平成23年(2011年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月14日(月) 松永光雄氏と摩文仁V字谷と南斜面で調査

昨日夕刻那覇空港に無事到着しました。(^o^)
昨年までは朝早く自宅を出発して、羽田空港で早朝の便に乗り沖縄に向かっていましたが、加齢と共に朝早く起きるのがしんどくなり、今年から夕方那覇空港に到着するようなスケジュールに変更してみました。試してみてこのタイムスケジュールは意外と良いですよ。来年からはずっと “夕方那覇空港に到着する” というタイムスケジュールでいきます。

沖縄に到着してすぐに那覇市壺屋にある「金光教那覇教会」の林先生に到着のご挨拶を兼ねてご訪問させていただきました。今年1月末に一度訪問していますから、間をおかず再度の訪問となりましたが、またまた夕食を一緒に頂きながらの懇談となり、今月19・20日の金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の調査区域などすでに決まっている事柄などをお聞きするなどして情報の共有を進めました。

食事を頂きながらの楽しい懇談は、明日からの頑張りとパワーをも十分に頂く事となり、とても有意義な一時を過ごさせていただきました。有り難うございました。(^o^)

「赤心之塔」

沖縄滞在中における時間はとても貴重です。昼間は遺骨収集に関わる調査に没頭しなければなりません。可能な限り慰霊巡拝等などであちこち見て回ろうとした場合、注目すべきは朝です。朝の時間を有効に使えば効果は絶大、その累計ともなれば大きな有効な時間の蓄積となり、結果として滞在中有意な情報をそれだけ多く取得することが可能でしょう。

という事で、本日9時には摩文仁の平和祈念公園で松永さんとお会いしますが、その時刻まで慰霊塔を見て回ることにしました。今朝は「赤心之塔」を慰霊巡拝する事にしました。「赤心之塔」は、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校戦没職員・生徒を祀る「ひめゆりの塔」、「伊原第三外科壕」のすぐ横にあるそうです。ホテルから勝手知ったる「伊原第三外科壕」を目指して車を走らせればよいわけですから、道に迷うこともありませんね。

「伊原第三外科壕」は最初は民間人のみが入って避難生活をしていましたが、南風原から撤退してきた沖縄陸軍病院が、多くの住民が避難していたこの壕に入るに際しては、ほとんどの避難民は壕を追い出されましたが、壕内にそのまま残留した民間人が居たというのです。

しかしながら壕内に居た民間人であるその避難民も、6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ、沖縄陸軍病院兵士やひめゆり学徒の皆さんと共に、壕内で亡くなってしまったのです。戦後御遺族の方々が亡くなった5名の戦死を悼み、「赤心之塔」と命名し、このゆかりの地に慰霊塔を建立したのです。

「赤心之塔」

遺骨収集の様子1

糸満市伊原にあるひめゆり平和祈念資料館」です。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です。資料館前の縦穴壕である「伊原第三外科壕」では、6月19日米軍によりガス弾が打ち込まれ、沖縄陸軍病院兵士やひめゆり学徒のほとんどが死亡し生還者はわずかでした。

遺骨収集の様子2

まだ朝の八時半頃ですが、「ひめゆりの塔」前には慰霊に訪れた団体客で賑わっています。

遺骨収集の様子3

「ひめゆりの塔」および周辺の設備も改装がなり立派になりましたね。また戦後すぐの素朴な慰霊碑という印象の「初代ひめゆりの塔」も写真奥手の位置に併置されていますから、訪問した折りには探してみて下さいませ。

遺骨収集の様子4

「ひめゆり平和祈念資料館」に至るアプローチの左側の林の中に『赤心之塔』はありました。写真中央に見える塔がそれです。雑木林の中にひっそりとたたずんでいますね。

遺骨収集の様子5

「赤心之塔」の解説板です。大田家の5名の戦没者を慰霊する塔であると記載されています。ところで大田家は6人家族でした。ですから唯一生き残ったのは、母親のトシさんのみという事で、大田家唯一の生存者という事になります。戦後間もない1948年に、トシさんとトシさんの弟の德元さんらが『赤心之塔』を建立しました。(揮毫仲宗根政善氏、刻字德元孝助氏)

遺骨収集の様子6

南風原から撤退してきた沖縄陸軍病院が、伊原にあるこの壕(後に「伊原第三外科壕」になる壕)へ入ろうとした際、すでに多くの住民が中に避難していましたが、病院壕として使用するからと言って住民の方々は立ち退いてもらったようです。しかし大田家の老母と嫁と子供3人ら5名だけは、小さな子供がいるからという配慮で壕の片隅にそのまま留まる事が出来たそうです。

しかしながら安堵したのもつかの間、6月19日未明の米軍によるガス弾攻撃で、老母と子ども達3人は、ひめゆり学徒隊や陸軍病院関係者と共に、こので亡くなりました。また大田家で唯一生き延びた母親トシさんの話では、家族は6人でしたが、トシさんの弟さんが壕に居る家族5人の為に食料等を毎日運んでいたそうです。

