平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月17日(木)豊澤さんと摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(金)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月19日(土)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月20日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月21日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月22日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月25日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月26日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月27日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月27日(日) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日は晴れ時々曇りの天気予報です。今日が最終日です。今日も雨は考えられないという事で、結果として今年の調査・遺骨収集奉仕活動は、一日だけ雨に降られたという、かつて無い恵まれた天候となりました。天候に恵まれた割には結果を出せていないのですが。(^^;) それはともかく、今日の作業は来年の調査・遺骨収集奉仕活動を見据えての場所探しという視点で活動する事になります。
最終日の今日は、「沖縄陸軍病院第一外科壕」、「同第二外科壕」、「独立高射砲27大隊本部壕」を訪れます。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「沖縄陸軍病院第一外科壕」
場所は糸満市伊原にあります。国道331号線から農道に入り、およそ150メートルぐらい進むと左手にご覧のような「第一外科壕」が見えてきます。沖縄戦当時は壕の周囲にある樹木等は砲撃で吹き飛ばされたでしょうから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴に見えますね。穴が見えないように偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。開口部は米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。
「ひめゆり平和祈念資料館」の説明書きによりますと、「伊原第三外科壕とともに、南部撤退後に沖縄陸軍病院職員やひめゆり学徒隊が避難していた壕の一つで、最初糸数分室の勤務者が入っていたが、後から第一外科と津嘉山経理部の勤務者が合流した。6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷。その翌18日に学徒らに解散命令が出され、19日未明に負傷者9名を残し、壕を脱出した」と書かれていました。
【慰霊碑碑文】
ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。
米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった。軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死わかれの地点である。
ここで負傷戦没した生徒。
古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。
藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。
1974年6月 ひめゆり同窓会
沖縄陸軍病院第一外科壕は、最初は伊原集落の人達が入っていた壕です。それではご一緒に中に入ってみましょう。階段状になっているスロープを降りていくと、ご覧のように岩の下に狭い空間があるのが見えてきます。
まずは献花台が見えてきました。献花台の左側が壕口となります。
香炉などが設置された献花台に花を添えて手を合わせました。写真中央部に黒っぽい色をした穴らしきものが見えますね。そこから壕の内部へと入っていきます。出入り口はこの一カ所のみのようです。昭和36年(1961年)に琉球政府社会局などが中心となって大々的な遺骨収集が行われたそうです。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
