令和5年(2023年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月08日(水)糸満市役所、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 2月09日(木)松永さん他4人による摩文仁海岸線ルート調査
- 2月10日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月11日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月12日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月13日(月)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月14日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月15日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月16日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月17日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 2月18日(土)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月19日(日)慰霊巡拝第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 伝説の黄金ハブに遭遇 (^o^)
2月10日(金) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報は「雨のち曇り」です。予想最高気温22度、降水確率は70%、40%ですから、午前中は雨に降られる可能性が高いですね。因みに関東地方は、低気圧が南岸沿いに進むため大雪警報が出ていました。積雪になりますかどうか‥‥。
本日朝の慰霊巡拝では、「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」、「山形県の塔」、「眞山(みやま)之塔」、「白梅之塔 上の壕」、「白梅之塔」、「白梅学徒看護隊自決之壕」、「山雨の塔」、「南北之塔」を訪ねました。
今日の降水確率は70%、40%である事は昨日夜の天気予報で解っていましたが、今朝五時半過ぎの朝の散歩の時は、ご覧のように空にはお月様も出て、もしかしたら雨は降らないかも‥‥。と感じさせ、嬉しくなりお月様を撮影してみました。(^o^)
国道331号線の「真栄里交差点」からご覧のような、真栄里集落に入る道があります。同交差点には、写真右側にあるような「真栄里入口」と書かれた石柱がありますし、慰霊塔名が書かれた案内板もありますから、ここから「白梅之塔」方面に向かうのも良いと思います。(^o^)
真栄里の霊地にやって参りました。道路が新しく舗装されました。ここ真栄里は慰霊塔が数多くある地域でもありますね。と言う事は激戦の地でもあると言えるでしょう。それでは、今から各慰霊塔を慰霊巡拝して行きましょう。午前中の降水確率70%ですが、慰霊巡拝する時間帯には雨にはなりそうにない雰囲気です。雨が降り出す前に慰霊巡拝をぐんぐん進めていきましょう。(^o^)
「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」
糸満市字真栄里にある「我が興亡の史碑 歩兵第三十二聯隊終焉之地」と書かれた石碑です。平成17年(2005年)8月に歩兵第32連隊会により建立されました。碑名には呼名として「霞城聯隊、満州八〇三部隊、山三四七五部隊」と刻まれています。歩兵第32聯隊は島尻に撤退以降も、国吉大地を中心に米軍と激突し、米軍側にも多大な出血を強いた部隊です。
平成17年(2005年)建立ですから、比較的新しい石碑ですね。場所は、「白梅之塔」から歩いて2分程度です。「山形の塔」に隣接するように建立した理由は、碑にも「霞城聯隊」と書かれているように、明治29年秋田に設置された連隊本部が、日露戦争後、秋田から山形城(雅名は霞城)へ転営し、徴募区が山形県になったと言う歴史事実が関係しているものと思われます。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」
裏面の碑文です。問題なく読めますね。
石碑の横面に書かれている文言です。軍旗を奉焼した場所が書き記されています。「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」と書かれていますね。地図上でその方向と距離を照合してみますと、バクナー中将慰霊碑の少し北側には高地帯になっていて稜線が通っており、その崖下の低地で焼いたという可能性が高いですね。と言いますのも、そのバクナー中将慰霊碑の北側の高地帯は、真栄里集落の北側を貫いており、そこには数多くの構築陣地がありまして、第三十二聯隊や第二十二聯隊による最後の激闘が展開された場所でもあります。私も一度その中の一つの構築陣地に入った事があります。同地は、こうした陣地壕が散在している場所でもあります。
動画ご紹介
「大日本帝国陸軍『歩兵第32連隊』山形・東北地方の誇り!三十二連隊の歩み【歴史解説】」
《書籍ご紹介》
「沖縄戦 24歳の大隊長」 陸軍大尉伊東孝一の戦い
笹 幸恵著 (株)学研 平成27年(2015年)初版
この本は歩兵第三十二聯隊第一大隊長である伊東孝一大尉の軌跡を綴った本ですが、この本の中に同隊の軍旗奉焼に関わる記述がありますのでご紹介します。
軍旗奉焼
調査の結果、日本の敗戦は歴然としていた。今となっては一日も早く戦闘を終結させて、一人でも犠牲を少なくすることだ。
全力で戦うことと、見事な負けっぷりとは、いずれ劣らぬ大事である。問題は聯隊長以下全将兵をどう納得させるかだ。
伊東は決して話上手ではなかった。言葉で気持ちを伝える術を持たない。ただそのまま調査の実態を報告するしかない。(あとは自分という人間を信じてもらうだけだ)
伊東はそう心に決め、夜になって樫木副官と佐藤軍医見習士官を従えて聯隊本部へと赴いた。
聯隊長以下十名ほどの全将校が、伊東が来るのを待ちかまえるようにして集まっていた。伊東は調査の結果について順を追って淡々と述べ、最後に「日本の降伏を信ずる」と報告を結んだ。誰からも、質問も反論もなかった。ほっとした一方、気が抜けた感じもあった。しばし沈黙が続いたが、結局、武装解除を受諾することに決まった。
しかし誰からも具体的な方法が出てこない。交渉は伊東に一任された。
翌日、伊東は、日本軍第三十二聯隊は米軍による武装解除を受諾すると回答し、その上で次の事を要求した。
一、武装解除の日は八月二十九日とする
一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること
一、このため四周に米軍から警戒兵を配置し、他の米兵の侵入を禁ずること米軍側は直ちにこれを承知した。さらに警戒のために飛行機を使用し、米軍将校と通訳をジープと共に国吉集落中央に配置することを申し出た。ただし夜は恐ろしいから引き揚げさせてくれ、とのことだった。最後のくだりが伊東には少し愉快だった。米軍がいかに国吉台周辺の日本軍に痛い目に遭っていたかがわかろうというものだ。
‥‥‥。
武装解除の前夜、歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼が行われることになった。伊東は樫木副官を伴い、聯隊長に指示された場所へと向かった。
明治三十一年の創設以来、歩兵第三十二聯隊の伝統と団結、そして栄光のシンボルだった軍旗は、日露戦争以来の戦歴を物語るように、布地が破れ周囲の金モールの縁取りと紫色の房だけを残していた。
紋章を槌でたたき潰し、棹を鋸で三つに切断し、旗と共に油を注いで焼く。
将校たちは挙手の礼をもって焼かれていく軍旗と決別した。折しも、群雲が月を覆い、小雨が降ってきた。涙雨だったのかもしれない。
「沖縄戦 24歳の大隊長」から転載させて頂きました
「一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること」
上掲の様に米軍に約束させたと言う事は、陣地周辺は全く昼夜別なく安全に、そして自由に行動できた事を意味しますので、狭い壕内で煙にむせながら、コソコソと軍旗を奉焼する必要は感じられません。歩兵第三十二聯隊は毅然と、聯隊の象徴とも言える軍旗の奉焼に際しては、堂々と胸を張って矛を納める儀式に臨んだはずです。と言う事で「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている様に、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」という記述が事実と思われます。
次に目指すは「山形の塔」です。「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の向かいにその目指す「山形の塔」があります。隣り合っていると言う訳ですね。因みに案内石柱には「山形県の塔」と書かれていますが、慰霊塔本体には「山形の塔」と書き記されています。どちらが正しいのかな?
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」
「山形の塔」の説明板です。読めますね。ただちょっと気になる記述がありますね。軍旗の奉焼場所についてですが、ここから10m離れた所にある「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の側面に記載されている碑文には「ここより西北西470mの低地で軍旗を奉焼した」と書かれていますが、この説明板には、「歩兵三十二連隊が軍旗を‥‥この壕内で奉焼した」と書かれています。
聯隊毎に授与される聯隊旗は、連隊旗のある所に連隊本部があり、そして連隊長がいると言う象徴です。更に聯隊旗は、聯隊の力と団結の徴であり、拉孟守兵の士気の源泉でもありました。
部隊が壊滅間際とか玉砕直前とかの聯隊の消滅に伴う軍旗奉と、軍命により止むなく矛を納める象徴としての軍旗奉焼とでは、意味合いは百八十度違ってきてしまいます。従って軍旗奉焼を実行した場所と言うのは、場所により奉焼の意味合いが全く違ってくるのは自明であります。
歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼に関わる説明文は、10メートルしか離れていないにも関わらず真逆とも言える解説が為されています。両塔は設置に40年の差(案内板再記は23年の差)があり、爾後歴史的真実が解明されたと言う事なのかもしれませんが、10mと言う至近距離で、真逆と言える歴史記述が掲示され続けているのは問題なので、解明された正しい歴史事実に統一してほしいですね。
「歩兵第三十二聯隊の壕」です。「ウフ壕」とも呼びますし、「田原屋取(たばるや-どぅい)の壕」、32連隊の壕等とも呼ぶようです。ウフとは沖縄の言葉で「大きい」を意味します。坑道の長さは凡そ100mあるそうです。「ウフ壕」と呼ばれたように、かなり大きい壕だと感じますね。
歩兵第三十二聯隊は、米軍上陸前は高嶺村大里の大城森の壕を聯隊本部にしていました。その後暫時首里戦線に投入され、首里撤退に伴い6月4日島尻のこの壕へ移動して来ました。また同聯隊以外にも同居した第二十四師団の部隊があるようです。
このウフ壕は真栄里集落の人達の避難壕だったそうで、集落の人達が自然壕を掘り進めて拡張したものだそうです。出入り口は二カ所あるそうですが、一カ所は埋没しているとの事です。ご覧のように、現在は立ち入り禁止となっていますので、残念ながら壕内を見る事は出来ません。
途中右に曲がっているのが見えます。沖縄戦当時コンクリート階段部は結構な急勾配となっている状況からして、出入りは大変だったかもですね。
階段を曲がり、階段部の奥を撮影しています。階段が終わっているようですが、その先がよく見えません。横坑道は地表面から4メートル以上ありそうですから、艦砲砲撃にもびくともせず耐えたのでしょう。
カメラレンズを拡大してみました。右側に壕の坑道がある雰囲気ですね。何時の日か、機会があれば入ってみたいですね~。
砂利道を少し歩くと右側に「山形の塔」見えてきました。
「山形の塔」
「山形の塔」です。昭和40年(1965年)2月6日建立され、合祀者数40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)の英霊が祀られています。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
塔の背後には碑文がありましたので、テキストに起こしてみました。ご覧くださいませ。
【山形の塔建立記】
大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのびみ霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建立したのである
昭和四十年二月六日
建設期成同盟会長 加藤富之助
「歩兵第三十二聯隊の壕」を上から撮影してみました。ご覧の石垣は沖縄戦当時は無かったでしょうから、開口空間は今よりも大きかったでしょうかね。
次に目指すは「眞山(みやま)之塔」です。と言っても隣ですから、すでに同塔は見えていますね。「山形の塔」と隣接して建立されているのです。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」
「眞山(みやま)之塔」
「眞山(みやま)之塔」です。昭和42年(1967年)5月に建立され、100柱が合祀されています。この慰霊塔は特定の部隊等は無く、第二十四師団隷下の各部隊と表現されていますね。そうした隷下部隊将兵凡そ100名がこの付近の壕に布陣し戦死されたようです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
塔の裏に、ご覧のような造作が為されていました。納骨堂なのかも知れませんね。
碑文ですが読みにくいので文字を起こしました。(^o^)
【眞山(みやま)之塔 碑文】
怒濤の南進を続ける米軍に対し第二十四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるもついに昭和二十年六月十七日この付近の壕内において玉砕せる
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め長くその偉烈を伝う
昭和四十二年五月 財団法人沖縄遺族連合会
