平成22年(2010年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月18日(木) 雨により平和の塔等見学、午後摩文仁ゴミ調査

今年は本当に雨が多いです。幸いに昼間より夜に降る雨が多いのが救いですが。
本日も夜半から降り続いた雨は、朝になってやっと小降りとなりましたが、少なくとも午前中はジャングル内に入っての調査は無理なようです。

今年の沖縄は、雨が多いのと、とても寒いのが大きな特徴ですね。これほど寒い沖縄は初めてではないかという印象です。天気予報では、今日は15度から17度になると語っていましたが、10度近い気温が多かったですから、これは沖縄としてはとても寒い日が続いているという事になります。

天気予報では、日中は雨が上がり回復すると語っていましたが、ジャングルは雨の後すぐに入れないので、残念ながら朝からの遺骨収集&調査は諦めて、戦跡巡りをすることにしました。本日の予定として、どのような天候であっても午後1時からは、林先生その他の数人で「摩文仁のゴミ調査」が入っていますので、天候の回復状況を見極めて、ジャングルに入れる状況になったらすぐに対応する為に、戦跡巡りは南部地域に限定して行うことにしました。

遺骨収集の様子1

サトウキビ1年生が広い畑に植えられていました。南部はサトウキビ畑が多いですね

「平和之塔」

遺骨収集の様子2

ここは喜屋武岬東側です。ご覧のような絶壁ですが、ここから多くの人たちが身を投げたと言われています。写真の陸地突端部が本島最南端の海岸線です。

遺骨収集の様子3

「平和之塔」全景です。ご覧のように太平洋を一望できる岬の突端に建立されています。

遺骨収集の様子4

喜屋武岬西側を見ています。断崖は西に行くほど緩やかになりますが、それでもまだ足下を見ると怖いくらいです。

具志川城跡

遺骨収集の様子5

「具志川城跡」と書かれた石碑が立っていました。ここは「平和之塔」から見て西に500メートルほどの距離にあり、同塔と同じように海岸沿いにあります。「具志川城跡」に行くには駐車場に車を止め、50メートルほど狭い歩道を歩いて向かっていました。現在はお城の工事の為に、車を乗り入れる道路まで設けて本格的な城壁修復工事が実施されているようです。

遺骨収集の様子6

具志川城跡の説明書きがありました。読みにくいのでテキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【具志川城跡】

史跡 具志川城跡 昭和47年5月15日 国指定
この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下って二の丸、さらに一段下って本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3路メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。

二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています。久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)鞍司が伊敷索(いしきなわ)鞍司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれています。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。

沖縄県教育委員会 昭和53年3月31日

遺骨収集の様子7

すでに城壁内側に入ったのでしょうか。城壁は野積みと説明板に書いてありましたが、野面積み(のづらづみ)の間違いでしょう。城壁にしては低いような気がしますが、当時はもっと高く積み上げてあったのでしょう。

遺骨収集の様子8

これはたぶんお墓ですね。「久米門中」と書いてある部分はハッキリ読めますが、あとは解読不能ですね。

遺骨収集の様子9

説明板に「二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています」と書かれていましたが、この穴が「火吹き穴」だと思われます。城を攻められたらこの穴から海に逃げるという手もありのようですね。

遺骨収集の様子10

最先端の城壁から東側を見ています。切り立った崖が続いていますし、今は潮が満ちていますね。500mぐらい先には「平和之塔」があるはずですし、その辺りが喜屋武岬と言う事になります。

遺骨収集の様子11

今度は最先端の城壁から西側を見ています。こちらは遠くへ行くほど崖も緩やかになっているのが見てとれます。因みに私が立っているこの場所の標高は17mだそうです。結構な絶壁に古城が建てられたのですね。

遺骨収集の様子12

城壁から下を見ると工事が行われていました。ご覧のように本格的な道路まで設置して、大規模に城壁の修復工事を進めてるようです。全体の修復工事を終えた段階で、再び訪れてみたいですね。

茶所「真壁ちなー」

少し早めの昼食は、久しぶりですが、真壁集落内にある「茶所真壁ちなー」で頂く事にしました。(^o^)

古い赤瓦の元民家で、建築は明治24年頃といいますから、西暦1891年頃建築したという訳で、今から119年前の建物ということになります。ですから、当然のことながら、建物や石垣も含めた敷地が、国の登録有形文化財に指定されている程なんですね。

