平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月12日(火) 吉井球三氏合流、宇江城、「南冥之塔」西側で調査

沖縄滞在四日目です。今日は予想最高気温24度、午後から雨との予報です。(^^;)

今朝の慰霊巡拝は米須の県道7号線沿いにある「忠霊之塔」と真栄平の稜線にある「南北之塔」です。それでは今日も張り切って参りましょう。

「忠霊之塔」

遺骨収集の様子1

「忠霊之塔」入口の様子です。米須に国道331号線と県道7号線が直交する「米須」という交差点がありますが、その交差点から県道7号線を北に向かって150メートルぐらい進むと道路すぐ右側に現れてきます。昭和34年6月納骨堂と共に建立されました。

米須は沖縄戦末期米軍による掃討戦で多くの犠牲者が出ましたが、この県道7号線沿いも白骨街道と呼ばれるぐらいに死屍累々の屍が道に沿ってあったと言われる場所です。

遺骨収集の様子2

「忠霊之塔」です。もともとこの慰霊塔はこの付近にあった壕の中に避難していた米須住民の犠牲者を祀っているものです。沖縄戦末期壕の中に非難していた住民は、米軍によるガソリン攻撃でほとんどの方が亡くなったとされていますが、その肝心の壕は埋められてしまったようです。この付近にあったという話ですから周囲を見渡してみましたが、それらしき痕跡は見受けられませんでした。

沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子3

この付近にあったとされる壕内で亡くなられた米須住民の犠牲者159名の名が刻まれています。同壕には守備軍将兵も100名ぐらい居たそうですが、それら戦没者の名は記載されていないようです。改めて犠牲になられた皆様のご冥福をお祈りいたします。m(_ _)m

「南北之塔」

続いて「南北之塔」の巡拝にやって参りました。「南北之塔」は糸満市真栄平集落の背後にある丘陵地帯にあります。慰霊塔のすぐ横には多くの日本軍将兵と地元住民が米軍による馬乗り攻撃で亡くなられた「アバタガマ」もあります。

「南北之塔」は米軍の収容所から真栄平に戻った区民が、屋敷内や道路・田畑に散乱する御遺骨をアバタガマに納めて祀ったもので、昭和21年に建立し「南北の塔」と命名しました。現在の「南北之塔」は昭和41年に改築されたものです。

付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。

遺骨収集の様子4

「南北之塔」から南側を遠望しています前方に展開する住宅街が真栄平集落です。この場所は真栄平集落から見ると小高い丘の上と呼ぶべき場所にあります。ここから真南に進むと2.5kmぐらい先に大渡海岸に出るという位置関係にあります。

遺骨収集の様子5

「南北之塔」です。戦禍に倒れた真栄平住民をはじめ、守備軍軍人等、数千柱の戦没者が祀られています。左側には「捜索二十四聯隊慰霊之碑」もあります。

沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子6

「南北之塔」の碑文です。少し読みにくいので文章を起こしてみました。

【慰霊碑碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会

遺骨収集の様子7

ご覧のように個人のお墓がとても多いですね。

遺骨収集の様子8

「アバタガマ」です。壕は斜めに下っています。奥行きは40メートルぐらいでしょうか。底に達しますと平坦な部分も少しあります。壕に入って見ますと、米軍による激しい馬乗り攻撃を受け地獄の坩堝と化したのを証明するかのように真っ黒に焦げているのが印象的でした。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子9

「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、同じ部隊に所属した戦友だったのです。

「黄色い石けん箱」 をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査により、ついに遺族が特定されたのです。

この壕内で戦死された○○○○さんの息子さんご夫妻が、東京に住んでいる事が判明し、遺品である「黄色い石けん箱」は、無事に御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。 (一番左に写っている男性と写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です)

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動のなかで、多くの御遺骨を発見されました。

ご遺族の胸中は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、毎年遺骨収集活動を継続された事に、それがよく表出されていると思えます。病を抱えながらも、身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

平成24年度戦没者遺骨収集活動写真パネル展

平和祈念公園内にある戦没者遺骨収集情報センターの中野さんを訪ねたところ、「平和祈念資料館で『平成24年度戦没者遺骨収集活動写真パネル展』をやっているから見てきたら」と勧められたので見学して参りました。

