平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 1月16日(水)故具志八重さんのお墓参り、戦没者遺骨収集情報センターご挨拶
- 1月17日(木)豊澤さんと摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月18日(金)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月19日(土)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月20日(日)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)
- 1月21日(月)(申し訳ありません。非公開での調査・遺骨収集を実施しました)慰霊巡拝
- 1月22日(火)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月23日(水)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月24日(木)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月25日(金)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月26日(土)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
- 1月27日(日)摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
1月26日(土) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集
今日は曇りという天気予報です。雨の心配は無さそうです。今日を入れて後二日で今年の調査・遺骨収集奉仕活動は終了となります。過ぎてしまえば早いものですよね。毎年作業を終えて帰宅すると、翌日から来年の調査・遺骨収集奉仕活動の事を考え始めるのです。本当ですよ。つまり365日、沖縄の遺骨収集奉仕活動について考えているという事になりますね。(笑)
今朝は「開南健児之塔」、「魂魄の塔」、「有川中将以下自決の壕」そして「ずゐせんの塔」の四カ所を訪れます。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)
「開南健児之塔」
「海南健児之塔」です。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつです。 塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。地面には砂利が敷き詰められ、両側にはクワディーサー(和名:モモタマナ)が植えられています。
沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が祀られています。沖縄戦では、在校生68名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織し、第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部などに配属されました。生徒達の任務は不明な点が多いそうですが、危険な任務に就くことも多くあったとされ、66名の犠牲者を出しました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
大きな岩が鎮座し碑名が刻まれています。
沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が期毎に記載され祀られています。
犠牲者数が「不明」だった学徒の名簿も 沖縄戦で動員された学徒の名簿発見
【琉球新報】令和元年11月13日
国立公文書館が公開した学徒名簿
沖縄戦に動員された学徒の名前や部隊名、住所などを示した厚生労働省の「学徒名簿」がこのほど国立公文書館で公開され、資料を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭が12日、報道陣に公表した。資料には、これまで実態解明が進まず、動員数や犠牲者数が「不明」とされてきた私立開南中学校の学徒71人の名簿も含まれていた。開南中の動員学徒数が公的な資料で初めて示された形だ。
資料にあるのは主に県立一中、三中、農林学校、私立開南中学校の名簿で、学徒が亡くなった場所や所属部隊名、住所や家族の名前などが記載されている。作成時期は不明。そのうち、開南中学校は71人分の名簿があり、13歳で動員され、犠牲になった人もいた。一方、開南中の同窓会の調査では、動員されて犠牲になった人数は190人だとしており、今後、資料が作成された経緯や実態解明が求められる。
国立公文書館が公開した文書から学徒名簿を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭=12日、松城中学校
さらに、開南中の犠牲者の名簿と共に、従来は学徒の区分にはなっていない「名護青年学校」や「通信講習所」の名簿もあり、それぞれ1人ずつ名前が記載されていた。名護青年学校の名簿に「未帰還者」として記されている「真栄城守計さん」は第32軍司令部(球1616)に所属していた。一方、資料によると一中は600人が動員され、249人が死亡し、生存者は341人、状況不明10人との記載があった。一中の卒業生でつくる「養秀同窓会」のまとめによると、動員数は463人で、死亡者は257人としている。今回公表された資料とは動員数などで大幅な違いがある。
