平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月25日(金)故具志八重さんのお墓参り、松永光雄氏と与座調査
- 1月26日(土)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 1月27日(日)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月09日(土)松永光雄氏と平和学習往来ルート整備
- 2月10日(日)真栄里住宅裏の壕見学、真栄里で調査
- 2月11日(月)吉田幸生氏、松永光雄氏と安里で調査、照屋壕見学
- 2月12日(火)吉井球三氏合流、宇江城、「南冥之塔」西側で調査
- 2月13日(水)松永光雄氏、吉井球三氏と摩文仁南斜面調査
- 2月14日(木)福岡勇一氏合流、摩文仁南斜面調査
- 2月15日(金)田中由美氏合流、与座調査、平和学習サポート
- 2月16日(土)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月16日(土) 第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
今年も金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加させて頂きます。よろしくお願いします。(^o^)
金光教では参加者同士で、ご挨拶代わりに「健康と財と時間のお繰り合わせをいただき参加することが出来た…。」という表現を使われて、摩文仁に馳せ参じる事ができた喜びを表出する方が多いのですが、その言葉通りにそのお陰を私も頂きまして、なんと9日間もの長きにわたり沖縄に滞在することができ、また本日こうして金光教の遺骨収集奉仕活動にも無事に参加させてもらえたという事で、感謝の念で胸が一杯です。
金光教の沖縄遺骨収集奉仕活動は、昭和52年に第1回目として210名が摩文仁に集い遺骨収集が開始され、そして今年ついに第40回という節目の年を迎えられました。那覇教会の林先生はこの金光教沖縄遺骨収集奉仕活動を立ち上げられたお一人ですから、第1回から主催する側として参加されていますが、林先生以外にも第1回から参加し続けている方が複数人いらっしゃいます。また私のような途中参加の方でも20回とか30回とかの長年に渡り参加し続けておられる方は、更に数え切れないぐらい大勢いらっしゃいます。
そうした方々お一人お一人が、胸に一定の思いを秘めて参加を続けられたのだと思います。冒頭でご紹介しましたように、「健康と財と時間のお繰り合わせ」をいただきながら、ここ摩文仁に集い続けました。参加する多くの皆様が、金光教の遺骨収集奉仕活動から帰った翌日から、“来年の遺骨収集に無事に参加できますように” と毎日祈る日々ではなかったでしょうか。
40年間継続されたという事にまず驚嘆します。物事を長く続けるには、基軸がしっかり確立していなければとても続けられるものではありません。参加者の規模は主催組織の変遷により変化が見られますが、アメリカグループの参加者も含めて、ピークの時には500名を超える参加者を受け入れられた事をはじめ、40年間一定規模の組織を運用しつ続けられたという事だけとってみても、なまなか組織力ではとても不可能に思えます。その意味でも長く遺骨収集奉仕活動に参加させていただいてる私も、那覇教会の林先生をはじめ、摩文仁に集う皆様に心を込めて祝意を申し上げます。本当におめでとうございました。(^o^)
記念すべき第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の参加者は、林先生によれば北海道から九州までの参加者が73名(信奉者52名、一般参加21名)で、地元沖縄からは28名(信奉者16名、一般12名)総勢101名もの方々が、ここ摩文仁にある平和祈念公園に集結致して下さったそうです。
またウエブサイトなどを通じて金光教による沖縄遺骨収集奉仕活動を知った、信者さんでない一般の方々が大勢参加して下さいました。正に伝統が信頼感を醸成しこうして一般の方々のご参加をいただけたのですね。本当に嬉しい話です。一般参加者の皆様本当にありがとうございます。(^o^)
