平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月15日(金) 嘉数高地などを慰霊巡拝、午後は司令部壕調査

ガーン。今日は朝から雨でした~。(^^;)
予報されていた事ではありますが、今週の7日間は雨が降ってほしくなかったのですが…。ちょっと虫が良すぎるかな。(^^ゞ

幸いそれほど強い雨ではありませんから、野外活動はまずまず出来そうですよ。

雨の中では遺骨収集は出来ませんので、今日の遺骨収集は断念する事になりました。

雨の場合を想定してその場合は、沖縄戦で日米両軍による最も苛烈な戦闘が展開された、嘉数高地から安里52高地(米軍は「シュガーローフ」)までの、戦場を歩いてみる予定を組んでいたのです。

南部島尻方面が遺骨収集奉仕活動の現場でしたから、20年以上沖縄に通っているのにも関わらず、首里以北の沖縄戦主戦場にはまだ一度も来たことがなかったのです。

午後からは摩文仁で予定が入っていましたから、午後1時頃には摩文仁に到着するのを目処として、朝は早めにホテルを出発し目的地に向かいました。

慣れない道にも関わらず、思いの外あっという間に目的地に到着してしまい、なんと朝6時過ぎには嘉数高地駐車場に到着してしまったのです。

沖縄の朝6時といえば、まだ深夜のような雰囲気ですが、さっそく朝食のおにぎりを食べ、地図を広げて見学ルートを計画したり、カメラが雨で濡れないように装備したりと、夜明けに備え、巡拝・撮影の準備を開始しました。

米軍の沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と呼び、54万人の将兵と1,500隻の艦船を動員する、ノルマンディ上陸作戦をも上回る大規模な作戦となりました。

米第10軍は4月1日、陸軍の第24軍団と海兵隊の第3水陸両用軍団など合計四個師団により、読谷村から北谷町にかけての13kmに及ぶ海岸線に、午前8時半頃には接岸し上陸を開始しました。

上陸前準備砲撃では、10万発以上の艦砲弾やロケット弾を上陸地点に打ち込んだと言われています。

沖縄守備軍の抵抗も散発的だったことから、米軍はその日のうちに北及び中飛行場を占領・確保し、三日目には反対側の中城湾岸に達するところとなり、第24軍団は南部に向け前進を開始したのです。

そして日本軍の外郭の防衛ラインである、牧港、嘉数、我如古、津覇を結ぶ線に米軍が侵入し始めてから、太平洋戦線での史上まれにみる日米両軍による死闘が展開されたのです。

「嘉数(かかず)高地」の戦闘

宜野湾市の南端に位置する「嘉数高地」は、標高92mの東嘉数高地と、標高70mの西嘉数高地の頂上を持ち、北西から南東に走る約1kmの稜線があります。

高地前方(米軍側)には、比屋良川がありその両岸は嘉数谷という渓谷が連なっており、幸いにもこの渓谷が米軍の進軍を阻み、攻める米軍側にも多大な出血を強いる結果となったのです。

嘉数高地の戦いは、4月8日から24日まで16日間 にわたる、沖縄戦の中で最も激しい戦闘の一つとして知られています。

日本軍側は、藤岡中将率いる第62師団独立歩兵第63旅団の、隷下四個独立歩兵大隊のうち三個大隊を、縦深に配置して戦いました。

4月19日
この日は嘉数高地での戦いの中で最も激しい戦闘である、「嘉数の対戦車戦」が行われたのです。

米軍は朝6時から日本軍陣地帯に向け、一斉に砲撃を開始しました。27個砲兵大隊計324門を集中し、太平洋戦域最大の砲撃を開始したのです。

また空からは延650機の航空機と、沿岸には戦艦6隻を含む11隻を投入し、日本軍支配地域の全縦深にわたり、激しい砲爆撃を加えたのち、米軍は前進を開始しました。

30両の戦車隊を先頭に、米軍第24軍団の満を持しての総攻撃が始まったのです。

地形をも変えてしまうほどの、この恐るべき鋼鉄の雨を降らせれば、どんな生物も生き残ってはいないと思えましたが、日本軍将兵は地下に潜りそれによく耐え戦い抜きました。

驚くことに総攻撃に打って出た米軍は、戦車30両のうち22両を一度に失うという、太平洋戦域に於ける米軍戦車隊最大の損害をもって、この「嘉数の対戦車戦」は幕を閉じることになるのです。

日本軍の正確な射撃と爆雷を抱いての自爆覚悟の突撃により、米軍の撤退できた戦車・自走砲は8両のみとなり、米軍将校をして「あの、忌まわしい丘」と言わしめたのです。

嘉数高地が米軍の手に落ちたのは、それから5日後の24日ですが、日本軍は23日と24日の夜、残存兵力は巧みに自陣地から後退し、新陣地へと就いたのでした。

「沖縄決戦」(学習研究社)著者は語ります。
「嘉数高地の勝利の決め手は、地形の利用と築城、火力運用にあった。そして見逃せないのが、将兵の士気である。初戦に敗れたものの、その後の米軍の攻撃を、ことごとく撃退した将兵の士気は高く、これが受動的な心理状態に陥りやすい防御戦闘で、終始、主導的な心理で戦えた理由であった。」

嘉数高地

遺骨収集の様子1

嘉数高台公園の南西側から、高台にある展望台を見ています。沖縄戦当時は激しい砲爆撃で「はげ山」と化していましたが、今は緑豊かな公園として整備されています。

遺骨収集の様子2

階段を上っていくと中腹に壕がありました。北側から攻める米軍の反対斜面にある壕です。爆撃が止むと、ここから日本軍将兵が出撃していったのですね。

遺骨収集の様子3

壕の中を撮影しました。まずまずの内部空間ですね。少し勾配があるようです。沖縄戦当時この嘉数高地には、この様な出入りと連接する壕が縦横に走っていたようですよ。

「嘉数高地」山上・北斜面の様子

遺骨収集の様子4

展望台から宜野湾と米軍普天間(ふてんま)飛行場方面を見ています。4月1日米軍が無血上陸をした、北谷・読谷方面の海岸線を見渡すことが出来ます。

遺骨収集の様子5

展望台から米軍普天間飛行場を含む右側を展望しています。

遺骨収集の様子6

2800メートルの滑走路を持つ、米海兵隊の航空基地「普天間飛行場」です。「普天間飛行場」が、いかに市街地に隣接しているか、よく理解していただけると思います。ヘリコプターは騒音も大きいし、ゆっくり飛ぶので基地周辺の住民の方々は本当に大変だと思いますね。

遺骨収集の様子7

反対側に移動し、浦添城跡・仲間・前田高地方面を見ています。距離は1.5kmほどです。米軍は嘉数高地攻略後は、前田高地に向けここから進軍していきました。

遺骨収集の様子8

今も嘉数高地北斜面に残る守備軍の「トーチカ」です。北側斜面にあり海岸線を見る事が出来ます。内部の床面積は4㎡、高さは1.3m、構築されたコンクリートの厚さはなんと75㎝もあるそうです。

