平成20年(2008年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月12日(火) 松永氏と二人で八重瀬町与座斜面で探索/単独で摩文仁探索

今日も午前中だけとなりそうですが、松永氏と一緒に遺骨収集をする予定ですよ。午後は「平和学習」のガイドが入っているという事で、収集作業は昼過ぎには切り上げるという話です。

松永氏の収集した地元情報によりますと、八重瀬町(やえせちょう)与座斜面に壕がありご遺骨がある可能性が高いというのです。ただし、正確な壕のある位置は特定されていないようですよ。

与座といっても摩文仁と地続きの、車で5分ほど離れた場所ですから、ここいらも当時は南端に追い詰められた日本兵や多くの避難民が、ジャングルの中を右往左往したのではないかと推測されます。

国道331号線に沿うように南側に小高い森林地帯が走っていますが、与座から更に東に進みますとザ・サザンリンクスゴルフクラブというゴルフ場となっています。摩文仁からこのゴルフ場までの範囲を与座と呼ぶようです。

与座の海岸線はそのほとんどが断崖となっており、また砂浜も無いことから、沖縄戦当時東西への移動は、もっぱらこの平原な与座のジャングルを移動したと推測されます。

ちなみにこの付近の海岸線の断崖を、米軍兵士らは「シューサイドクリフ(自殺の断崖)」と呼びました。

現在の沖縄地図の慶座絶壁(キーザバンタ)と記載されているあたりが、その自殺の断崖というおぞましい名称の海岸線となっています。

私も与座のゴルフ場の西側を探索するのは初めての経験だと思いますね。松永氏と共に、頑張ってご遺骨を探します。

八重瀬町与座斜面で探索・情報収集

国道331号線から脇道に入り森林帯にある農道の路側に車を止めました。松永氏が、情報収集のため農作業をしている人に聞いてみるといって、車を降りました。

農家のご主人らしき方と、あれこれと会話をしているようでしたが、戻ってまいりますと「壕の存在は知っていたけど、くわしい場所は解らない」との話でした。

引き続き居合わせた人にも聞いてみましたが、壕の位置の確たる情報は得られないと松永氏は話します。とりあえずこれまでに得た情報を元に、車を降りてジャングルに入ってみる事にしました。

国道から見る森林地帯は、ちょっと盛り上がった程度の丘というイメージでしたが、入ってみるとそれなりのアップダウンがあったりしますし、珊瑚でできた巨岩がゴロゴロしていたりで、前進するにもそれなりに大変でした。

沖縄戦当時の逃げまどう人達は、もっぱら夜移動したといいますから、月夜で明るい場合はそれほど大変でないかもしれませんが、真っ暗闇だったら移動は道路以外の場所では、かなりの困難さがつきまとったと思われます。

気がついた事のひとつに、ごく最近遺骨収集作業をやったと思われる場所が複数箇所ありました。

金光教以外の遺骨収集奉仕団も、活動しているという事ですよね(^o^)。ハブが冬眠している冬の間しか遺骨収集奉仕活動は出来ないわけですから、1月から2月にかけて各団体の作業が集中してしまうという訳です。

他の遺骨収集奉仕団が作業した後では、ご遺骨発見の確率は低下するかもしれませんが、そうだとしても油断してはなりません。

視点が違えばまた同じ場所で発見する可能性も十分に残されているのです。私たちは私たちなりの従来の視点を維持しつつ、集中力を切らさずに探し続けることが最も大切だといえるでしょう。

ジャングルに入って恐らく200メートルほど前進した場所でしょうか、地元情報でご遺骨があるかもしれないという壕が、国道側に面した斜面中腹にありましたよ(^o^)。

後にも先にも、壕はこの一カ所しかありませんでしたから、地元情報による壕はここだったと思われます。

壕から10メートルほど下ると、農家の畑が広がっていました。ビニールハウスを利用した施設園芸も盛んなようです。

壕に入る少し手前の所には、それほど大きなものではありませんが「水場」がありました。よく見るとセメントのようなもので整形してあり、雨水がたまるように整えられています。

