平成25年(2013年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月25日(金)故具志八重さんのお墓参り、松永光雄氏と与座調査
- 1月26日(土)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 1月27日(日)遺骨収集事前調査(林先生他5名)
- 2月09日(土)松永光雄氏と平和学習往来ルート整備
- 2月10日(日)真栄里住宅裏の壕見学、真栄里で調査
- 2月11日(月)吉田幸生氏、松永光雄氏と安里で調査、照屋壕見学
- 2月12日(火)吉井球三氏合流、宇江城、「南冥之塔」西側で調査
- 2月13日(水)松永光雄氏、吉井球三氏と摩文仁南斜面調査
- 2月14日(木)福岡勇一氏合流、摩文仁南斜面調査
- 2月15日(金)田中由美氏合流、与座調査、平和学習サポート
- 2月16日(土)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第40回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月11日(月) 吉田幸生氏、松永光雄氏と安里で調査、照屋壕見学
沖縄滞在三日目です。昨日は暖機運転みたいなもの。本日から気持ちを集中させて遺骨収集の為の調査を15日(金)まで続ける予定です。
今日は吉田幸生さんが、ご遺骨が埋没している可能性のある壕を私たちに紹介して下さるという事で、松永さんと共に三人で遺骨収集の為の調査をする予定となっています。天気予報は雨が降るとの予報です。本降りにならない事を祈りながら、今日も頑張りましょう。
今朝は「赤心之塔」「ひめゆりの塔」「梯梧之塔」を慰霊巡拝します。
糸満市米須の沖縄戦における南部戦跡の中心を為すとも言える、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校戦没職員・学徒を祀る「ひめゆりの塔」、「ひめゆり平和祈念資料館」そして「伊原第三外科壕」には、多くの方が一度は訪れていらっしゃると思いますが、今朝はまず最初に「ひめゆりの塔」や「伊原第三外科壕」と同じ敷地内にある「赤心之塔」を訪れます。
「赤心之塔」は、多くの方々が慰霊に訪れる「ひめゆりの塔」や「伊原第三外科壕」と同じ敷地内にありますが、なぜ同一敷地内にあるのか、その理由を説明させて頂きます。
ひめゆり学徒・職員の多くが亡くなられた「伊原第三外科壕」と呼ばれる壕は、沖縄戦開始の頃は民間人のみが入って避難生活をしていましたが、6月上旬に沖縄陸軍病院が南風原からこの地に撤退して来まして、沖縄陸軍病院がすでに多くの住民が避難していたこの壕に入るに際しては、陸軍病院先発隊の説得によってほとんどの住民は壕を出ましたが、意外にも壕内にそのまま残留した地元住民が居たのです。
その居残った地元住民とは、大田家の子供3人を含む5人の家族でした。子供が居るからという配慮で残留出来たようです。しかしながら安全な壕に残れるという喜びもつかの間、「伊原第三外科壕」は6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ “馬乗り攻撃” が開始されたのです。この攻撃により沖縄陸軍病院職員や従軍看護婦の方々、そしてひめゆり学徒の皆さんと共に、大田家の子供三人と夫の母の四人が壕内で壮絶な死を遂げられ、大田家の生存者は子供達の母であるトシさん唯一人となってしまったのです…。
トシさんはなぜ生存できたのか?。
トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていました。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまいます。
結果として米軍によるこの日の第三外科壕におけるガス弾攻撃により、大田家は掛け替えのない9歳、5歳、3歳の三人の子供と、夫の母を一度に亡くすと共に、防衛隊に招集されていた夫一雄さんも前線で戦死され、沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。
戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。
「赤心之塔」と金光教那覇教会の林先生とは、とても深い係わりがありますのでここでご紹介させて頂きます。
具志八重さんといえば二年前にお亡くなりになりましたが、「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動に初期の頃から参加されていましたが、その具志さんが、平成6年といいますから今から19年前になりますが、金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たそうです。
平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。詳細は下掲の写真の中で説明させて頂きますが、爾来今日まで「赤心之塔」前での慰霊祭は続けられています。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、以降は有志により今年も6月19日に第21回目の慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられる手はずとなっています。