遺骨収集の様子9

前の写真よりも接近し、右寄りから撮影しました。トーチカ前面が、砲爆撃により激しく損傷しているのが解りますよね。

遺骨収集の様子10

トーチカの背後に回って撮影しました。さすがに背後は損傷を受けていませんね。四角い開口部から、弾薬や兵隊が出入りしたと思われます。

遺骨収集の様子11

トーチカ内部の様子です。銃眼が見えますね。一人だと広く感じます。沖縄戦当時は、武器や弾薬、そして兵士が詰めて、結構窮屈だったのではないかな…。

遺骨収集の様子12

トーチカ内部の様子です。地面すれすれにある銃眼から外を見ています。現在は樹木が茂っていますが、沖縄戦当時は宜野湾方面まで、よく見通せたと思われますね。

遺骨収集の様子13

嘉数高地山上の高台にある慰霊塔が集合している霊域です。

遺骨収集の様子14

昭和50年に建立された「嘉数の塔」です。嘉数地域は日米による激しい戦闘があったことから、地元住民にも多くの犠牲者が出ました。

遺骨収集の様子15

昭和39年に建立された「沖縄京都の塔」です。参戦した第62師団独立歩兵第63旅団は京都出身兵が多く、そのほとんどが嘉数高地で戦死しました。

遺骨収集の様子16

「沖縄京都の塔」の碑文です。読めますね。

遺骨収集の様子17

「沖縄京都の塔」は平成9年に補修工事が行われ、その時の記念碑です。ギリギリ読めますか。

遺骨収集の様子18

昭和46年に建立された「青丘之塔」です。韓国から連行されて、この地で犠牲となった386名を祀っています。

「嘉数高地」南斜面の様子

遺骨収集の様子19

嘉数高地南西側斜面にある「嘉数護獅子」です。二つあるけど親子かな~。沖縄戦で激しく破壊されましたが、戦後復元され往時の面影を取り戻しました。

遺骨収集の様子20

 

遺骨収集の様子21

アプローチ部分には両脇に緋寒桜が植えられています。七分咲きというところでしょうか。この緋寒桜、沖縄では北部から南部に向かって咲き進むというのは知っていましたか~。

「嘉数渓谷」沿いの様子

遺骨収集の様子22

嘉数高地の北側麓にある嘉数渓谷と比屋良川の様子です。沖縄戦ではこの深い渓谷が戦車の進入を阻み、米軍側にも多大な出血を強いたのです。

遺骨収集の様子23

嘉数渓谷も川上に向かって東側に移動するにつれて、浅くなっていきますね。しかしながら、この高低差でもまだ戦車の進入は不可能でしょうか…。

遺骨収集の様子24

嘉数渓谷沿いにある沖縄守備軍陣地です。火炎放射攻撃を受けたのか、岩の壁面が真っ黒になっていますね。

遺骨収集の様子25

壕の一つに接近して撮影しました。左よりの樹木の根は戦後成長したものと思われます。落下した岩の一つ一つが黒く焦げています。

遺骨収集の様子26

壕の内部の様子です。あまり深くはありませんでした。他の壕もそれほど深くありません。

遺骨収集の様子27

嘉数高地北東側から、高台を撮影しました。現在は緑が豊かですが、樹木が一切無い様子をイメージしてみました。

「仲間・前田高地」の戦闘

浦添市前田にある「仲間・前田高地」は東西に長く伸び、西の仲間高地から東の為朝岩までの高台一帯を指します。

前田高地には、浦添グスクや浦添ようどれ(琉球国王の墓)などの史跡や、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の墓などが散在し、歴史的地にもとても由緒ある丘でしたが、この高地も嘉数高地と同様に、日米両軍による激しい攻防戦が展開され、歴史に残る激闘の地となったのでした。

前田高地での戦闘は4月26日から5月6日までの11日間に及んでいます。

4月24日に第一防衛戦を突破された沖縄守備軍は、仲間・前田・幸地・運玉森を結ぶ、第二の防衛線での戦闘に突入しました。

日本軍のこの前田高地陣地帯も、嘉数高地と同様に巧妙に配置された防御陣地により、攻め入る米軍に対し破壊的な攻撃を加えられるように砲兵が配置されていたのでした。

「沖縄陸・海・空の決戦」(サンケイ出版)によれば、第24軍団のホッジス将軍が前田高地攻撃に際し述べた、「これは全く骨の折れるものになるだろう…。そして一寸刻みに爆破していく以外、日本軍を追い出す方法は無いと思う」という悲しい予言は、殆どその通りとなって現れたのでした。

ここでも第62師団隷下の各部隊が配置されていましたが、これまでの戦闘で戦力は半減していたことから、南部に配置していた第24師団や独立混成第44旅団などを、前線に補充し兵力の増強にあたりました。

米軍は全正面への総攻撃に際し、日本軍陣地があると思われる地域を重点的に、猛烈に砲撃や空爆を浴びせたのです。36門の大砲が1616発の砲弾を撃ち込み、空からはナパーム弾を投下して丘陵一帯の全ての樹木を焼きつくしたのです。

だが前田高地でも日本軍の防衛戦術は完璧でありました。丘の前面は守らず敵軍を容易に前田高地に登らせておいて、頂上まで登り詰めたところで猛烈な砲撃を浴びせる方法をとったのです。

米軍をして「ありったけの地獄を一つにまとめた戦場」と言わしめたのです。

米国の公刊戦史によれば、
「激しい血みどろの戦いだった。この期間の特徴は、特に敵が潜む洞窟、墓、地下壕、タコツボ陣地に集中砲火を浴びせたことだ。臼砲や大砲、火炎砲を装備した戦車、装甲車が縦横に駆使され、歩兵が肉弾戦で突撃し、手榴弾で格闘戦をやった。しかし、日本軍も頑強に抵抗し、一歩も退かなかった。全く、死ぬまで戦うのを止めなかった…。」

「仲間・前田高地」・浦添城跡

遺骨収集の様子28

前田高地を北東側の道路から撮影したものです。標高差もかなりあります。突起した岩が見えますが、あれが為朝岩(米軍はニードル・ロック)で、激しい攻防戦が展開されました。

遺骨収集の様子29

前田高地にある琉球国中山王稜「浦添ようどれ」の案内掲示板です。「ようどれ」とは酒に酔っている訳ではなく、琉球語で夕凪・死者の世界・墓という意味だそうですよ。

復元された「浦添ようどれ」

遺骨収集の様子30

二番庭へと続く道です。この先あたりが沖縄戦で破壊されてしまいましたが、「暗しん御門」という天然のトンネルだった場所です。

遺骨収集の様子31

この広場は「二番庭」と呼びます。墓室のある一番庭へ入っていく石門も見えます。この石門をくぐった先に一番広い「一番庭」及び墓室があります。

遺骨収集の様子32

ここは「一番庭」と呼びます。「浦添ようどれ」は2005年に全てが復元され公開されました。「浦添ようどれ」は13世紀に作られた英祖王の墓と言われています。「東室」(尚寧王陵)と「西室」(英祖王陵)の二つがあります。

「伊波普猷」の墓

遺骨収集の様子33

沖縄学の父「伊波普猷」の墓です。伊波普猷(1876-1947)は歴史学・言語学などによる沖縄の総合研究である沖縄学の父と言われている。

浦添グスク城壁の一部復元

遺骨収集の様子34

昨年発掘調査が行われ、今年4月から公開が予定されている復元された城壁です。復元された城壁は、幅17メートルで最も高い所で4・9メートルあるそうですよ。浦添グスク城壁を完全に復元するには、30年近くかかるという話ですよ。

