平成23年(2011年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月16日(水) 国吉勇氏と「JYMA日本青年遺骨収集団」の遺骨収集に参加

本日は、沖縄の遺骨収集活動ではその名を知られた国吉勇さんと、大学生でありながら大東亜戦争戦没者の慰霊と遺骨収集事業等に取り組む「JYMA日本青年遺骨収集団」の皆さんが、ここ糸満市大里にある「大里陣地壕」で遺骨収集をされていると国吉さんからお聞きしましたので、国吉勇さんに、「私も参加させて下さい」と御願いしたところ快諾して頂きましたので、本日一日限りですが私も飛び入りで参加させてもらう事と相成りました。(^o^)

国吉勇さんについては、以前この参加記でも詳細にご紹介した経緯がありますので、国吉勇さんの人となりは割愛させて頂く事にして、「JYMA日本青年遺骨収集団」という団体のさわりを皆様にご紹介させて頂きます。

団体の名称は、正確には「特定非営利活動法人JYMA日本青年遺骨収集団」と表記しますが、オフィシャルサイトによりますと、『昭和42年、「学生慰霊団」として発足、戦争の傷跡の残る外地に赴き日本軍玉砕地における慰霊活動を実施していた際、"草むす屍"同然に遺骨が放置されている現状を憂い「学生遺骨収集団」を結成し、その後広く一般青年層に呼びかける為に「日本青年遺骨収集団」と改称、学生を中心とした非営利団体とし活動して参りました』と紹介されています。

つまり大学生を中心に構成された団体で、大東亜戦争戦没者のの慰霊や遺骨収集に取り組んでいるという事のようです。オフィシャルサイトがありますのでご紹介します。(^o^)

大東亜戦争戦没者の遺骨収集に一定のご関心のある方なら、サイト検索で「遺骨収集」と検索すれば検索第一ページに必ず登場しますから、「JYMA日本青年遺骨収集団」という名をご存じの方は多いと思いますね。当サイト管理人も「JYMA日本青年遺骨収集団」という名を早くから知っていましたし、いつの日かご一緒したいといつも願っていましたが、ついにその日がやってきたという訳ですよ。

なぜ強く「JYMA日本青年遺骨収集団」の方々とお会いしたかったかと申しますと、ご紹介したサイトの「ごあいさつ」コンテンツの赤木理事長のコメントを非常に印象深く読ませて頂きました。以降その言葉がとても好印象を持って私の記憶に残っているからなのです。

「JYMA日本青年遺骨収集団」設立の経緯や、遺骨収集や慰霊事業の取り組み、諸外国との親善活動の推進等の目的に対し、強い使命感を持って取り組んでいる事が読み取れる文面でしたので、ここで皆様にもぜひご紹介したいと思います。

【NPO法人JYMA日本青年遺骨収集団 理事長赤木衛】

私達は戦歿者の犠牲の上に整えられた平和と繁栄を享受しています。
しかし私達はほんの65年前のことを忘れてしまってないでしょうか。現在の安寧は、世界を相手取って戦った、南海の孤島や極寒のツンドラに眠る多くの戦歿者の犠牲を礎に成り立っている事を。

「JYMA日本青年遺骨収集団」は昭和42年、「学生慰霊団」として発足、戦争の傷跡の残る外地に赴き日本軍玉砕地における慰霊活動を実施していた際、"草むす屍"同然に遺骨が放置されている現状を憂い「学生遺骨収集団」を結成し、その後広く一般青年層に呼びかける為に「日本青年遺骨収集団」と改称、学生を中心とした非営利団体とし活動して参り、平成十四年十月、特定非営利活動法人として認証された今年で創団43年の団体です。

近年、民間の非営利団体は、福祉、環境、まちづくりなど幅広い領域で活躍し、その重要性が広く認められております。私どもは「戦歿者遺骨収集活動」を喫緊の課題として、「戦歿者慰霊」を創団の精神として次代へ繋ぐため、加えて「諸外国との親善」活動を推進しております。

「慰霊」の前衛を担ってきた戦友や遺族ら、先輩世代の衰徴により、今、世界各地でそれらの祭祀が主を失っています。

先の大戦では世界各地で多くの日本人が亡くなり、その多くは、増援を送ること叶わず戦略的に見捨ててしまった人達です。戦争の史実、多くの人の出血と涙に無関心を決め込むような事になれば、英霊達を更に見捨てる事になり、そうなれば、もはや日本は、文化的な国家の資格がないと考えますし、その成員としての我々青年世代の矜持さえも後世から謗られましょう。