「赤心之塔」
糸満市伊原にある「ひめゆり平和祈念資料館」です。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です。「赤心之塔」はこのアプローチの手前左側にあります。小さな石碑ですから注意深く探してみて下さい。
奥の方に見える小さな石碑が「赤心之塔」です。
「赤心之塔」の解説文です。読めますね。
「赤心之塔」です。大田家唯一の生存者となった母のトシさんは、用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受け、三人の子供と夫の母を亡くしてしまいましたが、そのトシさんは、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった」が口癖だったそうです。
トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。
トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。
その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。
私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話です。
「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。
右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。
【太田家の御霊に祈り「赤心之塔」で慰霊式】
「沖縄タイムス」平成25年6月20日
【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。
大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。
島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。
「沖縄タイムス」から転載させて頂きました
【犠牲者の冥福祈る「赤心之塔」有志が慰霊祭】
「琉球新報」平成25年6月20日
【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。
同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。
慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。
「琉球新報」から転載させて頂きました
「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」と、直下の縦穴壕は「伊原第三外科壕」です。ご覧の「ひめゆりの塔」は四年前に改装されました。初代「ひめゆりの塔」はここに写っていませんが、もう少し右側にありますよね。
「陸軍病院第三外科職員之碑」です。こちらの写真に初代「ひめゆりの塔」が写っています。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「梯梧(デイゴ)之塔」
戦没された60名の職員・生徒を祀る「梯梧(デイゴ)之塔」です。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。お土産屋さんの入り口に「梯梧之塔」看板があるにはあるのですが、ちょっと発見しにくいと思われます。その点が少し残念ですね。
長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。
お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります。
戦没された60名の職員・生徒を祀る「梯梧之塔」です。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
お二方が詩を詠まれています。右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。その事を教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。
経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。
なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか…。お手紙を頂いたその年、今から27年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。
「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますね。
「梯梧之塔」沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。
《過去の写真ご紹介》
