平成23年(2011年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月17日(木) 独立高射砲27大隊本部壕と大渡海岸一帯を調査

本日は、松永さん、吉井さんと私の三人で、大渡海岸から摩文仁の唯一砂浜のある海岸線ポイントまで縦走するという、今年の調査で最大のイベントを実施する日です。三人とも初体験ですし、金光教の遺骨収集に参加された方々でも、縦走した方は居ないのではないかと思えるほどで、画期的な縦走になるはずです。

「そんな縦走、無意味だからやらないだけだよ…」な~んていう突っ込みは無しね。(笑)

天気予報では、今日も雨の心配は無しという事で、快適に一日の活動が出来そうです。という事で、朝9時に摩文仁で合流という約束まで、まだかなり時間がありますので、恒例の慰霊塔巡りとなります。今朝は何度も何度も足を運んでいる「白梅之塔」に行ってみることにしました。(^o^)

「白梅之塔」

遺骨収集の様子1

糸満市国吉にある『白梅之塔』です。雑木林に囲まれた静かな場所に塔はあります。

遺骨収集の様子2

沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長、職員、生徒、同窓生ら149名が祀られています。白梅隊員の多くがこの辺一帯で戦没したという事で、この地に慰霊塔が建立されました。現在の慰霊塔は四代目だそうです。塔の形状は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで製作されたという話です。

この墓苑に足を踏み入れると、なぜか心が落ち着き素直になりますね。不思議です。だから何度も何度も足を運ぶという事になるのでしょうか。ご覧のように生花がたくさん生けられていました。いつ来ても墓苑内の清掃が行き届いているのには、ただただ驚くばかりですね。

遺骨収集の様子3

『白梅之塔』を解説しています。90%ぐらい読めますから、大筋理解出来ますね。サイト管理人がこの参加記にアップされる写真に登場する事はまずありませんが、この写真にはサイト管理人が写っていますね~。朝からTシャツ一枚ですから、やはり沖縄は暖かいんですよね。

遺骨収集の様子4

多くの白梅学徒が戦没した壕の横に建立された石碑です。

遺骨収集の様子5

ここがいわゆる「下の壕」と呼ばれている壕です。米軍の馬乗り攻撃により、ガソリンを流し込まれるなどして、この壕内で多くの白梅学徒が戦没されました。壕の底に降りてみますと、先ほど記しました、『塔の形状は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで製作された』という話が実感として感じ取れると思います。

いつもありがとう(^^)/

遺骨収集の様子5-1

摩文仁の平和祈念公園を訪れたら必ず挨拶を交わす “花売りお姉さんたち”。いつも心配と激励、本当に有り難うございま~す。(^o^)

大渡・摩文仁間の縦走に出発!

三人は無事に摩文仁平和祈念公園で合流しました。(^o^)

途中で引き返すのは不可能ですから、しっかりと身支度を調え、お弁当の携帯を確認し、縦走装備に過不足がないか確認し合いました。そしていざ私たちは大渡・摩文仁間の縦走に出発したのでした。レッツラゴー

遺骨収集の様子6

旧サボテン公園は閉園してから長く放置されたままになっていましたが、新たに大規模霊園として生まれ変わるようです。すでにお墓の販売は開始されているようですよ。

遺骨収集の様子7

一方旧サボテン公園のすぐ横では採石業者が大規模に岩盤を掘り進んでいました。

遺骨収集の様子8

私たちは工事中の霊園に入らせて頂き、崖上から本日調査を進める大渡海岸の東側の地形を観察し、探索ルートなどの検討を進めました。園内は急ピッチで造成工事が進められていました。

遺骨収集の様子9

ご覧のように崖は急峻であり、上から見た限りでは、下に容易に降りるルートはなさそうです。

遺骨収集の様子10

西側を見ています。大渡海岸や大渡米須海岸を遠望しています。

遺骨収集の様子11

本日は大渡海岸伝いに摩文仁の砂浜まで縦走してみようという話のなりました。特別のアクシデントが無い限り、十分に余裕をもって到着できると私たちは計算しました。

独立高射砲第27大隊本部壕

遺骨収集の様子12

国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」の近くの崖下にある独立高射砲27大隊本部壕の様子です。ここから更に崖下には大渡集落があるというような位置関係にあります。

