平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月11日(月)朝早自宅を出発/海軍司令部壕巡拝
- 2月12日(火)松永氏と二人で八重瀬町与座斜面で遺骨収集
- 2月13日(水)沖縄県出身のNさんと南部戦跡巡拝
- 2月14日(木)単独で摩文仁之丘東端斜面に入り遺骨収集
- 2月15日(金)嘉数高地などを慰霊巡拝、午後は司令部壕調査
- 2月16日(土)第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月17日(日)第35回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 4月03日(木)金光教福岡教会教会長吉木昭弘先生ご逝去
2月14日(木) 単独で摩文仁之丘東端斜面に入り探索
今年は遺骨収集関連で一週間沖縄に滞在しますが、全てのスケジュールを確定するような事はせず、ある程度柔軟性を持たせて、日々の予定行動を組み上げていきます。
遺骨収集が主たる目的であることは確かですから、出来るだけ遺骨収集の日数を増やすように努力はしていますが、「雨の日は遺骨収集は行わない」などの決まり事を自分に課していますから、「その日のスケジュールは天候による」、というのが沖縄での過ごし方と言うことになりますね。
その遺骨収集では、単独で摩文仁ジャングルに入る場合もあります。その場合は、確実に安全を確保する観点から、一定の原則とルールを自分自身に課しています。単独でジャングルに入られる方は参考にして下さいませ。
・まず最初に「無事に下山出来ますように」と、神様にお願いする。(^^;)
・前日はもちろん、その日の朝の天気予報を確実に確認する。
・夜間雨が降り続いた場合は、雨が止んでから1時間程度は遺骨収集を行わない。
・途中から雨が降ったら通り雨かどうかを見極めるため小休止してから再行動する。
・ジャングル内の急な斜面では、クマデを用いた遺骨収集作業をしない。
・ジャングル内で集中的に取り組む前進・探索は3時まで。以降は出口に向かう。
・暑いと思えるような日は、湿地での遺骨収集は行わない。(ハブ対策)
・笛は取り出してすぐ吹けるように胸ポケットに入れておく。
・水を一本余分に持つ。1日分の乾燥保存食をリュックサックに入れておく。
・位置関係を見失ったら、慌てずに元の場所に戻る努力をする。
・北を指すコンパス(磁石)は、予備を一個リュックサックに入れておく。
・ハブ対策として、足首に脚絆を、手袋は革製で手首まで被覆する長手袋を使用。
・壕に入る場合、リュックサックを背負って持ち込まない。必ず壕外に置く。
・壕に入る場合、リュックサックに5m程のピンクテープを張っておく。
・壕は開口部の直径にもよりますが、原則10m以上奥へ入らない。
・壕に入る場合は、上着の胸ポケットに予備の懐中電灯を入れておく。
・壕内ではガス・酸欠事故リスクを下げるため、出来るだけゆっくり前進する。
・壕内では臭気とか、目がチカチカするとか、脳の違和感等に敏感に反応する。
・壕内の前進では、異常を感じたらすぐに引き返す。
・壕内で転倒したら命取りとなるので、足下をしっかり確認しながら前進する。
これ以外にも細かい事がここに記載した三倍はありますが、このへんで止めておきます(^^;)。
要は「無理をしない」「準備は万全に」これに尽きます。そうすれば安全は十分に確保されるはずですよ。それに最後の最後には、摩文仁に住まう御霊様が、手を差し伸べてくれるはず…。
今日の天候は「晴れ時々曇り」、と言うことで雨の心配は無し!!
