令和5年(2023年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月08日(水)糸満市役所、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 2月09日(木)松永さん他4人による摩文仁海岸線ルート調査
- 2月10日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月11日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月12日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月13日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月14日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月18日(土)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 伝説の黄金ハブに遭遇 (^o^)
2月17日(金) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報は「晴れ時々曇り」です。予想最高気温22度、降水確率は10%、10%です。雨の心配は無く再び暑くなりそうですね。
本日朝の慰霊巡拝では、「轟の壕」、「沖縄工業健児之塔」、「島守の塔」を訪ねました。
「轟の壕」は国道331号線(名城バイパス)に隣接して交差点の角に、ご覧のようにな階段があります。案内板とか掲示板は無いので交差点が一つのキーワードです。駐車場はこの階段の左手にありますから、駐車したらまずこの階段を上っていきます。因みに、この階段も道路の拡幅工事に伴い一新されました。階段を登り切ると、50mほど小道を前に進むと壕口となります。また「轟の壕」は修学旅行での平和学習をする場ともなっているらしく、壕に隣接する道路に大型観光バスが連なって駐車している光景を目撃する機会も多いですね。
階段を上り終えるとご覧のような道が現れます。そして50mほど進むと壕口となります。迷う事無く壕口に到達出来ますので、安心して前進して下さい。
説明碑等が見えてきましたね。
「轟の壕」の説明碑です。ギリギリ読めますね。
ご覧のように、落盤・落石に注意とは書いてありますが、入壕禁止とは書いてないですね。良かった~。(^o^)
それでは石階段を降りていきましょう。
「轟の壕」
「轟の壕」です。と言いましても、窪地(ドリーネ)を下に降りて行く事になりまして、壕に入るのはまだまだ先です。壕は自然洞穴で、全長約100メートルほどの長さがあり川が流れています。地表部の見える部分と川が流れている壕部分との高低差は20mから30mぐらいでしょうかね。沖縄戦当時の轟の壕の内部構造については、「上の壕」「下の壕」と呼ばれていましたが、戦後は地下1階~地下3階と呼称するようです。今私が立っている窪地の降り口が地上1階として、川が流れている坑道部分が地下3階と呼ぶようです。ですから目の前の階段を降りて行くと、まずは地下1階と呼ばれる場所に到達するようです。
ガジュマルが行く手を阻み、またその他の木々が生い茂るなど窪地の様子もここからは見えませんが、沖縄戦開戦当時も同じように木々が生い茂り、天然に偽装されていたようです。島田叡知事以下の県庁首脳部がこの轟の壕に移動して参りましたが、先遣隊として知事一行よりも一足早くこの壕に入った後方指導挺身隊佐敷分遣隊長の伊芸徳一は、「中央の岩盤上には大きな雑木が数本繁り、丘の中腹からも、節くれだった古木の梢がその頭をのぞかせていた。(中略)ひろげる枝々が、円筒型の口を蔽い、天然の偽装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた」(「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著から引用)と語っています。
所在地ご紹介
「駐車場は、轟の壕への階段の左側にあります。トイレはありません」
窪地を少し降りていきますと、ある程度見通せるようになりました。ご覧のような光景になっていますから、窪地になっているのがハッキリ解るようになりますね。ちなみに階段はコンクリート製になっていますので、比較的安心して歩けますが、やはり雨の日は要注意という印象ですね。
最初の拝所が見えてきましたね。拝所は複数あるようです。この辺りが、階層で言うと地下一階でしょうかね。
この「頭上注意」の赤いコーンは、昨年訪問時には無かったのですね。この一年の間に、この頭上の岩が剥落したと言う事でしょうか?
頭上の岩盤を見ています。よく見ると写真左上側に、なんとなく岩が剥落したと言うような雰囲気の場所がありますね~。
この辺りは異常を感じられません。
拝所です。右側の石柱に「とうるるち」と書かれていますが、沖縄の方々は、この轟の壕の名前を「とぅるるち」とか「とぅるるし」と呼ぶそうです。
ここも拝所になっていますね。
ここも拝所です。
この地下一階と思われる場所に、ご覧のように道がありますね。行ってみましょう。(^o^)
この辺りが最奥部です。拝所から20mぐらいでしょうか。完全に岩盤に囲まれた場所となっていますので、砲弾の直撃は避けられそうな印象を受けます。
この写真は壕口の近くを撮影しています。写真中央辺りに壕口が見えますね。修学旅行生は左側に写されている手摺でガードされた通路を行き来しています。この写真で注目して頂きたいのは、壕口の手前の右側地面をご覧下さいませ。水こそ流れていませんが、現状を観察しますと枯れた沢みたいになっているのが解ります。想像するに大雨が降ると、ここは沢のように水が流れて壕口に入っていくと推測されます。先ほど壕口から出入りした坑道部分は、大雨の時にはきっと川のように水が流れた事でしょう。沖縄の梅雨入りは関東よりも約一ヶ月早いゴールデンウィーク明け頃に梅雨入りして、一ヶ月半ほど続くのが通例です。沖縄戦当時の梅雨明けは6月5日だったと言われています。ですから、この梅雨の期間は壕口からかなりに水量が川のようになって流れ込んだと思われます
写真中央部に黒っぽく小さな壕口が写されていますね。沖縄戦当時は「下の壕」、戦後の呼び名である地下3階への入り口となる場所です。「下の壕」への出入り口はここ一カ所だけのようですがの、壕内部を流れる川下から外に出たと言う証言もあるようです。
戦時中は最も多い時で軍民合わせてむ千人は超えて入っていたと言われています。「轟の壕」には島田叡(あきら)知事をはじめ沖縄県県庁が6月5日(諸説あります)に移動して参りました。
6月5日から「轟の壕」で県庁業務が開始されましたが、島田知事は6月15日(諸説あります)には警察部も含めた沖縄県県庁を解散すると宣言したのです。掃討戦を展開する米兵は戦車を先頭に刻一刻と島尻に迫っていたのでした。県庁職員の方々も壕外で業務もまともに出来ない状況下、解散宣言はやむを得ない決定であったと受け入れられたようです。そうした意味で「沖縄県庁最後の地」とも呼ばれます。
