平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月17日(木)豊澤さんと摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(金)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月19日(土)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月20日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月21日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月22日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月25日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月26日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月27日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月18日(金) 慰霊巡拝
今日の天気予報は晴れ時々曇りという絶好の調査・遺骨収集日和です。昨日が終日雨だっただけに、晴れている事の有り難さや嬉しさが湧き上がります。今日も全力で取り組みますよ。と言いつつ今日は非公開作業です。恐縮ですが作業前と作業後の慰霊巡拝を掲載させて頂きました。
まず朝一番で「波上宮」、「殉職警察職員慰霊之碑」を参拝し、非公開の調査・遺骨収集奉仕活動後に、浦添大公園内にある慰霊塔などを訪れました。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「波上宮」
那覇市若狭の旭ヶ丘公園内にある波上宮に到着しました。この鳥居は二つ目で、最初の鳥居は50メートルほど坂道を下った場所にあります。車で来られた方は駐車場との位置関係で、徒歩ではこの鳥居を最初にくぐることになると思います。私は波上宮参拝は二度目なので、駐車台数は多くないのですが(多分20台ぐらい駐車可能)、駐車場の存在は知っていたのでその点は気が楽でした。
二の鳥居一礼してから参道を進むと沖縄独特の赤瓦建築様式が印象的な社が見えてきました。午前9時を過ぎた頃撮影したので、境内には誰も居ませんでした。波上宮の背後にある波の上ビーチという海岸から見ると良く解るのですが、波上宮の奥津城は大きな岩の上に鎮座するという、極めて神秘的な雰囲気を醸し出しているのが印象的です。ちなみに波上宮は「なんみんさん」の名で親しまれ、お正月や節分、5月17日の例大祭などは終日多くの参拝者で賑わうそうですね。また向かいの波之上臨港道路まで登ると、今度は海側から絶景の波上宮を眺めることができますので、時間に余裕のある方は回ってみてください。
ここ波上宮の正式名称は、「旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮」と呼ぶようです。「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。その後この聖地に…」と書かれていることから、創建はかなり古そうですね。
波上宮は、琉球八社の筆頭だそうです。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮を指すそうです。まだ波上宮しか参拝していませんが、機会を見て全神社に参拝したいですね。
波上宮本殿の左側に二つの小さな社があります。「世持神社(旧郷社)仮宮」「浮島神社(旧県社)仮宮」と書かれています。左側の世持神社とは昭和12年(1937年)に創建され、社名の「世持」は「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」を意味する沖縄古語であるとの事です。奥武山公園にあった世持神社は沖縄戦で社は燃えましたが、戦火を逃れたご神体は戦後沖縄総鎮守の波上宮に預けられました。戦後那覇市は奥武山公園内に社を再建することを決めており、社殿は奥武山、神体は波上宮にあるという状態になっているようです。
一方右側が浮島神社で立札の由緒書きには、「宝徳3年、尚金福王時代、国相懐機が長虹堤の築堤に当り二夜三昼祈願し、神助により完成。天照大神に奉じて長寿宮奉称、朝野の尊崇をあつむ」と記されています。それでは浮島神社の本宮は何処にあるのか! ネットで調べてもよく解りません。(^_^; 戦前長寿宮であった社名を浮島神社に改めましたが、戦後に長寿宮の祭神・天照大神を祀ることになりましたが、浮島神社は借地問題で立ち退きを迫られ、波上宮へ移転する羽目になりまして、仮宮のまま現在に至っているようです。因みに大昔の那覇は浮島であったようです。首里とは「長虹堤」という海中道路で結ばれていたようなのです。那覇が浮島だったというのは驚きですよね。「長虹堤」で検索してみてください。いろんな画像が出てきますよ。(^o^)
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
昭和天皇の最後の願いは、全国巡幸で唯一残された沖縄訪問でした。昭和62年は秋に沖縄で国体が開催される年でしたから、国体1巡目の最後となる沖縄国体出席でその機会をようやく得たのです。昭和天皇の初の沖縄訪問実現に向け宮内庁では水面下での準備が着々と進められていました。昭和天皇もまた4月の誕生日の会見で、「念願の沖縄訪問が実現することになったならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」と訪問への希望を述べられていました。しかしながら9月に入り昭和天皇は体調を崩してしまい、沖縄訪問一ヶ月前に腸の手術をする流れとなり、昭和天皇の沖縄初訪問はついに実現しませんでした。冒頭の詩は、昭和天皇の沖縄訪問中止を発表した際の心情を詠まれたものです。
【慰霊碑碑文】
