令和5年(2023年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月08日(水)糸満市役所、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 2月09日(木)松永さん他4人による摩文仁海岸線ルート調査
- 2月10日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月11日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月12日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月13日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月14日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月18日(土)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 伝説の黄金ハブに遭遇 (^o^)
2月14日(火) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報は「曇り」です。予想最高気温20度、降水確率は30%、30%です。寒気が流れ込み冬型が強まるとの事で、終日雨が降る可能性がありますし、明日は冬型が更に強まるとの事です。因みに、朝の散歩時は沖縄とは思えないぐらい、凄く寒かったですね。
本日朝の慰霊巡拝では、「マヤーアブ」、「ひめゆり学徒散華の跡碑」、「開南健児之塔」、「魂魄の塔」、「金城和信翁の胸像」、「有川中将以下将兵自決の壕」、「ずゐせんの塔」、「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」を訪ねました。
既に糸満市山城にある平和創造の森公園内に入っています。朝一番で目指すはマヤーアブです。見えてきましたね。間もなく到着です。
「マヤーアブ」
「マヤーアブ」のある場所にやって参りました。壕のある場所は糸満市山城にある「平和創造の森公園」内です。マヤーアブに行くための道に金網が設置されています。令和4年(2022年)1月21日に訪れた際には、既に金網が設置されていました。崩落の危険があるので立ち入り禁止になったようです。金網から20mぐらい奥まった所に壕口があります。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、平和創造の森公園の施設を利用できます」
マヤーアブの説明板です。壕の平面図・断面図で壕の全体がイメージ出来ると思います。写真にあるように壕内には、まだ大量の遺品が残されていますし、沖縄戦戦没者のご遺骨も何故か残されているのが実情です。
金網から20mぐらい奥まった場所に壕口があります。令和3年(2021年)に、民間業者に委託して壕内部の大規模調査が実施されたみたいです。私の所にもウエブサイトを通じて調査業者から情報提供の要請がありました。因みに昔訪ねた際に道の横にハブが居ましたよ。(^_^;)
網に手を入れて撮影しました。昨年辺りは壕口までの道がはっきりと出来ていましたが、現在はご覧のように道は全くありません。
この掲示板は今回初めて見ました。壕内は立ち入り禁止だけど、壕口は見られますよ‥‥。と言う事ですね。
沖縄戦で住民避難のガマ、県が立ち入り禁止に 「子や孫のため」住民が公開求める
【毎日新聞】令和2年(2020年)8月24日
太平洋戦争末期の沖縄戦で住民が避難した沖縄県糸満市のガマ(自然洞窟)を巡り、管理する県が崩落の恐れなどの危険を理由に立ち入りを禁止し、地元住民らが公開の継続を求めている。「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の猛烈な攻撃から身を潜めたガマは住民にとって「命をつないだ壕(ごう)」。修学旅行生らに戦時の状況を伝える平和学習にも活用されてきただけに、住民は「戦争体験を次世代に伝えるためにも公開を続けてほしい」と訴える。
平和学習の場として活用
ガマは糸満市山城(やまぐすく)にある「マヤーアブ」。現在は県平和創造の森公園の中にあり、入り口から最深部で地下約20メートル、奥行きは約30メートル、幅は最大で約17メートル。1945年3月ごろから、集落の住民約200人が避難したとされる。45年4月1日に米軍は沖縄本島中部に上陸。海・空・陸から激しい攻撃を加えた。マヤーアブは沖縄本島南端の海岸線まで約500メートルの場所にあるが、中にいた住民に死傷者は出なかった。しかし、米軍の侵攻で日本軍が本島南部に撤退すると、マヤーアブに日本兵が来て住民を追い出した。
糸満市史によると、住民は当初、入り口を畳で塞いで拒否したが、日本兵は畳を軍刀で切り裂き「戦いに勝つためだから出ろ」と言った。住民は家族ごとに分かれて逃げたが、相次いで砲弾などに襲われた。当時の山城集落の住民のうち64人が死亡。マヤーアブもその後に攻撃を受け、日本兵が亡くなったとみられる。
仲門(なかじょう)キクさん(87)は当時12歳。母ときょうだい4人でマヤーアブに避難した。夕方に米軍の攻撃がやむと、母と一緒に集落に戻って米を炊き、ガマに運んできょうだいと食べた。壕から追い出された後は森の木陰に隠れた。「海から弾がボンボンと上がってくる。大変だったよ」と顔をしかめる。
市史には、マヤーアブを追い出されて別の壕に隠れた住民の証言もある。その壕にも日本兵が来て、子供の泣き声で米軍に居場所が見つかることを恐れ、3歳以下の幼児数人を毒物注射で殺害したとされる。仲門さんも同様の話を聞いたことがあり、「一度息を吹き返し、2回目の注射で亡くなった女の子がいたと聞いた。私が戦後に結婚した夫のめいだった」と話す。
マヤーアブは戦後、平和学習の場として使われてきた。県観光ボランティアガイド友の会は、修学旅行生ら年間約1万7000人をマヤーアブに案内し、沖縄戦時の状況を学生たちに説明していた。高嶺典子事務局長は「市史にも証言が多く残っていて平和学習に適した場だった。暗いガマから外に出ると公園の芝生や海が目に入り、現在の平和な風景と戦時の状況の差を感じてもらえた」と話す。
県「亀裂見つかり危険」住民「現場で説明しないと実感できず」
しかし、県は2018年4月に「調査の結果、内部に亀裂や落石が多数… (ここから有料記事)「毎日新聞」から転載させて頂きました
平成26年(2014年)に「マヤーアブ」内部を撮影しましたので、ここでご紹介致します。
《過去の写真ご紹介》
【平成26年(2014年)撮影】
「マヤーアブ」は、糸満市山城にある広大な平和創造の森公園内の北西端部にあります。現在は案内板があるので直ぐに見つけられるでしょうが、昔は案内板も無くて発見に時間を要しました。マヤーとは沖縄方言で、「猫」という意味だそうです。この壕の所在地は公園外にあるといえるかしれません。いずれにしても、壕口に至るには公園の中を通らなければなりません。
ここが「マヤーアブ」入り口です。壕口は縦穴と言う雰囲気で、且つ結構大きいですね。因みに私達は何度もこの壕に入っています。金光教の遺骨収集でも入っています。ご覧のように開口部は比較的大きくて、偽装するのも難しかったでしょうね。沖縄戦当時も米軍の激しい馬乗り攻撃を受け、壕内部は煤で真っ黒けです。
すでに10メートルほど降りたところで、振り返り開口部を撮影しました。こうして見上げると、開口部の大きさが実感できると思います。また壕口からの緩斜面は比較的難なく降りられました。土の部分が多いですから、雨の日は滑りやすいかな‥‥。
壕口から降りて最初の広くて平らな場所です。天井を見上げますと、結構鍾乳石の氷柱が発達しているのが見て取れますね。この辺りは賢固な岩盤と言った感じ、落盤を感じる事は無いですね。
ご遺骨ですね。更に降りていくとご覧のような人骨が埋もれるように岩肌に張り付いていました。多分収骨しようとしても、ご覧のように鍾乳石化していますから、簡単には取れないと思われます。
こちらもご遺骨の様子を写しました。太い骨ですから大腿骨かも知れません。骨の色が飴色をご覧しているのが見て取れますね。風葬骨は白いのと、骨の肌が風葬骨独特の肌合いとなっている事から、目の前にあるご遺骨は、間違いなく沖縄戦戦没者のものと思われます。その点については、私と松永さんでは意見が一致していますが、69年の歳月は、これほどまでにご遺骨を鍾乳石化してしまうのですね。因みにこの場所は、壁の上部からごく僅かながら水が湧き出ているのが視認出来ます。カルシウムを含む湧き出た水が69年の歳月により、骨を丸ごと被覆してしまっているのでした。
ずいぶんと降りて参りました。でもまだ底ではありません。写真奥の写っている部分が、この「マヤーアブ」の一番奥深い部分、且つ深い場所となります。壕口から最奥部までの距離は、クネクネ歩いて降りたので正確ではありませんが、体感的に三十数メートルぐらいではないかと言う印象ですね。また幅も広いです。最奥部付近が一番幅が広くて二十メートル弱と言ったところでしょうか。
この辺りも天井を見上げますと、鍾乳石氷柱が発達してぶら下がっているのが見えます。賢固な琉球石灰岩で一枚岩のようです。相変わらず落盤という可能性は無いと言えるでしょう。ただ地盤は最悪ですね。ご覧のように大小の岩がゴロゴロしています。米軍の攻撃で落盤したという雰囲気でもありません。もしも真っ暗な中を手探りで移動するとなると、ちょっと危険ですね。
中間部辺りから遺留品も目立って多くなって参りました。食事に使用したお茶碗が多いですね。この壕は当初山城集落の方々が入っていたという事ですから、日用品的な遺品も多いという事ですね。また大きな壕である事から、大勢の人がこの壕に入っていたのでしょう。
水瓶や茶碗などの日用品に加え、軍靴などの革製品も多いですね。日本軍将兵も大勢居たと思われます。
壕の一番奥の場所で皆さんが思い思いに遺品を探しています。壁面が実に不気味でおどろおどろしいですよね。濡れていると言う事もあるでしょうが、煤で黒くなっていると言う影響もあると思います。