安心して遺骨収集が出来そうですから、今日は当初の予定通り単独で摩文仁入り、遺骨収集をする事と相成りました。
いつものように7時50分頃ホテルを出発し、一路摩文仁に向け車を走らせました。
カーナビを利用しているものですから、なかなか道を覚えきれないのですが、那覇及び周辺部はともかく、南部に近づくほど道路網は単純になりますから、摩文仁周辺部はナビ無しでも問題ないですね。
摩文仁まであと2キロぐらいのところでしょうか?。
道路に猫らしき動物が、車にひかれて死んでいたのです。
50メートルほど走ったところで車を止め、駆け寄って確認しましたら、やはり死骸は猫でした。
死んでからまだわずかなのか、血でベットリと濡れてはいましたが、姿形ははっきりしていました。「おそらく昨夜だな…。」
私達は日常生活の中で車を運転していて、このように犬や猫その他の動物が、車に引かれて死んでいるのをよく見かけます。
車を運転するほとんどの人が、「アッ猫が車に引かれて死んでいる。可哀想だな…。」と思いつつも、そのまま走り去るのが普通ですよね。
ところがところが、私の場合は少し違っているのですよ。
よほど急いでいる場合を除き、ほとんど例外なく車を止め、死骸に手を差し伸べる事になるのです。
犬や猫が車に引かれて死んでしまうということ自体、飼い主にとってはとても悲しい出来事です。我が家にも妻が持ち帰った捨て猫が二匹いますが、もしも突然交通事故で亡くなったら…。
おそらく妻と共に涙を流すことになるでしょう…。
そんな可哀想な死に方をした猫が、何時までも車のタイヤに引かれ続け、煎餅のようになってしまうのは更に悲劇的ですよね。
「全ての生命は土に帰るべき」という確固たる考えが私にはありますので、どうしても安易に走り去る事が出来ず、車を停止させ死骸を道路脇の土の部分に移動させたりするなど、「適切な処置」をする事になります。
皆様には信じられないかもしれませんが、私が若い頃は、車に小さなスコップまで積んでおいて、死骸を見つけたら、路肩の土の部分を掘って埋めていたのです。
いつ遭遇するかもしれない死んだ犬猫を、土に埋める為だけの目的で、「スコップ」を車に常に積んでおくなんて…。とても信じられない話ですよね~。
本人である私も、なぜそのようになってしまったのか理由はよく解らないのですが、可哀想という気持ちが変な方向に突っ走ってしまったのでしょうか。(笑)。
現在は車にスコップは積んではいません。ある時から、「これはまずい」と気づいたからです。
犬や猫が、車に引かれて死んでしまって家に帰らなかったら、飼い主は心配して必死に捜すはず!。
それなのに、死骸を見つけた私がサッサと土に埋めてしまっては…。
そうなんです。飼い主は生きていると信じて、来る日も来る日も探し続ける事になってしまいますよね。
例えば、私が埋めてしまった死骸の横を、飼い主が探し歩いて通るかもしれません。
そこで考えついたのが、次のような二案でした(^o^)。
・犬猫が死んで間もない場合は、車のタイヤに引かれ続けないように死骸を路肩に寄せる。
・死んでから日数が経過し、顔や毛色などの損耗が激しい場合、路肩の土の部分に移動する。
いかがでしょうか~。
これなら、犬猫の死骸がいつまでもタイヤに引かれ続けることもありませんし、捜している飼い主に、発見してもらえる可能性も保持できますよね。
そして何より動物といえども、生命としての尊厳を、最低限ではあっても何とか守ってやることが出来ます。
更に素晴らしい点は、土の部分に置けば他の昆虫や動物の餌になったり、最終的には植物の肥料になったりしますから、しっかりと生命連鎖の輪の中に収まる事が可能となりますので、悲しむべき不慮の死ではあっても、最後までしっかりと、他の生命のお役に立てるわけですよね(^o^)。
道路上で死んでいた犬猫はもちろん、モグラ・ハト・ガマガエル・カエル・ヘビ・イタチ?などなどを、今までに300匹以上は、上記方針で対応してやりましたよ。犬や猫などは血にまみれている場合が多いですが、その死んだ時の重い事にはビックリしますね。
また、雨上がりに道路上にミミズが出てしまい、苦しんでいるのをよく見かけますが、そのミミズ君たちについても、よほど急ぎの用事のない限り、ミミズを拾って草地に帰してやるんです。
今までに路上で苦しんでいるミミズを、草地に帰してやった数は、もちろん厳密に数えたことはありませんが、低く見積もっても二千匹に達すると思います。
もちろん、このミミズ君たちの救出数は、現在でも日々増え続けていますよ。
私がこの年になるまで、大きな病気や事故が全く無かったのは、「二千匹のミミズ様のおかげだ」と、日々実感していますよ~。(笑)
単独で摩文仁資料館東側で遺骨収集
「路上で犬猫の死骸を見つけた場合の対処法」、という講習会みたいになってしまいましたが、気持ちを切り替え、本文を遺骨収集作業に切り替えませう。
今日の探索場所は、平和記念公園内にある資料館の、東側に展開する「アダンの森」です。
ですから、範囲も非常に狭いですし、道に迷う可能性もほぼ無いといっても過言ではありません。もちろん、携帯電話の受信電波も三本立つと思われます。
ただ問題は、アダンが見事に生い茂っているという点だけです。最もそれが一番の問題なのですが…。
地元の(元)お嬢さん達
花売りのおばさん達も私を覚えて下さったようで、笑顔で挨拶を交わすようになりました。いつも心配と激励、ありがとうございます。
「沖縄工業健児之塔」
花売りおばさんのところで、雑談も交えて生花を買い求めた後、資料館の横を通り抜け、「沖縄工業健児之塔」の前にやってまいりました。
今日の探索は、この「沖縄工業健児之塔」が起点となりますので、学徒隊のご安心と今日の作業の無事を願って、献花し手を合わせました。
この「沖縄工業健児之塔」も男女学徒隊を祀る慰霊塔の一つです。
県立工業高校は首里にあったこともあり、早い段階の昭和19年6月には、すでに陣地作りなどに動員されていたのですね。
沖縄守備軍は首里城の地下に司令部を置いていましたが、当初は南風原の津嘉山(つかざん)を主陣地として、築城を進めていた事もあり、小禄や南風原での、築城作業や砲陣地作りに従事する事が多かったようです。
数多い学徒隊の中で、最も多い犠牲者を出してしまった理由は、軍の要請により適性検査に合格した107名の生徒が、通信隊員として軍と共に、前線で行動したからだと言われています。
5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、各通信部隊に配属された県立工業高校・鉄血勤皇隊の生徒も摩文仁へと転進していきました。
昭和20年6月19日摩文仁の所属部隊は、完全に米軍に包囲された事により、その日の夜敵陣に学徒隊も含め全員突入し、壮烈な最期を遂げたのです…。
「沖縄工業健児之塔」
沖縄工業学校・鉄血勤皇隊戦死者を祀る「沖縄工業健児之塔」です。資料館のすぐ横に位置し、デイゴの木に囲まれ太平洋を望むロケーションに慰霊塔はありました。
通信隊員として軍と共に行動を共にしたことから、学徒隊の中で最も多い犠牲者が出ました。7本の柱は互いに繋がって協力を意味し、塔上部の三羽の鳩は平和への希求を象徴しているという。
入り口にある解説板です。「沖縄工業健児之塔」は昭和37年に建立されました。
アダンと戦う!!!