学徒について詳しいひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は、取材に対して「動員数などは多い気がする。だが、貴重な資料だと思う。今後調査を進めてみたい」と語った。
資料は2017年に厚労省から国立公文書館に移管したものとみられる。大城教諭は今年8月に資料を請求し、個人情報が含まれるため「要審査」となったが、9月ごろから順次公開された。
これまでも沖縄戦に関する資料を収集してきたという大城教諭は今後、沖縄戦に動員された県内21校の元生徒らでつくる「元全学徒の会」などに資料を提供していく考えだ。大城教諭は「今回発見した資料を遺族や県民のために生かしたいと思って公表した。教育現場でも、生徒に年の近い人たちが亡くなったことを伝えて考えてもらいたい」と語った。
琉球新報から転載させて頂きました
参道の両側に植えられているクワディーサー(和名:モモタマナ)ですが、今年はやけに緑がかっています。元々沖縄では本土のような紅葉はありません。ごく一部の木が紅葉するだけで、大概の葉は枯れたようになるだけの印象を持っています。クワディーサーはその数少ない紅葉をする木で、赤みを帯びつつ枯れ葉となりますが、今年は落葉して残った葉が赤みを帯びるという様子が見当たりません。暖冬だったのでしょうかね。
《過去の写真ご紹介》
平成28年(2016年)に開南健児之塔慰霊に訪れた際のクワディーサー(和名:モモタマナ)の様子です。毎年観ているからこそ気づく差異なのですが、別の場所と思える程違った光景となっています。何年も前の記憶との差異に気づく‥。この感性は遺骨収集奉仕活動で極めて有用なので、これからも大切にしていきたいですね。
「魂魄の塔」
米須にある「魂魄之塔」です。同塔は米須霊域の中心的存在と言えるでしょう。「魂魄之塔」は、戦後同地に収容された真和志村民が、散在していた遺骨約35,000名を集め、昭和21年(1946年)2月に建立されました。その後御遺骨の一部は国立沖縄戦没者墓苑に転骨されています。設置管理者は県遺族連合会です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
「魂魄の塔」碑文です。読めますね。
「魂魄の塔」碑文です。こちらはテキストに起こしてみました。碑文の立ち位置を見て理解するところですが、魂魄の塔の説明と共に、同塔を建立した金城和信翁を顕彰する文言も含めた碑文となっています。
【慰霊碑碑文】
沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、二十万余の同胞が散華した。かかる中で、昭和二十一年一月二十三日、九死に一生を得た真和志村村民は、米軍によって当地に集結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
この光景を痛嘆した金城村長は、先ず御遺体を弔うべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我二万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年二月二十七日、金城村長は 之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
更に金城夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年四月五日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を 建立した。ひめにりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第一高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。続いて金城御夫妻は、同年四月九日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。今では方々に慰霊塔が建つやうになったが、思へば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
東京大学名誉教授 宇野精一
平成7年(1995年)に除幕された翁長助静氏の詩が刻まれています。
「金城和信翁の胸像」
「金城和信翁の胸像」です。金城和信村長は二人の娘さんを沖縄戦で失っています。そうした事もあり、「私は生涯遺骨を背負うて生きぬく」と語られるなど、奥様と共に真和志村住民の協力を仰ぎつつ、遺骨収集に全力で取り組まれた方でした。そして「魂魄之塔」を始め、「ひめゆりの塔」「沖縄師範健児之塔」など慰霊碑建立にも尽力されました。
「金城和信翁は‥」で始まる顕彰碑の説明文です。テキストを起こそうと頑張ったのですが、判読出来ない文字が多く、転載に誤りがあるとご迷惑をお掛けすると思い、テキスト化は断念しました。ギリギリ読めますので、皆様の判断で読み進めてくださいませ。(^^;)
「有川中将以下将兵自決の壕」
「魂魄の塔」の向かいにある道路を進むと「有川中将以下将兵自決の壕」があります。
慰霊碑の横にある樹林の中に、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。壕口は大きいです。全景は見えないのですが、直径10mぐらいでしょうかね。縦穴的な壕ですが、壕底から横に掘り進めて一部構築もしたようです。一度は降りてみたいと思いつつ私もまだ降りた事がないのです。降り口を探したのですが、調査が甘いせいかまだ降り口を探せずにいます。壕は深くありません、降り口が解れば簡単に降りられそうなので、何時か降りたらレポートします。
「沖縄戦とガマ(壕)」というサイトに、シーガーアブの配置図・断面図を掲載しているコーナーがありましたのでご紹介します。詳細な図で説明が為されています。ぜひご覧下さいませ。(別ウインドウで開きます)
