平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月11日(月)朝早自宅を出発/海軍司令部壕巡拝
- 2月12日(火)松永氏と二人で八重瀬町与座斜面で遺骨収集
- 2月13日(水)沖縄県出身のNさんと南部戦跡巡拝
- 2月14日(木)単独で摩文仁之丘東端斜面に入り遺骨収集
- 2月15日(金)嘉数高地などを慰霊巡拝、午後は司令部壕調査
- 2月16日(土)第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 4月03日(木)金光教福岡教会教会長吉木昭弘先生ご逝去
2月13日(水) 沖縄県出身のNさんと南部戦跡巡拝
「今日だけは雨が降らないでほしい…」何日も前からそのように願っていたのです。なぜなら、今日初めてお会いすることとなる、沖縄県出身のNさんという女性を、私がガイド役となって南部戦跡を案内する予定となっているのです。
つまり私の得意とする遺骨収集を一緒にやりましょうというのではなく、私が「平和学習」のガイド役のような立場で、一緒に南部戦跡をめぐる話ですから、実はすごくプレッシャーが掛かっています。
南部戦跡を見学&巡拝したいというNさんの要望を実現すべく、今日まで見学場所を選定し順路まで頭の中にインプットして、準備万端整えたにしても、その結果が雨では…。
戦跡巡りですからかなりの距離を歩く事になりますし、壕などへの出入りでは足場の良くない坂道部分も歩いたりしますからね。ぜひ天候だけは味方してほしいと願っていたのです。
沖縄県出身のNさんは、現在ご結婚され北海道にお住まいなのですが、この日のためにわざわざ沖縄に帰って来るというのですよ~。
今日の戦跡巡りだけの目的で沖縄に帰って来るというのですから、その意気込みと行動力には脱帽といったところでしたね。
その素晴らしい行動力に見合う対応をする為にも、渡沖20年以上の経験とノウハウを生かして…。といきたいところですが、その割には南部戦跡についての知識は、蓄積されていないんですけどね。トホホ。(^^;)
ところで私を信頼していただいて行動を共にするのは光栄ですが、何かおかしいと思いませんか。
私は関東地方の群馬県の出身なんですよ。その私が沖縄県出身の方を伴って、南部の戦跡を案内するなんて…。(汗)
彼女から私のところへ、昨年の6月21日に初めてメールが届いたのです。
「突然のメールで驚かれたと思います。私は沖縄県出身で、今は北海道に住む…」という書き出しの驚くほどの長文のメールでした。
沖縄生まれの戦後世代の子供達が、沖縄戦とどのような関わりを持って育ったか…。
ヤマトンチュウの私には知るよしもなかった、戦後の沖縄の実相を丁寧に教えていただいたと感激するほどに、子供の頃から現在に至るまでの生活体験談が、問わず語りで詳細に書き込まれていたのです。
また、途中では「私自身本当に、どうしてコンタクト取りたいと思ったのか、今も解らないのですが……」という文面もありました。
実はメール発信の目的が一見わかりにくい…。それどころかこのように書いている本人さえも、メール発信の目的をつかみきれずに綴られたメールが、時折私の元へ届けられるのです。
恐らくこれは、私のWebサイトを見て、未知の世界であった遺骨収集奉仕活動の実態を知り、自身の心を激しく揺り動かされ、「メールを発信せずにはいられなかった」という心情が、衝動的にキーボードに向かわせたのではないかと推測しているのですが…。
遺骨収集奉仕活動のホームページを見て、本人さえ十分に把握し得ない動機でメールを発信する!。
この心情はもしかしたら私が体験したものと同じようなものかも知れません。
私が遺骨収集奉仕活動に参加するきっかけとなったのは、昭和60年1月NHKテレビにて、「第9回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」がテレビ放映されましたが、それを私も見たのがきっかけでした。
わずかな時間ではありましたが、確かに自分の目で初めて見た、遺骨収集奉仕活動の風景は、見終えてから私の頭を激しく揺さぶったのです。
頭が勝手に回転を始めてしまい、十分な熟睡も出来ないまま翌日の朝を迎え、私自身もよく解らないまま、自分の手が勝手に、受話器を持ち上げていたのでした…(^^;)。
まさしく「受話器を持ち上げずにはいられなかった」のです。
当時はインターネットや電子メールなどは無い時代でしたからね。
このような経緯で、Nさんとメール交換するようになり、今まで十数回やり取りしたでしょうかね。
彼女の子供の頃というのは、親や周囲の人たちから、「糸満近辺は行かんほうがいいよ」とか、言い聞かされたようなのです。糸満や知念村のビンそして喜屋武岬などは、何があっても近寄ってはいけない的な、おふれがあったといいます。
行くなと言われると行きたくなる年頃になると、糸満近郊は格好の肝試しの場所となり、「どこどこの石には人の顔が浮かんで見える(^^;)」とか、「ひめゆりの塔で人影を見た」とかの噂が、同級生の間で駆けめぐっていたようなのですね。
彼女の子供の頃の、そのような外部環境により、「私は学生の頃は、大人たちが沖縄戦について話したがらないという環境もあり、沖縄戦を含めた沖縄の歴史の勉強を、こんなにもしていなかったのかと、今更ながらに知るのです」
「ただ、生まれ育った大好きで、独特の風習を持つ沖縄の、紛れもない歴史をもっと知りたいのです」
なるほど!!。
Nさんの気持ちはよ~~ く 伝わってきました。
という経緯で、ヤマトンチュウの私が、ウチナンチュウのNさんを、南部戦跡へとご案内することとなったのでした~。
へっぽこガイドですが、精一杯エスコートしますからね!。
松永氏と「轟の壕」で待ち合わせ
とは言いつつも、「愛想の良い個人タクシーの運転手さんぐらいに思っておいてね」と逃げの言葉も発しておきました。
しかしそのレベルさえ達成できるか不安だったので、平和学習ガイドの松永氏に「もしもお時間があるようでしたら、これこれこういう経緯ですからガイドして下さ~い」と、一応お願いしておいたので~す。
シーズン中でお忙しそうだったので無理かなと思っていましたが、偶然私たちが南部へ向かう時間帯に、「轟の壕」でガイドしているから、タイミングが合えば合流しようとの連絡を頂いたのです。
ヤッタ! 何という天の配剤。私とNさんは、朝9時に待ち合わせ場所で合流し、最初の見学場所である糸満市にある「轟の壕」へと車を走らせました。
この「轟の壕」は、国道331号線に隣接しており、広くはありませんが乗用車やマイクロバスレベルの車が駐車できる、専用の駐車場も確保されているので安心です。
