平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月17日(木)豊澤さんと摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(金)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月19日(土)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月20日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月21日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月22日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月25日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月26日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月27日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月22日(火) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日の天気予報は曇りです。雨の心配はなさそうで安堵しています。今年は雨の日が少なくて助かっています。今日も頑張ります。今朝の慰霊巡拝は、主に「ひめゆりの塔」、「赤心之塔」、そして「梯梧之塔」です。そして調査・遺骨収集奉仕活動の場所は摩文仁海岸線です。それでは朝一番、爽やかな天候の元、ご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「ひめゆりの塔」
慰霊巡拝をしようと、糸満市伊原にあるひめゆりの塔前に午前8時50分到着しました。写真は献花販売店の皆さんです。毎年早朝の8時半から9時に掛けて(沖縄でこの時刻は、早朝といっても間違いではありません)、この献花販売店で生花を買い求め、あちこちの慰霊塔巡りをしている事もあり、献花販売店の皆さんとは、すっかり顔見知りとなっています。「今年もよろしくお願いします」とご挨拶し、他の観光客は居なかった事もあり、一年ぶりの会話をしばし楽しみました。
日中は修学旅行生などで賑わうひめゆりの塔ですが、この時間はほとんど観光客を見かけません。ゆっくり心静かに参拝するにはもってこいの時間帯です。
ひめゆりの塔及び資料館などの施設案内です。
ひめゆり学徒隊の軌跡を記したものです。動員・撤退・解散という三タイトルに絞って解説しています。
「ひめゆりの塔の記」という碑文がありました。ひめゆり学徒隊の軌跡やひめゆりの塔設立の経緯が記されています。
【ひめゆりの塔の記】
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
いはまくら かたくも あらむ やすらかに
ねむれ とぞいのる まなびの ともは
ひめゆり学徒隊の軌跡が描かれた本は沢山出版されていますが、ここでは四冊をご紹介しています。ご紹介する五冊の初版日を見ますと、最初に出版された「プリンセス・リリイ」(ジョー・ノブコ・マーチン著)が昭和60年(1985年)で、最後の「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」(宮城喜久子著)は平成7年(1995年)に出版されました。沖縄戦が終了してから40年とか50年の時を経て、ようやく体験談が出版されるに至りました。
恐らく戦後長く沖縄戦の話さえ口にするのが憚れたという時代が続いたのでしょう。語る事は級友を傷つける事になるという配慮もあったかもしれません。いずれにしても、戦後40年とか50年経過してやっと語る事が出来た、記述する事が出来たというのが実情であろうと思います。そうした心の葛藤に思いを馳せる時、著者のお一人お一人について言える事と思いますが、三ヶ月に渡る沖縄戦が如何に深刻な体験であったかという事の証左でしょう。語る事、本を出版する事、それはまた心の中に沈潜した深い傷を思い起こす事に繋がったであろうと、読み進める中でその痛みが此方にも伝わってくるようでした。
あの忌まわしい沖縄戦の事は忘れよう、二度と思い出したくないと沈黙を守り続けた生存者が、語り始める事となる大きな契機がありました。昭和57年(1982年)に「ひめゆり祈念資料館」の建設を同窓会にて決議したという流れが、学徒隊の皆さんの背中を押したようです。この動きがなかったら未来永劫、学徒隊の出版は為されなかった‥。と思えてしまいます。
「ひめゆり祈念資料館」の建設の過程で沖縄戦体験を伝えるという伝承事業に意義を見いだしたと言います。しかしながら、それはまた亡き学友の死が掘り起こされ、新たな悲しみを誘うという繰り返しであったようです。今はそうした皆さんの願いが叶い「ひめゆり祈念資料館」により、戦争の本当の姿を知り、改めて命の尊さ、平和の大切さを伝えて行く場となっています。
《書籍ご紹介》
「プリンセス・リリイ」
ジョー・ノブコ・マーチン著 新日本教育図書(株) 昭和60年(1985年)初版
著者はジョー・ノブコ・マーチンさんです。沖縄戦を自らの体験を元に、小説仕立てでの作品となっているのが特徴と言えるでしょう。ジョー・ノブコ・マーチンさんは、旧姓は与那城信子さんで沖縄で生まれ育ちました。戦後戦争花嫁として米国に渡りまして、英語で小説を書きたい一心で、ミシガン大学で学び三つの学位を取得したそうです。同著書はまず英語で書かれました。その後日本語での出版となったようです。日本語版出版に際しては、関係方面から記載内容について指摘を受けたり、出版を見合わせるよう要請された経緯があるようです。著者であるジョー・ノブコ・マーチンさんは、「この作品において戦争を描写したかったのではなく、戦争をバックグラウンドとして人間を描きたかった」と述べています。著者が語るようにこの本はフィクションであり、何処までがリアルであるのか戸惑いを持ちながら読み進めましたが、「思い出の記」に「新編 辻の華」(上原栄子著)の一節が引用されているのには驚きました。
「私のひめゆり戦記」
宮良ルリ著 ニライ社 昭和61年(1986年)初版
著者である宮良ルリさんも、6月19日陸軍病院第三外科壕において米軍によるガス弾攻撃で、多くの犠牲者が出た中で奇跡的に生還されたお一人です。そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。南風原陸軍病院での看護活動を書き綴る「脳症とウジ」では傷病兵への対応や手当、そして命がけの飯あげ、切断された手足を弾痕の中に捨てに行くなどの生々しい戦場の様子が描かれています。また戦場では生も死も紙一重であるのが良く解ります。山城本部壕がやられた後のひめゆり学徒隊員の軌跡がそれをよく表しています。いずれにしても、第三外科壕への米軍のガス弾攻撃に際しては、著者である宮良ルリさんは、「こんなところで死んでたまるものか。生きるのだ。生きるのだ。絶対に死なない。こんな洞窟の中で死んでたまるものか」と強く自分に言い聞かせたそうです。そして冒頭述べたように奇跡的に生還されたお一人である訳です。
「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言
長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)初版
この本はひめゆり学徒隊に関わる著作ではありませんが、同隊員が居住した第三外科壕への米軍のガス弾攻撃について詳述しているのでリストアップしています。軍医見習士官長田紀春氏と第三外科婦長である具志八重氏の共著となっています。沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、第一外科(外科)、第二外科(内科)、第三外科(伝染病科)の編成で戦傷患者の治療に当たりました。同著には長田紀春氏と具志八重氏の共著者以外に、36名もの看護婦さんや衛生兵の手記が掲載されています。従軍されたお一人お一人に、その人ならではの沖縄戦があるのだなと感じます。具志八重氏の手記では、6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が犠牲になりました。具志八重氏は第三外科壕から奇跡的に生還されたお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の阿鼻叫喚の地獄絵と化した壕内の様子や、生死を別けた壕内のその後の様子を生々しく活写されています。
「ひめゆりの少女 十六歳の戦場」
宮城喜久子著 (株)高文研 平成7年(1995年)初版
6月18日ひめゆり学徒隊への解散命令が出た後、引率していた仲宗根政善先生が生徒に、「解散命令が出たので、壕から出ないといけなくなった。目立たないように何名かずつ組を作って行きなさい。なるべく出身地が同じ人と一緒になった方が良い。助け合って国頭の方向へ逃れて行きなさい。決して早まったことをしてはいけないよ」と諭すように話されたというのが印象的でした。また荒崎海岸で岩陰に隠れている時に、米兵に小銃を連射され、タッタッタッタッ‥。悲鳴と白煙が立ちこめる中、悲劇の地と言える今は「ひめゆり学徒散華の跡」の碑があるその場所、大きな岩の下で右と左に別れたその動きの瞬間判断で、大きく生死の明暗を分けたようです。左に身をかわした著者である宮城さん等二人は生き残り、右に身をかわした平良先生以下生徒は手榴弾で自決されたのでした。ほんの一瞬の出来事であったようです。
《過去の写真ご紹介》
荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」の碑です。碑には16名の戦没者氏名と、戦死の状況の内訳、昭和20年6月21日に14名がここで手榴弾自決をし、また他2名が付近でなくなったと記されています。6月21日に自決された‥。あと数日存命していたら決行しなくとも済んだのでは‥。と思わずにはいられません。碑にはご遺族による鎮魂歌が一句埋め込まれています。