林先生は「沖縄戦戦没者二十余万の霊の助かりなくして、沖縄の真の助かりはない。…」という文言を、スピーチの中に必ずと言って良いほど語られています。金光教の沖縄遺骨収集奉仕活動の主軸を為すこの原点の言葉を、第40回の節目にもう一度強く思い起こし、本日からの二日間思い起こしながら作業を進めて参りましょう。近年はさすがにご遺骨発見の頻度は落ちていますが、最後の一体まで探し尽くすという姿勢はいつの時も堅持し、辛酸をなめた沖縄戦戦没者の助かりを願い、今回も精一杯取り組ませて頂きましょう。(^o^)
那覇在籍教会員の皆様が、朝8時過ぎには摩文仁に到着されテント設営を開始、8時半頃から受付を開始して下さり、例年通り9時頃には摩文仁山上を向いての御祈念が始まりました。林那覇教会教会長のご挨拶、注意事項の説明、そしてラジオ体操と各班のミーティングを経て出発の準備が整いました。
初日の各班の活動予定区域は、地図で説明しないと解りにくいのですが(^^;)、南冥之塔以西のそれほど広くない範囲に全班が入り、ある意味酋長捜索を実施するという表現になりますでしょうか。これまでの方式ではあちこちに分散して各班単位で調査・収集するというものでしたが、ご遺骨そのものが減少している事から、範囲を狭めて集中的に取り組もうという話になったものです。
本日は最高気温が19度、曇りのち晴れという、雨の心配がない絶好の遺骨収集日和です。事故に気をつけ頑張りましょう。(^o^)
朝のご祈念/ミーティング
摩文仁山上に向け朝のご祈念が始まりました。金光教の遺骨収集奉仕活動は常に祈りと共にあるといっても過言ではありません。信者さんでない参加者の皆様も、その心根を共有して二日間取り組まれれば、より印象深い奉仕活動になると思いますよ。
金光教那覇教会教会長の林雅信先生が登壇されご挨拶されました。参加して下さった皆さんに感謝の意を表明され、また昨今の沖縄遺骨収集に関わるニュースなどを説明されました。続いて本日の予定地域等の説明をして下さいました。
昨年は「戦没者遺骨収集情報センター」開設に伴い、これまで慣例で行っていた手順が一部変更となりましたので、新規に設定されたルールを説明されましたが、今年は特段の変更は無いようです。
金光教那覇教会の林先生です。当然のことながら第一回から参加されていますが、第一回以前にも個人的に何年か沖縄遺骨収集に取り組んでおられますから、40年+アルファもの長きにわたり遺骨収集に取り組んでおられるという事になります。
。北海道から九州までの参加者が73名、地元沖縄からは28名、総勢101名もの方々が、ここ摩文仁にある平和祈念公園に集結致して下さいました。
金光教の遺骨収集奉仕活動は、ご覧のようにヘルメットやクマデ、鎌等は借りる事が出来ますから、作業服とお弁当さえご自身で準備して下されば参加は可能となっています。
体操が始まりました。年をとればとるほど身体は硬くなりますよね。転倒事故などを未然に防ぐ意味でも、ぜひしっかりと全身運動的に身体を動かしましょう。
ちらみに朝6時半からのラジオ体操というのは、身体の健康上のポイントを押さえた素晴らしい体操なのだそうです。しっかり動かすととても身体に良い体操だそうですよ。私達の今朝の体操も汗をかくぐらいしっかり動かしましょう。
班単位のミーティングが始まりました。こちらは1班の皆さんです。
1班の班長辻井さんが連絡事項を班員に説明されています。
こちらは2班に皆さんです。
こちらは3班の皆さんですね。
こちらは5班、沖縄グループの皆さんです。
こちらは4班の皆さんです。
「南冥之塔」方面に向けて移動が始まりました。「健児之塔」に至る入り口にある駐車場で、濱出さんが、金光教の遺骨収集奉仕活動と前門さんとの係わりについて説明をして下さいました。左側にある建物は前門さん宅でしたが、現在は売却され所有権は替わったようです。
濱出さんの「前門さんと出会わなければ、金光教の遺骨収集奉仕活動は無かったかもしれない…」という言葉が印象的でしたが、そんな前門光雄さんは、悲しいことに平成14年に50歳の若さで他界されてしまいました。前門さんとお母様のお二人は、金光教の遺骨収集奉仕の生みの親ともいえるほど林先生と深い関わりがあったのですね。改めてご冥福をお祈りします。
この先にあります「南冥之塔」は、私達がこれから向かう場所でもありますが、この地に住んでいた前門さん親子は、戦後ずっと自宅周囲に散乱するご遺骨の収集を、個人的にコツコツと続けられたそうです。
昭和51年の冬、この時はまだ個人として遺骨収集をしていた林先生と前門さんが「南冥之塔」近くで出会いました。前門さんは林先生に「僕なんか小さいよちよち歩きの時から、畑に行くと遺骨が転がっているので、運び出す手伝いをしていました。」というような会話があったようです。その頃は「南冥之塔」に至る道はまだ無く、かつ立派な塔もなかった時でしたが、「南冥之塔」の墓守をしていた前門さんのお母さんから林先生に、塔前で慰霊祭を執り行ってほしいという依頼がありました。林先生にとっても、慰霊塔での慰霊祭は「南冥之塔」が初めてだったそうです。