外観は勿論、内部空間も往時の面影を感じさせ、琉球時代の雰囲気を味わってみるのには最適な空間だと思いますから、まだ行ったことがない方はぜひ、一度訪ねてみて下さいませ。

茶処「真壁ちなー」

遺骨収集の様子13

茶処「真壁ちなー」は糸満市真壁集落の中にあります。初めて訪れる場合は、すぐに見つけられないかもですよ~。でも頑張って見つけてね。例え時間がかかろうとも、訪ねてみれば「来て良かったな」と思えるはずです。

営業時間:11:00頃~18:00頃まで。
定休日:水曜日(その他不定休あり)
電話:098-997-3207
住所:糸満市真壁223番地

遺骨収集の様子14

築明治24年といいますから、今から119年前に建てられた赤瓦の一般民家です。沖縄戦では、ここ真壁集落も米軍の激しい空爆を受け、また地上戦も交戦があった激戦地でしたが、奇跡的に大きな被害を免れたようです。戦後は、住民の避難所や診療所に利用されたそうです。現在でも柱や石垣には、銃弾の跡が残っているそうです。時間があれば見つけて下さいませ。

遺骨収集の様子15

この石組みは何だと思いますか?。

答えは、トイレなんですね~。(^o^)

モッ もちろん、今は使われていませんよ~。お店用のトイレは建物内にありますから~。

石組みの上には木造の家屋があったのですが、今はありませんから解りにくいのですが、トイレには豚ちゃんが住んでいて、人間の出した排泄物を全部食べてくれたそうです。昔の琉球時代は、ごく当たり前の光景だったようです。現代社会ではとても応用するわけにはいきませんが、リサイクルの視点から見て、とても良いアイデアだと感心しました~。(笑)

遺骨収集の様子16

敷地内にはブーゲンビレアの巨木に、花がたくさん咲き誇っていました。

遺骨収集の様子17

店名が書き込まれた表札です。

遺骨収集の様子18

2月だというのにバラが咲いていました。

遺骨収集の様子19

(道路脇にあったので撮影しました)
モンパノキ(紋羽の木)です。別名ハマムラサキノキ(浜紫の木)と呼びます。沖縄の人達は正確ではないかもしれませんが、"浜紫"という言葉から、「ハマスーキ」というような呼び方をしています。正確に聞きとれないのですが~。摩文仁に向かう途中にありましたが、あまりにも立派なので撮影しました。

摩文仁に放置されたままのゴミ調査

摩文仁には目がくらむほど沢山のゴミが捨てられているというのは、これまで何度もサイト記事で書いており、このサイトを訪れた方は一度はその経緯を読まれた方も多いと思いますが、今日は午後から、摩文仁のゴミ問題を新聞社の方が取材に来られるという話ですから、私も同行させて頂く事に相成りました。

沖縄本島南端の摩文仁は、激しい掃討戦のあった場所であり、多くの血が染みこんだ悲劇の場所ですから、後世の私たちが末永く大切に見守っていかなければならない、鎮魂と祈りの場であるはずなのです。

それなのに、いつもいつも書いていますが、とにかく摩文仁には放置ゴミが至る所にありますよね~。(^^;)

「遺骨収集が収束したら、こんどはゴミ収集だ!!」
沖縄での遺骨収集奉仕活動も、収束の方向に向かいつつある現状で、これからはゴミ収集も同時進行で勧めて、金光教那覇教会の林先生が思い描く、ゴミの無い「慰霊の地としての摩文仁」に、少しずつ近づける努力をして行かなければならないと痛感するものです。

前にも一度書きましたが、現況のゴミで溢れかえる摩文仁の姿は、私たちの心のありようを描き出す鏡であるとも言えるでしょう。

非業の死を遂げた多くの戦没者の、苦悩と汗と涙と血が染みこんだこの艱難の大地が、知っていながらこっそり不法投棄された生活ゴミで溢れかえっているという現状は、享楽にふけり感恩報謝の心を忘れた人間の民の仕業だと言われても仕方ありません。

非業の死を遂げた多くの戦没者の流した汗と涙と血が、どれくらいこの摩文仁に染みこんでいるのか…。私たちは日々の生活に忙殺されながらも、今一度「汗と涙と血が染みこんだ大地の重み」を、私たち一人一人が深沈黙考し、一定の行動に結びつけたいものですね。

摩文仁の放置ゴミの様子

遺骨収集の様子20

写真には写っていませんが、写真左側には「沖縄師範健二之塔」と「平和の像」がある場所です。岩の割れ目に人が向かっていますが、その割れ目から、何十トンもの膨大なゴミが捨てられているのです。