次に目指すは「白梅之塔 上の壕」です。「眞山(みやま)之塔」の左手をご覧下さいませ。草木が刈られていて、更に奥に行けそうな道が見えますよね。その道の突き当たり、「眞山(みやま)之塔」から40mぐらいの所に「白梅之塔 上の壕」があります。曇り空などでは、鬱蒼と茂る樹林が怖い雰囲気となっているかも知れませんが、向かってみて下さいませ。(^o^)
同壕は「眞山(みやま)之塔」から、写真のような風景の中に見えて来ます。すでに小さな石碑が見えていますね。この参道は何時の時も横幅広く手入れされ道となっていますから、見落とす事はあり得ません。
「白梅之塔 上の壕」
「白梅之塔 上の壕碑」です。昭和63年(1988年)6月、白梅同窓会により建立されました。沖縄戦当時この壕は「上の壕」と呼ばれ、自然壕を利用していたようです。同壕は、沖縄守備軍の食糧弾薬倉庫であると共に、白梅学徒看護隊員の仮眠所として利用されていたようです。背後にある縦穴があり、碑文には「6月22日米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した」と書かれています。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」
「白梅之塔 上の壕碑」から見た壕の状況です。ご覧のように、上から見た限りでは壕とは言えず、米軍の攻撃を受けるまでは壕であったかも知れない‥‥。と言う方が正しい表現でしょう。壕は軍需物資の集積所であったと言う事と、白梅学徒看護隊員の仮眠所とされていたようですね。
壕であった場所の底部に降りる為に、ドリーネ状の縁を前進しています。今年は壕の底部に降りるつもりで、靴も遺骨収集の靴を履いて来ましたし、ヘッドライトも持参しましたから、装備的にはバッチリです。レッツゴーです。(^o^)
一番低い位置まで降りました。ここは壕底と言えるでしょう。
横穴と言いましょうか、窪地と言いましょうか。小さな穴のような場所が数多く見られますね。
ここも穴らしき場所があります。近づいてみましょう。
こちらの穴は直ぐに行き止まりとなっていました。
こちらの穴は少し大きいですね。入ってみましょう。
遺品がありました。割れた茶碗と地下足袋の靴底ですね。
別の出入り口と繋がっていました。
壁面の様子です。部分的ですが、間違いなく黒い煤が付着していますね。
こちらもそうです。黒い煤が付着しています。付着していない場所もあるので、執拗な激しい攻撃に晒されたと言う訳ではないようです。
ウ~~ン。地盤が‥‥。地盤をご覧下さい。ごく最近遺骨収集作業として誰かが掘り起こしていますね。
ここは別の穴になります。まあまあのスペースがありますね。
別の場所ですが、ここも掘り起こした雰囲気が残っています。遺骨収集を長年続けていると、その辺の微妙な人工的に手を加えたのが見えますね。
ここも別の穴です。入ってみましょう。
中は結構広いです。ただ地面にはご覧のように土砂が堆積しています。
横穴もここで終わりですね。
直ぐ横にも出入り口がありました。
ここは別の場所です。ここは人間は入れないみたいです。
ここも入れません。この辺りで散在する横穴は終わりとなっていますね。ここまで壁面沿いにある横穴を見てきましたが、米軍に攻撃されるまで、どこまでが横穴の壕であったのか‥‥。見た限りでは、判断材料は全くありませんね。
壕の底部をもう一度撮影して、ドリーネ状の縁を廻って上に上がりました。
次に目指すは「白梅之塔」です。「山形の塔」から坂道を100mほど下ると、ご覧のようにモクマオウが生い茂る「白梅之塔」霊地前に到着します。勿論同塔には、大きな専用駐車場とトイレも完備されていますので、安心して参拝して下さいませ。(^o^)
おや? こんな朝早くに車が一台駐車してますね。
「白梅之塔」前に到達しました。また例えば、県道54号線から入ってくる場合は、県道54号線から150mぐらい進むと、この「白梅之塔」前に到達します。駐車場に車一台ありましたが、清掃作業の方々の車でした。作業員がお一人写真に写っていますが、清掃作業中に撮影するのも何ですから、まずは自決の壕などを先に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「白梅学徒看護隊自決之壕」
「白梅学徒看護隊自決之壕碑」です。この石碑の右側に、その自決之壕壕口があります。因みに、同碑の背面をご覧下さい。昔と比べて格段に明るくなっていますね~。正直に話しますと、昔はこ場所は暗くて、且つ凄く陰気な場所でした。
「白梅学徒看護隊自決之壕」
令和4年(2022年)、即ち昨年立ち入り禁止の看板が設置されました。今年もそのまま立ち入り禁止が続いています。恐らくこのまま長く続くのでしょう。(^_^;)
因みに、この壕は、沖縄戦当時「下の壕」と呼ばれていました。地元では古くから「マチドーヌティラ」と呼びます。ティラとは神が鎮座する洞穴の事を指すと言われ、集落の人々が聖地として大切にしていた壕ですね。
「白梅学徒看護隊自決之壕」を、地元の方々は「マチドーヌティラ」と呼ぶようです。毎年伝統行事も挙行されるなど、歴史と伝統のあるガマ(壕)の様ですよ。ガマの由来や沖縄戦当時の白梅学徒隊の軌跡が書かれていますのでテキストに起こしてみました。
【マチドーヌティラ】
字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーとう伝統行事が国吉自治会によって行われています。
また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うこととなりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食料や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡しました。
戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅之塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
柵から手を伸ばして壕口を撮影しました。ここから先に行けないなんて本当にショックです。せめて階段下の部分まで行かせてよ~。壕口は一枚岩の頑丈な石灰岩ですよね~。階段下までなら、絶対落盤は無いと断言出来ますよ。階段下まで降りられるようにして下さい。参拝者に、横の坑道から見える壕内の様子を見てもらい、往時の沖縄戦に思いを馳せて頂く‥‥。これこそが意義のある民間の平和学習だと思いますよ。(^_^;)
令和3年(2021年)に、自決之壕内部の様子を写真撮影したのでご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
【令和3年(2021年)撮影】
間もなく階段も終わりですね。前方は突き当たりとなっています。壕としての坑道は突き当たりから右側に深く伸びています。因みに大昔から「マチドーヌティラ」と呼ばれ、聖地として大切にされてきた場所は、階段が終わり、最奥部にある拝所までが同洞窟であったかも知れません。
突き当たり部右側から始まる横坑道は、沖縄戦当時に構築されたものかも知れません。この壕の10m程右側には、先ほど写真撮影した縦穴がありますから、それぞれ単独の壕を地下部で連結した可能性も考えられます。と言うのも、ここは巨大な一枚岩の岩盤の下を掘り進めて坑道を構築しているのが見て取れます。巨大な一枚岩の岩盤の下は、岩石と土が混じった地層なので、人力で容易に掘り進めるのが可能であるからです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
コンクリート製の階段を降りきって、通常は右側の坑道に進みますが、この写真は突き当たりの左側を撮影したものです。土砂は戦後堆積したのかもしれませんが、それなりに広い空間がありますね。もしかしたらこの辺りにも負傷兵が大勢居られたのかもしれません。
壕の天井部分を撮影しています。少し解りにくいですが、鍾乳石の氷柱が折られているという点を知って頂きたく撮影しました。少しでも坑道の高さを確保するため、そして安全を確保する為に折られたのだと思います。また壕内は米軍の火炎放射攻撃などで壁面が真っ黒になっている場合も多いですが、この壕もまたよく見ると攻撃された後と見られる黒い煤が付着しているのが見て取れます。
6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡したとされています。米軍の馬乗り攻撃では、現在階段になっている壕口からドラム缶に入ったガソリンを落とし込まれたと言われています。二十年三十年前は、煤で壕内はかなり黒かったですが、年々黒色が薄くなっていく印象があります。
ここで亡くなられたご遺族の方でしょうか。いつ来てもここにご覧のような、一つの鎮魂の場として色んな人形が置かれています。
最奥部の拝所です。ここは「マチドーヌティラ」としての拝所のような印象です。
コンクリート製の階段を降りきってから、右側を見ています。平和学習の為でしょう、しっかりと坑道が歩きやすいように整備されています。歩く部分には砂利も敷かれているのが見えますね。今はこうして歩道のように歩きやすくなっていますが、昔は岩だらけで行き来するのが大変でした。その困難さは次の写真で紹介致します。
写真に写されている横坑道は沖縄戦に備えて掘られた可能性が大きいと思います。天井面の岩盤層の下は、ご覧のように岩とか土砂ですから、掘り進めるのは比較的容易だったと思えます。
《過去の写真ご紹介》
【平成26年(2014年)2月11日撮影】
坑道の奥まった部分が黒く三角形をした穴のようになっていますが、そこが上掲写真の「頭上注意」の看板があるところです。この頃の坑道はとても歩きにくい状況だったのがよく解る写真です。この壕は繰り返し繰り返し遺骨収集が為されていましたから、地形が変わったと感じる事がよくありました。因みに国吉勇さんも、この壕で熱心に遺骨収集をされていました。
過去写真掲載はここまでです。
坑道は高さがありません。特に高さが無い場所は、ご覧のように「頭上注意」の看板も設置されています。この壕の見学はヘルメットは必須ですね。
壕の最奥部空間が見えて来ました。この辺りも頭上注意です。
一番奥まった空間に到達しました。結構な広さがある空間ですね。沖縄戦当時は、ちこの辺りに負傷兵が並んで居られたと思われます。ここは高さが十分にありますので、頭上を気にする事なく安心して立てる場所です。足下もしっかりと砂利が敷かれて安定しています。昔はこの辺りは遺骨収集で何度も何度も掘り返されていて、岩と共に土が多くて歩きにくく滑りやすかった場所です。
《過去の写真ご紹介》
【平成26年(2014年)2月11日撮影】
上掲写真とは撮影方向が少し違いますが、一番奥まった所を撮影しています。ご覧のように写真では、カメラ目線で見ても天井部がかなり低いのが解りますよね。昔の最奥部で立って歩ける場所は、現在の状況よりも狭かったです。平和学習実施の為に土砂を搬出したと思われます。
ご覧のように繰り返される遺骨収集の為に、地盤が大きく掘り返されているのがお解りになると思います。遺骨収集で地盤が掘り返された時期が古いのか新しいのかは、目で見ると意外と解るものです。言葉では説明しにくいですけどね。この写真の時も、最近掘り起こされたのがハッキリと認識出来ました。
この広場は、現在は砂利も敷かれ比較的平らな面となっていますが、撮影した時はごく緩い傾斜面といって良いほどで、平らな面は全くありませんでした。そうした所を病院壕として利用した訳ですから、軍医や衛生兵そして学徒看護隊、また運び込まれた患者さんのご苦労が忍ばれます。
過去写真掲載はここまでです。
地際付近にご覧のように、煤で黒くなった場所がありました。炊事をした場所かも知れません。ただ良く見ると、近年ここに土を寄せたという雰囲気がありますので、断定は出来ませんけどね。
右側天井部に開口部があります。「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分ですよね。天井面の岩肌に注目です。開口部に近づく程に、岩肌に煤が付着しているのが見えます。開口部から爆雷やガソリンを流し込まれ煤で黒くなったものと思われます。下掲写真でアップしてみました。
(拡大したので画面が荒くなっています) 戦後七十余年を経て、煤で黒くなった色合いは年々薄くなっていますが、それでもご覧のようなタールが付着したような色合いとなっているのが解ります。
「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分を下から撮影しています。岩盤の崩落を防ぐ目的で数多くの鉄パイプとジャッキが設置されているのが見えますね。岩盤の色で判定できますが、天井面は無数の鍾乳石氷柱が形成されている事から、一枚岩に近い堅固な鍾乳石灰岩で出来ています。一方地面部分に展開する飴色の土石類は極めて崩れやすいのが一目瞭然となっています。
崩れる恐れのある部分、無い部分の分別は、それ程難しくありません。現在沖縄では沖縄戦に関わる構築壕を中心に落盤の恐れがあるという理由で、立ち入り禁止となる壕が増えていますよね。それは修学旅行での平和学習の場が失われるという事態であり、平和学習関係者は苦慮していると聞いています。この「白梅学徒看護隊自決之壕」(マチドーヌティラ)は、目の前の落盤危険地のみをきっちり管理できれば、その他の壕内部については、落盤の危険度ゼロと言って良い程安全な場所です。この壕内の往復の時間や移動距離は、平和学習に最適な条件で運用出来ますから、この壕での平和学習は長く続けてほしいですね。
それでは帰りましょう。天井面の氷柱にヘルメットをぶつけないように注意して進みます。
地面は、ご覧のように砂利が敷かれ、とても歩きやすくなっています。
壕口が見えて来ました。壕に深く入ると、いつも思うのですが、普段は日常生活の中で光をありがたいとは思いませんが、暗い壕から再度こうして光を浴びると、光のありがたさ偉大さが身にしみますね。因みに現在の平成4年(1992年)6月に建立された四代目である「白梅之塔」の形状は、「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事ですよ。(^o^)
拝所付近の天井にある鍾乳石氷柱も見事ですね。あちこち見渡してみても、現在は氷柱の先に水滴は全くありませんね。
写真を良く見て下さい。三カ所鍾乳石の氷柱が折られていますね。沖縄戦当時危険だからと折られたと思われます。
過去写真掲載はここまでです。
「南禅廣寺」
「南禅廣寺」の社殿です。屋根は本葺瓦と言う、伝統的な女瓦と男瓦を用いた沖縄赤瓦で葺かれています。一方壁面は目立つピンク色となっていおり、凄く目立ちますよね。
「南禅廣寺」の内部の様子です。祭壇らしき物がありますね。ご神体などが安置されているのかも知れません。
「南禅廣寺」の右側に来ました。縦穴の壕口がある場所です。