遺骨収集の様子35

復元された城壁の断面です。私もこの様な断面を見るのは初めてですね~。これで城壁の構造がハッキリと理解できましたよ。

遺骨収集の様子36

この場所が復元されたのは、調査で城壁の最下層に当たる「根石」が見つかったからとの事。地面付近の黒い岩が「根石」です。13世紀に築かれた当時の石組みでしょうかね。それにしても、城壁復元というものは、無造作に積み上げれば良いというものではなさそうですよね。サイン・コサイン・タンジェントの世界でしょうか~。

中腹にある壕の様子

遺骨収集の様子37

中腹にある壕の一つです。入り口は屈まないと入れない広さです。

遺骨収集の様子38

壕の内部の様子です。立っては歩けず、かなり狭い空間となっていますね。ずっと奥の方までつながっている印象です。中に入ってみることはしませんでした。

ディーグガマ

遺骨収集の様子39

「ディーグガマ」全景です。直径15メートルほどの窪地の中にあります。『琉球国由来記』に記されている「渡嘉敷嶽」だと考えられているのだそうだ。

遺骨収集の様子40

「ディーグガマ」の由来が解説されています。

遺骨収集の様子41

「浦添王子遺跡」です。「ディーグガマ」の窪地の中にありました。

遺骨収集の様子42

壕の中に設けられた「納骨堂」です。戦後この付近から集められたご遺骨5,000柱が納められていましたが、今は摩文仁に移されました。

遺骨収集の様子43

「浦和の塔」の解説板です。「浦和の塔」は昭和27年に建立されました。「浦和の塔」は埼玉県浦和市が建立したという意味でなく、全国津々浦々の平和を祈るという意味です。
※「浦和の塔」そのものは撮影に失敗しました。

「前田高地」から見た風景

遺骨収集の様子44

「嘉数高地」及び宜野湾方面を見ています。「嘉数高地」と撮影地点までの距離は1.5kmほどです。「前田高地」は標高148mです。標高92mの「嘉数高地」よりもかなり高いことが見て取れますね。

遺骨収集の様子45

首里高台方面を見ています。首里城と撮影地点までの距離は3.7kmほどです。前田高地を失うと首里もいよいよ危なくなるというのが、この写真からもよく理解できると思います。

遺骨収集の様子46

沖縄ではワカリジー(為朝岩/米軍はニードル・ロック)と呼ぶ標高は148m尖った岩山です。為朝がこの岩から矢を射ると、安里や牧港まで届いたという言い伝えがあり、子である舜天がこの岩を為朝岩と名付けたといいます。

カガンウカー

遺骨収集の様子47

前田高地南斜面中腹に「カガンウカー」という井戸がありました。

遺骨収集の様子48

「カガンウカー」と呼ばれる井戸ですが、昔は禊ぎ泉としても利用されていたようですよ。

前田高地平和之碑

遺骨収集の様子49

第24師団歩兵第32聯隊(山3475部隊)第2大隊戦友会が建立した「前田高地平和之碑」です。前田高地での第62師団の戦力の消耗に伴い、後方に控えていた第24師団(山3475部隊)第2大隊も前田高地での激しい戦闘に加わりました。

遺骨収集の様子50

碑文です。ギリギリ読めますね。

遺骨収集の様子51

前田高地での戦没者の名前が記載されています。膨大な将兵が非業の死を遂げました。

遺骨収集の様子52

「前田高地平和の碑」の横へ20メートルほど進むと壕がりました。この壕は攻める米軍側(北側斜面)に開口部がありました。

遺骨収集の様子53

「浦添グスク」の解説版です。

浦添グスク・ようどれ館

遺骨収集の様子54

古写真や発掘調査成果のパネル展示や出土遺物などを見ることが出来ます。実物大で再現されたようどれの西室(英祖王陵)はお勧めの展示ですよ(^o^)。

遺骨収集の様子55

浦添グスクの配置状況です。首里より以前の琉球王城はここ浦添にあったのですね。知りませんでした。

遺骨収集の様子56

発掘調査成果をパネル展示してあります。

遺骨収集の様子57

「浦添ようどれ」の「西室」(英祖王陵)を再現したものです。

「安里52高地」(米軍はシュガーローフ)の戦闘

再開発された新都心「おもろまち」の一角にあり、現在は巨大な貯水タンクが乗る、この標高52mの小高い丘が、沖縄地上戦のクライマックスともいえる、日米両軍による52高地」(米軍はシュガーローフ)の戦闘が展開された場所なのです。

ここ「おもろまち」の再開発地域は「那覇新都心」とか「天久新都心」とも呼ばれ、戦後は米軍居住地域として接収されていた場所でしたが、沖縄県に返還され再開発事業が現在も続けられています。

5月初旬、米軍は仲間・前田高地の激戦を経て、西は安謝川まで東は小那覇に至るラインまで前進してきました。

米軍は首里攻略は正面突破ではなく、まず東西両翼に展開する守備軍防御陣地を撃破する作戦に出たのです。

米軍は首里の東側の運玉森に対しては陸軍第96歩兵師団を、西側の真嘉比と安里に対しては第6海兵師団がそれぞれ進出して来ました。

そしてこの第6海兵師団と沖縄守備軍の独立混成第44旅団との間で戦われた、5月12日から18日までの一週間の戦闘が、沖縄地上戦のクライマックスとも呼ぶべき、52高地(米軍はシュガーローフ)を巡る、日米両軍による最大の激闘 が展開されたのでした。

この一週間に及ぶ日米両軍による激しい死闘は、「沖縄決戦」(学習研究社)によれば、「海兵隊がそれまで培ってきた要衝攻略の技術と、長期にわたって入念に進められた日本軍の防御戦術が激突した。そしてその結果、戦いそのものは恐ろしい消耗戦となった」 のです。

「この52高地を含む首里西方の戦闘で、定数24,000名の第6海兵師団は、戦死、負傷及び戦闘神経症によって約4,000名を失った。一方第44旅団も、一個大隊の予備を残して壊滅状態に陥り、同方面の防御態勢は崩壊した」 といいます。

そして、著者は「安里52高地」の戦いの最後に次のように語ります。「数日後、状況打開を不可能と判断した第32軍の司令部は、首里放棄を決意する。その形からシュガーローフ(棒状の砂糖菓子)と呼ばれた、安里52高地の失陥は、沖縄防衛戦そのものの終焉を意味していたのである」

「安里52高地」(米軍はシュガーローフ)

遺骨収集の様子58

現在の「安里52高地」の様子です。再開発された新都心「おもろまち」の一角にあり、標高52mの山上には貯水タンクが設置されています。手前空き地もビルが建設される予定だそうです。

遺骨収集の様子59

那覇空港駅と首里駅を結ぶ「沖縄都市モノレール線」が走っています。愛称は「ゆいレール」です。この軌道が通っている切り通しに、沖縄戦当時は「軽便鉄道」の線路ありました。左側の小高い森になっているところが米軍が呼ぶ「ハーフムーン」です。

