平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月25日(金)故具志八重さんのお墓参り、松永光雄氏と与座調査
- 1月26日(土)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 1月27日(日)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月09日(土)松永光雄氏と平和学習往来ルート整備
- 2月10日(日)真栄里住宅裏の壕見学、真栄里で調査
- 2月11日(月)吉田幸生氏、松永光雄氏と安里で調査、照屋壕見学
- 2月12日(火)吉井球三氏合流、宇江城、「南冥之塔」西側で調査
- 2月13日(水)松永光雄氏、吉井球三氏と摩文仁南斜面調査
- 2月14日(木)福岡勇一氏合流、摩文仁南斜面調査
- 2月15日(金)田中由美氏合流、与座調査、平和学習サポート
- 2月16日(土)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月13日(水) 松永光雄氏、吉井球三氏と摩文仁南斜面調査
沖縄滞在9日間のうち、ちょうど中日の5日目となりました。毎晩布団に入るとバタンキュー状態で、身体には思い以上に相応の疲れがたまり始めていますが、一年に一度のご奉公です。集中力を途切れさせることなく中盤を乗り切り、その後のラストスパートに繋げていきたいですね。
今日の天気予報は曇りの予報で、最高気温は20度を下回るとの予報ですから、あまり暑くならないという事で行動しやすいと思います。さて今朝の巡拝は、「魂魄の塔」と「海南健児之塔」の二カ所ですよ。朝が早いですがご一緒に訪ねてみましょう。
「魂魄の塔」
「魂魄の塔」です。昭和21年1月収容所に捉えられていた真和志村民は帰郷を許され戻ってみますと、地域一帯は死屍累々の場になっていたといいます。そんな光景を目の当たりにした初代金城村長は奥様と共に地域住民の協力を仰ぎ、まず遺骨収集から始めたといいます。二万余柱を奉じて同年2月建立された慰霊塔を「魂魄の塔」と命名しました。(最終的に三万余柱が納骨されましたが、昭和54年2月には国立戦没者墓苑に多くが骨されました)
「魂魄の塔」は沖縄で最初に建立された慰霊塔だといわれています。6月23日の慰霊の日前後は、慰霊に訪れる人でかなり混雑するそうですよ。
昔は「魂魄の塔」横に花売りのおばさんが常駐していましたから、よく生花を買い求めたものですが、現在はおられなくなりましたね。
沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
ギリギリ読めますね。
「海南健児之塔」
「海南健児之塔」です。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつです。塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。
開南鉄血勤皇隊270名は、第24師団司令部や同通信隊、そして歩兵第32連隊などに配属となり、危険な任務に就くことも多く、それだけに多くの学徒隊員が亡くなったと言われています。
沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
沖縄戦で戦死された私立海南中学校の職員4人と第一期から九期までの生徒263人が祀られています。
真冬も何のその、サーファーは波を蹴る
駐車している車の数が半端じゃないでしょう~。この地で大きなイベントが開かれているわけではありません。やって来たサーファー達の車なんです。今日は水曜日、平日なんだけども。もしかしたらひと泳ぎしてから出勤かな。(笑)
この海岸は沖縄サーフポイントのメッカだそうで、年間を通して県内外からサーファーが訪れるそうですよ。今は真冬なんですけどね~。(笑)
摩文仁南斜面調査
朝九時過ぎ、無事に松永さんと吉井さんと合流しました。本日も昨日に続き、摩文仁南斜面を調査する予定です。残された日時はあとわずか、精神を集中して取り組みます。そしてご遺骨発見の手がかりが掴めますようにとお祈りしてジャングルに入りました。
花売りおばさん達(^o^)
平和祈念公園内の花売りおばさん達です。私も沖縄に30年通いましたから、おばさん達にしっかりと顔を覚えて頂きました。有り難うございます。今ではジュースやお菓子を差し入れたり頂いたりの関係となりました。おばさん達にはいつも心配と激励を頂き本当に有り難うございま~す。(^o^)
