平成23年(2011年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月29日(土)遺骨収集事前調査・摩文仁清掃奉仕 (準備作業)
- 1月30日(日)摩文仁清掃奉仕
- 2月14日(月)松永光雄氏と摩文仁V字谷と南斜面で調査
- 2月15日(火)松永光雄氏と摩文仁南斜面で調査
- 2月16日(水)国吉勇氏と「JYMA日本青年遺骨収集団」の遺骨収集に参加
- 2月17日(木)独立高射砲27大隊本部壕と大渡海岸一帯を調査
- 2月18日(金)キーザバンタの東側海岸線を調査
- 2月19日(土)第38回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月20日(日)第38回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月18日(金) キーザバンタの東側海岸線を調査
今日も昨日に引き続き、松永さん、吉井さん、そして私の三人で、午前は沖縄在住の松永さんが予てより徹底した調査をやってみたいと考えていた場所を、一緒に調査する事になりました。また午後は摩文仁南斜面(キーザバンタ寄りを予定)にて、三人で調査を実施する予定です。
それでは、恒例の朝の慰霊碑巡りといきましょう。今朝は糸満市字大里にある「沖縄兵站慰霊之碑」ですよ。(^o^)
「沖縄兵站慰霊之碑」
『沖縄兵站慰霊之碑』は、糸満市字大里を走る県道7号線に沿うようにありました。
慰霊碑正面です。右側には県道7号線が走り、慰霊碑へのアプローチは解りやすいですね。
『沖縄兵站慰霊之碑』には、第49兵站区隊本部、陸上勤務72中隊、同83中隊、特設水上勤務第103中隊、同第104中隊、独立自動車第215中隊、同第259中隊、球1616自動車中隊、同航空兵站中隊、沖縄防衛中隊、沖縄出身従軍軍属、那覇停車場司令部などの、沖縄で召集された防衛隊、軍属ら戦没者を合祀しています。以上の兵站部隊は、米軍の上陸後、特編第二旅団を編成し、第三十二軍直轄部隊として戦闘に加わった部隊です。関係者の高齢化により、沖縄兵站会主催の慰霊祭も10年前の建立30年目の節目で最後となり、現在は自由参拝となっているようです。
慰霊碑建立の悲願実現と、戦友の御霊安らかなれと祈る思いが切々と伝わってくる文面ですね。文字が少し小さいので、文面を転載させていただきました。
【慰霊碑碑文】
第二次世界大戦最後の且つ日本国土上唯一の激戦上となりたる沖縄本島に在りて 第49兵站地区隊本部 及び 摩下各陸上勤務中隊水上勤務中隊自動車中隊並に現地採用各軍属は昭和19年8月より米軍の侵攻来撃に備え 兵器 弾薬 装備 糧秣及兵員の輸送業務並に陣地構築の任務を遂行しつつありたる処昭和20年3月24日米軍上陸と同時に特編第二旅団を編成し 之れに現地召集防衛中隊を指揮下に入れ 第32軍司令部直轄兵団として 戦列に加わり全将兵もとより従軍志願せる軍属に至る各員は祖国防衛の難に身命を挺しつつ各戦線に赴き米軍の尨大なる戦力 且つ米軍が太平洋戦線 戦局の決定を賭しての 陸海空総戦略をつくしたる熾烈死闘猛攻に対し 日夜勇戦敢闘の限りを 尽くしつつ 緑の山野に殉国の血を染め 故国に想ひを馳せつ祖国の再興を念ひ乍ら遂ひに散華せられ 逝きぬ 時に同じ砲煙弾雨のもと もとで死生を倶にと誓ひし乍らもいかなる運命のもとにてか寄しくも生き永らえし者幾余名本土と沖縄とに在りて志を同じゆうして逝き戦友の英魂を永こしなえに慰ぐさめ弔わんものと その慰霊碑建立の 悲願を樹て 爾来20有余年1日として 忘却せざるなし 誓願 努力の積年 幾星霜 遂ひに ここに御遺族各位を含めての 英霊追慕の至情は 結実し ここゆかりも深き 南部戦線の一画に 一人一人の徴衷と心魂とを篭め尽くせる「沖縄兵站慰霊之碑」建立の本願を果たしぬ 茲に その全英魂を招き 祀り弔ふ日を迎え得たり 今 静かに往時を偲ぶとき 戦友の英姿が 俤げが瞼に映じきたりそこここより 戦友の在りし日の声聞こゆるが如きを 感じ転た血涙 新らたなるものを覚ゆ 願くわ 霊魂来たり 亨け この地に 永こしえに 安らけく 鎮ませ給え