※この碑文はご名代として訪問された皇太子ご夫妻が、天皇のお言葉として代読されたものです。
昭和天皇のお言葉
さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき深い悲しみと痛みを覚えます。
ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の苦労を心からねぎらいたいと思います。
終戦以来すでに四十二年の歳月を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。
健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います。
皆には、どうか今後とも相協力して、平和で幸せな社会をつくり上げるため、更に協力してくれることを切に希望します。昭和六十二年十月二十四日
昭和62年の訪沖を断念して以降も、昭和天皇の側近たちは陛下の悲願をかなえたいと思っていました。昭和天皇が「健康が回復したら、できるだけ早い機会に沖縄を訪問したい」と何度も口にされていたからです。陛下のご負担を軽くするために、那覇から摩文仁までヘリで往復し日帰り日程なども検討されました。昭和62年と言えば昭和天皇が崩御される一年半前の出来事です。こうした経緯を経てあれほど念願されていた昭和天皇による沖縄訪問はついに実現しませんでした。
しかしながら、日本の元号も令和となりまして、202年ぶりに生前退位された上皇陛下は、昭和天皇に負けないぐらいに沖縄に強い思いを寄せられていました。その思いは訪問回数にも表れており、皇太子時代も含めて合計11回沖縄を訪問されているのです。そして「日本人として忘れてはならない4つの日」として、終戦記念日、広島・長崎への原爆投下の日と共に、沖縄戦終結の日(6月23日) を挙げておられ、お子様達にその旨を語り伝えておられるのはよく知られている話でもあります。日本国民たる私達も、上皇陛下のそうした志やまなざしをいつの時も硫黄島と並び激戦が展開された沖縄に向けたいものです。
明治天皇の銅像です。下には碑文があり、明治天皇銅像建立の由来が書かれています。
波上宮界隈は、その昔首里や那覇の人達の、そぞろ歩きにお勧めの、のどかさや夕涼みを満喫するのに絶好の場所として有名だったそうです。地図を開いてみますと、波上宮前を走る県道47号線の向かいの地は辻という地名で、現在は風俗街として知られていますが、1526年尚真王時代から大東亜戦争沖縄戦による空襲で焼失するまで、遊郭として栄えた場所でもあるようです。遊郭というのは語らずともご承知の通りで、東京には江戸時代から戦後の昭和32年まで、吉原遊廓というのがあったそうですね。
ここで一冊の本をご紹介したいと思います。沖縄戦に関する本は年間数冊程度購入し続けています。多い年は十数冊購入する事もありまして、そのいずれもがネット検索で探し、これはという本を購入して、沖縄戦をそして沖縄そのものを学び続けてきました。ある時ネット検索していると沖縄戦に参戦した将兵の戦記本に交じって、沖縄出身の一人の女性の生き様を描いた「新編 辻の華」(上原栄子著)という本が目にとまりました。
著者である旧姓上原栄子さんは、上掲の波上宮に隣接する辻遊郭で遊女として働いていた方で、数え年4歳の時に辻遊郭に売られて来て大人になるまでそこで育ちました。そして十・十空襲や沖縄戦により辻遊郭は灰燼に帰してしまい、三千人居たとされる遊女は四散の憂き目に遭う事態となってしまいました。そうした激動の戦前戦後史に翻弄されたながらも、4歳の時に辻遊郭に売られから、辻遊郭の復興を願い戦後の混乱した社会を力強く生き抜いた彼女自身の、波瀾万丈の一代記だと言えるでしょう。
遊郭と聞けば、とかく搾取とか場末の悲惨さとかがつきまといますし、男が支配する世界というイメージがありますが、辻遊郭は大きく違っていました。驚く事に遊郭の運営に携わる男性はかつて一人もおらず、実に400年余年もの長い間、女性の力のみで築かれた世にも珍しい花園だったのです。また義理・人情・報恩が辻の三原則であり、暮らしの信条にしていたと言います。信じられない程の純な心と報恩、そして遊女に似合わぬ人間としての誇りを持って生きている事に心が打たれました。特に痛く胸に響いたのは、子供が親に売られるのが当然のような時代にあって、我が子を売って当座の生活をしのぐより術がなかったであろう父母に対して、孝養を尽くす事を持って報恩したと言うのです。「ウヤフワーフジ」(親先祖)に孝行を尽くすという生活習慣が沖縄では根付いていたにしてもです。
物が溢れ金さえあれば何でも手に入るという豊かな社会に生きる私達は、心もそれに比例するように豊かになったと言えるでしょうか。現代は自分の子供を売るなど考えられませんが、かつて貧しさが普通であった時代の人々の生き様や考え方、そうした社会で身を寄せて暮らす人々の揺るぎない絆を垣間見るのも無駄ではありません。沖縄の過去史として捉えるのではなく、貧しくとも誇りを持って生きるとはどういう事かという視点に於いて、恵まれてはいるけれど「誇りを持って生きる」という言葉が死語になっているところの、今を生きる私達こそ読んでみたい一冊です。(^o^)
《書籍ご紹介》
「新編 辻の華」
上原栄子著 時事通信社 平成22年(2010年)初版
この本を読み始めた時、力強い筆致に圧倒されグイグイと引き込まれました。これは遊郭という普通の社会では垣間見る事のない、裏社会の実体験が赤裸々に綴られているという面もありますが、社会からの差別という目線に耐え、花街に内包される社会秩序は、抱親様(アンマー)を筆頭とする、実に秩序立った女性だけの社会で、義理・人情・報恩を暮らしの信条とし、実に人間味溢れる穏やかな雰囲気の中で、お互いを信頼し尊重しあう生活を営んでいたという事柄が新鮮でもあり驚きの連続でした。花街で生きる事に誇りを持っている遊女らを描写しつつ、辻を、そして沖縄をこよなく愛した琉球女性の生き様を活写した上原栄子さんの一代記となっています。
旭ヶ丘公園から、砂浜が少し見えていますが波の上ビーチ方面にカメラを向けると、波之上臨海道路先に豪華客船が停泊しているのが見えました。