中学・高校生などが乗ってやってくる大型バスは、交差する県道などに駐車しているのが一般的で、この付近を通る時には、大型観光バスが何台も駐車しているのを見かけた方も多いのではないでしょうかね。
「轟の壕」は、とにかく巨大な壕ですよね。壕の長さは1キロメートル以上に及ぶようです。
戦況の悪化と共に、洞窟には続々と避難民が入ってきたようですね。そして一時沖縄県庁としても機能していました。その時には島田沖縄県知事や荒井警察部長も滞在していたようです。
現在の壕入り口あたりは樹木がうっそうと茂っていますが、沖縄戦当時はこれら樹木は爆風でほとんど吹き飛ばされており、大きな縦穴が空いている状況だったようで、糸満の海が見通せたといいます。
横穴としての壕の入り口は、階段を利用して20メートルぐらい降りないと入れないのですが、とりあえず彼女と共に下まで降りてみる事にしました。
実は彼女は子供の頃からずっと壕という穴に入ったことはほとんど無いとの話でしたよ。そして今でも壕は怖いので入りたくないとの事(^^;)。
怖いから駄目といっても、南部戦跡の巡拝では壕の見学は避けて通れないので、「中へ入らなくとも開口部入り口付近から、中をのぞく程度の事はしてみましょうね」と、事前にお願いをしておきました。
そのような状況ですから階段みたいなスロープを降りて、壕入り口に達すると中へは入らず、壕入り口付近を二人で観察していました。
そしたらちょうど学生達が大勢壕から出て来まして、最後尾には松永氏も居て「上で待ってて!」と私達に声をかけて下さいました。
「ヤッター。ピタリのタイミングですね~」私達は顔を見合わせました。
生徒達を前にして解説を続ける松永氏を右に見ながら、私たち二人は地上部へと階段を上っていきました。
松永氏は地表に出てから駐車場近くのちょっとした広場で、生徒を集め「平和学習」最後の締めの言葉を発するのが習慣のようです。
「米軍による南部での掃討戦では軍民混在のなかで多くの悲劇が発生してしまいましたが、この日の実体験を通して、今ある平和の尊さを実感してほしい。これからも平和な社会を維持していけるかどうかは君達若者の掛かっています。だからこそこれからの社会を背負っていく、君達若者に期待していますよ」
といった内容の話で、松永氏は「平和学習」を終えられました。
「轟(とどろき)の壕」前の広場で
轟(とどろき)の壕内部での「平和学習」を終え地上に出てきて最後の締めの言葉を語る松永氏です。うまく言葉をつなぎ、学生の関心を最後までバッチリ引きつけていました。
糸洲の壕
「轟(とどろき)の壕」の案内を終え一休みしたいところでしょうが、松永氏はそんな雰囲気は微塵も見せず、私とNさんに「時間が許す限り戦跡の案内をしましょうと」語って下さいました。
松永氏もNさんが沖縄県出身である事を知ると、すぐにうち解けて親子のような雰囲気になっていましたね~。
10分ほど自己紹介を含めて会話が続きましたが、松永氏はすぐ近くにある「糸洲の壕(ウッカーガマ)」に立ち寄るよと語りました。
「轟の壕」から国道331号線を3分も走らない場所に「糸洲の壕(ウッカーガマ)」はありました。
ここは大きな駐車場は無く、乗用車がわずかに止められる程度ですから、観光バスで訪ねる場合は少し歩く事になるでしょうね。
「糸洲の壕(ウッカーガマ)」は畑が広がるその一角にありますし、修学旅行生など団体で移動したりすると農道を塞がれたりしますので、過去に地元農民との間で壕を閉鎖するとかしないとかのトラブルが、少なからず発生した経緯があるようなのです。
例えば八重瀬町新城にある「ガラビガマ」なども、畑の部分を通らないと壕の見学が出来ない事から、見学者の増加に伴い、地権者との間でトラブルが発生してしまい、閉鎖に追い込まれてしまいました。
戦跡の公開と維持・管理には、行政も含め多大な苦労が発生すると思われます。戦跡が畑の中にあったりしたら、それは生活する地元の農家の方々にすれば、大きな負担に感ずるのはやむを得ない事だと思います。
南部に散在する戦跡を、これからも末永く「平和学習」の場として教育に生かしていく為にも、地元関係者のご理解を得たりしながら、これからも壕が利用されることを願いたいですね。
国道331号線から脇道に入る場所には、大きな看板が掲示されており、「山部隊第二野戦病院小池隊長最後の地/積徳高女学徒看護隊(糸洲の壕)」と書かれているので、この看板を目印にすれば、誰でもこの壕は探し当てられると思われます。
「轟の壕」が山裾の林の中にあるのと対照的に、こちらは野菜が栽培されている畑の一角に、壕入り口がありましたね。
この壕は地元部落民により、十・十空襲以降から避難壕として使われていましたが、日本軍の戦線後退に伴い、野戦病院壕としても使うようになったようです。
第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として、5月下旬から使われはじめ、学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようですよ。
結局この糸洲壕も6月20日頃に、米軍による馬乗り攻撃を受け、ガス弾や爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃され、重症患者など100名以上の犠牲者が出た模様です。
松永氏の話によりますと、この壕内で陣頭指揮に当たっていた小池隊長は、6月26日の解散命令に際し、私立積徳高女学徒看護隊の生徒に「決して死んではいけない……」と語ったというのです。
後日「糸洲の壕」に関して調べていましたら、松永氏のお話通りの記述が見つかりました。
「沖縄戦の学徒隊」(金城和彦著/日本図書センター)の中に記載されている手記の一部をご紹介させて頂きます。
【沖縄戦の学徒隊】
それから間もなく、壕内に緊張した空気がみなぎり、看護隊に集合の命令があった。
小池隊長は、
「長いこと軍とともに行動していただき本当にご苦労であった。しかし、もはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできない。兵隊は最後まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉強途上にある生徒であり、しかも将来国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。
死ぬことだけが、国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子供があるが、皆さんを見ていると、自分の子供のように思えて、何としても、一緒に死地に連れて行くのは忍び得ない。