因みに6月16日(諸説あります)、島田知事は摩文仁の司令部壕に向かうため「轟の壕」を離れました。島田知事と荒井警察部長の軌跡、特に轟の壕以降の動向詳しく知りたい方は、下掲の「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著をご覧下さいませ。
《書籍ご紹介》
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版
「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」
TBSテレビ報道局「生きろ」取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)初版
この写真は窪地(ドリーネ)の、今ご紹介した拝所がある場所の向かい側を撮影しています。よく見ると階段状に道が出来ているのが解ります。向かい側のこの辺りも結構な人々が上り下りしているようですね。
壕入り口が見えてきましたね。今日は階段部表面が乾いているので、滑る心配はほとんどありませんが、雨の日の訪問は地面がとても滑りやすいです。何しろ直径約30mのドリーネ(窪地)に降った雨の多くが、この壕口目掛けて流れ込むのですからね。轟の壕に避難していたのは、老人や女性が多かったようですし、沖縄戦当時は時節が梅雨時であり、壕口の急勾配と共に土の急斜面と言う事で、壕の出入りは本当に危険で大変だったと思われます。
ここにも拝所がありました。
間もなく壕に入りますが、こうして見ても壕口は驚くほど狭いですよね。とは言っても昔から見るとかなり大きくなりました。近年になって恒常的に修学旅行生の平和学習をするようになってから、生徒の安全を考慮して通行しやすいように広げられました。それでもまだご覧のように狭い状況には変わりはありません。壕内に入る場合は、汚れても良い服装、そして手袋とヘルメットは必須です。ライトも勿論必須ですが、欲を言えば懐中電灯ではなく、両手が使えるヘッドライトが良いのですけど、予算の面で難しいかもですね。
壕の中に入りました。写真のこの辺りが最も狭い部分です。数年前に拡幅され、そして突起物なども削られて丸くなり、開口空間は凄くスマートになりました。併せて床面も可能な限りセメントで固着され、階段みたいな段差が設けられて、とても歩きやすくなりました。
最難関な場所は数メートルです。少し下ると高さは同じように無いのですが、幅はご覧のように徐々に広くなってきます。天井面をご覧下さいませ。よく見ると煤で黒ずんでいるのが見えますね。「轟の壕」は、6月18日から米軍による激しい馬乗り攻撃が始まりました。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたものを落とし込むなど、執拗な馬乗り攻撃は三日三晩続き死傷者が続出したそうですが、そうした攻撃の残像が今も残されていますね。
坑道右側に拝所がありますね。
右側に拝所がありました。丸い石が鎮座されています。この様に丸い石を拝みの対象にする場所は結構ありますね。
こ河川敷が見えてきました。こまで来ると流れる川の水音が大きく聞こえます。河川敷と言うのも妙な気持ちになりますが、紛れもなく川があるので河川敷ですよね。現代で呼ぶところの地下三階と言う事になります。
轟壕の壕底に到着しました。沖縄戦当時は「下の壕」と呼ばれていた場所です。また戦後は地下3階と呼ばれている場所です。洞窟の長さは100mぐらいあるとの事です。また沖縄戦当時は轟の壕に最大時で千数百人が居たとされますが、ほぼ縦走してみた体感として、全員が立っていたとしても、千数百人と言う人数は恐らく収容出来ないと言う印象を受けました。思いのほか人が居られる平坦な地盤が少ないのです。そうした意味で、沖縄戦当時の6月24日25日の両日に、約600人の避難民が救出されたと記録されていますが、こんな狭い空間に600人が暮らしていたこと自体に驚きましたから、川の中にある岩の上に身を置いていた方なども居られたかも知れないと思いました。
因みに轟の壕は地元の方々はカーブヤーガマと呼ぶそうです。カーブヤーとはコウモリの事で、昔はこの壕内にコウモリが沢山生息していたそうです。私はかなりの回数入っていますが、コウモリを見たことは無いですね。平和学習が頻繁に為されていると言う事で、コウモリ君達にしてみると安息の地では無くなったと言うことですね。
河川敷に降りた所で、今来た坑道を撮影しています。ご覧のように、河川敷に出るまでは、体を屈めないと通行は出来ませんが、河川敷に出ると立って歩けるようになります。
この写真は降りてすぐ右側を撮影しています。こちらが水上という事になります。どちらかというと水上側の方が乾燥していて居心地は良かったとされています。水上に行ってみましょう。(^o^)
まだ奥へ行けそうですね。
まだまだ行けそうですが、単独行動なのでここで止めておきます。因みに、更に川上に概ね600mぐらい進むと、山第二野戦病院小池隊長最後の地、積徳高女学徒看護隊の壕として知られる糸洲の壕に到達するらしいですよ。糸洲の壕に流れている水が、こちらの轟の壕に流れ来ているようです。両壕は距離的にそれ程遠くはないですね。人が通れるぐらいの坑道だとも聞いていますから、本当であれば、いつの日か縦走してみたいですよね~。(^o^)
今度は川下に向かって行きましょう。(^o^)
沖縄戦当時「下の壕」と呼ばれた場所で、ここが一番広いスペースのある場所となっていますから、恐らくこの場所で修学旅行生へのガイドの説明が為されるものと思われます。
石臼は昔からありますね。この辺りも大勢の人々が居たのでしょう。洞窟空間の高さは十分あり立って歩く事が可能ですが壁側に近づく場合は頭上も警戒しなければなりません。ここでは全く光を確認できません。また洞窟で川が流れている場所は酸欠事故は起こらないとされていますので、この洞窟内は酸欠の心配は不要と言う事ですね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
川の流れです。水量は例年通りと言う感じですね。それにしても、地下水なのに水に色が付いていて汚い感じですね。
川はこの辺りが一番深いと言う場所です。
川の壁面を撮影しています。壁が真っ黒になっているのが解ります。壕口から火炎放射攻撃を受けた結果なのか、壕内で煮炊きした為の煤なのかは不明ですね。鍾乳石の氷柱がある場所は、黒い煤は洗い流されてしまいますが、氷柱が無い場所は氷柱から水滴が落ちてないので、沖縄戦当時の煤をそのまま現在に残している‥‥。と言う事は考えられると思います
頭上の氷柱の様子です。四枚ご紹介します。
氷柱の一部が欠損しています。安全の為に沖縄戦当時欠いたのか、それとも平和学習の場の安全管補の為に欠いたのか?
