平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月19日(土) 慰霊巡拝

今日の天気予報は曇り時々晴れという絶好の調査・遺骨収集日和です。今日も全力で取り組みますよ。と言いつつ今日も非公開作業です。恐縮ですが作業後の慰霊巡拝を掲載させて頂きました。場所は嘉数高台公園です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「嘉数高台公園」

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「嘉数高台公園案内図」ですね。無事に駐車場車を止める事が出来ました。それではご一緒に沖縄戦当時、嘉数高地と呼ばれた同公園内を見学して参りましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.2

芝地の多目的広場です。ユニークな形状の展望台を見ています。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「嘉数高台公園の戦跡」という説明板ですね。赤丸部分が嘉数高台公園内にある戦跡です。また説明はありませんが、嘉数高台公園の少し左側に×印の記号が並んでいます。陣地壕群と書かれており、かなりの数の陣地壕があったものと思われます。ただ壕口に×印となっていますから、現在は立ち入り禁止となっていると思われます。因みに陣地壕群のある高地が西嘉数高地で、私が立っている嘉数高台公園は東嘉数高地と呼ばれていました。標高70mの西嘉数高地と標高92mの東嘉数高地の二つの頂きを持ち、北西から南東に走る約1kmの稜線が連なっているようです。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.4

「弾痕の塀」です。弾痕の塀は、説明板に書かれている通り、宜野湾市のどこからか移築したようですね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.5

「弾痕の塀」です。幾つか小さな穴が空いていますね。弾痕が疎らである事から小銃とか機関銃による弾痕でしょうかね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.6

一番大きな弾痕ですが、丸っこく抉られていますね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.7

こちらは正に弾痕という雰囲気です。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.8

階段を上って展望台下までやって参りました。この展望台の外壁は地球儀を模っていて、五大陸を表現しているようですね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「嘉数の戦闘」というタイトルで、嘉数高地での戦闘状況を簡潔に解りやすく解説していますね。重要な文言を含んでいますからテキストに起こしてみました。

【解説文】

嘉数の戦闘
沖縄守備軍である第32軍(球部隊)は、米軍との上陸決戦を避け、司令部のある首里を中心に西原から浦添一帯に洞窟複郭陣地(幾重にも構築した陣地)を設け、持久作戦をとりました。
その最前線の陣地が置かれたのが嘉数高地でした。そして1945(昭和20)年4月1日、上陸した米軍は早くも4月6日には宜野湾村(当時)の南側に進出し、以後、嘉数高地を含む宇地泊~我如古~西原の棚原を結ぶ線で、日米両軍の主力による攻防戦が展開されました。
日本軍は米軍の進路に地雷を敷設し、対戦車砲・臼砲等の重火器で攻撃しました。また、急造爆雷を抱えて戦車に体当たりする肉弾戦もありました。米軍戦史には「嘉数地区で失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と記録されています。2週間余におよぶ戦闘の末、日本軍は浦添の前田高地に撤退しました。
嘉数高地は、沖縄戦における最激戦地のひとつでした。日米両軍の戦死者に加え、多くの地域住民も戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「宜野湾市住居表示案内図」です。ご覧のように宜野湾市の真ん中に普天間飛行場があるのですね。「宜野湾市のあゆみ」「はごろも伝説」とか、「宜野湾市の花木」等も解説されています。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.11

展望台から、レンズを少し望遠側に回して普天間飛行場を撮影しました。視野角はもう少し広いです。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.12

米軍が陸軍、海兵隊四個師団を上陸させた海岸線を写しています。レンズを少し望遠側に回しています。米軍は遠望する読谷から北谷にかけての海岸線に上陸を敢行しました。海岸線はリーフや砂浜が連なり、大兵団の上陸に適した場所であるのが一目瞭然で、広大な上陸適地が連なっているのが良く解る写真でもありますね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.13

レンズを少し望遠側に回しています。カメラを普天間飛行場から反転させ、前田高地、仲間高地を捉えています。撮影地点から前田高地までの距離は、およそ1.5km程です。前田高地の方が標高が高いと体感的に感じますね。映画ハクソー・リッジの垂直崖も写真中央辺りにありますし、稜線の樹林帯が終わる所にポコッと突き出た部分が見えますが、そこがワカリジーです。和名は為朝岩、米軍はニードル・ロックと呼びます。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.14