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。
この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影ですから、今から23年前に撮影された写真という事になります。関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれていますね。旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されています。
安里で遺骨収集に向けての調査
今日は吉田幸生さんの案内で、松永光雄さんと共に安里方面で、壕の中を調査する手はずとなっています。吉田さんよろしくお願いします。
安里は平和祈念公園正門前の国道331号線を東に2.5kmほど進むと左側見えてきます。安里を過ぎ更に国道を走ると具志頭交差点となります。その交差点を北上しますと国道507号線を走ることになりますが、左側に安里の地域が見えますね。
331号、507号のそれぞれの国道から見ますと、地形が山に登っていくように傾斜しています。かなりの標高差があると感じられますね。安里から見て北側には、最後の防衛ラインと言われた八重瀬嶽の絶壁に至りますから、真栄里、国吉、与座そして八重瀬嶽へと連なる防衛ラインが、地形的に見て八重瀬嶽からは直角に折れて安里に敷かれていたとみて間違いないでしょう。
私たちは国道331号線から脇道に入り、安里公民館前を通り山上にある老人ホームを目指しました。その老人ホームの先に目的の豪があるようです。
「萬朶之塔」
「萬朶之塔」全景です。私たちが今から入ろうとする壕の道すがらに慰霊塔がありました。ここに慰霊塔が建立されているという事は、この付近一帯が激戦地であり、日本軍将兵が亡くなられたという事なのでしょうね。沖縄戦で散華された御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
私たちは最初この文字が達筆過ぎて読めませんでした。「萬朶之塔」(ばんだのとう)と読みます。
【【慰霊碑碑文】
独立混成第四四旅団工兵隊は、優勢なる米軍に対し勇戦奮斗、敵の心胆寒からしめたるも昭和二十年六月中旬村本福次大尉を長とせる将兵並びに軍に強力せる住民併せて二百余名は善戦空しくこの地において玉砕せり。
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て御霊を慰め永くその遺烈を伝う。
昭和四十三年六月 財団法人沖縄遺族連合会
安里での調査の様子
吉田さんと松永さんです。吉田さんに今から壕を案内して頂きます。よろしくお願いします。
安里のとある畑を横切り隣接するジャングルに入りました。
少し解りにくいですが、ご覧のように崖になっていて場所を選ばないと崖下には降りられないようです。
崖を降りて20mほど横に移動すると目的の豪入り口が現れました。豪の入り口は複数箇所あるといいます。これから中に入って調査してみましょう。
この写真はこの崖の岩盤構造を説明するために掲載しました。上半分の岩盤はとても堅固です。一方下半分はニービ層とでも呼ぶのでしょうか、粘土質の比較的掘削しやすい地層となっています。この場所の構築壕は、上半分の堅固な岩盤の下をくり貫いて作られているようです。
最初に入った壕の中から撮影しました。壕入口は東を向いています。この壕は安里の山上付近に設けられていることから、前の木が無ければ壕の中からでもかなり遠くまで見通せる状況になっています。
壕は横に連結されるような形になっており、かなり横長の壕ですが、ここが一番広い空間です。壕の構造は天井部分がいわゆる固い岩盤で、壁床面は、粘土層となっており人力等で掘削したものと思われます。
連結と書きましたが、ご覧のように広い空間と広い空間が、狭い通路部分を挟んで設けられています。可能性の一つとして、壕の爆撃による落盤を防ぐために、あえて広い空間を連続させないようにしたのかもしれませんね。ひとつ意外だったのは、壕内部がとても綺麗でした。火炎放射攻撃や爆雷攻撃などを受けなかったと思われます。
壕壁面がとても綺麗だという点も含めて、私たちが入っているこの壕の沖縄戦当時の軍による戦術的な役割と位置づけなどを話し合う吉田さんと松永さんです。
壁面の様子です。粘土層となっておりツルハシ等で容易に掘削できそうです。
小さな穴は別の出入口に通じていました。
出入口を見ています。この出入口も破壊された様子はなく、また出入口から戦車砲弾等を打ち込まれたという形跡もありませんでした。
壁面が縦に掘られている様子です。当時強度を増すために木材の柱が埋め込まれていたと思われます。あちこち沢山の柱跡がありました。頭上の岩盤は厚く堅固に見えますから、そんな事しなくても良いように思えますが、どのような爆撃にも耐えるようにと柱を全面的に設置したのでしょうかね。
糸満市照屋にある照屋壕見学
引き続き吉田さんが糸満市照屋にある照屋壕を案内して下さると言うことで三人で照屋に向かいました。照屋の壕は山の中を縦横にくり貫いて構築された壕である事が解りました。それでは複雑怪奇だと言われているその構築壕に、ご一緒に入って見ましょう。
照屋には小高い山があり、山上には照屋城跡がありますから、目指す壕はその山の中腹をくり貫いて構築されているようです。斜面にはいくつかのお墓がありました。お墓までの道もしっかりありましたから、現在でもお墓参りに人々がいらっしゃるようです。