アップしてみましょう。結構大きな豪華客船ですね。沖縄では大型クルーズ船が数多く停泊できるように港湾整備を進めているとの事で、豪華客船の寄港は益々増えていくでしょうね。そういえばクイーン・エリザベス(3代目)も二三年前ぐらいに寄港したとニュースがありましたね。そうそう那覇空港は新滑走路を造成中ですよね。どれくらい増便されるのかまだ知りませんが、沖縄への観光客が激増するのは間違いないと思われます。
「殉職警察職員慰霊之碑」
「殉職警察職員慰霊之碑」が見えてきましたね。
昭和29年(1954年)11月に建立された「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦開戦前の十・十空襲や沖縄戦戦没者を含み、且つ現在までの警察職員殉職者の慰霊顕彰碑です。
「島守之塔」のところで述べましたが、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長は、沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下での沖縄県民の疎開政策と食糧不足対策に尽力しました。二人が推し進めた疎開政策により、沖縄戦を生き延びた沖縄県民は二十万人にも達し、沖縄戦犠牲者が日米双方で約二十万人であることを考えると、もっと高く評価されても良いと思えます。
荒井沖縄県警察部長は、轟の壕に滞在中だった頃から、胃腸障害と消化器伝染病であるアメーバ赤痢になっていたとの事で、摩文仁へは病を押しての移動となり、心身共に厳しい状況にあったと言えるでしょう。無事に摩文仁に到着した荒井沖縄県警察部長は、1945年6月26日、島田沖縄県知事と一緒に摩文仁の軍医部の壕を出たのを最後に消息不明となったままです。島田沖縄県知事と同様に御遺骨も発見されていません。その意味でも荒井沖縄県警察部長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」
田村洋三著 中央公論新社 平成18年(2006年)初版
著者である田村洋三氏は、沖縄戦について数冊出版されており、その全てを購入済みです。氏の著作は綿密な現地調査による徹底した情報収集にあります。元読売新聞記者にして、”生涯一記者” を自認する著者だけあって、現地調査に重点を置き、足で記事を書いていると言えるでしょう。氏の執筆の課程では、必ずと言って良いほど取材対象の核心を知る人物に出会いますし、大いなる協力を得るに至るのは、他ならぬ氏の熱情が至らしめる必然であるとも言えるでしょう。
著者自身がこの本は共著であると言うほど、知念堅亀氏との出会いは大きかったようです。知念氏は自ら沖縄戦で九死に一生を得た方で、沖縄戦の民間研究者ですから、同氏との出会いにより、県庁行政が担われた14の壕の全てを明らかにする事となったのです。著者が語るように、「県民の安全を願いながら、県民に戦争への協力を求めなければならない、二律背反に苦しみつつ、自らの使命に徹して職に殉じた県首脳や職員の姿を明らかにしたかった」と語る程に、沖縄戦に於けるこれら県首脳や職員の動向が詳細に綴られています。
平和祈念公園内に、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」があります。 同著は沖縄戦に於ける、島田叡沖縄県知事と荒井退造沖縄県警察部長の二人をメインとして、随伴する県職員の方々の軌跡を明らかにしています。まず島田沖縄県知事は沖縄戦の僅か二ヶ月前に赴任、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、なり手のない沖縄県知事を受諾。在任五ヶ月たらずの間に、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなど、全力で県民行政に取り組みましたが、43歳で摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。
そしてもう一人である荒井沖縄県警察部長は、島田氏よりも一年七ヶ月前に栃木県から赴任、県民の県外疎開など県民保護のレールを敷き、その上で島田沖縄県知事と共に、沖縄守備軍との調整、折衝を含め全力で県政に取り組まれました。荒井沖縄県警察部長もまた同じように、44歳の若さで摩文仁之丘近辺で消息を絶ちました。荒井沖縄県警察部長についての著作は、この本以外には見当たりません。ぜひご一読を推奨いたします。
【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】
「産経新聞」平成27年6月11日
郷土史研究家が功績伝える
終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。
◇
講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。
■7万3000人を県外疎開
荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。
「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。
4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。
日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。
戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。
■顕彰へ機運高まる
塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。
「産経新聞」から転載させて頂きました
殉職された警察官の氏名が列記されています。沖縄戦前のいわゆる十・十空襲や沖縄戦で殉職された警察官を含む、明治12年(1879年)に県警が創設されて以来今日まで、犯罪捜査や暴力団抗争などに巻き込まれるなどして亡くなられた殉職警察官140名が祀られているとの事です。現在でも記名が続けられていますから、今後も殉職警察官総人数は増えていく事でしょう。ちなみに殉職警察職員慰霊祭は現在でも継続されており、毎年10月頃執り行われているようですね。