壕口付近は乾いていましたが、奥深くなるにつれて湿気を感じます。水滴がポタポタと沢山落ちている場所がありました。この水滴を24時間集め続ければ結構な量になるかもしれません。溜まった水は、右側の穴から入ってどこかに流れ出ているようです。ご覧のように壕底は土が多いです。雨の日の地面は恐らくグジャグジャかも知れません。
鍾乳石氷柱です。水滴が沢山垂れていました。鍾乳石の氷柱が今でも成長しているようです。
天井面を中心に煤でかなり黒ずんでいます。なんか怖い雰囲気ですね。(^^;)
よく見るとメガネですね。ガラス部分は外れて無くなっていました。
とにかく壕内が非常に暗いですね。この暗いトーンで、ここに居るだけで陰気な気持ちになってしまいます。湿気も強く、鍾乳石氷柱からポタポタ‥‥。地面は粘土状態でグシャグシャ…。ここに避難しておられた方々も、この環境には音を上げていたかもしれませんね。
水瓶などもありました。割れた瓶も見えますね。生活用品的な遺留品がとても多いです。それだけ大勢の人達がここに居て亡くなったのかもしれません。
この「マヤーアブ」で亡くなられた戦没者の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_
_)m
マヤーアブ慰霊巡拝を終え、次に目指すは「ひめゆり学徒散華の跡碑」です。同碑に行くのには主に二つのルートが考えられます。一つは糸豊環境美化センターからのルート、もう一つは平和創造の森公園側からのルートです。現時点では断然に、平和創造の森公園側からのルートの方が、道も広く迷う確率も低いので便利ですよ。因みに昔は全く逆でしたけどね。
眼前の広い道路は県道223号線です。写真奥側に脇道に入る道路が写されていますね。その脇道を約900m進むと「ひめゆり学徒散華の跡碑」に一番近い駐車場に到達します。この駐車場は同碑の為の駐車場というよりはサーファーや釣り人の為の駐車場と思われます。いずれにしても、ここからのルートの方が迷う確率が格段に下がりますよ。(^o^)
下掲のGoogleマップの赤いピンが、写真の脇道入り口に立っている状況です。「ひめゆり学徒散華の跡碑」は、海岸線に「荒崎海岸」と書かれて青いピンが立っていますよね。その青いピン辺りに同碑があります。全体像がイメージ出来たら出発してみましょう。(^o^)
所在地ご紹介
分岐道路を少し入った所で撮影しました。右側に曲がる車のタイヤの跡が沢山ありますが、これはダンプカーが出入りしている為に鉄板が敷いてある事によりタイヤ跡が残っています。繰り返しますが、右側へ約900m程進むと「ひめゆり学徒散華の跡碑」バス停に至ります。また直進すると荒崎海岸になり、「山城うりぐち(降り口)」と言う階段道で、海岸リーフへと降りられるようになっています。
脇道の最初の角を曲がると、ご覧のように舗装されてないものの直線道路となります。
少し脇道をします。海岸にある「山城うりぐち(降り口)」に行ってみましょう。
山城にある海岸に出ました。ここが「山城うりぐち(降り口)」と言う場所です。
拍子抜けですね。現在はこのコンクリート製のある場所から難なく海岸に降りられますね。昔はこの場所から左手に、岩盤を削って狭い通り道を作り、そこから海岸へ出入りしていたので、「山城うりぐち(降り口)」と命名されていたのですけどね。楽ちんに降りられるように、人工的に改造されたようです。いずれにしても、荒崎海岸はほとんどの場所で断崖絶壁になっているので簡単には海岸に降りられません。「山城うりぐち(降り口)」は、その数少ない海岸への出入り口と言う事で、現在はサーファーや釣り人など大勢がここから海岸へと出入りしていると思われます。
コンクリートに、2016年4月3日と彫られていますね。道を作った日付でしょうか?
こちらは、平成26年6月8日と彫られていますね。日付が二つ彫られています。意味が解りませんね。(^_^;)
昔はこの写真の方向に「山城うりぐち(降り口)」がありました。
新しい「山城うりぐち(降り口)」から、東側を見ています。摩文仁89高地が見えますね。
今度は、新しい「山城うりぐち(降り口)」から、西側を見ています。荒崎海岸の先端部が見えていますね。但し同海岸の最先端ではないと思います。
県道223号線から脇道に入り、約900m程ひたすら直進すると、写真の場所に到達します。ご覧のように、車道は無くなりますので行き過ぎる心配は不要ですね。この写真の手前に、道路に沿う形で広い駐車場がありますから、そこに車を駐車して下さいませ。
私のレンタカーを写しました。広い駐車場ですよね。この様に駐車すれば問題ありません。
駐車場から見て北側の道を写しています。道が二方向に伸びていますね。昔は右側の道から行き来していました。そうです。糸豊環境美化センターからのルートですね。昔は農道レベルでしたから、道幅も狭く轍も酷くて車の腹を岩で擦るのでは無いかとヒヤヒヤしながら運転したものでした。左手の道は採石場への道ですね。現在は立ち入り禁止になっているので採石作業も終わったのでしょう。現在左手には大きな山が出来ていますから、採石したと言うよりも、膨大な土砂を持ち込んだ‥‥。と言うのが正しい表現ですね。昔はこんな登山出来そうな山はありませんでした。
バス停がありました。
バス停です。バスも予約しないと来てくれないみたいです。と言う事で、バス移動も大変ですね。
荒崎海岸への案内看板がありますね。100m程進むと開けた海岸線に出ます。それでは海岸に向け出発です。(^o^)
しっかり道もありますから迷う事は無いです。この辺りはトウツルモドキが繁茂していますね~。遺骨収集会するに際しては、アダンよりも厄介な植物かも知れません。
海が見えてきましたね。ご覧のように、この辺りはアダンが大繁茂しています。アダンは土が少ない岩場を好んで繁殖しますから、海岸線に近づく程に土が少ない岩場となっている証ですね。逆に言えば、土が無いと成長出来ないトウツルモドキは、この辺りでは生存できないと言う訳です。
海岸に出ました。
荒崎海岸に出ました。開けた海岸線に出た所で東側を見て下さい。ご覧の風景になります。
荒崎海岸に出たら迷わず東側を見て下さい。何となく道が伸びていますよね。そして少し先に目をやるとコンクリート製の階段が見えています。この風景が確認出来たらしめたものです。確実に到達出来ますよ。因みに海の向こうの沖合に、少し霞んでいますが、大渡海岸と共に小高い摩文仁之丘が見えますね。沖縄戦当時は89高地と呼ばれていました。摩文仁之丘は、ここからおよそ4.2kmぐらいの距離があります。
この写真は、海岸線に出た所で西側を見ています。ここから西に500mぐらい進むと、荒崎海岸のうち本島最南端部に到達します。
それでは「ひめゆり学徒散華の跡碑」に向かいます。コンクリート製の階段を目指します。
コンクリート製の階段です。岩場の階段ですから不規則ですし、手摺が無いので慎重に登り降りしないと危険です。特に降りは要注意ですよ。登り終えると一段と視界が広くなるのでお楽しみに。(^o^)
コンクリート製の階段を登りました。一気に視界が開けました。(^o^)
大きな岩に白く四角い人工物が付いているように見えますね。そこが目的の「ひめゆり学徒散華の跡碑」です。そこまでの距離は目測で凡そ60m~70mぐらいです。少なくとも100mは切っています。安心して下さい。ここからも路面は狭いながらもコンクリート舗装が為されていますから、そのコンクリートの道なりに進んで下さい。
ご覧のように、人とすれ違うのには大変ですが、しっかりとコンクリート製の道が出来ています。
コンクリート製の道が続きます。舗道左右の突起した岩場を見ると解りますが、このコンクリート製の道が無かった時代の同碑訪問は、それはそれは大変だった事でしょう。
碑が大きくなってきました。後少しです。(^o^)
「ひめゆり学徒散華の跡碑」
「ひめゆり学徒散華の跡碑」です。ひめゆり学徒とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県第一高等女学校の両校から動員された学徒隊の戦後の呼び名ですよね。同碑は、この地に戦後間もなくご遺族の手で建立されましたが、台風の直撃で損壊してしまった為に、昭和47年(1972年)に現在の碑が再建されました。ご覧のように、大きな岩に鎮魂歌や戦没者氏名が刻まれた石板が埋め込まれ、ちょっと解りずらいですが、岩の陰になっている場所にも歌碑が刻まれた石板が埋め込まれています。またその手前には石で作られた献花台も設けられていますね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「ひめゆり学徒散華の跡碑」です。碑には16名の戦没者氏名と、戦死の状況の内訳、昭和20年6月21日14名がここで、他2名がこの付近の場所で亡くなったと記されています。それにしても6月21日に戦死されたと言う事ですから、あと二三日‥‥。返す返すも残念でなりませんね。
碑にはご遺族による鎮魂歌が一句埋め込まれています。
「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」
歌碑が埋め込まれています。
「巌かげに一すじの黒髪乙女ごの 自決の地なり波もとどろに」(ひめゆり同窓会)
ひめゆり学徒が自決した場所を特定するのは難しいのですが、二カ所考えられます。一カ所目は歌碑が埋め込まれたこの岩陰です。ご覧のように、結構な広さがあります。ご覧のようにごく狭い岩陰といった場所ですよね。米軍は火炎放射器でアダン林を徹底的に焼き払っていました。そして残敗兵や避難民を炙り出し狙撃していったのです。ひめゆり学徒は、この場で手榴弾を炸裂させ自決しました。碑のある岩場の反対側にある横穴に、米軍の小銃弾が撃ち込まれて数人が殺害され、その後の自決…。ほんの数分の出来事だったといいます。
自決した場所として、もう一カ所可能性のある場所があります。それがここです。と言っても写真に写されている範囲ではなく、左側の大きな岩の背後なのです。足場が悪く転倒したら大変ですから、この先に進めないのですが、この岩陰にはそれなりの隠れるのに都合の良い広い空間が存在します。ご覧いただけないのが残念ですが、草木が無い状況でも格好の隠れ場所となっているのが判ります。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」から今度は東側を遠望しています。こちらもまた荒涼たる海岸線が続き、岩の隙間に身を隠す以外に無いという状況ですね。また摩文仁之丘も見えますね。距離は約4.2km離れています。摩文仁之丘は米軍に第三十二軍司令部があると知られてからというもの、連日痛々しいほど激しい空爆を受けたと、こうした離れた場所からも一方的な攻撃風景がよく見えたという証言がありましたね。
