令和5年(2023年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月08日(水)糸満市役所、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 2月09日(木)松永さん他4人による摩文仁海岸線ルート調査
- 2月10日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月11日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月12日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月13日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月14日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月18日(土)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 伝説の黄金ハブに遭遇 (^o^)
2月15日(水) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報は「曇り」です。予想最高気温18度、降水確率は20%、20%で、にわか雨があると言ってました。また全国的に冬型が強まるとの事です。
本日朝の慰霊巡拝では、「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」、「栄里之塔」を訪ねました。
まず目指すのは「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。見つけにくいと思われますが、頑張って探して下さい。住所としては糸満市真栄里です。木々が茂るこの小高い丘は交差点の近くにありますので注意深く周囲を観察してみて下さい。「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」は、目の前の階段を上るとあります。
階段は途中で踊り場がありますね。慰霊塔が見えてきました。
霊域に到着しました。
霊域で最初に目にするのは二つの碑で、左側の地面に埋められているように見える碑が「陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊長エドウィン・T・メイ慰霊碑」で、右側の直立している碑が「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」です。
こちらは、「陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊長エドウィン・T・メイ慰霊碑」です。ちょっと名前しか読めません。(^_^;)
こちらは、「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑」です。写真では反射で解りにくいのですが、同碑は英語と日本語で碑文が刻まれています。日本語では「米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー 1891年‐1945年 1945年6月19日 この地に於いて戦死す」と書かれていますね。戦死した日付が19日となっている事から、サイモン・B・バックナー中将が戦死した翌日に、同じように狙撃されて戦死しました。与座で日本軍陣地に対する戦闘指揮中に、日本軍陣地から発射された二発の機関銃弾によって前頭部を撃たれての即死だったようです。
小さな階段を登ると「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」の霊地になりますね。
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。サイモン・B・バックナー中将は米第十軍の司令官で、沖縄戦も終末が近づいた昭和20年6月18日に守備軍による砲撃で戦死したのです。米軍が沖縄占領を宣言する6月21日から見ると、僅か三日前と言う段階での米軍最高位指揮官の死でした。
同日午後1時15分頃、観測所で戦闘指揮中に沖縄守備軍が放った砲弾がこの観測所の真上で炸裂し、吹き飛ばされた岩石の一つがバックナー中将の胸部を直撃したのです。バックナー中将はその場に崩れるように倒れ、十分後には絶命したとされています。
「沖縄戦は峠を越した。後は最後の追い込み戦だけだ」とバックナー中将は、6月15日に語っています。また同日訪れた観測所は第二海兵師団第八海兵連隊の前線観測所でした。警備が手数と見られていますし、軍装からも高い地位にある将官であると解る出で立ちであったようで、客観的に見て油断があったとみるのが順当かも知れません。因みにこの第二海兵師団諸部隊は、4月1日と19日に海上から陽動作戦に参加しただけで、各部隊は一度も上陸していませんでしたが、6月に入ってから最後の戦闘に参加する為に上陸し、真栄里での同隊の進撃状況を視察している所だったのです。
サイモン・B・バックナー中将の遺体は沖縄に仮埋葬されていましたが、終戦後にバックナー中将の故郷であるケンタッキー州のフランクフォート墓地に埋葬されたと言います。
またこの高台には「バックナー中将戦死の碑」が、米軍により昭和27年(1952年)に建てられていましたが、昭和49年(1974年)にキャンプフォスターに移設されたため、昭和50年(1975年)6月に沖縄県慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)により、新たにこの高台に建立され現在に至っていると言う状況のようです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」です。「米國第十軍司令官 サイモンBバックナー 中将戦死之地」と彫り込まれています。
霊地の一角に建立されている碑です。「諸霊よ安らかに」と日本語で書かれていますね。下の英文も多分、亡くなられた沖縄の人々、アメリカそして日本の人々の諸霊よ安らかに‥‥。と言う意味合いでしょうかね。
《過去の写真ご紹介》
【昭和63年(1988年)撮影】
この写真も、野戦重砲兵第一連隊の中隊長として指揮をとっていた石原正一郎さんから頂いた写真です。石原さんは、昭和61年(1986年)6月18日に建立された、写真の「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」についても設置に向けて尽力されました。石原さんは、毎年沖縄の慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていると語っていました。
サイト管理人コメント:
「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー碑」が建立されてから二年後に撮影された写真ですので、同碑などはまだ真新しい印象を受けますね。
過去の写真掲載はここまでです。
大きな岩が鎮座し、日本語と英語の二つの碑文が書かれています。
日本語文では「一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す」と刻まれていますね。
英文で書かれています。日本語で書かれた碑文が同じ岩の反対側にあるので、日本語文と同じ意味合いでしょうね。
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1946年 1月
写真解説:
【原文】 Stone with tablet on it showing spot where Gen. Buckner,
Jr. was killed.