これから探索しようとしている資料館東側は、アダンがビッシリと茂ったところなのです。「いや、ここは誰かがアダンを栽培しているのだ」、そう思えたりもします(^^;)。
遺骨収集を、このアダンの茂みの中で行った経験のある方ならご存じのように、とにかく「痛い」のです(^^;)。薄手のものなら上着さえ切り裂いてしまうかもしれませんよ。
誰もが敬遠する、このアダン!!。
ここは崖に面し日当たりは抜群だが、強い風が吹きつける為か岩肌が剥き出たこの荒れ地は、人間だけでなく他の植物も敬遠する不毛の地だ。ライバルの居ないそうした不毛の地に、頑健なアダンは好んで根を張るようです。
アダンは、「阿檀」とも書き、タコノキ科の常緑高木で方言名は「アダニ」とか「アザキ」と呼ぶらしいです。
戦記本にも「アダンの茂みに身を隠した」といった表現がよく登場しますよね。アダンは強い日陰を作るので、隠れるにはもってこいの場所だったのでしょう。
砲弾の破片や爆風から、ある程度は防いでくれたのではないでしょうかね。沖縄戦では多くの生命を守ってくれた、感謝すべき植物でもあります。
2006年には、東京の若者4名がWebサイトで沖縄遺骨収集を知り、私のところにメールを下さって、一緒に摩文仁で遺骨収集を行いました。
その経緯は2006年の遺骨収集参加記に記載されていますのでご覧下さいませ。
その時に、沖縄で合流する前に若者達にメールで、ご遺骨を見つけるポイントを書き送ったのです。
◆ ご遺骨の発見率を向上させる為の重要ポイント
1,遺骨収集に数多く参加する。
2,楽なコースを歩かない。
3,逃げまどう日本兵や避難民になりきる。
4,終戦当時の地形をイメージする。
以上の四点を提示したのです。
(詳しい解説は2006年の2月17日の遺骨収集をご覧下さい)
今日このアダンの生い茂る場所で探索する理由は、2番の「楽なコースを歩かない」に該当します。
ここ摩文仁においては、平坦で歩きやすい場所は、何度も何度も誰かが探し歩いているのです。そうした、道が出来てしまっているような安易な場所を探したところで、ご遺骨は発見できるものではありません。
アダンがビッシリと生い茂るこの場所こそ、誰も入ったことが無いのでは…と、思えるのです。
「いつか思いきって入ってみよう」と、何年も前からその気持ちを育んできたのでした。
アダンアダンそしてアダン
アダンとの挑戦の日がついにやって来た!。侵入を拒むかのように繁茂し立ちはだかるアダン。負けてなるものか。 (^^;)
これは茎なのか根なのか?。どっちでもよいが、この下に潜らなければ遺骨収集にはならないのだ。
葉は年々歳々枯れ落ちて地表を覆う。その堆積が水分の少ない場所でも生きていける原因か?。
大株に育ったアダンの株元の内部の様子です。強い日陰を作り出すアダンは「最初に移住してきたものが勝ち!」という事かな。
「どこから手をつけようか(^^;)」
入ってもすぐに縦横に茂る茎なのか根なのか良くわからないのですが、行く手を阻むのですぐ意気消沈。だめですね。弱気になるとすぐに跳ね返されてしまいます。
そんな事を何度か繰り返して、事が一向に進まないので、一度公園内の芝地を歩きながら全体を俯瞰してみました。
芝地から見える範囲、およそ幅100メートルぐらいですが、そのいずれの場所もアダンがビッシリと繁茂しているので、どこから入っても困難さは同じようなものという事が解りましたので、西側端から順次東側に進んでいこうという結論に達しました。
そうして思い切って「沖縄工業健児の塔」の角から、ついに入っていきましたよ。さあ、戦いの火ぶたは切って落とされたのです!!。
アダンの生い茂るこの場所こそ大穴の場所だ!。もしかしたら、誰も入ったことは無いかも知れない!。だとすれば、ご遺骨が数え切れないほど発見できる可能性が高いのだ!。
「抱えきれないほど、ご遺骨が見つかったらどうしよう…。」
夢は膨らむ一方です(^o^)。
繁茂する「アダン畑」に入って探索
「敵情偵察」アダンの木に登り、全体を俯瞰してみました。見ない方が良かったかな。2月中旬なのに、もうこんなに新芽が展開しているのですね。
散兵壕でしょうか?明らかに砲弾よけの塹壕のように岩を組み上げていますね。
当初全く気づきませんでしたが、繁茂するアダンの下には谷と呼ぶべき岩の亀裂が走っています。中央部分のちょっと窪んだ部分は谷になっており、気をつけないと落ちてしまいます。
谷は浅いところが多いですが、このように深くなっている部分も少なくありませんでした。
谷底にはロープ無しでは降りられないような、急激に落ちている場所もあります。谷底の深いところは10メートル以上はありますね。気をつけないと落ちたら大変です。
探索活動を開始してから2時間ほど経過しましたが、大いなる夢はまだ実現していません。