ここは昔からずっと縦穴がありました。今も開口部がそのままになっていますね。完全に塞がれた事もあるのですが‥‥。長年観察を続けていると、修学旅行生等の平和学習に利用する壕という観点で、安全に利用する為の努力が何年も試行されているのが良く解ります。しかしながら、結局壕口も閉鎖されたと言う事で、遂にこの縦穴壕口も放置が確定したようです。 ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、近年になってから修学旅行生への平和学習が恒常的に行われるようになりましが、この縦穴壕口がある場所が、壕内部への落盤の危険性が最も高かった場所です。その崩落の危険度は、すでに崩落の可能性が高いとして閉鎖された「マヤーアブ」よりも、格段に崩落の可能性が高かったと言えるでしょう。
《過去の写真ご紹介》
【令和02年(2020年)1月11日撮影】
「南禅廣寺」の右側に来ています。ここは昔からずっと縦穴がありました。今は完全に塞がれた印象です。壕内部はしっかりと落盤防止措置が講じられたのでしょう。
ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、近年から修学旅行生への平和学習が恒常的に行われるようになりました。この縦穴があった場所付近が一番壕内部への落盤の危険性が高かった事から、安全第一で落盤を防止する工事が為されたのだと思われます。
過去の写真掲載はここまでです。
《過去の写真ご紹介》
【平成31年(2019年)1月24日撮影】
先ほどの壕内で立ち入り禁止の場所がありましたが、上から見るとここですね。
開口部の真上から撮影しました。建設足場に使うジャッキが設置され、岩底を支えていますね。
なるたけ奥を撮影しています。これが限界ですね。ジャッキアップしているのが見えます。そうするのもやむを得ないほど岩の厚みが薄いですね。爆雷を投げ込まれたような場所は、岩盤がかなり緩くなっている可能性があるので、下に堆積している土砂の多くが戦後崩落したものかもしれません。
過去写真掲載はここまでです。
「南禅廣寺」前広場の観客席は、ご覧のように、円形劇場のような形状をしているのが解ります。この広場では、上掲写真でもご紹介しましたが、旧歴9月9日(10月23日)に国吉集落の旧暦行事「寺ムヌメー(物参り)」が行われているとの事です。「寺ムヌメー」は、集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事との事で、神事やカチャーシーを踊ったりと多彩な行事が含まれるようです。
向かって左側を撮影しています。同じように観客席が階段状になっています。
《サイトご紹介》
参道入り口には、ご覧のような「南禅廣寺」と彫られた石柱が立っています。
「南禅廣寺」の参道を歩いて車道に出ました。こうして見るとピンク色の外観は目立ちますね~。(^o^)
「白梅の塔」の駐車場を撮影しています。広い駐車場なので観光バスも入れるでしょう。トイレもありますよ。(^o^)
清掃作業も終わったようです。参拝しましょう。(^o^)
ご覧のように参道が改修されました。令和3年(2021年)にボランティア団体によるクラウドファンディングにより改修工事を行いました。素晴らしいです。改修内容は、40m程ある参道がコンクリート舗装されたり、手摺が設けられたりと、美観と安全性が格段に増しましたね。(^o^)
ギリギリ読めますね。(^o^)
「白梅之塔」全景です。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。実に不思議なのですが、此処に立つと学徒さん達の清楚なイメージが沸いてきますね。
ご覧のように、折り鶴も沢山吊るされていて、慰霊に訪れる団体や個人が多い事を物語っています。
「白梅之塔」
「白梅之塔」です。現在は四代目で、平成4年(1992年)6月に建立されました。同塔には、沖縄戦に従軍学徒として動員された生徒のうち、戦死した22名の白梅隊員をはじめ、教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。沖縄県立第二高等女学校は、現在の那覇市松山公園の辺りにあった女学校です。「白梅之塔」は何時来ても管理清掃が行き届いているなと感じます。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場、トイレあります」
《書籍ご紹介》
「沖縄・白梅の悲話」 新聞記者が語りつぐ戦争=11
読売新聞大阪本社社会部編 読売新聞社 昭和55年(1980年)11月初版
「平和への道しるべ」 白梅学徒看護隊の記録
白梅同窓会編・発 平成7年(1993年)初版
「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録
白梅同窓会編・著 (株)クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版
「白梅の碑-野戦病院編」
新里 堅進著 (株)クリエイティブ21 平成14年(2002年)6月初版
「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。
【白梅之塔 碑文】
沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。さその場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。
平成10年6月23日
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会
この霊地は激戦が展開された国吉にかなり近いのですが、糸満市真栄里ウテル原になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていた男性に、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。
因みに国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。沖縄守備軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉丘陵が与座に連なる防衛陣地の要衝であった事が解ります。国吉丘陵での戦闘は攻める米軍は第一海兵師団で守る沖縄守備軍は第二十四師団隷下部隊です。
沖縄戦を戦った米軍の公式記録に近いと言える、米国陸軍省編の「沖縄 日米最後の戦闘」にも国吉丘陵での戦闘について触れていて、「(490ページ)国吉丘陵での戦闘の光景は、まるで気が狂ったようなものだった。兵はうろたえ、多数の犠牲者を出し、肉弾相撃つ白兵戦がこの沖縄南部の地点に展開されたのである」と、書いている程なのです。
林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。
この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日富盛の本部壕での解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。
解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。
新しい生花が手向けられていました。何時来ても生花が飾られている印象がありますね。(^o^)
「白梅之塔」全景です。
昭和22年(1947年)1月に建立された初代の「白梅の塔」です。塔名は彫った文字穴に白い色で描かれていましたが、年々薄くなってきています。ご覧のような琉球石灰岩製の簡素で小さな塔なのですが、終戦から一年半後に建立されたと言う事ですね。米軍による激しい砲爆撃で、割れないお皿は無いと言われる程、あらゆる物が粉々に破壊されました。戦いが終わった沖縄は、山野には兵士や避難民の屍と、瓦礫の山だけが残されたのでした。終戦後の数年間は生活物資は何もなく、生きていくのが精一杯の時代だったのです。この小さな塔は、小さくとも大きな意義を内包していました。「戦没された学友達の供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの精一杯のご尽力と連帯により建立されたのです。そして同時に同窓生等の予てよりの悲願であった、第一回目の慰霊祭が執り行われたのでした。
この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に二代目の立派な慰霊塔が完成した時に併せて移設されたものです。そして現在の姿の「白梅之塔」が建立されて現在に至っています。ちなみに現在の塔は四代目です。現地に行かれましたらぜひ、時代を映す鏡として、この初代「白梅の塔」も探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。(^o^)
初代の「白梅の塔」の背面に彫られている詩です。
散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
元教諭 金城宏吉 昭和二十二年一月建立
納骨堂です。多くのご遺骨が国立戦没者墓苑に移された為か、小さくてスマートな納骨堂となっていますね。
ご覧のように、道路から慰霊塔までの参道がコンクリート舗装され、また拡幅されて見違えるように刷新されました。(^o^)
参道も拡幅され、また参道両サイドの土の部分との段差もほぼ無くなりました。参道の奥まった部分について特に言える事ですが、昔は段差が20cm近くあったので、誤って踏み外すと捻挫するなどのリスクがありました。と言う事で、この度の改修工事により、お年寄りがご自身の足や車椅子で参拝されても、不慮の事故が発生するリスク要因は全て排除されたと感じます。(^o^)
コンクリート舗装面の左側を見ています。同じく嘗てはこちら側も段差が大きくて、足を踏み外した場合捻挫する恐れがありました。今回はその段差も解消されて、安心安全な参道になりました。勿論車椅子での参拝も参道は広いですし、真っ平らな路面なので安心して行き来できます。(^o^)
参道がコンクリート舗装され、且つ拡幅されたりと、安全性向上に向けて改善工事が為された事由が解りました。「若梅会」と言うボランティアグループが令和2年(2019年)に誕生し、同会がクラウドファンディングで募金を募り工事を実施したのですね。素晴らしいです。(^o^)
《サイトご紹介》
沖縄戦体験者世代である同窓生やご遺族の高齢化に伴い、沖縄県にある慰霊塔、各塔での慰霊祭挙行も難しい状況にあると、頻繁に伝え聞くようになって参りましたね。ここ「白梅の塔」の毎年の慰霊祭開催も遂行が難しくなりつつあるようです。そうしたなかで、白梅同窓会を支え、「白梅学徒隊の沖縄戦を語り継ぎ、白梅之塔の慰霊祭を継承する」と言う二つの目標を掲げた「若梅会」というボランティアグループが、令和2年(2019年)春に誕生したようです。琉球新報記事を引用させて頂きます。
白梅学徒の体験継ぐ「若梅会」発足 慰霊祭運営に初参加
【琉球新報】令和元年(2019年)6月23日
教員や大学生など20代から50代の9人で結成した「若梅会」。沖縄戦に動員された県立第二高等女学校の元女子学徒らでつくる白梅同窓会(中山きく会長)、白梅之塔慰霊祭協力会とともに「白梅継承の会」として本年度から慰霊祭の運営や戦争体験の継承活動に携わる。高齢化が進む同窓会会員の思いを受け継ぎ、「次世代に継承したい」と強い思いを持つ。
若梅会は白梅同窓会の中山会長の呼び掛けをきっかけにことし2月ごろ発足。代表を務める雑誌モモト編集長のいのうえちずさんは(50)は「きくさんの熱量を受け取った気持ち」と気合が入る。
絵本作家の磯崎主佳さん(47)は中山さんの体験を主題とした絵本「白梅学徒隊 きくさんの沖縄戦」の絵を手掛けたことがきっかけで関わり始めた。
「若梅会」のメンバーに遺族や戦争体験者はいない。いのうえさんは「体験者に寄り添うことと同時に、体験者じゃないからこそ沖縄戦を一歩引いて見ることができる。考えて伝えることができる」と話す。
若い世代へ白梅学徒隊の体験や思いを“伝える”こと、遺族や同窓会の方々の気持ちに“寄り添うこと”を2つの柱として活動する。23日の慰霊祭を出発点として戦跡ツアーや同窓会の方々との街歩きなどさまざまなワークショップも展開していく予定だ。
(上里あやめ)「琉球新報」から転載させて頂きました
戦後三十五年目の卒業式
沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)
《書籍ご紹介》
「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録
白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版
【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)
(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる
懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。
「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」
稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。
例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。
時は過ぎました。そう、三十五年も…。
塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。
式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』
「白梅」から転載させて頂きました
「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。
同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。
校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。
ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。
石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。
本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。
《書籍ご紹介》
「沖縄・白梅の悲話」
読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版
【沖縄白梅の悲話】
(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。
