平成22年(2010年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月16日(火) 雨により「糸数アブチラガマ」慰霊、斎場御嶽と玉泉洞見学

一昨年あたりからテレビのバラエティー番組で、「チクショ~」と叫び笑いをとる、男なのに舞妓さん姿に女装した芸人さんが居ましたが、私こそが今朝は「チクショ~」と叫びたい心境ですよ。(笑)

昨夜夜半から降り続いた雨は、相当な雨量になったと思えます。降り続いた雨は今朝の段階でも小雨となりましたがずっと降り続いています。 散歩も外を少し歩いただけで切り上げ、朝食を食べる段階で思案し、少なくとも午前中はジャングルに入る事を断念し、戦跡や慰霊塔などの慰霊巡拝に行こうと決めました。

ここまで3.5日連続で、単独行動によるジャングル行でしたから、「ここで一息入れて気分転換」と決め気持ちを切り替えました。正直に言えば、少し体を休ませてやりたいなと思っていたところでした。

そうと決まれば、行ってみたい優先順位第一番は、「糸数アブチラガマ」で~す。長年沖縄に通いながら、しかも遺骨収集奉仕活動に長く従事しているにも関わらず、まだ一度も糸数アブチラガマ壕に入った事が無いのです。

という事で、早々と目的地だけは決まりましたから、朝食を済ませたらなるたけ早く宿を出発する手はずを整えました。レッツラゴー (少し古いかな(^^;))

「糸数アブチラガマ」

「糸数アブチラガマ」に関わる沖縄戦前後の経過をざっとおさらいしますと、このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の第9師団第19連隊が、陣地としての整備を開始しました。

その後独立混成第44旅団の工兵隊が、米軍の港川方面からの上陸に備えて内部空間を更に整備し、地下陣地壕として軍装品を備蓄し長期戦闘に関わる応戦態勢を構築したのです。

昭和20年2月になりますと、独立混成44旅団歩兵第15連隊、通称美田連隊が戦闘指揮所として入りましたが、同時に第32野戦貨物廠部隊が食料や衣類などを搬入し、備蓄倉庫にもなったようです。同年4月1日、本島での戦闘が始まり、4月下旬になると美田連隊は首里戦線防衛の為に前線に出動して行きましたが、再び戻ることはありませんでした。

下旬本島での戦闘は益々激しさを増し、美田連隊が出動していったのと時を同じくして、アブチラガマは沖縄陸軍病院の糸数分室として、病院壕として使用されるようになり、連日運び込まれる傷病兵の看護・治療にあたる場となりました。壕内には水が流れており、その点では恵まれた環境だったといいます。

守備軍の首里撤退以降は南部での掃討戦が激しくなり、5月25日頃ついにアブチラガマの陸軍病院糸数分室に撤退命令が出るに至り、病院は解散しました。撤退の際に歩けない重傷兵などは置き去りにされるという悲劇が発生してしまいました。

陸軍病院が撤退後は、敗残兵や避難民混在の壕となり、米軍に壕を発見されてからは、半月以上にわたって毎日爆雷攻撃やガソリンを流し込まれるという、激しい馬乗り攻撃を受け、また最後には出入り口を塞がれるなどして、累積数百名が殺されたといわれています。

特にガソリン入りドラム缶を投げ込まれたケースでは、ガソリンが土に染みこみ、長期にわたって燻った結果、壕内に居た重症患者の肺を痛めるなど生存を危うくし、次々に亡くなっていったという証言があります。

米軍の馬乗り攻撃に耐え、入り口を塞がれても、命をつなぎ生き延びた敗残兵と避難民とが、投降に応じたのは8月と9月に入ってからでした。

「糸数アブチラガマ」

糸数アブチラガマ

(※この解説図は現地掲示板の図を撮影して転載させていただきました)

この参加記を読んで下さっている皆さまに、読んでみる事をお勧めしたいのが、「糸数アブチラガマ」から奇跡的に生還した数少ない負傷兵が書き記した著書、 「今なお、屍とともに生きる」 です。

「今なお、屍とともに生きる」 沖縄戦嘉数高地から糸数アブチラガマへ

日比野勝廣著 夢企画 平成20年(2008年)初版

著者の日比野勝廣さんは、昨年(平成21年)の7月29日にお亡くなりになったようです。

日比野さんは、「糸数アブチラガマ」から奇跡的に救出された八名のうちの一人です。救出された八名も高齢になり、近年では日比野さんがただ一人の生存者だったと言いますから、これで「糸数アブチラガマ」から救出された生存者は、八名全員がお亡くなりになってしまったという事になりますね。