皆さんは、他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生きのびて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」
と訓示し、私たち生徒の一人一人の手をしっかり握って、別れを告げられた。少佐の頬は涙で濡れていた。
やがて小池少佐が30分後に自刃されたことを私たちは知った。
それは、壕外に出た友の一人が、忘れ物をしたことに気づき、壕に引き返したとき、すでに割腹して最後を遂げられた少佐の遺体を見たからだ。
壕外は危険であるから、決して団体行動をとらず、いつでも、二三名ぐらいで行動せよ…。という少佐の言葉を守り、私たちは二三名づつ組を作り、十四五分おきに壕を出た。
私は真栄田さん、仲地さんと一緒に、壕の中で拾った一発の手榴弾をしっかり持って、最後の時はこれで自決する決心で、三人固く手を握り合い、死の脱出に向かったのである。
【積徳高等女学校四年生津波古照子さん「手記・うるまの島の夢破れ」の記述部分】
「沖縄戦の学徒隊」から転載させて頂きました
松永氏の話はつづきます。
当初この壕に配属された生徒に対し、驚くことにいろんな理由をつけて50名中25名を家族の元へ帰してしまったというのです。
そして居残った25名の生徒に対しても優しく励ましてくれたり、危険に曝さないようにとの特別の配慮が為された事により、この壕での学徒看護隊員の犠牲者は3名に留まったようなのです。
沖縄にあった女子校は、公立私立を問わず7校すべてが、動員命令の対象になりましたが、私立積徳高等女学校徒看護隊は動員64名のうち犠牲者は4名だけと、他の学徒隊と相対的な比較をしても際だった生存率であったと語ります。
私も南部戦線での掃討戦に於けるただ中にあって、このような軍の対応があったというのを知っただけでも、何かホッとする気持ちになりましたね。
壕内に降りてみると、小川も流れており飲料水には不自由しなかったと思われます。
ただ5月とか6月は台風などによる大雨も多く、腰までに達するような濁流となる事があったそうですよ。真っ暗闇の中で、体力のない人がその濁流に飲み込まれてしまい、死体となって浮いているといった場面もあったようですよ。
また松永氏の話によりますと、食べ物が無く餓死してしまい、冷たくなっていった生後9ヶ月のわが子を、「あとからいくからね」と言って、壕の奥深くの人の居ない場所に置いてこざるを得なかったご家族もあったそうなのです。
聞くに堪えない悲劇が壕内であったようですが、そうした悲劇に対し壕内にとどまる人達の、悲痛なる気持ちを幾分でも緩和してくれたのが、この「壕内の暗さ」だったと松永氏は語ります。
壕の中が「暗いから良かった」「見えないから良かった」と、生還した人達が語ったというのです。視覚的に見えないからこそ、悲痛なる気持ちが、薄められたという事でしょうか…。
そばに死体があっても、その暗闇が無いことにしてくれたという事でしょうかね。
死体の腐臭などは、驚くことに慣れてしまえば、ほとんど気にならないようですよ。ウジが自分の体に付着するようになって、隣に死体があることに気づいたというケースもあったようです。
これらの話は、実際に自ら体験してみないことには、想像だにしない事態ではあります。
ところで松永氏の話によりますと、平和学習で壕内に入りますと「過呼吸」などにより、体調を崩したり倒れたりする生徒さんが少なくないという話です。また、突然泣き出してしまう生徒も時折見受けられるという話です。
引率の先生方が「こんなに静まりかえった生徒達を見たのは初めてだ…。」と語らせるほど、松永氏は壕の中で、まず静寂を要求するのだそうです。
騒ぐことは知っていても、静かにすることを知らない現代の生徒達も、壕の中で懐中電灯を消し、天井から滴るしずくが、「ポターン」「ポターン」と落ちる音だけが聞こえる…。
こうして松永氏のペースにしたうえで、壕という特殊空間の中で、「命の尊さ」を理解してもらえるように話をするのだそうです。
真っ暗闇の中で「ポターン」「ポターン」という音だけを聞きたい方は、すぐに松永氏に電話して下さい。
「………………。(^^;)」
このように非日常的な壕内空間で平和学習をしていると、集団心理故かいろんな事態が発生するそうです。
松永氏によりますと、今までの経験により集団の雰囲気から、どのような経過をたどるかほぼ予測可能との事ですよ。
いずれにしても、スピーチでは固い話しから柔らかい話しまでをバランス良く織り交ぜ、雰囲気をコントロールしながら、より良い「平和学習」の場となるように気を遣っているという話でした。
「糸洲の壕」
畑が広がる一角に「糸洲の壕」入り口があります。駐車場は乗用車レベルでもわずかしか確保されていないので迷惑にならないよう注意したいですね。
「ねずみ取り」ではなく、これは「ハブ取り」のようですよ。沖縄のハブは冬眠の形態はとりますが、二三日暖かい日が続くと動き出すそうですよ~。
「糸洲の壕」の少し入ったところから、入り口方向を見ています。ホースのようなものは、農家が取水しているパイプです。
水上方向を見ています。こちらの方向にも兵隊さん達がたくさん居たそうですよ。この様に水のある壕は全く水の無い壕と比較して生存率が高かったそうです。
下流方向を見ています。水面にブロックが並べられていますが解りますか?。水が少ないときには、そのブロックの上を歩いた方が移動しやすいとの話ですよ。
平和学習ガイドの松永氏と、右は南部戦跡の真実を知りたいと北海道からやってきたNさんです。松永氏にとってはこの壕は「仕事場」ですからね。詳しい情報を持っている事に私達は驚きました。
ちょっとわかりにくいのですが、この窪みは「かまど跡」です。ここでご飯などを炊いたのですね。
地元の避難民が利用した食器などの破片がたくさん放置されてありました。
モニュメントには「この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵、現地召集兵並びに従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」と書かれています。
「糸洲の壕」すぐ横に広がる畑では、トウモロコシの雄穂が展開していましたよ。関東地方の露地栽培では6月に入ってから見られる光景ではないでしょうか。
松永氏は壕について、次のようにも語っていました。
壕は「琉球石灰岩」で出来ており、カルシウムがかなり含まれているとの事。つまり壕内にご遺骨がある場合は、含まれるカルシウムが、その骨を守るといいましょうか、維持する方向に働くとの事です。