「當局の依属を體し謹みて潤色す」という詩が刻まれていますね。
1954年11月吉日に建立されたと記されています。
浦添大公園慰霊巡拝
午後3時過ぎに非公開による調査・遺骨収集奉仕活動が終了しましたので、豊澤さんと二人で浦添大公園に慰霊巡拝して来ました。浦添大公園は沖縄戦当時前田高地と呼ばれ、米軍と激戦が展開された地でもあります。平成28年(2016年)にはアメリカ合衆国の伝記映画である『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督)が公開されましたが、戦争シーンの舞台はここ前田高地なんですね。ハクソーとはのこぎりで、リッジとは崖の意味です。前田高地の崖上の稜線がのこぎりの刃のようになっていたという事でしょうね。
映画ハクソー・リッジが公開されてから、浦添大公園には外国人観光客も増えたという話です。ですから戦争史跡と共に、そうした映画の舞台となった場所も見学出来たら良いなと考えています。高台では嘉数高地なども遠望出来ますから、首里攻防戦の一部ですが俯瞰できると良いですね。それではご一緒に浦添大公園の慰霊塔を含む戦争史跡、そして映画ハクソー・リッジの舞台を訪ねてみましょう。(^o^)
浦添大公園/浦添城跡
浦添城跡の案内板です。私達は浦添ようどれは勿論、最奥部にあるワカリジー(為朝岩)をも見学する予定です。それではご一緒に浦添城跡を見学して参りましょう。(^o^)
浦添大公園にやって参りました。駐車場に車を入れて、東屋風の展望所から撮影しました。少し解りにくいですが、宜野湾市にある米軍普天間飛行場を写真中央に捉えています。レンズを少し望遠側に回していますから、目で見た感覚より少し狭い視野角だと思います。写真中央から少し左側を見ると、小高い丘が緑豊かな公園のようになっていますが、そこが嘉数高地です。撮影地点から嘉数高地までの距離は、およそ1.5km程です。宜野湾市の南端に位置する嘉数高地は、標高92mの東嘉数高地と、標高70mの西嘉数高地の頂を二つ持ち、北西から南東に走る約1kmの稜線があります。浦添大公園内の前田高地と呼ばれる地点は標高148mですから嘉数高地を見下ろすという風景となっています。遠望する嘉数高地は、日米の正規軍が最初に本格的に激突したと言える場所で、強大な米軍に対し日本軍将兵の士気は高く、受動的な心理状態に陥りやすい防御戦闘で、終始主導的に戦った戦場と言えるでしょう。
レンズを少し望遠側に回して嘉数高地と米軍が陸軍、海兵隊四個師団を上陸させた海岸線を写しています。沖縄第三十二軍司令部の八原高級参謀は「桜の咲く頃にこの海岸線に上陸する」と予測した通りの上陸作戦でした。ご覧のように極めて緩い等高線となっているのが見て取れますね。海岸線は幅の狭いリーフや砂浜が連なり上陸舟艇が接岸しやすいのは勿論、そうした良好な接岸好適地が何キロも続き、一気呵成の大兵団による上陸に適した場所であるのが一目瞭然です。米軍は陽動作戦として南部湊川に上陸するそぶりを見せましたが、湊川と比較にならないぐらい広大な上陸適地が連なっているのが良く解る写真でもありますね。
米軍の沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と呼び、54万人の将兵と1500隻の艦船を動員する、ノルマンディ上陸作戦をも上回る大規模な作戦となりました。米第10軍は4月1日、陸軍の第24軍団と海兵隊の第3水陸両用軍団など合計四個師団により、読谷村から北谷町にかけての13kmに及ぶ海岸線に、午前8時半頃には接岸し上陸を開始しました。上陸前準備砲撃では、10万発以上の艦砲弾やロケット弾を上陸地点に打ち込んだと言われています。
【グーグルマップから転載させて頂きました】
図上の文字がギリギリ読めますかね。写真中央部に浦添大公園、そしてその少し右側に嘉数高台公園が位置しています。写真右上側の黒っぽく見える部分は普天間飛行場です。前田高地・嘉数高地共に北側斜面は崖になっている事に注目して頂きたく掲載しました。両公園は緑豊かな樹林帯となっていますが、特に細く長い樹林帯は、恐らく宅地開発等に不向きな崖とか急斜面の土地とみて間違いないでしょう。その細長い樹林帯を追うと西側は仲間、伊祖公園そして牧港方面に連なり、一方東は幸地、西原、我謝そして中城湾方面に連なっています。
沖縄守備軍は両高地帯の連続した崖上から、進軍してくる米軍を視界に捉えつつ迎え撃つという意味で極めて有利な立場にあり、当然ながら沖縄守備軍は、東西に延びる崖に沿って布陣したという訳です。また前田高地から3.7km先にある首里高地の守備軍司令部を見通すことが出来る事から、前田・仲間高地両高地の確保こそが沖縄決戦の天王山となるはずです。
航空写真には現在も残る細長い樹林帯(開発困難な崖及び急斜面)が二本見事に描かれていますね。第一次防衛線として、牧港、嘉数高地、西原、棚原、小那覇。そして第二次防衛戦として、城間、伊祖、仲間・前田、幸地、小波津、我謝です。第二次防衛ラインは東西約8kmもあり、沖縄守備軍の限られた部隊が散開し守備についていましたが、兵力は日々消耗していきました。一方米軍は5月に入ると北部掃討を終えた海兵軍団も第二次防衛線へ投入され、兵力は五個師団、八万五千人の兵力に膨れ上がり攻め進む体勢を整えたのです。
因みに崖が東西に延び連なっている地形は島尻方面にもありますね。八重瀬嶽から与座に掛けての崖が特に特徴的です。与座の東西に連なる断層崖、また「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じ事が言えます。こうした崖部分に沿うように古城が作られました。例えば高摩文仁グスクから西側を見ても、ガーラグスク、米須グスク、石原グスク、波平グスクなどが規則正しく並んでいます。
なぜこのような地形になるのかと言うと、この地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、南側は緩やかな傾斜面、北側は断層崖という地形となります。結果として古城の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。