日比野勝廣さんは享年87歳でしたが、戦後沖縄戦で亡くなった戦友の慰霊にと沖縄に110回も出かけたそうです。生前「自分が死んだら、皆の所に戻りたいので、骨をガマの井戸あたりに散骨してほしい」と娘さんに語っていたと言います。

日比野勝廣さんは、第62師団(石部隊)の中核大隊のひとつ、独立歩兵第23大隊の兵員として、昭和19年8月輸送船対馬丸で那覇港に上陸したそうです。

昭和20年3月26日米軍は慶良間列島に上陸を開始し、4月1日本島へも進撃を開始しました。そうしたなか、日比野勝廣さんが所属する第23大隊に出撃命令が下り、4月9日からあの「嘉数高地」での戦闘に参加したと語ります。

4月19日未明から始まった米軍の総攻撃の、戦車30両のうち22両を破壊・擱座するという、あの有名な太平洋戦域における米軍戦車隊最大の損害をもって撃退した、「嘉数の対戦車戦」にも関わっていたといいます。

前線での筆舌に尽くせない火炎の海、炸裂する砲弾の恐ろしいほどの破壊力、昼と欺く照明弾、流星のごとく流れる曳光弾…。戦場を戦い抜いたものしか知り得ない、凄まじい光景が著書には書き記されています。

前線で戦い抜いた日比野さんも、5月2日現在の浦添市安波茶での戦闘(101高地)で遂に負傷し、前線を離脱、戦場をさまよいながらも小禄部隊医務室にたどり着き、南風原陸軍病院そして「糸数アブチラガマ」へと後送されていきましたが、途中傷口が腐りウジが湧き、九分九理死ぬと言われる破傷風になってしまうなどして、生死の境をさまよいましたが奇跡的に回復した経緯も詳細に書き記されています。

この本は、「戦争で亡くなった人たちの無念さを伝えたいと思うようになった」と語る、日比野勝廣さんの娘さん4人が企画し自費出版したものです。日比野勝廣さんが書き留めていた戦場の手記を主体に、戦後の家族との関わりや復員後の日比野勝廣さんの娘さんたちから見た姿を描き出しています。

「糸数アブチラガマ」

遺骨収集の様子1

「糸数アブチラガマ」に入壕するためには、「南部観光総合案内センター」でチケットを購入などの手続きをしなければなりませんが、そのセンターの所在がどう探してもたどり着けません。歩行者などに聞こうと思っても人影がなかったので、近くにある南城市役所を訪ねました。

遺骨収集の様子2

ヒエ~。結論として驚くことに地図のほうが間違ってました。たどり着けないはずだ~。という顛末でしたが、無事に「南部観光総合案内センター」に到着しました。

遺骨収集の様子3

南部観光総合案内センターの内部の様子です。予約無しの飛び入りで個人ガイドを申し込みましたら幸いに可能という事で、写真に写っている男性の方と二人で案内していただける事になりました。団体予約が入っていれば、いきなりの個別ガイド依頼は無理みたいです。団体予約が無かった事が幸いしたようですよ。ラッキー。

遺骨収集の様子4

「糸数アブチラガマ」 の沖縄戦当時の配置と概要が書き記された案内板です。同ガマは全長270メートルあまりの自然洞穴ですが、現在洞窟内には照明設備がありません。懐中電灯を消すと、黒よりも濃い闇の空間となりますが、あえて照明設備を設けないのは、入壕者に戦時下の洞窟内の暗黒の闇を追体験していただく為のようです

「洞窟内が暗かったからこそ、生きながらえた…」と生存者は語ります。あちこちに山のように散乱する死体、ウジが湧き耐え難い腐臭を放つ死体…。暗い闇はこれらの全てを隠してくれたのです。腐臭を放つ死体がすぐ横にあったとしても、見えなかったから耐えられたという話のようです。想像だにしない凄惨な地獄絵が「糸数アブチラガマ」の中で展開していたのです。

【糸数アブチラガマ】

このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。
20年3月23日南部が艦砲射撃を受け、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。
地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。
このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。
病院の撤退後は、重症患者は置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。
しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。
このガマで亡くなられた方々の御遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって収集され、「魂魄塔」に合祀された。

糸数アブチラガマ1

ここが 「糸数アブチラガマ」 の順路として入り口にあたります。壕は全長270メートルありますから、ガイド同伴の場合所要時間は40分以上必要だとの話です。米軍の馬乗り攻撃を受け、地獄絵と化した凄惨な壕内で、悲しくも非業の死を遂げられた戦没者の為に、これから心を込めての慰霊の旅に出発してりまいります。