壕口方向を見た状態から左側を撮影しています。雨が多いと写真左手奥側から水が流れ出ているのですが、今年は一応乾いていますね。
「アブチラガマ」の壕口を撮影しています。少し解りにくいと思いますが、水が貯まり池のようになっていますね。ですからこれ以上奥には行けません。水が貯まってない年もあります。そうした時は中も見えるのですが‥。いずれにしても沖縄戦当時はこうした状況は無かったと思いますが、ひめゆり学徒隊が滞在した頃は、天井から水がポタポタと落ちており、座っているとお尻がじとじとと濡れてくるなど、壕全体が湿っぽかったという話は出てきますから、元々住環境は良くなかったようです。また近年この近くに巨大な貯水槽を構築したそうで、そうした事もありこの近辺の地下水位が上がったという事のようで、その結果毎年慰霊巡拝に参りますが、水が貯まり池のようになっている頻度が増える傾向にあります。
冒頭でひめゆり平和祈念資料館の説明書きによると‥。でご紹介した「6月17日、壕の入り口近くに砲弾が直撃し、学徒や病院関係者が死傷」と、書かれている砲弾が直撃した場所は、上掲写真の壕口の直ぐ奥辺りに居られた学徒の方々が死傷したのではないかと見ています。また死傷の規模からして艦砲砲弾が炸裂した可能性があると感じます。砲弾が落下・直撃した場所は、私が撮影する為に立っている場所辺りではないかと思います。それでは砲弾が直撃した直後の様子が生々しく書き綴られている「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著/(株)高文研)を引用させていただきます。
流れる血、叫ぶ声
(116頁)
六月十七日の夕方、砲弾が止み、やっと水汲みと食べ物さがしに生徒たちは外に出ました。私は石川先生と玄米を炊きに近くの岩かげに行きました。枯れ草に火をつけようとした、その瞬間です。突然、第一外科壕のあたりで砲弾の炸裂音がしました。「壕の近くに爆弾が落ちたようだ。すぐ壕に戻ろう!」
先生はそう叫ぶなり、走り出しました。私も、先生の後を追って走りました。壕の入口近くに大きな砲弾が落ち、あたりは硝煙の匂いがたちこめていました。壕の中は騒然として、さまざまな叫び声が飛び交っていました。恐る恐る中に入ると、入り口近くには折り重なるように人が倒れていました。おびただしい血が流れ、歩くとぬるぬるとすべります。その中を奥へと進みました。そこで目にしたのは、「助けて!」「痛い、痛い!」と泣き叫んでいる学友たちの姿でした。足元には どろどろした血の中に人の体が横たわっていました。ぶるぶると体中が震えました。まさに阿鼻地獄です。
比嘉勝子さんは脚を負傷し、「早く包帯して!」と叫んでいました。そこへ照屋貞子さんが、ひざを負傷し、外から運ばれてきました。牧志鶴子さんは「足がない!足がないよ!」と大声で叫んでいたそうです。鶴子さんは大腿部を取られて亡くなったのです。そのほかに師範予科三年の小波蔵満子さんが即死でした。
師範本科一年の荻堂ウタ子さんは、内臓がとび出すほどの重傷で、師範生に囲まれて倒れていました。「おなかがやられた人が助かることはない。私はいいから他の人を見てあげて」と叫ぶように話しているのが聞こえました。砲弾が落ちた時、壕の外にいた山里幸子(現姓、山田)さんが荻堂さんのところへ行った時は、もう息を引き取る寸前でした。幸子さんと荻堂さんは幼なじみでとても親しい間柄でした。「幸子、もんぺを上にあげてちょうだい。私は三報よ。あなたはきっと生きて、私のお母さんに、ウタは先になると話してちょうだい」と幸子さんに苦しい息の下から話したそうです。「三報」というのは、助かる見込みのない患者ということです‥。
‥。砲弾の破片で顔面を削られた人、かかとをえぐり取られた人、大腿部やひざをえぐられた人‥。あまりの痛さに泣き声をあげる友だちの前でね私たちはなす術もなく、ただうろうろしているばかりでした。出血した人に水をあげると、どっと出血して大変なことになると言われていたので、水をあげることにちゅうちょしましたが、苦しむ姿を見るとたまらなくなり、口元から少しずつ水をたらすようにしてあげました。
「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」から転載させて頂きました
更に近づいてみました。
完全に水没しています。
最も下に降りた壕口から開口部を撮影しました。壕口は小さいですが、空から見る地表の開口部はかなり大きいのが見てとれます。
この第一外科壕に来ていつも思うのですが、千羽鶴が絶えた事がありません。間違いなく更新されています。推測するに一定の人々が定期的に慰霊巡拝で訪れているのかもしれません。
