平成22年(2010年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月12日(金)沖縄に到着/午後情報収集および準備作業開始
- 2月13日(土)初日に把握した海岸に至るまでのルートの両側を調査
- 2月 14日(日)摩文仁の踏破が可能な西側周縁部を調査
- 2月15日(月)直線的に海岸まで出てそこから西側を調査
- 2月16日(火)雨により「糸数アブチラガマ」慰霊、斎場御嶽と玉泉洞見学
- 2月17日(水)那覇市在住の国吉氏の情報提供により複数箇所を一緒に調査
- 2月18日(木)雨により平和の塔・具志側川城跡見学、午後摩文仁の放置ゴミ調査
- 2月19日(金)国吉氏、吉井氏と共に摩文仁で調査、夕方から轟壕内部調査
- 2月20日(土)第37回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月21日(日)第37回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 4月28日(水)摩文仁清掃奉仕 (準備作業)
- 4月29日(木)摩文仁清掃奉仕
4月29日(木) 摩文仁清掃奉仕
今日の天候は曇り時々晴れ」と、朝のテレビのアナウンサーが語っている時は嬉しかったですね。(^o^)
朝の天気予報によれば、摩文仁での雨の心配は無さそうです。本日の参加者は、老若男女、高齢の方や子供の参加も大勢見込まれており、一部の人達はジャングル内に入り、放置ゴミを分別しながら袋に詰めて、ジャングルの中から人力で運び出そうという訳ですから、もしも雨が降ったりしたら…。
そう思うと主催者側の人達は、「雨の心配なし」という気象状況は、事故の可能性も含めてかなりホッとしていると思いますね。(^o^)
今日は 沖縄宗教者の会 が主催する、「摩文仁清掃奉仕」が実施されます。参加団体は天理教と金光教、立正佼成会そして念法真教の四団体で、トータルで300人前後の参加者が見込まれているそうですよ。
参加者は現地集合でこの糸満市摩文仁に集い、ジャングル内に放置されたゴミをバケツなどに入れて回収し、燃えるゴミと燃えないゴミとの分別作業を経た後、「沖縄師範健児の塔」のある広場から、駐車場までのおよそ200メートルの区間、バケツリレーよろしくゴミリレーで、袋詰めされたゴミを、待機しているゴミ運搬車のところまで運び上げようという訳なんです (^o^)。
「摩文仁清掃奉仕」を取材しようと、沖縄の新聞各社が訪れていました。新聞などを通じて、摩文仁のゴミ問題を取り上げて下されば、社会的にも注目され、これか何年も続くと思われる放置ゴミへの取り組みに賛同を得やすくなると思われますから、マスコミ報道を良い機会として、摩文仁のゴミ収集が、宗教関係者だけでなく、一般市民レベルまで拡散して行く事を願いたいですね。
サイト管理人である私も、平和学習ガイドの松永氏と共に、集合時刻である午前9時前に到着するように、車を走らせ摩文仁に向かいました。「摩文仁清掃奉仕」の集合場所である平和祈念公園南口広場(通称 わんぱく広場)には、続々と車が押し寄せ、広い駐車場も次々に埋まっていきます。
わんぱく広場では、各宗教団体に分かれて集まっています。300名以上の参加者があると聞いていましたが、実際にその人数が集まるとなると、さすがに大勢だなという印象ですね。(^o^)
さあそれでは、沖縄における 「摩文仁清掃奉仕」 の熱い一日を、ご一緒に追いかけてみましょう~。(^^)/
沖縄の宗教四団体摩文仁に集う
摩文仁清掃奉仕活動に参加される皆さんの前で、清掃奉仕発起人の一人としてご挨拶する、金光教那覇教会の林先生です。雨が降りますと事故が発生する可能性が高くなりますので、なによりも天候が一番の心配事でしたが、幸いに雨の心配は不要なくらいです。心おきなく作業に集中する事ができそうですよ。
「天理教」の皆さんです。沖縄本島には四つの支部があるようです。天理教では今日を「ひのきしんデー」として、摩文仁だけでなく全国規模で、各地の清掃奉仕活動を実施したようです。ここ摩文仁でも、天理教の「災害救援ひのきしん隊」がゴミの収集体勢を構築し、清掃奉仕活動を主導して下さいました。
「立正佼成会」の皆さんです。本番では大勢の信者さんが摩文仁に駆けつけました。
「金光教」 那覇教会の皆さんです。林先生をはじめ、14名がここ摩文仁に参集しました。