※壕内は撮影禁止のため、写真はありません。ご了承くださいませ。

糸数アブチラガマ2

こちらは順路としての出口となるようです。米軍の馬乗り攻撃により、この出入り口から半月以上にわたって毎日爆雷攻撃やガソリンを流し込まれるなど激しい攻撃を受け、壕内に居た多くの人達が苦しみ悶えながら死んでいきました。最後には何とこの出入り口は、ブルドーザーで埋められてしまったのです。

糸数アブチラガマ3

壕から出てすぐの所に慰霊碑があり、私達はそちらに誘導されました。真新しい千羽鶴が目を引きました。「糸数軍民慰霊之塔」です。碑には「大東亜戦争沖縄戦線戦没者の墓」と書き記されていました。

糸数アブチラガマ4

右側の女性がとても解りやすく説明し案内して下さった地元のガイドYさんです。 ありがとうございました。左側の男性は、偶然に一緒に壕に入る事となった方で、何度も沖縄に足を運び、沖縄戦の戦跡を訪ねている方だそうですよ。頭が下がりますね。(ホームページに掲載する旨の了解を得ています)

糸数城跡

「糸数アブチラガマ」のすぐ近くにある「糸数城跡」(いとかずじょうせき)も合わせて見学してまいりました。糸数城跡は「糸数アブチラガマ」の裏山ともいえる背後の標高180mの山上、広大な台地に建造されたという事で、とても近くにあり躊躇わず訪ねてみました。

高台に登るのは個人的にも好きですね。高いところから広範な地域を俯瞰すると、主要な地域がどのようになっているのか良く理解できますし、その他得られる情報はたくさんあるからです。

「グスクロード」と呼ばれる道沿いにあり、案内板も見やすくて迷わずに駐車場までたどり着きました。「糸数城跡」は、本島南部の城跡では最大規模を誇るそうで、とにかく曲線を描く城壁はとても美しく雄大です。

琉球石灰岩を積みあげ延々と続く石垣の先には遠くを見渡す物見台などもあり遠望も素晴らしい事から、一度は訪れてみる事をお勧めしたいですね。

二年前に訪問した浦添城跡もそうでしたが、ここ「糸数城跡」もまた城壁等の復元・修復工事が進められていました。(「糸数城跡」 は、昭和47年5月15日 国指定史跡です)

【糸数城跡】

この城跡は、現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、築城年代は不明ですが、玉城按司が次男を大城按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年の築城であろうと思われています。

城壁は野面積みと切石積みと両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。

構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。
城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。また「琉球国由来記」にも記載された「糸数城之殿」も城内にあります。

昭和53年3月31日 沖縄県教育委員会

「糸数城跡」

遺骨収集の様子5

高台に到着し駐車場近くから見た城跡の様子はこんな感じです。 かなり広大な面積のようです。

遺骨収集の様子6

城跡東部にある、城の外から見た城門です。門のみ切石が積み上げられています。昔はこの門の上に櫓が乗っていたそうです。

遺骨収集の様子7

ご覧のように城壁の補修工事が進められています。城壁は高い所で6メートルあるそうです。

遺骨収集の様子8

琉球石灰岩を用いて積みあげた石垣が延々と続いています。ここは城内の風景です。この城壁に沿って進むと見晴台もあるようですが、時間の関係で断念。

「糸数アブチラガマ」と「糸数城跡」の二カ所見学した後に摩文仁に戻れば、少なくとも午後からは調査に入れるなと、朝の段階で考えていましたが…。摩文仁に戻ることは断念しました~。

「糸数アブチラガマ」 の見学&巡拝を終えて、再び南部観光総合案内センターに立ち寄った時点で、外は強風が吹いているのが解りました。 「糸数城跡」 の見学を終えた時点でも、一向に強風の収まる気配が見えません。どうやら、前線が通過している最中の気象状況のようです。

「ザザーーッ ザザザーーーッ」

南部観光総合案内センター裏手にある山が激しく鳴いています。半端な風ではありません。すごいです。中型の台風並みですね~。(^^;)

雨の日のジャングルは危険だから入りません。雨の日のジャングル内はとても暗くなりますが、そうした暗い空間に足を踏み入れても、全くと言って良いほど怖いと思いませんが、強風が吹き荒れるジャングル内は、なぜかとても怖い!!!!!!!!。はっきりここで白状し宣言しま~す。

なぜでしょうかね。「ザザーーッ ザザザーーーッ」と森が騒ぐと、私の心まで騒いでしまって、とてもじゃないですが、全くもって冷静になれません。不安感が目一杯持ち上がり、少しオーバーに言えば恐怖感さえ湧いてきてしまうのです。

この不安感を言葉で表現すると、一番近い表現として…。
「得体の知れない妖怪が音に乗じて飛びかかって来る」というような感じでしょうか~。(^^;)