遺骨収集の様子7

大田家の第三外科壕および付近で戦死した、三人の子どもを含む五名の名前が刻まれています。大田家で唯一生き残ったのは、9歳を頭に三人の子どもの母親であるトシさんただ一人でした。トシさんは、たまたま用事があって第三外科壕の近くにある壕に出かけている時に、6月19日の米軍によるガス弾攻撃が始まり、その馬乗り攻撃を知ったトシさんは慌てて第三外科壕に戻り、子ども達を救い出そうと火炎に包まれた壕に飛び込もうとしましたが、米兵に狙撃され重傷を負ってしまいました。トシさんは、結果として大田家ただ一人沖縄戦を生き延びたのですが、夫や老母、そして子ども三人を失い、その哀しみは如何ばかりか、お察し申し上げます。

(※トシさんの夫の名前ですが、資料を調べて見ますと、一男さんと一雄さんという二つの表記がみられます。どちらが正しいか判断しかねていますが、塔には一雄さんと書いてあるので、こちらを採用しました。ご了承下さい。)

摩文仁の平和祈念公園

「赤心之塔」の慰霊巡拝を終え、摩文仁の平和祈念公園にやってまいりました。私の行動セオリーとして、「沖縄に到着後早い段階で国立戦没者墓苑にて献花する」というのを基本としています。天候等により毎回の早期の実現は難しいのが現状ですが、なるたけその線に沿うように行動していますから、この参加記にも「国立戦没者墓苑」は毎回のように登場していますね。

それでは「国立戦没者墓苑」に、ご一緒に参拝してまいりましょう。(^o^)

平和祈念公園

遺骨収集の様子8

奉賛会の建物が遂に取り壊され、すべて撤去されてしまいましたね~。サイト管理人としても、27年前から建物を見続けて来た訳ですから、一抹の淋しさを覚えずにはいられませんね。

「島守の塔」

遺骨収集の様子9

遺骨収集にやってくると、国立戦没者墓苑への参拝と共に、必ず立ち寄るのがこの『島守の塔』です。戦没した島田沖縄県知事、荒井警察部長、県庁職員468名を祀っています。「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。 塔の除幕式と第一回慰霊祭は、昭和26年(1951)6月25日に行われました。島田知事夫人の美喜子氏をお迎えし、5000人近い沖縄県民も参列して式典は執り行われたそうです。

摩文仁には50を超える慰霊碑、慰霊塔が建立されていますが、その中でもいち早く県民の浄財により『島守の塔』は建立されました。 その事からしても、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなどした、沖縄戦前後における島田知事、荒井警察部長、そして県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが、『島守の塔』の早期建立を実現させたと言えるでしょう。

遺骨収集の様子10

島田沖縄県知事としての赴任期間はわずか5か月足らずでした。享年は島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳でした。島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下の中で、共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という県政業務に取り組み、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後は勿論、現在に至るも沖縄県民の敬慕を集めています。

牛島軍司令官は6月23日に軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は収束しました。そうした中で、通説が幾つかありますが、二人の所在が確認されている摩文仁之丘にあった「軍医部の壕」を25日か26日に出た後、その数日後荒井警察部長は、アメーバ赤痢が悪化して亡くなり、島田知事は摩文仁南斜面の自然壕でピストル自決したと見られています。

国立戦没者墓苑

遺骨収集の様子11

1979年に創建された『国立戦没者墓苑』の全景です。現在沖縄で収集されたご遺骨は、最終的にすべてこの墓苑に納骨されます。

遺骨収集の様子12

祭壇および納骨堂の様子です。納骨堂は年月の経過で黒色をしていますが、琉球トラバーチン石約一千個を用いて、琉球古来の石積み法で積んであります。沖縄では現在でも毎年100柱前後の御遺骨が発見されていますが、納骨堂に入りきらなくなり、二年前に三棟目の納骨堂が、初代納骨堂の裏手に完成しまして、焼骨した御遺骨は終の棲家としてそちらに順次収められています。

遺骨収集の様子13

ここは『国立戦没者墓苑』前の道路を挟んで向かいにあった休憩所跡の様子です。旧休憩所は壊されて新しい施設が出来るようです。20年ぐらい前は、この休憩所を含むこのあたりは大勢の人々が慰霊に訪れて賑わっていましたが、昨今はいつ来てもほとんど人影が見えず、慰霊塔だけが一人静かにたたずんでいるというのが実情です。

摩文仁V字谷を調査

島田沖縄県知事の南部での行動について、概略記しますと、6月9日 米軍が島尻に迫る中、「轟の壕」内で、島田知事は同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じます。

摩文仁司令部壕を訪れ、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「最後の行動を共にさせていただきたいので、この壕に居らせてほしい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政官で、戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません」と諭しました。牛島司令官は島田さんに軍司令部壕に居ると、危機が迫った時自決しかねないと思われたようです。

6月21日から始まった米軍による摩文仁之丘への総攻撃。6月23日の第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の自決…。

白い石灰岩の荒野と化した摩文仁之丘「軍医部の壕」から、二人が脱出したのは6月25日か26日だと言われています。

摩文仁之丘V字谷にあるとされる「軍医部の壕」の見取り図などは生存者により書かれいますが、参加記2009年1月19日の日記にも【『島守の塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探す 】と題して、「軍医部の壕」に関わる詳細情報を掲載していますから、お時間のある方はそちらも読んで頂くと、「軍医部の壕」に関わる経緯がご理解しやすいと思います。