「島はてに華と散りにしいとし子よ夢安らけく眠れとぞ祈る」
この写真は、平成25年(2013年)第40回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動を終えた夕方、同碑に慰霊巡拝した時のものです。当時金光教の遺骨収集奉仕活動に参加した複数人から「荒崎海岸にある「ひめゆり学徒散華の跡」に行ったけど、場所が解らず参拝出来なかった」との声を吉井さんが聞いて、そうした方々の為に夕方同碑にご案内したもので、皆さんに喜んで頂けました。
実際に私自身の体験でも、最初の訪問では碑を見つけられませんでした。方向を示す案内板が一つあるだけで発見率は格段に高まりますので、その点は関係者への善処をお願いしたいところです。(^^;)
動画ご紹介
「語り残す―戦争の記憶― 激戦を生き抜いたひめゆり学徒隊員」
奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前9時前です。まだまだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を色鮮やかに飾っています。
「ひめゆりの塔」です。私が手を合わせている時、ちょうど豊澤さんが参拝に来られバッタリ会いました。私は赤心之塔や梯梧之塔慰霊巡拝を控えていますので、ゆっくり話が出来ませんでしたが、これから私達は摩文仁で合流するので、そこで話が出来ますので、豊澤さんの前で失礼しました。
白い石組みで清楚さを表現している「ひめゆりの塔」です。「ひめゆりの塔」裏手に納骨堂があります。この「ひめゆりの塔」は平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」には、教職員・学徒戦没者219人が合祀されています。
「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔をひらがなを交えて「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯で、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
私が赤心之塔に向かおうとしていたら、「ご案内しましょうか」と献花販売店の女性が声を掛けてこられました。「お願いします」と答えましたら、ひめゆりの塔や赤心之塔について、色々と説明してくださいました。ありがとうございました。私は一般観光客と違い両塔について、一定の知識を持ち合わせていますが、そうしたすでに私が得た知識と同じ内容を語っておらたのにはびっくりしました。勿論知らなかった話もまた少なくありませんでした。場所柄自然と得られる話もあるでしょうし、何十年も取り組まれている仕事でもありますし、何よりも地元の方ですから、些末な事柄を含めて相当な知識の蓄積があると見ました。同じ事を長く続ける事の素晴らしさを垣間見た思いがしました。再度、ありがとうございました。(^o^)
「沖縄陸軍病院第三外科壕」
ひめゆりの塔前には、大きく口を開けた「沖縄陸軍病院伊原第三外科壕」があります。
沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。この壕は概略二段階になっており、沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。
6月18日解散命令が出た翌日未明の頃、脱出直前というタイミングで米軍による馬乗り攻撃ともいえるガス弾攻撃を受け、陸軍病院関係者、通信兵、集落住民など壕内に居た96名のうち87名が犠牲になりました。
カメラを持つ腕を精一杯伸ばし壕口の上で撮影しました。上掲の断面図に書き記されている最初の平坦な場所が壕口の下側に見えますね。そこまでは設置された板ハシゴを使い上り下りしたようです。元々は第三外科壕のある辺りは松林で、壕開口部も見えないぐらいだったと言います。ただご覧のように開口部は大きいですから、偽装したにしても発見されやすかったと思います、また上部が開口していますから、迫撃砲弾の集中射を浴びやすいと、常々懸念をされてもいました。
沖縄では昔から集落の一角に病死した家畜や動物を捨てる壕がありました。家畜などの病死骸の廃棄は、安全を確保する観点から集落単位で設けられていたといいます。伊原集落はこの壕を病死家畜の廃棄場所としていたという話です。ですから沖縄陸軍病院が野戦病院を設置するに際して、牛や馬の死骸とか骨を外部に搬出したのではないか推測されます。ちなみに八重瀬町仲座にある独立混成第四十四旅団司令部壕、ここは二年前に調査で入った壕ですが、近年まで仲座集落の病死骸等の捨て穴だったそうで、リアルな牛の骨がまだゴロゴロしていました。
ひめゆり学徒隊を引率した仲宗根正善先生が詠まれた哀悼の歌「いわまくら碑」です。
いわまくら かたくもあらん
やすらかに ねむれとぞいのる
まなびのともは
と彫られています。
「沖縄戦殉職医療人之碑」
この慰霊碑は沖縄戦殉職医療人之碑です。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。
1954年10月28日建立 沖縄督療園と書かれています。
「陸軍病院第三外科職員之碑」
沖縄戦殉職医療人之碑の左隣にあるのは、少しこぢんまりとした大きさですが、陸軍病院第三外科職員之碑です。陸軍病院第三外科鶴田軍医大尉以下、戦没職員32名が祀られています。陸軍病院第三外科は、五月下旬南風原町にある壕から当壕に移動し、野戦病院として傷病兵の看護に当たりましたが、6月19日の米軍によるガス弾攻撃でほとんどが殉職しました。かつて木製の碑が立てられていただけでしたが、1970年、長田紀春氏、具志八重氏が中心となり建立されました。
「ひめゆり平和祈念資料館」
ひめゆり平和祈念資料館です。この時刻ではまだ門は閉じられています。
「ひめゆり平和祈念資料館」です。昭和64年/平成元年(1989年)6月23日に開館しました。同館は沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です 私も二度ほど見学させて頂きました。中庭を周回するように各展示室が配置されていますし、第三外科壕を底から見上げた形での原寸大のジオラマも見る事が出来ます。沖縄に旅行した際はぜひ一度訪ねる事を推奨したいですね。
昔は沖縄戦を体験された方の講話が聞けました。実際に身をもって体験された話なので、聞いてとても心に強く訴える語りであったと、印象深く脳裏に刻まれています。しかしながら現在は証言する方の減少や高齢化などで、平成27年(2015年)で直接話を聞く事が出来る講話は終了されたとの事です。
「赤心之塔」
ひめゆり平和祈念資料館に到る手前20メートルぐらいの位置で、左手をご覧下さい。ご覧のような高さ60センチほどの小さなちいさな「赤心之塔」が見えるはずです。
赤心之塔案内板です。「伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。」と書かれています。
赤心之塔を立って撮影しました。ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話をお聞きしました。
「赤心之塔」です。沖縄陸軍病院第三外科壕は軍が病院として使用しましたが、軍が入る前からこの壕に避難していた民間人である大田家の六人家族は、軍が使用するようになってからも第三外科壕での居住が許されていました。しかしながら6月19日の米軍による馬乗り攻撃で、ひめゆり学徒、陸軍病院関係者と共に、大田家六人家族のうち五名が戦死してしまったのです。
大田家唯一の生存者となってしまった母のトシさんは、たまたま用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受けてしまい壕に帰れなくなりました。結果として三人の子供と夫、そして夫のお母さんを亡くしてしまいました。そのトシさんは戦後、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。
トシさんはなぜ生存できたのか? トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていたのです。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまったという訳です。
トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。
トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。
事の発端は、故具志八重さんと言えば「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。その具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動にも初期の頃から参加されていましたが、平成6年の時に金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たのが「赤心之塔」前での慰霊祭の始まりだそうです。
その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、平成7年以降は有志により慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられています。
私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。一雄さんは防衛隊に招集され前線で戦死されました。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。
【太田家の御霊に祈り】 「赤心之塔」で慰霊式
「沖縄タイムス」平成25年6月20日
【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。
大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。