【和訳】 バックナー将軍が戦死した場所を示す石碑
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon
B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名: 米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:糸満市高嶺
撮影日:1952年 4月28日
写真解説:
【原文】 A memorial tablet which marks the spot where Lt. Gen. Simon
B. Buckner, was killed.
【和訳】 シモン B.バックナー中将の戦死した場所に建つ記念銘板
サイモン・B・バックナー中将は、沖縄戦における勝敗の帰趨は決したと判断したのでしょう。6月11日付けで、「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ」と題して降伏勧告文を発出していますが、その文面が第一線の手を経て第三十二軍司令部に届けられたのは、6月17日であったようです。軍使を出されよとする6月12日から五日が経過していたという事になりますね。まずはサイモン・B・バックナー中将から発出された降伏勧告状を見てみましょう。
【降伏勧告親書文】
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。
然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりました。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。
明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。 米軍上陸軍司令官 シモン、バックナー中将より
昭和二十年六月十一日
米軍側から見て戦況の帰趨も見えてきたと言う状況下、第三十二軍司令部首脳がサイモン・B・バックナー中将の18日の真栄里での戦死を、6月21日の夜か翌22日未明に知ったと、下掲の矢原博通著「沖縄決戦」に書かれています。バックナー中将の戦死に対する軍首脳部の反応も含めて一部引用させて頂きご紹介致します。
《書籍ご紹介》
「沖縄決戦」 高級参謀の手記
矢原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版
(277ページ)
アメリカ第十軍司令官バックナー中将の死は、我々にとっては初耳であり、驚愕すべきビッグニュースであった。私は、わが軍司令官の自決に先だち、敵将を討ち取ったことに、無情の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。むろん参謀長は踊り出さんばかりであった。だが、牛島将軍はと見ると、一向に嬉しそうになく、むしろ敵将の死を悼むかの如く、私どもが喜ぶのが当惑そうである。以前我々が将軍の面前で、人の批評をした際、困ったような顔をされるのが常であったが、それと同じである。私は今更ながら、将軍は人間的には偉い人だと、襟を正さずにはおられなかった。「沖縄決戦 高級参謀の手記」から転載させて頂きました
「栄里之塔」の全景です。住所としては糸満市真栄里ですね。見通しの効く道路の交差点の一隅にありますので、結構見つけやすいと思われます。因みに交差点の反対側には、先ほど慰霊巡拝した「サイモン・B・バックナー中将戦死の跡碑」がありますので、是非両塔を慰霊巡拝される事を推奨致します。
「栄里之塔」
「栄里之塔」です。昭和27年(1952年)3月に建立、そして昭和43年(1968年)3月に改装されました。「栄里之塔」には、この付近に布陣した第二十四師団(山部隊)の、主に歩兵第二十二連隊将兵と住民約12,000余柱が合祀されています。
ぎりぎり「栄里之塔」と読める文字が、後世の人間として何とかしたいなという思いを抱かせます…。真栄里一帯は6月中旬頃最も激しい戦闘が展開された場所ですが、戦後この付近に散在する御遺骨を、真栄里部落の住民が収骨し慰霊塔を建立したものです。
沖縄の納骨堂全般に言える事ですが、昭和32年に日本政府が当時の琉球政府に委託し、那覇市識名に「戦没者中央納骨所」を建設しました。同年以降、各地に収められている戦没者のご遺骨は、「戦没者中央納骨所」への転骨が推進されていったのです。この「栄里之塔」も、かつては大きな納骨堂がありました。転骨すると集落の慰霊の場が奪われるとして住民達が反対した為に、沖縄遺族連合会は、南方同胞援護会からの助成金を用いて新たな慰霊塔を建立し、そこに象徴としてのごく少量のご遺骨を残したと言う経緯があるようです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
碑文です。ギリギリ読めますが文章化してみました。
【栄里之塔 碑文】
歩兵第二十二連隊は第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。
住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。