那覇空港近くの洞窟で発掘された、「山下洞人」の人骨は3万2千年前、南部の具志頭から出土した「港川原人」の人骨は、1万8千年前のものである事が確認されているそうですよ。
これら太古の骨は、いずれも壕内であったからこそ、これだけ長期に何万年も維持・保存されたという話ですよ。
という事は、沖縄戦が終わってまだ60余年ですから、あと1万年ぐらいは遺骨収集を続けられるなと思いました。
ヨ~シ!!南部戦跡の壕内にある、全てのご遺骨を収集し終えるまで頑張るぞ~。
「壕には怖くて入れない(^^;)から、見学ルートには入れないで欲しい」と、何度も私に語っていたNさんが、ついに「糸洲の壕」に入りましたよ。
壕内はもちろん壕から出てきても、Nさんの顔が青ざめてはいなかったので、聞いてみましたよ~。
「初めて壕に入った感想はいかがでしたか?」
「まず最初に、沖縄戦当時、大勢の人達が命を賭して逃げ隠れしたこの壕内を、観光気分のような気持ちで来たことを、何か申し訳ないような気持ちになりました。
埃っぽくそしてとても圧迫感が強いです。沖縄の5月6月といえば、季節柄蒸して暑かったりもしたでしょう。
周りもよく見えない暗闇の壕の中で、傷ついたり恐怖が常につきまとう状況があったのかと思うと、私には数分だって居たいと思えないこの壕が、どれだけ人々の駆け込み場所であったかと思うと、とても悲しい気持ちになりました。
だからなのか、壕というところは、何よりも沖縄戦当時の人々の心痛さを吸収している場所、悲しみのオーラを放つ場所ではないかと感じました。」
Nさんにとっては、もしかしたら壕内見学は、これが最初で最後になるかもしれません…。ひとりでは決して入れなかったでしょうから、貴重な体験が出来ましたね。
「白梅之塔」
「糸洲の壕」の見学を終えると、私たちは車で10分ほど離れた、糸満市真栄里(まえざと)にある「白梅之塔」にやってまいりました。
林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。
このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。
松永氏の話によりますと、この目の前にある慰霊塔は四代目で、塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとのお話がありました。
この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。
二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。
以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。
解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。
この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。
この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようですよ(^^;)。
「白梅之塔」の右横に壕がありますが、その中で白梅学徒隊は看護活動を行っていたようです。寝泊まりはここから上の方にある壕でしていたとの事。
私達も壕に降りてみましたが、それほど深くなく数メートルほど下がると今度は横へと続いているようなのです。遺骨収集は何度か行われたそうですが、激しい攻撃により沖縄戦当時の底面がかなりの岩石で埋められており、完全に収骨するのは無理があるかもしれないと語っていました。
また松永氏の話では、この壕はもう一方の出入り口があったという証言があるそうですよ。現在はその出入り口がどこにあるのかは不明だそうですが…。
私もいつの日か、その不明の出入り口を探してみたいなと思いました。
壕は横に伸びる途中でポッカリと穴が空いており、地上を見上げる事が出来る場所がありますが、そこは上から顔をのぞかせると、生暖かい風が吹き出ていました。
「白梅之塔」
林に囲まれた静かで清楚なたたずまいの「白梅之塔」の様子です。私も数え切れないぐらい訪れていますが、いつ来ても清掃が行き届いているのには驚かされます。
「白梅之塔」初代の慰霊塔です。現在の慰霊塔の左側に静かにたたずんでいました。これと同じようなイメージの塔が「ひめゆりの塔」や「沖縄師範健児の塔」にもありますよね。
慰霊塔の横には、学徒隊が看護活動を行った壕があります。米軍のガソリンを流し込むなどの馬乗り攻撃により、この壕で職員11名を含む36名の犠牲者が出ました。
壕底部の様子です。それほど広い空間ではないですね。隠れる場所も少なそうです。Nさんはずっと松永氏の説明に聞き入っていました。
壕底部から右奥の方向を見ています。奥へ行けますが高さがあまりなく簡単には行けないようです。
お堂の右側にある壕を上から見た様子です。生暖かい空気が上がってきていました。
「白梅之塔」の納骨堂です。旧厚生省の通達により、ご遺骨は戦没者墓苑に移されたとのことです。
「白梅の塔」の前で記念撮影ですよ(^o^)。ここでも松永氏からたくさんのお話が聞けました。左から「平和学習ガイド」の松永氏、沖縄県出身のNさん、そして私で~す。
八重瀬の第二十四師団第一野戦病院壕
「白梅の塔」見学を終えた段階で、松永氏はもう少し時間があるというので、八重瀬に行こうという話になりました。
これほどあちこち案内してもらえるとは思いもよらないことで、本当に嬉しかったですね。これで、私のNさんへの面目も他力本願ながら立ったかな…。
いずれにしても、私にとっても初めて聞く話が多く、本当に勉強になっています。
八重瀬町の八重瀬嶽中腹にある壕の周辺は、現在は八重瀬公園として整備されており、駐車場やトイレもしっかり設置されており見学しやすい場所になっていますね。
八重瀬嶽は古くは三山時代、八重瀬按司の居城跡であり、現在は桜の名所としても知られており、春には桜祭りが開催される公園でもあります。
国吉から八重瀬嶽を含む東西の防衛ラインは、摩文仁を守る最後の重要な戦線であったらしく、ここ八重瀬一帯も米軍の激しい砲爆撃に曝され、おびただしい数の戦死者が出たと言われています。
八重瀬公園入り口左側にある八重瀬の塔(東風平町字富盛/昭和24年6月建立・昭和43年5月改築)には、戦後富盛の人たちが付近に散乱するご遺骨15,000余柱を集めて祀ってあります。
中腹にある第二十四師団第一野戦病院壕では、「白梅の塔」で紹介した県立第二高等女学校の学徒隊が看護活動を続けていました。