島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。
「沖縄タイムス」から転載させて頂きました
【犠牲者の冥福祈る】 「赤心之塔」有志が慰霊祭
「琉球新報」平成25年6月20日
【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。
同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。
慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。
「琉球新報」から転載させて頂きました
「梯梧之塔」
「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。
長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。 お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります
「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますがテキストを起こしましたのでご覧下さい。
【梯梧の塔説明碑文】
梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな んで、「梯梧の塔」として建立された。
昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。
4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。
無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。
梯梧同窓会
梯梧学徒隊(昭和高等女学校)と書かれ、梯梧学徒隊の軌跡が掲示されていますね。
梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。問題なく読めますね。
戦没された学徒58名、教職員4名を祀る「梯梧之塔」です。この「梯梧之塔」は昭和23(1948)6月に学校の校舎跡地に建立されましたが、その後昭和46年に(1971)6月に、多くの犠牲者を出したゆかりの場所に程近い、糸満市伊原に移設されたものです。
「梯梧之塔」のでいごは、赤い花を咲かせる熱帯植物で、インドが原産です。沖縄県の県の花にもなっていまして、沖縄昭和高等女学校の近くに、でいごの並木道があった事から、学校のシンボルにもなりました。校章も、でいごの葉が表現されているそうです。昭和高女は戦前、事務員を養成する学校として、簿記とかを教える商業学校だったそうです。
お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。思えば藤岡中将はお気の毒な方でした。大本営は米軍による沖縄侵攻が三月か四月にあると判断し、状況急迫裡であると認識しながら、三月に沖縄第三十二軍首脳部の定期人事異動を大規模に実施したのです。
第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将も人事異動の対象となり三月に沖縄に着任されました。定期人事異動で沖縄に着任された陸軍の指揮官は、沖縄本島だけで七名おられるのですが、例を挙げれば米軍と正面で対峙する手筈となっている独立歩兵第十四大隊や歩兵第二十二聯隊の各隊長も直前となって異動したのですから驚きを隠せません。「沖縄決戦 高級参謀の手記」の著者である八原高級参謀も、将兵の士気に関わる一大事と見たのでしょう、このような直前の大規模な更迭は失当であると暗に非難しつつ、「第六十二師団長藤岡中将は着任してわずか半月の後、戦闘が始まった。まったく沖縄に死ににきたのも同然である」と述懐している程です。
藤岡豊子氏が第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様であると教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。 経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。
なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30余年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。
《過去の写真ご紹介》
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。
この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。
「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影ですから、今から26年前に撮影された写真という事になります。林先生や大庭さんをはじめとする関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれているのが印象的ですね。この慰霊祭の時は旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されていました。
調査・遺骨収集作業開始です
摩文仁ジャングルでの調査を開始しました。豊澤さん、福岡さん、そして私の三人です。お昼には田中さん親子が摩文仁に到着しますので、午前中のみ今まで入った事が無い場所で調査活動を展開しました。
遠くから見ると壕口に見えたので、気持ちが高ぶりましたが、近くで確認すると壕ではなかったです。残念!
小さな穴も見落とさず確認します。戦後七十余年経過していますから、雨風で埋没したという事も考えられますからね。
場所を少し移動です。小高い丘が見えてきました。
タコの実もしくはアダンの実がありました。多分タコの実だと思われますが、タコの実は初めて見るのでなんとも言えません。ただアダンの実とは違う‥。と直感的に感じたのでネットで調べると、両者ともにタコノキ科の植物ですからかなり似ていますが、これはタコの実が妥当なようです。これら両者はパインにも似ていますが全くの別物です。だけど昔の人はおやつとして熟れた実を、スナックパインのようにちぎって食べていたといいます。ほとんど甘味はないそうですが、昔はそれでも美味しく感じたのだと思います。
話は飛びますが、私も田舎育ちですから、子供の頃はいつもお腹がすいていたので、学校から帰ると野山に出て野草をちぎって食べました。当時としてはそれなりに美味しいと感じていたので、友達を誘って遊んだり野草を食べたりと、ごく自然に春夏秋と時節の移ろいに合わせるようにいろんな植物や果実を食しました。しかしながら大人になって、こうした飽食の時代の中で、子供の頃よく食べた山野草を食べてみたところ、不味いとは感じませんでしたが、美味しいという感覚は皆無でした。これほど食生活等の変化により、美味しい不味いの変化があるのだとビックリしたものです。
《過去の写真ご紹介》
平成26年(2014年)1月26日金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の事前調査の時に撮影したアダンの実です。上掲写真と比べて、やはり果実の表面が違いますね。タコの実とアダンの実の両者を並べて比較すると一目瞭然でした。(^o^)
パパイヤの木がありました。ご覧のようにまだ小さな木です。私の身長よりも背が低いですね。
接写してみました。花がまだ蕾のもの、開花中のもの、花が枯れ落ちたもの、いろんな段階にある花が見えています。花が枯れ落ちると、小さなパパイヤの実が付いていますね。パパイヤの花は、めしべが退化しておしべだけの雄花、めしべだけの雌花、その他めしべとおしべを持つ両性花があるとの事。雄花には実がつかず、雌花には大きく丸い実が付き、両性花には細長い実がつくそうですよ。
木の裏側に赤ちゃんパパイヤの実が付いていました。パパイヤといえばトロピカルフルーツという印象がありますが、沖縄では青い未熟果を「青パパヤー」と呼び、野菜として使うのが定番だそうです。昔から野菜として食されて来たという歴史があり、沖縄伝統の島野菜の一つにも数えられているそうです。因みに摩文仁海岸線に大きなパパイヤの木が二本ある事を私達は把握しています。更に言えば、野生のバナナの木が知念半島に一本ある事も把握しています。(^o^)
お昼ご飯ですよ (^o^)
ひめゆりの塔前にある「ひめゆりそば」で昼食を頂きました。写真は「みそ汁」という定食メニューです。定食ですからご飯が付いていますが、ご覧下さい。みそ汁が大盛りみたいに大きいので、更にご飯を食べると食べ過ぎとなり、午後は体が動かず作業に支障が出かねないので、ここは敢えてご飯は無しにしてもらいました。ご飯を外すと私にはちょうど良いボリュームになります。
午後の調査・遺骨収集作業開始です
お昼頃田中さん親子が摩文仁に到着し、一緒にひめゆりそば店さんで昼食を頂きました。そして午後は一緒に遺骨調査・収集作業に取り組みます。下から全く発見できない以上、司令部壕内のトイレ開口部から崖下に降りるのを目標にする 平成20年(2008年)11年前見た
摩文仁之丘山頂付近にある「黎明之塔」と展望台が見えて参りました。付近には第32軍司令部壕があまます。沖縄戦当時は89高地と呼ばれていた高台です。
89高地からカメラを海岸寄りに移して撮影しています。写真に写されている範囲のジャングルは、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動でも繰り返し作業で入った地域です。金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、御遺骨を収集し終えた場所や壕には、「この場所は収骨済み」という意味で青テープで表示をしておくルールとなっていました。これは既に収骨が済んでいるのに、後年また金光教が同じ地域に入った場合作業が重複するのを避ける為です。こうした事から、同地域は至る所に青テープが岩などに巻き付けられています。