「金光教」の皆さんは、まず朝の御祈念を行い、参加者全員の作業中の安全と、結果として摩文仁の地が清められることを祈りました。
ワンちゃんは作業が終わるまで、この木の上で待たねばならないようですね~。
清掃奉仕活動開始
左側には「沖縄師範健児の塔」と、右側には三人の像が立つ「平和の像」が見えます。今日の清掃奉仕は、この広場を主な作業場としてゴミの分別と運搬が進められます。
ご覧のように空き瓶・空き缶などが何メールともの高さに積み上がっています。
谷底の広範囲に分散して、ゴミを収集する作業が開始されました。
ゴミを手で集めてバケツに入れていきます。ケガをしないために手袋は必須ですね。
道具も使って空き瓶・空き缶を集めやすい場所に移動させます。
掘っても掘ってもゴミが湧いてくるようです。
油断するとゴミの山に埋もれてしまいそうですね。下に向かってゴミの山を崩しています。
電動クレーンでバケツ3~4個を同時につり上げていきます。
電動クレーンだけでは大量のゴミを裁ききれませんから、バケツリレーでゴミを搬出します。
オッ 嶺井さんも頑張っていますよ。
バケツリレーで、次から次へとゴミがジャングルから運び出されます。
「沖縄師範健児之塔」前まで運び上げました。ここで瓶・缶類とビニールゴミに分別します。
瓶・缶類とビニールゴミに分別しているところです。
瓶・缶類とビニールゴミに分別しているところです。
分別を終えたゴミは、写真奥の人が並んでいる方向にリレーで運び出します。
それでは駐車場にある清掃車まで、バケツリレーならぬ、ゴミリレーを追ってみましょう。
ここは公衆トイレのある道がカーブしている場所です。下側を見ています。
ここは公衆トイレのある道がカーブしている場所です。上を見るとまだこんなに人が並んでいます。
ここまでです。長い長いバケツリレーならぬゴミリレーでしょ~う。駐車場にはご覧のように清掃車が待機し、上がってくるゴミを次から次へと車に放り込みます。
(再びゴミ収集現場に戻ります)
「ここ掘れワンワン」ではないですが、掘っても掘ってもゴミが湧いてきますね~。
岸壁の色でお解りのように、1メートルぐらいゴミを搬出しましたね。
右上の光ってるのは蛍光灯です。「災害救援ひのきしん隊」が準備して谷底を明るくして下さいました。
新たに大量のゴミが隠されている場所がある事が判明。清掃局の方がカゴを持って来ました。
この穴の中が新たに大量のゴミが隠されている場所です。この穴の中に膨大なゴミがある事が判明しました。
この穴の中からもゴミの搬出が始まりました。
見て下さい。これが新たに発見された大量のゴミのある場所です。参拝者が通る通路側からは見えにくい位置に入り口がありました。意図的に解りにくいこの穴の中にゴミを放り込んだのは明白ですね~。ここは電動クレーンなどは使えない場所なので、全てバケツリレーで運び出す事になります。
電動クレーンはフル回転で作動していますが、順番を待つバケツがどんどん滞留していきます。
電動クレーンを操作している方も慣れてきて、次から次へとバケツをつり上げていきます。
そしてつり上げられたバケツは、手際よく再び降ろされていきます。
バケツをつり上げる電動クレーンは、「災害救援ひのきしん隊」の方々が操作しています。手慣れた作業ぶりには感心するばかりです。
電動クレーンでつり上げられたゴミは、こちらのルートから搬出されました。
現場は「御遺骨発見!」の一報に沸き立ちましたが、残念ながら動物の骨でした。
「災害救援ひのきしん隊」の方が、ゴミ積み上がっていた場所を棒で指していますが、人の身長分ぐらい、つまり2メートル弱ぐらいの高さのゴミを搬出することができましたね。
ただ、終日最大限頑張ってゴミを搬出しましたが、おそらく放置ゴミ全体の三分の一程度の規模、搬出したのではないかというのが、残るゴミの山を俯瞰しての感想です。投棄されたゴミが想像を超える規模である事が理解していただけるでしょう。残されたゴミをすべて搬出し終えるまで、私たちは継続して取り組まなければならないと、心を新たにしました。
「作業終了」 とリーダーが宣言しました。
ケガをしたという報告はなく、これだけの危険作業を事故無しで終えられたのは驚嘆に値しますね。
作業を無事に終え、最も危険な作業を担当した 「災害救援ひのきしん隊」
の皆さんも、安堵した表情を見せています (^o^)