遺骨収集の様子60

安里52高地に設けられた展望塔から、「ゆいレール」が走る切り通し方向を見ています。この地域は再開発が進み、左手には高級ブランドショップが軒を連ねています。

遺骨収集の様子61

安里52高地に設けられた展望塔から、北西方向を見ています。写真右側寄りの幹線道路に「ヒル3」の小高い丘がありましたが、削り取って造成されてしまった様です。

遺骨収集の様子62

安里52高地に設けられた解説板です。

【慶良間チージ(シュガーローフ)】

沖縄戦の激戦地。字安里の北に、位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフ」と呼んだ。

一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。

とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。

米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。

それ以降、米軍は首里への攻防を強め、5月27日、首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。

沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。

米軍上陸後、本格的な地上戦が始まった「嘉数高地」の戦いから、沖縄地上戦での最も熾烈な戦闘が展開された、安里52高地(米軍は「シュガーローフ」)までを、現地の戦跡を訪ねながら見てまいりました。

沖縄および沖縄近海の制海・制空権を失い、本土などからの補給路を遮断された沖縄守備軍は、昼夜を分かたず打ち込まれる砲爆撃に耐え、孤立無援の中で、昼間は陣地壕に潜み、肉弾攻撃的な夜襲にて奪われた陣地を奪還するという、限られた戦い方しか出来ませんでしたが、日本軍将兵はそれに良く耐え戦い抜いたのです!。

「絶対的劣位にある現状を認識した上で、不足分は精神力で補い、持てる力を出し切るように戦い抜いた!」、これが戦跡を歩いての第一の感想です。

米軍は進軍するに際し、準備砲撃として、守備軍陣地の背後を徹底的に砲撃したといいます。これは、守備軍の補給路を断つという意味であり、道路も寸断され大きな穴だらけの荒野を、前線まで重い砲弾一発でも運ぶのは困難を伴うというのは、私達にも十分理解できるところです。

このように米軍は沖縄守備軍の補給路を断った上で、守備軍陣地に向け進軍してくるのです。

沖縄守備軍の、補給が途絶するか寸断された前線では、驚くことに戦死した米兵の武器や食料なども持ち帰るなどして食いつなぎ、戦闘を継続していったといいます。

沖縄戦での日米両軍の戦力比は、総合すれば1対30にも達するといわれたのです。勝てる戦争でないのは誰の目にも明らかだったのだ。

沖縄守備軍は敗北を喫してしまいましたが、そのような圧倒的に優劣が決しているなかで、無尽蔵の補給の裏付けがある完全武装の米軍に対し、日本軍将兵の肉弾攻撃に頼るこの類をみない敢闘精神は、高く評価されるべきであり、賞賛に値するものであるといえるでしょう。

それぞれの戦跡にある石碑や解説板などは、すべて目を通してきましたが、そこで感ずるものは、軍の命令は絶対であり、最も辛酸をなめたのは末端の兵士ではないかという実感でした。

またそれぞれの戦闘地域では、戦闘に巻き込まれた住民の方々が、大勢亡くなったという事も知りました。

南部の掃討戦では、沖縄県民も悲劇的な逃避行を余儀なくされましたが、嘉数から首里までの中部地域でもまた、多くの沖縄県民が悲しくも戦場に倒れていった事を初めて知ったのです。

私はそれぞれの戦域での壕はもちろん、慰霊塔などのモニュメントに向かい、出来る限り数多く手を合わせ、ご冥福をお祈りするように務めました。

思えば、太平洋戦域の将兵はもちろん、沖縄守備軍も同様に一部の職業軍人を除き、前線で死闘を展開した多くの兵士が、徴兵制により招集された人達だったのです。

軍隊に入る前は農夫であったり、サラリーマンであり、職人さんであったろうし、沖縄県民の壮青年であり、沖縄の将来を担うと目されていた若き男女学生たちだったのです……。

中部の激戦地を訪ね、改めて全ての戦没者のご冥福を祈らずには居られませんでした。

第9師団の台湾への抽出。第84師団の派遣中止。水際作戦から持久作戦への転換に伴う、戦列の再配置と既存の構築陣地からの撤退などなど…。

大本営の作戦変更などにより、防備体制の再構築に多大な時間を割かねばなりませんでしたが、そうした状況の中で沖縄守備軍第32軍は、圧倒的な砲爆撃で攻めてくる米軍に、歩兵と巧妙に連携した砲火網を組織し、米軍をしばしば撃退したし、「洞窟戦法」で粘り強く戦ったといえるでしょう。

航空特攻をより効果的に運用するために、本島の飛行場確保も重要ではありましたが、飛行場を守るためにわずか一週間そこそこで玉砕するよりも、洞窟陣地を拠点として粘り強く戦い、敵に出血を強要し、少しでも長く米軍を沖縄に留め置く……。

第32軍長勇参謀長は、本土決戦への時間を稼ぐという強い決意を、「われ本土の捨て石とならん」 という言葉で、関係各兵団に表明したのです。

そしてその言葉通り、沖縄守備軍第32軍は、硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団の陣地構想と同じである、内陸部縦深防御方式に叶う強固な洞窟の築城に励みつつ、第32軍将兵は強い敢闘精神をもって、圧倒的な弾雨に耐え粘り強くその目的を実現していったのです。

 

米軍による沖縄攻略は、約一ヶ月と見込まれていましたが、守備軍の頑健な抵抗により、米軍側に硫黄島の二倍近い戦死者を出させると共に、支援する高速空母機動部隊も同時に釘付けにするという、米軍の沖縄攻略後の作戦行程を、大幅に遅延させることに成功したのです。

戦後、沖縄守備軍第32軍は米国から、「太平洋戦争中、日本軍で最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と、最大の評価を受けた事からもいえるように、牛島満司令官、長勇参謀長を始めとする沖縄守備軍第32軍将兵は、歴史に刻まれるべき優れた敢闘精神を持って、与えられた任務を十分に果たしたと言えるでしょう。

沖縄を始めとする太平洋戦域で、命よりも大切なものを守るために戦い抜いた、我が日本軍の勇敢なる戦士の為に、「日本人と戦争」(朝日文庫) の著者ロベール・ギラン氏の、次の言葉を紹介しご冥福をお祈りしたいと思います。

明らかに日本軍の南下戦略は、欧米帝国主義から東亜を守ろうとする、アジア民族解放戦争であった。

日本軍兵士のだれもが、アジアを侵略しようとする強敵米英に敢然とと立ち上がり、アジアを守るため、祖国日本を守るために死力の限りを尽くしたのである。

日本軍兵士のこの切々たる真情がわからなければ、大東亜戦争が世界史に占める重要な意義がわからない。

圧倒的な物量を誇る連合軍に対して、わが命を顧みず、祖国防衛のために肉弾攻撃を敢行した日本兵の高貴な精神は、世界史に永遠にその事実を刻みつけねばならないのである。

「日本人と戦争」から転載させて頂きました

「沖縄決戦」

学習研究社

「沖縄陸・海・空の決戦」

ビーニス・フランク著加登川幸太郎訳 サンケイ出版

「沖縄シュガーローフの戦い」

ジェームス・H・ハラス著/猿渡青児訳 光人社 初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長長勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社