ご遺骨はもちろん、遺品さえも全く目にする事が出来ず、時間だけが容赦なく過ぎ去っていきます。
萎える気持ちを元気づけながら、相変わらず繁茂するアダンの底に潜り込み、膝をついて前進を続けています。茎なのか根なのか、良くわからないのですが、それらを超えたり潜ったりしながらの作業ですから、結構疲れますよね。
服装はアダン対策で、バッチリ着込んでいますので全く問題ないし、手袋も手首部分もカバーできる長い革の手袋ですから、顔さえ傷つけないように気をつければ、擦り傷切り傷は防げています。
想像以上に落ち葉と言いましょうか、アダンの葉などが堆積していて地表を覆っていますね~。これは意外でしたよ。これだけ腐葉土みたいに落ち葉が堆積していると、ご遺骨も速いペースで土に帰ってしまう可能性を感じます。
腐葉土の堆積も意外でしたが、更にここには岩の亀裂が一本の線のようにずっと西から東に走っていることが解りました。
比較的幅は狭く1メートルから2メートル程度ですが、深さは人間の高さほどから10メートル以上深いのではないかと思えるような場所も少なくありません。おまけに、切り立っておりロープ無しでは降りられないようなところも散見されます。
結果的にこの切り立った谷は、東西100メートル以上連続的に連なっていることが判明しました。
沖縄戦当時の日本軍将兵はロープを持って移動していないし、ロッククライミングの登攀訓練を経験している訳ではないので、ロープを使わなければ降りられない部分については、日本軍将兵も落っこちない限り居ないだろうと考えパスする事にしました。
比較的浅い部分については今回探索をしましたが、10メートルもあろうかと思えるような谷底については今回は探索せず、ここは後で是非調査すべきと感じた場所についてはマーキングして、金光教の遺骨収集の時に、複数人で調査して見る事としました。
最終的にそのような「要調査」の場所が、三カ所ほど見つかりました。
12時をまわり、そろそろお昼ご飯でも食べようかなと思う頃となってきた時に、ちょっと体に異変が起きてきました。
「なんか変だな(^^;)」
気持ちが辛いし、力が入らない…。
立ってみてビックリしました。膝がガクガク震えているのです…。
私はマラソンランナーでもあるので、すぐにピンと来るものがありました。フルマラソンで言えば、35キロ過ぎに急激に失速した時とそっくりの症状なんです。
「グリコーゲンを使い果たしたな…」
頭はボーとするし、相変わらず膝の震えが止まりません。
集中力は急速に萎え、気持ちがジャングルから出ようという方向に傾いてしまいました。
遺骨収集で最も危険なのは、方向を見失いパニックになる事と、集中力を欠く事なのです。
「これ以上続けると危ない!とにかく出よう」
芝地まで出て歩いてみると、フラフラとしてまっすぐ歩けません。誰かが見ていたら、幽霊が歩いているように見えたかも知れませんよ(^^;)。
「このアダンの中は誰も探してないはず。だからきっとご遺骨は見つかるはずだ!」
この強い確信が、想像以上に強い集中力を継続させてしまったようです。
「とにかくお昼ご飯を食べよう」
午後はどうするか、食べた後の状況で判断しようという事で、公園内のちょっとした高台にある休憩所に向かい、そこで昼食を食べることにしました。
休憩所からの展望
ここは屋根付きの休憩所です。ここでお昼ご飯&食休みをしましたよ。写真前方のアダンの茂みで探索活動を行いました。非常に範囲が狭いことが解りますね。
昼食を食べたあと、携帯電話の目覚まし機能を利用して、30分はしっかりと横になり目を閉じました。
その後起き上がり暖機運転を兼ねて、アダンの茂る崖下の様子を見に行ってきました。資料館横からスロープのように下っているので容易に回り込むことが出来ました。
スロープを降りきると、そこはお墓が数基点在していました。沖縄独特の亀甲墓という事ではなく、崖面を少しくり抜いたり石を積み上げて、お墓を形作っていました。
お墓のあるこの崖面は、そのままずっと東側に延びていて、崖が続いているようです。
来年以降またここからジャングルに入って遺骨収集するかもしれませんからね。入りやすい場所や、ジャングルの地形などの様子を、しばし観察し元来た道を帰っていきました。
崖下の様子
(食休み後、暖機運転を兼ねて崖下を歩いてみました)
スロープのように降りてこられるこの場所は、歴史あるお墓が数基設置されていました。
弾痕の穴や被弾した様子もないことから、戦後修復されたお墓かもしれませんね。
疲れたので情報収集に専念しました
30分しっかりと休憩し、暖機運転までしたのに、一向に集中力が高まってきません…。
フルマラソンでも一度失速してしまうと、どれほど食べたり飲んだりしても、レース中には回復しませんからね。当然と言えば当然の結末です。