出入口は複数箇所ある事が判明しました。ここは最初に入った場所です。
最初に入った入口を10mほど入った所で撮影しました。入口が下り坂になっており、地上からは見えない構造になっているようです。
中に入って最初の空間は昔のお墓の部分ではないかと思えました。そこから先の壕部分は軍により構築されたものと思われます。壁面には赤色で矢印が書かれていました。
壕内にはおびただしい数の空き瓶が放置されていました。ビールが入っていたと思われます。この瓶は戦後地元の若者らが、この壕の中で酒盛りなどを頻繁にした証だと言われいます。確かに壕の中は年間を通して快適な環境ではあると思いますが、よりによって多くの人たちが亡くなったと思われる構築壕の中で酒盛りするなんて…。
ここは空間がかなり広かったので撮影してみました。かなり奥まっていますが、相変わらず空き瓶がありますね。
ここは壁面が煤で真っ黒ですね。この先に別の出入口がありましたから、凄まじい攻撃を受けたのでしょうかね。
最初に出た場所です。出入口がご覧のように上を向いており、地上からは一切壕の出入口が見えない構造になっています。
最初に出た場所から外の風景を写してみました。最初に入った場所からあまり離れていないようです。高さも同じくらいといった所です。
。
ここからは違うルートの写真となります。全体的に空間が狭くなっているのが見てとれます。
相変わらず壁面は煤だらけ、地面には空き瓶だらけ…。
バッテリーみたいです。表面が炭化しており、壕内が激しい攻撃でオーブンのような環境に長時間なっていたのかもしれません。
この先に二つ目の出入口がありました。最初に入ったところは山の北側ですから、こちらの出入口は南側という事になります。
更にもう一カ所出入口がありました。
その三番目の出入口から松永さんが出ているところです。
糸満市新垣にある山裾を調査
私たち三人は更に糸満市新垣に場所を移し、引き続き吉田さんの案内で遺骨収集をする為の調査を続けました。新垣といえば、「第89聯隊玉砕終焉の地」の慰霊塔と構築壕があり、私達も何度か訪れていますが、その山のある場所にもかなり近いようですから、この地域も同じ山裾の一部と思われますので、十分注意して調査したいと思います。
糸満市新垣での調査の様子
場所は新垣の県営新垣団地の南側といった所でしょうか。
ジャングルに入るとすぐに幾つかの壕が山裾にありました。
ここは一番大きかった壕です。壕といっても外から一番奥が見えてしまうぐらいですから、壕とは呼べないかもしれません。割れた瓶も多く見られますから、元々お墓だった場所でしょう。
小一時間ジャングルを調査し終えた私達は、帰り際「浄魂之塔」を訪ねました。道路脇にその慰霊塔はありましたが、表通りにも大きな掲示板は無く、意外に知られていないと思わせる印象です。
「浄魂之塔」に献花する事が出来ました。私達は献花する為の花を朝の内に買い求めて車の中に置いておき、いつでもこうした慰霊のステージで献花できるようにしています。御霊様のご冥福を心より祈念いたします。
【慰霊碑碑文】
昭和42年3月 沖縄県遺族連合会
米軍の本島上陸以来歴戦奮闘を続けし第24師団隷指揮下の各部隊は、新垣の壕を最後の拠点として布陣し米軍を迎撃せしが善戦空しく昭和20年 6月17日この地に玉砕せり。
昭和32年3月地元有志相はかり将兵並びに戦斗に協力散華せる多数の住民の遺骨を奉納し浄魂の塔と名づけしが、このたび南方同胞援護会の助成を得て新たに碑を建て永くその遺烈を伝う。
「浄魂之塔」の横にはご覧のように個人で設置した慰霊碑も幾つかありました。こうした戦野に果てた御霊様のご冥福を心より祈念いたします。
平和学習往来ルートの整備
吉田さんも予定した調査地域をすべて案内し終えたと言うことで帰られました。吉田さん本当に有り難うございました。金光教那覇教会の林先生に情報を上げて、調査地域の判断材料にしていただきます。
午後3時もまわり松永さんも用事があるという事でお別れです。雨も霧雨ですが降ってきたので、私も撤収しようかなと思いましたが、15日に予定されている平和学習往来ルートの整備があと少し残っているので、そのルート整備の最後の仕上げを私一人でやる事にしました。
雨の中単独でジャングルに入るのはとても危険ですが、このルート上で作業するだけなら遭難してもすぐに助けてもらえますからね。念のため作業終了時には松永さんに電話を入れるという約束をしました。これなら夕方松永さんに私からの電話が無かったら、ジャングル内で遭難したことがすぐに明らかとなり、すぐに捜索してもらえますからね。
平和学習往来ルート整備の様子
最初の40メートルぐらいは平坦ではありますが、ジャングルの中を通ります。繁茂する草木で昨年作った道も無くなっていましたが、ご覧のように再び綺麗な道が出来ました。
ここから先は平坦なジャングルに別れを告げ、ハードな岩場を縫うように下っていくことになります。すでに霧雨が降っていますから、今日はスリップに注意しなければなりませんね。
岩場に入って参りました勾配のきつい下り坂です。
正に岩の割れ目が通路になっています。この近辺ではここ以外に崖下に降りるルートはありません。という事でこのルートはとても貴重なルートなのです。
トンネルになっているような岩場も何カ所かあります。落石の心配は無いと思えます。