「沖縄に死す 第32軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社

「沖縄 悲遇の作戦―異端の参謀八原博通」

稲垣 武著 光人社

「日本人の勇気」

北影雄幸著 光人社

日米両軍による激しい戦いが展開された「嘉数高地」を皮切りに、沖縄防衛戦の終焉を意味する、安里52高地(シュガーローフヒル)での激闘までを、慰霊巡拝してまいりましたよ。

戦場を歩き今はとても心が重いですが、いざ摩文仁に向け出発です。

摩文仁(89高地)の第32軍司令部壕

午後は平和学習ガイドの松永氏とYさん女性のTさん、そして私の四人で、摩文仁にある第32軍司令部壕の内部を調査することになっていますので、私は「安里52高地」のあるおもろまち市街から、一路摩文仁之丘へと車を走らせました。

この四人のメンバーのうち、Yさんは私と同じ教外者ですが、毎年熱心に金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加されている方で、沖縄戦についてかなりの研究をされている方でもあるのです。

数日前だったでしょうかそのYさんから、今年は昼前には那覇空港に到着しすぐに摩文仁へ直行するので、「一緒に摩文仁山頂にある司令部壕へ入り調査しませんか」と、お声がけいただいたのです。

Yさんが語るには『沖縄決戦―高級参謀の手記』 (1972年/著者 八原 博通) という本を読み、そこには6月23日の沖縄戦に於ける組織的戦闘が終了せんとするまでの、壕内外の状況が克明に書かれているというのです。その文脈に沿って壕内を探索し、当時の日本軍将兵へ思いを馳せてみたいと…。

またその文脈の中には司令部壕は南北二つの出入り口の他、山頂からも出入りが出来たと記述されているというのです。つまり縦穴があるというのですね。その話を聞いたときに、それは私も初耳でしたので驚きましたよ。

記述によりますと、米軍の激しい爆撃や馬乗り攻撃により、その縦穴部分に居た将兵が撃ち殺されたりして、何人もバタバタと壕内に落ちてきたというのです。

「ぜひその場所を確認してみたい」との話でしたから、私も興味をそそられまして、ぜひ確認してみたいと思いましたから、すぐに話はまとまりました。

平和学習ガイドの松永氏にその話をしてみましたら、縦穴があるという話はすでに知っていましたが、壕内に何度も入っているが実際にはその場所は解らないという話だったので、一緒に入ってみることになりました。

また、四人メンバーのTさんという女性は、東京都にお住まいですが、今年初めて金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加するという方です。

彼女もまた、昼前後には摩文仁に到着して慰霊塔や資料館を見学するという話をしていましたから、ならば午後は私達も摩文仁で活動をしますのでご一緒しませんかとお誘いしまして、私達と一緒に壕内を調査することになりました。

Tさんは、Webサイトで金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の存在を知ったようです。

現在子育ての真っ最中で家を空けるのが難しい状況にあるようですが、サイトにて沖縄の遺骨収集の状況を知った以上、ぜひ自分も遺骨収集に参加してみたいと那覇教会に問い合わせをされて、一般参加者として明日からの金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加するという話です。

金光教那覇教会を通じて私の所にもメールを頂きまして、何度かメールの交換をして、遺骨収集への対応と装備などのアドバイスをさせて頂きました。

メールのやり取りをして解ったことですが、すごく積極的で手際の良い方とみえて、初参加ながらなんと遺骨収集一ヶ月前には、全ての装備品の準備を終え、あとは現地でおにぎりを買いジャングルに入るだけという、驚くほど手早い準備状況だったみたいですよ。(笑)

彼女は遺骨収集以外にも、摩文仁之丘などで慰霊塔などの見学をしたいという要望がありましたが、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の二日間は、そのような時間の確保は難しい旨お伝えし、前日到着をお勧めしましたら理解して下さり、前日昼過ぎには摩文仁に到着するように日程を組んで下さったのです。

1時頃には無事に四人が、平和祈念公園駐車場で合流できました。

今は本当に便利な世の中になりましたよね。携帯電話や携帯メールで刻一刻と「今どこそこに居ます」とか手早く連絡をしながら、合流する事が可能ですからイライラする事も無かったし、本当にありがたい話ですよね~。

初参加のTさんには、壕に入るに際しての服装と装備を事前にメールで伝えてありましたので、すでにその準備を整えていてくれましたよ。

他の三人のメンバーはベテランさんですので、合流してすぐパッパッと、身支度を調えることが出来ましたので、四人揃って摩文仁にある第32軍司令部壕を目指して徒歩にて出発しました。

※ごめんなさい Webサイトでは司令部壕入り口への順路説明は割愛させて頂きます。

司令部壕入り口は予想以上に小さいですよね。ここに壕があると認識できるのは、ごく限られた角度から見た範囲でしかなく、容易に見落としがちでもあります。

実際私もこの付近を何度も歩いているはずですが、松永氏に教えていただくまで知りませんでした。

入り口付近は激しく破壊された形跡は無いように思われ、入り口が小さかったが故に最後の最後までこの入り口は破壊から免れていたのかも知れません。

壕内の様子に詳しいYさんを先頭に、四人は壕内に入っていきました。

壕内でまず最初に驚くのは、たくさんの岩石が転がっている事です。
出入り口付近は爆風よけで設置されていた石組みが、四散したものかもしれませんが、ずっと奥へ進んでもその状況に変化はありませんからね。

とにかくこの摩文仁は激しい砲爆撃に曝されましたから、艦砲などの巨大な破壊力による衝撃で、上から少しずつ落ちてきたものかもしれないと思えます。

Yさんは第一に、司令部壕内にあるとされる「垂坑道」を捜したいと語っていましたね。

これは文字通り垂直に出入りできるルートがあり、その「垂坑道」から兵士が出入りをしていたようなのです。

この「垂坑道」は私も見たことがないので、とても関心がありました。そんなルートがある事自体知りませんでしたからね。

Yさんの話によりますと、6月21日から22日にかけての、米軍の摩文仁之丘への総攻撃時には、この「垂坑道」部分に待機していた将兵が、上からの米軍の攻撃で傷つき、バタバタと壕下の通路部分に落ちてきたというのです。

「垂坑道」があると目される、司令部壕の中央付近は、非常に複雑な構造となっており、すぐには「垂坑道」を発見出来ませんでした。

それでも丹念に調査を続けましたら、電気の配線?が上から垂れ下がっているのを見つけたために、そこが「垂坑道」である事が確認されました。

以前どこかのグループが調査した際に、投光器等の照明器具用の電源を引き込んだのだと思いますが、撤収時にその配線は撤去しなかったようです。

発見した「垂坑道」を登ってみようと試みましたが、落石の可能性が高そうなので、今回はそこを登攀することは止めにしました。

「垂坑道」のルートの岩盤がどうも不安定に見えるのは、おそらく馬乗り攻撃を受けた際に、上から爆雷などを投げ込まれ、激しく「垂坑道」が破壊されてしまったのではないかと推測されます。