因みに、金光教の遺骨収集奉仕活動で鍛えられた私は、この写真に収まっている範囲及び写真奥部の巨岩が連なる場所の、その更に奥に広がる大渡海岸までのジャングル帯については、どの地点にスポット的な形で空から地上に舞い降りたとしても、全く問題なくジャングルから出られますし、道に迷うなんて事は考えられません(元々道は一切ありませが)。それくらい知り尽くしている、言葉を変えれば、歩き尽くしている地域です。
私達は摩文仁司令部壕の上に立っています。そうです司令部壕は私達が立っている下にあるはずです。そして写真は司令部壕の垂坑道の入り口だとされている場所を撮影しています。されている場所と書きましたが、そうなんです。垂坑道であるかどうか確認していません。降りた事もありません。と言いますのも、黎明之塔までずっと立ち入り禁止の柵がしてある為に、柵を越えて確認するわけにも参りません。許可を得れば柵も越えられるでしょうが、司令部壕についてはかつて徹底して、照明器具まで持ち込んで調査したと伝え聞いています。なので垂坑道はここらしいで済ませているのが現状です。
展望台から身を乗り出して、更にカメラを持つ腕を伸ばして撮影しました。少しでも多くの「司令部壕のトイレ開口部」に関わる情報を得たかったからです。ここから見る限り、司令部壕のトイレ部分は見えないようです。昨年は司令部壕がある崖下から司令部壕のトイレ開口部を見つけようとしましたが、全く所在不明で解りませんでした。
田中さん親子も初登場です。よろしくお願いします。司令部壕に入る前に、戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m
吉井さんが司令部壕に入るところです。
田中さん親子が司令部壕に入るところです。最初は少し下っていますので、滑らないように注意です。落石が起こるほど急斜面ではありません。
全員が司令部壕内に入りました。まだ少し下っています。最初の内は立って歩いたり、前傾姿勢で進んだりと変則的です。ここ司令部壕は自然壕を利用して一部工兵隊が陣地として使いやすいように掘削したと聞いています。
今度は少し上りですね。この辺は立って歩けません。
吉井さんが壕内の構造について説明して下さっています。
ここは秘密洞窟といって、八原高級参謀らが一時隠れた場所です。ここは後でまた入ってみます。
皆さんがリュックサックなど荷物を下ろし始めました。目的の場所に到着したようです。
皆さんが上を見て話し合っています。ここは垂坑道がある場所なのです。写真右側にロープのようなものが縦に二本垂れているのが見えますね。これは昔本格的に司令部壕の調査をしたグループがあってその置き土産でもある1.6mmVVFビニールケーブルという規格の電線とあまり太くないロープが当時のままに残置されているのです。
そうこうしている内に、福岡さんが三八式小銃の銃弾を見つけてきました。
ロープと電気の線は上の方から垂れています。更に奥までライトで照らしましたが、やはり岩陰になって全ては見通せませんでした。
吉井さんロープが余りに細くて身を委ねるには危険すぎると感じたようです。またロープ設置は何時かは解りませんが、雰囲気的に相当昔であるとロープを見て感じました。という事でロープはグイグイと引っ張ってみるだけにしました。
因みに私達が見た限り、地面から3mぐらいの長さのハシゴが無ければ、上には登れないという印象を持ちました。手足だけでは写真に写されている部分が絶対に登れない様に見えます。しかしながら、司令部壕内の様子を活写している著書は複数ありますが、そのどれも垂坑道を登るにハシゴが設けられていたとかの記述は全くありません。実に不思議です。
写真上部の黒っぽくなっている部分は、人が入れるレベルの場所となっている雰囲気ですから、あそこまでハシゴか何かで上がれれば、更に上に登れそうですね。垂坑道から地上に出るというのは今回の目的ではありませんから、一通りの観察を終えトイレ開口部調査に取りかかりました。
写真中央に壕の外が見えている部分、そこが司令部壕内のトイレ開口部です。ここは穴というよりは、岩の割れ目であると言えるでしょう。司令部壕内に居住した将兵は、女性も何名か居られたようですが、全員が大便については、開口部先端部で、座った姿勢で即ちお尻を外に向けて排便したという訳です。ちょっとふらついたら崖下に真っ逆さま‥。私なら多分肛門が開きませんね~。それはともかく岩の割れ目なので、排便する場所の幅は概ね40cmから50cmぐらいです。だから落下を防ぐ意味でも、両手を開くように岩に当てて排便するのが安全だと思いますね。(^_^;
水平に移動する部分は、ここで終わっています。ここから先は急斜面になっています。何かおかしい、距離が短い???
トイレ通路の先端部が排便する場所です。11年前は排便する場所まで、あと2m以上平らな部分があったはずです。
距離が短すぎる‥。
岩の割れ目に1m以上の大きな岩が一個挟まっています。この挟まった岩は11年前もありまして、この岩の下を潜るように通過して更に平らな場所は続いていたのです。今はこの大きな岩の下は急斜面になっています。
私に続き吉井さんも岩の割れ目から降りてきました。11年前は平らな排便する場所から先は急に崖になっていたので、降りる事は出来ない印象でした。今は写真の様に斜面となっています。位置関係としては、11年前は吉井さんのお顔が写されている位置よりもっと上の位置まで土盛りされていて、つまり水平になっていて水平移動が可能だったと思います。
吉井さんが壕内に戻ります。吉井さんの後ろ姿と、更に上を見て土盛りが無くなった原因が解りました。。(^o^)
トイレの排便する場所の真上を写しています。なるほど!!納得しました。岩の割れ目が上までずっと続いているので、排便する場所はいつも雨が落ちてくる場所でした。つまり戦後七十余年の間の風雨や強烈な台風の雨で、それ程大量な土砂ではありませんが、平らな場所を構成していた土砂が流れ去って斜面になったと考えられます。
一つの推理として、元々この場所は昔からこのような急斜面だったのを、司令部壕として使用するにあたり、工兵隊が石や土盛りして平らな面を作り、排便しやすい構造にしたと言う事も考えられますね。実際に11年前はこのトイレ通路はゴツゴツした岩が敷き詰められていたのではなく、土砂が敷き詰められていました。ですからとても歩きやすかった事を覚えています。そうか雨が原因だったのか。私はなんて頭が良いんでしょう~。(笑)
ここから三枚程、11年前の写真と今回撮影した写真とを並べて比較してみましょう。(^o^)
《過去の写真ご紹介》
11年前、主坑道からトイレ開口部方面を見ています。上の写真で説明しましたが、岩の割れ目に1mぐらいの岩が挟まれていますね。あの岩を潜るようにして進むと排便する場所に出ました。ご覧のように地面は土砂でとても歩きやすかったです。
今回同じく主坑道からトイレ開口部方面を見ています。11年前の写真と比較して、アングルが上向いていますがご了承ください。よく観察すると、写真の地面付近は昔実施された遺骨収集により、岩が何十センチか積み上げられた印象がありますね。それもそのはずです。写真手前側は多くの犠牲者が出た垂坑道がある場所ですから、徹底して掘り返され調査・遺骨収集が為されたのでしょうね。
余談ですが、11年前の写真と今年撮影した写真を比較すると、今年撮影した写真の方が断然明るく写されていますね。11年の間にカメラストロボの光量が格段に増したと言う事でしょう。
《過去の写真ご紹介》
11年前、トイレの排便する場所から外の右側つまり西側、南冥の塔がある方向を見ています。切り立った絶壁でした。ただロープがあれば下りられるという印象を当時持ちました。
今回同じく、トイレの排便する場所から外の右側つまり西側、南冥の塔がある方向を見ています。カメラ目線が11年前と比べて低くなった印象がありますね。写されている木々は少し太くなりました。垂直の岩場に草が生えていて、そこに茶色い落ち葉などが堆積した部分が見えますね。その位置を二枚で比較すると、今回の方が低い位置で撮影しているのが解りますね。
《過去の写真ご紹介》
11年前、トイレの排便する場所から外の左側つまり各県の慰霊塔がある方向を見ています。同じく切り立った絶壁でした。
今回同じく、トイレの排便する場所から外の左側つまり各県の慰霊塔がある方向を見ています。こちらの木は随分と成長しました。木によって太くなる度合いは違いますからね。木々の株元が写されていて、こちらもカメラ目線が少し低くなったと感じます。
因みにこの写真は、トイレの排便場所から真下を見ています。この風景をしっかり頭に焼き付けておきます。明日からの調査・遺骨収集作業は、この司令部壕から降りるのではなく、下のジャングル帯を通ってこの場所に来るようになりますからね。
※予定していませんでしたが司令部壕で調査を行います。
当初の予定では、崖下からでは司令部壕のトイレ開口部が特定出来ないので、司令部壕に入り中からトイレ開口部に出て、そこから崖下に降りる予定でした。本来的には司令部壕内をただ通過するだけの予定だったのです。
11年前に司令部壕に入った時、ロープがあれば崖下に降りられると感じたので、今回はしっかりとコブのついたロープを準備しました。トイレ開口部には幸い太い木もある事を把握しているので、その木にロープを縛り付け、そこから全員崖下に降りてしまおうという手筈でした。しかしながら皆さんがこの司令部壕で調査をしてみたいという話なので、しばし金属探知機やクマデを用いて調査に取り組む事になりました。
吉井さんと私とでトレイの排便する場所から崖下に降りられるかどうかの調査を終えて壕内に戻ると福岡さんが声を掛けてきました。福岡さん等が金属探知機を動かしてみると、此処かしこでピーピーうるさいほど鳴るというのです。この司令部壕は大規模で徹底された調査・遺骨収集が為されたと聞いていました。実際に往事の電線が残置されている事からも明らかです。そうした電灯が煌々と灯る中で徹底して調査・収集されたと聞き及んでいました。ですからごく簡単に遺品が見つかるなんて、そんな事態は夢にも思いませんでした。綺麗サッパリと全ての遺骨や遺品が収容されたはずだと思い込んでいたのです。
金属探知機を用いて遺品が容易に探知出来る状況というのであれば捨て置けません。奇跡的に記名遺品が露出するかも知れません。そうであるなら絶対に私達が取り組む必要があります。これは一体どういう事なのでしょうか?????