遺骨収集の様子10

平和祈念公園内の駐車場に車を止め戦没者遺骨収集情報センターへ向けて歩き出したところ、昨日までの遺骨収集調査活動の疲れが出たのか、目まいがする。ああ…身体が傾いている…。

と思ったら、木のほうが傾いていました。(笑)

写真右側が南方向で海岸がありますから、台風襲来時には南方方面から海水混じりの強烈な暴風雨が、公園内の木々に襲いかかるのでしょうね~。

戦没者遺骨収集情報センターの展示写真

遺骨収集の様子11

摩文仁平和祈念公園と摩文仁集落が写し込まれている写真です。平成7年6月、沖縄戦終結50周年を記念して建立された平和の礎がまだありませんし、平和祈念資料館も旧館ですから、少なくとも平成7年以前の写真という事になりますね。

遺骨収集の様子12

ご存じ摩文仁之丘ですね。終戦直後撮影したものと近年撮影したものとを比較しています。終戦直後の写真は空撮だと思えます。近年のものは地上から撮影していますね。

摩文仁は守備軍司令部があった事から、米軍による執拗な空爆を受け、「白い山」と化したようですから、おそらくカラー写真であれば白い丘のように見えたかもしれません。

摩文仁之丘の標高は89メートルです。守備軍は89高地と呼称していました。平和祈念公園内から見る摩文仁之丘は、大きな木が鬱蒼としてはいますが、おそらく30メートル、高く見積もっても35メートルぐらいしか見えない小高い丘ですね。

遺骨収集の様子13

この写真は摩文仁山上から南西方向を撮影しています。「南冥之塔」は写真からは見えませんが、写真中央のライン上にあります。若干地形が違っているようにも見えますが、これはおそらく近年の写真は午前中に撮影、終戦直後の写真は昼過ぎ、或いは午後に撮影した事による岩影の濃さの相違だと思えます。

平成24年度戦没者遺骨収集活動写真パネル展

戦没者遺骨収集情報センターの中野さんに教えていただいた『平成24年度戦没者遺骨収集活動写真パネル展』で開示されているパネルを全て撮影しましたのでご紹介いたします。

沖縄では思いの外多くの団体が沖縄遺骨収集活動に取り組んでいるのが解ります。それではご一緒に見てみましょう。

平成24年度戦没者遺骨収集活動写真パネル展

遺骨収集の様子14

沖縄で遺骨収集が行われるのは、主に冬の期間ですが、ピークは1月と2月です。そのピークに合わせるかのように遺骨収集活動の展示会を開いて下さったのですね。

遺骨収集の様子15

写真パネル展開催の趣旨です。

遺骨収集の様子16

戦没者遺骨収集情報センターの案内です。

遺骨収集の様子17

戦没者遺骨収集情報センターの機能・役割です。

遺骨収集の様子18

戦没者遺骨収集事業フローチャートです。

遺骨収集の様子19

戦没者遺骨収集情報センター開所式の様子です。

【戦没者遺骨収集情報センターが開所】

「沖縄タイムス」2011年8月2日

県は1日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄戦の遺骨収集を支援する戦没者遺骨収集情報センターの開所式を開き、本格運用を始めた。 県はこれまで遺骨収集は「戦後処理の一環で国の責務」としてきた。しかし、戦争体験者の高齢化で情報収集が困難になる中、国の全額補助を受けて遺骨情報を一元化、民間団体に収骨に必要な機材の経費を補助するなど連携を強め、遺骨収集体制の構築を目指す。

センターの本格稼働により、遺骨収集ボランティア団体や県、市町村が別々に持っていた埋没壕やガマなど遺骨収集作業に関する情報をデータベース化する。

骨ボランティア収集で必要となる移動用のバスやレンタカーの借り上げ料のほか、傷害保険料、弁当代、磁気探査委託料などの一部も補助し、民間の遺骨収集を後押しする。

遺骨収集体制については戦後66年がたつ中で情報収集の難しさなどから、国や県、市町村、民間が連携した体制づくりを求める声が上がっていた。センター機能により、戦争当時使用していた埋没壕やガマなどの調査による情報収集、戦争体験者への聞き取り、現場確認や関係機関との連携も期待されている。