遺骨収集の様子21

ゴミが捨てられている場所に立ち、上を見た状況です。岩の割れ目から、ゴミを放り投げたのです。

遺骨収集の様子22

下の堆積したゴミの山の様子です。

遺骨収集の様子23

ゴミの山の高さは、おそらく4メートルぐいらはあると思われます。

遺骨収集の様子24

圧倒的に健康ドリンクの瓶が多いです。

遺骨収集の様子25

場所を移動しまして、ここは各県の慰霊碑が並ぶ平和祈念公園内の「空華之塔」前から崖下を見ています。ここからもたくさんの弁当ガラや空き缶・空き瓶が投げ捨てられました。今日は時間がないので、崖下に降りての調査はしませんでした。

遺骨収集の様子26

また場所を移動しまして、平和祈念資料館から800メートルほど東にやって来ました。

遺骨収集の様子27

「不法投棄禁止」の警告看板が見えます。ここは今は雑木林になっていますが、昔道路があったのです。道路があった時代に、いわゆる大型ゴミの不法投棄が相次ぎ、ついに道路閉鎖という事態になったようです。

遺骨収集の様子28

ここには冷蔵庫や電子レンジなどが捨てられていました。

遺骨収集の様子29

ここには古タイヤがたくさん捨てられていました。他の場所には大型トラックのタイヤもたくさん捨てられている場所があります。

遺骨収集の様子30

汚ち果てていますから解りにくいですが、これは投棄された乗用車なんですね~。

【摩文仁霊域 ゴミが覆う】 市、投棄防止で支援へ

「沖縄タイムズ」平成22年2月26日

糸満市摩文仁の平和祈念公園近くの山林や海岸沿いに、大量の不法投棄ごみが放置されたままになっている。

4年前に市などが行政として初めて撤去に乗り出したが、継続的な取り組みには至らず、民間の遺骨収集ボランティアが4月下旬に再度、大掛かりな撤去作業を計画中だ。

「沖縄を象徴する霊域がごみだらけでは、戦争犠牲者に申し訳が立たない」とボランティア関係者は嘆く。市の担当職員が今月、あらためて現地を確認し、作業への支援を約束した。(新垣綾子)

同公園の南西側「沖縄師範健児之塔」近くの現場は急斜面の獣道を下ると、たどり着く。保安林が茂る市有地。堆積(たいせき)した土や枯れ葉の合間から、かなり時間が経ったとみられる空き缶や空き瓶、弁当がらなどがのぞく。個人や業者が大量に持ち込んだか、かつては塔へと続く参道に出店があり、そこから出たごみが投げ捨てられた可能性があるという。

遺骨の上に
市の担当部署が2006年1月と2月の計2回、公園を管理する県やボランティアなどと合同で約1500袋分のごみを片付けたが、あまりに大量で完全に撤去できなかったという。

健児之塔から東に200メートルほど離れた「空華之塔」近くのがけ下も同様だ。水分を含んだごみで足場が悪く、移動するだけで労力がいる。車や重機が入る余地がないため、ごみ袋を抱えて何度も往復しなければならないという。

37年間、摩文仁などで遺骨収集を続けている金光教那覇教会の林雅信さん(70)は「戦後時間がたち、地表の遺骨は見つけにくくなったが、ごみの下に眠っている可能性は十分にある」と訴えてきた。

負傷も心配
だが、ごみの投棄場所や処理の所管をめぐって縦割り行政の壁ができたり、現場確認もした陸上自衛隊の協力が立ち消えになったりした。 「どこかを責める気は毛頭ないが、ボランティアだけの作業はけがやハブが出た時など、救急の対応に限界がある」。海邦国体前にあった大規模な県民遺骨収集のように、旗振り役を県が担う形が理想という。

林さんたちが県内外に協力を呼びかけ、4月29日に撤去作業を予定していることを受け、市生活環境課と農政課の職員らは今月18日、現場を確認。人手や収集車、処理施設搬入などの手配を検討し、産業廃棄物などの処理は県などと調整することにした。

生活環境課の担当者は、市役所内でも不法ごみの責任の所在の考え方に温度差があることを認めたうえで、「市有地は市主体で管理するという意識付けをし、監視活動なども強化して不法投棄の再発を防ぎたい」と話す。

「沖縄タイムズ」から転載させて頂きました

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