この「水場」はわずかな量の水しか貯められませんから、農家が農作業に利用するとは考えられず、使われたセメントの色もかなり古びた印象ですから、もしかした沖縄戦以前から、雨水などを貯め置くために設置されたものかもしれません。

もしかしたら、沖縄戦当時も貴重な飲み水を提供してくれたかもしれませんね。摩文仁は、井戸や水の湧く場所がほとんど無いので、このようにわずかではあっても、雨水を貯め置いて人間や家畜の飲用に利用したものと思われます。

松永氏とその水場について色々と考察した後、すぐ上にある壕内部の探索をしました。

壕入り口付近にはジャングル特有の"気根"というのでしょうか、木の根がいっぱい垂れ下がっており、かなり太いものもあって、戦後の歳月の長さが偲ばれます。

壁面の状況からして自然に出来た洞窟ではなく構築壕だと思われます。開口部は那覇方面を向いており、内部は直線的に掘られているのではなく、ドーナッツのように丸く掘られているので、壕内はぐるっと一周するような構造となっています。

内径で40メートルほど歩くと、一周できてしまうというような広さでしょうか。

激しい攻撃と火炎放射を浴びせられたのか、入り口付近は落盤が激しいですし、壁天井は真っ黒なススで覆われていたりしますね~。

私たちも地面付近の岩をかき分けてご遺骨を捜してみましたが、土石の状況から収骨作業は終えていると思われ、僅かに遺品が散見される程度でした。

印象的だったのは、瓶の底がとろけた状態であった事でしたね。激しい攻撃を受けて壕内は灼熱地獄と化した可能性が想起されます。

八重瀬町与座での探索

遺骨収集の様子1

与座は比較的平坦な地形ではありますが、つる性の植物が生い茂り前進を阻みます。

遺骨収集の様子2

木の陰に軍靴の靴底と思われるものが露見していました。この付近で兵隊さんが亡くなったのかな。この地域全体としては戦争遺品はあまり見かけませんでしたね。

遺骨収集の様子3

雨水を貯めておく場所として、セメントで整形し作られたと思われる場所です。

遺骨収集の様子4

壕の入り口付近の様子です。右側のように太い木の根が何本も垂れ下がっていました。

遺骨収集の様子5

壕内部から出入り口方向を見ています。開口部は那覇方面に向いています。開口部がかなり大きいことから、砲弾を発射する拠点としていたかもしれません。

遺骨収集の様子6

幅1間、高さ1間の寸法で構築された壕内の様子です。

遺骨収集の様子7

火炎放射攻撃を受けたのか、壁面・天井はススで真っ黒になっている場所も多いです。

遺骨収集の様子8

地表面を調べる松永氏。遺品はほとんど見受けられませんでした。

遺骨収集の様子9

熱で溶けてしまったガラス瓶の底の物と思われる遺品です。攻撃を受けたときには、壕内は灼熱地獄と化したのでしょうか(^^;)。

遺骨収集の様子10

国土交通省国土地理院が設置した四等三角点が、付近で一番高い部分に設置されていました。

遺骨収集の様子11

石を積み上げて構築した塹壕とでもいうのでしょうか。向きは海岸線ではなく、那覇方面を向いていました。

ご遺骨発見!