見事ですよね~。
素晴らしい氷柱です。氷柱状鍾乳石の先端部をご覧下さいませ。何かキラキラしていますよね。これは水滴が光っているのです。これは即ち氷柱状鍾乳石は成長を続けていると言う事になりますね。洞窟によって違いはあるでしょうが、地表からあまり深くない洞窟は、雨が降ると氷柱状鍾乳石からしたたり落ちる水滴量は確実に増すでしょうね。因みにこうした水滴があちこちから落ちる壕で遺骨収集の作業をすると体中がびしょ濡れになります。これは体験した人なら解りますが、想像を超えて不快ですよ。ですから沖縄戦当時この洞窟で過ごした避難民の方々も、飢えと共に何もかもが生きるために我慢我慢の日々だった事でしょう。
下流へ向けて少し前進してみました。一人なので、これ以上深入りはしません。ご覧下さい。写真が白っぽく写っていますよね。これ霧なんですよ。普通の川でも寒い早朝に、ご覧の減少が現れる事が多々あります。未明の時間帯に空気が冷えきっているところに、比較的暖かな川の水が流れていると、霧が発生するのです。それと同じ現象が、洞窟内でも見られると言う訳ですね。水は空気と比べて4倍くらい比熱が高いです。それは「水は空気と比べて4倍くらい冷めにくい」と言う事ですね。壕内ですから無風なので、霧の細かい粒子が移動しているのが観察出来ますよ。(^o^)
壁際に拝所がありました。
川に沿って拝所がありました。ご覧のように、造形物はセメントで作られ色を塗ったと言う印象を受けます。意味合いは全く解りませんね~。
轟の壕の最奥部にある池の調査をした事があります。松永さんが、轟の壕の中にある池を調査してみたいと以前から語っていたからです。轟の壕では、大雨の時に壕内に大量の雨水が流れ込み、壕内に避難していた民間人が流されたという情報があるのだそうです。ですから、もしかしたら池の中に流された人達のご遺骨が沈んでいるかもしれないと言うのです。という事で、虫取りネットのような道具を持参して、壕内にある池を調べた時の写真があるのでご紹介致します。
《過去の写真ご紹介》
【平成22年(2010年)2月19日撮影】
さすがに夕方6時を過ぎて外は暗くなってきましたが、どうせ壕内は真っ暗だから問題ないか~。(笑)
轟壕の階段を下りていきます。松永さんが手にしているのが、捕虫ネットがついた棒です。念のためお伝えしておきますが、これから壕内にセミやカブトムシを取りに行くのではないですからね。
壕内の天井にはご覧のようなツララがたくさん見られます。気の遠くなる年月が経過して出来たものです。
壕内の様子を松永さんが私たちに説明をしてくれているところです。何千年何万年の時が洞窟を作り、ツララを生成します。壁面もよく精査すると化石が多く見られるそうです。
台風や大雨の時に、壕内に流れるこの川が氾濫して、避難民が流されていったという話があるそうです。
ここが御遺骨がまだあるかもしれないと推測される池です。(池の撮影は失敗しました)
この付近は台風や大雨の時は、水浸しとなりしばらくの期間立ち入り出来なくなるそうです。
池は縦横10メートル以上の大きさがあります。深さはそれほど深くない印象です。
捕獲ネットを取り付けた棒を池の中に入れてみることにしました。
池の中の底をすくい、ヘドロをかなりの量上げましたが、遺品や遺骨は発見されませんでした。遺品などが見つかれば、後日継続調査する予定でしたが、30分ほど皆さんが交代で棒を操作しましたが、結局遺品や遺骨は全くありませんでしたので、棒が届く範囲をすべて探索したのち、見切りを付けて作業を終えました。
過去の写真掲載はここまでです。
さあ帰りましょう。今来た道を戻ります。(^o^)
壕口が見えてきましたよ。
お~出ました。やはりホッとする瞬間ですね。(^o^)
坑道の階段を撮影しています。繰り返し大勢の学生が通るので、石の表面がツルツルになっていますね。
帰りは左側の崖下を通って帰りましょう。
壕口に向けて降りてきた通路を撮影しています。赤いコーンも二つ見えますね。
こうして見ると、今立っている場所は窪地(ドリーネ)であるのが解りますね。
地面をご覧下さいませ。通路らしき場所の土が完全に踏み固められていますよね。このルートも大勢の学生が行き来している証です。
凄い風景です。怖いぐらいですね。
この辺りも隠れられる場所と言えるかもです。
左側の崖下ルートも、ご覧のように、結構な数の横穴があります。
ここにも壕と呼べる穴があります。
ここも少人数ながら隠れるスペースが若干ありました。ただ壕とはとても呼べず、ちょっとした穴と言う感じですね。轟の壕の資料によれば、この岩陰辺りに佐藤喜一特高課長が居られたと記されています。佐藤特高課長は、沖縄戦当時宮城県出身の警察官僚として、首里陥落後は轟の壕で業務を遂行していまして、壕に居た佐藤特高課長と共に警察・県庁職員らが「住民が壕を出るのを認めてくれ」と、陸軍軍人を説得したとされている方で、結局、六百人余りの避難民が米軍に投降し命をつないだとされています。そんな身を挺して避難民を救おうとした佐藤特高課長が、至近弾を浴びれば全員即死みたいな、こんな危険な岩陰に滞在していたとは‥‥。
轟の壕の窪地に降り始めた場所が近づいて参りました。窪地壁面の状況も上り坂となっています。この斜面を上りきると、解説板がある平坦な場所に出ると思われます。窪地(ドリーネ)の全周の様子を知りたいので、このまま登って行きましょう。
ヒェ~。家庭ゴミや粗大ゴミが捨てられていますね。
家庭ゴミが多いですね~。前進しても前進してもゴミが現れます。
農家の園芸資材であるビニールシートとかですね~。これらのゴミの下にご遺骨がある可能性がありますよ。戦後一度も掘り返されてない可能性がありますからね。
次に目指すは「沖縄工業健児之塔」です。平和祈念資料館の隣にありますよね。その平和祈念資料館は外装工事の足場が掛けられています。
「沖縄工業健児之塔」です。同塔の専用駐車場はありませんが、付近の道路上に駐車出来るので問題は無いと思います。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。同塔は車道から見えるので発見しやすいと思われます。立地はと言いますと、海岸沿いの崖上にあり背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。平和祈念公園内ですから、近くには展望台もあったりしますから、慰霊に併せて太平洋を展望できますね。
「沖縄工業健児之塔」
「沖縄工業健児之塔」です。近年改装工事が為されて、慰霊塔の中では比較的良好な状態を維持しています。7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。
同塔は大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。
軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では4メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。テキストに起こしてみました。因みにこちらの塔名は「鎮魂」と言う文言が加入してありますね。
【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】
太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。
尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。
昭和三十七年十一月建立
沖縄県立沖縄工業高等学校
沖縄県立工業學校遺族会
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会
例の白い説明文です。ギリギリ読めますね。
塔は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしていると書かれていますね。
小さな碑が霊地内の左端に設置されていました。碑文は概略「昭和20年6月4日、午前7時摩文仁百六番地徳村氏の屋敷内で艦砲の直撃を受け、沖縄県立工業高等学校の学徒九人が即死した‥‥。四人の記名と五人が氏名不詳である」と記されています。
沖縄県立工業健児鎮魂之塔の左側に展開する芝地を写しています。樹林帯も見えていますが、幅は狭くて約30mぐらいの樹林帯が帯のように連なっていまして、樹林帯に先は崖になっています。晴れてのどかな公園風景ですが、この写真に写されている範囲内で頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見しました。
その場所は芝地と樹林帯の境目、概ね写真の左手ですが、柵が見えていますよね。そこは沖縄県立工業健児之塔から見ると約50mぐらい東に移動した場所辺りなのですが、芝地から3mぐらい入った所にある壕で、私は頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見したのです。平成20年(2008年)第35回沖縄遺骨収集奉仕活動での成果でした。過去の記録としてご覧下さいませ。
《過去の写真ご紹介》
岩の割れ目から壕に入りしばらく前進すると、日本軍将兵が被っていたヘルメットがありました。こんな大きな遺品がそのままという事は、まだこの壕は誰も調査していないと感じた私は胸が高鳴りました。急がず目を凝らして極めて慎重に奥に進んでいきました。
壕はどんどん狭くなりましたが、ヘルメット発見場所から2mぐらい進むと、人間がやっと入れるような隙間でしたが、遂に御遺骨を発見しました。丸く崩れていない頭蓋骨や大腿骨が見えます。その他小さな骨も奥の方に掛けて散乱しています。また岩に隙間が見えますね。一部の御遺骨は下の空間にある壕に落ちていました。それら全て収骨してみると完全一体の御遺骨と宣言して良いボリュームとなりました。
発見御遺骨のあった場所の手前側は下に穴があり、そこにも壕と呼べる空間がありました。写真は今にも下に落ちそうな脛骨です。足の細かい骨等は皆下に落ちていました。
収骨する皆さんが全力で記名遺品を探しましてメガネ二個が出てきましたが、残念ながら身元を特定する遺品はありませんでした。メガネが二つ出てきました。べっ甲で作られています。べっ甲で作られたメガネは珍しいような気がします。箱のようなものは「マッチ」と思われますが、驚くことに箱の部分は金属でできていました。また本部に送った土砂からキセルの金属部分も発見されていましたが、氏名の特定は出来なかったようです。また近くではサーベルも発見されましたが、腐食が酷く記名があるとは思えませんでした。
この御遺骨のあった場所は公園芝地から3mジャングルに入った場所です。このように公園からジャングルに入って直ぐ。道路からジャングルに入って直ぐ‥。こうした「○○から入って直ぐ」の場所は、御遺骨発見に向けての極めて穴場的場所であると強調したいです。例えば道路からジャングルに団体で入る場合をイメージして頂くと解るのですが、こうした場合大概道路からジャングルに入るに際して、「入りやすい場所から一列縦隊で入る」事がとても多いのです。このように道路から入って一直ぐの場所は、とても見落としが多い場所と言えるでしょう。
過去写真掲載はここまでです。
「沖縄工業健児之塔」の左横から背後に掛けて、立派な遊歩道が完成していました。この遊歩道は令和3年(2021年)に完成したのでしょう。折角ですから、新しい遊歩道を歩いてみましょう。その前に、下掲で一昨年撮影したこの辺りの工事の様子をご紹介します。
新しい遊歩道の左手を撮影しています。この辺りは凄いフィッシャーとなっていますが、落下防止用に金属ネットを張った為に、その上を蔓植物が伸びて、金属ネットは見えますが、フィッシャーそのものは全く見えなくなっていますね。
ここも同じような感じです。凄いフィッシャーがある場所です。
《過去の写真ご紹介》
【令和3年(2021年)1月17日撮影】
良く見ると「沖縄工業健児之塔」の背後にあるジャングルが切り払われていました。到着した直後、背後がやけに明るいなと感じたものです。なぜ切り払われてしまったのか‥‥。考えてみましたが不明です。(^^;)
切り払われてしまった所にフィッシャー(岩の割れ目)があります。このフィッシャーは、平成20年(2008年)に完全一体のご遺骨が発見されたフィッシャー部分に通じているのです。この長いフィッシャーは当時金光教の遺骨収集で徹底的に捜索も為されています。それでは写真でフィッシャーを追ってみましょう。
「沖縄工業健児之塔」側から撮影しました。フィッシャーが続いているのが見えますね。
まだ続いています。鉄柵も見えて来ましたね。
写真の左側まで全部フィッシャーは続いています。この写真の左手辺り、公園の敷地から3mぐらいジャングルに入った場所からご遺骨は発見されたのです。
過去写真掲載はここまでです。
それでは遊歩道を歩いてみましょう。平和祈念資料館裏で遊歩道は分岐しているようです。素晴らしい眺望ですね。(^o^)
分岐しました。Uターンするように東の方向に向きました。とても人が登り降り出来ないような絶壁と言える崖が続いているのが解ります。確かに急峻な崖なのですが、遠望する崖の少なくとも三カ所から崖下に降りられるルートがありますね。また崖の最奥部は極めて急峻な崖になっていますから、慶座絶壁(キーザバンタ)と思われる方も居られると思いますが、同絶壁は更に300m程東に進んだ場所になります。
階段下の平坦部は平和祈念公園の一部ですから、新設された遊歩道と階段は、階段を降りきると終了という事になりますね。
遊歩道のその先が緩斜面になっているのが解ります。その先には古墓群があるので行ってみましょう。
緩斜面を降りると、ご覧のように、数基ですが崖下を利用して設けられた古墓群があります。写真中央辺りも石垣が積まれ、墓入り口も小石が積まれているのが見えますね。