遺骨調査・収集活動の様子
参道コーナーのところに植えられている緋寒桜です。今年は開花が早くてすでに葉桜ですね。
それではいよいよジャングルに入っていきますよ。4班の皆さんのようです。
「南冥之塔」の横からジャングルに入るのは2班の方々のようです。
後について行ってみましょう。
もう少し前進するようです。
収集活動が始まりましたね。
人間が隠れるのに格好の大きい岩の接地面付近は丹念にクマデを入れます。
ここはすごい風景の場所ですね。
大きな空間を持つ壕がありました。中を懐中電灯で照らしてみますと、すでに何人かが入って作業しているようです。
ここは深く広い壕ですね。もっと近づいてみましょう。
壕の入ってきた方向を撮影してみました艦砲砲弾があの穴から飛び込んでこない限り、かなり安全性の高い壕であるのが見てとれますね。
浅木さん、田中さん、そして戸辺さんの三人が協力して作業をしていました。
大きな壕ですから収骨済みの壕に違いありませんが、遺品は次から次へと出てくるようです。
ヒェ~。すごい場所ですが、人が居たので近づいてみました。
一人でコツコツと作業していたのは、一般参加の菊池さんでした。頑張って下さいませ。
こちらは千葉県から来られた一般参加者の寺田さんと飯島さんです。
一般参加者の小林さんです。頑張って下さいませ。
小林さんがとても大きな鉄片を見せてくれました。でかいですね~。丸みを帯びていることから、砲弾破片でしょうかね。
超ベテランの橋本さんです。
こちらは橋本さんと並んでベテランの池田さんです。
この付近で作業しているのは2班の皆さんのようです。竹部さんと市田さんです。
お二方が見つけた遺品です。遺骨はまだ出てこないようです。
森さんと小澤さんのお二方ですいわゆるキセルを発見したそうで見せてもらいました。
全部金属で出来ているようです。名前などの記名は無かったそうです。
「量的にまとまったご遺骨を発見した場合は、まず警察に通報し、ご遺骨発見現場に警察官が出向いて現場検証をする」という事案を、金光教の遺骨収集奉仕活動でも昨年から実施されていますが、そうした事もあり警察署との連絡体制が確立したせいなのか、本日警察から連絡が入り、二年前に金光教が発見したご遺骨について、発見現場を現場検証したい旨連絡が入ったようです。
ついては金光教の対応として、当該ご遺骨を発見した第1班の当時班長さんであった辻井さん(第一発見者は第1班の別の方のようです)と、当該ご遺骨の写真をパソコンに入れてデータを保存している高橋さん、そして私の三人で、糸満警察署刑事課鑑識官二名と沖縄県福祉保健部福祉・援護課の一名を、ご遺骨発見現場にご案内することになりました。
警察鑑識官を二年前の遺骨発見現場に案内
2年前の平成23年に1班の皆さんが大腿骨等を発見した場所を現地調査したいという事で、当該ご遺骨を発見した班である第1班班長の辻井さん、高橋さん、そして私の三人で現地を案内することになりました。写っているのは警察署鑑識官の方です。
警察関係者は二人で来られました。お疲れ様です。一番歩きやすい所を選んで前進していますのでご了承下さい。
全く迷うことなく無事にご遺骨発見現場に到着しました。ホッ。(^o^)
警察署鑑識官や県福祉保健部の方々がまず現場を撮影しているところです。
黄色いヘルメットを被った方が居る場所が、二年前ご遺骨が発見された現場です。海岸から40mぐらいの場所となります。ここまで足を運んで下さった警察署鑑識官や県福祉保健部の方々に、辻井さんがご遺骨のあった場所や、置かれていたご遺骨の状況などの説明をされました。
《過去の写真ご紹介》
このご遺骨が、2年前の平成23年に発見した大腿骨などのご遺骨です。よく見ると左右にご遺骨は分かれていますが、右側は足の主要な骨である大腿骨・脛骨・腓骨が全部揃っています。左側は腓骨のみという事で、私が当時分けて撮影しました。
これらのご遺骨がとても綺麗な骨であった事から、警察は沖縄戦戦没者のご遺骨ではなく、近年のご遺骨の可能性があるとして、現地調査をする事となったようです。
※鑑識官の説明によりますと、沖縄戦戦没者のご遺骨と推測する以外に、二つの可能性があるそうです。ひとつは、自殺あるいは他殺により死亡したご遺骨が上からこの発見場所まで落ちてきた。もうひとつは、海難事故で死亡した人のご遺骨が、台風などの大波でここまで打ち上げられた…。と推測できるそうです。