「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、伊原アブチラガマ(第一外科壕)の配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。詳細な図で説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。(別ウインドウで開きます)
「沖縄陸軍病院第二外科壕」
国道331号線から脇道を100メートルぐらい進むと、小高い稜線の切り通しありまして、その切り通しを過ぎる際に右側を注意深く見て進むと、この写真の場所に出ますから、見落とさないように注意して下さいね。ご覧のように車も一台止めることが出来ます。また40メートルぐらい離れた場所に駐車場もあります。慰霊塔のあるこの場所は、東西に延びる小高い稜線の裾にあたり、前の方には畑が広がっていますし、海も見えます。
「陸軍病院第二外科壕」と書かれた石碑と共に、第二外科壕の開口部が見えてきました。病院壕です。ひめゆり学徒隊も引率教諭と共に、ここで看護活動を続けました。この壕は6月18日に米軍に発見されてしまいましたが、動ける人は夜間に脱出し第一、第三外科壕方面に逃れました。そして19日には馬乗り攻撃を受けましたので間一髪で脱出に成功したと言われています。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「ぬちどうたから」と彫られています。漢字交じりだと「命どぅ宝」と書きます。「命こそ宝」という意味で、沖縄では主に反戦平和運動のスローガンとして用いられるようです。
数年前までは、この壕開口部は閉ざされていましたが、何者かにより壕口が開けられ中に入れるようになりました。最も壕口は土を持って壕口を塞いだという状況でしたから、20年以上前から僅かに穴が開いていて中が見えるような状況ではありました。壕は構築壕であり、出入り口は二カ所あると言われています。稜線にそって行くと、そのもう一カ所の入り口があるそうです。100メートル以内にあるという話ですから、機会があれば探してみたいと思います。またこの壕口の右側は切り通しの道路となっていますが、拡幅の際に斜面に人が通れるぐらいの大きな穴が開いたという話ですが、切り通しの道路を作る際に潰されたという情報も聞いた事があります。ただその開口部が「陸軍病院第二外科壕」と繋がっているかどうかまでは知り得ませんでした。
それではご一緒に第二外科壕に入ってみましょう。
第二外科壕に入って入り口を撮影するとこんな感じです。沖縄戦当時もこんな感じだったでしょうか。もしかしたら上から土砂が落ちてきて、壕口は狭くなっている可能性はありますね。
壕の中に入りまして、コンクリート製の納骨堂が見えてきましたが、この納骨する為の開口部が開けられたままになっています。正に墓荒らしみたいな状態に現在なっていますので、早期に壕口を塞ぎ、静かなたたずまいに戻すよう行政の方に御願いしたいですね。
納骨堂の内部は、ご遺骨を探したと思われるようにデコボコした状態になっています。納骨堂の蓋の部分をよく見て下さい。手前側のコンクリートがハンマー等で打ち砕かれ、鉄筋が露出し錆びだしているのが見てとれます。この様子を見ただけで、誰かが蓋をハンマーとかバールでコンクリートを打ち砕き、こじ開けて中にご遺骨を持ち去ったと言えるでしょう。
この写真は、納骨堂の奥に壕が続いているのをお目にかけたくて撮影しましたが、手前に露出があってしまい、奥の方は暗くなってしまいました。何となく通路があるのが解りますかね。? 私はまだずっと奥へ行ったことがないのですが、数十メートル前進すると開口部から外に出られるという話です。
納骨堂の基礎の下を掘ったという状況です。ですから納骨堂が完成した以降に、誰かが掘ったという事ですね。
壕口のある緩斜面を撮影しています。稜線の北側は急斜面や崖になっていますが、南側はご覧のように緩やかです。この先に第二外科壕の壕口があるそうです。
海岸線を見ています。海まで意外と近いのが解ります。
壕口から東側を見ています。緩やかな緩斜面がずっと続いているのが見えます。
「独立高射砲27大隊本部壕」
独立高射砲27大隊本部壕に行くには、まずは糸満市大度の国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」を目標にし、同レストランの崖下側に小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。国道331号線からご覧の脇道に入ります。路面は舗装されています。少なくともこの通路は、とある門中墓の参道となっていますので、墓前を通らせて頂くという事ですからお気を付け下さいませ。