レンズを少し望遠側に回しています。嘉数高地の稜線沿いに東側を見ています。東側も樹林帯が連なっている事から、嘉数高地のような高低差はありませんが、若干の崖が連続していると思われます。写真奥の方にこんもりとした丘がありますが、棚原方面だと思われます。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.15

戻りまして、普天間飛行場をアップで捉えています。2800mの滑走路を持つ、米海兵隊の航空基地です。いかに市街地に隣接しているかが良く理解出来る写真ですね。一昔前はヘリコプターがエプロンに並んでいましたが、現在はご覧のようにオスプレイが並び駐機されています。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子22

嘉数高地の北側麓にある嘉数渓谷(嘉数谷)と比屋良川の様子です。西側方面を見ていますが、戦線西翼の堅要地形であるのが見て取れます。ご覧のように深い渓谷となっており、この深い渓谷が戦車の進入を阻み、米軍側にも多大な出血を強いたのです。強大な米軍に対し、終始主導的に戦った戦場と言えるでしょう。

遺骨収集の様子23

同じく比屋良川の様子です。東側を見ています。嘉数渓谷も深いところと浅いところがあります。この高低差でもまだ戦車の進入は不可能でしょう。

遺骨収集の様子24

嘉数渓谷沿いの地際に構築された沖縄守備軍陣地で、敵方斜面前縁に設けられた射撃陣地という事になりますね。火炎放射攻撃を受けたのでしょう、ご覧のように壁面が驚くほど真っ黒になっています。

遺骨収集の様子27

嘉数高地の東北東方向にある比屋良川公園駐車場から嘉数高地を撮影しました。嘉数高地は緑が豊かな小高い公園となっています。この辺りから米軍は攻め上がろうとするも、嘉数高地の背後にある前田高地・仲間高地にある守備軍の観測所に誘導された正確な重砲弾の着弾で、米歩兵部隊は悉く撃破されました。

「京都の塔」

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.16

昭和39年に建立された京都の塔です。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.17

京都の塔碑文です。読みにくいのでテキストに起こしてみました。

【慰霊碑碑文】

第二次世界大戦が終了した当時、この付近一帯は戦火のため樹木も無く焦土と化しトーチカの残骸のみが寂しくあったそうです。
私達の先輩が昭和三十九年石垣を築いて慰霊塔「沖縄京都の塔」が建立されたのであります。それから三十余年の間、樹木も繁り付近一帯も公園として美しくなりました。しかし乍ら、風雨と植生のため、石垣の崩落と基壇の崩壊が危惧されてまいりました。
平成九年、私たちはその修復工事にとりかかり、浄財の募金を始めましたところ、多くの方々のご協力を賜り、平成九年十二月に修復工事は完了しました。
これからも、この慰霊塔が、私たちの平和への願いをかなえる礎となりますことを、また此処沖縄との絆の証となりますことを祈り、且つ、誓うものであります。
平成十年二月九日

社団法人沖縄京都の塔奉賛会 

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.18

京都の塔です。沖縄戦で戦没した京都府出身者2536名が祀られています。参戦した第62師団独立歩兵第63旅団は京都出身兵が多く、そのほとんどが嘉数高地で戦死しました。

「嘉数の塔」

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.19

昭和50年に建立された「嘉数の塔」です。嘉数地域は日米正規軍による最初の激突地という事で、地元住民にも多くの犠牲者が出ました。

「監視哨(トーチカ)」

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.20

嘉数高地には監視哨又はトーチカと呼ぶ軍構築物が残存しています。その説明板です。読めますね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.21

写真が監視哨で地際に監視哨の出入り口が見えます。写真では監視哨(トーチカ)は単独でポツンとあるような印象ですが、当然ながら監視哨の背後には嘉数高地の壕群から将兵が観測する為の出入りが出来るようになっていたはずです。現在はのそのあるべき壕口は塞がれて見えなくなっているというのが正解だと思います。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.22

監視哨の前に回り撮影しました。ご覧のように二つ別方向を攻撃できるように銃眼があります。左側の銃眼はひどく破壊されたようで、本来は右側の銃眼の形が左右二つ並んでいたのでしょう。コンクリート製の監視哨は厚い所では1メートルもあるそうですから、激しい砲撃を浴びたでしょうけど、原型は遂に最後まで維持したのですね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.23

破壊された側の銃眼です。コンクリートを良く見ますと、補強のための鉄筋が本数は少なめですが配筋されているのですね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.24

監視哨内部の様子です。板で型枠を作っているのが観察されます。結構広いですね。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.25

銃眼から見える風景は‥。樹木などが邪魔して見えませんが、どうでしょうか?