という事で、皆さんがリュックサックを置いて金属探知機やクマデを用いて、しばらくの時間ですが思い思いの場所で調査・遺骨収集に取り組む事になりました。(^o^)
床面に近い壁面の一部がご覧のように煤で黒くなっていまして、煤が上に向かって広がっているようにも見えます。牛島軍司令官を筆頭に司令部壕に住まう将兵の食事は、司令部壕の崖下、直線距離で約100mぐらいの所にある壕で烹炊作業が行われていました。沖縄師範健児之塔や平和の像がある場所の裏手と言った方が位置的には解りやすいですね。私達もその炊事壕に入った事があります。少なくとも司令部壕が馬乗り攻撃を受けるようになった段階では、下の壕との行き来は途絶したと思います。そうした危機段階にあっては、この司令部壕で直接食事を作ったという可能性はありますね。
沖縄戦を詳細に書き記した八原氏の著作である『沖縄決戦 高級参謀の手記』によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。正に司令部壕と下の炊事壕、そして金井戸との連絡途絶を予見していたようです。
《過去の写真ご紹介》
この写真は摩文仁高地の崖下に位置する壕口から黎明之塔方面を見ていますが、八原高級参謀が給水源と共に、連絡の途絶を心配した炊事壕の複数ある壕口の一つから撮影しています。ご覧下さいませ。写真中央に見えるのは黎明之塔です。塔の上から2メートルぐらいの部分ですが、肉眼では柵も含めて白い塔がハッキリ見えました。写真の斜め右方向に司令部壕がある事になりますが、ここから急斜面を登っていくと司令部壕口があります。
田中さんが作業しています。トイレ開口部側から撮影していまして、田中さんが作業している場所は、垂坑道の真下という事になります。坑道の高さが一番高い場所でもありますので、ご覧のように十分な高さがあります。また壁面が煤で黒ずんでいるのが見えますね。この第三十二軍司令部壕は、米軍による馬乗り攻撃を受けまして、この垂坑道上部から爆雷を投げ込まれ、その際に十数名の死傷者が出ました。田中さんが居られる場所に、十数名の将兵が折り重なって倒れていたと言う状況であったと思われます。そうした場所である事から、壁面が煤で黒くなっているのも、その爆雷攻撃の爆煙が付着したものと推測されます。
沖縄戦を詳細に書き記した、八原氏の著作である『沖縄決戦 高級参謀の手記』によれば、「ただ今敵に山頂を占領されました。敵の爆雷が垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室のあたりには、死傷者がいっぱい転がっています」、秋永中尉が駆け出してから、まだ十分も経たぬのに、もうやられたか。垂坑道から敵に侵入されたのでは一大事だ。まず参謀長、軍司令官がいちばん危ない。そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。私は螢電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯血なま臭い。電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている‥‥。 と書かれていますが、正に田中さんが居られる場所こそ、その死傷者が折り重なっていた場所なのです。
ここで幾度か、八原氏の著作である『沖縄決戦 高級参謀の手記』が登場しましたので、沖縄戦を詳述した本を三冊ご紹介しますので、よろしければ皆様も読んでみて下さい。出版年度順に掲載しています。(^o^)
《書籍ご紹介》
「沖縄かくて壊滅す」
神 直道著 (株)原書房 昭和42年(1967年)初版
著者はまず最初の「はしがき」で、「沖縄戦について、もう概に数多くの戦記や物語が発表されてきた。ある本は悲惨さに重きを置き‥。フィクションに近い想像を逞しうしているもの‥。多分こうであろうくらいの思いつきを、いかにもまことしやかに書いた‥。沖縄戦の体験者が現存しているのに記録が概にそのようである。これから先、記憶の薄れと共にどのようなものが書かれるかと思うと実はたまらないのである」と出版を決意した動機が述べられています。出版の動機が航空決戦と持久戦略との齟齬によるものかと推測されましたが、八原高級参謀との意見の食い違いではないようです。実際に八原高級参謀の手記は5年後に出版されています。
昭和20年3月1日に現地沖縄第三十二軍に赴任しましたが、それ以前に防衛総司令部にて沖縄軍の育成に努めたり、台湾の飛行師団の幕僚として、また沖縄軍と生死を共にするはずの協力飛行部隊の一員として、沖縄守備軍を見守ってきた、としています。沖縄第三十二軍では航空参謀でしたが、第六航空軍参謀(九州)、第八飛行師団参謀(台湾)も兼任していたようです。
同著は沖縄戦の作戦・戦術・戦闘状況の考察で埋め尽くされています。これは当時の周囲への目配りの違いか、或いは執筆の目的による必然なのか不明なのですが、八原高級参謀の手記とは大きく対局を為すものです。それはともかく、神参謀が沖縄で作戦指導に従事したのは正味2カ月半程でした。それは長参謀長の命を受け、大本営や陸海軍航空部隊に実情を話し、もう一度航空作戦を再考するよう依頼する目的で5月30日の夜8時に糸満の名城海岸を出発した事によります。奇跡的に東京への帰還に成功しましたが、その脱出行も詳述されています。
「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」
防衛庁防衛研究所戦史部著 (株)朝雲新聞社 昭和43年(1968年)初版
この本も大部なボリュームです。正直全部読破していません。全編読破するほど沖縄戦戦況に興味はありません。今のところ事典の同じような形で利用させてもらっています。(^^;)
「沖縄決戦」 高級参謀の手記
八原博通著 読売新聞社 昭和47年(1972年)初版
牛島司令官、長参謀長そして八原高級参謀と、沖縄第三十二軍の指揮した八原博通陸軍大佐の著作です。沖縄戦を深く知りたいと思われる方には必須の、第一級著作であると思います。同著を読んでの第一印象は、あたかも八原高級参謀の横に居て沖縄戦を俯瞰できたという点を強調したいです。同著により沖縄戦が目の前で展開しているような錯覚を覚え、気持ちの全てが本の中に入ったように感じた程でした。また一兵士の書いた戦記は一兵士の目線から(この目線で数冊読破しています)、八原高級参謀の手記は指揮官からの目線で書かれた言う意味で貴重な著作であると感じます。
大部の著作には、「序」とか「まえがき」、そして「あとがき」と言うのが大概ありますが、そこにこそ著者の書かねばならなかった動機や書いた事の総括や結論が書き込まれている場合が多いですね。この著作もその例外でなく、そうした八原高級参謀の強い思いが表出しています。それではまず同著の「序」から見ましょう。
「戦後、幾多の史書に、軍が拱手して、アメリカ軍を上陸させたとして、とかくの批判がある。しかしこの時機におけるわが軍の行動について深く掘りさげた論議をあまり聞かないのは残念である」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序景ではある。戦艦、巡洋艦それぞれ十余隻を基幹とする、強大なアメリカ太平洋艦隊。有力なるイギリス艦隊、彼我地上軍あわせて三十万、敵味方の飛行機数千機、そして多数の沖縄県民をまき添えにした陸海空一体の歴史的大会戦の序景にしては、いかにも腑に落ちない異常さである。アメリカ軍は、ほとんど防御のない嘉手納海岸に莫大な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない。沖縄の地上軍は、首里山上から悠然皮肉な微笑みをもってこれを眺めている」
また「あとがき」には次のような記述が見られます。
「私には沖縄作戦全般を通じて、痛憤禁じ得ないものがある。それは現実を遊離して夢を追う航空至上主義と、はだか突撃で勝利を得んとする地上戦術思想とに対する懸命な抗争であった。このような主義や、理想は太平洋戦争の緒戦期には、確かに通用した。しかしその中期、特に後期においては、現実にはもはや幻想となっていた」