終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨12,000柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。
昭和四三年三月 財団法人沖縄遺族連合会
歩兵第二十二連隊(山3474部隊)は、首里戦線における幸地での激戦が特に知られていますよね。北海道の歩兵第八十九連隊や山形の歩兵第三十二連隊と連携し、地形を生かした防御戦闘により米軍に多大な出血を強いたのです。5月27日からの第三十二軍司令部と全軍の撤退に際しては、退却する守備軍の退却援護を命じられていました。島尻での戦闘では、6月11日米軍第一師団の猛攻で小禄の海軍部隊が全滅すると、隣接して配備についていた歩兵第二十二連隊も壕を馬乗り攻撃され死傷者続出するも残存兵は真栄里に転戦布陣し、米陸軍最精鋭師団の鋭鋒を挫いたのでした。歩兵第二十二連隊第一大隊長小城大尉は、「ここが、我々の最後の陣地だ。我々は、ここで死ぬ」と訓示し、歩兵第二十二連隊将兵も呼応し最後の一兵まで手榴弾を投げ続け徹底抗戦をしたと言います。
歩兵第二十二連隊旗を託された本田昇少尉は、6月24日に宇江城の二十四師団司令部に後送のうえ奉焼したとの事です。現在クラガーガマの横には「山雨の塔」が建立されていますが「第二十二連隊軍旗奉焼の地碑」もありますね。また糸満市真壁にあるタヂリガマに歩兵第二十二連隊(山3474部隊)本部があったと言う事で、同壕から900m程離れた位置にある「萬華之塔」敷地内には、歩兵第二十二連隊の戦時における名称である「山3474部隊慰霊之碑」が建立されています。
塔上空はモクマオウの木が元気に枝葉を伸ばしています。
「栄里之塔」の東側を見ています。糸満市字真栄里にある「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」場所は、この写真の範囲に写されているのでは無いかと個人的には思っています。
「栄里之塔」の東側を見ています。遠くの左手には「白梅之塔」などがある方角ですね。この辺りはご覧のように平坦ですから、縦横に米軍戦車が行き来したと言います。
糸満市米須交差点にファミリーマートがありますよね。何時も便利に利用させて頂いてますが、駐車場に隣接する土地に、ご覧のように立派なガジュマルの木があるのでご紹介します。(^o^)
見事ですよね~。(^o^)
ガジュマルの木らしく、絡み合いながら上に伸びています。
「金城家のガンジューガジュマル」と呼ぶようです。樹齢150年近いとは驚きですね。(^o^)
調査・遺骨収集作業開始です
本日は、福岡さん、三浦さんと私の三人での作業となります。作業に先立ち、まずは沖縄戦で戦野に果てた戦没者のご冥福を願い手を合わせます。
いつもの流れで集合写真です。左側から福岡さん、三浦さんです。それでは、今日も頑張りましょう。よろしくお願いします。(^o^)
作業に先立ち、まずは昨日までに収容されたご遺骨のご冥福をお祈りし手を合わせました。合掌‥‥。
作業開始です。お二方が作業を進める場所も、初日から比べると、かなり地盤面が下がりましたね。
一個の歯をも漏らさないように、フルイに土を入れる→フルイを振るって細かい土砂を落とす→フルイに残った土砂を捨てる。をひたすら繰り返す作業が続きます。
お~。頭蓋骨のようですよ。慎重に掘り進めましょう。
間違いありません。目の上の部分ですね。嬉しいです。(^o^)
壕の上側の穴からお二人を撮影しました。この壕への出入りは、ここからも行った可能性があります。上側にも隠れる場所がありますので、そことの行き来が安全に行えますからね。
二人が同じ場所で作業すると早いですね~。(^o^)
炭があるねなんて話していたら、ご遺骨も露出して来ましたよ。(^o^)
外堀から掘っていきましょう。
浮いてきましたよ。
掘れました。腕の骨である尺骨ですね。
まだ何かありますよ。(^o^)
ご遺骨が見つかると、確実に集中力は高まります。福岡さん、三浦さん、地面に気持ちが集中しているのが見える程です。
福岡さんが、何か見つけたようです。
下着のボタンです。目視で良く見つけましたね~。目が良いのでしょうし、集中力の為せる技ですね~。(^o^)
また何かありますよ。
慎重に‥‥。
浮きました。
脊柱ですね。結構大きい事から、腰椎辺りでしょうかね。
これは足の骨である腓骨の骨端部でしょうかね?
ひたすら同じ作業が続きます。頑張れ、福岡さん、三浦さん。(^o^)
お~。印鑑が見つかりました。期待したいですね~。(^o^)
オッ、また何か見つけたようです。
浮いてきましたよ。いわゆる膝のお皿ですね。お皿は二個目です。
同じ姿勢での作業が続きます。同じ姿勢だと結構疲れるんですよね~。
地下足袋の留め具ですね。地下足袋は日本の伝統である足袋にゴム底を付けた履き物で、日本軍部はこの地下足袋の強靱さに着目し常用する履き物に指定しました。
岩がある場所以外は、ぐんぐんと掘れていきます。
お~。大きな南京錠みたいなのが出て来ましたよ。(^o^)
お~。出ました。足の踵の骨である踵骨ですね。
福岡さんは、少しずつ壕口に近づいています。
本日も夕方になったので作業は終了です。現時点での収容されたご遺骨と遺品類です。
ご遺骨もずいぶんと多く収容されました。頭蓋骨の一部も見つかりましたし、何よりも嬉しかったです。
こちらは遺品類です。遺品類も多く見つかりましたね。