沖縄の古城は大概高台にあります。また古城のある所には、付近に必ず湧き水や川が流れています。かつて浦添グスクのあった前田高地にも、南側の緩やかな傾斜面に「山川ガー」という湧水地がありました。浦添城跡案内板に掲示されていますので、位置はその案内板をご覧下さい。このように沖縄守備軍が構築した陣地壕も将兵への新鮮な水の補給を意識して配置された事は間違いありません。元来水不足で水道も無かった当時の沖縄で、こうした飲料水の確保という視点から、古城のあった場所、或いは古城の近くに守備軍陣地を構築するのは必然であったとも言えるでしょう。
展望台を降りて直近の遊歩道から、新都心のおもろまちや首里城方面を撮影しました。右端にツインタワーとして知られるマンションのリュークスタワー東西棟が見えます。その位置がおもろまちという新都心がある場所です。ツインタワーの直ぐ左横には、沖縄決戦のクライマックスと言える程の激戦が展開された安里52高地、米軍はシュガーローフヒルと呼ぶ場所があります。そして写真左側奥には首里城も写されています。注目すべきは、ここから首里高地にある守備軍司令部まで、もう遮る物は無く目視で見通す事が可能となってしまう点にあります。距離的には撮影地点から、シュガーローフヒルのあるおもろまちまで約4.5km、守備軍司令部のある首里城まで約3.7kmといった距離です。こうした事から、繰り返しますが前田・仲間高地両高地を含む第二次防衛ライン維持・確保こそが沖縄決戦の天王山となる‥。のがご理解頂けると思います。
「浦添ようどれ(旧王墓)」
「琉球王国中山王稜 浦添ようどれ」と書かれた案内板がありました。図を見るだけで全体像がイメージ出来ますね。それではご一緒に浦添ようどれを見学してみましょう。(^o^)
ここが「浦添ようどれ」の入り口という事になるのでしょうか。6時には門が閉まってしまうそうですよ。お気をつけ下さい。石の階段があり崖下に降りていく雰囲気です。雨の日は要注意の場所かもしれません。
石の階段を降りきると、ご覧のように今度は少し登ることになります。更に進んでみましょう。
浦添大公園に来たら、まず何よりもこの「浦添ようどれ(旧王墓)」を訪れるのが一般的だと思います。「ようどれ」という言葉からは何も連想出来ませんが、琉球語で「夕凪」の意味だそうで「ユードゥリ」と発音するそうです。また死者の世界・墓というような意味もあるとの事ですよ。(^o^)
解説版がありまして、この写真中央部の辺りが、沖縄戦で破壊されてしまいましたが、元々「暗しん御門」という名のトンネルになっていた場所のようです。トンネルがかつてあったというイメージで通行してみましょう。
これがかつて存在した「暗しん御門」の様子を写し止めた写真です。文面は読めますね。地下通路を通って「あの世」に行く雰囲気だった‥。ぜひ体験してみたいので、再現して頂きたいですね。(^_^;
「尚裕氏の浦添ようどれ復元への功績を称える」と書かれた碑文がありました。尚家第二十二代当主尚裕氏がこの墓稜を無償贈与する事により、復元整備が大きく前進した‥。という事柄が書かれていますね。
「二番庭」という広場から撮影しています。墓室のある一番庭へ入っていく石門が写されています。この石門をくぐった先に一番広い「一番庭」及び墓室があるという事のようです。それでは入ってみましょう。
城壁を兼ねたような門なので幅もありますね。「一番庭」が見えてきましたし、崖の岩肌になにやら構築物も見えます。
「一番庭」に入りました。豊澤さんが前を歩いています。「浦添ようどれ」は平成17年(2005年)に、沖縄戦による破壊から復元されて一般公開されるに至りました。今から14年前に公開されたという事で、構築物を見ても比較的新しい雰囲気が残っていますね。「浦添ようどれ」は13世紀頃に作られた英祖王の墓と言われています。王稜は二つあり、「東室」(尚寧(しょうねい)王陵)と「西室」(英祖(えいぞ)王陵)とに別れています。墓稜は琉球王国の初期に英祖王が築き、のちに琉球王朝第二尚氏王統尚寧が改修したとされ、自らもここに葬られました。因みに英祖王の時代、つまり今から約700年ぐらい前は、首里ではなく浦添が王都だったのですね。当時の浦添は、浦々を襲う(支配する)土地という意味で「うらおそい」と呼ばれていたようですよ。
「浦添ようどれ」の解説版です。読めますね。お墓の内部の様子も図で描かれていますので解りやすいです。因みにここから200余メートルぐらい離れた場所に「浦添グスク・ようどれ館」という資料館があり、そこでは古写真や発掘調査成果のパネル展示や、出土遺物などを見ることが出来ます。また実物大で再現されたようどれの西室(英祖王陵)はお勧めの展示です。石厨子(骨甕)などを始め、墓の内部を実物大の模造構築物として展示しています。このようにお墓の内部について、詳しく知りたい方はぜひそちらも訪ねてみてくださいませ。(^o^)
「一番庭」に入って最初にある西室正面から撮影しています。英祖王陵です。
こちらが東室の尚寧王陵です。尚寧王とその一族の方々が眠っているという事のようですね。
浦添ようどれの最奥部から振り返って撮影しました。豊澤さんと私はしばし見学をして帰路に就きました。
見学を終え、「浦添ようどれ」の下にある公園広場から、先ほど見学した「浦添ようどれ」のある場所を俯瞰しています。崖の部分を城壁のように囲って作られている墓稜であるのが良く解りますね。
「浦添大公園」
浦添ようどれの見学を終え、浦添大公園に入って参りました。壕口に掲示されている案内板です。今も多くの壕が残存しているようです。
カメラを仕切り網の中に入れて、壕口を撮影してみました。壕口は嘉数高台公園方面に向いています。つまり米軍が攻めてくる方向に向いている事になります。
愛知県の県慰霊塔は、元々はこの地に設立されたのですね。現在は摩文仁に建立されており、私達も慰霊で訪ねた事があります。
慰霊塔は移設され、基礎だけが残るという状況ですね。
「ディークガマ/浦和の塔」
ディークガマです。中に入ってみましょう。