実際に飛びかかって来る事は無いでしょうが、とにかく怖く、ジャングルから逃げ出したくなってしまうのです。

私以外の人に、「強風が吹き荒れるジャングル内に単独で居ると怖くないですか?」と聞いたことがないので、私が特別異常なのかどうか定かでありませんが…。

という事で言い訳が長くなってしまいましたが、気持ちを切り替え午後は、まずは知念半島にある、「斎場御嶽」へ、そして沖縄ワールド内にある「玉泉洞」 を見学する事にしました~。(^^)/

道すがら発見した素敵な光景

遺骨収集の様子9

素敵でしょう~。ベゴニアも今が盛りと咲き誇り、民家の屋根を模した植栽造形がとてもユニークですよね。

遺骨収集の様子10

お馴染みのブーゲンビレアの花が咲き誇っています。幹に注目して下さい。幹が太いですよね~。南国ではこんなにも大木になるんですね。

遺骨収集の様子11

これまたすごい花盛りの邸宅がありましたよ。「火炎葛」(かえんかずら)という花です。つる性植物ですから、ご覧のようにベランダ一面に枝葉の展開が可能なんですね。

遺骨収集の様子12

ここにもダイナミックに、ブーゲンビレアの花が咲き誇っていますね。ここは2階が喫茶店でした。入店するつもりは無かったですし、喉は渇いていませんでしたが、ついつい2階のテラスでもって見たくなり立寄ってしまいました~。

遺骨収集の様子13

赤瓦に漆喰の白…。沖縄らしい雰囲気でしたので撮影しました。天気が良ければ、沖合の海の色もスカイブルー色となり、素敵な風景となったでしょうね。

「斎場御嶽」(せーふぁうたき)

沖縄本島南部、南城市知念地区にある御嶽で、世界遺産に登録された事により、団体客も増えて活気づいているという話です。また最近ではパワースポットとしても、知られるようになっており、琉球最高の霊域を訪れパワーを得ようと、知念半島から見える久高島と共に、「斎場御嶽」 は訪れる観光客が増えているといいます。

御嶽とは神々が降臨する霊域をいうそうです。そうした霊域は南西諸島には数多くありますが、そんな数ある御嶽のなかで最も霊威が高く、琉球最高の聖域として崇敬されているのが、今から訪ねる 「斎場御嶽」 らしいですよ。

素人のにわか仕立ての前置きは早めに切り上げて (^^;)、それではご一緒に中に入ってみましょう (^o^)。

【斎場御嶽】

御嶽とは、南西諸島に広く分布している 「聖地」 の総称で、斎場御嶽は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。

御嶽の中には六つのイビ (神域) がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里域内にある部屋と同じ名前を持っています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。

はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には、聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。

その中でも、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」でした。斎場御嶽は、琉球王国や聞得大君の、聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。

「南城市歴史学習体験施設 緑の館・セーファ」から転載させて頂きました

「斎場御嶽」

遺骨収集の様子14

「南城市歴史学習体験施設 緑の館・セーファ」
世界遺産である斎場御嶽の入口にある資料館です。館内には斎場御嶽に関する写真や資料などが多く展示されています。斎場御嶽の有料ガイドの受付も行っており、有料ガイドは1~5名まで1000円だそうです。「斎場御嶽」へは、ここで入場券を買い求めて入ることになります。

遺骨収集の様子15

まず最初に「斎場御嶽」である事を示す石碑がありました。「三角岩」を模したデザインですね。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という表示も見えます。

遺骨収集の様子16

 

【世界遺産】

2000年12月、斎場御嶽は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、ユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界遺産リストに登録されました。全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。

【斎場御嶽】(せーふぁーうたき)

「御嶽」とは、奄美諸島から宮古・八重山にいたる南西諸島に広く分布している聖地の総称です。斎場御嶽は、琉球王朝時代に政府が整備した国家的な宗教組織との関連が深い、格式の高い祭祀場でありました。

せーふぁ(霊威の高い聖なる場所)の名前が示すように、巨岩や聖樹に囲まれた空間には、首里城内にある部屋名と同じ名前の拝所があり、当時の王府と斎場御嶽の関わりの深さをみることができます。

琉球最高神女である聞得大君の、就任儀式「お新下り」の御名付けがこの地で行われたということは、王権を信仰面・精神面から支えていた証でもありましょう。現在でも、聖地巡拝の習慣を残す東御廻り(あがいうまーい)の聖地として、参拝客は後を絶ちません。