一方、歯や指の骨だけが見つかった場合、国がDNA鑑定を実施する意向を示したことを受けて、県は県内外の遺族のDNAデータの蓄積についても国と連携できるよう検討している。

同センターの本年度運営費約1100万円は国が全額負担し、県が財団法人県平和祈念財団に業務を委託した。現在は職員2人だが近く3人体制に拡充する。7月1日から業務を始め、情報提供がすでに3件寄せられているという。同センターへの情報提供は電話098(997)4123。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

遺骨収集の様子20

糸満市の把握されているガマ(壕)の一覧が掲示されています。

遺骨収集の様子21

アンガーガマの様子です。

遺骨収集の様子22

クラガーガマの様子です。

遺骨収集の様子23

アバタガマの様子です。

遺骨収集の様子24

現118番地後ろの壕の様子です。

遺骨収集の様子25

御嶽の壕の様子です。

遺骨収集に取り組んで居られる団体ご紹介

遺骨収集の様子26

「沖縄県遺族連合会」です。(敬称は省かせて頂きます。以下同じ)

遺骨収集の様子27

「ガマフヤー」です。

遺骨収集の様子28

「修養団沖縄がじまる会」です。

遺骨収集の様子29

「戦没者慰霊の会 ひょうご」です。

遺骨収集の様子30

「戦没者追悼と平和の会」です。

遺骨収集の様子31

「日本青年遺骨収集奉仕団(JYMA)」です。

遺骨収集の様子32

「野口健事務所」です。

展示パネルをご覧になりますと、沖縄における遺骨収集活動では多くの団体が地味ではありますが熱心に活動されているのがお解りになると思います。ここに紹介されている諸団体は遺骨収集の参加者を募集している場合が多いですから、まだ一度も遺骨収集をやった事がないという方も含めて、“遺骨収集を体験してみたい” と思われる方はぜひ紹介URLから入って、当該サイト管理者と連絡を取ってみて下さいませ。

ちなみに沖縄での遺骨収集は特殊な事例を除き、冬の間に実施されます。一般的には11月から翌年2月ぐらいまでの期間という事になります。もちろんこれはハブとの遭遇を最大限避けるための対処でもありますね。

ところで展示パネルを見て国吉勇さんが抜けているのが少し気になりました。団体ではない…。という事でしょうか?。国吉勇さんは、遺骨収集に関わっている人ならば知らない人は居ないと断言できるほど、沖縄遺骨収集活動の第一人者であると言えるでしょう。

沖縄戦終結から今年で68年の歳月を経ていますが、遺骨収集奉仕活動諸団体の毎年の収集努力により、沖縄にある未収骨ご遺骨も減少の一途を辿り、また山野に残されたご遺骨も腐蝕し大地に帰りつつあるのが現状です。金光教遺骨収集奉仕活動でも収集されるご遺骨は激減しており、他のグループでもそうした傾向が見られるようです。

しかしながら、驚くことに国吉勇さん及びそこに集うグループでは、今でも続々とご遺骨を発見されており、人手が全く足りてないのが現状のようです。国吉勇さんの鍛えられたその精緻な眼力にただただ敬服するばかりですが、残念なことにご遺骨を発見したにも関わらず、収骨を翌年に回さざるを得ないほど人手が逼迫している時もあると言います。これは国吉勇さんから直接聞いた話ですから間違いのない情報です。

以前は国吉勇さんのオフィシャルサイトがありまして直接連絡をとる手段もありましたが、現在はサイトは閉じられたようです。ぜひ「国吉勇」でぜひ検索してみて下さいませ。有用な情報が得られると思われます。 その情報を元に、よろしければ国吉勇さんと連絡を取り遺骨収集の募集状況を確認してみて下さい。国吉勇さんは今でも多くの協力者を必要としているはずですから、きっと喜ばれると思いますよ。

「南北之塔」横にあるアバタガマ盗掘跡を確認

「南北之塔」横にはアバタガマがあります。この壕はすでに大規模な収骨作業が済んでいる場所ですが、地元真栄平住民のご遺骨は今でもアバタガマに納められていると聞き及んで参りました。少なくとも金光教の遺骨収集奉仕活動ではそのように説明されて来ました。ですからセメントで塗り固められた、その真栄平住民のご遺骨が納められている場所は、決して手を付けてはならないと金光教の遺骨収集奉仕活動では申し継がれて参りました。