門中墓です。お名前は消してあります。崖をくり抜いて作られたお墓ですね。門中とは、概ね血族を同じくする集団で、同一村内で本家を同じくする人々の事をいいます。ただ家族や親族であっても、他村に移り住んだ人は門中から外されるようです。厳しいですね。また親族以外でも門中の本家より、請うて竃の灰を貫い受ければ、加わる事が可能なようです。門中員は相互扶助の生活をなし、死後は一つの墓に納まり永遠に眠ると言う信仰的な繁りで強く結ばれているとの事です。
お墓前からは舗装路面はなくなり、いきなりご覧のような狭い登山道のような小道を降りていく事になります。手摺りが標識代わりにあるので迷うことはないと思われます。道なりに進んで下さい。
段々と一人で歩くのが怖くなりますよ。勇気を出して進みましょう。(^^;)
階段を30メートルほど下ると左に曲がり、水平面ほ進む事になります。ご覧のように道はなくなりますが昔道だったせいでしょうか、樹木は育ってないので、鬱蒼としてはいますかず、見通しのきく草地となっています。足下に注意しながらそのまま前進します。ちなみにこの冬の時期はハブはいませんから、その点だけはご安心下さい。ただこうして毎年慰霊参拝を続けていますと、目の前に広がる風景が、“人間の関与” が失われ草の丈が伸び、木があちこち増えてやがて樹林となるという変遷の姿を垣間見ると、ちょっと寂しいものがありますね。(T_T)
進行方向左手を見ながら50メートルほど進むとご覧のような壕入り口が現れます。これが「独立高射砲27大隊本部壕」です。正確には同壕は入り口が二カ所ありますので、その一つの入り口という事になります。それでは近づいてみましょう。
沖縄戦が始まるまでは、この壕において独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。元々高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。 独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていたと言われています。
壕内部の様子です。それほど広くはないですね。高射砲は壕内部に収納しておいて、射撃する時はレールに乗せて前に出して射撃、速やかに後退させたのでしょう。 また写真中央部に少し黒い部分がありますが、そこからもう一つの壕と繋がっていたと言われています。昔そこから覗いてみましたが、落盤していて進む事はできませんでした。
壕口上部はコンクリート製です。丸太を転がし型枠代わりに使ったと思われます。
コンクリートの状況を撮影しましたが、勾配がかなりありますし、丸太で型枠を構成したというのが見てとれますね。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70余年を経て10センチほどの鍾乳石が垂れ下がって居るではありませんか。
縦方向から撮影しました。丸太を並べて整形したというのが解ります。コンクリート面が煤で黒くなっていますね。攻撃を受けた際の火炎の跡でしょう。
続いて本部壕を目指します。草地を再び前進すると本部壕の壕口が崖面に見えてきます。こちらは近年樹木や蔓植物の繁茂により、壕口が見えにくくなっていますので、注意深く観察する必要がありますね。
壕口がありました。結構見にくくなっているのが解ります。昔はこんな事は無かったのですが、遺族会等の活動が収束に向かいつつあるという事でやむを得ない事態ですね。
ここが独立高射砲27大隊本部壕の壕口です。壕入り口に大きな岩が鎮座していますが、この巨岩は平成24年(2012年)ですから今から8年前という事になりますが、沖縄で大きな地震があり、その揺れで崖上の巨岩が落下した様なのです。壕入り口を塞ぐように落ちたので、出入りは乗り越えなければならず、若干不自由しています。
落ちてきたこの巨岩の上に、更に太い倒木がありましたが、それは誰かが撤去したようです。この場所で手を合わせました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
卒塔婆が数本立っていますね。戦後70余年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の名前などは見事に自然消滅しているのが印象的です。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。
壕の中へ10メートルほど入った所から撮影してみました。ご覧のように開口部は結構な大きさがあります。偽装はしたでしょうが、危うい大きさですよね。兵員の出入りだけでなく、大砲とか大きな装備品を出入りさせたのでしょうか。推測ですが、壕口を埋めるように岩石が積み上げられていますが、これらは沖縄戦当時は無くて、平坦であったと思うのですが、如何でしょうか?
写真を撮影している場所は、壕口から入って最初のホールというような広場です。写真中央に穴が見えますが、そこから壕は枝分かれして伸びています。