荒崎海岸は本島最南端の地でもあります。こうした隠れる場所も無い海岸線一帯に、何万人もの方々が追い詰められたという事です。海上からは艦砲が火を噴き、空からは戦闘機に銃撃され、地上からは歩兵に狙撃され‥‥。同じような惨劇が至るところで目撃された事でしょう。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」から西側方面を撮影しています。ご覧のように荒涼たる岩肌が続いているのが解ります。沖縄戦当時は樹木はほとんど吹き飛ばされて無かったと思われます。この辺りは洞窟などは一切無くて、正に岩の隙間に身を隠す以外に無いという状況です。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」から20~30mぐらい海寄りに進んで西側方面を撮影しました。ご覧のように、断崖絶壁となっていますね。荒崎海岸はほとんど全部この様な断崖絶壁になっているので海に降りる事さえ出来ません。
《過去の写真ご紹介》
【平成25年(2013年)撮影】
※この写真は、第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕の初日の作業を無事に終えた後、荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」に、一般参加者でまだ参拝した事がない人が複数人居られるとの事で、吉井さんがご案内すると言う話になり同行させて頂いた時の写真です。
吉井さんが指さす先に小さな小さな壕があります。横から撮影しているので解りにくいですが、数人入ったら一杯になる程度の小さな岩の隙間という表現が適正だと思われるような場所です。この横穴に向けて米軍が狙撃し複数人の学徒が即死したと吉井さんは説明しました。
米軍に狙撃され即死する学徒が出てしまう一方、一瞬の隙を見て脱出し背後のジャングルに身を隠した二人の学徒は危機を回避しましたが、元の場所に戻ってみると先生と9名の仲間が自決していて、鮮血は岩をも染め、折り重なるように倒れていたと言います。
吉井さんが指さす方向は海ですが、石灰岩が浸食されて崖となっており、海岸に降りることは出来ないのですが、吉井さんの説明では、一部踊り場のようになっている平らな部分があるそうです。ひめゆり学徒が自決を遂げる21日の前日に、その踊り場にみなが集まり、乙女らは確実に迫り来る死を避けがたいものと感じたのか、私物を海に投げ捨て、着替えを持っている人は身支度をととのえ、そして「故郷」の歌を合唱して過ごしたのだそうです。
最後に参加者全員で慰霊巡拝の記念撮影をしました。
過去の写真掲載はここまでです。
「愛と鮮血の記録」 沖縄学徒隊の最期
金城和彦著 (株)全貌社 昭和41年(1966年)8月初版
上掲の金城和彦著「愛と鮮血の記録」に、米軍の機関銃弾による殺傷を機に、岩陰に居た平良先生や十名の生徒が自決した際の様子がリアルに描写されているのでご紹介します。自決の様子を書かれたのは、当時沖縄県立第一高等女学校の第三学年在学中であった比嘉初枝さんです。「自決」という題で手記を執筆されました。因みに彼女は南風原陸軍病院経理部で従軍された方です。
「6月19日の午後6時、佐藤三四郎部隊長は『適中を突破して国頭地区へ脱出せよ』と軍命令を、経理部全員に通達して、解散を命じられました」から記述が始まり、二日後である悲劇が起こった21日までを描写しています。
自決 (比嘉 初枝)
(87頁)
平松四郎先生の率ゐる私達十人の生徒は、糸満方面へ突破を試みたのですが、喜屋武望楼以西は、敵の警戒がきびしく、その上砲弾が激しく飛んできて、突破は不可能といふことで、止むなく断念して引き返すことになったのです。帰りは、目地区茶に破壊されて見る影もなくなった真壁の部落を通って、敵の警戒線に触れないやうに、断崖の下の波打ち際を東へ向かったのですが、途中で渚から岩を上に上がることにして進路を変更しました。
岩の上に登ってみますと、思ひがけなくもそこの岩陰に、与那嶺、内田両先生の率ゐる学友たちがゐました。幾十日ぶりであらう。みんな抱き合ってその無事を喜んだのです。
ところで、私たちもほかに安全な洞窟があるわけでなかったので、そこの岩の窪みで夜を明かすことにしました。
糸満方面へ突破を断念してからは、最後の時は潔く自決しようと、誰もがさう覚悟を決めてゐました。
珍しく砲弾の音も聞こえなくなりました。比嘉美津子が、潮の引いた海辺へ降りて、僅かばかり残ってゐたお米(玄米)を集め、それを炊いて、皆の掌に少しづつ配りました。水もないので、潮水で炊いたものでした。
私たちは海に向って、小さな声で歌を口ずさみました。ひとつひとつの歌が、みな、何かしらの思ひでつながり、切ないほどの、懐かしさとも、哀しさともいひやうのない複雑な気持ちでいっぱいでした。歌声は、いつしか、「故郷の歌」になってゐました。
兎追ひしあの山
小鮒つりしかの川
夢はいまもめぐりきて
忘れがたきふる里歌声は次第にかすれ、やがて、すすり泣きになってしまひました。父や母は、兄は、妹は、肉親の顔が思ひ出されてならないのです。もはや、叫んだとて、永久に会へないかもしれないこの最南端の岩の上で、私は、死を前にして、いひやうのない寂しさがひしひしと身をつつむのを覚えました。
明けて二十一日も、艦砲射撃もなく砲爆撃もなく、無気味な静けさでした。遠く水平線上には、敵の巨艦が浮かんでゐました。そして また昨日と同じやうに、舟艇が海岸に近づいて来て、マイクで投降を勧告する放送を続け、その声が、ガンガンと耳に響くのでした。
与那嶺先生の率ゐる生徒の入っている場所は、二つの岩が噛み合って、入り口は狭く、這ってやっと入れる所でした。その岩の上からは、摩文仁岳が望まれ、米須の白い砂浜が見渡されました。
私は比嘉美津子さんと一緒に、石部隊の兵隊(四名)がゐるもう一つの岩陰で時を待ちました。
午前十時半頃でした。血にまみれた一人の兵士が転がりこんで来て、「敵兵が海岸に上がり、ここに向かってくる」と、苦しさに息を吐きながらいふのです。それを聞いた時、最後の覚悟はしてゐましたが、やっぱり体が硬くなって、震へるのをどうすることもできませんでした。その兵士は、手榴弾の信管を抜いて敵兵に投げつけたが、あべこべに胸部をやられたとのことでした。
それから、二、三十分も経ったと思はれたころ、周囲が妙にざわめくのを感じ、敵兵らしい声の近づいてくるのを知りました。
平良先生と比嘉美津子さんは、第一高女組のゐる岩陰にとび込み、金城きくさんと私の二人は与那嶺先生のところへ飛びこみました。
私たちは岩陰に身を縮め、じっと入口を睨んだまま、物音一つ立てず時の推移を待ったのです。誰の顔もきびしくこわばり、最後の決意をしてゐることがよみとれました。
やがて敵兵の声は入口まで近づいてくると、たどたどしい日本語で、「デデコイ、デテコイ」と私たちに向かって呼びかけました。
一秒、二秒と時は経ちました。壕内は水を打ったやうに鎮まり、お互ひの心臓の鼓動が聞こえるほどでした。私たちはもう運を天に任せました。
その時、突然、バラバラと入口から小銃が撃ち込まれ、安富祖嘉子さんと、上地一子さんがやられました。比嘉さんと、大兼久ヨシ子さんも、苦しさにうめいてゐます。曹長殿もやられた様子です。
きくさんと私は、とっさに壕を飛び出して、阿檀の中に身を潜めました。そして、おそるおそる阿檀の葉陰から覗いてみると、十数人の敵兵が、自動小銃を構へて立ってゐるではありませんか。二人はままよそれまでと観念して、そのまま、じっと身を伏せてゐたのです。息を殺して全神経を敵兵の動静に集中して数分。やがて、彼等のざわめきも消え、辺りは信じられないやうに静かになりました。
顔をあげてみると、附近は血しぶきが一面にとび散ってゐるのです。
平良先生の一行はどうなったのでせう。
まずそ、そのことが頭をよぎりました。急に胸さわぎがして、岩陰を覗いてみると、ああ! なんといふことでせう。先生と、いまのいままでいっしょにゐた十人の学友たちは、自決してゐたのです。鮮血が、巌を真赤に染めて、痛ましい、あまりにも痛ましい最後でした。声も出ませんでした。
あの一瞬、左に身を交わしたきくさんと私はこの世に生き残り、平良先生以下十名は、この様な変り果てた姿となってしまったのです。
自決の位置は、比嘉美津子さんが、一人離れて北側の岩の間に倒れ、普天間千代子さんと、板良敷き良子さんが岩の下で、宮城貞子、宮城富子、金城秀子、座間味静枝さんは平良先生を中心にして倒れ、そして瀬良垣エミ子さんと、浜比嘉伸子さんは、少し離れた所で最後を遂げてゐました。
平良先生以下十名が自決された所は、海岸のすぐ近くでしたので、潮が満ちてくるたびに、波が岩に当たり、遺体はいたましく波に洗はれるのでした。
「愛と鮮血の記録」から転載させて頂きました
平成24年(2012年)2月12日に「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加した事があり、その際に「ひめゆり学徒散華の跡碑」がある付近から海岸リーフに降りて、上掲写真の平和創造の森公園に隣接する海岸部まで、約1kmぐらいですが引き潮時を利用して、海岸のリーフ上を歩いて渡った事がありますのでご紹介します。荒崎海岸の険しく切り立った断崖の様子をご覧下さいませ。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
【平成24年(2012年)2月12日撮影】
松永さんの背中が写っています。私と松永さんの二人は主催する「沖縄県遺族会」による、平和創造の森公園まで乗せてくれる送迎バスには乗らずに、海岸沿いにリーフ上を歩いて帰る事にしました。
摩文仁之丘が遠くに見えますね。写真は引き潮時の遠浅の海岸と言う風に見えますが、実は松永さんのすぐ目の前は断崖絶壁なのです。そうした目線でよく見ると、手前半分ぐらいに雑草が生えていて、奥側の半分は引き潮時にリーフが露出した状況であるのが解りますね。