昨日と今日の二日間、本当にお疲れ様でした~~。 (^^)/
作業終了の報告
無事に作業を終え、「災害救援ひのきしん隊」の方が整列しました。
「災害救援ひのきしん隊」隊長の古堅宗康さんが作業終了の訓辞を行いました。
金光教那覇教会の林先生が今回の摩文仁清掃奉仕活動の総括を話されました。
糸満市清掃局代表の方も最後にご挨拶をされ、摩文仁のゴミについて今後も協力していくと語っていました。
【南部戦跡で「ひのきしんデー」】 戦没者の遺骨収集にひと役
「天理時報」平成22年5月9日
【沖縄教区4支部】第二次世界大戦末期の昭和20年、国内最大規模の地上戦が繰り広げられ、20万人を超える死者が出た沖縄。本島南部の糸満市から八重瀬町にかけて広がる「沖縄戦跡国定公園」は、かつて"南部戦"によって多くの人が命を落とした地区として知られる。
沖縄教区の中央、島尻、中頭、国頭の4支部は4月29日、この地にある「沖縄師範健児の塔」周辺の山林で、「全教一斉ひのきしんデー」として清掃活動を実施した。これは、県内の各宗教団体から成る「沖縄宗教者の会」による戦没者の遺骨収集事業に協力したもの。当日は、県内のマスコミ各社が取材に訪れるなか、災害救援ひのきしん隊(=災救隊)沖縄教区隊(古堅宗康隊長)の隊員を含む本教からの300人をは
「健児の塔」は、糸満市摩文仁にある「平和祈念公園」の近くに位置する。塔の最寄りの駐車場から歩道を200メートルほど下ると、切り立った崖に囲まれた広場の一角に戦没者の名前が刻まれた慰霊塔と石碑がある。
第二次世界大戦末期、沖縄師範学校男子部や県内各地の中学校から動員された若者たちは「鉄血勤皇隊」と呼ばれた。なかでも、師範学校の生徒や職員で構成された「健児隊」の隊員386人は特攻兵士と同じ特別攻撃隊要員に指定。地上戦が終わるまで軍と行動を共にし、224人が命を落とした。「健児の塔」は戦後、健児隊の生存者や師範学校の同窓会が中心となり、かつての同隊の拠点地だった壕の上に建てたもの。
「デー」前日の28日、災救隊沖縄教区隊の17人が現地入りした。災救隊の出動は、長年この地で戦没者の遺骨収集に力を注いできた金光教那覇教会長の林雅信さん(70歳)から「摩文仁の山林に大量のゴミが不法投棄されている。遺骨収集に支障を来すので、清掃活動に協力してほしい」と要請を受けたことによる。
古堅隊長(58歳・芦沖分教会長)は「戦争の歴史が刻まれる地で、ひのきしん活動をするのは大変意義深い。ぜひとも、災救隊だけでなく、本島に住まう教友たちが力を合わせて取り組ませていただきたい」と、本島を管轄する4支部へ相談。一人でも多くの教友に参加してもらおうと、「デー」に合わせて実動する旨を林さんに伝え、宗派を超えた取り組みが実現した。
戦争のつめ跡いまも
古堅隊長と林さんらは、生い茂る草木をかき分け、高さ5メートル余りの崖道を慎重に伝い下りた。岩壁の下には、十数人がすっぽり入れそうなすき間が。この場所は、地上戦の際に隠れ家として使用されていたと考えられており、岩壁の所々が黒く焦げているのは、米軍の火炎放射の跡という。足元には、無数の空き缶や空き瓶が散乱。長年にわたり不法投棄が繰り返された結果、何重もの"ゴミの層"ができていた。 林さんは「同じ南部戦跡でも、平和祈念公園のようにきれいに整備された場所もあれば、こうして長年放置されている場所もある」とつぶやく。
沖縄教区隊はこの日、慰霊塔のある広場までゴミを運び上げるため、崖の上に鉄パイプ製の足場を設置するとともに、電動式の滑車を取り付けた。
翌29日午前9時半、参加者たちは駐車場に集合。作業開始にあたり、宗派ごとに祈りを捧げて"現場"へ向かった。古堅隊長は前日の作業を踏まえ、ゴミを詰めたバケツを滑車でつり上げるだけでは作業が追いつかないと判断。これと並行して、崖道に参加者が並び、リレー方式でバケツを運ぶことにした。運び上げられたゴミは、不燃物とプラスチックに分別して袋詰めに。その後、再びリレー方式で駐車場まで運ばれた。
「父と二人の姉は、南部へ逃げる途中、米軍の艦砲で命を落とした」と話すのは上地安英さん(68歳・首里分教会役員)。「もしかすると、父や姉がこの近くに立っていたかもしれない。ゴミだらけになっているのは非常に残念」と唇を噛みしめる。
沖縄で地上戦が始まったのは、昭和20年3月26日。米軍は県内中西部の読谷、嘉手納、北谷の沿岸部から上陸し、本島を南北に分断。徐々に日本軍を追い詰めていった。同年6月23日、沖縄守備軍の司令官が自決し、地上戦に終止符が打たれるまでに米軍が使用した銃弾は270万発に上った。