この壕は沖縄戦が始まるまでは、独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。壕入り口上部は開口部を強化するために、木材を並べてからセメントを流し込んで構築されています。高射砲陣地らしくコンクリートは砲身が上を向きやすいように、斜めになっているのが見てとれますね。リュックサックを写し込みましたので、開口部の大きさを目測して下さい。

岩が積み上げられていますが、戦後の遺骨収集等で内部から運び出した岩を積んだものと思われます。なぜなら岩石が一切黒煙に塗れていませんし、戦車砲弾を何発も撃ち込まれたとされていますから、これほど綺麗にかつ高く石組みが残存するはずがありません。いずれにしても石組みは戦後遺骨収集で内部空間にある石を入り口付近に積んだものと思われます。壕内部に大きな石がほとんど無い事からもそれが推測されます。

独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていると言われています。連結部分が解りましたら二つの壕を行き来してみたいと思います。

遺骨収集の様子13

壕内部の様子です。奥行きは25メートル程ですね。この壕内に高射砲や砲弾を入れておいたのですね。壁や天井を精査しますと、壁面はかなりもろいように見えます。例えば戦車砲弾を撃ち込まれたら、大きく崩れ落ちると思われます。実際に戦車砲弾を撃ち込まれましたし、細かい土石が堆積しており大規模に落盤した事が想起されます。それにしてもすごい水蒸気ですね。肉眼では見えませんが、カメラはしっかり水蒸気を捉えています。

遺骨収集の様子14

30メートルぐらい先に進むともう一つの壕がありました。独立高射砲27大隊本部壕です。最初に見た予備陣地壕と通路で繋がっているそうですが、こちらはかなり大規模な壕の様です。元々自然壕だったところを、更に掘り進めて内部空間を広げたという印象ですね。それでは一緒に中に入ってみましょう。

遺骨収集の様子15

最初の内部空間です。卒塔婆などが数本置かれてあるのが印象的ですね。この内部空間も結構広いので、もしかしたらここにも高射砲を設置して、外に運び出しては砲撃をするというような作業をしていたかもしれません。

遺骨収集の様子16

最初の内部空間から更に奥の空間に行くには、ご覧のように一度狭い穴を通らねばなりません。これは壕を攻撃された場合の爆風避けにと、最初から計算された壕設計かもしれないと感じました。手前に写る黒っぽい棒状のものは樹木の根です。

遺骨収集の様子17

一度狭くなった穴を通って中に入った場所から、入り口方面を撮影してみました。

遺骨収集の様子18

少しずつ壕の奥に進んでいます。壕入り口付近では壁面があまり黒くなっていませんでしたが、奥に進むにつれて壁面は真っ黒になっていきます。

遺骨収集の様子19

この辺の壁面はもう真っ黒ですね。長時間火炎放射攻撃を受けたのかもしれません。

遺骨収集の様子20

ここは一番奥の部屋といってよいでしょうか。守備地区で壊滅的な打撃を受けて撤退してきた中隊が続々壕内に退避してきた以降は、中に入りきれないほど兵士達で、壕内は満ちていたと言いますから、このあたりも兵士達がすし詰めのように入っていたのでしょう。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子21

これだけ壁面が黒くなっているという状況では、攻撃を受けてからこの壕内から生還した兵士は居ないのでは…。と思われますが、実際にはこれだけ激しい攻撃を受けたにもかかわらず、わずかに生存者が居ました。生存者が居たとは驚くべき事実ですが、壕が入り組んだ構造をしており、爆風は想像するよりも奥に入っていかなかったのではないかと想像されます。