ディークガマの案内板です。読めますね。ガマの中に納骨堂が設けられているようです。
同じく浦和の塔の案内板です。問題なく読めますね。
壕口がありました。折り鶴なども沢山献納されているのが見えます。金網で入り口が塞がれており、ここから中には入れないようです。昔は入れましたけどね。残念です。
壕口横に設けられている浦和の塔の案内板です。問題なく読めますね。
金網越しに壕内部を撮影しました。まず拝所があり、右に折れて浦和の塔及び五千柱余りが収容された納骨堂があるようですね。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
お城で言えば天守閣が建っていた場所になるのでしょうか。浦添大公園の一番見晴らしの良い広場にでました。前掲の普天間飛行場や嘉数高地を写した写真よりも、若干標高が高くなったアングルからの撮影だと見た目にも解ります。少しズームして同方向を撮影してみましたので、距離感はすごく近くに感じますね。あくまで撮影地点から嘉数高地までは、およそ1.5km程の距離になります。
映画「ハクソー・リッジ」、日本語では弓鋸崖とでも呼ぶのでしょうか、米国で2016年に公開された沖縄戦での米衛生兵(Combat Medic)として従軍したデズモンド・T・ドスの実体験を描いた戦争映画です。ハクソー・リッジ、正に今私達が立っているこの場所が映画の主要舞台だったのです。映画では高さ15m以上あるように見える垂直崖を米兵が登るシーンがありますが、多分この案内板辺りの垂直崖がその舞台になっていると思われます。映画はオスカー2部門を受賞するなど、興行収入も良くて米国民に広く鑑賞されたようですね。そうした事もあり、沖縄に駐留する米兵や軍属そして本国からの観光客などでしょうか、映画公開から3年程経過していますが、私達が居た時間帯でも白人の方々を大勢見かけました。
日本では平成29年(2017年)に公開された映画「ハクソー・リッジ(原題:HACKSAW RIDGE)」について、私はこの映画の存在を知りませんでした。戦争映画は結構見ているのにも関わらずです。ただ私の知るところとならなかったのは、主舞台が沖縄の前田高地であるのに、そうした表記が一切無かった事によると思いますし、米国は第二次世界大戦以降も、年中行事のように熱戦争をやらかしていますので、そうした戦後のどこかの戦争を題材にした映画であると早とちりしたのだと思います。ところがですね。さすがと言うべきか豊澤さんは既に見ていると言うのです。一本取られました。という事で沖縄から帰ってきてから、豊澤さんからDVDをお借りして、遅まきながら鑑賞致しました。(^o^)
映画「ハクソー・リッジ」公式ポスター
「映画.com」https://eiga.com/movie/85972/ には、同映画について次のような解説文がありました。
解説
メル・ギブソンが「アポカリプト」以来10年ぶりにメガホンをとり、第2次世界大戦の沖縄戦で75人の命を救った米軍衛生兵デズモンド・ドスの実話を映画化した戦争ドラマ。人を殺してはならないという宗教的信念を持つデズモンドは、軍隊でもその意志を貫こうとして上官や同僚たちから疎まれ、ついには軍法会議にかけられることに。妻や父に助けられ、武器を持たずに戦場へ行くことを許可された彼は、激戦地・沖縄の断崖絶壁(ハクソー・リッジ)での戦闘に衛生兵として参加。敵兵たちの捨て身の攻撃に味方は一時撤退を余儀なくされるが、負傷した仲間たちが取り残されるのを見たデズモンドは、たったひとりで戦場に留まり、敵味方の分け隔てなく治療を施していく。「沈黙 サイレンス」「アメイジング・スパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールドが主演を務め、「アバター」のサム・ワーシントン、「X-ミッション」のルーク・ブレイシーらが共演。第89回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など6部門でノミネートされ、編集賞と録音賞の2部門を受賞した。
2016年製作/139分/PG12/アメリカ・オーストラリア合作
原題:Hacksaw Ridge
配給:キノフィルムズ
監督:メル・ギブソン
「映画.com」内の「ハクソー・リッジ」解説文を転載させて頂きました
動画ご紹介
映画「ハクソー・リッジ」公式サイト|6.24 Sat. ROADSHOW
平成29年(2017年)に公開された映画「ハクソー・リッジ」の舞台は、浦添大公園にある沖縄戦当時守備軍が「前田高地」と呼んだ場所である事はご存じの通りです。この映画が公開されてからは、浦添大公園にある映画「ハクソー・リッジ」の舞台を訪れる外国人観光客が増えたと言います。そうした経緯もあって、浦添市が「『ハクソー・リッジ』作品の舞台をご案内します」というタイトルで、同市のWebサイト内に前田高地の様子や当時の文献、そして歴史を紹介するコーナーを開設していますのでご案内致します。
このWebサイトは先進的なドローンによる空撮写真を用いていますから、視覚的にとても把握しやすい形で表現されています。そうした事もあり、全体的に前田高地の視覚的な理解が進み見応えのあるサイトに仕上がっています。前田高地を訪れる前に見ておくと、現地の弓鋸崖の印象もより深まるでしょう。(^o^)
同じ稜線から、いわゆる為朝岩に行こうとしましたが、現在侵入禁止となっていますね。昔は稜線の尾根道が出来ていて進めたのですが、ハブ対策として侵入禁止にしたのだと思いますから、やむを得ませんね。違うルートを通って為朝岩を見学する事にしました。
稜線から崖下に降りようとしています。崖に階段を設けたという事で、結構急な階段で私達は今、ハクソー・リッジの映画シーンのあの崖を降りているのです。(^_^;
崖下は広場になっていますね。また慰霊塔もあります。
「前田高地平和之碑」
「前田高地平和之碑」です。第24師団歩兵第32聯隊(山3475部隊)第2大隊戦友会が、昭和54年(1979年)に建立し、同隊将兵九百名が祀られています。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