地元情報による壕の探索を終えたので、車を止めた方向に向かって帰りましょうという話になりました。今まではどちらかというと北斜面を中心に西から東に向け前進してきたので、今度は南斜面を帰ることにしました。

北斜面はかなり斜面がきつい場所もありましたが、南斜面はかなり緩やかな平地といってもよいレベルの歩きやすいジャングルとなっています。

引き続き松永氏を私の視界の中に納め、一定の距離を保ちつつ、互いに無駄に重複して探索しないように、ジグザグしながら前進しました。

時折湿地に近いような場所もありまして、こういうところはハブがいる可能性も高まりますので、なるたけ避けて通ります。

それに湿気の強いところは石ころよりも土の部分が多く、土のような場所ではご遺骨も早期に腐敗が進み、過去の経験に照らしても、まずご遺骨の発見は無いですね。

すでに2時間以上与座で探索を続けていますが、思いの外戦争遺品が無いのに驚いています。確かに壕などの避難する場所はほとんど無い事が解りましたが、摩文仁に接続する地域ですから、大勢の人たちが行き来したはずなのにと思います。

引き続き下を向いて歩いていると、ついにご遺骨が目の前に現れました。

ついにご遺骨発見です!。クマデを掻いて探し当てたというよりも、目の前にパッとご遺骨が現れました。

最初に発見したのは「下あご」の部分でしたが、白い歯が無かったら恐らくご遺骨と認識できなかったかもしれません。見落としてしまうほどに、骨の部分は周囲の岩石の色と同化していたのです。

下あごに覆い被さるように岩がひとつありましたが、岩を除けると上腕骨と思われる骨が見えました。

ご遺骨発見という事で、この場所でのこれからは慎重に歩かねばなりません。ザッと周囲を見渡してみても、上あごや頭蓋骨などは見あたりませんね。

このような状況からして、ご遺骨は爆風で吹き飛ばされ、四散している可能性が高いですね。このようなケースでは、直径10メートル20メートルの範囲内をくまなく捜す必要があります。

このご遺骨は今は収集はしません。周囲の様子を観察し、収骨の規模等を概略把握した上で、那覇教会の林先生へご報告、金光教沖縄遺骨収集奉仕で、遺骨を収集していただく事になります。

私達がやらねばならない事は、この場所へ収集に来る際に速やかに到達出来るように、最短な到達ルートを提供できるようにしておく事です。

ルート把握のノウハウは、Web上では非公開とさせていただきますが、私達はご遺骨にマーキングして、隣接する道路の方向と思われる角度を決め、その推測に従い前進しましたら、ほぼ最短距離で道路へと出ましたよ。さすがですよね

しかも嬉しいことに道路へと出た場所は、私達の車が駐車してあるほど近い場所である事が解りました。

ご遺骨の発見場所は、道路から100メートルほど入ったところでした。これぐらいのわずかな距離ならば、摩文仁崖下などのようなひどい困難さは無く、10分程度でご遺骨発見場所まで到着できそうでよす。

ご遺骨に住まう御霊様。どうぞあと4日お待ち下さいね。

発見されたご遺骨の様子

遺骨収集の様子12

発見されたあごの骨の様子です。骨が周囲の色合いに同化している事が解るでしょう。白い歯があったから発見できたと言っても過言ではありません。戦後60余年、本当に0460お疲れ様でございました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子13

あごに被さっていた小さい岩を除けると上腕骨と思われる骨がありました。あごの骨は、「下あご頭」の部分が切断されたように無くなっており、至近弾で爆風を浴び上に乗っていた石と共に、顔面が激しく吹き飛ばされたのかもしれません。

松永氏は午後はお仕事が入っているという事でしたから、ぎりぎりのタイミングで運良くご遺骨が発見できました。

私達は路肩に止めておいた車に戻り、平和祈念公園を目指しました。

今回は松永氏の車を利用させていただきましたが、この車両は「平和学習」や遺骨収集などに使うことが多いのか、「平和学習」に利用すると思われる資料や道具がびっしりと積み込まれています。

松永氏はパッパッパッと手際よく着替えを終えると、1時過ぎには平和祈念公園を離れていきました。

単独で摩文仁之丘北側斜面で情報収集

私の午後の予定はと申しますと、摩文仁の一番高いところにある「黎明の塔」のほぼ北側斜面に位置する、以前から気になっている場所がありまして、これからそこを調査してみようと考えています。