しかしながら地元真栄平住民の戦没ご遺骨が納められているとされる場所が、盗掘といったら失礼に当たるのかもしれませんが、すなわち岩とセメントで塗り固められ、入り口が完全に閉じられていた場所なのですが、何者かによって破壊され開けられてしまったのです。

地元真栄平住民の戦没ご遺骨が納められているこの場所が、戦後60余年を経て地元の人達により今更開けられるというのは奇妙な事と思われますから、何者かが閉鎖されていたその場所を意図を持って破壊し開けたとしか思えません。

私達は昨年地元真栄平の戦没者のご遺骨が納められているその場所が、破壊され開けられているのを目の当たりにし驚きました。もしも地元への伝達なしに誰かが開けたとすれば、これは大問題になり得ると思われますから、松永さんと私とで相談した結果、戦没者遺骨収集情報センターにも、その経緯を知っておいてもらおうという話になり、これからご案内する事となりました。

道すがら、戦没者遺骨収集情報センターの担当の方が、「現在情報収集をしている最中」と前置きした上で、宇江城の未収骨壕を案内して下さることになりました。また「山雨之塔」に立ち寄り慰霊巡拝をする事になりました。

宇江城の壕を見学

遺骨収集の様子33

宇江城のとある畑にやってまいりました。平和祈念公園から思いの外近い場所でした。

遺骨収集の様子34

右端の土手に岩を積み上げた場所が壕の入り口です。昔は穴が開いたままだったそうですが、ゴミを不法投棄され困り果てた地主さんが岩で塞いだという経緯があるようです。壕の分類としては「未収骨壕」とされているようです。

今後地主さんの許可を得るなど対応を検討しているという話をして下さいました。

※私達は無断で畑に入っていますが、畝の通路部分を踏むように、最初から注意して下さいましたことを添え書きさせていただきます。

「山雨の塔」

遺骨収集の様子35

「南北之塔」へ行く途中、「山雨の塔」に慰霊巡拝をしました。ご覧のように「山雨之塔」は農道のすぐ横にありますから見つけやすいですね。

遺骨収集の様子36

「山雨之塔」は、糸満市の宇江城という集落の外れにあります。この慰霊塔は昭和37年(1962年)に建立されたもので、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500余柱が合祀されています。

塔の横には壕がありまして「クラガーガマ」と昔から呼ばれていました。とても大きな壕です。「クラガーガマ」とは、暗いから「暗井戸」という意味のようです。沖縄戦当時地元民の避難壕として利用されていました。壕の中に川が流れているという状況ですから、水は潤沢にあったようです。

現在の壕の入り口は大きく開放されていますが、沖縄戦当時は米軍によりガソリンを流し込まれたり、爆雷を投げ込んだりの徹底的した「馬乗り攻撃」をされたあげく、ブルドーザーで入口を埋められてしまったようです。確かな話ではないようですが、壕内で亡くなった日本軍将兵は1000人から2000人に上るとも言われているそうです。

遺骨収集の様子37

 

【慰霊碑碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会

アバタガマ盗掘跡

遺骨収集の様子38

遺骨収集情報センターの担当者を、アバタガマ盗掘跡にご案内している様子です。

遺骨収集の様子39

松永さんの前にある石組み部分が、塗り固められていたセメントが破壊され、ご遺骨が盗掘されたと思われる場所です。

《過去の写真ご紹介》

「南北の塔」の様子40

破壊された遺骨安置室入口。この写真は昨年の2月12日に撮影したものです。ご覧のように一面に塗られていたセメントが破壊され、内部の収骨作業を追えたあと、ご覧のように岩を積み上げたものと思われます。積み上げた岩の苔の生え具合から見て、夏を越していないと思えます。つまり今年の冬の間に盗掘されたとみて間違いないでしょう。

「アバタ壕」は厳密に言えば二つの壕があり、入り口付近で二つに分かれていました。長年一カ所の穴の入り口は、セメントで固められており壁面を破壊しない限り中には入れないようになっていました。金光教でもこの壕には手をつけてなならないと申し継がれており、これまで一切関与しませんでした。