「私はこうした先見と洞察のもとに、沖縄作戦の構想を決め、全軍十万の将兵はこの方針に従い、数ヶ月の間戦闘を準備したのである。もちろん軍司令官、参謀長も私の考えを承認されていた。しかるに、敵が嘉手納に上陸するや、大本営、方面軍はにわかにあわてて北飛行場への全軍突撃を命令した」
「しかし、中央の軍に対する攻勢要求は、参謀長の性来の攻撃的性格に油を注ぐ結果となった。そして四月十三日の夜襲、ついで五月四日の攻勢を蜂起し、私の構想は根本的に破壊されたのである。大攻勢が失敗した五月五日夕、軍司令官は直接私を呼びつけ、軍の作戦の失敗と、私の一貫した判断の正当であったことを認め、自今軍全般の作戦を私に一任する旨申し渡された。しかし時すでに遅く‥」
上掲文の文脈通り、八原高級参謀の書かねばならなかった理由が強い筆致で明かされていると感じました。
大部な著作を読破して感じた事は、昭和19年7月に大本営は捷号作戦を発令し、9月末までに3個師団半といえる、第九師団、第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成四十四旅団の戦備を完了していました。これは長参謀長の算定した希望兵力であった事から、この時点では第三十二軍として必勝の信念に燃えていたと思われます。しかしながら、あろうことか大本営は第九師団の台湾への抽出を伝えてきました。第三十二軍司令部にとって、これがどれほどの痛恨事であったかは、11月4日に台湾の台北で開催された会議への牛島司令官の指示によく表出されています。
第九師団の抽出は、米軍の鉄量何するものぞと必勝の信念に燃えていた第三十二軍が、一朝にして戦意を喪失する結果となりました。もし第九師団の抽出がなければ、沖縄作戦の様相は一変し、一度や二度は米軍に苦杯をなめさせた可能性があるように思えてなりません。
そしてまた沖縄第三十二軍の戦意を重ねて喪失させる事態が起こりました。第九師団の穴埋めとして第八十四師団の沖縄派遣を第三十二軍に伝えましたが、何と翌日には派遣を中止すると通告して来たのです。第九師団の抽出と第八十四師団の沖縄派遣が一日で中止‥。この二つの事態がダブルパンチとなって、すでに書いたように第三十二軍の戦意が喪失すると共に、上級方面軍や大本営に対して、強い不信感を抱く事となったのです。この二点については、悔やんでも悔やみきれない、大本営の沖縄作戦最大の過失であると感じました。
豊澤さんが一カ所集中的に掘り始めました。
一番奥に居られる吉井さんは、この司令部壕について詳しいので、田中さんに往事の状況を話しかけたりしていました。
私はと言えば壕内をウロチョロしていましたが、天井付近を見ている内に、人工の構築物が目に入ってきました。写真中央部です。湾曲した配管のような物が見えますね。場所はトイレ開口部の岩の割れ目の上部という事になります。
カメラを望遠側にしました。人工の構築物は二種類ありますね。一つはコンクリートの平滑な面が見えています。これは可能性としては、展望台の基礎部分でしょぅか? もう一つは、直径10cmぐらいのビニール製蛇腹で、見た通りの状況です。360度見えては居ませんが、ほぼ円形に近い形で見えていますから、展望台などから排出される雨水を流す排水管では無いと思います。電気配線も地中ではこうしたビニール製配管に電気配線を収めるというのはよく行われています。しかしながら展望台から黎明之塔にかけて、照明とか広域スピーカーとかの電気設備はありません。位置的には垂坑道の近くでもあり、また展望台付近であると思われる事から、展望台に関わる施設の可能性がありますね。今度上からもう一度この構築物の位置関係を調べてみます。
遺品が色々と出てきます。皆で話をしながら作業を進めています。
吉井さんがトイレ開口部で作業しています。
私はトイレの排便場所から、崖下に降りてみる事にしました。吉井さんと一緒に下見した際は、なんとかなるかな‥。という印象でしたから、無謀な行動ではないです。それでは降りてみましょう。落ち葉が堆積し、その下は小石が沢山あるので、全員が降りる場合は、落石が発生する可能性があるので、今ここで私が全部落とします。そうすれば安全ですからね。こうした作業を経たので、少々時間が掛かりましたが、ロープ等を張らなくとも、慎重に行動しまして問題なく崖下に降りられました。ヤッター。パチパチ。
トイレの排便場所から東側を見ています。崖はほぼ垂直であるのが見て取れますね。
今度はトイレの排便場所から崖下を見ています。垂直的な部分は1mぐらいで、後は急坂ではありますが傾斜面と言えるレベルの坂です。そうした勾配は草が茂っていて写真ではよく見えませんが、この段階でどこを降りていくか、すでにルートが確定しました。そしてその通りに降りて無事崖下に降りられたのです。
こうした場所を降りる際に注意しなければならない点は、再び登れるか! という事を確認しながら降りなければなりません。そうしないと降りたはいいけど、帰れなくなったという悲惨な事態になりかねませんからね。(^_^;
と言う事で、そうした視点を確認しながら降りたので、登ってみたら問題なく登れました。降りる時より登る時の方がずっと楽ちんですね。
トイレの排便場所の坂道を登り切ると、吉井さんが引き続き作業を続けていました。
随分と深く掘りましたね。細かい遺品が色々と出てきているようです。
防毒面のアセテートのレンズを収納するケース、小銃弾三発、蓄電池部品などが見えますね。
豊澤さんも深く掘り進めています。
豊澤さんが見せてくれました。これはなんでしょうか? ガラス製の部品のように見えます。
いわゆる豆球のような物とか金属的な部品が出てきました。これらは通信機器に使われていたのでしょうか?
日本軍将兵の下着のボタンが出てきました。前歯がありました。少し虫歯になっていますね。戦場では虫歯の治療もままならないでしょうから苦労したかもしれませんね。手足の指の骨と思われる遺骨も出ました。
小銃弾ですね。良く見ると太さ長さが違っています。一番小さい小銃弾は日本軍の弾だと思われますが、大きい方の小銃弾は、発見した場所が垂坑道に近い事から、米軍の馬乗り攻撃の際に発せられた弾かも知れません。ただ日本軍の小銃弾も二種類あったようです。素人判断ですから断定は出来ませんが‥。
日本軍が使用した二種類の小銃弾とは、6.5mm弾を使用する長く使用する歴史ある三八式歩兵銃と、7.7mm弾を使用する九九式小銃の二つです。遅れてやって来たのが7.7mm小銃弾です。当然のながら弾の径が太くなる程、破壊力は増大するとの事。1mm違っても大きな破壊力の差となるようです。
日清・日露そして大東亜戦争にかけて、欧米列国の趨勢はと言うと破壊力のある8mm級の小銃弾が採用される流れの中で、日本陸軍は8mm級からみて破壊力が見劣りする6.5mm弾を採用し続けたのです。これは制式採用時から弾の威力の低さを指摘されていましたが、当時の陸軍上層部は「無益な殺傷は、その本意にあらず。戦闘力を失いしむれば、即ち足る」という武士道精神にも通じる考え方が主流にあり、破壊力が弱い6.5mm弾が制式採用されるという経緯がありました。
しかしながら欧米列国が使用する大口径の破壊力を目の当たりにした日本陸軍は、重い腰を上げて大東亜戦争に突入する前の昭和15年になって7.7mm弾を使用する九九式小銃を制式採用したのでした。世界は既に戦場での武士道精神など通用しない時代に入っていたのです。三八式歩兵銃は高性能でロングセラーの名器であり世界に誇れる小銃でしたが、戦場に二種類の小銃弾が混在するという事で、兵站を複雑にする結果となりました。
田中さん親子がクマデを振るって作業しています。
田中さん親子の奥には福岡さんが作業していました。
福岡さん「お~出た!」と叫んだので近づいてみました。
セルロイド製の石けん箱がありました。石けん箱は全ての兵隊さんに支給されるため、名前を書き入れないと誰の物か解らなくなるので、その識別の為に名前が書き込まれている場合が本当に多いです。金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で発見された石けん箱にも記名があって、何個かご遺族の元にお帰りになりました。そうした事もあり、石けん箱発見というと、まず何より表面を清掃してみたくなります。今回も福岡さんが丹念に清掃してチェックしましたが、残念ながら記名はありませんでした。残念!