摩文仁V字谷を調査

遺骨収集の様子14

私と松永さんは今年も懲りることなく『島守の塔』裏にあるとされる「軍医部の壕」を探すべく、摩文仁中腹にあるV字谷にやってまいりました。「軍医部の壕」を探し出しすのは “私たちの使命だ” という気負いはありませんけどね。

遺骨収集の様子15

さっそく最初の壕の中に入って調査開始です。

遺骨収集の様子16

蓄電池の部品等がありました。

遺骨収集の様子17

これは石臼ですね。米とか大豆などを炊くことが出来ないので、磨りつぶして食べるために使用したのかな? 石臼以外にも、防毒マスクの濾過器、電話線ケーブルを巻き取る金属製の部品などが見えますね。

遺骨収集の様子18

これは日本軍将兵が被った鉄製ヘルメットですね。戦後66年経過してこんなに錆びてしまいました。

遺骨収集の様子19

しばらく歩くとまたごみの不法投棄箇所を発見!。枝葉や落ち葉と共に堆積していますので解りにくいのですが、凄いボリュームのゴミですよ、このボリュームには驚きました。

遺骨収集の様子20

見上げてみると、上にも引っかかったごみがたくさん見えますね。この摩文仁V字谷は各県の慰霊塔の背後に位置しますので、おそらく慰霊祭で出たゴミをこの谷に安易に捨てたものと思われますね。

遺骨収集の様子21

ごみを精査してみますと、慰霊に訪れ現地で食した弁当ガラとか空き缶などが目立ちます。写真は空き缶を写していますが、このようなカンの開け方は、子どもの頃を思い出し懐かしいですよね。そんな感慨に浸っている場合ではないか…。

食べ物屋さんの猫ちゃん(^o^)

遺骨収集の様子22

猫ちゃんが何かじゃれて遊んでいましたが、死んで干からびたトカゲと遊んでいました。

午後も摩文仁南斜面で調査

遺骨収集の様子23

さあ午後の作業開始です。摩文仁平和祈念公園からたった3メートル程ジャングルに入ったところにある岩陰を、何気なく掘ってみたところ、出てきましたね~。多くはありませんが紛れもなく御遺骨です。

遺骨収集の様子24

さほど深くないところから頭骨も出てきました。

遺骨収集の様子25

30分ほど収集を続けまして、少しですが御遺骨を掘り出しました。銃弾や服のボタンも見えますね。また収集している最中に発見された鉄片も拾い集めてみましたが、わずかな堆積の土石にこれだけ砲弾の破片が散乱しているというのは、いかにここ摩文仁に砲弾の雨が降ったかがリアルに想像できるというものですね。

遺骨収集の様子26

ここは素晴らしい壕だと感じましたね。隠れるにはもってこいの場所だと思えました。遺骨収集は済んでいるという雰囲気でしたから、大量の土石を移動することはしませんでしたが、おそらく多く御遺骨が発見されたのではないかと推測されます。

遺骨収集の様子27

壁面を観察するとドリルで掘削した穴がありました。やはり良好な壕という事で、軍の兵士も壕の容積を拡大すべく掘り進んだのだと思われます。

遺骨収集の様子28

ジャングルを進むと激しく黒煙が付着している岩がありました。

遺骨収集の様子29

ここも黒煙が激しく付着していますね~。摩文仁で生き延びた方々は、米軍によるナパーム弾攻撃や、空中からガソリンを撒かれ火を放たれ、火炎に包まれた摩文仁の状況を、「燃えるはずのない岩が、長時間にわたって燃えていた」と証言していますから、この付着した黒煙もそのような状況下で付着したものなのでしょうか…。

遺骨収集の様子30

壕の中の岩陰をよく見ると、絶滅危惧種(環境庁指定の絶滅危惧II類)に指定されているヤシガニが居ました。ヤシガニは夜行性で、昼間は岩の割目や洞窟の中を巣にして潜んでいますが、夜は巣穴から出てアダンの実やその他の木の実を食べているそうです。

遺骨収集の様子31

いわゆる「風葬墓」がありました。腕や足など白い棒状のものや、丸い頭骨などが見えますね。風葬の骨に直接的に雨露が当たらない状況ですから、これからも長くこの風葬骨は存続していくものと思われます。

遺骨収集の様子32

この壕も素晴らしい隠れ家だと思えて撮影してみました。理想的な壕とは “入り口が狭く内部空間が広い、また上部岩盤が厚い” などがあげられますが、十分にそれを満たしていますね。

遺骨収集の様子33

時刻もだいぶ遅くなってきたので、帰路につく事にしました。

遺骨収集の様子34

交戦の関係で解りにくいのですが、背後は海が広がっています。この崖を上がりきるとすぐに平和祈念公園になります。今日一日大規模な御遺骨発見はなりませんでしたが、調査を通じ多くの新しい情報を得ることが出来ましたね。そして松永さん、ありがとうございました。

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