石垣が積まれています。お墓の入り口は、ご覧のようにしっかり塞がれていますね。
単なる石垣となっている場所もありますね。沖縄戦で破壊されてしまったのでしょう。ですから戦前は古墓であったと思われます。
ここも古墓ですね。戦後コンクリートで整形したのでしょう。
上部をご覧下さいませ。かなり高く石垣が積まれていますね。
ここも古墓みたいですね。ここが一番右端のお墓となっていました。
ご覧下さいませ。黒煙の煤で壁面が真っ黒になっているのが解ります。沖合に米艦船から見ると、壕に見えるのでしょうね。
古墓群の西側はご覧のようなジャングルになっています。ここからジャングルに入って遺骨収集した事がありますが、岩場だらけの場所となっていて、壕も何カ所かありました。
古墓群のある場所の海側は基本的には全て絶壁となっていますが、実は崖下に降りられるルートが一箇所あるのです。折角ですから、その希少なルートを見てみましょう。もう見えてきましたね。(^o^)
ここまでは道になっています。実際ここまでは公園内ですし、革靴やハイヒールであっても、誰でも来る事が可能ですから、絶壁を間近に見られると言う事で、大勢の方々が立ち寄られるのだと思われます。
崖下に降りて行く場合は、ここを降りていく事になります。結構急峻ですが、急峻な部分は約15mです。途中に手榴弾が二個岩の間に置いてある事から、日本軍将兵も多分夜間だと思いますが、この崖を登り降りしたに違いありません。急峻な崖ですが、適度に手を掛ける岩、足を乗せる岩があるので、危険であると言う印象は薄いです。ですから浮き石だけには注意して、岩にしっかりと手を掛けて進めば女性でも登り降り可能です。実際に金光教の遺骨収集時代は、複数人の女性がここを登っています。(女性が降りるのは見た事がありません) 因みに、摩文仁はほとんどが急峻な崖となっていますから、崖下に降りるルートは限られています。ここを基準にすると西側については、次に崖下に降りられるルートは約500m先となります。また同じく東側で、次に崖下に降りられるルートは約350m先となります。
崖下の様子です。眺望を楽しむと言う意味では、迫り出した岩の上に立つと、絶壁下の様子や東シナ海の景観を楽しむ事が可能です。
西側を見ています。急峻な絶壁が続いているのが解ります。
帰路についています。スロープをゆっくり登り、平和祈念資料館横に出ました。
「平和の礎」のある方向を撮影しています。
平和祈念資料館です。大規模な外装工事が始まったようです。
多目的広場の先に白い塔が見えますが、「沖縄平和祈念堂」ですね。
沖縄平和祈念堂の真下までやって参りました。本日は「島守の塔」時間が無いので訪問は見送ります。
式典広場方面を見ています。式典広場の背後には摩文仁之丘が横たわっていますね。
トイレに立ち寄りました。トイレに灰皿がありますね~。昭和を感じさせる設備では無いでしょうか。
式典広場の右側にはお土産屋さんが軒を並べていますね。お土産屋さんの端部には平和祈念公園の警備部が常駐しているのですが、その横で金光教の遺骨収集のうち、運営委員会による大規模な遺骨収集が平成14年(2002年)に終わりましたが、翌年の平成15年(2003年)から金光教の那覇教会主催による遺骨収集が続けられましたが、その本部テントが設営されていた場所でもあります。懐かしい場所ですね。(^o^)
この広い芝地が式典広場です。広いですね~。式典広場はその名の通り、沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日には、この式典広場で政府主催の沖縄全戦没者追悼式が挙行されます。また更に摩文仁之丘が遠望されます。
式典広場の最奥部にある建造物は、「平和之丘モニュメント」です。沖縄戦当時、住民達が逃げ込んだガマを再現したという話です。
広い芝地が式典広場で、沖縄平和祈念堂方面を俯瞰しています。
「島守の塔」
「島守の塔」です。同塔は平和祈念公園内の各県の慰霊塔が建ち並ぶ地域の入り口にあたる場所に位置していますし、規模も大きいですから見落とす事が少ないと思われます。平和祈念公園内を慰霊巡拝される方は是非立ち寄って下さいませ。(^o^)
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、平和祈念公園内の施設を利用します」
島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る 「島守の塔」です。写真奥のジャングル内に軍医部壕があるわけですが、島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えているために、ゆかりの軍医部壕前に慰霊塔を建てました。私達も遺骨収集にやってくると、国立戦没者墓苑への参拝と共に必ず立ち寄るのがこの『島守の塔』です。
「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。 塔の除幕式と第一回慰霊祭は、昭和26年(1951)6月25日に行われました。島田知事夫人の美喜子氏をお迎えし、5000人近い沖縄県民も参列して式典は執り行われたそうです。
摩文仁には50を超える慰霊碑、慰霊塔が建立されていますが、その中でもいち早く県民の浄財により『島守の塔』は建立されました。 その事からしても、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなどした、沖縄戦前後における島田知事、荒井警察部長、そして県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが、『島守の塔』の早期建立を実現させたのかもしれません。そして両氏は、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後から現在に至るも沖縄県民の敬慕を集めていると言えるでしょう。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「太平洋戦争沖縄県職員戦没者御芳名碑」です。同職員戦没者468名の名前が彫られています。
詩歌碑です。仲宗根政善先生の詩ですね。
詩歌碑です。
詩歌碑です。
詩歌碑です。
詩歌碑です。
戦没した島田沖縄県知事、県庁職員468名を祀っている「島守の塔」です。
大阪府の内省部長の地位にあった島田氏は、内務省の命による第二十七代沖縄県知事就任について、この話を断ることもできる地位にいましたが、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したといいます。文官は軍人と違って、殉職を予想しての任官はそうそうあるものでは無いはずですが、島田氏は沖縄の困難な時局を背負う覚悟で引き受けられたのだと思います。拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。昭和20年1月31日赴任、そして6月下旬に島田知事は消息不明となりました。知事在任期間およ五ヶ月…。予期された殉職のその日まで、多くの仕事を成し遂げた五ヶ月でもありました。