第一野戦病院には、軍医・衛生兵・看護婦など200人以上が配置され、白梅学徒隊46名もその中で、手術の手伝いや看護、汚物の処理、死体埋葬などの作業にあたったのです。
松永氏の話では、この第一野戦病院壕は、琉球石灰岩を掘削して作られた構築壕だという話です。
人工的に掘られた壕は、乾燥して水分を失うと脆くなると言う話ですよ。実際に壁面を指さして説明してくれましたが、壁面の所々が白くなっている部分がありました。
白くなっている部分は、表面が乾燥により水分を失い岩の一部が薄皮を剥ぐように落ちたからだとの事です。確かによく見るとその経過は納得できますね。
構築された病院壕は、上の壕と下の壕と呼ばれる二つの壕があったようですが、下の壕は住宅地などの造成により埋められてしまい、所在そのものは特定出来ない状況だという話です。
八重瀬の第二十四師団第一野戦病院壕を見学して、車を止めてあった駐車場に戻ってくると、時刻も12時を回りました。松永氏は今から那覇空港へ、遺骨収集に参加するKさんを迎えに行かなければならないとの事で、ここでお別れとなります。
松永氏には本当に感謝です(^o^)。思いもよらず、これだけ長時間南部戦跡をご案内いただいて、感謝感激ですよね。
私一人だったら、道案内程度の事しかできなかったのは明白ですからね。心から感謝します。本当にありがとうございました m(_ _)m。
今日の巡拝を改めて振り返ってみますと、松永氏の知識の多さに圧倒されましたね。
全てを暗記する訳にはいかないので、この参加記で多くを紹介する事はままなりませんが、それぞれの見学場所では、沖縄戦に関連する内容を存分にお話しして頂きました。
南部ではそれぞれの壕での出来事が有機的に絡まって、沖縄戦の実相を相互に関連づけてくれたので、よりイメージしやすい形で理解することが出来ました。
松永氏は、陸軍病院看護婦であり、「ひめゆりの塔」にある第三外科壕からの数少ない生存者であった、具志八重さんと知り合った事がきっかけで、遺骨収集奉仕活動や「平和学習ガイド」への道を歩んだそうです。
その流れの中で、平和への希求や沖縄戦を語り継ぐ責務に目覚めたといい、強い使命感を持ってこのお仕事に取り組んでいらっしゃる事が、言葉の端々に露見されていて、そのお気持ちが私達にもよく伝わってまいりました。
聞けば松永氏は、新たな試みとして、平和学習ガイドの後継者育成にも取り組んでいらっしゃる様ですよ。
沖縄戦の悲劇の伝承は、年月の経過と共に困難な事業となりつつありますが、沖縄戦の歴史と悲惨な体験を、風化させず将来へと語り継ぐことが、平和を維持する上での重要なフレームワークになる事は間違いないと思います。
どうぞこれからもお体に気をつけて、平和学習ガイドのお仕事をいつまでも続けて頂きたいと願っています。
八重瀬の第二十四師団第一野戦病院壕
八重瀬公園駐車場からすぐ見える位置に、案内掲示板がありますのですぐ解ります。
病院壕入り口にたたずんで説明をする松永氏と、聞き入るNさんです。壕の長さは50メートルほどです。入ってすぐ右側が手術室となっていたようです。手術を受けるために、このあたりには長い患者の行列が出来たと言います。順番を待つ間に亡くなった方も多かったそうです。
白い部分が最近薄皮が剥げるように崩れ落ちた部分です。人工的に堀った壕は、乾燥するに伴いこのように少しずつ落盤していく宿命にあるようです。
ここは駐車場のすぐ横にありましたが、ご遺骨を収納して岩を積み上げた場所の様ですよ。ガジュマルの気根が大きく育っていますが、中を見るとわずかですがご遺骨を見ることが出来ました。
富盛(ともり)の大獅子
沖縄県出身のNさんが、最も関心を寄せ必ず見たいと語ったのが、この「富盛の石彫大獅子」ですよ(^o^)。
Nさんも、富盛の大獅子の周囲で、日本軍守備隊の動向を探る米兵が複数人いる写真を、まだ字も読めない子供の頃に見たといい、それがとても印象的に脳裏に焼き付いていたといいます。
そしてその写真の大獅子が、富盛に現存しているという事を知ってからというもの、いつかは訪ねてみたいと思っていたそうですよ。
今回その願いが叶って良かったですね。
この富盛の大獅子なら私も何度か訪ねていますので、道に迷うことはありませんからね。松永氏と別れてから、私たちは二人でこの富盛の大獅子を訪ねることにしました。
「富盛の大獅子」がある場所は、八重瀬公園の向かいの小高い丘の上ですから、ここから5分程度しか離れていないんですよ。
富盛の石彫大獅子は、祭祀上の目的で造られ、沖縄県では最古最大のものとして、1974年には沖縄県指定有形文化財に指定されています。
小高い丘の上に設置されている石彫りの大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものだそうです。
何しろ今から320年前に建立されたものだそうですから、その歴史的価値は計り知れないものがありますよね~。
高さは141cm。長さは175cmありますからね。その大きさには驚きですよ。写真も間もなく登場しますからお楽しみに。
日本軍守備隊の南部への撤退そして米軍の侵攻に伴い、大獅子のある高地は奪取され、米軍の軍事拠点とされてしまいました。
火除け大獅子であった為か激しい砲爆撃にもよく耐えて、沖縄戦を守備軍と共に戦い抜いた大獅子は、歴史の生き証人として、沖縄戦の真実を自らの「傷跡」をもって、語り伝えてくれています。
中腹の住宅街を抜けて更に道を上っていくと案内板が現れます。駐車場は無いのですが、道ばたに少し駐車するスペースがありますので、そこに駐車して徒歩で山上を目指します。
目指すと言っても2分程で頂上に到達してしまいます。山上は森林のように樹木が茂っているので、鎮守の森のようになっています。
山頂に登ってみると戦後成長したと思われる木々が生い茂り、沖縄戦当時のはげ山のイメージは全くありません。
そして「富盛の大獅子」とご対面です。
私も何度見ても感激しています。Nさんも念願叶い、初めて見る石彫大獅子に、しばし見とれていましたよ(^o^)。
320年という歳月を経たその年月の重み。
火除けの大獅子として、沖縄の人たちと共にあったこの大獅子。
そして繰り返しますが、沖縄戦を見事に耐え抜いたこの大獅子…。
Nさんも、この力強くキリッと前方を見据える姿。そこに神秘的なパワーを感じ取ったといい、感激していました。
この歴史の重みの持つ荘厳さからか、私たちはここで昼食を食べるのも忘れて、小雨の降る中で「富盛の大獅子」を見つめたり、「沖縄」の行く末について30分以上も立ち話をしたでしょうか~。
富盛の大獅子
沖縄戦の激しい戦火に耐えた「富盛の大獅子」の現在の様子です。下の写真の白い弾痕跡が現在の大獅子の首回りなどにはっきりと同位置に見てとれますね。