参加記に何度か登場していますが、「ひめゆり学徒散華の跡碑」です。私たちは手を合わせ散華された学生さんのご冥福をお祈りしました。この碑のある窪地周囲で16名が銃撃され、そして自決して亡くなりました。その悲劇は6月21日起きたといいますから、あと数日他の手段で遊弋しつつ生き延びていてほしかったです。そうすれば全員が助かっていたかも知れませんからね。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」を遠くから俯瞰しています。隠れるための深い穴などは無いので、艦砲が炸裂したら強烈な爆風で多くの避難民が吹き飛ばされたでしょうね。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」から程近い場所に、リーフに降りられる場所を見つけました。ラッキーです。ごく希に見る岩の割れ目を早期に発見出来ました。すぐには降りられないと思っていましたから嬉しいです。
海岸のリーフ上から撮影しました。ご覧のように崖は峻立して絶壁を為しているので、どこでも降りられるという事では無いですね。波による海食でこうした切り立った崖になったのでしょう。
ご覧のようにリーフの海原が広がっています。引き潮だからこそ実行出来る冒険の旅です。東に向かって歩みを進めていますので、摩文仁之丘が少しずつ大きく見えるようになってきましたね。到達目標は1km程先にある平和創造の森公園の海岸です。そこには階段があり難なく道路まで戻れるようです。
引き潮で露わになった岩肌には、ご覧のように小さな貝がびっしりと付着していました。当然の事ながら、全部生きているのですよね。
おっとっと。ごめんなさい。居残りの魚が、私たちの足音にビックリして、海水の無い場所へ飛び出してしまいました。海水のある場所へすぐ戻してやりました。
砂浜です。不思議なのですが海岸線の所々で、ご覧のように砂浜となっています。これは荒崎海岸全般に散見される現象です。年月を経て細かく砕かれた岩が小さくなればなるほど、このような砂浜が形成されるという事でしょうかね。
こちらは砂浜と呼ぶには粒が大きいですね~。良く見ると、珊瑚礁のかけらなんですね。それも長い間に削られて丸くなっている粒が多いです。
更にアップしてみますと、珊瑚礁のかけらと共に、小さな貝も目立ちますね。いろんな色のもの、いろんな形状のもの、驚くほど種類が多彩です。時間をかけて探すのも楽しそうですね。(^o^)
私の靴が写っていますが、それが目的ではありません。靴の先に黒っぽい物がありますね。岩礁に溶け込むかのように埋まっている鉄片です。艦砲砲弾の破片でしょう。靴は砲弾破片の大きさを知って頂くために写しました。戦後67年を経ていますが、埋まっていると言う事は、鉄片が沈んだのか‥‥。大渡海岸の患者壕見学に際しても、数多くの埋め込まれた砲弾破片を目撃しています。
こんな大きな鉄の塊もありました。これもまた砲弾の破片でしょう。この鉄塊は砂浜を行ったり来たりで、角が取れ丸みを帯びているのが印象的ですね。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ…」。誰もが知っている島崎藤村作詞の童謡『椰子の実』ですよね。どこかよその国から流れ着いたのかどうかは定かでありませんが、漂着していた椰子の実を割ってみました。松永さんの話によりますと、椰子の実の汁は飲み、白い果肉部分は醤油などで炒めものにして食べるそうですよ。
海岸線をずいぶんと歩いてきました。断崖絶壁まだまだ続いています。摩文仁之丘も一段と大きく見えるようになって来ました。まだ登り口は見えていませんが、あと100メートルほど前進すると、平和創造の森公園の端部に到達する見込みです。
ついに平和創造の森公園の端部、隣接する道路に登る為の階段がある場所に到達しました。荒崎海岸からだいたい1kmぐらいあるいた計算になりますね。摩文仁も更に大きく見えるようになってきました。(望遠側で撮影したので大きめに写っています)
沖合にカメラを向けますと、何十人と沖合に出て何かをしています。サーフィンを持っていないので、潜水を楽しんでいる方々かも知れませんね。
平和創造の森公園横にある階段を発見しました。私達も階段を登ろうとした時、冷蔵庫が放置されているのに気づきました。メイドインコリアでした。ヒェ~。もしかして韓国で捨てられた粗大ゴミが、海流の乗って荒崎海岸に漂着したのかな~。海岸というのはいろんな面を見せてくれて楽しいですね。
階段を上り広場にある駐車場から撮影しました。潜水を楽しむ人達かな? こちらに向かって歩いて来ます。ご覧のようにこの時間ではまだまだ引き潮が続いていますね。
駐車場からもう一度摩文仁之丘を撮影しました。今度は標準レンズで撮影しましたから、裸眼と同じ大きさで摩文仁之丘は見えている状態です。摩文仁高地は第三十二軍司令部があると米軍に知られてからというもの、連日痛々しいほど激しい空爆を受けたと、こうした離れた場所からも、そうした一方的な攻撃風景がよく見えたという証言がありましたね。
過去の写真掲載はここまでです。
「ひめゆり学徒散華の跡碑」の慰霊巡拝を終え、次に目指すは山城の平和創造の森公園内にある「開南健児之塔」です。「ひめゆり学徒散華の跡碑」から2kmも離れてないので、すぐに到達できます。それでは行ってみましょう。(^o^)
平和創造の森公園横の道路を写しています。あれ~~、駐車している車がゼロ!。平日でも駐車する車で満杯になっているのが常態でしたから驚きです。
山城にある平和創造の森公園内に入りました。この駐車場は公園内の駐車場ですから無料なのですが、ご覧のように駐車している車は少ないです。以前はこの駐車場は満杯状態でしたからね。何か狐につままれたような不思議な感覚です。
「海南健児之塔」に到着しました。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつですね。 塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。地面には砂利が敷き詰められ、両側にはクワディーサー(和名:モモタマナ)が植えられています。
参道の両側に植えられているクワディーサー(和名:モモタマナ)を写しています。今年はあまり落葉していませんね。元々沖縄では本土のような紅葉はありませんが、クワディーサーはその数少ない紅葉をする木で、赤みを帯びた綺麗な紅葉になりますね。
ギリギリ読めますね。「海南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾――浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した海南中学生が全員戦死しました‥‥」厳しいですね。
「開南健児之塔」
「開南健児之塔」です。沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が祀られています。沖縄戦では、在校生68名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織し、第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部などに配属されました。同部隊は、激戦地となった宜野湾から浦添戦線の前線に配備された部隊であり、この部隊に入隊した生徒は全員戦死しました。また島尻国吉での戦闘では、米軍野営陣地への斬り込み突撃をして多くの犠牲者が出たようです。生徒達の任務は不明な点が多いそうですが、危険な任務に就くことも多くあったとされ、66名の犠牲者を出しました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません」
沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が期毎に記載され祀られています。印象深いのは、ご覧のように第一期生から犠牲者が出ていると言う点ですね。海南中学校は、戦前の沖縄県では、唯一の旧制私立中学校でした。昭和11年(1936年)に創設されましたが、沖縄戦により9年と言う短い歳月で廃校になってしまったのでした。
犠牲者数が「不明」だった学徒の名簿も 沖縄戦で動員された学徒の名簿発見
【琉球新報】令和元年11月13日
国立公文書館が公開した学徒名簿
沖縄戦に動員された学徒の名前や部隊名、住所などを示した厚生労働省の「学徒名簿」がこのほど国立公文書館で公開され、資料を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭が12日、報道陣に公表した。資料には、これまで実態解明が進まず、動員数や犠牲者数が「不明」とされてきた私立開南中学校の学徒71人の名簿も含まれていた。開南中の動員学徒数が公的な資料で初めて示された形だ。
資料にあるのは主に県立一中、三中、農林学校、私立開南中学校の名簿で、学徒が亡くなった場所や所属部隊名、住所や家族の名前などが記載されている。作成時期は不明。そのうち、開南中学校は71人分の名簿があり、13歳で動員され、犠牲になった人もいた。一方、開南中の同窓会の調査では、動員されて犠牲になった人数は190人だとしており、今後、資料が作成された経緯や実態解明が求められる。
国立公文書館が公開した文書から学徒名簿を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭=12日、松城中学校
さらに、開南中の犠牲者の名簿と共に、従来は学徒の区分にはなっていない「名護青年学校」や「通信講習所」の名簿もあり、それぞれ1人ずつ名前が記載されていた。名護青年学校の名簿に「未帰還者」として記されている「真栄城守計さん」は第32軍司令部(球1616)に所属していた。一方、資料によると一中は600人が動員され、249人が死亡し、生存者は341人、状況不明10人との記載があった。一中の卒業生でつくる「養秀同窓会」のまとめによると、動員数は463人で、死亡者は257人としている。今回公表された資料とは動員数などで大幅な違いがある。
学徒について詳しいひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は、取材に対して「動員数などは多い気がする。だが、貴重な資料だと思う。今後調査を進めてみたい」と語った。