ここまで追い込んでしまったのは失敗だったなと思いつつ、集中力を必須とする探索活動は、これでお終いにしようと決めました。
このまま帰るには時間的に早すぎますので、来年以降のことを考えて、ここより東側の海岸線がどのようになっているのか、調査のため歩いてみることにしました。平和祈念公園東端から東側は、かつて一度も探索したことがないので、ちょっと楽しみです。
平和祈念公園から園外に出て、そのまま崖の端部付近を東側へと歩いていくと、サトウキビ畑があったり、耕作放棄地かな?と思えるような、なんだかよく解らない藪を超えて、道に出たり草地を歩いたりと…。
人間の生活空間なのか、原初の荒野なのか良くわからないところを歩くのは楽しいですよ。(笑)
ここいらも摩文仁からそれほど離れてはいないので、沖縄戦当時は砲爆撃で岩肌の剥き出た荒れ地と化していたものと思われます。現在を見るのではなく、当時に思いを馳せながら、木々をかき分けて歩みを進めてみました。
平和祈念公園にある資料館から、700~800メートルほど離れた場所の崖上に来たでしょうか。平和祈念公園を遠くから一望できるところに出ました。
素晴らしい景観ですね~(^o^)。この方角から摩文仁を見通したのは初めての経験ですよ。
太平洋は一望できるし、摩文仁さえも遠くにかすむようで、いつまでも見つめていたい素晴らしい景観ですが、崖下を見てビックリしました。
急峻な崖が連続した絶壁となっているのでした…。
「そうか!米兵が名付けたシューサイドクリフ(自殺の断崖)とはここだったのか…。」
沖縄戦時、そのような呼び名がついたというのですから、飛び降りた人達は5人や10人では無いでしょう。100人とか200人という単位の人達が、ここから身を投げたのではないでしょうか…。
そして飛び降りたのは、沖縄県民である婦女子が多かったであろうというのは、容易に想像できますよね。しばし崖下に向かって手を合わせました。
米兵らは「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼んだ
資料館から700メートル程度離れている場所から撮影しました(※望遠側で撮影)。海岸までが二段になっているのがお解りになるでしょうか。摩文仁からはスロープみたい降りられますが、崖はこちらに来るほど急峻になっています。
手前側の崖は相当な高さとなっていますよね。落ちたら確実に死にますね。この撮影ポイントは更にすごい崖なのですが、自分が居る場所なのでお見せできません。
「ここから飛び降りたら確実に死ぬな」そんな高低差の大きい急峻な崖です。そうなんです。崖のあるこの海岸線を米兵らは「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼んだのです。
資料館から800メートル程度離れている場所から撮影しました(※望遠側で撮影)。遺骨収集の視点で見ると、降り口が無く一度ジャングルに入ると終日出られそうにありませんね。
「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」という言葉で思い起こされるのはサイパンですよね。
昭和197月5日、サイパンの海陸軍合同司令部は、「我等玉砕以て太平洋の防波堤たらんとす」、との最後の訣別文を大本営に向け打電し、7月7日サイパン守備部隊の残存兵力3000人は、バンザイ突撃を敢行し壮烈な最期を遂げたのです。
守備軍の玉砕に伴い、これ以降在留邦人もまた北部へと、沖縄県民と同じように追い詰めらたのでした。
北マリアナ諸島サイパン島最北端に、「バンザイ・クリフ」と呼ばれる断崖があります。正式な名は「マッピ岬」と呼ぶようですが、多くの自決者が「天皇陛下、万歳」と叫び両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになったそうです。
身を投げた人達は1万人以上にのぼるとも言われていており、海は血で真っ赤に染まったそうです。
またサイパンにあるマッピ山(標高250メートル)の断崖からも、多くの人達が身を投げたようです。
その場所は落差80メートルあるらしく、観光に訪れた人の話によりますと、そこに立ったら足が震えてくるそうですよ。その崖も同じく戦後は、「スーサイドクリフ」と呼ばれるようになったのです。
大東亜戦争における有数の激戦地サイパン島を、天皇・皇后両陛下は戦後60年の節目に「慰霊訪問」され、「バンザイ・クリフ」で献花されました。
この太平洋を一望できる崖上は、木本類はあまり見られず、草原のような雰囲気です。沖縄戦を思考から外してこの地に立てば、遠くに摩文仁之丘も一望でき、本当に素晴らしい景観ですね~。
心豊かな気持ちで崖上の草地を東側に向かって歩いていると、またしてもガックリさせられる光景に出会ってしまったのです。