白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。
帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。
渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。
石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。
与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。
「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」
石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。
私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」
河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。
―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。
沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。
県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。
「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。
戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。
「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」
石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。
「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました
追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章
白梅の香り永久には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。
高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?
「萬魂之塔」
霊域の参道左手にある「萬魂之塔」です。昭和30年(1955年)5月に建立されました。四千柱が祀られています。戦後付近一帯に散乱していた戦没者のご遺骨凡そ四千柱は、当初は付近の壕に納められいましたが、昭和30年(1955年)5月に同塔が完成し、ご遺骨が移されて現在に至っています。因みに、四千柱のご遺骨の多くは、この国吉・真栄里一帯で最期を遂げた第二十四師団隷下の第22連隊、第32連隊、そして第89連隊の将兵だそうです。そして注目すべきは、設置者は国吉自治会です。と言う事で、集落の人々が建立した軍人の為の慰霊塔と言う、数少ない事例の一つと言えるでしょう。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
霊域の参道左手にある「陸軍大尉 中村巌之碑」です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
良く見ると、小さな石碑も複数建立されていますね。第三十二軍陸軍将兵の名前が刻まれていました。ご遺族の方々が建立されたのでしょう。御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
霊地付近の畑にはキャベツが植えられていました。長閑な田園風景という感じで、心が癒やされますね。(^o^)
近づいて撮影しました。個々のキャベツは元気に育っています。(^o^)
ご覧のような扇子の形をした樹形が真壁集落にありました。素晴らしいですね。(^o^)
モクマオウの木が「山雨の塔」のある場所を教えてくれています。しかしながら、樹木が大きく剪定されているのが解ります。恐らく病気が発生したのでしょう。と言う事で、とても寂しい雰囲気となりました。
糸満市の宇江城という集落の一角にある「山雨(やまあめ)の塔」に到着しました。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。
昨年見た時には枯れてしまうかも‥‥。と言う感じでしたが、別の場所から芽吹いていますね。良かったです~。(^o^)
ご覧のように、幹は枯れている部分が多いです。老木であるのは間違いないですね。
枝分かれしている部分からクワズイモが生えていますね。枝分かれ部分に土が滞積している証ですね。そうした部分から幹は腐っていくんですよね~。
塔の背後にある木も枯れていますね~。
ご覧のように鋸目が入っていますね。木が倒壊する際に、手前には倒れず奥側に倒れるように仕組んであるのだと思います。
「山雨の塔」
「山雨の塔」です。第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。歩兵第22連隊と歩兵第89連隊の軍旗捧焼の地でもあります。また山雨の塔(やまあめのとう)とは、第24師団の通称である山部隊の「山」、そして師団長である雨宮巽中将の「雨」を併せて命名されました。
この師団は満州に駐屯していましたが、昭和19年8月に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。
5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にあるクラガーガマ壕内で自決し、同師団は壊滅したのでした。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません」
書かれている碑文が年々読みにくくなっていますでテキストに起こしました。
【山雨の塔 碑文】
大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う
昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会
「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い
笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版
伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。
歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。
この「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊藤孝一の戦い」笹 幸恵著/(株)学研パブリッシングに、第24師団長 雨宮巽陸軍中将が、山雨の塔の左手にある「クラガーガマ」の中で自決した時の様子が記述されていますので転載させて頂きます。
(251-253頁)
6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。
苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。
しばらくして杉森参謀が報告した。
「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」
「うむ」
雨宮は短く答えた。
壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」
その夜、動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。
仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。
「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」
わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。
仁位は説得をあきらめた。
夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。
「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」
周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世間話をしていた。
仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった‥。
この手記から、雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。
「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹 幸恵/(株)学研パブリッシング) 第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記よりから転載させて頂きました
上掲の笹幸恵氏の著作である「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」の中に描かれている雨宮師団長が自決せんとする最期の様子は、第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記より一部転載したと書かれていました。
その陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐が書かれた著作である「珊瑚礁を朱にそめて」が令和4年(2022年)に購入が叶い読みましたので、ここで改めて転載させて頂きます。笹幸恵氏の著作では抜粋された転載でしたが、ここでは仁位顯少佐が書かれた著作なので全文ご紹介出来ます。お読みになると判りますが、沖縄戦末期と言える段階でのクラガーガマ内部の様子や、雨宮師団長を始め幕僚の自決せんとする最期の泰然とした姿など、断末魔の壕内の様子が子細に描かれ臨場感溢れる記述となっています。こうした軍隊内の人間模様を踏まえ精緻に活写されているのに驚きを隠せません。
陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐は、6月21日に第24師団(山部隊)司令部があったクラガーガマ付近で被弾負傷し、帯同していた部下により同壕に運び込まれた際の記述から、23日の夜、壕内に残存する将兵で動ける者は全員斬込みの命令が下され、仁位顯少佐も例外ではなく壕から出撃していきました。この出撃した所まで転載させて頂きます。少し長いのですが、自身が壕内に存ずるような錯覚を覚える程に読み応えがあります。是非最後までお読み下さいませ。
「珊瑚礁を朱にそめて」 沖縄戦 一砲兵大隊長の手記
仁井 顕著・発 昭和48年(1973年)9月初版
(212頁)
洞窟を出て 与座岳に向かう途中、四方八方から曳光機銃弾が飛んできた。まだ山麓までになお間がある地点で、私は急に左大腿部を丸太ん棒で力一杯なぐりつけられたような衝撃を覚え、思わず、
「やられたッ!」と口走って、足をとられたようにのめった。
上杉伍長と宇良上等兵が、すぐに起こしてくれたので、進もうとすると、藤井中尉と坂谷大尉が「一旦引き返しましょう、司令部壕はすぐ近くです」
といいながら強引に司令部壕まで引きずられた。
若し、この負傷で骨折があったならば恐らく私も此処でで有無をいわず自決にふみきったに違いない。
僥倖にも、何とか足が立てるのをみると骨折は免れたらしい。
現在「山雨の塔」のある所の山部隊司令部の壕に何とか辿りついた。
出血はひどく、短袴という将校ズポンを脱いだ時にガボッという音がして血があふれ出たのを覚えている。急いで軍医が治療してくれた。貫通銃創というやつで、倖い骨折は免れているという。
壕内に入ると、同期の苗代参謀がまだ健在で何くれとなく世話をしてくれる。
同期生の有り難さをこの地獄のような壕内で沁みじみと感じた。
この壕は平地よりも一段と低くなった天然の地下壕で、多少人手を加えたものである。
師団長、参謀長、各参謀、各部長の外、どこからこれだけの人数が集まったのか? と思われる程多数の者がいた。
大抵は負傷者であり、その他部隊を離れて行先のない者も多数いて、真暗の壕の中に、ぎっしり詰まって息苦しい程である。
苗代君に聞くと約六百人はいるという。
所々にローソクの火が、かすかに心細くまたたいている。
重症者の呻き声もね押し殺したような声であるが、もう誰れも見向いてやる者もいない。
そこで息をひきとる者がいても誰れ一人かまってやる者もいない。
ここまで事態が切迫してくると、生きようという意欲そのものが、段々とうすれていくようである。
重症者としてはいっそのこと、ひと思いに死にたい、何とか早く楽になりたいと考えるのが当然であろう。
第百大隊から私と同じく野砲兵第四十二連隊に転じた例のコマねずみのあだ名のある笠原大尉にここでバッたり会った。
彼は同連隊の作間大隊の中隊長として首里戦線で奮戦したという。
然し、与座の彼の大隊の観測所では見かけなかったし、彼の大隊長は私と別れて、真壁北側の本部壕にいたのだが、彼は行を共にしなくて、ここ司令部壕にいた。
「どうしてここに紛れ込んだのか?」
「これからどうするのか?」
というような、行末、こし方を彼に尋ねるような気分に不思議となれなかった。
何のことはない、皆が皆「今」という瞬間の刻をお互いにようやく生きているのだ。
一時間後、否、十分後の我が命、或いは一分後の自己の運命を予期している者もいない。
唯、師団長雨宮中将以下彼の参謀や司令部直属の各部長クラスは、既に運命を達観したというのか淡々とした口調でさりげなく、世間話しでもしているのが、極めて印象的であった。
「落城」
司令部壕で一夜明けた二十二日、倖い昨夜から傷の痛みもそれ程ひどくはない。
朝から洞窟の上の方では、敵戦車が右往左往しているらしくキャタピラの音が騒々しい。
暫らく壕の上でタンタンタンという特徴のある戦車砲の射撃音が聞こえていたが、それが止むとすぐ思いもかけない放送が我々の耳に入った。
「山部隊雨宮師団長閣下及び部下将兵の方々に申し上げます。私は元、山部隊(第二十四師団)の○○上等兵であります。
戦いはすでに終わったのであります。無駄な命を捨てないで下さい。又、無駄に命を捨てさせないで下さい!!」我々は放送を聞いて、愕然とした。捕虜は日本軍として最大の恥辱と心得て教えられてきたのに、○○上等兵は嘗ての自分の所属部隊の前に堂々と名前も発表し、その上に師団長以下に投降をすすめに来るとは!!