資料は2017年に厚労省から国立公文書館に移管したものとみられる。大城教諭は今年8月に資料を請求し、個人情報が含まれるため「要審査」となったが、9月ごろから順次公開された。
これまでも沖縄戦に関する資料を収集してきたという大城教諭は今後、沖縄戦に動員された県内21校の元生徒らでつくる「元全学徒の会」などに資料を提供していく考えだ。大城教諭は「今回発見した資料を遺族や県民のために生かしたいと思って公表した。教育現場でも、生徒に年の近い人たちが亡くなったことを伝えて考えてもらいたい」と語った。
琉球新報から転載させて頂きました
「魂魄の塔」横にある生花の無人売り場テントが撤去をされましたね。コロナ禍以降は生花が置かれなくなりました。例えば「ひめゆりの塔」横の献花販売店も休業されているなど、コロナ禍の影響でバッタリ売れなくなったのでしょう。寂しい限りですね。因みに、昔はこのお店も無人ではなく、おばさんがいつも居られて生花を販売していました。生花を買い求める際に必ず会話をしたものです。私が遺骨収集に来ましたと話すと、必ずと言っていいぐらい会話に弾みが付きました。
「魂魄の塔」
「魂魄の塔」です。昭和21年(1946年)2月、金城和信村長と真和志村民のご尽力により、沖縄で最初に建立された慰霊塔です。また沖縄県の慰霊塔が無い事から、「魂魄の塔」が沖縄県民の塔と捉える方も居られると聞き及んでいます。同塔は糸満市米須にありますが、ここ米須霊域には他県の慰霊塔が複数建立されていますし、隣接して平和創造の森公園があるなど、激戦の地であった付近一帯は、今は静かで緑豊かな霊域となっています。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
魂魄の「魄」の字は、死んだ肉体が骨だけになるの途上、まだ髪の毛などが残っている状態を表すとの事です。因みに写真に写されている魂魄の文字は、建立に尽力された金城和信氏自身の揮毫です。
同塔は、米須霊域の中心的存在と言えるでしょう。戦後、米軍占領下で強制的に移動させられた真和志村住民が見たものは、畑や山野に無数に散乱する戦没者のご遺骨と、全てが破壊され荒れ果てた山野だったのです。「魂魄之塔」は、戦後同地に収容された真和志村民が、米軍占領下という厳しい状況下、戦没者を祀るなどは一種の米軍政への抗議運動と見なされ、厳しい目を光らせていた中で、戦後の沖縄で最初に建立を為しえた慰霊塔なのです。
今でこそ、各県の慰霊塔などが、数え切れないほど建立されていますが、それらは講和条約により沖縄の独立が実現した以降の設立であり、米軍統治下では慰霊塔の建立は勿論、戦没者の遺骨収集さえも米軍から許可がおりないと言う状況だったのです。
同塔は、敗戦による人心虚脱と混乱の中において、英霊と共に生きるという金城和信氏の信念と熱情とにより、地域内に散在していた遺骨約三万五千柱を収集し、昭和21年(1946年)2月に建立された慰霊塔であり納骨堂です。またその後御遺骨の一部は国立沖縄戦没者墓苑に転骨されています。設置管理者は県遺族連合会です。
碑文や解説文が刻まれた石塔です。
「魂魄の塔」碑文です。読めますね。
「魂魄の塔」を解説しています。こちらはテキストに起こしてみました。魂魄の塔の説明と共に、同塔を建立した金城和信翁を顕彰する文言も含めた碑文となっています。
【魂魄の塔 碑文】
沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、二十万余の同胞が散華した。かかる中で、昭和二十一年一月二十三日、九死に一生を得た真和志村村民は、米軍によって当地に集結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
この光景を痛嘆した金城村長は、先ず御遺体を弔うべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我二万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年二月二十七日、金城村長は 之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
更に金城夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年四月五日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を 建立した。ひめにりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第一高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。続いて金城御夫妻は、同年四月九日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。今では方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
東京大学名誉教授 宇野精一
「和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」
平成7年(1995年)に除幕された碑で、金城和信真和志村村長と共に遺骨収集に奔走された、当時の県立糸満高校真和志分校長の翁長助静氏の詩です。「和魂」は、「にきたま」とか「にぎたま」と読みまして、穏やかな神霊の意味です。また「おくつき」は墓の意味ですね。戦没者は穏やかな神霊となりて、この霊域に眠る。その上を吹き抜ける優しい潮風‥‥。みたいな感じですかね。
裏面を見ています。ギリギリ読めますか。(^_^;) 「歌意は‥‥」と書かれているのが見えますね。
「魂魄の塔」の後ろに廻りますと、ご覧のように、戦没者個人の慰霊碑が幾つか並んで建立されていました。
「魂魄之塔」の隣にある「金城和信翁の胸像」を訪ねましょう。
「金城和信翁の胸像」
「金城和信翁の胸像」です。胸像は「魂魄の塔」の隣に建立されました。正にゆかりの地に建立されたと言えるでしょう。胸像の製作は北村西望先生で、除幕式は昭和55年10月23日に執り行われました。金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に任命されました。米軍占領下において、山野に散乱するご遺骨を収集したいと、米軍政に持ちかけますが許可されませんでしたが、粘り強く交渉を続けた結果、「遺体拾集の目的のみに限り許可する」と米軍政から許可が下りたとの事です。早速納骨隊を地域住民の協力を得て編成し、風雨に曝されたままのご遺骨の収集を、一体一体丁重に拾い上げたと言います。そうして昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立されました。その後、「ひめゆりの塔」や「健児之塔」を建立していきました。また昭和29年には沖縄戦没学徒援護会を設立しました。昭和53年11月17日死去。享年80歳。沖縄師範学校卒業です。
金城ご夫妻には、四人の男の子一人、女の子三人の子供が居られましたが、沖縄戦戦禍のなかで長女の信子さん(師範学校女子部在学)と、次女の貞子さん(県立第一高女在学)の二人のお嬢さんが戦死されたのはご承知の通りです。また沖縄戦開戦時、金城和信氏は第二大里国民学校の校長をされていました。ですから戦後は教育界に戻って欲しい、校長になってほしいと各方面から懇願されたようですが、金城和信氏は「たくさんの教え子を戦場に失ひ、また多くの人々が戦死してしまったのに、自分はこの人たちに顔向け出来ずかうして生き延びてしまった。いまさら二枚舌を使って、どうして教育界に戻ることが出来やう。私は英霊と共に生き、英霊と共にこれからの人生を歩むだけだ。戦死された方々が、私に後をよろしく頼むと言ってゐるやうな気がしてならない」と、断り続けたそうです。
沖縄戦でお二人のお嬢さんを亡くされ、また沖縄戦戦没者の慰霊に生涯を掛けて奔走された、金城和信氏の常日頃の口癖は、「私は十八万の英霊と共に生きている」、「沖縄はソロモンやニューギニアと違って、日本固有の領土である。ここに一体でも野ざらしの遺体があっては、あいすまんことです」だったそうです。
金城和信翁のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
顕彰碑文です。こちらはテキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。
【顕彰碑文】
金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
昭和五十五年十月
金城和信先生威徳顕彰会議
文化勲章日展会長北村西望書
琉球新報記事をご紹介致します。
金城和信氏の胸像建つ 二十三にに除幕式、遺骨収集、遺族援護に生涯
【琉球新報】昭和55年(1980年)10月21日
一木一草まで焼け尽くした南部戦跡で戦後いち早く遺骨収集に着手、「魂魄の塔」「ひめゆりの塔」「健児の塔」などの建立に精魂を傾け、遺族の援護に生涯をささげた金城和信さん(前沖縄県遺族連合会長、昭和五十三年十一月十七日死去)の胸像と顕彰碑が、遺骨収集ゆかりの地・糸満市米須の魂魄の塔隣にこのほど建立され、二十三日午後二時から除幕式が催される。
魂魄の塔のほか北海道、大分、広島などの各県の慰霊碑に囲まれる霊域に金城さんの胸像と顕彰碑は建立された。胸像は銅製で、およそ八十センチの高さ(台座を入れると二メートル三十センチ)。製作したのは長崎の平和祈念像などを手がけた日展会長の北村西望氏。南部戦跡一帯を静かにながめるような表情の胸像だ。
金城さんの碑を建立しやうという話は、金城さんが亡くなった後、各方面で出てゐたが、去年七月に遺族連合会およぴ関係者を中心に「金城和信先生遺徳顕彰会」ができて具体化した。費用は約一千二百万円で、このうち各県遺族会が日本遺族会を通じて百二十五万円のきょ金があったほか、北海道の遺族会は北霊碑の建立の際、金城さんに格別に世話になったといふので、別に百万円のきょ金か゜あったといふ。
胸像の建立について遺族連合会の座喜味和則事務局長は、「金城先生は戦後いち早く遺骨収集に尽くされ、慰霊碑の建立や遺族への援護など、遺族会の大恩人です」と話してゐる。二十三日の除幕式には県外からの遺族も含め知事、県議会議長など多数が参列することになってゐる。