昭和46年10月10日 沖縄兵站慰霊之碑建立 奉賛有志一同
碑の裏手に小さな壕がありました。内部は直径15メートルぐらいの円形の空間があるのみです。天井高はギリギリ立って歩けるかなと言うレベルです。しかしながら壕の上に艦砲弾が打ち込まれれば、おそらく一発で壕は破壊されてしまうと思われるような印象を受けます。開口部右側の石組みは、戦後碑の建立に併せて組まれたものと推測されます。
壕内部から外を見ています。慰霊碑に掲載されているどの部隊がこの壕を使用したかは不明です。(この壕と慰霊碑の関係はよくつかめていません)
二カ所の壕内を調査
ここは糸満市真栄里です。南部病院前の交差点がすぐそばにあるという場所です。ここに小さな壕があるというのでやってまいりました。
壕の中に川が流れているという事ですが、その川の名は「あな川」というみたいですね。ウ~ン、覚えやすい名前だ。
ここが入り口です。上側は岩盤で、下側つまり歩く場所はコンクリートでしっかり固められていますから、狭い空間でしたがとても歩きやすかったです。
10メートル程降りていくと壕底部に到達しました。ここから水は湧き出ているようです。冬のこの時期、湧き水はそれほど多くはないようですね。
拝所や通路部分のコンクリート部分は戦後作られたものでしょうけど、天井の岩盤がかなり焦げているのが見えますね。ですから、沖縄戦当時もここは貴重な水源でしたから多くの避難民が水を求めて殺到したのではないでしょうか。
天井の岩盤のやけ方が凄いですね。おそらく火炎放射攻撃を受け、壕内が高温になり岩盤がレンガ化したのではないかと思われます。実際に岩盤が赤くなってレンガ化していますので間違い無いでしょう。
拝む対象として三つの磨き込まれた石が並べられていました。松永さんの話では、水神を祀っているのではないかと話していました。
すぐ近くにもう一カ所壕があり訪ねてみました。壕に近づくにつれて、スロープを降りてゆくような勾配があり、この壕の中にこの近く一帯の雨水が流れ込むような地形になっているようです。
壕入り口です。すでに地面はぬかるんで、壕の中に潜り込むにも慎重さを求められました。こんな所で転んでしまったらえらいことになりますからね。
30メートル程前進すると、ご覧のように池となっていました。沖縄戦当時もこの壕は利用されたと松永さんが話してくれましたが、昭和20年の6月は平年よりも雨が多かったという話ですから、ここに避難した人達はドロンコにまみれてさぞ大変だったでしょうね。
「不抜之塔」
『不抜之塔』は、糸満市大里にある大森城跡の麓に建立されていました。16日午前中は、大里陣地壕で調査&遺骨収集を実施しましたが、そこからかなり近い距離にあります。私たちは消防署の駐車場に、車を止めさせて頂きました。
ここは第24師団歩兵第32連隊本部壕でしたが、軍の南部撤退に伴い傷病患者の収容所となり、多くの将兵がここで亡くなったと言われています。昭和41年(1966年)4月、この壕からの生還者らが中心となり『不抜之塔』を建立して戦没者を祀りました。あまり管理が為されていない現状に少なからず残念さが心をもたげましたが、沖縄の慰霊塔の少なくない箇所がこのような荒廃の危機にあると言えるでしょう。ちょっと寂しいですね。
破損がひどく少し解りにくいのですが、山全体の大森城跡に設けられた日本軍陣地の地下通路の配置図です。白い直線が掘られた壕と言うわけです。内部空間の総延長は解りませんが、かなり大規模で要塞のような雰囲気ですよね。赤い線が四角になっている部分が出入り口みたいです。入り口は全て塞がれているという話を聞いていますから、入れるかどうか解りませんが入り口を見つけてみようという話になりました。