一方県外疎開などの県民保護に邁進した荒井警察部長は、在任ちょうど二年で殉職されました。荒井警察部長は立場上東京で開かれる全国警察部長会議に行く機会が何度かありましたが、会議より県民疎開の仕事が大事だと、結局就任以来沖縄本島から出ることはありませんでした。ご家族は郷里である栃木県に引き上げさせていましたから、上京の機会を利用すれば家族との面会もできたにも関わらずです。また荒井警察部長は、壕を転々とする頃から不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている事が多かったといいます。
島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳で殉職されました。島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下における沖縄県民の生命を守るべく、車の両輪のごとく共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という戦時県政業務すなわち疎開政策と食糧不足対策に尽力されたのです。前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、特に二人が軍と協力して推し進めた沖縄県民の県内外疎開政策により、沖縄戦を生き延びた県民は二十万人にも達したのです。
島田知事は、6月9日米軍による島尻掃討戦が迫る中、「轟の壕」内で同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。
島田知事は、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。島田知事は牛島司令官が勧めた「軍医部の壕」に移動したと言います。
牛島軍司令官は6月23日に軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は収束しました。そうした中で、通説が幾つかありますが、島田沖縄県知事と荒井警察部長の二人は、所在が確認されている摩文仁之丘にあった「軍医部の壕」を25日か26日に出た後、その数日後荒井警察部長は、アメーバ赤痢が悪化して亡くなり、島田知事は摩文仁南斜面の自然壕でピストル自決したと見られています。
階段を登ってみましょう。
階段の右手を撮影しています。トウツルモドキが大繁茂していますね。遺骨調査地域でこんなトウツルモドキ群に遭遇したらヒェ~~と言う感じですね。
霊域最上部には「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」と書かれた塔が建立されています。沖縄戦当時、この附近に「機関銃の銃座」があったとされています。
階段を登り切った場所から振り返って撮影しています。先ほどの沖縄平和祈念堂や式典広場もよく見えますね。
個人の戦没者慰霊碑ですね。
「終焉の地碑」の裏手を撮影しています。ご覧のように、裏手はV字谷になっていて、このV字谷は各県の慰霊塔西端にあたる鹿児島県の「安らかに碑」辺りまで続いている巨大な谷でもあります。「軍医部の壕」がこの付近にあるはずですが、まだ探しきれていません。因みにV字谷の底に降りる事は可能です。
V字谷の東側を見ています。奥まった所に壕がありますね。
V字谷の西側を見ています。少し解りにくいですが、もう少し前進出来ますが、やがてゴミの山に遭遇します。
私達は、島田知事と荒井警察部長のお二人が最後の時を過ごされたと言われる、「軍医部の壕」を見つける事が一つの目標となっています。未だ果たせてはいませんが、いつの日か必ず見つけたいと念じています。碑の背後のV字谷部分は土砂が、すぐに降りられるぐらいに堆積していますが、この土砂は慰霊碑を建立する際に出た残土ではないかと私は疑っています。この土砂に埋もれた範囲内に「軍医部の壕」があるのではないかと推測しています。
『沖縄の島守』(田村洋三著/中央公論新社)によれば、「島守の塔」裏手にあるとされる「軍医部の壕」について次のような記述がありますので、転載させて頂きました。
【摩文仁之丘の軍医部壕内見取図】
さて、島田らを迎えたころの軍医部壕は、どんな様子だったか。大塚は著者の取材ノートに壕内の略図(挿図22)を書きながら、説明してくれた。
「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭く、お粗末でした。
雨が降りますと、やんでからも三時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジトジト濡れていました。
そんな所に軍医部長の篠田重直・軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。あの壕は九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました」
島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。
「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。
この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました。
その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、それは後でお話しするとして、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校三人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。
両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦二列に寝ていました。
配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、二番目が私と島田知事、三番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。」
「沖縄の島守」から転載させて頂きました
「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。
この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました」