まずは「黎明の塔」近くにある草地で、昼食を食べることにしました。

まず駐車場横の、おばちゃん達が運営している生花を販売しているコーナーで、生花を買い求め摩文仁山上を目指しました。

天候は雨の心配は無いのですが、午前中は晴れ間もあったのに、午後になるにつれて雲が厚くなってきており、そのせいか幾分暗くなってきています。

草場に腰を下ろし昼食を食べていると、なんだか寒くなってきましたね~。

午前中の探索作業で汗をかいたため、下着のシャツは当然のように昼食前に着替えましたが、天候は曇り空となり冬型の気圧配置が強くなってきたのか、北風がかなり強く吹き荒れるようになってまいりましたよ。

今年の沖縄の冬は天候不順で雨や曇り空が多いようです。冬型の気圧配置が多いという事ですから、冷たい北寄りの風と言うことで、気温も下がってきています。

去年の今頃は、遺骨収集でジャングルに入ると、蚊が飛んでいたというのに…。

寒いと余計に感ずる事なのかもしれませんが、ジャングルに茂る木々の葉が、強風によりザワザワと騒ぐと、一人でポツンと潜むジャングル内は、とても寂しく怖い感じがするんですよ~~ゾクゾク。

太平洋の波の音しか聞こえない時は、摩文仁のジャングルに居ることさえ忘れるほどなのに…。

本当に不思議ですよね。ジャングル内は静かだと何も感じませんが、上空の木々が騒ぐと、とても不安になり怖い感じがする…。誰かに答えを教えてもらいたいですね。

食事を終えると食休みもそこそこに、「黎明之塔」と塔直下にある、も牛島満中将と長勇参謀長が自決したとされる司令部壕を訪ね、手を合わせると共に献花してきました。

「この摩文仁にはまだ、収骨可能な20柱以上のご遺骨が存在する」というのが私の見解です。その全てを探し出すべく、たった一人ですが、この午後も頑張って探索作業に取り組む予定ですよ!!。

私が以前から気になっていて、いつの日かそこでご遺骨の存在の有無を、確認してみたいと思っていた場所があるのです。場所はちょうど「黎明の塔」の北側斜面の中腹に位置します。

現小さな穴があいており、中は広くしかも奥が見通せるのです!。

入り口は現状では人間は入れませんが、50センチ中に入ると人が一人通れる空間となっており、少なくとも3メートルほど穴が奥まで伸び、そこから横にも穴が連続しているように見えるのです(^o^)。

この摩文仁は、何度も何度も激しい艦砲射撃を受けて、山が変容するほどの破壊を受けたのです。飛び散った岩石が重なりあい、入り口が塞がれてしまった壕があっても一向に不思議でありませんよね。

もしかしたら、この穴も人間が出入りできる自然壕だったのに、空爆による破壊の繰り返しで、入り口付近が塞がれてしまった可能性があるのです。

入り口を塞いでいる巨岩もよく見ると積み重なった岩石のようにも見える事から、この入り口を塞ぐ岩石を除ければ、もしかしたら未発見の壕として中には多くのご遺骨が眠っているかもしれないと考えたのです。

もしかしたら、世紀の大発見だと~。

1時間半ほど格闘したでしょうか…。ついに人間が入れるほどの穴を開けることが出来ました~(^o^)(^o^)。

いや~大変だった!!。

切り開いた開口部から体を中に沈めてみましたら、確実に中に入る事が出来ました。

入り口から奥へ入っていくのは、今日は止めておきましょう。何かトラブルがあって、出られなくなったら大変な事になりますからね。

入り口さえ開けておけば、金光教遺骨収集奉仕活動の時に、複数人の立ち会いのもと調査できるというものです。

もちろん「ご遺骨は存在せずガックリ」という事例の方が多いのですが、調査済みの壕がまたひとつ増えたという事で、どちらの結果に至ろうとも、結果は素直に受け入れますよ。