ここが壕の入り口です。ちなみにこの巨大壕の入り口は四カ所あると把握しています。
壕入り口付近から外を見ています。壕に一人で入るのは結構怖いですね…。まあ落盤する恐れのない壕は一人で入ってもそれほど恐怖心は湧きませんが、これまで何度か落盤の恐れがある壕に単独で入りましたが、はっきり言って怖かったです。「閉じ込められたらどうしよう」という訳です。でも入ってしまうんですよね~。恐怖感が湧いても「やらねばならない」という使命感が勝ってしまうんです。
近年は単独で壕に入る場合は、原則として開口部の大きさによりますが、数メートルより深く入らないように注意はしています。本日は単独ながら松永さんに居場所を伝えてあるので、問題なく単独で中に入ります。
壕の中に入りました。壕の入り口方向を撮影しています。この壕は水が流れ込む壕ですから、ご覧のように濁流と共にゴミも一緒に壕内に入ってきます。ちなみに平和祈念公園が出来るまでは、この壕に雨水は入ってこなかったと思われます。公園の雑排水口がこの壕入り口上部に設置されたために雨水が入り込むようになったのです。
日本軍が構築した雨水を貯めておく水槽です。壁面に縦に水が流れているのが見てとれます。雨の降らない冬の段階でも、ご覧のように岩の間に染みこんだ水が流れ落ちていますから、梅雨時などはかなりの水がこの水槽に流れ込んでいたのではないかと推測されます。貴重な飲み水の確保に繋がったという事でしょう。
この水槽の前で、松永さんは生徒さんを前に平和学習の講義をする予定となっています。
荒崎海岸を調査
平和祈念公園内における平和学習往来ルートの整備もほぼ完璧となりました。無事に壕を出た事も松永さんに伝えました。これで15日の平和学習当日を迎えるばかりとなりまして松永さんも安堵している事でしょう。
沖縄の夕暮れは本土と比べかなり遅いので、このままホテルに帰るのはもったいないと思い、荒崎海岸に言ってみようと思い立ち、荒崎海岸を踏破してみることにしました。これまで何度も荒崎海岸に行っていますが、全体像はよく解りません。ジャングルにおける遺骨収集に向けての調査では、「森」と「木」の両面をしっかり把握せねばなりませんからね。霧雨も降っていることから、ジャングルには入れないので、海岸線を歩いてみることにしました。
荒崎海岸徒歩調査の様子
荒崎海岸に出る道は三カ所あると言えるでしょう。ここはその三つのルートのひとつです。写真では解りにくいのですが霧雨が降っておりかなり強い風も吹いています。その事もあって海岸には誰も居ませんね~。
海岸に出たところから西側を見ています。写真に納められている突端は最南端部ではありません。もう少し西に進むと荒崎海岸の最南端部が現れるはずです。
海岸に出たところから東側を見ています。遠くに摩文仁高地が霞んで見えますね。摩文仁之丘の標高は89メートルです。守備軍は89高地と呼称していました。平和祈念公園内から見る摩文仁之丘は30メートルぐらいの小高い丘にしか見えませんが、こうして遠望すると結構な高い山であるというのが見てとれますね。
荒崎海岸を西に向かって歩み始めてしばらくすると、誰も居ないはずの海岸を一人の男の人がこちらに向かって歩いて来るではありませんか。挨拶を交わして少し話をしてみますと、「夜釣りをする予定なので波の様子を見に来た」という事のようです。霧雨ですが雨が降り始めており荒天に向かっているようですから、大波が寄せては返しているのが素人目にも解る状況なので、今日の夜釣りは諦めたと語っていました。
「そういえばあんたここで何しとんの」と沖縄弁らしからぬ問いを浴びて「荒崎の突端まで歩いて行く予定です」と答えると、ビックリされて遠いから止めとけと制止され、逆に車で送ってやるよと言われてしまい…。“徒歩で行くことこそに意義がある” という点を理解してもらうのも大変そうだったので、お言葉に甘えて車に同乗させてもらって荒崎突端部まで行くこととなりました。ラッキー。
徒歩調査の予定が車で移動
車に乗って10分程度。駐車場から少し歩いて再び海岸に出ました。ここは荒崎海岸の最南端部で束里の岬と呼ばれています。また沖縄本島最南端部であるとも言えますね。
荒崎海岸の束里の岬から西側を見ています。
荒崎海岸の束里の岬から東側を見ています。
波洗う荒崎海岸最南端部束里の岬の様子です。強い風と共に大きな波が岩場にド~~ンと押し寄せていました。これでは夜釣りを敢行しても魚は釣れないでしょうね。
海岸を少し西に移動しまして、喜屋武岬方面を見ています。少し解りにくいのですが、遠望する突端部が喜屋武岬です。行った事のある人なら、突端部付近にある見晴らしの良い休憩小屋や白く塗られた十数メートルの高さの喜屋武埼灯台も見る事が出来ます。この写真に納められている範囲はすべて沖縄南部戦跡国定公園に指定されており、この海岸線に沿って多くの避難民が逃避行を続けていたものと思われますね。
海岸線を少しアップしてみました。
ご覧のように海岸線の岩肌は石灰岩が浸食され反り返ったような風景が続きます。この辺りは海面に降りるのはほとんど不可能に見えますが、この写真右側にアルミ製のハシゴが設置されており、釣り人などが利用されている印象です。
荒崎海岸近くの畑を撮影しました。ご存じジャガイモですね。2月と言えば冬の真っ只中ですが、ご覧のようにジャガイモは青々と元気に育っています。