昭和56年6月に建立された、石歩兵第六十四旅団戦没者を祀る「有川中将以下将兵自決の壕」です。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
碑の台座には、ご覧のような建立経緯が刻まれています。
碑文です。ギリギリ読めますね。
【慰霊碑碑文】
石第六四旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く将兵は○く玉砕し旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で時は昭和二十年六月二十一日の未明であった○に全国篤志家の賛助を受け記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える○○
昭和五十六年六月二十一日建立
鹿児島県沖縄戦没者慰霊会
「ずゐせんの塔」
国道331号線米須にある米須西交差点、ここは「平和創造の森公園」 への入り口に当たる交差点ですが、交差点を折れてすぐのところに「ずゐせんの塔」はありました。ちなみに隣接して「ひむかいの塔」もあります。慰霊塔は道路に面していますから、道路に立つとこんな感じで見えます。
ずゐせんの塔です。
ずゐせんの塔は那覇市首里桃原町にあった同校敷地跡に最初建立されましたが、後に生徒たちの最期の地となった米須・伊原地域に移すことが検討されまして、結果として昭和34年6月、ゆかりの地である米須に移築されたものです。
沖縄県立首里高等女学校の戦没職員15名、動員された4年生61名のうち戦没学徒33名、同窓生54名、計102柱が祀られています。 同校生徒は「瑞泉(ずいせん)学徒隊」と呼ばれましたが、「ずゐせん」は同校同窓会名称「瑞泉」から命名されました。
御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m
【慰霊碑碑文】
ずゐせんの塔は、第二次世界大戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並に職員同窓会員の御霊を祭ってある。昭和二十年一月二十五日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、三月二十七日野戦病院壕で卒業式を挙行、直ちに第六十二師團、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里、摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥○の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。
沖縄県立首里高等女学校の校章です。
沖縄県立首里高等女学校同窓会員戦没者が刻まれています。
詩が刻まれていますね。
調査・遺骨収集作業開始です
作業開始に先立ち、戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m
右から福岡さん、豊澤さんです。吉井さんも参加しますが、遅れてやってきます。
ジャングルに入りました。
早速小さな壕に入りました。
とても狭いのが見て取れます。ご覧のように堅固で砲撃による落盤の可能性はなく、ここに居た将兵は居心地は良かったと思います。ここは司令部壕にも近いので、司令部を守る関係諸隊兵士が居たのかもです。
かなり狭い壕ですが、数人は隠れられそうですね。狭いながらも居心地の良い壕とみた私達です。
私達の予想通り、先に入った福岡さんから「遺品がある」との連絡がありました。入ってみましょう。
缶詰の缶ですね。壕内がジメジメしていないせいか、比較的形がしっかり保持されています。
これもハトメでしょうか、間違いなく遺品ですね。
また缶詰の空き缶がありました。
こうした缶詰で命を繋いだのですね。
缶を裏返すと、ご覧のように銃剣で開けたのでしょうかね。綺麗に開けられています。
ご覧のように、人が一人やっと通れるぐらいの通路となっています。この辺りは直撃弾も避けられ安全な場所になっています。
壕の地面です。金属探知機で反応があるので、掘ってみる事にしました。
残念ながら土の中には、ごく僅かな金属片しかありませんでした。
福岡さんです。
豊澤さんです。
壕の外に出て、空き缶の寸法を計ってみました。缶の直径が左右で違いますね。それぞれ中に何が入っていたかは、ちょっと想像つきません。
壕を出て他の場所を探し始めました。
吉井さんも到着し一緒に探し始めました。
鉄の破片です。艦砲砲弾の破片でしょうか?
岩陰を探す豊澤さんです。
福岡さんがいます。
付近はご覧のように急峻な崖が続いています。
崖下の平坦な場所を探すことになりました。
平坦な場所も岩場ではありますが、土があるせいで植物がご覧のように繁茂しています。ですから遺骨を探す場合は、地面にへばりつくようなイメージで、植物の下に潜り込まないと話になりません。
植物が光合成をする為に葉を広げているその下に潜り込むと、この写真の様な風景が現れます。あまりこうした写真は掲載していませんが、今回は連続で20枚以上こんな感じの写真を掲載しました。壕ではなく露天で御遺骨や遺品を見つける事の困難さを、写真を通じてリアルに実感してくださいませ。(^o^)
前進するのは容易ではありませんが、ご覧のように間近で露出した地肌を見る事になるので、御遺骨や遺品の有無をしっかり確認して進む事が可能です。
下の方は光合成出来ないので、枯れた枝葉も多いです。これらもかき分けながら、可能な限り地肌を出して探します。
ご覧のように、すっきり地肌が見える場所も多いです。こうした場所は効率よく探せますね。
また藪で地肌が見えにくくなっています。
ここもそうです。先に暗がりがありますから壕かもしれません。近づいてみましょう。