この放送は我々の思惑に関係なく、繰り返し繰り返し続けられたけれ共、壕内はシーンと静まり返って咳一つ聞こえない。
暗闇の中にローソクの灯が二、三本またたき、重症者の呻き声だけが、押し殺したようにあちこちから聞え、何ともやり切れない切ない気持ちである。
誰れもが戦いの結末は判りすぎる程判っている。
絶望感だけが、壕内を支配している。
これでも尚日本軍には降伏ということばはタブーですらある。
この壕内の大部分の将兵の心の奥底には、タブーを破った山口上等兵の恥知らずを憎いと思う心の反面、タブーに反してでも生きていたいという心と彼をねたむような気持ちも、心のどこかにないではないという、矛盾した心の葛とうにやり切れなさを感じたのかも知れない。
何回となく繰り返された投降勧告に全然反応がないと判ると、しびれを切らした敵は壕内に発煙弾を射ちこんできた。
丁度運悪く壕内に残っていた弾薬に引火爆発したから堪らない。
敵の発煙弾と我弾薬の爆発のため、その付近に多数の死傷者と窒息者が出た。
私は虫の知らせとでも言おうか、敵は必ず壕内の攻道具には煙か毒ガスを使うであろうという予感がしていた。
誰が棄てたのか、負傷して余り身動きも出来ない私の目の前に、地面にほったらかして、そのままになっている防毒面を見付けたので、私は早速拾って後生大事に身につけていた。
而も偶然にも私がいた所は、洞窟の壁面沿いに新鮮な空気が泌み出していた。
煙が充満してきたので「ソレッ」とばかり防毒面をつけた。
宇良上等兵の方を見ると、彼も濡れタオルで、鼻と口を覆い壁に顔を押しつけて頑張っている。
何と長い、そして苦しい煙との戦いであろう!
二時間はタップリ煙の責苦を受けた後、師団の副官と軍医が壕内を廻って調査の結果、死者は二百を越えるというが、もはや、対応のための手も足も出ないとはこのことで、無念千万である。
翌二十三日も、朝から何度も例の放送を繰り返したが、誰れも応ずる気配がないと判ると、今度は壕内に入口からガソリンを流し込み、その上に爆薬を投げ込んだ。
すると一時に壕が崩れるかと思う程の爆発と振動が起ると、悲鳴や呻き声があちこち聞こえた。
その内手ぬるしとみたか、今度は土工車を使ってすべての入口の封鎖を始めた。
「俺達はもぐらにされるゾ」
と誰かが言った。なる程、この中に閉じ込められて永久に外に出られぬとすればなんと情けない事になり果てたか!
そうなれば一昨日の白昼、抜刀して突撃し、散華した福森大尉や須田中尉が羨ましい。
今日も亦色々な敵の責め苦に会って、敵の一方的攻撃のうちに、壕外は夕陽が東支那海に沈むらしい気配が感ぜられたのは、どこかにまだ壕が外界と微かながらも通じ合う点が残されているのかも知れない。万更死ぬまで陽の目が見られる望みがない訳でもあるまい。
師団長はいよいよ本夜壕の中で側近と一緒に自決するということである。
さき程から師団長の当番兵が何かゴソゴソと動いていると思ったら師団長に夕食を差し出した。
師団長は一人で最後の晩さんをしたためていたが、それまで壕外とはまだ連絡を無線でとっていた杉森参謀が、
「歩兵第八十九連隊長と工兵第二十四連隊長は唯今から十分後に新垣の壕で刺し違えて自決されます」と報告した。
報告を受けた師団長は唯、黙ってうなずいたまま、箸をとり続けていた。
この報告を聞いた時の師団長の胸中はどんなであったろうか?
それとも、我が事すでに畢(おわ)りぬとして、すべてを大悟徹底して、淡々とした心境であろうか?
私はすべてを大悟している心境と確かにみてとった。彼は表情を動かさなかった。
ローソクの灯がゆらゆらとして彼の蒼白く肉の落ちた頬をなめ廻している。
暫くして杉森参謀は
「これでいよいよ各方面との連絡を打切り、通信器材を破壊します」
と報告した。
これに対しても師団長は唯「うむ」と頷いただけで何の反応も示さなかった。が暫くして「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、屹度すばらしいものになるだろうなあ」
と誰れに言うとはなく独り言を言った。
私は彼からすぐ近くの場所にいてこの独り言を聞き、正にその通りと同感した。
悲壮美という美が、確かにあるように思われるが、具体的には何なのか?
私のような無骨者にそれが何であるか判り兼ねるが、あることだけは確かなようだ。
私はふと、今日の状況とはまるで違うのに、大阪落城の日、総大将秀頼以下の主だった武将の面々が、紅蓮の炎に包まれかけた天守閣の広間に居並んで、今正に切腹しようとしている情景を心に浮べた。
それが史実を確かめた上で、確たる事実として、思い浮べた訳では決してない。
私の脳裏をかすめた、落城の際の情景が悲壮美といえるのではないかと、考えたまでであった。
人間の価値は死に際のあり方によって決まるとさえ云われている。
古来幾多敗軍の将が辿った道であるが、その最後が潔ければよい程、後世に対する影響も又大きい。
今、雨宮師団長は敗戦の責を負い、ここで自決を決意された。
そして後世の人々に、その是非の判断を委ね、日本の武将としての誇りと伝統を守り抜こうと決意されている。
唯、彼の後世に対する願望の現われが、彼の先程の独り言となったに違いない。
私がもし万一劇作の能力でもあるならば、何十年否一生かかっても彼の期待に沿うべく努力したであろうに‥‥。
その夜、動ける者は全員斬込みの命令が下されたが、師団長と幕僚と動けない重傷者は壕内で自決するという。
この命令が、伝達されると忽ち、あちこちで重傷者が勝手に拳銃や手榴弾で自決を始めた。
そんな勝手なことでは、まだまだ五体健全でいよいよ斬込みに出る者までがそば杖を喰らうので「壕内での勝手な自決は厳禁する」という奇妙な自決禁止命令が発せられる始末である。
私自身は、師団長から直接受けた命令は
「笠原大尉と一組になり、与座部落を根拠として、ゲリラ戦を展開せよ」
ということであり、経理部長に命じて、若干の軍資金まで与えられた。
私は師団長に殉じて自決を覚悟している苗代参謀に対して、
「苗代君! 愈々我々も同じ運命で死ぬことになったが、どうせ同じ死ぬなら、もう一度太陽のもとに出て、思う存分いい空気も吸ってから死んだらどうか? 一緒に斬込みにゆかないか」と何度か彼を口説いてみた。
私としてはこの親愛な同期生の彼を、同じ死ぬとは言え、絶体絶命死の道程につながる洞窟内の自決よりも、万に一つの生存も期待出来ないではない斬込みの方を是非選ばせたかったのだ。
だが彼の答えは決まっていた。僅かに笑みを浮かべながら
「貴公の気持ちはよく判る。感謝はするが、どこに行っても同じだ、俺は師団長と運命を倶にするよ」
というばかりである。
信念というのは恐ろしい。
彼は極めて優しく、他人の言もよく容れる反面、譲れぬという一線だけは断乎として、信念をまげぬ性格の男であった。
彼は自らの生命をかけて立案した作戦計画に従い、師団の将兵幾千が戦い、今又残り全員が断末魔の苦しみを味わされている。
この現状に対して、作戦参謀の自分としては参謀長と連帯して責任をとる立場にあるという信念のため、潔く師団長に殉ずる決意を、かえぬのであろう。
私も流石に説得を諦めざるを得ない。
その夜半近く、全員出撃の時刻も迫った頃、苗代参謀が、師団長に対して
「爆薬の準備は完全に終わりました」と報告した。
聞けば全員で円座を作り真中に置いた爆薬で全員同時に自決するという。
師団長は
「ここに、とっておきの上等のウヰスキーもあるし一杯機嫌になったところでドカンとやるか」
と事もなげに外の人と話している。
各部長クラスの人々も何の屈託もなさそうに何か世間話をしているようだ。
この人達の様子はまるで
「死を賭ること帰するが如し」
という古い言葉そのまま地でゆくとでもいいたい心境のようである。
死を覚悟してしまった人と、まだ生への執着を絶ち切れぬ人達との差は、その場で実にはっきりと態度に夫々現れていた。
死を賭ること帰するが如くという人々の姿をみたことは、私の一生を通じて、この時が最初であるそして亦最後であった。
出撃する壕の出口が、いざ堀かけてみると意外な程の厚さで封鎖されていることが判った。
もぐらにされた我々は外に出るために、下の方から上を向いて掘ってゆかねばならぬ。
兵隊たちも汗みどろになって作業を始めた。
十字鍬もない者は銃剣の先とか、鉄かぶとで土を掘っているが、案外に手間どっている。
その間、時間があるので私は、部下の藤井中尉に話しかけた。
彼は保土ケ谷付近のさる寺の住職さんであるという。
「藤井君、人間には死んだ後のあの世というものがほんとにあるもんだろうか?」
と問いかける私に対し彼は
「もう暫くすれば私が先に立って御案内しましょう」
と言って淋しく笑った。
人間、誰れでも、いざ死に直面するとなると、何か不滅のものを希求したくなるという証拠であろうか。
彼をみたのはこの出撃の時機が最後で、再び会うことはなかった。
恐らくあの世に案内すべき私が行かなかったのを知って、彼はあの世で苦笑している事であろうか。
いよいよ壕外との通路は何とか開通し、出撃の刻がきた。
師団長と苗代君に最後の挨拶をする。
苗代君とみつめ合った目と目、お互いに握り合った手と手の暖かいぬくもりに、無限の思いが通じ合った。
彼とは士官学校時代に特別親しくつき合っていた訳ではない。
予科も本科も中隊の所属なり、兵科も違っていた。
彼は歩兵科であり、私は砲兵科の士官候補生であったし、卒業以来初めて再会した程度でもあった。
併し、同期生という絆に結ばれた彼と今、此処、洞窟の暗やみの中で、今生の別れをすることは洵に千万無量の思いであった。
いずれ死に遭遇する事は間違いないとしても、彼が先で我は幾何か後れるであろうが、その前後の差は私にとって何となくうしろめたさを感じさせずにはおかなかった。
併し、今はその思いをふり切って、決められた順序のとおり、笠原大尉に続いて私も真っ暗闇の中にとび出した。時刻は二時すぎであった。
私のすぐうしろには宇良上等兵が続いた。
「珊瑚礁を朱にそめて」(仁井 顕著)から転載させて頂きました
ほとんど毎年のように慰霊塔巡りをしていますと、時折ですが慰霊塔や関連施設に変更が加えられているのを発見したりします。石灰岩を加工して作られた真新しく見える左側の石碑も一昨年にはありませんでした。令和3年(2021年)の慰霊巡拝の時に碑としてキチンと石碑として整備されていました。石板の碑文として長く放置されていた時の写真を二枚下に掲載しておきましたので見て下さい。現況は版面も真っ白になっています。石屋さんがしっかり表面を磨いて下さったものと思われます。
読めますね。母親が29才で沖縄戦の戦場に果てたご子息に思いを馳せ詩を読んでいます。
この歌碑は上掲の戦没者、合田輝明陸軍准尉のお母様である会田あささんが設置されたものである事を本年知りました。お母様は昭和40年晩秋に石碑をこの地に置いて行かれた訳ですが、昭和40年と言えば、まだ沖縄が米国の施政権下にあった時代でもありました。慰霊巡拝に際して、この碑文が彫られた石板を、この霊域に置いて行かれたのでした。お母様である会田あささんは、出征した息子四人中三人が戦死されたとの事で、胸中は如何ばかりであったかと察するばかりです。
碑文に昭和四十年晩秋と書き記されていますので、驚く事に56年の歳月を霊域のあちこちにたらい回しされるかのように移動していました。昨年はフェンスに斜めに立て掛けられていましたが、現在はやっと安住の地を得られたかのように、割れた部分は接着剤で固定され、またしっかりと構築物に収められたので、この碑自身にとっても安息の地を得られたと言えますから、長く気に掛けていた私自身も安堵の気持ちが湧いて参ります。糸満市のご配慮に感謝感謝です。(^o^)
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
《過去の写真ご紹介》
【平成27年(2015年)1月撮影】
地面に置かれた碑石です。同部隊に所属して戦没された兵隊さんの御遺族(お母さん)がこの石に刻んだ碑文をこの境内に置かれたものと思われます。碑文はほぼ読めますね。
【令和2年(2020年)1月撮影】