読めますがテキストに起こしてみました。
【慰霊碑碑文】
この前田高地は、去る沖縄戦で、日米両軍がその争奪に死闘を繰りひろげ、多数の 貴い犠牲者を出した最大の激戦地である。
山三四七五部隊(歩兵第三二聯隊)第二大隊は、昭和20年4月29日この地に進出し、全員傷つき 斃れたが、なおこれを死守して、国軍の真価を遺憾なく発揮した。
関係各方面の絶大な御協力と第二大隊生存者の積年の悲願により、ここに碑を建立し、 地下に眠る戦友の英霊を慰め、変わらない友情の確かな証となし、恒久平和のゆるぎない 礎にしたいと念ずるものである。
山三四七五部隊第二大隊戦友会昭和五十四年三月一日
第24師団歩兵第32聯隊(山3475部隊)第2大隊の戦没者900名が刻まれています。大変な数の将兵がこの付近で亡くなられたのですね。
この看板も以前は無かったので、ハクソー・リッジ関連の掲示板として設置されたようです。読めますね。第32連隊第2大隊と書かれています。正確には第24師団歩兵第32聯隊(山3475部隊)第2大隊という事になります。山3475部隊は山形県が原隊です。前年の7月までは満州の楊崗(やんがん)に駐屯し、関東軍の精鋭として評価の高い部隊でした。その満州では第二十四師団満州803と呼ばれていました。所属師団の変更により、本聯隊の徴募区が山形県から北海道に変更されるなどした為に、同部隊将兵は北海道と山形県出身者が多かったようです。
この写真は、上掲右上の沖縄戦当時撮影されたと思われる前田高地の北側絶壁部を写しています。今はこうして樹木に覆われていますが、上掲写真の崖とほぼ同じ場所を写していると思われます。米軍による前田高地攻略時は、写真のように断崖に編みロープを張って歩兵が崖を登って攻め進みましたが、既に書きましたが映画に登場する15mあるように見える垂直崖は、この場所からもう少し西側にある展望台辺りだと思われます。
その米軍による登攀攻略前の準備砲撃は、一木一草も残っていないと思わせる程激烈な砲撃を加えた後だったので、日本兵による反撃は限られたものになると米軍側は見ていたようですが、ハクソー・リッジの映画シーンのように、米兵は待ち伏せされていたのです。映画では反撃する日本兵が多すぎるのでは‥。と思わせるシーンもありますが、それはさておき米軍側は日本兵による予想外の強い反撃で、作戦は中止され崖上から敗退せざるを得ませんでした。
写真でお解りのように、74年の歳月を経た今ではご覧のように、ここで戦争があったとは思えない程、崖は見事に樹林が生い茂り、急峻な崖がある事さえ感じないレベルになっています。元々岩盤といっても摩文仁の岩盤のようにガチガチの石灰岩ではなく、非常に脆い岩盤なので、雨水や植物の根の浸透もたやすいことから、植物の生育環境は良いと言う印象です。ただ肥料分が少ないせいか、成長の早い太い木でも20cm程度の太さでした。
【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:
撮影日:1945年 4月22日
写真解説:【原文】 Men of the 96th Division carry their comrade
killed during the fightng on Hack Saw Ridge, down the tortuous
slopes. In front of the litter, L. to R: Sgt. Elmo J. Delanni, 759
East 221st St., Bronx, N. Y. and Pfc. Edward Spangler, 300
Henderson Ave., Washington, Pa. In the rear of the litter are,
Pfc. Dickerson, Mountain Top, Ark., and Pfc. Don Mass, 744
West, South Pontiac, Illinois.
【和訳】
“ハック・ソー・リッジ“(浦添城跡付近)の戦闘で戦死した仲間を運ぶ第96歩兵師団の兵士。担架の前方左から、デラーニ軍曹、スパングラー上等兵。担架の後方はディッカーソン上等兵とマス上等兵。
《書籍ご紹介》
「私の沖縄戦記」 前田高地・六十年目の証言
外間守善著 (株)角川学芸出版 平成18年(2006年)初版
著者は「前田高地平和之碑」を建立した部隊、即ち前田高地で米軍と激烈な戦いを展開した第24師団歩兵第32聯隊(山3475部隊)第2大隊(志村大隊)に所属し、本部陣地間の伝令をするなど危険な任務につきながら生還した数少ない一人でした。沖縄県出身である著者は沖縄師範学校在学中に現地召集され、同部隊の重機関銃中隊指揮班に配属されました。待機部隊として島尻に駐屯していましたが、4月24日第一線で消耗の激しい第62師団を撤退させると同時に、第24師団を島尻地区から中部戦線である仲間、前田、幸地、翁長、小波津の線への出動命令が出たのです。
歩兵第32聯隊第2大隊(志村大隊)に所属する著者である外間二等兵も第二大隊本部要員として、60kgと言われる完全軍装を整え、東風平、津嘉山を経て、第一線の前田高地へ前進。前田高地に到着したその夜から米軍と奪い奪われる高地争奪戦を展開、手に汗握る激しい接近戦、肉弾戦が生々しく時系列に書き綴られています。また生きては帰れない魔の高地と呼ばれた為朝岩近くの台地「魔の高地」での激闘もまた詳細に綴られており、正に映画ハクソー・リッジの戦闘シーンさながらの戦いが展開されています。また沖縄戦の証言編として志村大隊長や第一大隊の伊藤大隊長の証言、またその他の将兵の手記もまた読み応えがあります。
《過去の写真ご紹介》
糸満市字真栄里にある「歩兵第三十二連隊終焉之地」と書かれた石碑です。歩兵第32聯隊は島尻に撤退以降も、国吉大地を中心に米軍と激突し、米軍側にも多大な出血を強いました。平成17年(2006年)建立ですから、比較的新しい石碑ですね。場所は、白梅之塔から歩いて2分程度です。道路を挟んで山形の塔がありますね。山形の塔に隣接するように建立した理由は、碑にも「霞城聯隊」と書かれているように、明治29年秋田に設置された連隊本部が、日露戦争後、秋田から山形城(雅名は霞城)へ転営し、徴募区が山形県になった事によると思われます。