「琉球新報」から転載させて頂きました
《書籍ご紹介》
「沖縄の戦禍を背負ひて」 金城和信の生涯
殉国沖縄學徒顕彰會編 金城和信先生遺徳顕彰会 昭和57年(1982年)6月初版
次の目指すは「有川中将以下将兵自決の壕」です。この壕のある場所も、案内板が一切無いこともあり簡単には見つけられないかも知れません。ざっくり言えば、道路を挟んで「魂魄の塔」の向かい側にあるのです。同塔から距離にして150mぐらい離れているだけですから、その距離感を頼りに探してみて下さいませ。(^o^)
写真は道路を挟んで「魂魄の塔」の向かい側を見ています。写真中央辺りに農道が奥へと続いているのが見えますね。その農道をしばらく直進すると突き当たりに「有川中将以下将兵自決の壕」があるのです。場所を知ってしまうと、実に簡単に到達出来ますよね~。
ここまで来ると農道があるのが見えますね。
林の中に入りました。後50mぐらいです。
白い慰霊塔が見えてきましたね。
見えてきましたよ。到着です。(^o^)
「有川中将以下将兵自決の壕」
昭和56年6月に建立された、藤岡武雄中将を師団長とする第62師団(石部隊)の歩兵第六十四旅団戦没者を祀る「有川中将以下将兵自決の壕」です。因みに第62師団(石部隊)は嘉数高地等の戦闘で多くの犠牲者を出した部隊です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレあります」
塔名をアップしてみました。達筆ですね。
塔の背面には碑文がありました。読みにくい部分も多いのでテキストに起こしてみました。
【慰霊碑 碑文】
石第六四旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く将兵は悉く玉砕し旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で時は昭和二十年六月二十一日の未明であった茲に全国篤志家の賛助を受け記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
昭和五十六年六月二十一日建立
鹿児島県沖縄戦没者慰霊会
有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)
慰霊碑の横にある樹林の中に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。壕口は大きいです。壁は切り立っており完全な円柱型の縦穴ですね。全景は見えないのですが、長方形的な形をしているようです。短辺側で10mぐらいでしょうかね。縦穴的な壕ではありますが、沖縄戦当時は壕底から横に掘り進めて一部構築もしたようです。一度は底に降りてみたいと思いつつ私もまだ降りた事がないのです。降り口を探したのですが、調査が甘いせいかまだ降り口を探せずにいます。壕は深くありません、降り口が解れば簡単に降りられそうなので、何時か降りたらレポートします。
あれ~~。開口部が見られない~。一昨年は壕開口部を半周するような感じで、道が出来ていましたが、今年も雑草が繁茂していて全く見る事が出来ません。
この辺りも見られたのに、全く駄目です。
ここも駄目だ‥‥。
今来た道を振り返っています。雑草が繁茂して、。この辺りに人が入った形跡がまるで無いですね。
令和3年(2021年)に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)の様子を写真撮影したのでご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
【令和3年(2021年)1月20日撮影】
慰霊碑の横にある樹林の中に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。壕口は大きいです
ね~。壁は切り立っており円柱型の完全な縦穴ですね。全景は見えないのですが、短辺方向の長さは15mぐらいでしょうかね。縦穴壕ですが、壕底から横に掘り進めて壕空間を増やしたようです。因みに、一度は降りてみたいと思いつつも、まだ降りた事がないのです。来る度に降り口を探したのですが、調査が甘いせいかまだ降り口を探せずにいます。壕は深くありません、降り口が解れば簡単に降りられそうなので、何時か降りられたらレポートしますよ。(^o^)
左回りで壕の縁を歩いています。そして少し進んだところで撮影。
もう少し進んだところで撮影。
かなり廻ってきましたよ。横穴も若干ですが構築されたようですが、まだその横穴は見えませんね。反対側ぐらい回らないと見えないかもです。
更に廻ってきました。壕の壁と底がよく見えます。
一番奥まった位置から撮影しました。切り立った崖になっているのが見て取れます。一番手前の岩辺りが降りられそうな印象ですが、一人なので冒険はしません。これで大体の壕の構造は把握する事が出来ました。何時か機会があったら壕底部に降りてみたいですね。
壕の横穴に見える場所を撮影しています。壁面は煤で真っ黒という状況ですね。沖縄戦当時はかなり深い横穴の坑道があったようなのですが、ちょっと見当たりませんね。全ての壁面を見ている訳では無いので、無いと断言は出来ませんが‥‥。
ご覧のように、壕開口部を一周するような感じで、道が出来ていますね。何か白っぽい標識のような物が見えています。近づいてみましょう。
これは何だ? 測量に用いたのかな? 壕開口部に沿うように設けられていました。
過去写真掲載はここまでです。
昨年も撮影しましたが、米須にある米軍普天間飛行場移設に伴う、名護市辺野古にある海兵隊基地の埋め立て工事に関わる土砂搬出地です。「熊野鉱山」と言う看板が掲示されているので、近くまで来ると直ぐ解ると思います。「有川中将以下将兵自決の壕」のすぐ隣にありますので、同碑を慰霊巡拝された際には立ち寄ってみて下さい。
昨年もここで取り上げましたが、私も中華人民共和国共産党独裁政権が狡猾に仕掛ける日米離間プロパガンダ戦略に翻弄される沖縄の行く末に心を痛めている一人の人間として、昨年掲載した記事を以下に再掲載させて頂きました。
私達は騙されてはいけません。歴史の中で繰り返されてきたメディアによる情報操作の手口、正義が捏造される様を素直に甘受する訳には参りません。メディアは私達の「無知」に付け入って来る事をいつの時も忘れてはならない。誰が扇動者なのか! 疑うこと、それが市井に住まう私達の役割なのです。
「糸満市米須 名護市辺野古基地の埋め立て工事用土砂搬出地」
【令和3年(2021年)1月20日撮影】
「有川中将以下将兵自決の壕」から見て左手の山の斜面が裸になっているのが見えたので、訪れてみました。「有川中将以下将兵自決の壕」から1分で到着。ご覧の風景が広がっていました。直感的に、ここがそうか‥‥。
ご覧のように8時を過ぎているのに人気も無く、現在は土砂等の搬出作業は中断されているようですね。ここは、米軍普天間飛行場移設に伴う、名護市辺野古にある海兵隊基地の埋め立て工事に関わる土砂搬出地と言う事で、現在この件が、沖縄で大問題になっているのは皆様もご承知の事と思います。
元より本島南部一帯は、米軍による激しい掃討戦が展開された場所であり、沖縄戦戦没者のご遺骨が何処でも見つかる可能性のある、艱難の大地なのです。戦没者のご遺骨が、埋め立て用の土砂と共に造成地の土と化すのは、実に悲しい顛末であると言えるでしょう。「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う提言は、全くその通りであると感じます。
しかしながらですよ、不思議な事に、こうした「遺骨が混入した土砂が使われることはあってはならない」と言う声は、昨年供用が開始された那覇空港の新滑走路増設工事や、現在進められている那覇埠頭・泊埠頭・新港埠頭・浦添埠頭の四つの埠頭での、大規模改造・改良工事である「那覇港の港湾計画」では一切聞かれません。本土の人間として沖縄を誰よりもウォッチしている私からしても、実に不可思議と言わざるを得ません。
故に、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」などの、沖縄戦戦没者ご遺骨の尊厳を守るべきと言う、これら反論の余地のない最もだと思える正義の声は、 米軍が関わる名護市辺野古基地の埋め立て工事だけをターゲットにしていると言う点において、明々白々に、中華人民共和国共産党独裁政権が背後で狡猾に仕掛ける、日米離間工作のプロパガンダである と申し上げておきます。
令和2年(2020年)3月26日供用が開始された、那覇空港の新滑走路です。右側の昔からあった滑走路が、とても小さく子供のように見えてしまう程です。新滑走路の護岸延長は8.5km、面積160ha、そして新滑走路の幅は60m、長さは2,700mもあります。また津波を考慮したのでしょう、海面から露出している高さと言う意味で標高が3.3mもあります。そして全体の埋め立てボリュームは約1,000万立方メートルです。想像を超える程の、巨大なボリュームの土砂が投入されたのが解ります。
この増設された新滑走路の土砂も本島南部地域から運び込まれました。しかしながら、新滑走路建設の着工前も、5年もの長期にわたる建設工事中も、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う声は一切向けられませんでした。
(画像は内閣府沖縄総合事務局
「那覇空港プロジェクト」からお借りしました。ありがとうございました)
那覇港管理組合HPに掲載されている「那覇港の港湾計画」です。「那覇埠頭・泊埠頭・新港埠頭・浦添埠頭」の4つの地区の整備、再開発、岸壁・港湾施設の新設等の工事が行われています。その中で浦添埠頭地区は、米軍の牧港補給廠(キャンプ・キンザー)
の一部返還された海側を再開発し、国際貨物埠頭の整備、国道58号線の混雑解消を目的とした臨港道路浦添線の新設、自然保護地域を作る計画のようです。これらは平成24年(2012年)からの長期の工事となっています。ここでも膨大な土砂が南部地域から運び込まれるでしょう。ググると、地元建設会社の受注内容や海面埋立の概要を知る事が出来ます。しかしながら、ここでも言えるのですが、建設工事着手前は勿論、建設工事中の現在も、「遺骨が混入した土砂が使われることがあってはならない」、或いは「遺骨が混入した土砂が使われるなどは、人道上許される行為ではない」と言う声は一切向けられていません。