狭い壕口が近づいてきました。
身を屈めるようにして、結構深い場所まで入ってきました。下りながら更に進みます。 壕の壁天井が煤で真っ黒になっているのが見えますね。以前入っ時には木杭が炭のようになっていたのを目撃したことがありますので、徹底的な火炎放射攻撃を受けたようです。
壁面が煤で真っ黒になっているのが見えますね。徹底した火炎放射攻撃を受けたものと思われます。
右奥に進んでいくと、ちょっとした小部屋があります。一人で壕に入っていますから、これ以上進むと危険ですので更に奥には行きません。
ご覧のように左の方には坑道があり幾つかの空間があります。
調査・遺骨収集作業開始です
作業開始に先立ち、戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m
右から豊澤さん、福岡さんです。今日は最終日です。事故の無いように注意しながら、来年の調査・遺骨収集奉仕活動に向けて、前向きな見通しだ立つよう成果を一致協力して出しましょう。(^o^)
さあジャングルに入ります。
何度も通るので道が出来ました。(^o^)
砲弾が炸裂したのでしょうか? 岩が煤で黒ずんでいます。
来年に向けての本格的な調査開始です。(^o^)
結構アップダウンがあります。
大きな岩の下に壕がありました。入ってみましょう。
まず福岡さんが入っていきます。福岡さんの先も障害物はなく無難に入れるとの事。
壕の中に入りました。壕出入り口の近くは注意深く観察しなければなりません。と言いますのも、壕口付近では御遺骨や遺品が発見される度合いが高いのです。首里以北の構築壕や陣地壕では違うかも知れませんが、ここ摩文仁辺りは、敗残兵や県民が逃げ込んで隠れた地域です。特に自然壕内について言える事ですが、奥深い壕であっても奥には何もなく、入り口付近に滞在した痕跡が残っているケースがとても多いです。
兵隊さんの場合は、燈火の資機材を持っている場合も多いので例外もありますが、一般論として灯油ランプやロウソクなど、暗い壕内を照らす明かりを何も持ち合わせていないという理由もあるでしょうが、光が見える場所に居たいという本能にも似た動機があるように思えてなりません。壕のもっと奥深くに居れば無事だったかもしれないのに‥。と思う事しばしばです。
問題なく進めそうですね。
更に進みましょう。
オッここだけ壁の岩が煤で黒くなっています。地面も平らですし、それなりのゴミが散乱しています。
やっと福岡さんに追いつきました。更に奥があり進めるそうです。
右に曲がっています。
地面がぬれているような場所がありました。地表が思いの他近いのかもしれません。かなり水平上下に移動したので、すでにそうした感覚は麻痺しています。
左に曲がります。
岩だらけだったのですが、土といいますか土砂の多くある場所に出ました。
おーー。遺品がありますね。革製品です。
金属的な遺品もあります。
岩の上に置いてみました。
腰を据えて探す事になりました。
見つけた遺品を岩の上に置いていきます。歯もありました。
遺品が出るという事で、来年のための下見という考えでしたが、少し時間をとって遺品を探す事になりました。
細かい遺品が沢山出てくるようです。
遺骨はまだ発見されていないようです。
作業している場所を照らすと、ご覧のように小岩をまとめて置いてあるという雰囲気になっています。写真では岩の山が奥と手前で二カ所見えますね。遺骨収集が済んでいると思われます。遺品が見つかる割に、遺骨は小さな取りこぼしレベルの御遺骨しか見つかりませんから、その可能性は高いですね。
あっという間に、こんなにも遺品が集まりました。かなりの人数の将兵が滞在していたと思われます。
この丸い透明の物はアセテートのレンズです。被甲(ガスマスク)に使用する部品です。将兵が亡くなった場所には大概ありますね。下の黒い物はそのレンズを入れるケースですね。
ご覧のように小さな御遺骨は沢山ありました。
お金もありました。後で磨いてみましょう。
万年筆のペン先が出てきました。収骨作業が行われた事は間違いない壕ですが、遺骨や遺品が多くある事が判明したので、来年この壕で本格的に遺骨収集する事にしました。忘れないように壕口の位置を全員でもう一度確認し、移動を開始しました。
さあそれでは、金光教さんが遺骨収集していない場所を探すべく前進しましょう。(笑)
アップダウンが激しいです。
ガーン!!崖になっていて行き止まりです。崖の高さは10m以上あります。戦没者収集情報センターの遺骨収集紹介コーナーに、摩文仁海岸線一帯を等高線で表した地図が展示されているのですが、その地図を見た時に、私達が立つこの場所の等高線がやけに狭くなっているのです。つまり崖になっているという表示が為されていたのです。その地図を初めて見た時は、そんなはずはない、あそこに崖なんてある訳ない‥。と怪訝な目で見ていました。しかしこれで合点です。その地図は正しかったのです。私の頭の中に新しい地図が書き加えられました。嬉ピー (笑)