続いて「便所開口部」という所を捜すことにしました。

こちらはすぐにここだと特定できました。

その便所とは、個室トイレが並んでいるというのではなく、一人の人間が立って歩けるほどの岩の開口部があり、その開口部の下を見れば、そこはほぼ直立の約10メートルほどの崖となっており、うっかり下に落っこちてしまうと大けがをしてしまうという、私など怖くて肛門が開かないと思えるほどすごい場所なのです。

この崖の現在は樹木が繁茂し、涼しげな風景を醸し出していますが、沖縄戦当時は、ここだけ茶色く色づいた壁面となっていたかもしれません。米軍に、ここに司令部があるとばれたのは、このトイレが原因だったかもしれませんね。

この便所の風景は、写真に納めてありますのでご紹介できますよ。

それからYさんが、司令部壕のどこかに「秘密洞窟」があるというのです。「秘密洞窟」だなんて、何かワクワクと探検気分にさせてくれますよね~。

矢原高級参謀らが、司令部壕を脱出する直前に、一時的にこの"秘密の部屋"に隠れていたというのです。

時間を掛け丹念に探す必要があることから、今回は十分にそれを探すことは出来ませんでしたが、その「秘密洞窟」の位置は、いつの日か探し当てたいですよね~。

最後は、第32軍牛島満司令長官と長勇参謀長の、自決の場所を特定しようという話になりました。

Yさんは司令部壕内の様子が比較的詳細に書かれたコピー紙を持っていたのです。

そのコピー紙には、軍司令官室とか参謀長室とか、その他の言葉がたくさん書き込まれていますが、『沖縄決戦―高級参謀の手記』の内容と照らし合わせて、出来る限り照合するようにしましたが、図面と現況とはかなり違ったようにも見え、今となっては壁面などの特徴などが何もないので、やはり「ここだ」というような、断定に近い形での特定は難しいですね。

最終的には、「この辺ではないか」という意見に集約して、第32軍牛島満司令官と長勇参謀長が自決したと思われる場所に、生花を手向け、皆でしばし手を合わせご冥福をお祈りしました。

5月31日 首里を撤退した第32軍首脳は、5月30日南風原にある津嘉山の陣地壕に立ち寄った後、ここ摩文仁之丘の司令部壕に到着しました。これ以降、米軍による南部島尻での掃討戦が、激しく展開されました。

6月18日 この日の朝、長勇参謀長は、矢原高級参謀と三宅・長野参謀については、大本営に報告するため日本本土に帰る努力をするように命じ、その他の幕僚に対しては米第10軍の後方でゲリラ戦を組織するよう命じたといいます。

6月21日 米軍による第89高地・摩文仁之丘への総攻撃が始まり、翌22日にかけて馬乗り攻撃を受けるようになり、ナパーム弾攻撃や爆雷を投げ込まれ、ガソリンを放たれるなど激しく攻められ、司令部も最後の時を迎えるに至ったのです。

6月23日 午前4時30分第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長は、武士道の伝統に従い自決しました。

自決前に大本営からの電報により、米軍の第10軍司令官サイモン・バックナー中将が戦死したと知ると、深く哀悼の意を表したと言われています。

6月18日/自刃の5日前、第三十二軍司令官牛島満中将が大本営と直属上司の第十方面軍司令官安藤利吉大将宛てに次の決別電報を送りました。

大命を奉じ、挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘、ここ三ヶ月、全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず、陸、海、空を圧する敵の物量制しがたく、戦局まさに最後の関頭に直面せり。

隷下部隊本島進駐以来、現地同胞の献身的協力の下に、鋭意作戦準備に邁進し来り、敵をむかうるにあたっては、帝国陸海軍部隊呼応し、将兵等しく、皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、満、不敏不徳の致すところ、事志と違い、今や沖縄本島を敵手に委せんとし、負荷の重任を継続し能わず。

上、陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申しわけなし。ここに残存手兵を率い、最後の一戦を展開し、一死以て御詫び申し上ぐる次第なるも、ただただ重任を果たし得ざりしを思い、長恨千載に尽くるなし。

最後の血闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。
戦雲碧々たる洋上なお小官統率下の離島各隊あり。何卒よろしくご指導賜りたく、切に御願い申し上ぐ。

ここに平素のご懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任ぜられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遙かに微哀を披瀝し以て決別の辞とする。

矢弾尽き天地染めて散るとても 魂遷り魂遷り皇国護らん

秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ

「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社 平成13年(2001年)初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長 勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社 平成15年(2003年)初版

沖縄では6月23日を慰霊の日として、各地で慰霊行事が行われます。

1945年(昭和20年)6月23日に、沖縄戦での第32軍の組織的戦闘が終結した事にちなんで、琉球政府および沖縄県が制定したものです。

1962年から、この日には沖縄県が主催する「沖縄全戦没者慰霊祭」が糸満市摩文仁の「平和祈念公園」で執り行われています。

今生陛下が皇太子時代の、昭和56年の記者会見において、「日本人の忘れてならない4つの日」として、
6月23日・8月6日・8月9日・8月15日を示されたのです。

Yさんの御陰で、第32軍司令部壕内の詳しい情報を得ることが出来ました。

Yさん自身も書籍に記載されている内容について、ご自身で確認してみようと考えていた多くの点が解明できたようですから満足されていました。

私もこの洞窟で、第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長が自決したといった程度の話しか知らなかったので、今回の調査ではとても勉強になりましたね。ありがとうございました。

ひとつ気になったのですが、長年遺骨収集を続けてきた直感からなのか、行き止まりと思われる部分でも落石などにより塞がれたと感じ、一定の岩を除去すれば更に先に進めると思われる部分が、最低でも二カ所ありました。

つまり壕内は、トンネルが更に枝分かれしている可能性のある場所が、少なくとも二カ所あるという事です。

いずれにしても、米軍はここ摩文仁之丘に、第32軍司令部壕がある事が判明した以降、巨大な破壊力を持つ艦砲射撃をこれでもかと言うほど繰り返し打ち込んでいるので、司令部壕内も天然の堅牢な作りとはいえかなりの落盤があったとみて間違いないでしょう。

壕内は直接的な攻撃を受けたわけでもないのに、異常に小さな岩がゴロゴロとたくさんあり、それらはみな天井部分などから落ちてきたものと思われます。

ですから、この司令部壕については安易に調査が終了したと判断せず、機会があれば再度しっかりと再調査することをお勧めしたいですね。

摩文仁にある第32軍司令部壕

遺骨収集の様子63

第32軍司令部壕の入り口付近の様子です。入り口は狭く角度によっては壕の存在を全くといって良いほど認識できません。

遺骨収集の様子64

入ってすぐ鍾乳石のような雰囲気となっており、この壕は天然の洞窟であったと思われます。一方穴の直径などを広げたと思われる部分もあり、住みやすいように拡張された所もあるようです。