遺骨収集の様子22

このあたりはもともとあった自然壕といった雰囲気ですね。

遺骨収集の様子23

遺品がありました。かなり太い木材が炭化しています。壕内が長時間燻り続けないとこのような “炭” はできませんね。ビンの破片が見えますが、水を入れておいた一升瓶でしょうか…。米軍の執拗な攻撃を受け続け、壕内は早くから水が一滴も無くなってしまいましたが、空腹も辛いけど、喉の渇きはそれよりもはるかに辛いという述懐があります。正に死ぬも地獄、生きるも地獄の世界がこの壕内で展開されたのでした。

遺骨収集の様子24

これは軍靴ですね。壕内に靴底はかなりあるのが見てとれます。

遺骨収集の様子25

クロイワトカゲモドキ君が私たちを迎えてくれました。近くに寄っても逃げませんね。「こんにちは (^o^)」って言ったら、流し目でウインクしたように見えました。(笑)

遺骨収集の様子26

それでは次の広い場所に行ってみましょう。

遺骨収集の様子27

この壕内には、広い内部空間が4ヶ所あると言えるでしょう。その4カ所を結ぶ穴は比較的狭く作られています。通路がくびれたように狭いのは、可能性としては爆風避け、および内部空間の強化という意味で意図的にそうしたのかもしれませんね。

遺骨収集の様子28

一番奥の部屋の壁面が最も黒くなっていますね。激しく燃えたものがあったのでしょうか。

遺骨収集の様子29

遺品もまたたくさんありました。

遺骨収集の様子30

縦になっている黒い棒状のものは樹木の根です。

遺骨収集の様子31

鼈甲で作られているメガネを発見しました。遺品としてのメガネは意外と多く見る機会がありますね。

大渡海岸沿いジャングルを調査

遺骨収集の様子32

下に見えるのは大渡集落です。大渡海岸もかなり近くに迫ってきていますね。

遺骨収集の様子33

道路を歩くのではなく、長い距離ではないので、大渡集落の上にある雑木林の中を探索しながら、海岸に出るようにしました。

遺骨収集の様子34

人一人隠れられるような割れ目がありましたので、松永さんが土を掘り進んでいるところです。

遺骨収集の様子35

「ギャ~~、ハブが居る」 ドキッとしましたが、脱皮した後の抜け殻でした。(^^;)

遺骨収集の様子36

大渡海岸に出ました。(沖縄戦当時は小渡海岸と呼んだそうです)。時刻も12時近くになりましたから、私たちも昼食を食べることにしました。吉井さんが歩いているところは、歩きやすいようにセメントで道が作られています。ちなみに吉井さん等が歩いているもう少し先に、湧き水が出ている所があります。戦中は避難民の数少ない貴重な水飲み場として、また戦前から貴重な水源として地元では大切に管理されてきたといいます。

遺骨収集の様子37

拝んでいる女性二人が居ましたので、遠くからそっと望遠で撮影させて頂きました。この海岸沿いには二つの神が祀られています。ひとつは「御地午之方男神」で、もうひとつは「御地末之方女神」です。女性二人は「御地午之方男神」に向かって拝んでいました。私たちがご飯を食べている間に、立って帰ろうとしする場に遭遇しましたので、「いつもここに来るのですか?」とかなんとか話しかけたかったのですが、さすがに小心ものの私にはそれが出来ませんでした~。

遺骨収集の様子38

私たちは昼食を終え、女性達が拝んでいた場所を通って、午後の探索に出発しました。

遺骨収集の様子39

ご覧のように非常に歩きやすい状況ですね。もちろん満潮時を想像してみれば…。人は絶対に歩けませんね。

遺骨収集の様子40

一番南端に突き出た場所から大渡海岸を遠望しています。広角側で撮影しましたので、かなり距離があるように見えますが、大渡海岸砂浜までの距離は写真に写されているほど遠くありません、念のため。

独立高射砲第27大隊患者壕

遺骨収集の様子41

ここは南端まで歩いてきて、更に数十メートル回り込んだ場所です。目の前にある崖の中央付近に穴があるように見えますね。ここが独立高射砲27大隊の“患者壕”があった場所だと言われています。今からそこに入ってみましょう。