■世界遺産登録 2000年12月2日
■国指定 1972年5月15日
■国指定面積 44,643㎡

遺骨収集の様子17

「御門口」(うじょうぐち)です。
ここが御嶽内に入る参道の入り口となります。15世紀に入って第二尚氏が政権を握って以降、斎場御嶽は王家の聞得大君が「お新下り」と称する即位儀礼を行う祭場となるなど、王家直轄の聖域として扱われるようになった結果、庶民はここから先は入れず、ここで遙拝したそうです。またここから先に入れるのは女性のみとなり、男性は立ち入り禁止だったそうです。男性の政府高官といえども、ここから先に入る場合は、なんと女装して入ったのだそうですよ~。(笑)
沖縄は何となくですが、女性が社会を仕切っているという印象を持っていますが、太古の時代から女性の地位が相対的に高かったのですね。

遺骨収集の様子18

全長約450mにも及ぶ石畳の斎場御嶽の参道です。この参道こそが斎場御嶽を斎場御嶽たらしめているのではないかという印象です。深い森に抱かれながら、この石畳の上を歩む…。本土とは違った植生ですから、木々の名前をあげることは出来ませんが、シダ類の地面を覆うバランスのとれた落ち着いた森の姿は、一瞬にして森の奥深くに入ってしまったかのような錯覚を覚え、「森厳」と呼ぶに相応しく、この古代よりの森の中に足を踏み入れれば、誰もが神域に入った事を実感するでしょう。

遺骨収集の様子19

御門口から登っていくと、左手に見える最初の拝所が「大庫理」(うふぐーい) です。大庫理とは、大広間という意味があり、奇岩の下には磚(せん)の敷かれた祈りの場(うなー)があります。大庫理は首里城正殿の二階にある部屋と同じ名前名称であり、琉球王府首里城との深い関わりがあることを示します。

遺骨収集の様子20

 

【大庫理(うふぐーい)】

首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所です。聞得大君のお新下り儀式での「お名付け(霊威づけ)」儀礼が、首里城と同じ名前を持つこの場所でとり行われたのは、その名にふさわしい事と言えましょう。前面にある磚(せん)敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し琉球王国の繁栄を祈りました。

遺骨収集の様子21

「砲弾池」と表示がありました。沖縄戦での砲弾が炸裂した時に出来た穴に水がたまり池になったようです。

遺骨収集の様子22

砲弾池を過ぎて一番奥深いところに 「寄満」(ゆいんち) がありました。すごい奇岩ですね。「寄満」(ゆいんち)は「大庫理」 (うふぐーい)と背中合わせに配置されているようです。寄満は王府用語で「台所」を意味しますが、貿易の盛んであった当時の琉球では、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ちた所」解釈されています。

遺骨収集の様子23

 

【寄満(ゆいんち)】

寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指します。当時、ここには国内外からの海幸、山幸が集まりました。それが、「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったのでしょう。同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次世界大戦前まで、その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐわーいし)が置かれていました。

遺骨収集の様子24

この洞門の奥に「三庫理」(さんぐーい) があります。この巨岩が通称「三角岩」と呼ばれる岩の洞門です。見える人の大きさと比較すると三角岩の巨大さがわかりますね。この洞門は神社でいえば鳥居の役目をしており結界を意味しています。現世と神世との境界であると感ずる人さえいるそうです。この洞門の奥に、斎場御嶽の奥の院とも呼ぶべき「三庫理」(さんぐーい)があるのです。

遺骨収集の様子25

 

【三角岩】

自然岩や洞穴に囲まれたこの場所には、いくつもの拝所が集まっています。正面に見える三角形の空間の突き当たりが「三庫理」 (さんぐーい)、右側がチョウノハナの拝所で、いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っています。また、左側からは太平洋と久高島が遠望できます。

さて、三角岩の右側には、「貴婦人様御休み所」と二本の鍾乳石が見えます。滴り落ちる水はその下に置かれた壺に受けられ、それぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水でした。

遺骨収集の様子26

奧が「シキヨダユルアマガヌビー」、手前が「アマダユルアシカヌビー」です。上の説明文にもありましたように、「それぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水」のようです。

遺骨収集の様子27

 

遺骨収集の様子28

二つの壺の上を見ましたら、鍾乳石のつららが二つありました。このつららの先から落ちてくる水を壺は受け止めているのですね。

遺骨収集の様子29

突き当たりが「三庫理」 (さんぐーい)、右側がチョウノハナの拝所です。チョウノハナは南東に面した壁で、チョウの意味は切り立った岩山の事、その先端部の意味だそうです。ここでの重要な祭事には、久高島より運ばれた白砂を敷きつめ、松明が灯されて神事が執り行われたといいます。

「斎場御嶽」は通称であり、正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」というそうです。斎場(せーふぁ)とは「最高位」の意味であり、この斎場御嶽は、琉球の開闢神話に出てくる国始めの七御嶽の中で「最も権威の高い御嶽」という事になるでしょう。