隣地との境界塀に立てかけられていますが、小さな石板に詩が書き記されています。この霊域に置かれていると言う事は、第二十四師団隷下の部隊に所属していて戦死されたと思われますが、戦死された兵士のお母さんが、参拝の折りにこの地に置いていった小さな石碑です。昔から土に固定されたり埋められてはいませんでした。私が最初にこの「山雨の塔」に最初に慰霊巡拝で訪れた際には、邪魔者扱いされるかのように、霊域の片隅にすでに置いてありました。ある年からは石板が割れていました。心が痛むので、同塔に訪れた際は必ず手を合わせています。
過去の写真掲載はここまでです。
この供養碑もまた昔からありました。ギリギリ読めるのですが、「歩兵第二十二連隊 故陸軍准尉 合田輝明供養碑」と彫られています。歩兵第二十二連隊は第二十四師団(山部隊)の隷下部隊の一つで、歩兵第二十二連隊の慰霊塔は糸満市真栄里にありますよね。「第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す‥‥」と記された碑文はよく知られているところです。合田輝明准尉は、この付近か壕内で亡くなられた事が判明しているのかも知れませんね。
「クラガーガマ」
「クラガーガマ」の入り口です。昔はこの鉄柵は無かったのですが、近年設置され鍵まで掛けられている年もあります。今年も鍵は掛けられていませんね。
壕口に向け手を伸ばして撮影しました。今年はご覧のように雑草が繁茂しているので様子が全く解りません。
ここが壕の入り口付近です。雑草が茂り良く解りませんね。
昨年は雑草が刈られて壕口の様子を鮮明に撮影出来たので、その写真をご覧下さいませ。
《過去の写真ご紹介》
【令和4年(2022年)1月撮影】
金属柵の中に腕を入れて撮影しました。今年は草が刈られたのか枯れたのか解りませんが、先まで見えるようになっていましたから、「クラガーガマ」の壕口の様子がよく解りますね。ここ数年ガマに入った事は無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元では呼ばれ、「暗井戸」という意味なのだそうです。沖縄戦では、地元民の避難壕として利用され、島尻の戦闘では軍民同居の壕となりました。歩兵第22連隊と歩兵第89連隊の聯隊旗を焼いた壕としても知られていますし、雨宮師団長はじめ幕僚や多くの兵士が自決した壕でもあります。壕内は川が流れている事から、沖縄戦では貴重な避難民の水くみ場として利用されたと言います。
金属柵の中に腕を入れて撮影しました。壕口にあった大きな木も二本切られていますね。壕口が余りに鬱蒼としてきたので、樹木を切り倒したのかも知れませんね。
過去写真掲載はここまでです。
「クラガーガマ」の北側を撮影しています。遊水池が広がっていますね。この地域に大雨が降った場合は、この遊水池に雨水が集まるようにしているのでしょう。そしてここに集められた雨水は「クラガーガマ」を通り、方向としては摩文仁方面に流れ去っています。この遊水池の為に、「クラガーガマ」内部は汚泥が分厚く堆積し、沖縄戦当時の地表面はすべからく汚泥の下に埋没してしまいました。
「山雨の塔」付近には農家の畑が広がっています。撮影したこの畑ではレタスが育てられていますね。
《過去の写真ご紹介》
平成19年(2007年)に「クラガーガマ」から発見された御遺骨です。
金光教の遺骨収集で「クラガーガマ」から発見された、頭蓋骨が焼かれ真っ黒になっているご遺骨です。
御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく御遺骨を見つめなければなりません。また
私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】
御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m
第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。
5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。
雨宮師団長や幕僚が自決したこの壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また水くみ場を兼ねていたといいます。現在の壕の入り口は大きく開放されていますが、沖縄戦当時は米軍にこの壕の存在を把握してからは、米軍により出入り口をブルトーザーで塞がれてしまったという話です。
米軍の馬乗り攻撃においては、どこか穴を開けられてガソリンを流し込まれたり、爆雷を投げ込んだりの徹底的した「馬乗り攻撃」が為され、壕内で亡くなった日本軍将兵が、一説には千人とか二千人に上るとも言われているそうです。壕内空間の広さを知る私としては、即座にその人数は入れないとは感じますが‥。
私も以前にこの壕内の奥深く進めるところまで行ってみた事があるのです。壕は少なくとも100mは容易に前進できます。そこから先は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。
壕内調査を終えた後、地上に出て反対側に出入り口があるかどうかの調査も行いました。反対側にも入り口があるという地元の方の情報があったからです。私達も300m先のジャングルの中を丹念に探索しましたが、残念ながら反対側の出入り口は発見できませんでしたね。
不思議だったのは、そのジャングルの中に川が流れているのですが、道路の路肩付近で地面の中に吸い込まれていくのです。私たちが入った「クラガーガマ」の水の流れも奥へ奥へと流れていますから、位置的に見てジャングル内の川と壕内を流れる川が合流している可能性もなきにしもあらずと感じられました。
地元では「クラガーの中は二股に分かれており、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっている」という話もあり、壕の奥の方がどのようになっているのかは、これからの課題として順次調査を進めたいと思いますよ。
この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのですね~。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。
戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200m先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。
いずれにしても、水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています…。この汚泥の中から、平成19年(2007年)金光教の遺骨収集で、アメリカグループのロンさん達が、上掲の黒く焼けこげた頭骨などの完全一体のご遺骨を発見したのでした。
翌年には発見された場所の周辺部を探索してみる必要があるというロンさんの提案で、アメリカグループと4班の皆さんが、この壕内で汚泥と戦う事となったのです。私も壕内に入ってアメリカグループと4班の皆さんの悪戦苦闘ぶりを見て、本当に心から、その悪戦苦闘ぶりに驚きを隠せませんでし。これから汚泥と戦う写真を見て頂きます。どうぞ彼ら彼女らの奮闘ぶりを、賞賛してやって下さいませ~。
《過去の写真ご紹介》
【平成20年(2008年)2月16日/一日目の様子ご紹介】
「山雨の塔」横にある「クラガーガマ」壕口の様子です。壕の洞窟空間はこのまま奥の住宅地方面に伸びています。この壕口は米軍の馬乗り攻撃により、ブルドーザーで埋められてしまったという話です。壕口は戦後復活したという事の様です。
壕入り口付近の様子です。女性が進もうとしている方向が壕内となります。作業の効率性を高めるために発電機を利用して投光器を壕内に設置しました。
ご覧のように壕内は小川のように常時水が流れています。沖縄戦当時はこれ程水量は無かったのではないかと推測しています。
金光教の皆さんが無心に作業しています。各自持ち場にへばりつくように頑張っていました。
班長の吉永さんをはじめ皆さんが泥んこになりながら、一生懸命作業を進めていました~。嘗てこれ程困難極まる作業風景は見たことがありません。皆さん本当にお疲れ様です。水が流れている位置が沖縄戦当時の路面と思われます。汚泥の厚みが本当に凄いですよね。
黒く焦げた頭蓋骨を含む一体分のご遺骨を発見したアメリカグループのロンさんです。この方も金光教の遺骨収集に長年参加されているお一人です。因みに金光教の遺骨収集の内、運営委員会時代は、アメリカの軍人・軍属の方々が常時100人から200人参加されていた時代もありました。「ロンさん、お疲れ様で~す」
ロンさんが銃剣が見つかったと見せてくれました。水に浸かっている為かなり錆びているようですね。
アメリカグループのメンバーです。「お疲れ様で~す」
ヒョエ~~~~~。(^^;)
健太郎君! 僕は少なくとも、君のその笑顔に救われたよ。
少量のご遺骨と共に、万年筆・信号発信器・石けん箱なども発見されましたね。
【平成20年(2008年)2月17日/二日目の様子ご紹介】
壕内はこのように立って歩ける空間が少なくとも100m以上続いています。因みに写真には丸く光る玉「オーブ」が写されています。「霊に違いない」とか「霊魂が写されている」とかの話も耳にしますが、オーブが写された写真を何十年間も撮影している体験からして、霊の現象ではなく科学的な現象であり、「水滴面に照射したストロボ光が、レンズとしての水滴面からそのまま、投射光の一部が反射してカメラの露光面に写し込まれたもの。露光面の円形の大きさは水滴の直径の大きさ、そして結露面からカメラまでの距離により決まる」と言うのが、一番適切であり正しい様に感じます。(^o^)
投光器に照らされながら、班長の吉永さんや山根さんをはじめ、皆さんが昨日と同じように泥んこになりながら、汚泥を掻き出してご遺骨の有無を確認する作業を続けていましたよ。
本当に本当に、本当にお疲れ様でございます。m(_ _)m
4班の女性陣も頑張って汚泥と格闘していました。
奥の方を見ると高さ2メートル以上の場所まで汚泥が堆積していることが解ります。つまり台風などによる増水時は、2メートル以上も水位が上がることを意味していると思われます。
ただひたすら前を向いて作業していたアメリカグループの一人ですよ。本当にお疲れ様です。
彼が発見した小物をみせてくれました。小さな瓶や靴底、そして針のように尖った部分のある何かの「道具」でしょうか?。 道具の名前や使い方などをご存じの方は教えて下さいませ。
ヒョェ~~~~~。
初参加の健太郎君は今日も頑張っていま~す。これが遺骨収集の全てではないからね。(^^;)
来年も必ず来るんだよ! いや来て下さいね~。(^^;)
吉永さんが黒く焼けこげた脊髄の骨を見せてくれました。細かいご遺骨は散見されるとの事ですが、昨年のようにまとまったご遺骨の発見はまだ無いそうです。吉永さんが居る場所は、壕入り口から40m程の距離です。この場所で焼死したのかも…。
軍靴の靴底がありました。私は何時もの事なのですが、靴底を見ると一人の兵士が亡くなった事を意味し心が辛くなります。
小さなご遺骨が結構見つかっていますね。銃弾や電信を打つ機械なども見つかっています。他にも万年筆が見つかっていますが名前は確認されませんでした。
過去写真掲載はここまでです。
次に目指すは「南北之塔」です。県道250号線から真栄平集落を抜けた緩斜面の中途、畑の中にあります。県道250号線から農道に入ってしばらくは緩斜面を上へ上へと登って下さいませ。
「南北之塔」は、県道250号線沿いにある真栄平集落の少し外れた場所にあります。同塔は是非訪れて欲しい慰霊塔ではありますが、初めての方は容易に発見できないでしょう。私も最初は苦戦しました。元より案内板は一切ありませんからね。ルートとしては、県道250号線から向かう事になりまして、県道からは複数の入口がありますので到達ルートは若干違ってきます。いずれにしても、同塔は真栄平集落の背後、緩い斜面に沿うように存在しますので、目標物として、そうした緩斜面でクワデーサーの樹木を含む一塊の森を探して下さい。その一塊の森は単独で存在しているので、見つけさえすれば外れは少ないような気がします。早期発見出来る事を祈りま~す。(^o^)