遺骨収集の様子42

少し離れて遠くから写してみました。この付近一帯は、引き潮時なら誰でも容易に到達する事が出来ますが、満ち潮のタイミングをしっかり把握した上で訪ねる事をお勧めいたします。

遺骨収集の様子43

ご覧のように “患者壕” に入るには縄ばしごを登らねばなりません。高さは4メートルぐらいあるでしょう。こうした状況で沖縄戦当時重症患者等をここから運び上げたのか…。この壕は沖合に居た米艦船から丸見えですし、何より患者を引き揚げる困難さが、未だに「本当に患者壕だったのかな」という疑念が未だ捨てきれないのが率直な感想です。

遺骨収集の様子44

吉井さんが登って前に歩き出したところです。開口部周辺はかなり複雑な構造をしていますが、岩盤が一枚岩ではなく比較的もろい団粒構造ですから、執拗な砲爆撃を受けてかなり崩れたのではないかと推測しています。また開口部より下側の岩肌は比較的本来の地色が出て綺麗ですが、開口部より上側半分は煤でかなり黒色に染まっているのが見てとれます。榴散弾や黄燐弾が水陸両用戦車から打ち込まれ、最後は火炎放射攻撃を受けたという事で、内部が激しく焼かれ相当長時間黒煙が舞い上がっていたのではないかと思われます。

開口部付近は台風襲来時には、雨風で岩盤表面が洗い流されると思われますが、そうした状況下で66年も経て尚これだけ岩面が黒いというのに驚きを隠せませんね。高熱により焼却ススが焼付け塗装のように強固に付着しているのかもしれません。

遺骨収集の様子45

ハシゴを登ると岩石を削って平らにしたのではないかと思えるほど、平らな床面となっています。10メートル程奥に入ると、ご覧のように一段高い床面との段差に突き当たります。すべての壁面は強く黒ずんでいます。おそらく火炎放射戦車は海沿いを回ってきて、ここまで到達し壕に向けて火炎攻撃をした可能性が高いです。沖に停泊する米艦船からこの開口部は良く見えますから、もちろん艦砲による砲撃も強烈にあったでしょう。

遺骨収集の様子46

ご覧のように奥に行こうとすると、1.5メートル程度の段差の上に登らねばならない構造となっています。「上の段」の床面も概ね平坦であり、人工的に削ったという印象を受けます。岩盤をよく観察しますと、一枚岩ではないので、掘削は比較的容易だったのではないかと推測されます。ご覧のようにすごく焦げている箇所が多いですね。光は大きな開口部からまだ十分差し込んでいますので、この写真もストロボ無しで撮影されています。

遺骨収集の様子47

上の段に上がってみますと、平坦な床面が結構な面積でありました。天井はほとんどすべて、概ね立って歩けるレベルの高さが確保されています。一度空間が狭くなって、写真の様に奥にもう一度広い空間がありました。広い空間の中央部には現在も使用していると思われる拝所が設けられていました。爆風避け、あるいは壕の爆撃に耐える構造を維持するために、広い空間を連続させないで狭い開口通路を間に挟んだりするのでしょうか?。一枚前の写真にも、空間のど真ん中に柱がしっかりとありました。

遺骨収集の様子48

拝所及び広い空間の右側を見ています。この広い空間は天井が少し低くなっており、少し屈んで歩かないと頭を岩にぶつけてしまうおそれがありました。拝所はコンクリートブロックで構築され縁取られていましたが、ブロックは砲爆撃による破損も全く見られませんし、現在の規格寸法で作られていますから、戦後設置したと思われます。この壕が患者壕という事になりますと、この広い空間に大勢の重症患者が横たわっていたという事になりますね。

遺骨収集の様子49

湿気が高く霞が掛かったように写されています。奥の方には、なにやら四角く切り取られた石が積み上げられていました。明らかに石を積んで塞いだという雰囲気でした。目地はセメントのようなものが詰められていましたので、ゴシゴシと少し削ってみましたが、思いの外柔らかいことから、セメントは含まれていない可能性があり、拝所と同時に設置されたのではなく、戦前から設置されていた可能性が高いと思われます。