諸外国に例を引くなら、これらは公の力により、国家の加護の下に置かれて然るべきなのでしょうが、先の大戦を冷静に評価する思考を停止してしまった世代や、国に任せようとばかりせず、青年世代が、先輩世代の残した慰霊の灯火を継承し、願わくば我々がその核となっていこうとしうのが、私達の志でもあります。

行政のフットワークでは出来ない仕事や、利潤追求を原則とする企業活動には及ばない事業を手がけて参る所存です。

私どもの活動にご賛同とご支援を賜り、新たな仲間が事業へ参画してくださる事を切望いたしております。

「先の大戦を冷静に評価する思考を停止してしまった世代や、国に任せようとばかりせず、青年世代が、先輩世代の残した慰霊の灯火を継承し、願わくば我々がその核となっていこうとしうのが、私達の志でもあります。」

素晴らしい言葉だと思います。“この時代に生まれ合わせた者の使命として取り組みたい” という強い思いがビシバシと伝わってきますよね。 赤木衛理事長のこの言葉は、「一燈照隅、万燈照国」の考えにも通じるものがあり、多くの青年が抱いて欲しい気概でもあると思えるのです。

私は、「JYMA日本青年遺骨収集団」サイト内で公開されている、機関誌「遺烈」の過去5回分のファイルを読み通してみましたが、寄稿している学生会員諸氏の見解の高さに驚くと共に、その活動範囲の広範さにまたまた驚いた次第です。

先人達が自存自衛の為に戦い抜いた大東亜戦争が終結して早66年が経過したわけですが、JYMA会員の皆様と共に、私たちも日本人として、先人の児孫として…、国家の存亡を掛けて戦い戦没された日本軍将兵への慰霊の灯火を、私たち一人一人が先人の思いを語り伝え、これからも絶やすことなく継承してゆきたいものですね。

首里の地下壕に立てこもり戦っていた第32軍司令部も、5月末首里を放棄した以降は、具志頭、八重瀬岳、与座岳、新垣、国吉、真栄里を摩文仁を守る最後の防衛ラインとして残存兵力をもって布陣しました。大里は国吉の隣の集落といえる所にあり、実際に大里の県道7号線幹線道路に立ってみますと、南東に方向すぐ近くに切り立った与座岳が見えますし、稜線が左右に展開しているのも見てとれる事から、ここ大里でも南山城跡の崖下に堅牢な岩盤があり、一部は風葬墓として昔から壕が掘られていた事から、守備軍も堅牢な岩盤の直下の比較的柔らかい岩盤を更に掘り進み「大里陣地」として複数の構築壕を作ったと思われます。

それでは一緒に大里陣地壕の一つに入ってみましょう。(^o^)

大里陣地壕

遺骨収集の様子1

ここは糸満市大里です。1kmほど東に行くと与座岳があるなど、摩文仁を防衛する最後の守備ラインでもあったところで、米軍と守備軍とで激しい戦闘が展開された地域です。鬱蒼と茂る森は現在南山城跡(なんざんじょうせき)として地域の憩いの場となっています。鉄扉が見えますが、高嶺小学校へ至るアプローチです。

遺骨収集の様子2

南山城跡を周回してみますと、裏手の方は山と呼ぶほどの起伏はありませんが、城壁の一部は今も現存し、往時の雰囲気を少しばかり垣間見せてくれますね。

遺骨収集の様子3

こんな巨木もありました。樹木名は解りませんが、凄いですね~。

遺骨収集の様子4

南山城跡の解説板です。問題なく読めますね。

遺骨収集の様子5

城跡敷地内にある南山神社です。昭和2年に建立され、沖縄戦でも被災はしましたが焼失は免れて、昭和31年に一度は修復工事が施されましたが、傷みがひどく平成21年に現在の白く新しい社に建て替えられたそうです。

遺骨収集の様子6

沖縄では各地で見られる拝所です。それにしても規模が大きいですよね。

遺骨収集の様子7

この拝所は、大正4年10月吉日に拝所が建立されたみたいですね。今から98年前という事になりますから、歴史がありますね。沖縄戦でも大規模な破壊は免れたという事でしょうか。