「斎場御嶽」は、「琉球で最も権威の高い御嶽」と言えそうですが、それだけとても格式の高い場所であるにも関わらず、あるのは人工的に敷設された石畳のみであり、神社の社とか祠とか、そして御神体とかはどこを探しても見あたりません。

実際、「斎場御嶽」を訪れた観光客が、「何もないじゃない?」と言ったというのは有名な話ですが、深い森の中にあって、あるのは奇岩の前にすえられた香炉のみ。この姿こそが沖縄の今に伝える有史以来からの、自然信仰を体現しているのではないかと感じ入りました。

遺骨収集の様子30

「久高島遙拝所」です。ここから太平洋と久高島が遠望できます。久高島は小さな島ですが、この島こそ琉球の開闢神であるアマミキヨが最初に降り立った場所だとされているのです。次回はこの久高島を訪ねてみたいですね。

遺骨収集の様子31

 

遺骨収集の様子32

「三庫理」に至るまで、観光客もまばらでしたから、自分の歩くペース、思考ペースに合わせてここまでやってまいりましたが、突然大勢の観光客がやってきて、急に賑やかになりましたよ~。

「斎場御嶽」 が世界遺産に登録されて以降、観光バスに乗った団体客で賑わっているそうですが、静かに散策していた状況と、観光客がガヤガヤとやって来て賑わう様を目の当たりにして、心を静め祈りの場としての御嶽と、観光振興立国沖縄との共存が可能なのかどうか…。深く考えさせられる一幕もありました。

玉泉洞

沖縄に「玉泉洞」という洞窟があり、一般公開されているというのは、たいがいの人が知るところです。

私も二十年以上沖縄に通いながら、未だに入壕していなかったので、「斎場御嶽」の帰路の途中にある「玉泉洞」を訪ねてみることにしました 。

「玉泉洞」は、沖縄最大のテーマパークであり、琉球王朝の歴史や文化を体験できるテーマパークとして知られる 「おきなわワールド」 の中にあるという話です。

「おきなわワールド」は、30万年以上もの歳月をかけて造形された、国内でも有数の規模を誇る鍾乳洞「玉泉洞」を徒歩で見学できるのをはじめ、国の登録有形文化財に指定されている、沖縄特有の赤瓦の古民家を再現した町並みがあるんですね。

そこでは伝統工芸品の制作や黒糖作りの体験もできますし、ヘビとマングースのショーや、無料で見学できたり踊ったりできる民俗芸能のエイサーショーも毎日公開されているなど、全部を見学するには2時間以上を要すると見積もられているようですから、今回は純粋に「玉泉洞」見学のみに絞っています。

「玉泉洞」は、鍾乳洞としては東洋一の景観を誇り、約30万年の歳月を経て形成されたとする鍾乳石の数が、誰が数えたか知りませんが、40万本あるとされる巨大鍾乳洞です。

この地域は珊瑚の死骸等が堆積して形成された、第四紀琉球石灰岩の中で発達する鍾乳石で、とても成長が早いそうですよ。最も成長が早いといっても、3年で1ミリ成長する程度だそうですが、そうして形成された鍾乳石は、ここでは「昇龍の鐘」とか、「槍天井」、「黄金の盃」などと命名されて圧倒的な迫力を持って、私たちの目を楽しませてくれるそうです。

それでは、ご一緒に「玉泉洞」の中に入ってみましょう。

「玉泉洞」

遺骨収集の様子33

駐車場に車を止め隣接するこの総合案内所でチケットを買い求めることになります。「おきなわワールド」は、沖縄最大のテーマパークという事で、広くて迷子になってしまいそうですよ。

遺骨収集の様子34

ここは「玉泉洞」の内部空間です。とても広い空間なのでストロボが届きませんね。昭和42年(1967年)愛媛大学学術探検部によって発見されました。その後調査・探険が続けられ、昭和47年に一般公開されました。洞窟の総延長は4.5㎞、公開されている部分は890mほどですが、圧倒的な迫力で私たちを迎えてくれました。まずは東洋一といわれる巨大空間です。幅20m奥行き80m高さ20mの大空間にはいろんな形をした鍾乳石が林立しているのには驚きました。

遺骨収集の様子35

 

遺骨収集の様子36

「槍天井」です。2万本のツララがあるそうですが、どのように数えたんでしょうか~。

遺骨収集の様子37

30万年の時を経た、素晴らしい自然の造形ですね。槍の下に行くのがちょっと怖いですね。頭に刺さったらどうしよう~。

遺骨収集の様子38

 