このようにして、ご遺骨存在の可能性のある場所を、ひとつひとつ潰していく努力を継続していく事に、変わりはありません。

いずれにしても、開口部を確保するのに1時間半もの時間を要してしまいましたが、胸が高鳴るというのはこのような時です。

誰もこの壕の中を調査してない事は明らかですからね。もしかしたら複数のご遺骨が眠っているかもしれない…。

早く16日の土曜日にならないかな~。(笑)
楽しみは後にとって置くことにしま~す。

摩文仁「黎明の塔」付近の様子

遺骨収集の様子14

「黎明の塔」付近から見渡す摩文仁南斜面と海岸線です。激しい激しい砲爆撃により、沖縄戦当時は草木はほとんどなぎ倒され白い石灰岩の山となっていました。

遺骨収集の様子15

「黎明の塔」付近から東側を見ています。平坦部からいきなり崖となっており、下に降りるにはごく限られた場所しか降りられないのです。

遺骨収集の様子16

昭和27年に建立された「黎明(れいめい)の塔」です。沖縄守備軍第32軍司令官牛島満中将と同参謀長長勇中将を祀っています。

遺骨収集の様子17

「黎明の塔」直下にある第32軍司令部壕です。この司令部壕の中で牛島満中将と同参謀長長勇中将の二人は古式に則り自決しました

遺骨収集の様子18

摩文仁山上から北側斜面を下っていく木造の階段ですが、破損がひどく立ち入り禁止になってました。

遺骨収集の様子19

摩文仁山上から「沖縄師範健児の塔」に降りていくルートも危険箇所があり閉鎖となっていました。このままだと「沖縄師範健児の塔」に参拝する人が絶えてしまうので、早期の再開をお願いしたいですね。

未調査の壕の開口部分を拡大

遺骨収集の様子20

開口部の様子です。入り口は小さいですが、深さは3メートル以上あり更に横へ伸びているようです。入り口を塞いでいる岩石は爆撃により塞がれた可能性があり、中にご遺骨の存在する可能性が極めて大きいので、何とか開口部を広げて人間が入れるようにします。

遺骨収集の様子21

作業開始から1時間半経過しましたが、横から新たに穴を開けついに開口部を確保しましたよ。金光教沖縄遺骨収集奉仕の時に、内部を調査する予定です。

建設工事で使用する「シノ」という道具をご存じでしょうか?。私はこの道具を七つ道具の一つとして、いつも腰ベルトに入れて携帯しています。

今回の穴掘りにも、この「シノ」が大活躍してくれましたよ。

携帯するのに便利な鉄の棒みたいな道具なのですが、テコの原理を利用して使うので、見た目よりも遙かに強力なパワーを生み出しますし、スコップみたいにかさばる道具を持ち歩くよりも、相対的にかなりの利便性があり使い勝手が良いのです。

「シノ」、「剪定ハサミ」、「ノコギリ」、この三点セットはご遺骨を発見した場合には大活躍してくれますので、遺骨収集される方は携帯する事をお勧めしたいですね。

私はその他にもいろんな道具を携帯していますが、それらの道具類を準備する場合の注意点としては、同じ道具でも、大型のものは重いしジャングル内の移動時に邪魔になる可能性もありますが、メリットとして作業能率は良く、ガンガン作業を進められるんですよね。

一方同じ道具でも、小型のものは軽いし携帯している事を忘れるぐらい小さなものもありますが、作業時の能率は落ちるので、その分疲労度は増す事を覚悟しなければなりません。

これは大きいノコギリと小さいノコギリのメリット・デメリットを、それぞれ想像していただければ、容易にご理解いただけるものと思います。

摩文仁之丘の連続的な天然塹壕で情報収集

時刻も午後4時をまわってしまいましたが、このまま帰るのでは勿体ないと思い、かねてより調査してみたいと思っていた事柄を調べてみることにしました。

その事柄とは、この摩文仁の東西に連なって縦断している、「天然の連続的塹壕」とでも呼ぶべき亀裂を、西から東まで全部歩いて調査してみたいと考えているのです。

摩文仁を東西に走るこの巨大なV字型の亀裂は、西端は都道府県の慰霊塔が並ぶ一番西の「樺太の碑」付近から、東端は都道府県の慰霊塔が始まる「房総の塔」付近まで連なっているはず。「房総の塔」や「島守の塔」の前には道路があるので、亀裂がそれ以上伸びている事はあり得ないのです。