なるほど~。
関東に住まう私達は知るすべも限られていますが、実際にここ慶良間列島は海難事故が多いのだそうです。ですから死体が海岸に打ち上げられるのは、それほど珍しい事では無いようです。
更に写真を紹介させて頂きますが、下の写真は、年月を更に遡り平成20年(2008年)2月16日の第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で発見した大腿骨です。(白くてとても綺麗な脛骨も発見されましたが割愛します)やはり表面がとても綺麗ですよね。発見場所は同じように台風襲来時には波を被るような、とても海岸に近い場所です。
これら二カ所から発見されたご遺骨に共通しているのは “表面が綺麗で白い” という点ですね。う~ん。今後は迷うかもしれない。どうしよう~。(^^;)
《過去の写真ご紹介》
平成20年(2008年)2月16日の第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で発見された大腿骨2本です。いかがですか。 “表面が綺麗で白い” でしょう。(^^;)
※写真は黄色みを帯びていますが、実物はもっと白かったです。ご遺骨の表面がとてもツルツルしているのは見てとれます。ストロボの光を反射するほどですからね。
鑑識の方がまず驚嘆の声を上げ、「オッ珍しい天梅がある。滅多に見なくなったからね」と語り、目の前に繁茂している植物を指さしました。
この植物は自生する「天梅」という植物だそうです。調べてみますとテンバイとかテンノウメと読むそうですね。別名はイソザンショウ(磯山椒)と呼び、常緑広葉樹で低木つる状、主に海岸地に群生し梅のような綺麗な花が咲くようです。
鑑識官によれば、「天梅」は盆栽愛好家の人気が高く、沖縄本島では自生が盗掘され尽くし、ほとんど見かけなくなったそうです。宮古島の東平安名岬には唯一「天梅」の群生地があるそうです。写真は自生する「天梅」の様子ですが、これだけの大株は滅多に見られないそうですよ。
こちらの白い葉の植物もとても稀少なものだそうですが、名前は失念しました。天梅も左側に写っていますね。鑑識の方はえらく植物に詳しそうですよ。
再び皆さんの作業現場に戻りました
沖縄の警察鑑識の方々の案内も無事終えてジャングルに戻ってきました。4班の皆さんを探そうとしましたが、どうにも見つかりませ~ん。
4班の皆さんです(^o^)
ギョエ~~~。
4班の皆さんをようやく発見したので声をかけたら、「発見しました!」と言うから、ご遺骨を発見したのかと思ったら、ハブが出てきました~。(^^;)
発見時すでに死んでいたそうです。まだ子供のハブですね~。
大きな岩の地際を50㎝ぐらいずつ掘り進んでいるそうですが、ご覧の岩も艦砲砲撃で落ちたのではないかという事で、岩の下をぜひとも探してみようという事になり、皆さん頑張って岩をどけようとしているところです。頑張ってください。
ついに岩を移動させることに成功しました。これから元の岩下を徹底して調査してみるそうですよ。
すぐ近くで女性陣が頑張っていました。
吉永さんら三人の皆さんが地際を一生懸命掘っていました。頑張って下さい。
付近には水が湧き出している場所がありました。乾期ともいえるこの時期にこれだけの水が湧き出しているのですから、沖縄戦末期の5月6月頃は、かなりの量が湧きだしていたかもです。
ご覧のように手榴弾があったので掘り進めたそうですが、ご遺骨の発見はなかったそうです。
「南冥之塔」から20メートルぐらい先のジャングルの中で3班の皆さんが作業していました。複数箇所から細かいご遺骨が発見されているようですよ。
大きな岩が複雑に配置され、ご覧のようにあちこち人間が通行できる空間があるようです。
まずは地表部分の邪魔な木を切るなど、作業場確保をしているところです。
上に居る人と下の壕に入っている人と、声を掛け合いながら作業を進めています。
地表面からも細かいご遺骨が出てきているようです。
肋骨が多く出ていますね。右側にある直線状のものは金属製のキセルです。
2班の皆さんです(^o^)
2班三名の方が作業していた壕に立ち寄ってみました。この写真は壕の入口を撮影しています。
最初に撮影したときから相当な時間が経過していますが、三名の皆さんはまだ頑張ってご遺骨を探し求めていました。
相変わらず遺品が沢山出てきますね。
ご遺骨も少ないですが見つかりましたね。こうなるとご遺骨の多寡ではありませんね。ここまで徹底して探して下さった事に、御霊様もきっと喜んでおられると思いますよ。