沖縄戦当時の「富盛の大獅子」の様子です。大獅子の周囲には八重瀬嶽方面の日本軍守備隊の動向を探る米兵が写されています。
昼食
生まれ育った沖縄が大好きだというNさん(^o^)。一方群馬県生まれですが、沖縄に磁石のように吸い付けられる私…。
こんな二人でしたから、「富盛の大獅子」の横で、沖縄をテーマとした話が弾んでしまいましたね~。
何しろ小雨の降る中で傘もささず、30分以上も立ったまま沖縄の話で盛り上がりましたからね。
「生まれ育った大好きな沖縄のことをもっと知りたい!」。Nさんのこの強い思いが、今日このようにして二人が南部戦跡を巡る出会いを生んだわけですが、長い会話の中で改めて、Nさんの沖縄を愛する気持ちが私にもよく理解できました。
「生まれ育った場所が精神的な原点にある」。それは人それぞれの人柄を表出する、根源となるものではないでしょうか。
これほどまでに生まれ育った郷土を愛せると言うことは、ある意味とても幸せなことではないでしょうか。
精神的にいつでも帰れる場所があるというのは、日常生活の中で「安心」という基盤を私達に与えてくれるもの。Nさんは、素敵なご両親に十分に愛されて育ったのではないでしょうかね。
話が尽きない二人ではありますが、午後一時を経過し、降り始めた雨脚も少しずつ強くなってきたので、昼食をどこかで食べましょうという話になり、富盛の山上を後にしました。
この付近にはドライブインやレストランも見かけないので、糸満市真壁集落内にあり、以前私も訪ねたことのある『茶処 真壁ちなー (ちゃどころ・まかべちなー) 』で昼食を食べることにしました。
この素敵なレストランは真壁集落内にあり、レンタカーにナビがあったとしても、一発ではたどり着けないのではないかと思われるほど、入り組んだ集落内に位置しています。
それもそのはずで、『茶処 真壁ちなー』は店主・金城さんの祖父、金城増太郎氏(元・三和村村長)が、住宅地の中に、明治24年頃に建てた古民家を、飲食店として改造し、平成10年にオープンしたものなんですね。
古民家の外観や内装共に、沖縄の人たちにも郷愁を感じさせるものがあるのではないかと思いますよ。
ここは何度か訪ねていますが、何度行っても最後の最後に一発で行き着けませんね~。
今回も少し道に迷ってしまいましたが、無事に駐車場にたどり着きました。
ところが敷地の門の前に来てびっくり!!。
ガーン。本日は定休日でした~~。(^^;)
水曜日が定休日であることは知りませんでした…。ガックシ。
という訳でNさんには申し訳なかったですが、次なる食べられるお店へと車を走らせることにしました。
摩文仁近辺はレストランなどが少ないのですが、何とか海岸沿いの海の見えるレストランで、無事に昼食を食べることが出来ました。
茶処『真壁ちなー』
明治24年に建てられた古民家は琉球文化の伝統を醸しだし、外観も素敵な雰囲気でしたよ。『茶処 真壁ちなー』を訪ねる方は水曜日は定休日であることをお忘れ無く!。
摩文仁の平和祈念公園
小高い丘の上にあり、太平洋を見渡すことの出来る海岸線沿いにあった、素敵なレストランで昼食を食べ、食休みにしばし会話を楽しんだ後、次の見学場所である摩文仁の平和祈念公園を訪ねてみることにしました。
Nさんは、この平和祈念公園に子供の頃両親に連れられて来たり、学校のイベントなどで訪れているそうですが、「慰霊」という視点では訪れた記憶がないと言う点は、私もびっくりしましたが、子供の頃やってきた摩文仁も大勢の人で賑わっていたといいます。
私は20年以上も前からこの平和祈念公園を訪ねていますが、近年に大きく変貌しましたよね。
2000年には「平和祈念資料館」が新しくリニューアルされ、また1995年大東亜戦争沖縄戦終結50周年を記念して、「平和の礎」が設置されました。
「平和の礎」は国籍や軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で戦死した全犠牲者23万8千人余の氏名が刻まれている事などにより、平和学習の場として注目され訪ねる修学旅行生などが増えたといいます。
実際に太平洋を一望できる「平和の礎」周辺の海岸線は若人でいつも賑わっていますよね。
平和祈念公園
太平洋を一望でき修学旅行生でいつも賑わっている『平和の礎』のメイン通路部分の様子です。
太平洋を望む素晴らしい景観の摩文仁の海岸線! 虹が私たちを迎えてくれました。
虹が「ようこそ(^o^)」と歓迎の意を表するかのように、背後で七色に輝いていましたよ~。Nさんも子供の頃何度か訪れたそうですが、久しぶりの摩文仁がずいぶんと懐かしく感じたようです。
「魂魄の塔」(糸満市字米須/昭和21年2月建立)
Nさんと共に、南部戦跡を巡る旅も今日一日だけ。しかもすでに午後二時を回っている。その限られた時間の中で、慰霊塔を一カ所か二カ所回るとすると…。
一カ所目は迷わず名前が出てきましたよ(^o^)。そう、糸満市米須(こめす)にある『魂魄の塔』です。
沖縄で戦後最初に建立された、慰霊塔だと言われていますよね。
「魂魄の塔」は南部戦跡観光でおなじみの『ひめゆりの塔』から、車で5分ほどのところにある平和創造の森公園内の一角にあります。私は数え切れないほどこの塔に慰霊に来ていますが、Nさんは初めて訪れたという話ですよ。
この平和創造の森公園には複数の慰霊塔が散在していますよね。ここは沖縄本島最南端といえる場所ですが、夏場はすぐ近くの海岸ではサーフィンなどを楽しむ人達で賑わうとの事でした。
沖縄戦後、戦没者の遺骨収集とその埋葬は、反米活動や皇軍主義の復活に繋がると考え、なかなか米軍が許可しませんでしたが、真和志村の村長金城和信氏をはじめ村民の人達は、山野に無数に放置されたご遺骨が、このままではあまりにも哀れだと思い、開墾作業と共にご遺骨を集め続け、その埋葬の許可をも米軍に求め続けました。
そして1946年2月にようやく米軍の許可がおり、35,000柱という沖縄にある慰霊塔では最大規模の戦没者が祀られている、「魂魄の塔」が建立されたのです。
地元の人たちの協力と石とセメントで造られた慰霊塔は、簡素なたたずまいで素朴さを感じさせますよね。「魂魄の塔」の「魂」は「たましい」を、「魄」は浮遊霊の意味だそうですよ。
真和志村の村長金城和信氏ご夫婦は、沖縄戦で2人の愛娘を戦死させてしまった事もあり、この「魂魄の塔」以外に、第3外科壕に「ひめゆりの塔」を、そして摩文仁南斜面に「沖縄師範健児の塔」を建立しました。
いつも生花を販売しているおばちゃんが居るのですが、今日はお休みのようです。とは言っても無人販売形式で、300円を缶の中に投入して生花を購入できようになっていましたよ(^o^)。
生花を両側に飾り立ててから、鎮魂を願い二人で手を合わせました。