従って東西を結ぶ直線距離は、およそ300メートル程度という事になります。この300メートルの間を、遺骨調査ではなく、どのように亀裂が連なっているか調査してみようという訳です。

「ふくしまの塔」や「なにわの塔」付近の亀裂部分は何度も行き来しましたが、その他の部分については、まだ一度も歩いた事がないのです。

私は摩文仁の地を数え切れないほど歩いていますが、詳細に振り返ってみれば、このように「歩いてない部分」というのは至るとこにありますね。「摩文仁を歩き尽くした!」と言えるようになるには、あと100年は必要かもしれませんよ。

結果として、300メートル程の距離を1時間掛けて調査しました。

遺骨を捜すことはせず、壕も数メートル入った程度に留め、あくまで地形の探索と、米軍の砲爆撃やガソリンやナパーム弾の投下の際、日本軍はどのような防御が出来たのか…。そのような視点を念頭に、ゆっくりと歩いてみました。

西端から入って「ふくしまの塔」や「なにわの塔」あたりまでは、比較的平坦であり、V字型の深さもまさに塹壕といえるレベルで、この天然の塹壕を西に東にと、日本兵は行きつ戻りつしたのではないかと想像されました。

「なにわの塔」から更に東に進みますと、V字型の地形がかなり深く落ち込んでいる事が解りましたし、谷底に壕が連結していたり谷そのものが壕になっていたりで、かなり起伏に富み複雑な地形である事が解りました。

壕と呼べるような空間も複数箇所ありましたので、かなりの兵員が隠れる事が可能だったでしょう。

日本軍の視点から見れば、V字型の塹壕部分に直撃弾を浴びなければ、誠に安全な場所であったと思います。特に艦砲弾のように弧を描くように飛んでくる砲弾はかなり防げたのではないかと思われます。

ただ摩文仁は6月に入ってからの「掃討戦」になってからは、繰り返し繰り返し砲爆撃を受けました。

そして第32軍司令部が摩文仁にあることが米軍に知れてからというもの、6月21日頃から米軍による、摩文仁攻略のための総攻撃が開始され、戦記を読んでいても心が痛むほど、これでもかというほど徹底的に砲弾を撃ち込まれたのです。

たとえ堅牢なV字型の塹壕部分に隠れていても、至近弾の鉄の破片や岩石がぶっ飛んで来たり、ナパーム弾のように一瞬のうちに広い面積が火の海にされたり、壕内にガソリンを流し込まれて、灼熱地獄の中で凄惨な殺され方をしたのでした…。

繰り返される砲爆撃の破壊で、戦死者は日に日に瓦礫の下へ下へと、埋められていったのではないかと思われるのです。

摩文仁山上を東西に走る「天然の塹壕」の様子

遺骨収集の様子22

「ふくしまの塔」や「なにわの塔」付近は「天然の塹壕」にふさわしい理想的な地形です。この付近からは毎年ご遺骨が発見されています。かなりの兵隊さんが行き来したものと思われます。

遺骨収集の様子23

幅も狭くここも素晴らしい「天然の塹壕」ですよ。真上から砲弾が落ちてこない限り安心ですね。地面も比較的平坦であり、移動もスムーズにいったのではないかと推測されます。