遺骨収集の様子39

 

遺骨収集の様子40

「青の泉」です。う~ん、幻想的な雰囲気ですね~。

遺骨収集の様子41

「黄金の盃」です。う~ん、素晴らしいネーミングですね~。とても迫力があります。

遺骨収集の様子42

 

遺骨収集の様子43

 

「玉泉洞」の見学を終え、まだ明るいので宿に帰る道すがら、南部に散在する慰霊塔を巡拝する事にしました。

「第24師団(山部隊)第一野戦病院壕」
「栄里之塔」
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」
「南北の塔」
「浄魂之塔」

「第24師団(山部隊)第一野戦病院手術壕」

島尻郡八重瀬町富盛にある八重瀬岳の中腹にある、現在八重瀬公園となっている園内の中腹には、第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕、同手術壕がありました。第一野戦病院手術壕が「上の壕」、そして本部壕が「下の壕」と呼ばれていました。「下の壕」は現在立ち入り禁止となっているようです。

ですから現在見学できるのは「上の壕」のみとなっています。こちらの壕は手術室をメインとして用いられたようですが、この壕は県立第二高等女学校の生徒46名が、白梅学徒看護隊員として看護活動をした場所でもあります。

八重瀬公園駐車場からすぐのこの「上の壕」は二つの出入り口があり、全長70メートルほどの壕です。今まで十数回訪問している壕ですが、今回訪問して驚いたのは、壕内立ち入り禁止の看板が掲示されていたという点ですね。

構築壕である事は承知していましたが、人工的に掘られた壕であるだけに、掘削面の劣化も激しくいつかは立ち入り禁止になるのではないかと危惧していましたが、思いの外早くその危惧は現実のものとなってしまいました。

実際には立ち入り禁止にこそなりましたが、ただちに落石の危険があるとかというと、そんな話ではありません。壕内を歩いても、危険だと感ずるような亀裂や危機迫る兆候は微塵も感じませんが、今後は壕内への立ち入りは自己責任という事になるのでしょうね。

南風原の20号壕が公開されていますが、あそこは出入り口に開閉式の扉を設け、壕内部表面の乾燥と風化による劣化を防いでいます。それでも壕内の劣化は進んでいると20号壕関係者が語っていましたが、扉が無いよりはましであり、扉がない八重瀬のこの病院壕は、壕内表面の乾燥がかなり速いスピードで進んでいると見なければなりません。

第24師団(山部隊)第一野戦病院手術壕

遺骨収集の様子44

八重瀬公園駐車場から「富盛の大獅子」がある山上方面を見ています。公園の一角には「八重瀬の塔」があり、付近に散在する15,000余柱が祀られており、この付近の攻防の激しさを物語っています。サイト管理人もこの写真に写されている範囲内で、20年以上前になりますが、御遺骨を一柱発見しました。

遺骨収集の様子45

壕へ至るアプローチ上には、白梅学徒隊が従軍したことを表記する石碑が立っています。6月3日の新城分院と東風平分院の閉鎖に続き、ここ本部壕も4日には解散命令が出され、この日以降に白梅学徒隊員は多くの犠牲者を出しました。

遺骨収集の様子46

「第24師団(山部隊)第一野戦病院壕」です。以前から危惧していましたが、ついに「立ち入り禁止」の看板が出ました。この壕は人工的に掘られたもので、表面の乾燥が避けられず、早いスピードで劣化が進んでいるようです。

「栄里之塔」

糸満市真栄里にある慰霊塔で、第24師団(山部隊)佐藤少尉ほか将兵と住民約12,000余柱が合祀されています。

遺骨収集の様子47

「栄里之塔」は道路沿いの小高く盛られた場所に、高く育った木々と共にありました。

遺骨収集の様子48

ぎりぎり「栄里之塔」と読める文字が、後世の人間として何とかしたいなという思いを抱かせます…。真栄里一帯は6月中旬頃最も激しい戦闘が展開された場所ですが、戦後この付近に散在する御遺骨を、真栄里部落の住民が収骨し慰霊塔を建立したものです。

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」は、道路を挟んで「栄里之塔」と隣接したところにありました。

サイモン・B・バックナー中将は、1945年6月18日残存日本軍の狙いを定めて放った砲撃により、この地で戦死しましたが、バクナー中将が戦死してから24時間以内に、米軍の二人の将官が相次いで戦死しました。

一人は狙撃兵に撃たれた海兵隊司令官ハロルド・C・ロバーツ大佐で、もう一人はクローディアス・M・イーズレー准将でした。またクローディアス・M・イーズレー准将の追悼碑も隣接してありました。