摩文仁南斜面調査
松永さん、吉井さんの面々です。超ベテランのお二人と行動を共にするのですから、本日もきっと大きな成果が期待できそうですよ。それでは頑張りましょう。
連日同じような場所に入っていますが、キッチリ場所を変えて取り組んでいます。例え同じ場所であったとしても、進む方向が違えばそれはまた違った視点で見ることとなり、決して無駄を重ねることにはなりません。これは遺骨収集の要諦です。
戦後70年近くの歳月を経て、白い石灰岩の山はご覧のように緑深いジャングルとなりました。
切り立つ巨岩の裾の窪みを利用して直撃弾を浴びないように石を積み上げてあるのが確認できますね。本日調査している範囲では、このような構築された隠れ場所があちこち散見されます。
深い縦穴壕があったので入って見ました。底部には数人が入れる空間がありました。
人がギリギリ入れるくらいの壕入り口を発見!。この壕の場合、ご覧のように木の根が入り口を塞いでいますが、根の部分があっては人間が中に入れないわけですから、根の太さから見て、数年間はこの壕に誰も入っていないとみて間違いないでしょう。その意味において、小さな壕入り口に、太~~~い根が張っていたりすると、嬉しいものですよね。(笑)
根を切り、小さな壕の一段階降りたところです。更に奥がありますので降りてみましょう。
更にもう一段降りてみましょう。
ここが壕の底のようです。底部といっても広い空間は無く、ご覧のように岩の割れ目程度の空間です。上を見上げても空などは見えないので、相応に安全な壕であったと思われます。
岩をどけてすぐに細かい遺品が出てきました。小さなスプーンとか、ピンク色のセルロイド製ケースとか、そしてなんとハーモニカが出てきました。
これが発見されたハーモニカです。土混じりの中に埋められていたので損傷も激しいです。昔のハーモニカはプラスチックが余り使われてなく、金属製部品が多いのですね。
こうした私物には名前が刻まれているケースが多いので、慎重に記名がないか探しましたが、残念ながらありませんでした。
細かい遺品が多く出てきたので、ご遺骨発見の可能性を信じて慎重に慎重に作業を進めました。
一番奥深い所にはご覧のように防毒マスクがありました。奥に行くほど土が多くなりました。おそらく上から落ちてくる場所なのだと思われます。
ハーモニカやピンク色のセルロイド製ケースとかが発見されたので、この壕に隠れていたのは住民かもしれないと推測しましたが、日本軍将兵であった可能性が増しましたね。発見された全遺品は1メートル以内の範囲に散乱していましたから、同一人物の持ち物の可能性が高いと思われます。遺骨は一片もありませんでした。また以前に収骨作業が為されたという雰囲気もありませんでしたから、遺品の持ち主はここでは亡くなっていないかもしれないなどと推測しました。
中継に松永さんに入ってもらい、遺品を順次地上に上げました。
収集された遺品です。日本軍将兵の遺品としては良く発見される一般的な物ばかりですが、ハーモニカというのは、私にとっても初の発見かもしれません。明日の命さえ保障されない修羅場の戦場に楽器を携帯する心情はいかばかりのものなのか容易に慮られますが、本を戦場で持ち歩くという話も聞いたことがありますから、自由にならない身であっても、好きな物を肌身離さず身につけておくというのは、ほんの少しですが心を強くしてくれるのかもしれませんね。
ここも良い壕ですね~。入って見ましょう。
ここも良い壕でした。この付近は隠れるのに最適な壕が至るところにありました。
ここも良好な壕のひとつでした。
吉井さんが深い壕があるから一緒に入ろうと声をかけて下さったので、一緒に入ってみます。
茶碗や水を入れておいたと思われる割れた瓶の破片も多く、またそれらが一カ所に集められていたので、すでに収骨が済んでいる場所であるのは明白ですが、私達も腰を据えてじっくり調査してみることにしました。
吉井さんが探している場所からは細かい遺品が出てくるようです。
すでに収骨が済んでいる場所であっても、同一壕内の別の場所から新たにご遺骨が発見されるケースをこれまで何度も経験してきました。これは “遺骨収集では違う人が違う目線で調査することの大切さを教えてくれるもの”と捉え、こうした収骨済みが明かな壕に入っても気を抜くことなく、「収骨済み」という言葉を一度脇に置いて、気持ちを集中させ、今一度自分の目線で壕内を見渡してみると言うことが最も大切な事なのです。
手の届かない場所ですが、空き缶がありました。
