平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動

4月03日(木) 巨星逝去

金光教福岡教会の四代教会長吉木昭弘先生が、4月3日お亡くなりになりました。金光教の皆様とともに、沖縄遺骨収集に参加させていただいている一人として、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

吉木昭弘先生は、長く金光教沖縄遺骨収集奉仕団団長を務められた故隅田隆太郎沖縄遺骨収集運営委員会委員長の後任として、第17回(平成5年)から同委員長を引き継がれ、爾来第26回までの10年間にわたり奉仕団団長を務めて来られました。

故隅田隆太郎先生の「沖縄の地から一片のご遺骨も残さず収集しなければ、沖縄の戦後はない」との強い想いと信念を継承しつつ、団長として東西約8キロ南北約7キロに及ぶ沖縄本島島尻地域での遺骨収集奉仕活動に全力で取り組んで来られたのです。

団長として最初に取り組まれた第17回(平成5年)の遺骨収集現地慰霊祭では、沖縄戦での戦没者24万余柱の御霊様に祭詞を奏上するにあたり、「垂乳根の父母に先立ちませし人等もありつらむ。或いは愛しき妻子を後に残せし人、或いは睦まじき兄弟友垣と永久の別れを嘆ひ給ひし人もありつらむ。かかる遺族の人々の別れを嘆ひ給ひし人もありつらむ。やらむ方なき憤りや、如何に思うだに。胸つぶるる思いこそすれ。阿奈由々しきかも。…」と述べられたのが、毎回現地慰霊祭祭詞を精読している私にとりましてとても印象的でした。

出征し故郷に帰る夢を果たせず非業の死を遂げられた戦没者への、この慈愛に満ちた言葉こそ、危険を伴う遺骨収集ではあるけれど、全国から集まる参加者に相応の心づもりを持って参加することを促した、吉木昭弘先生が私達に語っていた「命がけではない、祈りがけの御用である」との気概を、参加する私達に要請する原点であったと思えてなりません。

第26回をもって沖縄遺骨収集運営委員会委員長の重責のお立場を退かれた以降は、あたかも私達と同じ立場で参加しているかのように、お清め班の作業に従事され、無心にブラシなどを持ってご遺骨の汚れを落とされているお姿が脳裏に焼き付いています。

「再びお清め作業をされているあのお姿を拝見する事は叶わないのか…。」

簡易テントの下で、いつも大場さんや他の参加者の方々と一緒になってお清め作業をされていました。

もはや再び座ることのないその指定席に漂う空疎感は、あまりにも存在の大きかった巨星の喪失を思い起こさずにはいられません。

故吉木昭弘先生

故吉木昭弘先生 慰霊祭にて祭詞を奏上

吉木昭弘先生が、慰霊祭にて祭詞を奏上しているところです。遺骨収集運営委員会委員長であった故墨田隆太郎氏の後任として、第17回から最期の第26回まで運営委員会委員長として、金光教の遺骨収集を主導しました。

故吉木昭弘先生 最後の御用奉仕

故吉木昭弘先生 最後の御用奉仕

御遺骨を心を込めて汚れを落としきれいにする「お清め班」の作業風景です。左側にお座りの吉木昭弘先生は、委員長の重責を退かれた以降は、時折笑いの渦を巻き起こしながら、私達と同じ目線でお清め作業に従事されていました。改めてご冥福をお祈り申し上げます。m(_ _)m
【昨年の第34回金光教沖縄遺骨収集奉仕にて】

金光教福岡教会の四代教会長吉木昭弘先生御葬儀の様子

吉木昭弘先生がお国替えされたとの訃報に接し、私も密葬に参列させていただきました。「生まれてくるのがめでたいなら、死んでゆくのもめでたいはず。『博多祝いめでた』で葬送してほしい」との遺言により、葬儀の最後には参列者全員で『博多祝いめでた』を合唱し葬送しました。

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