この付近でも大量の生活ゴミが、崖下に向かって投棄されたようなのです。
ゴミや腐葉土などで崖の部分が柔らかくなっている関係で、撮影は困難でしたが、大量の生活ゴミが崖下に見えます。
崖上の様子をしばらく丹念に調べましたら、現在はこの場所から150メートル手前までしか車は乗り入れできないように、コンクリート製の遮蔽物が設置されていますが、一昔前まではどうやらこの崖の部分まで車の乗り入れが可能だったようですよ。
あまりのゴミの不法投棄に、行政が動いて容易にゴミを捨てられないように対応したものと思われます。実際に現存するゴミも、最近捨てられたという雰囲気ではなく、過去に捨てられたという雰囲気となっています。
摩文仁一帯は緑豊かな場所ではありますが、一皮むけば「ゴミに埋もれた地」と呼ばずにはいられない、悲しい事態となっているのですね。
それにしても、多くの沖縄県民が身を投げたこの崖上から、今度は生活ゴミを投げ込むなんて…。
足下が不安定なので片手はしっかりと木本類に捉まっていないと危険なので撮影は出来ませんでしたが、写真奥の崖から下に大量の生活ゴミが投げ捨てられていました。ここは周辺と比較して目立ちにくい場所にあります。この様な場所を選んで投げ捨てたと推測されます。
更に東へと歩みを進め、出来る限り崖よりに歩くことを心がけましたが、一部木本類が繁茂していたり、民間の所有地だったりして近づけないので、その場合は道路を進んだりしながら「東部上水道水源地」というところまでやってまいりました。
ここは摩文仁資料館から東側へ、およそ1キロほど離れた場所に位置します。
水源地と呼ぶからには水があるという事になりますが、摩文仁や与座には雨水を保水するような山がないのにどうして…。と訝しく思いましたが、実際に大量に水が海岸に向け排出されているのです。
「この水は上水の余った水という事だろうか…。」
いずれにしても周辺部には川は無く、湧き水を上水に利用しているようですね。
私の性格からして、どこから水が湧き出しているのかよく調べたいところですが、水源の調査はそれくらいにして(^^;)、水源地構築物の周りをウロウロしていると、海岸まで降りられる階段が見えてきました。
階段から降りてみることにしました。30メートルほど降りるともう海岸に出てしまいました。
海岸でウエットスーツに身を包み、漁の準備をしている地元の男性が居たので、色々と話を伺いましたが、タコ漁に来ているという事でした。
階段を下りて海岸に出てみると、残念ながら山の陰となって摩文仁方面は見通せませんでした。
ここから摩文仁まではおよそ1キロあります。断定は出来ませんが、もしかしたらこの間には崖下に降りられる場所は無いかもしれません。
「これはえらいこっちゃ」と思いました。
たった1キロ。私が競技場で走れば4分もかかりませんが、海岸線のジャングルを歩くとなれば…。もしかしたら、遺骨収集せずまっすぐ歩くだけでも2時間近く必要とするかもしれません。
朝立ち寄った「沖縄工業健児の塔」から、一気に海岸線に降りるルートは私も把握していますのですが、出来ればこの間に一カ所降り口を見つけ、500メートル単位に分割しないと、遺骨収集も容易でないなと感じました。
もちろん、この1キロの間を金光教の遺骨収集奉仕活動では何度も入っています。ここから東側に展開する「ザ・サザンリンクスゴルフクラブ」の海岸線も、何度も何度も探索したという話を伺っています。
これらの海岸線はかなり勾配もきつく、相当な困難が伴ったなというのが実感ですよね。怪我人が出たという話も聞きませんでしたから、これらの場所でも幸いにトラブル無しで作業が終了しているようです。
しばし海岸で給水しながら休みをとりましたが、また摩文仁に向け帰ることにしました。
同じ道を通らないのが私の流儀。なぜなら二度新鮮な体験が出来ますからね。なるたけ違う道を通るようにして帰りました。
ここは「東部上水道水源地」か降り立ったら海岸です。摩文仁方面は見通せませんでしたが、この付近は崖も高くなく勾配も緩いようです。
南部に展開する畑です。畑の単位はかなり広くとっていますが、ごく最近基盤整備をしたのか土は良くないですね~。 (^^;)。
石灰を散布する必要はないでしょうが、有機物の不在を感じますね。よく目をこらすと、ヒビが入っているのが見えます。この付近での農業の困難さが目に浮かびますね。
。再び平和祈念公園に戻ってまいりました(^o^)。公園はここまでで、この先は民有地となっています。道路の両脇にはサトウキビ畑が広がっていますね
平和祈念公園の東側海岸線をずっと見てまわりましたが、これらは全て初めての経験でした。長年金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加していますが、偶然だとは思いますが不思議と入ったことがありませんでしたね。