それからあまり大きい声では言えませんが「魂魄の塔」の後ろ側には少し陥没した場所がありますが、そこは旧厚生省が昭和54年の法律改正に伴い、地元の反対を押し切り、強制的にご遺骨を掘り起こして、摩文仁の国立戦没者墓苑に移した跡だそうですよ…。大きい声では言えませんが。
「魂魄之塔」
塔前で生花などの販売所があるのは平和祈念公園、ひめゆりの塔以外ではここだけだと思います。今日はおばちゃんはおらず、無人販売となっていましたね。私たちはそれぞれ生花を買い求めました。
付近に散在するまだ衣服などを身につけたご遺骨35,000余柱を集め祀られている「魂魄之塔」です。真和志村の人達が調達困難なセメントと石を組み上げ、沖縄で最初に建立された慰霊塔です。
「梯梧(デイゴ)の塔」(糸満市字伊原/昭和49年6月建立)
糸満市伊原にある「梯梧の塔」は沖縄戦で戦死した私立昭和高等女学校の生徒57名、職員3名が祀られています。
昭和25年8月元校長八巻太一氏及び父兄や同窓生によって、最初は那覇市内崇元寺の校庭跡に建立され校歌にちなんで「梯梧の塔」と命名され、昭和46年6月糸満市字伊原のこのゆかりの地に移されました。
梯梧学徒隊は第六二師団(石5325部隊)に所属し従軍しましたが、戦線の後退に伴い南部に移動しましたが、糸満市字伊原の自然壕で病院解散命令が下された以降、多くの犠牲者を出してしまったのです。
この「梯梧の塔」は、「ひめゆりの塔」に隣接して建立されているのですが、私も相当数訪ねていますが隣地の喧噪をよそに、何時も誰も居ないのが常だったりします。
という事で、「私たちはいつも貴方たちのことを思っていますよ」という気持ちを込めて、今日はNさんと二人で訪れました。
「梯梧之塔」
「白梅の塔」と同じようにいつも静かな「梯梧之塔」です。私たちは貴女方の困難を乗り越え、身を挺しての献身を何時の時も忘れませんからね。
発見されたご遺骨を慰霊する為ジャングルに入る
Nさんは南風原にある南風原文化センターの庭に植えられている「被爆アオギリ二世」を見たいという希望を最初から寄せていたんですよ。
私はそこを順路的に最後の見学地として考えていたので、摩文仁の米須地区にある「梯梧の塔」の慰霊塔巡拝を終えると、いよいよ最後の見学地である、南風原文化センターを目指して、「梯梧の塔」前の駐車場を出発しました。
車中での会話のなかで、遺骨収集の話が出ましたので、色々と私の体験した金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加する経緯や、現在の遺骨収集に関わる収骨状況、そして12日に私と松永氏とで八重瀬町与座で遺骨の探索をした際、ご遺骨を発見した事などを話しました。
そしたらなんとNさんが、私が12日に発見した下あごなどの、ご遺骨を見たいと言ったのです。
驚きました。彼女から私の所へ、昨年の6月にメールが届いてから以降、十数回メールのやり取りをしていますが、彼女はそのメールの中で「私にはとても遺骨収集は出来ません」と、気を遣って早々と宣言していたのです。
世の中には平気でご遺骨に触れる人と、そうでない人が居るといるという事は、私も十分に承知しているところですから、彼女の気持ちも良く理解できましたし、その気持ちを説得により変えようなどという気持ちは、微塵もありませんでした。
ですから、そのNさんが「ご遺骨を見学させて下さい」と語ったのですから、少し驚きましたよね。
おそらく沖縄に来るまでは、「とても私には遺骨収集は出来ない」と強く思い込んでいたのでしょう。しかしこうして、朝から松永氏も交えて南部の戦跡を巡拝し、多くの戦没者の足跡を辿り、沖縄戦の悲劇と実像を知るにつれて、一定の変化が彼女の心の中に現れたものと思われます…。
今ご遺骨を見ようとすれば、見ることが出来るチャンスだ!!。一人ではないし「ぜひ見学させていただこう」、という気持ちになったのだと思います。
彼女にとって、沖縄戦で亡くなったご遺骨を目の前にして慰霊するというのは、これが最初で最後かも知れない…。彼女にしてみれば「この様な機会は二度と無い、勇気を持ってご遺骨に手を合わせてこよう」、という慰霊への発動があったのかもしれません。
そのような考えが頭をよぎった私は、「ご案内しますからぜひ一緒にジャングルに入ってみましょう」と、軽快に答えました。
幸いご遺骨のある場所は近く、道路からおよそ100メートルほど入ったジャングルの中です。なにより比較的平坦な場所ですから、女性でも問題なく到達できると思いますよ。
お出かけはいつもハイヒールという彼女も、私が靴の種類を指定しましたので、しっかり普通の靴を履いて来てくれましたので、足下もバッチリです。
ジャングルの中をゆっくり10分ほど掛けて歩いたでしょうか。ご遺骨に到達する20メートル手前で、勘違いにより角度を間違えて、少し手こずりましたが、無事にご遺骨に到達できました。
ご遺骨を前にして、私の長年の遺骨収集奉仕活動の経験から、沖縄戦当時のこの付近の戦略的な位置づけ、そしてご遺骨の破損状況からの死亡時の様子の見解などを話しました。
彼女は、目の前に横たわるご遺骨が、周囲と驚くほど同化している現実が、とても不思議に感じたといいます。
そして
「この方の人生を思うと、言葉にならない思いです。正直、私の思いを表す言葉が見つかりません…。」と語っていました。
私達は、言葉少なにご遺骨と対面を続け、10分ほど滞在したでしょうか。「そろそろ帰りましょうか」と声を掛け、ご遺骨に手を合わせお別れをして、元来た道無き道を帰っていきました。
再び乗車し発車してから30秒ほど経過した頃でしょうか…。
突然ものすごく強い雨が降ってきました。ホントびっくりしました。
ジャングルの中で雨が降り始めていたら…。
傘を持たない二人はおそらくビッショリと濡れたでしょうね(^^;)。
「涙雨かも。御霊様が、訪ねて来てくれてありがとうって言ってるんだね」
Nさんも同じような感慨を持ったようですよ。
南風原文化センターの「被爆アオギリ二世」
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が広島市に投下され、強烈な熱線と爆風そして放射能により、市街は瞬時に破壊し尽くされ、約14万人もの生命が失われたのです。
緑豊かだった市街の樹木もそのほとんどが焼け焦げ、再び芽吹くことはありませんでした。
だがその破壊し尽くされ生命は根絶されたかに見えた爆心地周辺でも、150本ほどの樹木が新芽を出し、意気消沈する被爆者に生きる希望を与えたと言われています。
被爆アオギリ二世の親木は、広島逓信局の中庭で被爆したそうです。
爆心側は黒く焼けただれ、幹は大きくえぐられてしまいましたが、翌春には奇跡的に新芽を吹き、人々を喜ばせたといいます。