"鉄の暴風"と呼ばれた猛攻撃による死者18万人の半数は民間人だった。今なお身元が判明しないまま放置されている遺骨も少なくない。
この日、初めて「健児之塔」を訪れた池根啓子さん(58歳・島尻分教会ようぼく)は「いまは亡き父は、この近くの海岸で捕虜となり、生き永らえたと聞く。6月 23日になると、父は毎年この場所を訪れていた。いったい、どんな思いだったのかしら」と遠くを見つめた。
「遺骨が見つかった」
作業が大詰めを迎えた11時半頃、崖下で作業に当たっていた災救隊員が「遺骨が見つかった!」と声を上げた。急いで崖道を下りる隊員たち。バケツの中には土にまみれた長さ15センチほどの数本の骨が収められていた。結局、これ以外の遺骨は見つからなかったが、半日の作業で約5トンのゴミが回収された。林さんは「大勢の方々の尽力で、これだけ大規模な作業が進められたことは大きな成果。心から感謝申し上げたい」と。古堅隊長は「ゴミはまだ大量に残っている。この地に眠る人々のためにも、こうした活動を継続していきたい」と語った。(文・写真=杉崎一浩記者)
「天理時報」から転載させて頂きました
【摩文仁に不法投棄ごみ5トン】 300人で収集「戦没者にすまない」
「沖縄タイムズ」平成22年5月1日
【糸満】糸満市摩文仁の沖縄師範健児之塔近くで29日、不法投棄ごみの撤去作業があり、宗教関係者を中心とした民間ボランティアや市職員ら約300人が参加した。午前10時の作業開始から約4時間で集まった量は、ごみ袋で約1300枚分(約5トン)。あまりにも多いごみの山に参加者らは愕然(がくぜん)とし、「戦没者に申し訳ない。平和を祈る聖地の裏側を県民は知らなければならない」と訴えた。
不法投棄の場所は、健児之塔から南側へ入った山林の中。草木をかき分け足場の悪い急斜面を下りると、土砂や枯れ葉と"同化"した大量の空き缶や空き瓶、プラスチックなどが辺り一面を埋め尽くしていた。車や重機は現場に入ることができないため、作業はほぼすべて手作業。参加者らはごみ収集車両が待機する駐車場までの200メートル余の道で1~2列に並び、バケツリレー式の手渡しでごみ袋を次々と運び出した。
戦時中、旧日本軍の球部隊に所属し摩文仁から旧知念村まで1人で逃れたという玉城精光さん(82)=うるま市=は同地を踏むのは40年ぶり戦後2度目。「何百、何千人がここで死んだ」と唇をかみしめ、ごみ袋を手にし「許せないね」と言葉少なに作業を続けた。
呼び掛け人で37年間遺骨収集に携わる金光教那覇教会会長の林雅信さん(70)=那覇市=は「戦後65年たっても鎮魂の霊域がこんな状況にあるのは許されない。遺骨もごみの下に埋もれたままだ」と強調。「1日も早く取り除き、純粋に平和を願う場所にするために、県が旗振り役となって呼び掛けてほしい」と訴えた。
「沖縄タイムズ」から転載させて頂きました
【霊域清掃、ごみ5トン ボランティア300人】 糸満市摩文仁
「琉球新報」平成22年4月30日
【糸満】糸満市摩文仁の健児の塔付近に不法投棄されたごみを取り除こうと、同市や宗教関係者などのボランティア約300人による清掃作業が29日実施された。市によると、半日の作業で約5トンのごみを回収。処理費用は市が負担する。
摩文仁のごみ問題に長年取り組む金光教那覇教会の林雅信さん(70)は「これまでごみの下から、沖縄戦犠牲者の遺骨が多く見つかっている。市だけでなく、県も積極的にかかわり問題解決に取り組んでほしい」と訴える。
宗教関係者の働き掛けによる同様の作業は今回で4年ぶり4回目。健児の塔付近をはじめとする太平洋に面する摩文仁の海岸一帯の林は沖縄戦跡国定公園に指定されているが、戦後のものとみられる瓶や空き缶などの生活ごみが不法投棄されている。廃車や事業者によるものとみられる大量に投棄されたごみもある。
沖縄市から参加した、いとこ同士の安慶名千里さん(14)と大里真理さん(15)は「こんなに多くのごみがあることに驚いた。沖縄戦の犠牲者のことを思うと残念だし、きれいにしなければいけないと思う」と話し、真剣な表情で清掃作業をしていた。
林さんは「多くの要人も訪れる平和祈念公園など表向きはきれいだが、実際は放置されたごみの下に遺骨が埋もれたままだ」と指摘した。
「琉球新報」から転載させて頂きました