「南北の塔」の様子41

この写真も昨年の2月12日に撮影したものです。破壊された入り口の、カメラを穴の開いた部分からなるたけ深く入れて撮影したものです。ご覧のように壕はかなり深くなっているのが見てとれます。私も初めてこの穴の内部を観察することになりましたが、よ~く中を見ると、作業したという痕跡が見えることから、徹底して収骨したという印象を受けました。

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子42

もうお腹ペコペコです。牛汁定食美味しそうですね~。

遺骨収集の様子43

地元の方が多く立ち寄る食堂で昼食を頂きました。午前中も結構動き回りましたから、ご飯が本当に美味しかったです。お疲れ様で~す。

「南冥の塔」西側で調査

午後は松永さん、吉井さん、そして私の三人で「南冥の塔」西側で調査を実施しました。

遺骨収集の様子44

海岸に降りるルート上にある寒緋桜です。咲き出していますが、今年は花数が極端に少ないですね。昨年の台風による影響でしょうか。?

遺骨収集の様子45

「南冥の塔」です。那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

遺骨収集の様子46

「南冥の塔」から摩文仁山上を見ています。摩文仁がすぐ目の前に見えますよね。守備軍司令部があった洞窟に近いことから、この付近も繰り返し空爆やナパーム弾攻撃に晒され、大勢の方々が亡くなったと思われますね。

遺骨収集の様子47

「南冥に塔」に参りますと、必ずと言って良いほど隣にある壕に入ります。これは本当に不思議です。入りやすいという事ももちろんあるでしょうが、なぜか入ってしまうんですよね。この壕の中で多くの方が亡くなったからかもしれませんね。

遺骨収集の様子48

「南冥の塔」横から私達はジャングルに入りました。入るとすぐに岩だらけの、すなわち隠れ場所の多い一帯に入ります。

遺骨収集の様子49

巨岩が多く、また起伏も大きいので、少し離れるとすぐに人の姿は見えなくなります。

遺骨収集の様子50

大きな岩ですね~。

遺骨収集の様子51

人間がギリギリ入れるぐらいの穴がありました。早速入って見ましょう。

遺骨収集の様子52

更に奥に入ってみましょう。

遺骨収集の様子53

大きなツララでした。もちろん氷柱ではありませんが。

遺骨収集の様子54

まだまだ奥へと続いてます。

遺骨収集の様子55

ここが最奥部のようです。ここは絶好の隠れ場所だと思えます。

遺骨収集の様子56

この穴に入れれば更に奥に行けそうなのですがほんの少し小さいですね~。この穴は崩れた様子はなく、沖縄戦当時もここから人間が出入りしたとは思えない状況です。

遺骨収集の様子57

手榴弾がありました。赤テープの経年変化からみて10年以上前に金光教の遺骨収集奉仕活動がこの辺りで行われたのが解ります。

遺骨収集の様子58

割れたガラス瓶の一部が見えましたので、これから掘ってみましょう。

遺骨収集の様子59

石を除けていくと軍靴もありました。となると期待に胸が膨らんできますよね。

更に掘ってみましょう。

遺骨収集の様子60

これだけの岩を除けました。わずかな量に見えるかもしれませんが、慎重にかなりの時間を掛けての作業となりました。といいますのも、次から次へと茶碗などの破片が出てきたのです。

遺骨収集の様子61

ご覧下さい。これだけの軍靴、砲弾破片、食器等が埋もれていたのです。ご遺骨も一片だけですがありました。恐らく遺品の持ち主のご遺骨と思われます。精査しましたが記名遺品はありませんでした。これらの遺品は、割れてはいるものの保存状態が良いものについては、松永さんが南風原文化センターに寄贈するそうです。ちなみに茶碗のうち二本線が描かれているものは日本軍将兵が使用した茶碗です。

遺骨収集の様子62

なるたけ広範囲を調査しましょうと言うことで、少しずつ移動しながら調査を続けました。

遺骨収集の様子63

壕の中を調査する松永さんです。ここも広くて良い場所ですね。

遺骨収集の様子64

ご覧下さい。巨岩がバックリと割れています。岩に入った亀裂が、おそらく何万年と掛けてこのように広がったということでしょうかね。もちろん少し危険でしたが、下に降りてみました。