遺骨収集の様子8

前を歩くのが国吉勇さんです。南山城跡東側斜面を二人で探索しているところです。

遺骨収集の様子9

「JYMA日本青年遺骨収集団」 の皆さんが続々と集結してきました。本日は彼ら大学生で構成する収集団と行動を共にする事になります。

遺骨収集の様子10

この壕は日本軍が構築した「大里陣地壕」のひとつです。国吉さんや「JYMA日本青年遺骨収集団」 の皆さんにより、遺骨収集が継続されていますが、人一人は入れるぐらいの小さな開口部ですからよく見ないと壕入り口だと認識できませんね。開口部の小ささはおそらく沖縄戦当時もあまり違ってないと思われます。それでは壕の中に入ってみましょう。

遺骨収集の様子11

構築壕ですから、壁際にはご覧のように落盤防止用の木材もかなりの数見る事が出来ました。

遺骨収集の様子12

この木材も壁際にありましたが、細い板のようなので、例えばベッドとか棚とかの材料として使われていたのかもしれませんね。

遺骨収集の様子13

靴底や遺品があるのを見てとれますね。

遺骨収集の様子14

これも軍靴ですね。多くの日本軍将兵がこの壕内で亡くなったのでしょうか…。

遺骨収集の様子15

子どもの頃粘土遊びをして、造形したものを幾日も放っておいたら粘土が硬くなって再び使えなくなった…。という経験をした方も多いと思われますが、この壕内の天井の岩盤を除く壁面は一見すると岩に見えますが、そんな「硬くなってもろくなった粘土」という表現が一番ピッタリするのではないかと思われるくらいもろい印象を受けます。ですから容易に壕内を掘り進めたと思えますが、米軍の攻撃を受け激しい衝撃で、容易に壕内は落盤したのではないかと推測されます。

遺骨収集の様子16

壕内はコの字型に掘られていますが、一番奥深いところ、つまり御遺骨が一番存在していそうな場所、おそらく壕入り口から50メートルほど入った所で、「JYMA日本青年遺骨収集団」のメンバーの皆さん三人がスコップ等を用いて地面を掘り返していました。

遺骨収集の様子17

「JYMA日本青年遺骨収集団」の皆さんです。先の大戦で亡くなられた方々の遺骨収集を目的に大学生を中心に編成された団体です。頭から足先まで服装とか装備品など身につけているものを見ても、経験を重ね洗練されているのが見てとれますね。今回は2月10日から9日間にわたり大里や西原町各所で、調査&遺骨収集を続けるそうです。写されているお三方も大学生であるわけですが、皆さんがそれぞれの思いや志を抱いて、ドロンコになりながら遺骨収集をされているという訳ですね。本当にご苦労様です。頭が下がります。
【ホームページ掲載を許諾して頂いた上で撮影させて頂きました】

遺骨収集の様子18

国吉勇さんらが、少し離れた壕で収集作業をしているという事で、そちらに行ってみることにしました。200メートル程離れていましたが、写真の様なジャングルを歩いたのではなく、写真右側すぐにある歩道を歩いて行きました。

遺骨収集の様子19

壕を退出する時に撮影したものですが、指の骨など細かい御遺骨が沢山収集されました。遺品も色々出てきました。丸いメガネも発見されましたね。

摩文仁南斜面から大渡海岸方面を調査

午後は、遺骨収集のベテランとも言える吉井さんが摩文仁の平和祈念公園に到着するという事で、一緒にジャングルに入り調査をする事となりました。

大里陣地壕で国吉勇さんらと一緒に昼食を食べた後、皆さんにお別れのご挨拶をしてから、私はここ摩文仁にやってまいりました。今年の沖縄滞在中における最大の目的である “大渡海岸から摩文仁までを縦走する” という企画が予定されていますので、今日は半日という時間が制約された状況下ですので、摩文仁側から大渡海岸に向けて行けるところまで行ってみようという事と相成りまして、私も吉井さんも初めての場所に挑戦することになりました。

午後は潮が満ちてくるので、海岸線歩行に頼ると帰還が難しくなる恐れがありますから、海岸線歩行には頼らないようにしてルートを構築する予定です。二人とも一度も足を踏み入れてないルートです。さてどうなりますかね。(^o^)

摩文仁南斜面から大渡海岸方面を調査

遺骨収集の様子20

この写真はしっかり頭に入れておかねばなりません。なぜなら右側に立ちはだかる巨岩の連なりが、地域の境界となっているからです。すなわち巨岩側が「大渡」であり、草木が繁茂している側が「摩文仁」と、目には見えませんが境界線のようになっています。右側の巨岩の上は、つまり大渡側は平坦に近い丘陵になっており、沖縄戦当時は戦車も容易にガラガラと行き来したでしょう。また摩文仁側は一般的なジャングルとなっています。すなわちこの巨岩の上から、摩文仁ジャングルに向けて米兵が避難民を銃で狙撃したことは容易に想像できます。