米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる、日本軍の砲撃を指揮した連隊中隊長だった石原さんという方を、昨年の参加記1月23日(金曜日)のところでご紹介してありますので読んでみて下さい。

サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑

遺骨収集の様子49

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」へ至るアプローチです。この高台の上にいる所を砲撃されたという事だと、確かに見通しのきくこの場はとても危険だと感じました。

遺骨収集の様子50

「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」の全景です。1952年に米軍により建立された祈念碑が、キャンプフォスターに移されたため、1975年沖縄県慰霊奉賛会により、新たに建てられたものです。

遺骨収集の様子51

碑から離れました。付近に散在する畑を見ますと、ご覧のようにキャベツがしっかり育っていました。

遺骨収集の様子52

これは白菜ですね。今は2月、もう結球しようかという段階まで成長しています。

「南北之塔」

糸満市の真栄平部落の外れにある「アバタガマ」の入り口に「南北之塔」はありました。「南北之塔」は米軍の収容所から真栄平に戻った区民が、屋敷内や道路・田畑に散乱する御遺骨をアバタガマに納めて祀ったもので、昭和21年に建立し「南北之塔」と命名しました。現在の「南北之塔」は昭和41年に改築されたものです。

付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。

慰霊塔側面に「キムンウタリ」と彫られていますが、これはアイヌ語で「山の仲間達」という意味だそうです。沖縄戦に参加したアイヌ人篤志家が、南北の塔改築を知る事となり、塔石の費用の一部を寄付した事から、彫られたものだという話でした。

現在「南北の塔」は、"アイヌ問題" で揺れているようですが、真栄平一帯で収骨され納骨された御遺骨の中に、アイヌ出身兵が居たとか居ないとかの確証は一切無く、「南北之塔」はあくまで「魂魄之塔」と同じ無名戦士の墓として、毎年開催される慰霊祭の主旨にも叶う、地域住民の方々に寄り添うような、集落の外れにたたずむ慰霊の地であるのが相応しいでしょう。

【慰霊碑碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会

「南北之塔」

遺骨収集の様子53

「南北之塔」のアプローチ部分です。管理が為されている証としてサルビアなどの花が植えられています。毎年6月23日には真栄平区民の方々が、恒久平和の願いを込めて慰霊祭を開催しています。

遺骨収集の様子54

「南北之塔」です。戦禍に倒れた真栄平住民をはじめ、守備軍軍人等、数千柱の戦没者が祀られています。左側には「捜索二十四聯隊慰霊之碑」もあります。

遺骨収集の様子55

個人の慰霊塔も沢山建立されていました。戦死した場所がほぼ特定出来ただけでも、御遺族の方々は一面で嬉しかったでしょうね。

遺骨収集の様子56

「アバタ壕」です。奥行きは60メートルぐらいでしょうか。壕は斜めに下っています。壕内は米軍による激しい馬乗り攻撃を受け、地獄と化したのを証明するかのように真っ黒に焦げてます。

(1992年撮影)

遺骨収集の様子57

「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された「黄色い石けん箱」を壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、同じ部隊に所属した戦友だったのです。

「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査により、ついに遺族が特定されたのです。

この壕内で戦死された○○○○さんの息子さんご夫妻が、東京に住んでいる事が判明し、遺品である「黄色い石けん箱」は、無事に御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。 (一番左に写っている男性と写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です)

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動のなかで、多くの御遺骨を発見されました。

ご遺族の胸中は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、毎年遺骨収集活動を継続された事に、それがよく表出されていると思えます。病を抱えながらも、身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

「浄魂之塔」

真栄平の西側に位置する新垣には、「白」「山」「球」「石」と略される守備軍各部隊壕のほか、隷下中小部隊の拠点になった壕がかなりあったようです。

それだけに、この付近に散在する御遺骨もまた数え切れない程であったでしょう。

「浄魂之塔」

遺骨収集の様子58

「浄魂之塔」です。県道7号線から町道に入りしばらく進むと、道路左側に見えてきます。

遺骨収集の様子59

この慰霊塔は特定の部隊とか地域住民を祀るというのではなく、この地域から集めた全ての御霊を祀っているようです。

遺骨収集の様子60

 

【慰霊碑碑文】

米軍の本島上陸以来歴戦奮闘を続けし第24師団隷指揮下の各部隊は、新垣の壕を最後の拠点として布陣し米軍を迎撃せしが善戦空しく昭和20年 6月17日この地に玉砕せり。昭和32年 3月地元有志相はかり将兵並びに戦斗に協力散華せる多数の住民の遺骨を奉納し浄魂の塔と名づけしが、このたび南方同胞援護会の助成を得て新たに碑を建て永くその遺烈を伝う。

昭和42年 3月 沖縄県遺族連合会

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