いや~長時間お疲れ様で~す。写真でお顔をご紹介しないわけには参りませんよ。三人共に一般参加者で、浅木さん、田中さん、そして戸辺さんで~す。お疲れ様でした。
三名共に一般参加者で、北田さん、寺田さん、飯島さんです。北田さんはいつもお友達や友人を誘って来られているベテランさんです。奥様とお見えになった年もありましたね。
1班の皆さんです(^o^)
1班班長の辻井先生です。いや~~、今日は1班メンバーを探せませんでした~。作業中に出会えたのは辻井班長唯一人でした。
再び3班の収骨現場へ
3班の皆さんは、ほぼ同じ所で引き続き収骨作業をしていました。
この方が作業していいるところからも、引き続きご遺骨が出るようです。
ずいぶんと掘り進めましたね。地表の形状が変わるほど土砂を移動していますね。
この段階まで収骨されたご遺骨です。ご覧のようにのど仏が発見されました。嬉しいですね。
「ひめゆり学徒散華の跡」
第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕の初日の作業を無事に終え、テント前でホテルへ向けて出発準備をしていましたら、吉井さんが荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」に、一般参加者でまだ行ったことのない人を何人か案内するというので、私も後からついていくことになりました。
荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」は、思いの外発見するのに苦労する方が多いらしく、到達できないまま帰ってしまう方が多いらしいので、まだ行ったことのない人もご一緒に「ひめゆり学徒散華の跡」慰霊巡拝をご覧下さいませ。
「ひめゆり学徒散華の跡」
車を降り3分ほど歩きますと荒崎海岸に出ます。荒崎海岸に出て東に向けて進みます。道は一部コンクリートに固められ何となく道になっていますから海岸に出て迷うことはないと思われます。道なりにおよそ120メートルぐらい進むと「ひめゆり学徒散華の跡」があります。
遠くに摩文仁之丘が見えますね。ここからおよそ4kmぐらいの距離があります。
「ひめゆり学徒散華の跡」の碑です。戦後まもなくご遺族により最初の碑が建立されましたが、台風の直撃で損壊したので、昭和47年に現在の碑が再建されました。写真右下に歌碑が埋め込まれています。
「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに」
その歌碑のある場所が自決の現場だと言われています。ほんの岩陰といった場所ですが、ひめゆり学徒14名は、この場で手榴弾を炸裂させ自決されました。米軍の小銃弾を撃ち込まれて数人が殺され、その後の自決…。ほんの数分の出来事だったといいます。
「ひめゆり学徒散華の跡」の碑には、16名の戦没者氏名と、戦死の状況の内訳、昭和20年6月21日に14名がここで、他2名が付近でなくなったと記されています。6月21日に戦死されたと言うことですから、返す返すも残念でなりませんね。
碑にはご遺族による鎮魂歌が一句埋め込まれています。
「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」
吉井さんが指さす先に小さな小さな壕があります。横から撮影しているので解りにくいですが、数人入ったら一杯になる程度の小さな岩の隙間という表現が適正だと思われるような場所です。この横穴に向けて米軍が狙撃し複数人の学徒が即死したと吉井さんは説明しました。
米軍に狙撃され即死する学徒が出てしまう一方、一瞬の隙を見て脱出し背後のジャングルに身を隠した二人の学徒は危機を回避しましたが、元の場所に戻ってみると先生と9名の仲間が自決していて、鮮血は岩をも染め、折り重なるように倒れていたと言います。
吉井さんが指さす方向は海ですが、石灰岩が浸食されて崖となっており、海岸に降りることは出来ないのですが、吉井さんの説明では、一部踊り場のようになっている平らな部分があるそうです。ひめゆり学徒が自決を遂げる21日の前日に、その踊り場にみなが集まり、乙女らは確実に迫り来る死を避けがたいものと感じたのか、私物を海に投げ捨て、着替えを持っている人は身支度をととのえ、そして「故郷」の歌を合唱して過ごしたのだそうです。
最後に参加者全員で慰霊巡拝の記念撮影をしました。
戦没されたひめゆり学徒の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m