この大塚氏の証言は実に具体的でリアルなので、大いに私たちを喜ばせてくれるものですが、この文面を頼りに「軍医部の壕」を捜しても、残念ながらどうしても見つかりません。
いずれにしてもこれまで何度がチャレンジして徹底的に「島守の塔」周辺部の壕発見を目指して精査しましたが、「軍医部の壕」に該当するような内部構造を持つ壕に出会うことはありませんでした。
《書籍ご紹介》
島田沖縄県知事と荒井警察部長の軌跡について、更に詳しく知りたい方はぜひお読み下さいませ。(^o^)
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版
「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」
TBSテレビ報道局『生きろ』取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)8月初版
島田知事と荒井警察部長に関わる記事がありましたのでご紹介します。
【住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事、顕彰の動き広がる】
「産経新聞」平成27年5月2日
太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、出身地の兵庫県との交流会も予定される。国に命をささげることが礼賛された時代、住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。
米軍の上陸が迫る1945年1月、島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、前任者は東京に出張したまま戻らなかった。
当時、県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。この人となら運命を共にできると思った」と振り返る。
着任後、食糧確保のため自ら台湾に渡り、県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。だが米軍の猛攻は収まらず、壕で県庁を解散。同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、消息を絶った。43歳だった。
旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓から、住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、県警察部職員の山里和枝さん(88)に「米軍は女性と子どもには手を出さないから、最後は投降しなさい。必ず生き抜いて、戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという。
戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。主人公にしたドラマの影響もあり、有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。
賛同の署名は3万に上り、建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、那覇市の球場近くに建立される。那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、井戸敏三知事も出席する方向で調整している。
「産経新聞」から転載させて頂きました
【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】
「産経新聞」平成27年6月11日
郷土史研究家が功績伝える
終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。
◇
講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。
■7万3000人を県外疎開
荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。
「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。
4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。
日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。
戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。
■顕彰へ機運高まる
塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。
「産経新聞」から転載させて頂きました
映画ご紹介
ドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事」予告編
調査・遺骨収集作業開始です
本日の作業開始です。頑張っていきましょう。(^o^)
三浦さんです。今日は「晴れ時々曇り」の予報なのですが、ジャングルの現場は少し暗いです。三浦さんはヘッドライトを点灯して作業しています。今日は点灯した方が作業しやすい感じですね。
福岡さんです。福岡さんもヘッドライトを点灯しています。
崩さないように、慎重に岩を外していきます。
福岡さんが何か見つけたようです。
お~、脊柱のうち頸椎辺りのご遺骨でしょうかね。
福岡さん、また何か見つけたようです。
既に掘り出しています。
脊柱のうち、腰椎辺りでしょうかね。
また見つかったようです。
間違いなく人骨です。形状から推測すると踵骨しか考えられませんが、少しゴツゴツしているのが気になります。踵骨の隣にある、同じように大きい舟状骨かも知れませんね。
福岡さん、またご遺骨発見です。
破断しているので、ご遺骨の部位は解りませんね。
福岡さんまた発見しました。
お~。頭蓋骨の一部ですね~。下顎の骨が見つかりましたが、その場所とは少し離れています。戦没者は砲弾で肉体が四散したのかも知れませんね。
福岡さん、またご遺骨発見です。穴の中にあるので、大きなロングトングを穴に差し込んでいます。
少しピントが外れていますが、ロングトングで発見したご遺骨を挟んで出しました。やはり頭蓋骨の一部でした。(^o^)
福岡さん、また発見しました。
同じく頭蓋骨の一部ですね。
今から移動します。壕内で発見されたご遺骨の収骨作業を昨日まで続けた訳ですが、発見されたご遺骨が沖縄戦戦没者であるかどうかを遺骨収集情報センターの調査員の方と警察官に見てもらう為に、再び現場に向かいます。と言う事で、一時的に作業は終了です。私達はここで亡くなられた戦没者に線香をあげ、手を合わせました。m(_ _)m
これまでに収容されたご遺骨の様子です。