昭和48年4月広島市庁舎改築にあたり、被爆の生き証人として後世に伝えるため広島市に寄贈され、平和記念公園に移植されたのです。
被爆アオギリ2世は、この被爆アオギリの種から育てられたものですから、二世と名付けられたという事だそうです。
ちなみに青桐(アオギリ)は落葉高木で高さは10mから20mに成長し、樹皮は滑らかで緑色、葉がキリに似ている事から青桐の名があるそうです。
沖縄、台湾、インドシナ方面に分布し、乾燥地にも強く潮風や大気汚染にも耐える事から、街路樹などにも利用されるそうです。
松永氏に以前聞いたのですが、「被爆アオギリ二世」は沖縄に三本あり、南風原文化センターの庭と、「ひめゆりの塔」のアプローチ部分、そして本島北部にある国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園の庭と、合計三カ所に植えられているそうです。
Nさんは南風原町(はえばるちょう)にこの「被爆アオギリ二世」が植えられている事を知っており、「平和を願う象徴」として、日本各地を始め世界中に植えられているその木を、自身の目で見ておきたいと語っていたのです。
沖縄訪問の早い段階からこの、「被爆アオギリ二世」を見たいと思っていたそうですよ。
あいにく雨は降り続き、ゆっくりと見学という訳にはいきませんでしたが、沖縄の大地にしっかりと根付いたアオギリ二世君がとても頼もしく思え、私たちも平和への願いを胸に、これからも頑張っていこうと二人でしばし語り合いました。
被爆アオギリ二世
南風原町の南風原文化センターの庭に植えられている「被爆アオギリ二世」です。「平和を願う象徴」として大きな大木へと育って下さいね(^o^)。
Nさんとは、「轟の壕」で松永氏と合流した以降、とても数え切れないほど南部の戦跡を巡ってまいりましたね~。そして最後の締めくくりとして、南風原文化センターの「被爆アオギリ二世」を、見学したという訳です。
本来なら巡ってきた南部戦跡の印象をお聞きしながら、二人で夕食を共にするのが理想なのですが、今夜7時半から那覇教会の林先生と福岡教会の大庭さんと私の三人で、林先生の息子さんが経営するレストランに出向いて、食事をする予定となっていたのでした。
という訳でその旨お伝えて、彼女の実家がある豊見城市内までお送りし、また沖縄でお会いしましょうとの再会を約し別れました。
小心者の私は、別れる前に「今日はいかがでしたか?」と、聞くことも出来ませんでした。わざわざ北海道から訪ねてきて下さったのに、「ちょっと期待はずれでした」と言われるのが怖かったのです~。
Nさんとは、こうして沖縄で戦跡巡りをするまで、メールを通じて十数回連絡を取り合い、意思の疎通を図ったわけですが、ついぞ最後までNさんの希望する全てを把握することは出来ませんでした。
それだけに、戦跡を巡っている間も彼女の意見や希望を聞きつつ、可能な限り満足していただけるように努めもしました。
元来どちらかというと人付き合いが苦手な私ですし、相手が女性となれば更に緊張し…。という事もあって、交通事故さえ起こさなければ良しとするのが、私の精一杯の目標でした。
事前に「愛想の良い個人タクシーの運転手ぐらにい思っておいて下さいね」と伝えてありましたし、幸い交通事故は起こらなかったので良しとしましょう!!。
沖縄に住まう御霊様が、「放って置いたらどうなるか解らん」と、偶然を装い松永氏と合流できるように、取りはからってくれた事に感謝したいですね。
「平和学習ガイド」としてご活躍中の松永氏が、私たち二人をマンツーマンのように、ガイドして下さったのですから、これに勝る戦跡巡りは存在し得ないでしょう。
Nさんはもちろん、長年沖縄に通っている私にとっても、とても新鮮な話が聞けて、感謝感激の時を過ごすことが出来ましたよ。
ここで改めてNさん共々、松永氏に感謝申し上げます。ありがとうございました。
※事後談として、Nさんからメールが来まして、「こんにちは!!先日は、貴重な体験をさせて頂きましてありがとうございました。」という連絡が入りましたので、まずまず楽しんで頂けた様ですから、少しホッとしました~。
Nさん聞いて下さい。
私は妻に「僕の遺灰の一部を沖縄の○○○に散骨してほしい」と伝えてあるのですよ。
妻はその約束をきっと実行してくれる事でしょう。沖縄の大地の一部となって、沖縄の行く末を見守っていきたいからなのです…。
これからも情報交換しながら、より良い沖縄を築くために、そして沖縄の皆さんに幸せになっていただくために、力を合わせて頑張りましょう。
レストラン『Cure Heart』での夕食
このレストランは那覇教会の林先生の息子さんが経営されているんです。
那覇市(なはし)那覇市役所のすぐ隣という好立地にお店があり、レストランの名前は『Healthy Dining Cure heart』( ヘルシーダイニングキュアハート)
「癒食同源」をコンセプトに、"自家栽培のハーブをを添え、低価格で体に優しい野菜をたっぷりと使った手作り料理"が味わえるのです。
店長がご挨拶に来てくれて、「那覇市健康つくり協力店に認定されました」と語っていました。
健康によい野菜料理を中心にして、総摂取カロリーを抑えたヘルシーメニューを提供しているという点が、公的なお墨付きが得られたという理由でしょうかね。
那覇教会の林先生と福岡教会の大庭さん、そして私の三人で会食をさせていただいたわけですが、このような席にお招きいただいたのはこれで三度目でしょうか。
金光教の指導者的な立場にあるお二人ですから、気軽な会話の中にも宗教的な含蓄のある言葉が散りばめられ、試練をくぐられ人格を向上されていった方々の会話を聞くだけで、私の心は大きな刺激を受け、興奮気味の一時を過ごさせていただきました。
林先生からは、当初から携わっている遺骨収集への熱き思いと、摩文仁のゴミ問題についての考え方を聞かせていただきました。大庭さんは泡盛を好んで飲まれたようですが、話題も福岡へ沖縄へと飛び交い、金光教遺骨収集が立ち上がった頃からの、いろんな話を聞かせていただきました。
泡盛などを飲みながらの会食は3時間にも及びましたが、林先生と大庭さんは博多時代からの長いおつきあいがあるという事で、師弟関係にも似て、とても和やかな雰囲気で、注ぎつ注がれつ話は尽きませんでしたね。
食べて飲んで、本当に楽しい一時を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
レストラン『Cure heart』
林先生の息子さんの店長さんが私たちを迎えてくれました。ヘルシーで美味しい料理をたくさん頂きましたよ。ありがとうございました。