「南北之塔」の横には「アバタ壕」があり、米軍の馬乗り攻撃で大勢の人達が亡くなった壕でもあります。より広範には、沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本軍将兵が戦禍に倒れました。沖縄戦後、収容所から戻った真栄平区民らは、まずは屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったと言います。
真栄平集落の端に集められたご遺骨を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として納め埋葬しました。昭和41年には、区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同納骨堂を改築し、改めて「南北之塔」と命名しました。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は平和記念公園にある国立戦没者墓苑に移されたという話です。
真栄平付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいと言う地元の人々の強い願いが込められているとの事です。
遠くに見える樹林の袂に「南北之塔」はあります。クワデーサーの樹木も見えますね。(^o^)
この写真は農道から撮影しています。即ちこの風景に出会ったら成功です。上掲で “緩斜面でクワデーサーの樹木を含む一塊の森を探して下さい” と書きましたが、そんな雰囲気ですよね。同塔の背後にも農道がありますが、そちら側から接近した場合でも、塔こそ見えませんがクワデーサーの樹木を含む一塊の森として見えるはずです。因みここからでも、「南北之塔」は見えていますね。
沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読むんですよね。30年以上前の話ですが、私達が「真栄平(まえひら)にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず、南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね~。(^o^)
霊域に入りました。「クワデーサー」の木が植えられています。和名はモモタマナ(桃玉名)です。同じ沖縄でも離島ではクバディサーと呼ぶ地域もあるそうです。沖縄では珍しく紅葉する落葉樹でもありますね。眼前のクワデーサーも、三十年ぐらい前は小さな木でしたが、毎年グングンと大きく育っています。沖縄では紅葉する樹種が少ないですが、クワデーサーは紅葉の筆頭かも知れません。ただ今年はあまり紅葉していない状況ですね。
「クワデーサー」は、葉がおお大きいので木陰を作るという事でしょうか、沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。沖縄では死者の魂を鎮める木とも言われ、この木を “人の悲しみや涙を飲んで育つ木” と言われていているそうです。松永さんも「人の泣き声を聞いて成長する」と仰っていました。「クワデーサー」は、平和の礎にも沢山植えられています。平和の礎に、かくも多く植栽されているのは、陽射しの強い時節に参拝に訪れた方々へ日陰を提供するという意図を持った心遣いでしょうかね。
「南北之塔」
「南北之塔」です。真栄平では、特に沖縄戦末期に於いて多くの避難民と日本軍将兵とが犠牲になりました。そして戦後に収容所から戻った区民らは、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落内から収集されたご遺骨をアバタ壕内に安置したそうです。そこを区民等は「真栄平納骨堂」と呼びました。そして昭和41年に、区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付金により最初に建立された慰霊塔を修繕・改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴いアバタ壕に安置されていたご遺骨の多くは、平和記念公園の国立戦没者墓苑に移されたという話です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
真栄平一帯は、北海道を拠点とした第二十四師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国から動員され戦没された将兵、そして地元住民を等しく祀ってあげたいという、地元の人々の強い願いが込められていると言います。
所在地ご紹介
「駐車場・トイレはありません。路上駐車となります」
「南北之塔」の碑文です。テキストに起こしました。
【南北之塔 碑文】
沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。
この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。
この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。
毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。
平成元年3月 真栄平自治会
「捜索二十四聯隊慰霊之碑」
「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。
【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】
昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した
捜索二十四聯隊山三四七八部隊
生存者 陸軍伍長 渡部 満
「捜索二十四聯隊戦没者碑」です。ご覧のように、戦没者の追加記載や削除なども行われた様子が窺えますね。
ご覧のように、個人の慰霊碑も数多く並んでいます。昔の一時期ですが、行政側から石碑の撤去を勧告され、「石碑を速やかに撤去せよ」との警告文が張り出されていました。しかし時は流れ、今はこうして静かにそのままとなっています。
写真では解りにくいですが、アバタ壕の壕口を写しています。「南北之塔」の右側奥にアバタ壕はあります。
「アバタガマ(壕)」
「アバタガマ」入り口です。壕口は小さいですよね。同壕は戦後一時期、仮納骨堂として地元集落に散在していたご遺骨を収めた場所でもありました。壕の奥行きは曲がっている事を加味して40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。
それでは「アバタガマ」に入って見ましょう。壕口からは結構な急勾配となっているので、特に雨の後などで言える事ですが、革靴等では滑りますから要注意です。
壕口から少し入った場所から撮影しました。緩斜面に大きな岩が 一個埋まるようにありますよね。そこまでは比較的緩斜面なので楽に行けます。慰霊巡拝で訪れた際は、その岩の部分までは比較的安全に降りられますし、見晴台のように壕内部が展望出来る場所でもありますから、ぜひそこまで降りて参拝してくださいませ。
壕内部の真っ正面の様子です。傘が落ちてますね~。壕の底部でもありますが、結構広いですよね。天井面は堅固な一枚岩の岩盤となっているので、艦砲など集中砲火を浴びてもびくともしませんね。左右には写真に収まっていない壕空間部分もあるので、人々が滞在出来る幅は、凡そ40mぐらいはあるはずです。一つの懸念は、壕内部右側には、冬場は乾いているのですが水が流れ出る痕跡があるので、沖縄戦当時は梅雨時でしたから、もしかしたら壕底に水が湧き出ていた可能性もあると思います。
今は比較的整然としている壕内の様子ですが、令和2年(2020年)の巡拝から壕内は整然となりました。散乱していた岩や土砂が比較的綺麗に片付けられたのです。大勢での集中的な遺骨収集が為されたようです。令和元年(2019年)と比較するとよく解るのでご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
令和元年(2019年)に撮影した同じ場所の写真です。ストロボ光で撮影しましたが、岩や土砂が散在しているのが見て取れます。何十年もこの状態でしたから、壕底が整然と片付けられた事にビックリしています。
過去写真掲載はここまでです。
壕内を撮影している場所から壕口を撮影しました。壕口はかなり小さく見えます。偽装すれば米戦闘機などから発見される可能性も低くなると感じられますね。
壕底の右側部分を写しています。ご覧のように、壕底は大きな岩もなく整然となっています。昔は岩だらけでした。写真右側は更に壕空間が続いています。
壕底の左側を写しています。左側はここで行き止まりとなっています。昔と比べ、この辺りも小岩が無くなり整然としていますね。
《過去の写真ご紹介》
※ 「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。
信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を、昭和56年の遺骨収集奉仕活動において壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、昭和19年8月まで北九州市の小倉にある北九州防空隊に所属した戦友だったのです。その戦友は同年8月末に転属となり、以降連絡は途絶しましたが、二年前に戦友会を催す案内状を送ったところ、戦友の長男さんから「父は沖縄で戦死しています」との通知が届いていた事を発見し、早速黄色い石けん箱発見のお知らせをしたとの事でした。
そうした経緯がありましたが、その前段として「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査が行われたようです。そうした懸命な努力を含めて、遺品である「黄色い石けん箱」は、38年ぶりに無事御遺族の元へ帰ることが出来たのです。
「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。
この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。一番左に写っている後ろ姿の男性と、写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です。
黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。
ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動を長年続けるなかで、多くの御遺骨を発見されもしました。
ご遺族の感謝の念は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間もの長きにわたって、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、遺骨収集活動を続けられた事に、それがよく表出されていると思えます。病気が悪化し最後の段階では、病を抱えながらも身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な言動と姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。
「南北の塔」のある霊地から南方向を見ています。大渡海岸辺りが真っ正面と言う感じで、ここから大渡海岸までおよそ2.5kmです。ここからは太平洋の大海原が展開しているのですね。また地形的に海に向かって緩やかに下っているのが解りますね。また写真右寄りに束里の清掃工場の白い煙突が見えますね。
農道に出て、更にアップで撮影しました。大渡や喜屋武方面の海岸線がかなり近くにあると実感出来ますね。
調査・遺骨収集作業開始です
福岡さんが、公園内改良工事の掲示板を見つめています。
赤いラインの範囲内が改良工事の対象のようです。
この掲示文を読むと、改良工事の主旨が解りますね。
赤線の右端部分に注目です。もしかして駐車場が出来る?