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.26

破壊された側の銃眼から見ています。破壊されていますから視線は少し高めになっています。沖縄戦当時は、前の歩道などは無くて一気に斜面が下っている可能性がありますから、そうであるなら比屋良川よりも手前側が見えたかもですね。断定は出来ませんけど。(^_^;

「嘉数(かかず)高地」の戦闘

宜野湾市の南端に位置する「嘉数高地」は、標高92mの東嘉数高地と、標高70mの西嘉数高地の頂上を持ち、北西から南東に走る約1kmの稜線があります。高地前方(米軍側)には、比屋良川がありその両岸は嘉数谷という渓谷が連なっており、幸いにもこの渓谷が米軍の進軍を阻み、攻める米軍側にも多大な出血を強いる結果となったのです。

嘉数高地の戦いは、4月8日から24日まで16日間 にわたる、沖縄戦の中で最も激しい戦闘の一つとして知られています。日本軍側は、藤岡中将率いる第62師団独立歩兵第63旅団の隷下四個独立歩兵大隊のうち三個大隊を、縦深に配置して応戦したのです。

4月19日
この日は嘉数高地での戦いの中で最も激しい戦闘である、「嘉数の対戦車戦」が行われたのです。米軍は朝6時から日本軍陣地帯に向け一斉に砲撃を開始しました。27個砲兵大隊計324門を集中し、太平洋戦域最大の砲撃を開始したのです。また空からは延650機の航空機と、沿岸には戦艦6隻を含む11隻を投入し、日本軍支配地域の全縦深にわたり、激しい砲爆撃を加えたのち、米軍は前進を開始しました。

30両の戦車隊を先頭に、米軍第24軍団の満を持しての総攻撃が始まったのです。地形をも変えてしまうほどの、この恐るべき鋼鉄の雨を降らせれば、どんな生物も生き残ってはいないと思えましたが、日本軍将兵は地下に潜りそれによく耐え戦い抜きました。

驚くことに総攻撃に打って出た米軍は、この戦いで戦車30両のうち22両を一度に失うという、太平洋戦域に於ける米軍戦車隊最大の損害をもって、この「嘉数の対戦車戦」は幕を閉じることになるのです。日本軍の正確な射撃と爆雷を抱いての自爆覚悟の突撃により、米軍の撤退できた戦車・自走砲は8両のみとなり、米軍将校をして「あの、忌まわしい丘」と言わしめたと言われています。

嘉数高地が米軍の手に落ちたのは、それから5日後の24日ですが、日本軍は23日と24日の夜、残存兵力は巧みに自陣地から後退し第二防衛線である前田・仲間高地方面にある新陣地へと転戦したのでした。

「沖縄決戦」(学習研究社)著者は語ります。「嘉数高地の勝利の決め手は、地形の利用と築城、火力運用にあった。そして見逃せないのが将兵の士気である。初戦に敗れたものの、その後の米軍の攻撃をことごとく撃退した将兵の士気は高く、これが受動的な心理状態に陥りやすい防御戦闘で、終始主導的な心理で戦えた理由であった」

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.27

陣地壕を見るために、稜線から南側の緩やかな傾斜面まで降りて参りました。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.28

嘉数陣地要図、独立迫撃砲第九中隊陣中日誌より、と書かれてるその図面は解りやすいですね。やはり監視哨は、壕群と連結されていますね。稜線南側の無数の壕開口部は反射面陣地構成しているのが見てとれます。迫撃砲を撃ち込むなど序盤は米軍に相応の打撃を与えたと思われます。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.29

東嘉数高地に残存する数少ない壕口です。現在はご覧のような柵が設けられていて中に入る事は出来ません。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.30

カメラを柵の中に入れて撮影しました。縦横の寸法から見て構築壕である事が良く解る写真です。ここから迫撃砲や重機関銃などを持ち出して攻撃や反撃をしたと思われます。

平成31年(2019年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.31

嘉数高地の見学を終え公園内の芝地まで降りて参りました。嘉数高地もご覧のように稜線の南側は緩やかな緩斜面となっていて、この写真の南側には住宅地が広がっています。かつての嘉数集落があった場所ですね。一方稜線の北側は険しい崖となっています。今回は崖側には回りませんでしたが、崖北側には嘉数渓谷と比屋良川が稜線に平行して流れており、沖縄戦ではこの深い渓谷が戦車の進入を阻み、米軍側にも多大な出血を強いた要因だったのです。

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