遺骨収集の様子65

壕の中を調査する吉井さんです。

遺骨収集の様子66

大きな縦穴壕がありました。

遺骨収集の様子67

大きな縦穴壕です。私が先に降りて松永さんを撮影しました。

遺骨収集の様子68

ここも入り口が目立たない良い壕でした。

遺骨収集の様子69

ご覧下さい。中はかなり広いです。しっかりした岩盤がありましたから、艦砲にも良く耐えたと思われます。

喜屋武にある沖縄戦による破壊を免れた希少な石垣の塀

表記の通り、これから糸満市喜屋武集落の一角に沖縄戦の激しい攻撃を免れた石垣の塀が残存しているという事で見に行くことになりました。目的の石垣の塀は、次に紹介する本の中に登場している場所であり、本と照らし合わせ、沖縄戦当時を追憶する為に訪ねました。

皆様に沖縄戦に関する著書をご紹介します。この本は吉井さんが私に紹介して下さったもので、私もすでに読了しています。

「沖縄一中鉄血勤皇隊」 学徒の盾となった隊長篠原保司

田村洋三著 光人社 平成22年(2010年)初版

「沖縄の島守―内務官僚かく戦えり」「沖縄県民斯ク戦ヘリ―大田實海軍中将一家の昭和史」などなど、沖縄戦に関する著作の多い田村洋三氏が書いた本ですが、沖縄一中に配属将校隊長として赴任した篠原中尉を、沖縄一中における軍務を超えて教育者としての側面を織り交ぜながら、今も尚生徒に敬慕される篠原中尉の沖縄戦渦中における足跡を辿っている本です。

帯には篠原中尉の在りし日の面影と共に、次のように記されています。ご存じのように本の帯は書籍内容のエッセンスが書き記されていますよね。

「戦死率73%、悲劇の中学生隊を指揮、凄惨な地上戦のただ中で最後まで人として歩むべき道を示し続けた若き陸軍将校と、十代の生徒達との命の絆を描く感動のノンフィクション」

「スラッとした長身、役者にしても良いような美男子、その容姿で一中全生徒の憧れの的となった篠原中尉。しかし素晴らしいのは姿、形だけではなかった…。少しも威張らず、奥床しく、荒れ狂う“鉄の暴風”の下で、「軍服を着た教育者」として尊敬を集め、今も元生徒らに慕われる異色の配属将校の生と死。」

配属将校とは、陸軍省が全国の官・公・私立中学校以上の男子校に派遣、正課としての軍事教練などを教えた軍人のことを指しますが、篠原中尉は沖縄一中に配属された将校で、三年生以上で編成された男子学徒隊「沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊」(略称:沖縄一中鉄血勤皇隊)の隊長を務められました。

この本の主人公である篠原中尉は南部撤退の途上、糸満市喜屋武集落内で仮眠中に、砲弾破片の直撃を受け亡くなられましたが、沖縄一中鉄血勤皇隊の生存者は、現在でも等しく篠原中尉を「先生」又は「教官」と敬意を込めて呼ぶそうです。著者である田村洋三氏はそれを「篠原が軍令を金科玉条とした一介の配属将校ではなく、“軍服を着た教育者” として生徒達の尊敬を集めていた証明であろう」と書き綴っています。

これから訪ねる「喜屋武にある沖縄戦による破壊を免れた希少な石垣の塀」とは、正に篠原中尉が亡くなられた場所でもあります。篠原中尉戦死の瞬間は、この本のクライマックスでもありますから、砲弾破片の直撃を受け亡くなられる経緯を詳細に書き記してあり、文面に照らし往時を思い起こしながら私達は訪ねました。