ここ摩文仁西端部から大渡海岸までの間は、ほとんどすべてが凄い崖となっており、摩文仁西端部側から大渡に出るには、ここから海岸に降りるしか方法がないので、この場所の風景は時々登場することになるかもしれませんね。

遺骨収集の様子21

崖の途中で海岸方面を見つめる吉井さんです。

遺骨収集の様子22

この写真の風景もしっかりと頭にインプットしておかねばなりません。写真中央部の割れ目から私たちは降りてきましたが、前の写真で解説しましたように、私たちが降りてきた谷間通路の左側が大渡で、右側が摩文仁です。地図上ではここから大渡海岸まではすべてご覧のような厳しい崖となっています。今から大渡海岸まで縦走する予定ですが、その間に崖の上と下を行き来できるルートを見つけ出すのも今回の重要な仕事と捉えています。

遺骨収集の様子23

海岸線近くまで降りてきました。

遺骨収集の様子24

巨岩の波打ち際が波により浸食されているのが見てとれますね。

遺骨収集の様子25

完全に引き潮状態です。今から西に向かって前進しますが、安全確保の観点から、引き潮により歩けるようになった部分を利用して前進はしない予定です。もしもアクシデントがあって時間が経過してしまったら満ち潮で引き返せませんからね。

遺骨収集の様子26

ちょっと解りにくいのですが、小さな熱帯魚君たちがたくさん泳いでいました。

遺骨収集の様子27

凄い崖ですね。摩文仁東端にある慶座絶壁(キーザバンタ)よりも凄い絶壁ですよ。現段階ではこのような絶壁が大渡までずっと連なっている印象です。

遺骨収集の様子28

丸い穴を発見。大昔この海岸がまだ陸地だった頃、港川原人たちが、この石臼で米をついていた…。な~んていう事は無いですよね。

遺骨収集の様子29

海岸沿いに西に進むにつれて、益々巨岩がゴロゴロという状況になってきました。ただ驚く事に、この付近に金光教が遺骨の収集作業が終わりましたよと印す、岩に青テープが巻いてあった岩があったのには、私もビックリしましたね。「金光教の遺骨収集団もここまでは前進して来てないだろう」と思っていましたが、その確信が打ち砕かれたという意味で。

遺骨収集の様子30

どーしても、このここを通らない事には西に前進出来ないというポイントに出くわしました。しかしながら、この場所は満ち潮では全く通行不能となってしまいますよね…。

遺骨収集の様子31

西進可能なルートをかなりの時間をかけて捜しまして、遂に発見。発見したルートは何人も発見し得ないような、容易には判別しにくい極めてラッキーな発見でした。神様から西進オッケーの印籠をもらったような嬉しい気分となりました。この写真の風景も、今後頻繁に訪れる可能性のあるルートである事から、しっかり頭に入れておかねばなりません。写真中央付近が入り口です。

遺骨収集の様子32

小さな壕でしたが、中に入って見ると兵隊さんが食したとみられる空き缶が数個ありました。吉井さんと私は、数少ない御遺骨発見のチャンスととらえ、二人で一生懸命土石を掘り進めました。

遺骨収集の様子33

ご覧のように、狭い壕ながら数人なら問題なく入れる規模です。ご覧のように30センチぐらい掘ると、沖縄戦当時の地盤と思える硬い岩盤が露出してきましたので、私たちはその深さで奥の方までくまなく掘り進んでみました。残念ながら御遺骨は発見されませんでしたが、ここには無いという事が判明したことだけでも嬉しい結果でした。

※時刻も4時半を経過しましたので、ここで引き返しました。
帰路でも若干の探索を交えながら、なるたけ同じルートを帰らないように工夫しながら、無事にジャングルから出ました。

遺骨収集の様子34

健児之塔付近にある駐車場には、ご覧のようにブーゲンビレアの花が見事に咲き誇っていました。南国なんですね~。

遺骨収集の様子35

健児之塔付近にある駐車場を歩いていると、地元農家の前門さんがいつものようにトラクターに乗ってこちらにやって来たので、ご挨拶させて頂きました。このトラクターは前門さんご自慢の “乗用車” で、昭和34年製で現在も問題なく乗れるという話ですから驚きです。
※前門さんは今年86歳になられるはず。まだ現役で農作業をされているそうですよ。
いつまでもお元気でお過ごし下さいね。(^^)/

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