福岡さんが見せてくれました。これは何でしょうか?
結構出ましたね。蓄電池部品、小銃弾、革製品、先ほどの石けん箱‥。色々ありましたね。
金属的な破片が多いですね~。これだもの金属探知機が鳴りっぱなしな訳だ。(^o^)
白熱電球がありますね。電球内部に色がついている印象です。ソケット差し込み部分における金属の腐植具合からして、戦後の遺骨収集の時に使用したのではなく、沖縄戦当時の照明に使われた可能性が高いと思います。沖縄を含めて全国で昭和16年12月から敗戦まで灯火管制が敷かれ、庶民は灯火管制用電球や電灯カバーを購入したのはご存じの通りです。ただここは司令部壕ですから、軍の防空電球が使われていた可能性が高いですね。ただ軍の防空電球という物を見た事が無いので、目の前にある電球が同じ物かどうかは定かではありません。(^^;)
因みに摩文仁司令部壕でも電灯が灯された時期がありました。八原高級参謀の手記である「沖縄決戦 高級参謀の手記」によれば、「野戦築城隊の努力で、この洞窟に初めて電灯がついた。皆子供のように喜んだが、その嬉しさは長い暗黒生活をした者でないとわからぬ。しかしこれも数日続いたのみであった。発電所は水を必要とする関係上、死の泉の近くにあった。それを断崖を通じる電線で、頂上に送電していたのであるが、敵の哨戒艇が乱射乱撃を始めるや、修理してもすぐ電線が切れる。そして万事休すとなったのである」と、書かれていますから、この壕内で軍の防空電球が使われていた事は間違いないようです。
トイレ開口部付近で、吉井さん豊澤さんが、黙々と作業を続けています。
田中さん親子が作業しています。
福岡さんが作業しています。
お金が出てきたと見せてくれました。
引き続き、田中さん親子が作業しています。
発掘される遺品が少しずつ増えていますね。
引き続き、吉井さん豊澤さんが頑張っています。
福岡さんです。こちらも発掘される遺品が少しずつ増えていますね。
これは何でしょうか?
横から見るとこんな感じです。始めて見ますね。金属では無いようです。
頑張る田中さん親子です。
吉井さん豊澤さんも頑張っています。
「そろそろ引き上げましょうか」との声が掛けられたので、この段階で発掘された遺骨や遺品を写してみました。白布ごとに発見された場所が違います。やはり金属探知機に反応する金属的な遺品が多いですね。
石けん箱はこちらの方にありました。その他色々発掘されました。
ご遺骨も少々発見されました。細長いのは肋骨で、第9とか第10肋骨かも知れません。右側の黒っぽい小片も、何とご遺骨で頭蓋骨の一部です。ご覧のように黒焦げしているのが印象的です。見ての通り、頭蓋骨の表面側は勿論、内側面も真っ黒に焦げています。厚みのある頭蓋骨がこれだけ焦げるというのは、相当長く火炎を浴びるか、火力に晒されないと黒くならないと思われますね。
お疲れ様でした。(^o^)
時間も迫ってきたので帰る事にしました。リュックサックを背負い準備開始です。
順番に参謀部側の壕口へと向かいます。
壕口です。八原高級参謀の手記「沖縄決戦」によれば、この壕口は米軍の侵入を阻む為に、一度は内側から岩を積み上げ偽装したと書かれています。司令部壕という事で繰り返された調査・遺骨収集作業でそうした偽装した形跡は無くなっていますね。
司令部壕を出てからの集合写真です。前日21日の参加記では「田中さん親子が居られないのが唯一残念なのですが‥」と書きましたが、本日は居られました~。集合写真に田中さん親子が初登場です。(^o^)
昨日も書きましたが、誘い合ったわけでもないのに、ごく自然に集った私達はきっと不思議な縁で結ばれているのだと思えてなりません。そうした目に見えない尊い絆に思いを馳せる時、感恩の念しか沸き上がりません。私達は大いなる志を共有していますが、そうした戦没者慰霊と鎮魂の志を共有しつつ、未だ南部戦跡一帯に眠るご遺骨発見に邁進して参りましょう。(^o^)
長参謀長はお酒が大好きだったのは、よく知られていますよね。司令部壕内で作戦指導の合間にはキング・オブ・キングスのボトルを傾けていたと言います。軍人と酒は切っても切れない関係にあるのかも知れません。八原博通氏の著作である「沖縄決戦 高級参謀の手記」(読売新聞社)にも、牛島司令官と長参謀長が間もなく自決するという場面で、キング・オブ・キングスが登場しますのでご紹介します。
(386-387頁)
23日3時ごろ、軍司令官の命なりと呼びにきた。服装を正して出かける。牛島将軍は略綬を佩用して、服装を整え、膝組んでおられる。長将軍はキング・オブ・キングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。周囲の顔ぶれは概して昨夜と変わりない。私は両将軍に敬礼したが、今や言うべき言葉はない。参謀長は私にウイスキーをすすめ、さらに自ら剣先にパインアップルの切れを刺し、これは両方とも特等品だぞと自慢しつつ、私の口にもってこられた。私はちょっとぎょっとしたが、子供のするようにあーんをしてちょうだいした。
私を前にして、両将軍の間には、次のような会話が続けられた。
参謀長「閣下はよく休まれましたね。時間が切迫するのに、一向起きられる様子がないので、実は私ももじもじしていました」
司令官「貴官がいびき声雷の如くやらかすので、なかなか寝つかれなかったからよ」
参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内を致しましょうか」
司令官「わが輩が先だよ」
参謀長「閣下は極楽行き、私は地獄行き。お先に失礼しても、ご案内はできませんね‥」
参謀長は、「西郷隆盛が城山で自決する直前、碁を打ちながら別府晋助に向かい、『晋助どん!