遺骨収集の様子50

壕内部から外を撮影してみました。ここに壕がありますと宣言しているような、とても大きな開口部…。米艦船からも望遠鏡を使わずともハッキリと視認出来たはずです。いかがでしょうか。重症患者であったとしても、あなたならこの壕に居続けたいと思いますか。??? (米軍の集中攻撃を受けるまでは、この患者壕の開口部はもっと小さかった可能性はあります)

この患者壕の存在が米軍に知られて最初の攻撃を受けたのは、6月23日前後だと言われています。 この患者壕への最初の攻撃は戦車からでした。最初の攻撃では、戦車砲から戦車砲弾、りゅう散弾、黄燐弾とあらゆる砲弾が、壕内めがけて打ち込まれ、砲弾の炸裂音と硫黄の悪臭と悲鳴とで言葉で表せないほどの地獄絵と化したそうです。

また沖合からピタリ照準を定めた米艦船の巨大な破壊力を持つ艦砲が火を噴き、砲弾は直撃弾として壕内で炸裂…。その時の様子は、この壕に収容されていたおよそ50名の患者の内、たった一人奇跡的に死を免れた兵士により語り伝えられています。

昭和50年、大隊本部壕と患者壕の遺骨収集が戦友会と御遺族により行われ、本部壕には白骨が十数体、患者壕には青カビの生えた50人分の御遺骨が、当時のまま山のように積み重なっていたといいます。しかしながら「戦いの果てに負傷した兵士を患者壕に捨てた」という非難を耳にしますが、誰がリーダーになろうとも、おそらく選択肢は無かったと思えます。大渡海岸および集落裏手ジャングルには、守備軍が構築した大隊本部壕以外の自然壕なんて全くありませんし、患者壕付近一帯の満ち潮時人を寄せ付けない断崖部分を俯瞰しても、“この患者壕よりも安全だと思える壕” は全くありませんでした。選択肢がなかった――。悲しいけれど、これが大渡海岸一帯を調査しての結論でした。

私たち三人は、黒く煤けた壕内の往時の悲惨さに想いを馳せ、戦争の不条理さを改めて噛みしめながら、戦後66年経過した壕内に立ち戦没者との無言の会話をしながら、ここで亡くなられた兵士の皆さんのご冥福をお祈りしました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子51

この患者壕がいかに苛烈な砲爆撃を受けたか…。患者壕に向けて激しい砲爆撃があった事を想起させる “物” が海岸線浅瀬に残っていました。この引き潮で露出した海岸の岩場に、無数に今も残る砲弾破片と思われる錆びて黒色をした鉄の塊です。驚くほどの数が散在しています。引き潮時に通行可能な患者壕付近の海岸線に散在する、幾多の肉体を貫通したかも知れぬ戦争の残像としての膨大な数の鉄片…。 この地で戦争があったという確かな証として、錆び尽きて消えるまで、少なくとも後100年は残存し続けるに違いありません。

※私の靴を写し込んでおきましたから、鉄片の大きさを靴と比較して下さいませ。砲弾の炸裂と共に、このような鉄片が強烈な爆風・轟音と共に360度全ての方向に飛び散るのですから、爆風を直接浴びると生死を分ける極めて致命的な結末に至る事をご理解頂けると思います。

遺骨収集の様子52

このような鉄の塊が、砲弾炸裂と同時にぶっ飛んでくるのですよ…。

遺骨収集の様子53

海岸に無数に残る砲弾破片その三。

遺骨収集の様子54

海岸に無数に残る砲弾破片その四。

遺骨収集の様子55

海岸に無数に残る砲弾破片その五。

摩文仁に向け、引き続き崖下を調査

遺骨収集の様子56

独立高射砲第27大隊患者壕を後にして、少し前進して次の壕に入ってみました。ご覧のように開口部は患者壕よりも格段に広く、海側からハッキリと壕の存在が見える事から、隠れるというには少し心許ない壕です。