遺骨収集の様子24

東に行くほど亀裂が深くなり、壕もあったりして兵隊さんが中に入っていたものと推測されます。

遺骨収集の様子25

この壕もかなり深く落ち込んでいますし、底部の空間も広かったです。ロープなしで問題なく降りられましたので、この中にも多くの将兵が隠れていたと思われます。

遺骨収集の様子26

ロープなしでは降りられないような深い部分もありました。長い木材とヒモがあれば、ハシゴを作ることは可能ですが…。当時はどうでしたでしょうか。

遺骨収集の様子27

壕の内部の様子です。このように広い空間がある壕が三カ所はありました。壕の入り口には「遺骨収集は終了している」という表示がありましたので、この長い「天然の塹壕」は、遺骨収集が終了しているようです。

V字型塹壕部分の東端はどのようになっていたかと申しますと、高さ5メートルほどの絶壁となっていました。つまり行き止まりとなっており、その崖部分から地上に上がるには10メートルほど戻ってから、登りやすいところから這い上がることになります。

這い上がった場所がどのあたりか予想できませんでしたが、そこは「島守の塔」の最上段部分でしたね。「島守の塔」には、沖縄県知事島田叡/沖縄県警察部長荒井退造両氏の慰霊塔などが、東側斜面に沿って建立されているのです。

「なるほど、ここに出るのか!」

「島守之塔」前の道路は、国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔へ至る際には必ず通る道です。そんな誰もが通る身近な道路近くまで、V字型の塹壕部分が伸びていたのですね~。

いずれにしても、いつの日か歩いてみたいと思っていた、東西に連なるV字型の塹壕部分を全部、一度に歩けたことがとても嬉しかったですね(^o^)。

沖縄守備軍第32軍司令部要員が、摩文仁に到着したのは、5月31日だと言われています。

日本軍の首里撤退以降、米軍は南部へ南部へと、火炎放射戦車などを先頭に、掃討戦を推し進めました。

そして米軍による島尻の摩文仁之丘に対する総攻撃は、6月21日から始まったのです。

まず米軍の空軍機が、軍事演習と見まがうように我が物顔でミサイルを撃ち込みました。

続いて広い範囲を一瞬に火の海にし、人間の体に火炎が付着すると、肉を焼き尽くしてしまうというナパーム弾が、一斉に発射されたり、壕には爆雷が投げ込まれたほか、空中からガソリン入りのドラム缶が投下され、火が放たれ火炎地獄の中、多くの将兵が非業の死を遂げたのです。

摩文仁之丘はそして特にこのV字谷は、守備軍の組織的戦闘の終焉の地であるが故に、相当な数の守備軍将兵が、非業の死を遂げたに違いありません。

ですから、こうしてV字谷の底を東西に歩くだけでも、御霊様の慰霊につながっていると思えてなりませんでした。

私たちが今出来ること。それは心を静め、こうして戦没者が辿ったであろう山野を、同じ目線で見つめる事しか出来ないのです。

米軍の激しい砲爆撃の無い今となっては、それは確かにささやかな行為ではあるけれど、御霊様の在りし日の思いを追憶するには、この方法しか無い……。と考える次第です。

「島守の塔」

「島守の塔」は数え切れないほど、何度も何度も慰霊に訪れていますね。何しろ摩文仁之丘にある慰霊塔群のとっかかりにあるものですから、摩文仁之丘に上がっていく際には、ついつい横へそれて手を合わせることになるのです。

しかし今回、まさか最上段から「島守の塔」の霊域に入ったというのは意外でしたね~。

前に「沖縄の島守」(田村洋三著/中央公論新社)で読んだこともあり、第27代島田叡沖縄県知事と荒井退造警察部長ほか戦没県庁職員468名が祀られてることはもちろん知っていました。

その本によれば、二人はこの島守の塔の裏手にある軍医部壕を6月26日に出発し、その後の消息は全くわからないという状況のようです。

内務省は遺族とも相談の上、島田知事と荒井警察部長の二人が、「軍医部壕」を出たと思われる26日を死亡の日と認定し、この日を命日と決めたといいます。

島田沖縄県知事としての赴任期間はわずか5か月足らず。享年は島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳でした。

私は「沖縄の島守」の本に記載されていた、慰霊塔の裏手にあるという「軍医部壕」を捜すべく、もう一度V字型の塹壕部分に入ってみましたが、本に記載されているような地形とはなっていなくて、「軍医部壕」をらしき場所を見つけることはなりませんでした。

振り返ってみれば、島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下の中で、共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という県政業務に取り組み、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後になってもずっと沖縄県民の敬慕を集めたお二人なんですよね。

私も知りませんでしたが、大東亜戦争の頃は、県知事職は選挙ではなく政府が任命する官選だったようです。

そして昭和20年頃の沖縄といえば、米軍が進出し戦場となることが見えてきましたから、政府の沖縄県知事職指名に対し数人が辞退し、よってなかなか沖縄県知事が決まらず、人選が難航していたらしいのです。

そうしたなか、兵庫県出身の島田叡(あきら)氏は、知事の内命をその場で受けたのです。

受諾後「おれが行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰か行って死ね。とは、よう言わん」という言葉を、知人に語ったといいます。

そして十・十空襲以降しだいに南西諸島への空爆が激しさを増すなか、昭和20年1月31日沖縄県に県知事として着任したのです。拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。

栃木県出身の荒井退造警察部長が一足早く沖縄に着任していたようですが、荒井退造警察部長と共に、まずは急がねばならない、沖縄県民の疎開業務に全力で取り組みました。

そして台湾や本土へまたは本島北部への県民疎開や、食料の確保と分散貯蔵、イモなど夜間作業による食糧増産、などなど喫緊の問題を迅速に処理していったのです。

島田さんが着任した経緯をよく知っている県職員もまた、知事の指示に従い精一杯県政業務に尽力しました。

前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、二人の努力により県内外に20万人以上も人々を疎開させ、それだけの人数の命を救ったといえるでしょう。

3月に入り米軍による空襲が始まると、県庁を首里にある第32軍司令部壕に移し、地下壕の中で県政業務を継続しました。

そしてそれ以後沖縄戦戦局の推移に伴い南部へと移動していく訳ですが、10余りもの壕を転々としながら、県庁として機能維持に務めました。

壕を転々とする頃から荒井退造警察部長は、不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている時が多かったといいます。

6月9日 米軍が島尻に迫る中、「轟の壕」内で、島田知事は同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。

島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。

沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。

6月21日から始まった米軍による摩文仁之丘への総攻撃。6月23日の第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の自決…。

生物が生きているはずがないと思えるほど攻撃を受け、白い石灰岩の荒野と化した摩文仁之丘から、二人が脱出したのは6月26日だとされています。

それ以降、島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人の消息は明らかにされていません。

「沖縄の島守」

田村洋三著 中央公論新社 平成18年(2006年)初版

上記文献を参照させていただきました ありがとうございました。

「島守之塔」

遺骨収集の様子28

「島守の塔」の全景です。第27代島田叡沖縄県知事と荒井退造警察部長ほか戦没県庁職員468名が祀られています。

遺骨収集の様子29

沖縄戦で戦没された県庁職員468名のリストです。5月末守備軍の首里撤退に伴い県庁も共に南部へ撤退しましたが、途中で多くの戦没者を出しました。

遺骨収集の様子30

歌碑です。「島守の塔にしづもるそのみ魂紅萌ゆる歌をききませ」

遺骨収集の様子31

歌碑です。 「ふるさとのいやはてみんと摩文仁山の巌に立ちし島守りのかみ」

遺骨収集の様子32

歌碑です。

遺骨収集の様子33

島田叡沖縄県知事と戦没県庁職員468名の慰霊塔です。

遺骨収集の様子34

一番高い場所に島田叡沖縄県知事と荒井退造警察部長終焉の地という慰霊塔があります。二人の戦没地は不明ですが、塔の裏手にある「軍医部壕」に居たこと、そして6月26日に「軍医部壕」を出発したところまでは確認されています。

遺骨収集の様子35

「島守の塔」前から「沖縄県平和祈念資料館」を見通しています。

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