(画像は那覇港管理組合HPからお借りしました。ありがとうございました)
「傷ついた南部地域 那覇空港
新滑走路完成後の摩文仁周辺の痛々しい姿‥‥」
新滑走路造成の為に、南部地域では二百数十ヘクタールに及ぶであろう山肌が掘削され岩盤が剥き出し状態となりました。ご覧下さい。糸満市摩文仁と宇江城の航空写真による地表面の様子です。不思議な事に、名護市辺野古の埋め立て工事中止を絶叫する人達のうち誰一人として、5年に渡る新滑走路建設工事期間中に抗議や中止の声を上げてくれなかったので、これら掘削地に残されていた沖縄戦戦没者のご遺骨は、悲しくも新滑走路のアスファルトの礎となって消えた‥‥。
《書籍ご紹介》
「戦争プロパガンダ 10の法則」
アンヌ・モレリ著 永田千奈訳 (株)草思社 平成14年(2002年)3月初版
「誰も書かなかった沖縄」 被害者史観を超えて
恵 隆之介著 PHP研究所 平成12年(2000年)7月初版
「沖縄問題の起源」 戦後日米関係における沖縄1945-1952
R・D・エルドリッチ著 (財)名古屋大学出版会 平成15年(2003年)6月初版
「沖縄の占領と日本の復興」 植民地主義はいかに継続したか
中野敏男/波平恒男/屋嘉比 収/李孝徳編著 (株)青弓社 平成18年(2006年)12月初版
「Voice 第357号 沖縄の言い分」
中澤直樹編 (株)PHP研究所 平成19年(2007年)月初版
「ほんとうは怖い沖縄」
仲村清司著 (株)新潮社 平成22年(2010年)4月初版
「沖縄 空白の一年 1945-1946」
川平成雄著 (株)吉川弘文館 平成23年(2011年)2月初版
「報道されない沖縄」 沈黙する「国防の島」
宮本雅史著 (株)角川学芸出版 平成24年(2012年)4月初版
「強欲チャンプル 沖縄の真実」 すべては “軍命による集団自決” から始まった
大高未貴著 (株)飛鳥新社 平成27年(2015年)3月初版
「日本を守る沖縄の戦い」 日本のジャンヌダルクかく語りき
我那覇 真子著 アイバス出版(株) 平成28年(2016年)2月初版
「オキナワ論」 在沖縄海兵隊元幹部の告白
ロバート・D・エルドリッチ著 (株)新潮社 平成28年(2016年)1月初版
「沖縄はいつから日本なのか」 学校が教えない日本の中の沖縄史
仲村 覚著 (株)ハート出版 平成30年(2018年)4月初版
「沖縄県民も知らない沖縄の偉人」 日米の架け橋となった男たち
恵隆之介著 (株)育鵬社 令和元年(2019年)8月初版
「狙われた沖縄」 真実の沖縄史が日本を救う
仲村 覚著 (株)ハート出版 令和3年(2021年)5月初版
「自立自尊であれ」 元県知事仲井眞弘多が語る沖縄振興の現実
OXメンバー著 (株)幻冬舎メディアコンサルティング 令和3年(2021年)6月初版
「中国侵攻で機能不全に陥る日米安保」
西村幸祐・ロバート・D・エルドリッチ著 (株)ビジネス社 令和3年(2021年)12月初版
「中国の脅威に向けた新日米同盟」
ロバート・D・エルドリッチ編 (株)青林堂 令和4年(2022年)6月初版
過去記事掲載はここまでです。
「ずゐせんの塔」です。国道331号線米須にある米須西交差点。ここは「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点ですが、交差点を折れてすぐのところに「ずゐせんの塔」はありました。ちなみに隣接して「ひむかいの塔」もあります。慰霊塔は道路に面していますから、道路に立つとこんな感じで見えます。
ずゐせんの塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に最初建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果として昭和34年6月、ゆかりの地である米須に移築されたものです。
「ずゐせんの塔」
沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、動員された4年生61名のうち戦没学徒33名、同窓生54名、計102柱が祀られています。 同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
【ずゐせんの塔 碑文】
ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並に職員同窓会員の御霊を祭ってある。昭和二十年一月二十五日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、三月二十七日野戦病院壕で卒業式を挙行、直ちに第六十二師團、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里、摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥○の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません」
ギリギリ読めますね。
沖縄県立首里高等女学校同窓会員戦没者が刻まれています。
沖縄県立首里高等女学校の校章です。
詩が読まれています。「夕照」氏が詠まれたようです。
この道も この岩肌も 乙女らが弾にたたかれ 踏み惑ひしところ
次に目指すは「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。国道331号線上の糸満市大度にある交差点「大渡」に目立たないながらも、小さな案内板があります。小さすぎますよね~。
交差点「大渡」から市道に入って、50m程坂道を進むと左側に同碑の霊地が見えてきます。コンクリート製の高い擁壁がその霊地です。
コンクリート製の擁壁をアップしました。擁壁に根を張っていた樹木、恐らくガジュマルだと思われますが、一昨年に枯らす事を前提としたのでしょう深く切られていました。
しかしながら、ガジュマルはやはり強いですね。息を吹き返して成長を再開させています。
「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」は、この階段から上がっていきます。
「野戦重砲兵二三聨隊(球3109部隊)慰霊碑」
「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。野戦重砲第23連隊は昭和17年4月25日に満州国東満総省梨樹鎮において編成された部隊でした。昭和19年8月31日に沖縄守備隊第三十二軍の軍直轄部隊として動員下令され、昭和19年10月22日に、十・十空襲の焼け跡が生々しい那覇港に到着しました。第三十二軍司令部直轄の軍砲兵隊で連隊長は神崎清治大佐で、部隊の通称名は球3109部隊です。連隊は本部及び2個大隊から編成されています。また各中隊には九六式十五糎榴弾砲が4門が配備され、牽引する為の6トン牽引車が4両、ほか自動貨車34両などが主要装備であったようで、沖縄戦当時は最新鋭の機甲部隊と呼ばれていたそうです。
同部隊は、連隊本部を前田高地に置き、第一大隊は首里を基幹とする石嶺周辺に陣地を構築し布陣しましたが、第二大隊は予備として島尻地区に陣地を構築しました。
第一大隊は、4月1日の米軍上陸から中旬にかけて首里戦線での嘉数高地や前田高地などで、南下する米軍と真っ正面から激闘を演じた部隊です。第二大隊も4月5日島尻地区から与那原西南の前線に転戦、第六十二師団と戦闘共同に入りました。
5月末の第三十二軍司令部の首里撤退に伴い、首里戦線で壊滅的打撃を受け南部に撤退していた第一大隊も八重瀬岳に転戦、第二大隊も呼応して八重瀬岳の戦闘に参戦。そして6月中旬には両大隊の残存兵は、当初の第二大隊の島尻陣地であった小渡(現在の大渡)に集結しました。この時、使用可能な火砲は二門だったと言います。そして6月19日夜に部隊長神崎清治大佐を先頭に敵前切り込みを敢行し玉砕。残存傷病者は部隊解散になったとの事です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場、トイレはありません」
慰霊碑に碑文が刻まれていますね。読みにくいので、テキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。
【野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑 碑文】
この碑は、太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始勇敢に戦って散華した野戦重砲兵第23聯隊(球3109) 戦没将兵の霊を祀ったものである。部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵部隊の戦斗によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。その遺勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関係者一同相協力して、これを建立した。
昭和53年 3月19日 野重二三戦友会・戦没者遺族一同
野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑がこの地に建立されているのは、同聯隊の終焉がこの地であった事によります。慰霊碑のモチーフとして重砲の砲弾が碑の両側に立ち、台座中央部には写真に写されているように、「力」の字が彫られ、その文字を四角く囲っています。これは部隊長である神崎清治大佐の頭文字のカを取ったとの事です。
塔の前には、これだけのスペースが確保されています。戦後しばらくは大勢の関係者が参列しての慰霊祭が執り行われたのでしょうね。
大渡海岸方面を見ています。この辺り太陽光パネルも増えてきましたね。
荒崎海岸方面を見ています。束里の清掃工場である糸豊環境美化センターも小さいですが見えますね。
調査・遺骨収集作業開始です
三浦さんが昨日見つけた印鑑を、綺麗に清掃して持参して下さいました。ご覧下さいませ。「平田」と読めないでしょうか?