昭和63年つまり今から12年前に一度大規模な修繕工事が施されたようです。その頃はまだ大勢の軍関係者が生存していたみたいですね。
大森城跡のジャングルに入ってみました。沖縄戦当時激しい攻撃を受け、山が石灰岩のむき出しの山になってしまったのでしょうか。それらの理由により木の成長が進まず、まだそれほど大きな木が無い為にジャングルは比較的明るく見通しがききますね。
地下要塞の入り口を見つけました。さっそく入って見る事にしましょう。
10メートル程入ってみますと、二つに分かれていまして、一方は塞がれて行く事が出来ず、もう一方の写真に写されている奥側に進んでみる事にしました。
30メートルぐらい進むと地上に出てしまいました。残念。
山の中腹をくまなく捜しましたが、時間が限られており、山の周囲全てを回って調査することはなりませんでした。
ジャングルには遺品がほとんどありませんでしたが、唯一空き缶を一個見つけました。
地元の食堂で昼食(^o^)
南城市玉城百名にある、主に地元の人達が利用する食堂です。
「てびち煮付け」という沖縄料理です。豚足も入っていたりして、美味しかったですよ。
松永さんはこの食堂にいろんな人達を案内するそうですよ。吉井さんも私も二度目ですから、今度は道を覚えましたから、沖縄に来たときにこの食堂を訪ねたいと思います。
摩文仁南斜面(キーザバンタの東側)を調査
昼食を食べ終えた私たちは、摩文仁東端、正確には八重瀬町にあるサザンリンクスゴルフクラブゴルフコースに隣接する駐車場にやってまいりました。午後はこのゴルフ場に接する崖下を東に向け行けるところまで行ってみようという計画です。
この地もまた、私も含めて三人とも一度も入ってないと言いますから、摩文仁を含めた沖縄戦跡国定公園は、正に本当に広いのですね。場所的に見て、道に迷う可能性はゼロに近いので、夕刻時間の許す限り東側に前進してみる予定です。(^o^)
それではご一緒に崖下ジャングルに入ってみましょう。
サザンリンクスゴルフクラブ南斜面を調査
サザンリンクスゴルフクラブの南斜面の様子です。崖直近までゴルフコースが迫っているのが見てとれます。崖の中に入って見ますと、かなりの数のゴルフボールを見つけることが出来ます。
凄い絶壁になっていますね~。写真中央の突起部分がゴルフ場の中間点といったところでしょうか。そこを超えると具志頭や港川方面が展望できるようになるという位置関係です。今回は最低でもその突端部あたりまで前進してみる予定です。しかしながらこんな崖を降りることが出来るのでしょうか…。
「しかしながらこんな崖を降りることが出来るのでしょうか…。(^^;)。」と書きましたが、海岸に降りる立派なコンクリート製の階段があるんですね~。(笑)
アッという間に海岸に降りてしまいました。おっと、海岸に降りることが目的ではありません。ジャングルに入るのが目的です。
海岸の草木が繁茂している部分を抜けると、“すぐに崖” という箇所も多いですね。
さあジャングルに入りました。
本格的に岩場が現れてきましたよ。怪我をしないように慎重に歩みを進めます。
巨岩がゴロゴロしており、隠れる岩場も多いですし遺品も散見されるので、丁寧に岩を移動したりしながら調査を続けます。
手榴弾がありました。
手榴弾が二個並べてありました。こちらの手榴弾は劣化がひどいですね。
位置関係を把握するために、一度海岸に出てみる事にしました。
海岸に出て、山側を見ています。
東方向を見ています。ここからではまだ具志頭や港川方面はよく見えませんでした。
西方向を見ています。慶座絶壁(キーザバンタ)や水源地の水の流れが見えますね。
今回はここまでの前進とし、引き返す事にしました。
写真右側の奇岩がひとつの目印になりますね。頭に入れておきましょう。
石でなく土の地層が露出している場所がありました。南部でこのような地層は珍しいですね。