遺骨収集の様子65

書籍のコピーを持参しているYさんが色々と位置関係の把握に当たってくれました。

遺骨収集の様子66

壕内の上部だけススで黒くなっているのが解ります。炊事の煙か、それとも開口部への攻撃の際の煙か…。

遺骨収集の様子67

壕内では何カ所かこのように部分的に壁面が黒こげになっている場所があります。

遺骨収集の様子68

ここも狭い範囲ですが黒く焦げていま。

遺骨収集の様子69

将兵が銃撃されたりしてバタバタと落ちてきたという縦穴は容易に見つかりませんでした。壕内の配置図を元に皆で話し合いながら、丹念に位置関係を把握していきます。

遺骨収集の様子70

そしてついに縦穴の位置を特定しました。光が見えないので余計に手間取ってしまいました。ちょっと上に登ってみましたが、足場が悪いので今回は上に進むのは断念しました。

遺骨収集の様子71

二カ所の出入り口の他に実はもう一カ所開口部がある事が解りました。この写真がそうなのですが、Yさんはこの先には「トイレ」があると言うのですよ。

遺骨収集の様子72

開口部まで出てみると、そこは切り立った絶壁でした。木々が茂り崖下まで浅く見えますが、恐らく崖下まで10m近くあるかな?。そうなんです。トイレと言えども囲いなどは無く崖下に向かってお尻を向け、大便をしたようなのです。
「ちょっとふらついたら崖下に真っ逆さま…」私ならたぶん肛門が開きませんね~。

遺骨収集の様子73

上の写真は開口部から南側を見ています。この写真は東側を見ています。岩盤の角度からしてここは人が上り下り出来ない事がご理解いただけますよね。開口部にも太い木が茂っていますが、沖縄戦当時は無かったと思われます。

遺骨収集の様子74

牛島中将と長参謀長が自決したと思われる場所を探しています。奥の方には摩文仁之丘南斜面にある、鉄柵で仕切られた壕の入り口が見えます。

遺骨収集の様子75

自決の場所を特定し献花しようと松永氏が準備していますが、容易に特定出来ませんね~。 (^^;)

遺骨収集の様子76

牛島中将と長参謀長が自決したと思われる場所を私達なりに特定し?、献花して皆で手を合わせました。

遺骨収集の様子77

壕の上に出てからも状況を調査し、上からも「トイレ」の位置が確認できました。

遺骨収集の様子78

この小さな穴が司令部壕の上からの出入り口です。第32軍司令部壕は都合4カ所の開口部があり、その全てを把握することが出来ました。

摩文仁北斜面の未調査の壕内を確認

第32軍司令部壕の壕内と外部からの調査を終えると、皆さん同じようにこれからの予定が入っている風でもなかったので、そこで私はハッと気づきました。

そうだ!。私が12日(火曜日)に摩文仁北斜面で開口部を拡げておいた未調査の壕の中に入って、ご遺骨の存在の可否を調べるのを、これからやってしまおう。

さすが素晴らしいアイデアですよ。

一人での壕内の調査は万が一のトラブルが発生した場合に、とても危険な事態に至るので、遺骨収集では絶対に避けなければなりませんね。

複数人で壕内に入るか、あるいは必ず外に一人待機してもらうなどの対応が絶対に必要です。

ですから私も12日には開口部を拡げて何時でも壕内に入れるようにしておき、後日複数人で調査に訪れる予定にしていました。

皆さんに、その経緯を説明しご了解いただきましたので、四人でその探索をする事にしました。

その未調査の壕は、ここから歩いて5分ほどのごく近い所にありますので、4人で摩文仁之丘北斜面のジャングルの中に入っていきました。

摩文仁之丘北斜面は、ジャングルといっても比較的緩やかな傾斜となっていますので、前進はそれほど困難ではないのです。

ただ、前にも書きましたように摩文仁はとにかく激しく艦砲の砲弾を撃ち込まれました。その結末がはっきりと見て取れるのが北斜面です。

大きな岩がとにかくゴロゴロと無数に転がっていますよね。これらは皆砲撃の破壊により吹き飛ばされたものに違いありません。

私はいつも思うのですが、これら無数の岩の下にはまだ未発見の壕が、隠されているのではないかと何時も思っています…。

ジャングル内を歩き始めて5分も経過しないうちに、目的の場所に到着しました。

松永氏をはじめ皆さんに、私が開口した壕の様子を見ていただきました。

中をのぞくと、かなり奥が深いことが見て取れますので、入ってみる価値は十分にありますし、ひょっとすると大量のご遺骨発見があるかもしれないね」というのが皆さんの意見でした。

開口部は、私の体型でぎりぎり入れるというレベルですから、男性諸氏は私以外には入れそうにありません。

私は腰の装備をすべて外し、上半身シャツ一枚となって、ぎりぎりの大きさの開口部を、足から先に入りそのまま下に潜っていきました。

「下りきったその先には、きっとご遺骨があるはず!」

その期待を一心に膨らませ、さらに下に潜り続けました。

壕の上からは見えない横への展開場所に差し掛かって、ご遺骨がありますようにと祈るような気持ちで、その先をライトで照らしたその瞬間!!!。

「ガ~~ン。行き止まりだ!」

あえなく世紀の大発見は、持ち越しとなったのでした…。

遺骨収集の様子79

12日に1時間半もかけて開口部を拡げましたが、残念ながらご遺骨はありませんでした…。

牛島満中将と長勇参謀長の埋葬場所

遺骨収集の様子80

この岩ノ下に牛島中将と長参謀長が埋葬されていると言われており、墓石には「牛島軍司令官長参謀長両将軍之墓跡」と刻まれています。 右から平和学習ガイドの松永氏、壕に詳しいYさん、初めて遺骨収集に参加されるTさん、そして私です。

ショックの覚めやらぬ私を、皆さんが慰めてくれました。

私は絶対ご遺骨があると確信していただけに、立ち直りには少し時間を必用とするようです…。

ただこんな事でめげていては遺骨収集は続けられませんのでね。なるたけ早く気持ちを切り替えて明日からの金光教沖縄遺骨収集奉仕活動参加に備えたいと思いますよ。

時刻も3時をまわり、夕方5時からは金光教那覇教会において、遺骨収集に関する事前説明と親睦会が開催されますので、今日はこれで解散にしましょうという事になり、私はタクシーで摩文仁まで来られたTさんと共に、那覇に向け車で出発することになりました。

そうそう、参加記を見て下さる皆様に、とっておきの情報をお伝えします。

摩文仁之丘からホエールウオッチングが出来るんですよ~。

そうなんです。鯨が泳いでるのが見えるんで~す。

「黎明の塔」前にて皆で立ち話をしているときに、松永氏が「機会は多くはないけど、ここから鯨が見える時もあるんですよ」と語ってから3分も経過しないうちに、Yさんが「あ~~鯨が見えた~~」と叫んだのです。

私もすぐに海を見ましたが、確かに尾がザッブ~~ンと海中に入っていく、最後の動きを目撃することが出来ました。

いや~~今まで知りませんでした。摩文仁で鯨が見えるなんて~。

松永氏の話では機会はそれほど多くは無いようですが、摩文仁に行かれた方は鯨を見るチャンスがあると言うことで、ぜひ広い海原にも目を向けてみて下さいませ。

那覇に向けての車中では、明日から金光教の遺骨収集に初めて参加する予定のTさんから、参加へ至った経緯とか、遺骨収集参加への想いなどをお聞きする事が出来ましたよ。

Webサイトで金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の存在を知ったようですが、知った以上は主人にも協力していただいてでも、「行かねば!行かなくちゃ!って気持ちがとても強くなりました」と、熱く語ります。