よか時に合図してくれ』と言ったそうだが、俺はキング・オブ・キングスでも飲みながら時を待つかな」と笑われた。
「沖縄決戦
高級参謀の手記」(八原博通著/読売新聞社)から転載させて頂きました
事後談となります。豊澤さんは自宅に帰ってから、ネット検索を続けているうちに、長参謀長が飲んでいた物と同じウイスキーであるキング・オブ・キングスがネット販売されているのを知り、色々悩んで買い求めたようです。私は酒が飲めないので、その辺の機微は知り得ないのですが‥。それはともかく、豊澤さんがキング・オブ・キングスを買い求めた経緯をコラムにして下さいましたので、ご覧下さいませ。(^o^)
豊澤さんのコラム 「長参謀長のウイスキー」
私が八原参謀の「沖縄決戦」を最初に読んだのは10代の頃だった。図書館で借りて読んだのだが、沖縄戦の戦況や参謀、司令官の心境とは別に、長参謀長が最期に飲んだウイスキー、キング・オブ・キングスに興味を覚えた。「最期に飲むウイスキーってどんな味だったのだろう」と。
数年経って就職した時に、思い出してキング・オブ・キングスを捜したことがある。今の若い人には理解出来ないかも知れないが、私が就職した頃は、社会的地位とウイスキーの銘柄がリンクしていた。学生はトリスかレッド、就職してホワイト、課長が角瓶、部長がダルマ(オールド)、社長がロイヤルだったと思う。リザーブも響も山崎も白州もまだなかった。
輸入ウイスキーは高嶺の花で、今は国産ウイスキーよりも安くなってしまったジョニ黒(ジョニーウオーカー黒ラベル)が1万円、シーバスリーガルのロイヤルサルートにいたては6万円していた時に、キング・オブ・キングスは1万8千円していた。初任給がやっと10万円になった時代のことで、私に手が出せるお酒ではなかった。飲ませてもらった事のある「オールド・パーの姉妹酒」と聞いて、何となく分かった気なっていた。
その後、平成の初めにもう一度キング・オブ・キングスを捜したことがあったが、その時は既にJAMES MURO & SON LTD 社がなくなり、市場からは姿を消していた。
時は巡って、インターネットが当たり前の時代になり、私もネットで様々な事柄を検索したり、YahooやAmazonを通して物品を購入するようになっていた。
そんな4月のある日、私のPCに「あなたへのお勧めの商品」としてあるウイスキーが表示された。「キング・オブ・キングス 46,000円」 (えっ、あのウイスキーがまだあったのか)という驚きと、AIのマッチング機能に少し怖さを覚えた。
1月の遺骨収集から戻ってから、PCで「第32軍」「長参謀長」「牛島司令官」「摩文仁」等の検索をして、その中に八原参謀の「沖縄決戦」を引用した記事もあった。また過去に何度かネットでウイスキーを注文した事もあった。しかし、それ等の実績からAIが「あなたへのお勧めの商品」としてキング・オブ・キングスを勧めて来るとは思わなかった。
最初の数回はいつものように無視をしていたのだが、「長参謀長が愛飲していたウイスキー」と思うと呑兵衛の血が騒ぎ、「見るだけ」とネットにアクセスして調べて見た。
1989年4月1日の酒税法改正(等級制度の廃止)以前に輸入されたウイスキーを「オールドウイスキー」と呼び、現在は生産されていない銘柄も多くあるため、結構人気らしい。もっとも、等級制度が廃止されてから既に30年以上経過しており、ボトルの形状やキャップの種類によっては「飲みかけか」と思うほど液量の減っていて、品質も味も劣化していると思われるウイスキーもあった。
そんなオールドウイスキーの中で、キング・オブ・キングスはすぐ見つかった。表示された10数件のほとんどがフラゴンと呼ばれる陶器の壺(ピッチャー型)に入ったもので、値段も3,000円台が一番多く、1万円が1本、「あなたへのお勧めの商品」に載っていた琵琶型のガラスボトルが一番高くて48,000円だった。 親切な出品者はフラゴン込の重量を表示してくれていたが、フラゴン(容器)の重さが分からない以上、液量の計算は出来ない。また封蝋を模したキャップは直接コルクの状態を確認出来ないので、「送料を入れても5,000円以下か」とは思ったが諦めた。
ところがAIは執拗だった。一週間もしない内に今度はフロスティーボトルのキング・オブ・キングスを勧めて来た。写真を見ると、未開封とはいえコルクキャップは劣化していると思われたが、ボトルの首1/3 位まで液量があり、値段も高くない。しかしこのウイスキーが長参謀長の味わったウイスキーと同じという保証はない。蒸溜所の増改築でポットスチルが変わったり、原材料の種類や調達先、製造方法の変更等で味や香りが大きく変わったウイスキーは少なくない。「でも、飲んで見たい・・・」とAIの思惑にハマった呑兵衛の自分に腹を立てながら、購入した。
長参謀長が飲んだウイスキーの銘柄は「沖縄決戦」(八原博通著)に記載がある。「(6月)23日3時頃司令官の命で呼ばれた際、長将軍はキングオブキングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。」と自決直前に「キングオブキングスでも飲んで(自決の時を)待つかな。」と二箇所に銘柄が出てくる。 因みに6月18日夜の決別の宴のメニューには、「鰤、魚団、パインの缶詰、恩賜の賀茂鶴、泡盛」と記載があり、日本酒「賀茂鶴」の銘柄記載もある。
また、「日米最後の戦闘」(米国陸軍省編 サイマル出版会外間正四郎訳)には、「21日大本営へ最後の打電。午前零時少し前に特別の料理を幕僚と食す。かわした決別の酒は首里撤退の時に持ってきたスコッチウイスキーであった。」と銘柄なしでの記載がある。
一方、牛島司令官付きの看護婦だった伊波苗子さんの証言(チャンネル桜)では「長参謀長は恩賜のお酒を飯盒で飲んで泥酔していた」旨の話があるが、いくら酒が強い長参謀長でも、ウイスキーを4合(飯盒の容量)飲んだら泥酔では済まないと思う。もっとも、「飯盒で飲んで」は単に容器を指している可能性もある。「キングオブキングスのひょうたん型の壺」が陶器製のフラゴンを指しているのなら、ボトルのように直接口を付けて飲むことは難しいので、飯盒に移して飲んでいだ事も考えられる。残念な事に伊波さんの証言では飯盒の中の酒についてはふれられていない。
キング・オブ・キングスについて、新潮文庫「THE WHISKY」(昭和60年発行)から引用すると、『北部ハイランド産のシングルモルト、グレンダランをベースに、特に日本人向けにブレンドされたやわらかな口当たりのウイスキー。日本へは明治初め、横浜の商館によって紹介された。ピート香を抑え、わずかな甘みさえ感じさせるこの酒は「オールド・パー」「グレイモア」などの姉妹酒でもある。中味は両者(フラゴンとフロスティーボトル)同じだが、マンロー社特製の陶器ボトル(フラゴン)は日本人になじみが深い。ストレートか少量の水割りで。』となっている。ところが、蒸留所のJAMES MURO & SON LTD 社が閉鎖され、1980年中頃には市場から姿を消した。
数日後、自宅に届き梱包を開けると、ウイスキーの香りがして、ボトルが湿っていた。業者は「天地無用」「横倒し厳禁」と箱の全面にシールを張って発送してくれたのだが、輸送途中で守られなかったようだ。幸い液量に影響するほどの漏れではなく、ホットすると同時に、ウイスキーには一日旅の疲れを癒やしてもらう事にした。
翌日開封すると、やはりコルクは劣化していて途中で折れてしまい、ワインオープナーで取ったが、コルクの細かい破片が中に落ちてしまった。コーヒーのペーパーフィルターを使って取り除き、ブレンド・オブ・ニッカの透明な空き瓶に移し替えた。
キング オブ キングスの色はやや赤み帯びた琥珀色でショットグラスに移して最初に口に含んだ時の印象は「甘い」だった。再度試飲すると、かすかに黒糖かバニラの香がして、穏やかな甘さがあり、余韻にピートの香りが残った。心配したコルク臭や異臭もなく、全体に優しい感じのウイスキーだった。
自宅の裏庭に咲く、辛夷の花を眺めながら味わうウイスキーと、戦場で絶え間ない砲弾の音や振動、兵隊の体臭や傷病兵のうめき声、血や膿の臭いの中で味わうウイスキーの味が同じはずはないが、「過酷な戦場で、このウイスキーが最期の一杯なら、満足できるかな」と思える味だった。
長参謀長は、夜中に寝言で母親に叱られ、謝っていたというが、彼にとっては母親の膝枕のような優しいウイスキーだったのかも知れない。個人的にはあまり好きになれない長参謀長だが、キング オブ キングスを飲んでいたと思うと、少し距離が縮まった気がした。(余談だが、八原参謀の言う「ひょうたん型の壺」とは陶器製の壺フラゴンを指していると思うが、「ひょうたん型」と言うには無理があると思っている。)
実は、このキング オブ キングス、180CC程残してあり、「来年、みんなで味わってみようか」と思っていた。でもみんな車で集まって来るから無理ですね。(笑) 残念