やむを得ず、崖沿いに東に進みました。最終的に東に進む予定だからです。しばらく進むと、クレバスのようにバックリと開いた岩の割れ目が現れました。V字谷になっていますから、落ちたら大変です。写真では少し解りにくいと思いますが、見事にバックリと割れています。飛び越えるにはちょっと遠いです。という事で、クレバスが終わる所まで戻らねばなりません。未知のジャングルでは、行きつ戻りつは常道です。しかしながら、ぐるりぐるりと回って、結局出発地点に戻りそうな雰囲気ですよ。(笑)
クレバスから余り外れないようにして、安全な場所を選びながら前進します。
ようやくクレバスが終わっている場所に出ました。写真はクレバスの断面を見ています。
崖下まで続いているようです。木の根が凄い事になっていますが、降りてここを突破するのは無理がありそうです。
岩の割れ目を前進します。
ホッ、岩の下を進めそうです。戻る必要はなさそうです。
再び地表面に出ました。磁石を見て、また南に進路をとります。
おーー。この壕は来年チェックしたいですね。
またもや崖です。(^^;)
ここも駄目です。
崖に出て行き止まりだと悲嘆するだけでは能がありません。崖と言う突端部は、ある意味周囲を観察するに絶好の場所でもあるのです。私も毎年必ず行われる調査活動で移動している場合は、可能な限り高い所に登って周囲を観察するようにしています。その際に木に登る場合も少なくないです。つまり見通しがきく高い所に登るのです。地表面で観察するだけでなく、高い所から立体的に付近一帯を把握するように務めると、より重層的に位置関係を記憶出来ると共に、デコボコした地形がリアルに頭に焼き付くようになりますね。
また回り道です。あれ~、ここは見た事があるような‥。(笑)
ここは降りられそうですよ。草木が繁茂していますから、土が多く湿っぽい場所のようです。崖の高さは概ね10mから15mぐらいです。完全に崖下に降りられるかは、この段階で断定できませんが為せば成る、先の事は考えず降りてみましょう。
左側の側壁がご覧のように、比較的乾いた状況になっています。壁面の向きは真南といった所でしょうか。
クワズイモが凄いです。栄養状態が良いようで、人間の背丈程もあります。こうした場所はハブに注意しなければなりません。
やりました。(^o^) 写真奥の場に至ると、ほぼ崖下に降りたといえるでしょう。
V字に岩が割れているのが見えます。この写真では下から見上げるように写されていますが、少し前にご紹介した岩が割れている部分です。
少し西に向かって進みます。
ちょっとした岩陰です。
土が多いのでしょう。草木が凄く繁茂しています。
またクワズイモ畑に出ました。土と水分が多いという事ですね。今私達が立っている崖下の窪地は、金井戸の上流部にあたります。では金井戸に湧水として流れ込むその河川水の源流は何処かというと、各県の慰霊塔が並ぶ西端辺りに台湾之塔があり、更に崖近くに空華之塔がありますが、その空華之塔の崖下辺りか、もしくはもう少し東側辺りが源流点であると私は見ています。なぜこの思いに至ったかと申しますと、元々沖縄師範健児之塔がある場所から南側に展開する比較的緩やかな丘陵一帯は、ジャングル帯ではありますが、昔は摩文仁のハンタ原と呼ばれていたそうです。金井戸はそのハンタ原の南端に位置すると言えるでしょう。グーグルマップで航空写真を見て頂くと一目瞭然なのですが、金井戸を起点として見事に黒い影が、つまり窪地が東に一直線に空華之塔崖下まで伸びています。
大渡海岸方面から湊川方面に逃げようとする人々は、ハンタ原の何処を通って東に抜けていくか! これは私達が摩文仁で遺骨収集に取り組むに際しての、着目すべき課題であると捉えているのですが、大渡海岸を発として、しばらくは海上艦艇の狙撃を警戒しながら、最初の難所である崖下の海岸沿いの岩場を東に進みます。やがて摩文仁に入ると巨岩が連なり海上の艦船への露出がなくなるので一息つけると共に、しばらく進むとハンタ原に至るのです。摩文仁のここまでは、海上の艦船から目視される事無く東進出来ましたが、南冥の塔や沖縄師範健児之塔辺りは、岩場が極端に少なくなります。土さえあれば段々畑が作れそうな雰囲気の場所でもあります。ここでは海上艦船から狙撃されないようにする為には、南冥の塔の背後にある巨岩の裏側を通り、金井戸までは少し海側に近づく必要があります。そして小さな岩陰を進みつつ、金井戸の背後にある巨岩の裏側を通り、そして私達が立っている崖下の窪地を東進するのです。沖縄戦当時は梅雨時ですから、泥濘んでいる可能性があり、泥で足を取られるという事もあるかもしれませんが、短時間に進むという視点では、このコースがこれまでこの踏破してみての検証で一番理に叶っているとみています。
