砲射撃を確実に防げます。ですから沖縄戦当時も多くの人たちがこの場所に隠れたに違いありません。

遺骨収集の様子47

風葬の骨を入れた瓶です。粉々にならず比較的形が残っていますね。上の写真でも書きましたが、艦砲射撃を防げた場所であったから割れなかったと言えるかもしれませんね。

遺骨収集の様子48

兵隊さんが履いた地下足袋の裏ゴムのようですね。この他にも少し遺品がありました。

遺骨収集の様子49

ご覧のような数メートルの高さの岸壁が連なっています。私たちはゆっくりと前進して行きました。

遺骨収集の様子50

ここも奇抜な、そして印象深い風景でした。パノラマ写真ならその風景をご覧いただけるのですが、ちょっと無理ですね~。

遺骨収集の様子51

読めますね。「御先男神 アラレーガマ」と読むのでしょう。「アラレ」の意味をネットで検索してみますと、やはり沖縄でも5ミリ程度の大きさの氷の粒が降る様を霰(あられ)が降るというみたいですから、その氷の粒のアラレの意味かもしれませんね。ちなみに昔の沖縄では、霰(あられ)は冬の風物詩のように何度も降ったそうですよ。でも雪は沖縄にまだ一度も降ってないですよね。?

遺骨収集の様子52

実に奇怪な風景でしょう。

遺骨収集の様子53

上の写真とは左右に連続した風景です。とても一枚にはお染まりきれません。

遺骨収集の様子54

垂れ下がった鍾乳石です。現在は完全に乾いた状態となっていますね。

遺骨収集の様子55

この場所は半洞窟のような形状をしている事から、少し丹念に調査しようということになり、ロープ等の荷物を降ろす松永さんです。ご覧のように隠れるにはもってこいの場所が多いです。

遺骨収集の様子56

ご覧のように割れ目も広く深く続いています。人間が入れる空間が続いています。

遺骨収集の様子57

一番の底にはかなり広い空間がありました。これだけの空間ですから恐らく遺骨収集はされていると思われますが、丹念に見て回りました。

遺骨収集の様子58

茶碗の破片がありました。

遺骨収集の様子59

軍靴の一部のようですね。

遺骨収集の様子60

空き缶も結構見受けられることから、兵隊さんもかなり居たのでしょうね。

遺骨収集の様子61

空き缶とばかり思っていましたら、どうやら手榴弾のような爆発物のようですよ。調べてみると「九十八柄付き手榴弾」と呼ぶようです。一部木製となっているようです。イメージとしては木製部分を持って投げて相手を攻撃する…。そんな感じですよね。

遺骨収集の様子62

ここは風葬墓の跡でしょうか、それとも沖縄戦当時積み上げた石でしょうか…。

遺骨収集の様子63

人が隠れることが出来そうな隙間は残らず調査して進みます。

遺骨収集の様子64

小さな穴を発見しました。腰ベルトしていては入れないほど小さな穴です。ベルトを外して私が入りました。

遺骨収集の様子65

入り口から10メートルほど下がった場所に到達、ここが底のようです。降りてみましたが、大雨の時にはここが池のようになるようで、流れ込んだ土砂が厚く滞積していました。奥の方にも行ってみましたが、更なる穴の展開はありませんでした。

遺骨収集の様子66

穴底から入り口を撮影してみました。穴が垂直に降りていることから、安全のためにロープを使用しました。実際の穴の上り下りは容易でしたから、この壕も多くの人たちが入っていたことでしょう。

遺骨収集の様子67

大きな開口部を持つ横穴と呼べる壕を発見しました。入ってみましょう。

遺骨収集の様子68

中はとても広い空間がありました。ただ如何せん入り口が大きすぎるので、容易に所在を米軍に発見されたでしょうね。天井・壁共に攻撃を受けたのか煤で黒くなっていました。

遺骨収集の様子69

この大きな壕の中に、更に小さな穴がありました。少し入ってみましたが、土でとても滑るので、安全上深く入っていくのは断念しました。中は調査済みだとは思いますが、いつか装備を調えて入って見たいですね。

遺骨収集の様子70

壕内部から入り口を見ています。開口部が大きいですね。

遺骨収集の様子71

ここにも壕がありました。ただ中には入りませんでした。なぜなら写真右側に見える青っぽい紐のようなものは、金光教が壕内遺骨収集済みの印として、収集後表示するテーピングだからです。このテープを発見したことにより、この地域一帯も一度は金光教遺骨収集奉仕団が入っている事を知ったのでした。

遺骨収集の様子72

この青テープこそ、かつて金光教遺骨収集団が収集した証になるものです。金光教が収集した跡は小さな骨片一つ残っていない…。とも噂されていますから、私たちはこの壕には入りませんでした。

遺骨収集の様子73

石組みが綺麗に残っていますね~。戦後組んだものなのかどうか判然としませんね。とりあえず中に入ってみましょう。

遺骨収集の様子74

中に入ってみますと瓶の破片が散乱していました。明らかに掘り起こした跡が散見されますから、ここもまた調査済みのようです。

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