こちらも手が届きませんが空き缶が見えますね。
小さいですが薬の瓶らしきものがありました。
兵隊さんが履いた地下足袋の底の部分ですね。
ここも人間が入れそうにありませんが、カメラを近づけて撮影しました。かなり形状が残る軍靴が二つ見えますね。もしかしたら軍靴の下にご遺骨も…。
なんとか軍靴を拾い上げられるようにと、シノで岩をグイグイと持ち上げるなど、20分ぐらいでしょうか頑張りましたら、ついに手が軍靴に到達しましたから軍靴を拾い上げました。
狭い範囲にこれだけの遺品がありました。真っ先に記名遺品がないか精査しましたが、残念ながら身元を特定できるようなものはありませんでした。残念です。
これは初めて見るものですが、貝に似せて作った瀬戸物で、左右に紐を通す穴が開いていたようです。右側のその部分は破損してありませんが、紐で吊して飾っておくものなのでしょう。「広楊天」とも読める文字も見えますね。大黒様の上にも文字らしきものが見えますが判読不能ですね~。いずれにしましても、持ち帰り洗ってみることにしましょう。
少しずつ移動しながら調査を進めましたら海岸が近づいて来ましたし、時刻も相応に経過したので、本日の作業は打ち切りとしました。
コンクリート製の階段を歩いているとヤドカリ君が居ました。結構大きかったです。あまり人間を怖がりませんね。どうやら道に迷ったようですから、捕らえて草むらに放ってやりました。
「沖縄師範健児之塔」
手前が「沖縄師範健児之塔」で、右手奥に見えるのは「平和の像」です。塔の背後には、「摩文仁司令部壕」や「黎明之塔」へ至る遊歩道がある事からして、この付近は猛爆を受けたであろうと思われる場所です。
「沖縄師範健児之塔」は、沖縄県師範学校野田貞雄校長ほか職員19名と生徒285名が祀られています。一方「平和の像」は、守備軍管理部の壕の真上に建てられており、大田昌秀氏・外間守善氏・安村昌亨氏の三氏が、自らの戦争体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行しそれが映画化されたことによる印税などによって建立されたものだそうです。
昔は頭上に覆い被さるように樹木が茂っていたために、暗く陰気な雰囲気が漂っていて、曇り空などの時に一人で訪れると暗くて不安になるくらいの場所でしたが、数年前に塔頭上に覆い被さっていた樹木を切り倒した結果、「沖縄師範健児之塔」は本当に明るくなりましたね。
碑文ですが問題なく読めますね。
「平和の像」右横にあるのが初代「沖縄師範健児之塔」です。金城和信氏の尽力により、1946年といいますから終戦の翌年に建立されたものですね。
「白梅之塔」
奥に見えるのが「白梅之塔」です。場所は糸満市真栄里という地域にありますね。。
「白梅之塔」です。動員された生徒達は「白梅隊」、「白梅学徒看護隊」と呼ばれていたそうです。県立第二高等女学校稲福全栄校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。
碑文です。問題なく読めますね。
この「白梅之塔」は四代目だそうです。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたそうです。塔の右側に学徒隊が居た山部隊の野戦病院壕がありますが、壕の底に立ちて見上げますと、正にその太陽を求めるという言葉の重みが見えてくるようです。
「白梅之塔 上の壕」
「白梅之塔」から道なりに50メートルほど坂道を登り、左に折れて森の中に入りますと「白梅之塔 上の壕」の碑文が見えてきます。これがその碑です。碑の奥には壕があります。
「白梅之塔 上の壕」の碑文です。ここでは文言としては「縦穴」と表現していますね。壕と呼べないくらいの浅い穴だったんですね。白梅学徒看護隊の生徒さん達も、この縦穴で睡眠をとっていたと記述されています。
ここがいわゆる「上の壕」です。壕の真上から撮影しています。下に降りるのにちょっと大変なのでここから撮影させて頂きました。壕の様子が余りわからなくてすいません。
以前降りて壕の中に入ってみましたが、それほど深くはなく、もしかしたら壕と呼べないぐらいの浅い壕でした。しかしながらこの付近では壕らしき壕は見当たらず、それでも睡眠をとるには十分な、稀少な隠れ場所だったのでしょう。
(ご覧のように縦穴とも呼べないくらいに破壊されていますが、もしかしたら米軍の攻撃で大きく破壊されたか、軍備品の備蓄倉庫だったと言いますから、備蓄砲弾等が攻撃で誘爆したという可能性もありますね。)