南冥の塔の背後にある巨岩の裏側から、司令部壕のある崖に沿うように進むコースも考えられますが、現場に立てば解りますが、明らかに遠回りとなります。いずれにしても、壕以外のこのような露天で戦没者御遺骨を探す場合、将兵や民間人等の人通りが多い場所ほど、戦没者御遺骨が存在する可能性があるという視点で地形を俯瞰しているのです。摩文仁のように逃避行が主体の場は特にそうであると感じています。人は人が居るところに行きたくなるものです。特に心細い逃避行などでは尚更です。
また私達が立っている窪地の南側は数メートルの高さがある東西に延びる稜線が走っているのです。ですからこの窪地は海上艦船に発見される恐れは全くありません。安心して東進できます。やがて空華之塔の崖下に突き当たれば、後は各県の慰霊塔が並ぶ崖下に沿って進むだけです。各県の慰霊塔の最初の慰霊塔である、青森県のみちのくの塔までは、海上艦船に見つかる事なく岩陰を進む事が可能です。但しそこから先は慶座絶壁(キーザパンダ)も含めてサザンリンクスゴルフ場、そして玻名城ビーチ辺りまでは、夜陰に紛れての行動であっても極めて困難な道のりとなるでしょう。平和祈念公園の平和の炎がある崖下にチンガーという湧水地がありますが、そこから玻名城ビーチ辺りまでの海辺沿いには自然壕もありません。数人程度が入れる壕が二カ所ありますが、それ以上の規模の壕は一切ありません。
サイト管理人の足を写しています。普段はお目にかけない写真です。写真が次から次へと連続的に撮影されSDカードに収められていきますが、そうした写真を区切る為に入れるのです。今私達は崖を降りて西に進みましたが、今から東に向かう事になりました。進む方向が、西から東に変わるこのタイミングで足の写真を入れました。そうすると後から写真一覧を見た場合、足の写真がある所で、調査活動の区切り点だと解るのです。
このように進行方向が変わる時とか、崖を登り始めた時、崖を降り始めた時等、行動が大きく変わるのに風景に変化が見られない場合に入れるケースが多いです。何しろ写真の編集は仕事が忙しいので、遺骨収集から帰って来てから8ヶ月ぐらい経過してから手を付けるという状況ですし、撮影枚数も3000枚は軽く超えますので、撮影した理由もすっかり忘れていたりしますからね。足の写真を入れるのは多くはありませんが、撮影理由を忘れていても、足の写真を見るだけで記憶を取り戻せる場合が多いのです。(^o^)
という事で時間的配分を考慮し、今から東に向かって進む事になりました。
地際に数人が入れそうな壕がありました。ここも来年調査したいですね。
パパイヤの木がありました。大きな実が沢山成っていますね~。こうした青いパパイヤは野菜として、調理すれば食べられるそうですね。因みに摩文仁海岸線にパパイヤがもう一本あります。昔はここから遠くない場所にバナナの木があったのですが、台風で倒れてしまいました。
今私達は金井戸の源流点に向かって東進しています。土が多いせいでしょうか。草木が凄く繁茂していて、背丈を超える状況になってきました。
トウツルモドキはそれ程密集してないのですが、違うつる性植物がありますね。結構引っかかり前進を阻んでいます。それにしても中々前に進めません。(^^;)
草が背丈を超えている状況です。
フーー。やっと摩文仁崖下に到達しました。私の見立てでは、この辺りが金井戸の源流点だと思っています。そして沖縄戦当時も、多くの将兵や民間人が、今私達が歩んだコースを同じように行き来下に違いありません。崖沿いに歩けば、摩文仁高地を占領した米兵から狙撃される可能性もありませんし、勿論海上の艦船からも一切見えません。
艦砲砲弾が炸裂した跡でしょうか。煤で黒ずんでいますね。
ちょっとした壕がありました。
引き続き東に進みます。急な登りですね。相変わらずアップダウンが激しいです。
今度は降ります。
赤いキノコがありました。時折見かけますね。見るからに毒キノコという雰囲気です。朽ちた倒木に集団で発芽しているケースが多いです。
白いビニールテープが見えますね。平成28年(2016年)ですから、今から三年前になるんですね。金光教としては最終回となった第43回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動時に団員の為に張ったビニールテープです。テープは朽ち果てずしっかりとしていました。
写真に写されているこの場所は、以前ゴミの山があったのですが、県が主催者となり県民ボランティアを募集して200人とかの規模で清掃活動した結果、ご覧のようにきれいさっぱりとゴミが無くなりました。有り難いですね。(^o^)
紐に沿って進んでいます。後50m程で崖上目指して登ります。
崖を登り始めました。
目的の場所に到達しました。これからこの付近で調査・遺骨収集を実施します。この辺りもゴミ山でしたが、県主催の清掃作業できれいさっぱりとゴミが片付けられました。この県主催の清掃作業を遠巻きに見た事がありますが、参加した皆さんが、必死に集中力を持って取り組まれていたのが印象的でした。