私も当初は独身の女性かなと思いましたが、看護師の仕事を持ち、更に小さなお子さんもいらっしゃるという環境のようです。

ですから、日々多忙な状況の中で、よくぞ決意し実際行動に移したなと、私も心から尊敬の気持ちで一杯です。

それにしてもTさんはラッキーですよ。前日の昼頃に到着した事により、こうして壕に入ったり「平和学習ガイド」の松永氏やベテランのYさんと共に、壕の中で沖縄戦当時のいろんな話を聞く事が出来たわけですからね。

「早起きは三文の得」といいますが、早い到着により、プロフェッショナルな解説付きの、初体験が出来ましたね。

首里城公園の戦争遺跡

金光教那覇教会での集合時刻までまだ十分に時間があることから、ちょうど帰り道の途上にある、首里城公園の中にある戦争遺跡を見て回りましょうという話になりました。

私は昨年も訪れていますし、Tさんも首里城は見学したことがあるという話ですから、首里城は見学することなく、戦争遺跡のみ見て回ることにしたのです。

首里城公園の地下を縦横に走る第32軍司令部壕は、『沖縄の戦争遺跡』(沖縄時事出版)によれば、壕内は五つの坑道で結ばれ、号の入り口は五カ所あり、坑道は地下約10メートルから35メートルの深さです。

南北に直線距離にして約400メートル貫き、縦横に掘られたトンネルの総延長は1キロメートルを超えるとのこと。

幅は約1メートルから3メートル、高さは2メートル余り。内部は丸太で補強され1トン爆弾にも耐えられる強度であったとされます。

壕内は牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1,000人余りの将兵や、県出身の軍属や学徒隊なども同居していたといいますから、かなりの収容能力があったようです。

ただ戦況の悪化に伴い終日壕内に止まることも多くなり、夏に向かって壕内の熱気が増したことや、兵隊の汗・糞尿の臭い、天井から落ちてくる雨水などなどにより、壕内の空気は強い湿気と異様な臭気を含み、住み心地がよいとはとても言えなかったようですよ。

司令部壕の坑道は第五坑道をはじめとして、一部鉄骨などで補強してあるので、内部に入れる場所もあるようですが、そのほとんどは埋没したままとなっているようです。それというのも、司令部が南部に後退するに際して、坑道を爆破してしまったからです。

私達は五つある抗口で、首里城公園内で唯一見る事の出来る、第一抗口を一緒に見てまわりました。

ここは「園比屋武御嶽石門」から道を下ってすぐの所にあるので、どなたでも簡単に捜すことが出来ると思います。

ここには第一抗口以外にも複数の個別部隊の開口部があり、沖縄戦当時の面影を偲ぶことが出来るはずです。すべての出入り口は鉄柵などで仕切られており、中に入ったりする事は出来ません。

第一抗口を見た後、私達は歓会門のすぐ横の林の中にある「忠魂碑」まで足を運びました。

「忠魂碑」とは明治新政府の誕生以降に、日清戦争・日露戦争での戦死者の供養の為に、各自治体で建立した慰霊碑ですから、貴重な歴史建造物と言えますが、目の前にある「忠魂碑」は、なんと変わり果て見るも無惨なお姿に…。

憎き「忠魂碑」を打ち倒すために、砲爆撃を繰り返したという事は無いでしょうから(^^;)、首里一帯はこれだけ激しく爆撃されたという話ですよね。

可哀想な「忠魂碑」は、沖縄戦当時の首里城の、あの破壊され尽くした写真の一コマのように、まさしく戦火に打たれ傷ついた姿を今もさらしていました…。

首里城公園内にある戦争遺跡

遺骨収集の様子81

ここは第32軍司令部壕の第一抗口だと思われます。コンクリートで堅牢に構築された壕入り口ですが、分厚いコンクリートで造られていますよね。

遺骨収集の様子82

第一抗口の内部の様子です。左側奥から壕の中へ入っていくようです。こうした壕開口部から日本軍守備隊の将兵が砲撃の合間を縫って出入りしたのですね。

遺骨集の様子83

「第32軍合同無線通信所」と書かれた目印がありました。

遺骨収集の様子

コンクリートで構築された壕入り口ですが、かなり激しく破壊されている事が判りますよね。壕入り口のすぐ上の道路は、守礼の門から歓会門に至るアプローチ部分です。

遺骨収集の様子84

内部の様子です。ここは行き止まりとなっており右側から壕に繋がっている様です。

遺骨収集の様子85

歓会門のすぐ横の林の中にある「忠魂碑」です。西側から見た様子です。鉄筋コンクリートで造られていますが、土台を含め激しく破壊されています。

遺骨収集の様子86

別の角度から見てみましょう。弾痕がたくさん見えます。上部はどの様な形だったかさえ解りませんね。このような悲惨な姿をさらし続け、「忠魂碑」そのものも悲嘆に暮れていると思います(^^;)。

事前説明と交流親睦会

「金光教沖縄遺骨収集運営委員会」による金光教全教をあげての遺骨収集は、収骨数が激減してきた事などにより、平成14年の第26回開催をもって終了し、現在は規模を縮小した上で金光教那覇教会が遺骨収集奉仕活動の運営主体となり、毎年二月の二日間遺骨収集が実施されるわけです。

那覇教会の林先生を中心に地元沖縄の方々が、私達参加者を受け入れる準備をして下さるわけですが、名簿の作成・官公庁や警察・新聞社への挨拶、病院などへの緊急時の対応のお願い、地元情報提供者への連絡と調査、遺骨収集参加者の問い合わせ等への応対等々…。

これらは客観的に見ても、大変なボリュームの作業量だと思いますよね。

それなのに、今年は更に受け入れ側の準備作業が増えること間違いなしの、「事前説明と交流親睦会」を、前日に開催して下さるというのです。

私もその話を聞いた時に、「それは良いアイデアだ。一年に二日しか会えない参加者の親近感も確実に深まるし、遺骨収集の安全確保の面や、より効率的な運用が出来る。」とは思いましたが、一方でまた受け入れて下さる側の仕事量がまた増えてしまって、本当に申し訳ないなという気持ちにもなりましたね。

私とTさんも無事に集合時刻前に、那覇市壺屋(つぼや)にある那覇教会に到着し、並べられたイスに着席しました。

すでに多くの人が到着していましたし、ベテランさんが多くいらっしゃいますので、あちこちで賑やかな会話が交わされていました。

集合の時刻となり林先生が、名簿リストをもとに班長や班編制の説明、収骨地域の概要、遺骨収集の諸注意事項などを説明して下さいました。

事前説明と質疑応答が終了しますと、テーブルが周囲に設置され、たくさんの手作りの料理が机上に並べられました~。アルコールも、ビールをはじめとして地元泡盛が準備されているようですよ~。

いよいよお楽しみの交流親睦会が始まりましたよ(^o^)。一年ぶりの再会という事もあり、賑やかな会話と笑い声が会場一杯に広がっていました。

那覇教会での事前説明・交流親睦会

遺骨収集の様子87

金光教那覇教会の内部の様子ですよ。教会長の林先生が班編制や諸注意事項などを説明して下さいました。
※この後親睦会が開催されましたが、会話や食事に夢中になって撮影をすっかり忘れてしまいました~。

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