遺骨収集の様子57

内部空間の様子です。中段があり棚のようになっています。中段にも上がる事が出来ました。台風が襲来したらここまで海水が入ってくるのでしょうか。岩が壁や天井と比べて綺麗ですし、河原の石と同じように丸くなっているものが多いです。

遺骨収集の様子58

壕内から外を撮影してみました。ウ~ン。開口部が広すぎて、海上からは丸見えですから、米軍の砲撃を誘うとても危険な壕だと思えますね。

遺骨収集の様子59

吉井さんが見つけたのですが、砲弾の破片だと思われます。こんなのが爆発と同時にぶっ飛んでくるのですから、艦砲砲弾が炸裂した時の破壊力はもの凄いものがあるでしょうね。

遺骨収集の様子60

三つ目の壕がありました。ここも開口部がでかいですね~。

遺骨収集の様子61

海側から見ると壕に見えましたが、近づいて中から見ると壕と表現してみたものの、単なる凹みというレベルの穴でした。ここも患者壕と同じように、例え岩陰に隠れたとしても、艦砲の直撃弾を受けるのが確実な状況ですね。

遺骨収集の様子63

こちらは西側を遠望しています。右側の崖の部分が患者壕のあったところです。遠くに大渡海岸が展開し、荒崎海岸へと続いています。

遺骨収集の様子64

ちょっとした凹みに鍾乳石が出来ていました。

遺骨収集の様子65

吉井さんが立っている岩場が一面真っ黒になっています。おそらくは何かが燃えて黒煙が発生した場所と思われますが、これほど広範囲が黒くなっているのも珍しいと思い撮影しました。

遺骨収集の様子66

絶壁の様子です。一枚岩ではなく今にも崩れそうな雰囲気ですよね。摩文仁には一枚岩と思えるような巨岩で構成された崖が多くありますが、わずか1キロも離れていないのに、大渡側はこのような危なっかしい崖となっています。

遺骨収集の様子67

引き潮で現れた小さな池です。海水が無いように見えますが、れっきとした海水だまりです。水草も生え綺麗ですね~。あと一歩で竜宮城に来た時の気分になれそうでした。

遺骨収集の様子68

サンゴの赤ちゃん発見。(^o^)
大渡海岸もあと100年もすると、珊瑚礁に埋め尽くされた海岸線になるのでしょうか。(笑)

遺骨収集の様子69

ご覧のように岩の突起が激しく歩きにくいです。満潮時にはここは絶対に通行できませんね。

遺骨収集の様子70

大渡海岸方面を展望しています。ずいぶんと前進してきましたね。

遺骨収集の様子71

当サイトで何度か登場した奇岩が見えてきました。かなり摩文仁に近づいてきたようですね。

遺骨収集の様子72

一見蝶のようにも見えますね。見えないかな。ゆっくり動いていますから魚に間違いないと思います…。海の生き物って本当に多彩ですね~。

遺骨収集の様子73

当サイトに何度登場したでしょうか。未だになんだか良く解らない生き物です。

遺骨収集の様子74

黄色と黒色。素敵な配色の小さな貝ですね~。野球の阪神ファンだという人にプレゼントしようかな~。(笑)

遺骨収集の様子75

吉井さんの上の方を見ると水平な部分があって、ベッドとして利用できそうですよ。屋根もあるので雨露はしのげるし、壁を作ればすぐに家になります。でも台風の時なんか風が強烈かもね~。

遺骨収集の様子76

オ~~~。見覚えのある風景が視界に入ってきましたね~。

遺骨収集の様子77

ついに摩文仁の砂浜に到着しましたよ。昼食後、午後1時ちょうどに大渡海岸を出発し、午後3時10分に摩文仁砂浜に到着しました。壕を見学したりとかなりゆっくり歩きましたが、この時間帯でも若干潮が満ち始めているなという印象はありましたが、全く問題なく引き潮の海岸線を歩くことが出来ました。松永さん、吉井さんお疲れ様でした。

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