石碑の裏側です。問題なく読めますね。歩兵第三十二聯隊は奮闘し終戦の日を超えて、8月28日に軍旗を捧焼し翌日鉾を収めたと記されています。
石碑の横面に書かれている文言です。軍旗を奉焼した場所が書き記されています。「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」と書かれていますね。地図上で確認してみますと、バクナー中将慰霊碑の少し北側には高地帯になっていて稜線が通っており、その崖下の低地で焼いたという可能性が高いですね。と言いますのも、そのバクナー中将慰霊碑の北側の高地帯は、真栄里集落の北側を貫いており、そこには数多くの構築陣地があり、第三十二聯隊や第二十二聯隊による最後の激闘が展開された場所でもあります。私も一度その中の一つの構築陣地に入ってみましたが、立派な壕で100人以上入っても余裕があるというような大きな陣地でした。こうした陣地が散在している地でもあります。
豊澤さんと二人で墓苑の中を通りながら、為朝岩方面に向かいました。この付近は墓苑建設の為に傾斜面が大きく削られた事から、沖縄戦当時とは大きく様相を異にするそうです。
墓苑の中から、普天間飛行場や嘉数高地を見ています。レンズが望遠側なので風景が実際より大きく写されています。崖下なのに嘉数高地がまだまだ低い位置にあるように見えますねから、稜線よりも一段低いこの位置からでも米軍の進軍状況がつぶさに見えたと思われます。
前田高地のほぼ外れまでやって参りました。為朝岩まであと少しです。眼前ある崖は、今は樹林に覆われていますが、沖縄戦当時はほぼ岩だらけの崖がずっと奥まで続いていたのでしょう。
「浦添八景 ワカリジー」と書かれています。
目の前にある大きな岩がワカリジーです。向かいのワカリジーに至る通路が立ち入り禁止になっていましたが、こちら側もまた同じように立ち入り禁止となっていました。
地元ではワカリジー(分かれ岩)とか、ハナレジー(離れ岩)呼ぶのですね。和名は為朝岩、米軍はニードル・ロックと呼ぶそうです。地面からの高さは13m程だそうです。戦前はもう少し高かったようですが、艦砲の砲撃などで削られてしまったといいます。ご覧のように実にユニークな尖った岩山で、頂上の標高は148mだそうです。
なぜ為朝岩と呼ばれるのか興味を持ちまして調べましたら、源為朝(みなもとのためとも)が沖縄に漂着したという伝説があり、実際にそうした伝承が沖縄各地に残っているそうです。本部半島には運天港という港がありますが、かつてロシア海軍との日本海大海戦で勝利を収めた東郷平八郎元帥が揮毫された「源為朝上陸の跡」(大正11年建立)と言う記念碑があるそうです。1156年保元の乱で敗れた源為朝やその一族は、伊豆大島に流刑されましたが、1165年潮流に乗ってこの沖縄の地である運天港に漂着したのだそうです。運を天に任せて航海し上陸した地という意味で、この港は後年運天港と命名されたという話です。因みに沖縄のおもろそうしにも、源為朝の運天港上陸の模様が書き伝えられているとの事です。
琉球建国の始祖舜天王とは源為朝の子尊敦であると羽地朝秀(向象賢)編纂の「中出世鑑」に書かれています。「舜天王尊敦と申奉るは、大日本天皇第五十六代清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤六條判官源為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子也」と。これらは日琉同祖論の歴史として政治性も帯びているでしょうが、神話というのは「炎のないところに煙は立たず」と同じで、必ず一定の事実が含まれている事は間違いないですから、興味を引く事柄なので、機会があったら調べてみたいです。宿題としておきましょう。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
前田高地を北東側の道路である宜野湾街道(現在の国道241号線)から撮影したものです。宜野湾街道は普天間から首里を結ぶ幹線道路で、ここ前田高地と幸地を挟む道路付近では熾烈な激闘が展開されました。ここから見ると前田高地は想像以上の高台にある事が解ります。また突起した岩が見えますが、ワカリジーです。(和名は為朝岩/米軍はニードル・ロック)です。生きては帰れないと言われた魔の高地は、写真から外れて少し左側がその場所になりますね。
ワカリジーの見学を終え、予定された場所は全て見終えましたので、駐車場に向け帰路につきました。浦添城跡の復元された城壁を見ながら歩きます。
この城壁は何故か工事が中断されたような印象がありますね。見学者が通る道から撮影している訳ですが、この城壁を延長するには道路部分をトンネルにしなければなりません。これからどうするのでしょうか? そうしたこれからの工事については工事屋さんにお任せするとして、中断しているように見える城壁は、ある意味石垣の断面を見られる貴重な機会と言えなくもないですね。そうです、石垣の構造が良く解る写真と言えるでしょう。因みにこの石垣がまだ出来たてのピッカピカの頃、11年前である平成20年(2008年)に撮影した写真がありますので次にご紹介します。
《過去の写真ご紹介》
これが今から11年前の平成20年(2008年)に撮影された同じ城壁です。撮影した方向が違いますが同じ場所を写し込んでいます。城壁の地際には残存していた城壁の一部である岩が黒っぽく疎らに写されています。当時撮影したその年の4月から公開が予定されていると聞きました。復元された城壁は、幅17mで最も高い所で4.9mあるそうですよ。作業していた工事屋さんに聞きましたら、浦添グスク城壁を完全に復元するには、あと30年近く掛かるのではないかと話していました。
城壁はここで終わっているので、ここで浦添城跡を出るという事になるのでしょうか。このまま下って駐車場に向かいます。壕で一日中作業した後で体は疲れ切っていますが、ご覧のように澄み切った海も見えたりと観光している気分となりまして、明日への鋭気を十分に養うことが出来ました。ありがとうございました。(^o^)