ご覧のように、今の地形を生かしつつ改良工事を進める雰囲気ですね。
今トラックが止まっている場所が駐車場になる可能性がある場所となります。乞うご期待ですね。ここに車を横付け出来れば、私達の遺骨収集でも大いにメリットがあります。(^o^)
ここは元お土産さんの駐車場だった場所ですね。芝地の広場に繰り入れられました。
正面の住宅は、旧前門さん宅です。現在は他の方が住まわれています。以前はこの広い場所に駐車させてもらっていましたが、現在はご覧のように、駐車不可となっています。
さあ作業に出発です。(^o^)
初日である本日は、福岡さんと私の二人です。予想最高気温22度、降水確率は70%、40%ですから、午前中は雨に降られる可能性が高いですね。ただ今のところ雨が降り出す雰囲気はありません。雨が降り出す前に壕を見つけて入れれば最高です。作業に先立ち、まずは沖縄戦で戦野に果てた戦没者のご冥福を願い手を合わせます。
いつもの流れで、戦没者のご冥福を祈った後は集合写真と言う事になりますが、集合写真と言っても福岡さん一人ですね。今日から頑張りましょう。よろしくお願い致します。実りある探索作業にしていきましょう。(^o^)
オオゴマダラだと思われますが、蝶が近くに居たので撮影してみました。写ってはいるのですが説明は止めておきます。
しばらくは前進です。
蔓植物が前進を阻みます。
良い感じの岩陰がありますよ。
危ない危ない。落ちたら大変です。
凄い崖になっています。
蔓植物が凄い事になっていますが、前進出来そうです。
良い場所です。あまり深くはありませんでした。
ここも小さな穴でした。
福岡さんの足が止まりました。
福岡さんは何かを感じたようです。
ヒェ~。大きな薬莢を見つけました。
薬莢の長さは10cmですね。
前側の直径が15mm。
後ろ側の直径は20mmありました。二人は銃弾について詳しくはありませんが、この薬莢は米軍戦闘機の薬莢ではないかと二人の意見は一致しました。
壕がありました。
雨が降り出して来ましたね。
凄い雨だ。土砂降りだ~。
金属探知機の反応があります。
鉄片ですね。砲弾の破片のようです。
この辺りを掘ってみようと言う話になりました。
穴を広げます。
貫通しました。降りてみましょう。
ご覧のように、人が入れるぐらいの坑道がありました。入ってみましたが、何もありませんでした。
相変わらず激しい雨が降っているので、気持ちを切り替え早お昼にしました。
雨が止んだので出発です。沖縄の雨はスコールと呼べるような短時間だけ降る雨が多いので、その点は凄く助かります。先ほどまで豪雨と呼べそうな雨脚だったのに、今はすっかり止んでいます。但し雨の降った後のジャングルを歩くと、雨合羽をしない場合は全身が濡れてしまうのですよね。ても雨合羽は面倒ですし蒸れます。出来ればしたくない‥‥。
オッ、壕口がありました。
入れますね。
良い感じ。通路になっています。
ここは行き止まりです。
反対側に行ってみましょう。
結構広そうです。
福岡さんも降りてきました。
ご覧のように、結構広いです。
何か見つけたようです。
遺品ですね。
ハトメでしょうか? やはり兵隊さんが滞在していましたね。
金属片が散らばっています。
福岡さんがクマデで掘り出しました。
壕空間は奥へと続いているようです。
結構金属反応がありますね。
空き缶もありました。
福岡さんが見ている場所に注目です。黒く焦げたような場所がありました。
炭? ここで煮炊きしたのかも知れません。
この辺りは、ご覧のように立って歩けます。
釘でしょうかね。
水瓶がありました。
ご覧のように、壕内は結構土があります。結果として蔓植物が一杯生えていますね。
壕口がありました。
白い瀬戸物ですね。
ここにも遺品がありました。
空き缶ですね。
ここで行き止まりのようです。穴はあるのですが小さすぎます。
ここにも壕口がありました。都合三箇所の壕口がある事が判明しました。
割れた茶碗がありました。
ここは立っては歩けませんが、広さはありますね。
ここも煮炊きしたと思われる場所ですね。
炭ですよね~。
ガスマスクの曇止板を入れる容器ですね。
ここも煮炊きした場所でしょうか?
金属反応は無いですね。
破片が数多くありますね。
ここにも壕口がありました。
割れた水瓶ですね。
結構広いです。
ガスマスクの曇止板ですね。
土を掘り返す福岡さんです。
フィッシャーもここから先は狭くて通れません。
鉄製の部品ですね。
水瓶でしょうか? かなり分厚いです。
空き缶もありますね。
石が積んであります。以前の遺骨収集で積んだとは思えない積み方です。
福岡さんが地面を観察しています。今のところご遺骨の発見はありません。福岡さんから「移動しようか」と声が掛かりました。
移動しましょう。外を見たら太陽が出ていました。
移動開始です。
ガ~~ン。金光教の赤テープです。金光教はここまで入っているのですね~。ビックリです。
良い場所です。入ってみましたが何もありませんでした。
雨の後ですが、気温も高いので雨合羽を着ていなくても、あまり濡れていません。このまま前進します。
蔓が凄いです。
こちらもですね~。
10mも離れたら、お互いに迷子になってしまうかも知れないぐらい蔓植物が繁茂しています。私達は互いに迷子になったり人身事故が発生した場合、迅速に連携し対応する為にメンバー全員が無線機を持っています。その無線機もスイッチが入ってないと意味が無いので、スイッチが入っているか! チャンネルを合わせてあるか! を点検する為に、朝集合した際に必ず無線機で相互通信を行うようにしています。(^o^)
一見歩きやすいように見えますが、足下を蔓植物が覆っていて、これはこれでまた歩きにくいのです。
良い感じの壕がありました。何もありませんでした。
崖に沿って歩いています。
前方が明るいですよ。
相変わらずの蔓植物の中を前進します。
お~。良い感じの壕がありました。
入れますね。
あまり深くはありませんでした。
鉄の遺品がありました。何でしょうかね?
良い感じの壕がありました。
また崖に遭遇。地形が極めて複雑です。方向を見失わないように気をつけねば。
ここも良い感じの壕ですね。
中は結構広いです。
どんぶり型の茶碗でしょうか?
土の部分も結構あります。
別の壕口がありました。
結構広いです。
福岡さんが何か見つけました。
セルロイド製の白い板ですね。名前らしきものは書かれていません。
遺品を探す福岡さんです。
ここで行き止まりのようです。
また前進です。ご覧のように、急速に晴れてジャングル内が明るいです。沖縄のジャングルの明るさを比較すると、1月と2月では格段に2月のほうが明るいです。(^o^)
時折、樹木の繁茂状況を観察して進路を決めていきます。
蔓植物が凄いです。
また崖に遭遇。
水瓶でしょうか?
壕口があると福岡さんの声がします。
入ってみましょう。
良い感じの壕ですね。
これは沖縄戦当時の瓶の底ですね。
ここが壕の一番奥ですね。壕口から5mぐらいあるでしょうか。
お茶碗の破片です。
オッ遺品もあります。
地面をしっかり見つめる福岡さんです。
遺品と共にご遺骨発見。(^o^)(^o^)(^o^)
あっという間に、これだけご遺骨が出て来ました。丸いご遺骨は、いわゆる膝のお皿です。
写真中央部辺りにご遺骨があります。遺骨収集の初心者の方は、ここにご遺骨があるとはまず見抜けないと思います。ご遺骨を見続ける事の大切さが改めて想起されます。ご覧のように、ご遺骨は完全に岩肌と同し色合いになっていますね。
このご遺骨は露出していました。足指のご遺骨でしょう。
写真中央部辺りにご遺骨が写っています。このご遺骨はもしかしたら人間ではないかもです。骨端部が無かったり見えなかったりしていりので、見ただけでは断定出来ません。いずれにしても小さなご遺骨が数個見つかったので、この壕は改めて集中的に取り組むとして、前進する事にしました。
壕の一番奥の場所から光が見えたので、壕の上側に廻ってみました。この場所も窪地になっていたり壕が連なっているので、後で見てみましょう。
上側から壕の中を見ています。結構広いです。もしかしたら、人が行き来出来るぐらいの開高寸法がありますね。
上側には一升瓶がありました。
壕口がありました。深くはないようです。
また壕口がありました。入ってみましょう。
早速土を掘ってみます。
壕口を見ています。
海からの直撃弾は防げますので、この壕は良い場所ですね。フィッシャーですよね。ちょっと入れません。
お~。こちらからはギリギリ入れそうです。入ってみましょう。
壕底に降りました。
お茶碗の破片です。
貝で出来たボタンもありました。兵隊さんが居られたのですね。
一升瓶の破片ですね。
ここもあまり深くはありませんでした。
また前進です。
瓶のような物が見えます。
石垣が積んであります。沖縄戦当時積んだものだと福岡さんと意見が一致。
福岡さんが居る側が兵隊さん達が居られた場所です。
石垣ですよね~。ここは壕ではなく岩陰が相応しい表現です。こんな所しか隠れる場所が無いぐらい、この辺り一帯には兵隊さん達が隠れていたのでしょうか。
割れた水瓶ですね。
これは正に炭ですよね。切断面は折ったと言うよりも、スパッと切ったと言う印象を受けます。
「あった~」と福岡さんの声!
お~。ご遺骨です。肋骨ですね。
壕は更に奥へと続いていました。
お茶碗ですね。
遺品です。何でしょうかね?
細かい遺品があちこちから見つかります。
ここにも革製品があります。
水瓶とか、ここにも革製品があります。
空き缶です。
壕は更に奥へと続いています。
地面をしっかり見つめる福岡さんです。
割れたお茶碗です。
福岡さんが居る場所で終わりのようです。
別の壕口に出ました。この壕はかなり長いです。
壕から外を観察しました。
壕口に女性用の櫛がありました。
再度壕内に入りました。
この壕は結構広いですね。この壕内は土も多く地面に座っても痛くないと言う意味で、居心地は良かったかもです。
お茶碗の破片ですね。右側はガラス製品です。
小銃弾の薬莢も見つかりました。時刻も夕方になったので、本日はこれで帰路につきます。(^o^)