その意味で今回海岸線の状況と地形を読むことが出来ましたので、とても有用な時を過ごすことが出来ました。
この日の経験が、いつの日か役立つ事になるかもしれません。見てまわった風景をしっかりと頭に焼き付けておきたいと思います。
さて!再び資料館横に戻ってまいりましたが、この段階で再びジャングルに入るわけにもいかないし、4時を過ぎたとはいえ沖縄はまだまだ明るいので、この際に帰り道の途中にある、昨年一般公開が開始された「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」を見学してみる事にしました。
ただ20号壕は予約制となっているはずですから、もしかしたら予約無しでは見学を断られるかもしれませんが、その場合でも壕入り口付近を観察したり、パンフレットをもらってくるだけでも良いと思ったのです。
「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」を見学
南風原(はえばる)は戦前から今日に至るまで、首里・那覇と島尻を結ぶ交通の要でした。
現在の沖縄にはモノレール以外の鉄道はありませんが、戦前は南風原に沖縄県鉄道(軽便鉄道)の与那原線と糸満線が乗り入れていたのですね。
南風原の地理的な有用性を第32軍も注目し、昭和19年(1944年)3月に編成された沖縄守備軍である第32軍の司令部も、南風原の西側に位置する津嘉山に構築されたのです。
突貫工事で進められた地下壕は総延長2キロメートルにも及び、天井や床には板がはめ込まれ、発電機による電灯設備も整い、まるで地下要塞であったといいます。
津嘉山を軍の拠点として一帯に各部隊を配置し整備を進めていた第32軍ですが、南部に布陣していた第9師団が同年12月に台湾に転進したため、第32軍は補充無しの主要部隊の転進に衝撃を受け、「戦略持久の方針」に切り替えざるを得なくなり、首里の地下に司令部壕を移すという決定が為されたようです。
また昭和19年「十・十空襲」と呼ばれる、米軍軍機延べ1396機による激しい空爆により、旧那覇市街の90%が焼失し、飛行場や港湾施設などが壊滅的に破壊され、また県民の1月分の食糧30万の米俵を失ったりもしました。(米軍によるこの無差別爆撃は、完全に国際法に違反しており激しく非難されるべきものです)
この十・十空襲大空襲により、米軍の砲爆撃の破壊力の凄さを知り、津嘉山の様な土をくり抜いた壕では、爆撃に耐えられないと判断した事も、司令部を首里に移転する決定を下した要因ともなったようなのです。
第32軍司令部は首里に移転しましたが、予想される米軍の上陸地点が中部か港川のどちらであっても、南風原の兵站基地としての利便性は変わらないので、南風原の各地に糧秣・兵器敞部隊や陸軍病院の各部隊が駐屯しました。
沖縄陸軍病院は第32軍の直属の病院部隊として、昭和19年6月に那覇にて編成されました。
十・十空襲により那覇市内が壊滅的な被害を受けたことから、その日の夜南風原の国民学校に移動してきました。
20年3月には沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒ら222名が教師18名に引率されて、看護補助要因として沖縄陸軍病院に動員されました。
4月1日沖縄本島に米軍が上陸し、地上戦が開始されると、負傷者が急増し次々と運び込まれ、外科を第一外科・第二外科・第三外科など組織替えして対応しました。
戦況の悪化と共に南風原も激しい空爆を受けるようになり、国民学校なども次第に危険になったので、黄金森一帯に掘られたおよそ30本の構築壕へ移動し、看護活動が継続されました。
5月下旬第32軍司令部の首里撤退の決定に伴い、陸軍病院にも25日までに、南部へ撤退するようにと命令が届いたといいます。
撤退に伴い重症患者を搬送する余力もないことから、自力で動けない患者には青酸カリ入りのミルクを飲ませたりした壕もあったようですが、衛生兵の判断で青酸カリを廃棄したところもあったようです。
この日の南風原からの撤退により、陸軍病院としての機能は終わったのです。
平成2年に南風原町は、陸軍病院壕が「沖縄戦の生き証人であり、町民のかけがえのない共有財産である」との理由で戦跡文化財に指定しました。現存する第一外科壕群と第二外科壕群がその対象となったようです。
平成8年には「南風原陸軍病院壕の保存・活用」の答申が発表され、第20号壕の考古学的手法による、発掘調査および一般公開に向けての整備が進められました。
私は摩文仁から国道507号線を経由して、南風原の「悲風の丘」手前にある駐車場に車を止め、歩いて沖縄戦当時使われた「飯あげ道」を登り、そして坂道を降りて、黄金森山麓にある一般公開された20号壕の入り口にやってまいりました。