印面はこんな感じです。
紐を通す穴でしょうかね。しっかり穴が彫られていますね。
平日の朝なのに、やけに車が止まっているなと思っていたら、松永さんが現れました。米軍軍属の方々で遺骨収集に関心のある方々が集まっていて、私達が初日に案内した摩文仁崖下に皆さんを連れて行くとの事でした。あそこなら近いですから、日中十分に遺骨収集の作業時間を確保出来ますね。
米軍軍属が乗る乗用車のナンバーはこんな感じになっているのですね。
本日も昨日に続き、福岡さん、吉井さん、三浦さんと私の四人での作業となります。作業に先立ち、まずは沖縄戦で戦野に果てた戦没者のご冥福を願い手を合わせます。
いつもの流れで、戦没者のご冥福を祈った後は集合写真と言う事になります。左側から三浦さん、吉井さん、そして福岡さんです。それでは、今日も頑張りましょう。よろしくお願いします。(^o^)
ご遺骨が出ている壕に到着しました。吉井さんです。早速作業開始ですよ。道具類も置いてあるし昨日の続きですから、パッと着手出来ますね。(^o^)
三浦さんです。吉井さんが昨日壕内の一部を完全に終え作業場所が移動したので、二人は入れる空間が確保されました。しかしながら、三人は入れないので、福岡さんは別の場所で作業します。と言う事で、今日はこの壕で吉井さん、三浦さんの二人が徹底的に探す事になります。頑張って下さい。(^o^)
現時点までに収容したご遺骨です。
こちらは遺品類ですね。見つかる遺品が多くなったので、ご遺骨の白布と分ける事にしました。
こちらはセルロイド製の入れ物ですね。名前とかは書かれていない印象です。
福岡さんです。福岡さんは昨日の続きの場所に取り組んでいます。
遺品が混じっているのが目視出来ますね。
薬莢がありました。長さ10cmぐらいですね。因みに直径は両側で、20mm、15mmでした。
ご覧のように、弾丸は打撃され発射されていますね。
瀬戸物急須の注ぎ口ですね。この壕には民間人が居られたのでしょうか?
大きな遺品が見つかりました。アルミ製の弁当の蓋と言ったところでしょうか。
裏側を見ています。名前が残存する可能性は‥‥。厳しいですね。
ここは広くて良い感じの場所ですよね。砲弾の直撃を受ける心配も一切無い場所です。
ご覧下さいませ。お金ですね。
お金を回収しています。
この黒い物は何でしょうかね?
割れた瓶がありますね。
フルイを用いて慎重に掘り進めています。
三浦さんが作業した場所から発見された遺品類です。既に作業は終了しているので、これにて完了です。
こちらは福岡さんが作業した場所から発見された遺品類です。
こちらも同じく、福岡さんが作業した場所から発見された遺品類です。結構色んな物が出て来ましたね。
また何か見つかったようです。
また白い四角の物が出て来ました。これは何でしょうかね?
11時頃に雨が降りましたが、今は止んでいます。若干明るくなってきた印象がありますから、これから雨が降る心配はないと思います。(^o^)
吉井さんが作業する壕に戻りました。吉井さんは、ず~~と、ご覧のような座った姿勢で作業を続けているようです。たまには外に出て、足を伸ばしたり休憩して下さいね~。(^o^)
三浦さんです。三浦さんは、吉井さんよりも手前側で作業しています。
現時点で収容されたご遺骨です。脊髄や肋骨の骨が増えてきましたね。左側にある骨三点は動物の骨です。
遺品も少しずつ増えていますね。
このセルロイド製の入れ物が気になりますね。
福岡さんの現場です。
コオロギのような昆虫が居ました。暗い壕でよく見かける昆虫ですよね。何を食べて生きているのでしょうかね?
福岡さんはご覧のように、金属探知機と小型のツルハシのような道具を、常にセットとしてフル稼働させています。それに忘れてならない物が見えますよね。そうです。プラスチック製の小さな容器です。これに見つけたご遺骨や遺品類を入れるのです。
上から福岡さんを撮影しました。
福岡さんが作業している壕の上部はこんな感じです。至近弾を浴びる可能性はゼロで、安心して住める場所となっています。
福岡さんは少し場所を移動しました。
福岡さんが見つけた遺品類です。
同じく、福岡さんが見つけた遺品類です。
これは金属製の急須の注ぎ口でしょうか? 注ぎ口の上には金属製の蓋も写されています。現代もアルミ製の急須というのは有りますよね。
こちらは金属製の容器が写されています。金属製の容器も珍しいですね。
こちらは、三浦さんが見つけた遺品類です。これにて、福岡さんもここでの作業を終了するとの事なので、こうした遺品類はまとめて白布に入れ残置する事にしました。
ジャーン。如何でしょうか。収容された遺品類は、こんな感じで一箇所にまとめて置く事にしました。例えば何年か後、この地に遺骨収集をしようと訪れた方々が、この白布に包まれた遺品を見て、「アッここは遺骨収集が済んでいるな‥‥」と感じてもらえば大成功です。そうなれば、そうした方々の作業の二度手間を省けるので、こうした措置は後に続いて遺骨収集される方々の為であると考えます。(^o^)
少し離れて見ると、こんな感じです。雨の当たらない場所を選び、且つ地面が濡れていると、すぐに白布が腐ってしまうので、小石を並べて白布をその上に置くようにする‥‥。バッチリですね。
福岡さんが、この壕に戻りました。三人での収容作業となりますから、スピードアップは必至ですね。(^o^)
福岡さんは、早速フルイを用いて作業開始です。
現時点で収容されたご遺骨の様子です。
こちらは遺品類ですね。
吉井さんです。細かいご遺骨や遺品類が出てくるので気が抜けないと話しておられました。
吉井さんが、この写真の土の部分から色んな遺品やご遺骨が出てくるとの話です。
三浦さんです。
福岡さんが発見しました。
福岡さんが発見しました。手を合わせるような姿をしている事から、いわゆる喉仏と呼ばれ第二頸椎ですね。
福岡さんです。
三浦さんです。
吉井さんです。
福岡さんが作業している場所の土砂は、戦後堆積したものであるのが明々白々ですね。プラスチック製の容器にも遺品が入っています。少しずつ見つかっているようです。
本日の作業も終了となりました。本日最終的に収容されたご遺骨の様子です。
こちらは遺品類ですね。
外はかなり暗くなってきましたね。早くジャングルを出ましょう。