《過去の写真ご紹介》
上掲の写真とほぼ同じ場所を写しています。昔はこんなにゴミがあったんですよね。
この辺りも凄いゴミ山でした。かなり広範囲に清掃されているのが解ります。
調査・遺骨収集開始です。ゴミが撤去された後を探せば、もしかしたら御遺骨があるかもしれない‥。沖縄戦戦没者はゴミの下に存在するという事になりますからね。清掃作業している最中にも遺品は数多く発見したようです。御遺骨は残念ながら見つかったという話は聞いていませんね。という事で私達は随分前から、ゴミが撤去された後を探してみようと話し合っていたのです。ついにその時がやって参りました。
壕口がありました。人がやっと入れるぐらいの大きさです。入ってみましょう。
中は広いです。ゴミが流れ込んでいますね。元々ここに流れ込む水は、公園内の排水溝からの雨水が、ここに流れるという状況です。台風などの時は凄い流量だと思われます。
ずっと奥に続いています。
まだまだ続いています。かなり奥深い壕ですね。
更に進んでみましょう。この辺りはまだ雨水が流れるルートにあるようです。
この辺りで行き止まりですね。雨水はここまではやって来てないようです。また嬉しい発見ですが、下に行こうとすれば行ける!というルートが見えますね。私達が何度も入っている「摩文仁最大級の壕」にもしかしたら繋がっている可能性があります。上から見ると実際そのように見えるのです。来年以降連結されているかどうか確認したいと思います。
入った壕口ではなく別の壕口から出ようとしています。
違う壕に入ると福岡さんが居ました。遺品があるか探していました。ご覧のように、地面が岩場ではなく土砂なので横になった場合居心地よさそうですね。
地表に近いし、直撃弾を浴びる事もないし、ここは良い壕ですね。
再び外に出ました。
壕と言うより、岩の穴みたいな所にやって参りました。
面白い鍾乳石ですね。今は水源はほぼ枯れていますね。
これもユニークな形をした鍾乳石ですね。鍾乳石は下に伸びる場合と、上に伸びる場合とがあるのですね。このでべそは100年ぐらいの歳月を要したのでしょうか?
この写真の写されている青テープは、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で収骨作業を終えたという印です。金光教の沖縄遺骨収集の全記録が収められた「金光教沖縄遺骨収集記録 命どう宝」によれば、この辺りにはトータルで7回調査・遺骨収集奉仕活動が行われ、最初に入ったのが昭和52年の第一回目の時で、一番最後に入ったのは、平成14年の第26回の時でしたから、この青テープは少なくとも17年前から42年前のいずれかの作業時に巻かれたという事になります。
福岡さんが指さしている部分が一番層が厚くて、30mmぐらいあり、17年から42年間でそれだけ太くなったという事ですね。
壕から出て、再び地表面を探しています。
陸軍のヘルメットがありました。清掃作業では、全ての戦争遺品は収容されたと聞いていますので、見落とされたヘルメットでしょうね。
時間が迫って参りました。あと少しで今年の調査・遺骨収集奉仕活動も終わりです。来年の事もあるので、小高い所に登って、廻りを見渡してみようという話になり、高台の木に登る事にしました。(^o^)
可能な限り高い所に登ります。
高台から東の海岸線を見ています。
背後の平和祈念公園側を見ています。
アダンの木に登りました。アダンの木は粘りがあるので、ポキッと折れるような事はないのでその点は安心です。子供の頃に帰ったように、嬉々として木に登りました。グッと見晴らしが良くなりましたね。摩文仁の西側方面を見ています。お馴染みの風景が展開しています。摩文仁に二カ所ある砂浜の内の一つなのですが、黄色に色をした部分が見えますね。砂浜です。距離感が実感出来ると思います。風景をただ見て終わりにするのではなく、距離○○mと必ずイメージします。後年その予測が、正しかったり間違っていたり感ずる時が来る場合が多々あります。そうした体験を重ねでいくと、頭の中の距離感と実距離とが接近するようになります。
少しアップしてみました。良く見ると段々畑みたいになっています。巨岩がある証拠ですが、人が通れるルートがあるのかないのかを推測していきます。
ほぼ真下を見ています。こうして見ると、すぐに海岸に到達出来そうに感じますよね。海岸が目の前にあるようにみえます。ところがどっこい。ジャングルに入ると長い長い道程になるのです。
今度は少し東側を見ています。これ以上東側は山の陰で海岸線は見えない状況です。アダンが写っていますね。この同じアダンの木に登っています。
帰路につきました。
福岡さんがお金を磨いてみるという事で、持ち帰ったお金と万年筆のペン先です。