黄金森の麓に立派な建物があったので、それとすぐに解りました。また周囲の道路なども急ピッチで工事が進められており、黄金森一帯を戦跡文化財に指定した南風原町の20号壕などへの意気込みを感じましたね。
私が到着したのは4時半過ぎでしたでしょうか。他の見学者は誰もいないようでした。二人の年輩のご婦人が、寒いのかコートを羽織り(私はちっとも寒くないのですが)待機所のような建物で本を読んだりして休憩していました。
私はおそるおそる挨拶をして、「予約無しでは見学できないのですか~」と訪ねてみました。
そしたらご婦人が「大丈夫ですよ予約が無くとも」と答えてくれたのです。そしてすぐに案内してくれるというのです。「あそこで入場券を買って下さい」と促され、チケットを購入したら、懐中電灯を手にしたりヘルメットを被ったりと、あれよあれよという間に見学の準備が整ってしまいました~。
問わず語りに聞くことが出来ましたが、この時期はどちらかというとシーズンオフらしいですよ。
ですから、これから20号壕を見学してみたいという方は、シーズンオフなど季節により予約があまり入っていなければ、予約無しですぐに見学できますので、沖縄に旅行された方は、タイミングを見てぜひ「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」を訪ねてみて下さいませ。
時間的にもそれほど必要とせず、おそらく壕内見学の所要時間は20分程度だったと記憶していますので、ちょっと寄り道といった程度で訪ねられると思います。
十分に経験を積んだガイドさんによる案内で、20号壕内部の様子や沖縄戦当時の南風原の置かれた戦況なども、詳しく解説していただきました。
あまりに嬉しくて、最後にはガイドさんの写真まで写させていただきましたので、ご覧下さいませ。(ホームページに掲載させていただく旨の了解は頂いています)
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号
2007年6月から公開された沖縄陸軍病院 南風原壕群20号受付付近の様子です。
20号壕の西側入り口です。壕内の乾燥を防ぐために二重にドアが設置されていました。
※拡大表示出来ます
南風原にある壕は「構築壕」といいまして、人間が山の斜面を掘って作った壕なのです。沖縄戦当時は機械力もないので、このようなツルハシで一生懸命掘ったわけですね。
5月下旬首里の第32軍司令部の南部撤退に伴い陸軍病院も順次南部に後退しました。東側壕入り口に埋められてしたこれら医薬品は、撤退に際し持てない分を埋めたと見られます。
壕内部の様子です。米軍の火炎放射攻撃により天井などがかなり黒ずんでいます。
米軍の火炎放射攻撃により焼け落ちたとみられる坑木です。木材がこれだけ燃焼してしまうのは、相当長時間火炎放射を浴びたものと推測されます。
坑木は90センチ間隔で設置され、壕の幅・高さともに1間(1.8m)の空間となっています。
各壕は他の壕と連接していたりします。ここは19号・21号に繋がっています。これらの壕は現在落盤が激しく立ち入り禁止となっています。
20号壕の東側出口付近です。この解説板の下に冒頭で紹介した医薬品が、写真のように埋められていたといいます。
ガイドのお二人ですよ。登録ガイドは南風原町に50人以上居て、予約状況により交代で案内所に詰めているという話です。今回は右側の方に案内していただきましたよ。丁寧な解説ありがとうございました。
第一外科24号壕の様子
こちらは、第一外科壕群に含まれる24号壕です。現在は入り口も落盤していることから立ち入りは出来ない状況のようです。
24号壕の解説板です。ぎりぎり読めるかな~。
【沖縄陸軍病院南風原壕群20号壕】
南風原町が追体験が可能な戦跡公園として整備を進めて来た「沖縄陸軍病院南風原壕群20号壕」が一般公開されています。 (^o^)
全長約70メートル。ヘルメットをかぶり懐中電灯を手に暗い壕の中を見学する事が出来るのです。
壕内は米軍の火炎放射攻撃で黒ずんでいますが、ツルハシの掘削跡も生々しく、当時の壕内の雰囲気や病院壕としての機能などが追体験出来るのです。・個人、団体共に完全予約制です
・見学予定日の半年前から予約受付できます
・旅行会社からは申し込みできず、直接施設に電話で申し込む
・見学時間は9時から17時までです
・常駐のガイドが案内してくれます(入壕前の説明を含め20分程度)
・ヘルメット、懐中電灯は貸与してくれます
・休みは毎週水曜日、年末年始。そして昼12時から13時まではお休み
・駐車場は、一般車両は徒歩5分、バス駐車場は徒歩15分ほどです
・見学料は、個人300円、団体250円(学生は200円、100円等)
・お問い合わせは、電話098-889-7173 FAX098-889-7399