ご覧のように、破片ですが頭蓋骨の骨片が多く見つかりましたね。
脊柱も多く見つかりました。
遺骨収集情報センターからお二人がお越し下さいました。ありがとうございます。糸満警察署の警察官も帯同されていました。(^o^)
前を行く、黒ずくめの服装の方が糸満警察署の警察官です。ジャングル行と言う特殊な行動のために、服装や足回りもしっかりと整えてお越し下さいました。
斜面を登っていきます。
ある程度道は作ってあるので、比較的歩きやすいと思います。見た目も何となく道っぽくなっていますね。ご遺骨が発見された以降は、必ず糸満警察署の警察官と遺骨収集情報センターの調査員の方が訪れる事となるので、私達はジャングルの行き来する道と定めたルートを通る度に、手には剪定ばさみやノコギリを持ち、パチパチ、ガリガリと蔓植物の蔓や細い木などを切るなど、より歩きやすい道に改変するように往復の時間を費やします。
特に足下に蔓植物が伸びていると、転倒リスクが高まりますし、同じく浮き石も危険なので可能な限り排除するように努めています。こうした往復の際だけのこまめな道作りも馬鹿に出来ないですよ。実際に自分が歩いているので、蔓植物に足を取られたらすぐに切断しますし、浮き石に乗ったらすぐに排除します。こうして危険リスクをその場で即刻排除して進むのです。
こうした細かい作業を続ける事により、転倒リスクが軽減されていきます。私達はこうした作業が転倒リスク回避に繋がると体験的に解っているので、ご遺骨が発見された場合は、何時も併せて往復時の道造りにも取り組みます。この道造りは、こうして警察官やセンターの調査員の方を案内するその日まで続ける事となりますね。(^o^)
トウツルモドキなどの蔓植物の枝が凄いですが、道になっているルート状の伸びた蔓は全てカットしてあるので、転倒リスクは低いですし、比較的歩きやすい路面になっています。
白いビニールテープの紐が現れました。現場が近くなった証です。
間もなく到着です。
無事に全員壕口に到着しました。(^o^)
遺骨収集情報センターのお二人が、収容されたご遺骨や遺品について、目視調査や写真撮影をしている所を撮影させて頂きました。
また糸満警察署の署員の方も、発見されたご遺骨は沖縄戦戦没者であると認定して下さいました。これにてご遺骨は遺骨収集情報センターに運ぶ事となりました。ありがとうございました。(^o^)
写真は、私達が発見した遺品の現場での措置を写していますが、遺骨収集情報センターの調査員の方に、「発見した遺品について、このように現場毎に残置していきますが、よろしいですか?」と確認を求めたところ、ご了承して下さいました。(^o^)(^o^)(^o^)
と言う事で私達南部戦跡遺骨収集会では、今後このような形態で、発見した遺品を現地に残置していく事となりました。雨に当たらず、地面に触れないように小石の上に置くように務めれば、白布は10年ぐらいは持つのではないでしょうかね。またビニール袋なら長いスパンでは問題になるでしょうが、白布は綿製ですから、やがて自然に帰るので環境を汚染する事もありません。(^o^)
現地調査終了です。帰路につきましょう。
糸満警察署警察官及び遺骨収集情報センターの皆様、本日は誠にありがとうございました。(^o^)
遺骨収集している現場に戻りました。(^o^)
遺骨収集している現場に戻りました。現時点までに収容されたご遺骨や遺品の様子です。本日で本年の遺骨収集作業は終了ですから、最後まで頑張りましょう。(^o^)
福岡さんです。手早く掘り始めました。
吉井さんです。大きな岩が現れました。
三浦さんです。早速何か見つけたようです。
お~。ご遺骨です。足の指でしょうかね。
福岡さんです。絡まる根と格闘しています。
現時点までに収容されたご遺骨の様子です。
頭蓋骨の骨片も多く見つかりました。
吉井さんと福岡さんが作業している場所も、ご遺骨が多く発見されている場所なので、二人は慎重に作業を進めています。地盤はご覧のように、小さな岩が多いのですが、そこに混ざるようにご遺骨が散在しています。そうした状況から推測されるのは、ご遺骨は至近弾炸裂をもろに浴びて、肉体が四散してしまった‥‥。と言う結末ですね。(^^;)
吉井さんが何か見つけたようです。
お~、数珠ではないですね、穴がありませんから。表現しにくいのですが、装飾が施されていますね。初めて見ましたが、遺品として対応しましょう。(^o^)
吉井さんは丁寧な仕事をします。岩を一つ一つ手で外していきます。
現時点までに収容されたご遺骨の様子です。
現時点までに収集された遺品類ですね。
福岡さんは場所を変えました。
三浦さんです。何か見つけたようです。
福岡さんです。この場所は結構な急勾配になっているのが解ります。
吉井さんと三浦さんです。タイムアウトの時刻まで頑張ります。
夕方となり作業終了です。この収集現場は、昨年に続き二年目となりましたが、昨年ほど収集できませんでしたが、それでも今年もご覧のように、少し発見されました。全ての場所で収集作業が為された訳ではありませんので、来年も引き続きこの場所で遺骨収集を続けたいと思います。(^o^)
頭蓋骨の骨片も多く発見されたのが印象的ですね。その頭蓋骨骨片は四散していました。それは骨片の断面部を見ても強い力で分割されたように割れている事から、戦没者は至近弾炸裂をもろに浴びた可能性が高いと思いますね。
脊柱も大きいのから小さいのまで、万編なく見つかっていますね。
発見された遺品類ですね。左側半分は砲弾破片です。この場所が如何に砲爆撃に晒されたかが解ります。
発射された小銃の薬莢もご覧のように見つかりました。
下着のボタンも見つかりましたね。
同現場での昨年の収骨状況をご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
【令和04年(2022年)1月撮影】
本日の最終的な収骨状況です。
【令和04年(2022年)1月撮影】
本日の最終的な遺品類や艦砲弾の破片と思われる鉄片類です。
【令和04年(2022年)1月撮影】
ご覧のように、下肢の骨が多いですね。
【令和04年(2022年)1月撮影】
大腿骨と腓骨ですね。大腿骨頭は二個あるように思います。
【令和04年(2022年)1月撮影】
ご覧のように、下顎が二つ発見されました。この収骨現場には二名の戦没者が居られるようです。二つの下顎の「下顎頭」や「筋突起」に注目です。大きさが随分と違いますね。大人と子供ぐらい違うような印象です。又は男性と女性ぐらいの差があるような気がします。
過去写真掲載はここまでです。
今年収骨された頭蓋骨の骨片をご覧下さいませ。下顎骨の右側が写されています。上掲写真をご覧下さいませ。昨年発見された下顎骨二つのうち、一つは下顎骨の左側しか収骨されていませんでした。今回右側が収骨されたと言う事で、左右を並べて骨の大きさが対称になっているかを確認してないので断定は出来ませんが、一応二人分の下顎骨が揃ったと言う事にはなりますね。