喜屋武に行くに際しては、ほど近くにある「平和の塔」を慰霊巡拝する事になりました。

喜屋武にある「平和の塔」

遺骨収集の様子70

喜屋武岬にやってまいりました。東側を見ていますが、荒崎海岸の本島最南端部が見えます。西側に目を向けますと、1kmも離れていないところに具志川城跡がありますね。

遺骨収集の様子71

「平和の塔」です。糸満市喜屋武並びに周辺海岸線で亡くなられた日本軍将兵や住民1万柱が祀られています。同塔は昭和44年に建立されたものですが、元々の「平和の塔」は昭和27年10月に糸満市名城にある名城ビーチ海岸に建立されましたが、昭和44年に現在地に移転・改修されて現在に至っています。

沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子72

「平和の塔」の背後には喜屋武岬断崖が迫っています。本島南端部に押し込まれた将兵や住民は、喜屋武岬に至りて逃げ場を失い、多くの人々がこの岬断崖から身を投げたといわれています。

遺骨収集の様子73

 

【慰霊碑碑文】

第六十二師団隷下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三十二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり

昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗に強力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和之塔と名づけしがこのたび南方援護会の助成を得て新たに塔を建てその偉烈を伝う

昭和四十四年三月 財団法人沖縄遺族連合会

沖縄戦による破壊を免れた希少な石垣塀

遺骨収集の様子74

喜屋武にある、沖縄戦による激しい破壊を免れ現存する石垣の塀に到着しました。著者による調査では大小堀家の長門だそうです。塀の長さは30メートル余りといったところです。中央付近の石垣が無い部分が正門です。住宅敷地面積はおよそ700平米あるそうです。敷地内には木造平屋建て家屋の他にブロック等で組まれた建物が二つほど点在していました。まずはぐるりと一周してみましたが、当然のことながら破壊された部分と破壊を免れ現存する部分とが混在しているという状況でした。

沖縄では立派な塀のお屋敷を「長門(ながじょう)」と呼ぶのだそうですが、これは沖縄戦による破壊を免れた稀少な塀ですね。長門、正にその名に能わず往時の面影を今に残していました。

遺骨収集の様子75

ここは正面入り口部分です。ご覧のようにガジュマルの木も残存していました。(大木と呼べるかどうかは戦後の管理次第によると思われます)正面の石組みは「ヒンプン」と呼ばれ、沖縄建築ではよく見られるもので、外からの目隠しという実用的な役割と、沖縄の魔物は角を曲がるのが苦手なため、直進して入ってこないようにという魔除けの意味も込められているようです。

沖縄は旧正月を祝いますから、地際を見ますと「門松」が設置されていますね。四方を取り巻く石垣の内、この正面入り口は “ほとんど破壊されていない” 状態なので、もしかしたらこの正門部分については戦後キッチリ石組みされたのかもしれません。

奥に見える建物は戦後建てられたものと思われます。本の解説によれば空き家だったと書き記されていますが、現時点の状況は、入り口から見渡した雰囲気では、住んでいないかもしれませんが、どなたかが建物を使っているという印象を持ちました。門松も設置されていることから、何らかの管理が為されていると見ました。

遺骨収集の様子76

ガジュマルの株元ですが大きく育っていますね。この株元あたりは往時のままの石組みかもしれませんね。

遺骨収集の様子77

西側角です。篠原隊長率いる一中勤皇隊本部本隊は、この西側角の敷地内塀際に寄り添うように寝ていたそうです。深夜ガジュマル付近で艦砲砲弾か迫撃砲弾が炸裂し、頭部に砲弾破片の直撃を受けた篠原隊長は、この塀の向こう側で一声も発することなく即死されたという事です。著者による聞き取り調査によりますと、篠原隊長が戦死されたのは6月10日頃だということです。

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この辺りの石垣の塀は沖縄戦で激しく破壊されたようです。

遺骨収集の様子79

裏路地側にやって参りました。この辺りも戦後散乱していた石を再び集めて積み上げたという印象ですが、一部往時の雰囲気をそのまま残していると思われる部分もありました。

遺骨収集の様子80

石垣見学を終え近くを散策してみましたら、糸満市喜屋武公園がありました。

遺骨収集の様子81

公園内に拝所がありました。雰囲気がありますね~。

遺骨収集の様子82

立派なシーサーですね~。高さ60㎝ぐらいだったでしょうか。門松も飾り付けられています。

遺骨収集の様子83

住宅の庭先にはインパチェンスが見事に咲き誇っていました。春真っ盛りですね。

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