ちょっとした横穴でした。遺品等は何もありませんでした。
再び藪との格闘です。
藪が凄いです。
大きな岩です。岩に沿って回っていきます。
岩の割れ目を前進します。
斜面になってきました。下に向かいます。
また凄い藪です。
オッ岩陰があるようです。
ちょっとした横穴でした。何もなさそうです。
結構広そうな横穴がありました。入ってみましたが何もありませんでした。
ここも別の壕ですが、中に何もありませんでした。
岩の割れ目が現れました。前進してみましょう。
岩伝いに右に回っていきます。
一時的に隠れるには良い場所です。地肌を丹念に探していきます。
岩を乗り越えて前進です。
おーーー。この壕口を見て胸が高鳴りました。(^o^)
しかしながら私の体では、試しましたが入れません。凄く狭いです。沖縄戦当時の痩せた将兵なら問題なく出入りできそうです。写真奥の左側はまだ空間が続いているような印象を受けます。何としても調査したいと思いまして、私達メンバーで一番細身の福岡さんに来てもらうべく、呼びに戻りました。
福岡さん到着!。早速狭い壕に入ってもらいました。
おーーー。やっぱり福岡さんは入れます。
難なく入っていきました。左側に更に進めるか見てもらいましたが、残念です。行き止まりとの事。残念~。福岡さん、ありがとうございました。(^o^)
松永さんが間もなく到着するとの知らせを受け、公園内で待っている間に、御遺骨を洗骨しようという話になりまして、水道もある事なので、さっそく洗骨の準備をして御遺骨を洗い始めました。(^o^)
ご覧のように、ブラシとか歯ブラシも私達は持参しています。道具を出し合って効率よく洗骨作業を進めていきます。バケツを二つ用意し、汚い水の方で下洗いし、綺麗な水で最後の仕上げを行います。
綺麗さっぱりと汚れが落とされた御遺骨です。御遺骨の皆さんも心なしか喜んでいるような気がします。(^o^)
ご注意:御遺骨は洗骨してはいけません
事後談で恐縮ですが、私達が発見した御遺骨を最終日に戦没者遺骨収集情報センターにお届けしたところ、受領に際し担当者から「御遺骨を洗骨してはいけません。洗おうとしたお気持ちは解りますが、DNA鑑定が難しくなるので、泥で汚れた御遺骨であっても、ブラシで擦り落とすとかのレベルに留め、水で洗わないようにして下さい」と言われてしまいました~。私達は長年遺骨収集に取り組んでいますが、基本中の基本を知らなかった事に恥じ入るばかりです。(^^;)(^^;)(^^;)(^^;)(^^;)(^^;)(^^;)
無知であった事を反省すると共に、その場で担当者から洗骨してはいけない理由をしっかりとお聞きしました。そのお聞きした話を総合しますと、やはりDNA鑑定を実施するようになってから、御遺骨の取り扱いについて、幾つか大きな変化が現れたようです。私達は知りませんでしたが、DNA鑑定結果をより正確に検出する為の注意点があるようです。それは「御遺骨は可能な限り素手で触らない。そして御遺骨には可能な限り外部刺激を加えない」という二点だそうです。
可能な限り外部刺激を加えないという点について、例えば洗骨する行為も外部刺激を加える事になるそうです。そして水と言っても水道水、井戸水、雨水、ペットボトルの水とか硬水・軟水とか色々と考えられますし、水そのものがその地域の土壌の影響から汚染されている可能性もあります。また土壌自体が汚染されていれば、洗浄する際は泥水の中で洗うのですから確かにその汚染リスクはあります。そうした汚染された水が御遺骨に浸透して、繊細なDNA鑑定に影響を及ぼす可能性もあるとの事です。
また私達のように長年遺骨収集に取り組んでいますと、汚泥の中から御遺骨を発見する場合もあります。そうした泥に塗れた御遺骨は「洗骨して綺麗にしてあげたいな」と思う場合も多々あります。しかしながら、DNA鑑定の視点から見ると、御遺骨に付着している土等は、「その場所から確かに収骨されたものである」という動かぬ証拠材料となり得るとの事です。また場合によっては同位体測定・放射性元素測定の試料になるという事で、御遺骨に付着している土等は、ブラッシングやクリーニング手法で落とす程度に留めて下さいとの事でした。
良い勉強になりました。ありがとうございました。(^o^)
またまた事後談で恐縮ですが、戦没者遺骨収集情報センター担当者のお話の中で、「洗骨」というキーワードが出ましたので、追記という形で関連情報を申し述べさせて頂きます。
今年の遺骨収集奉仕活動の初日である1月16日、レンタカーを借りるために予約していたお店に出向くと、懇意にして頂いてる女性店員が話の最後に、「沖縄では『洗骨』という映画をやってるさー」と教えて下さったのです。私が戦没者の遺骨収集をする為に沖縄に来ている事を知っている彼女は、関連している情報として話して下さったのだと思います。と言う事で、翌月ですが2月のとある日に渋谷に出向き、沖縄の離島・粟国島に残る風習「洗骨」をテーマとした、大切な家族の絆や祖先との繫がりを描いた、照屋年之氏の脚本・監督による映画「洗骨」を見て参りました。(^o^)
因みに、「洗骨」とは、風葬などの方法により遺体のまま数年間風雪に晒した後(この映画では4年後となっています)、脳や筋肉そして内臓などの有機的肉体部分が朽ちて、ほぼ骨皮と毛髪だけになった死者の骨だけを海水や酒などで洗い、今度は厨子甕(骨壺)に入れて本埋葬する葬制です。衛生的な問題やその洗骨作業の過酷さから、沖縄本島では戦後はほとんど見られなくなりました。
「映画.com」https://eiga.com/movie/88744/ には、同映画について次のような解説文がありました。
解説
「ガレッジセール」のゴリの監督・主演で、数々の映画祭で好評を博した2016年製作の短編映画「born、bone、墓音。」を原案に、ゴリが本名の照屋年之名義で監督・脚本を手がけた長編作品。沖縄の離島・粟国島に残る風習「洗骨」をテーマに、家族の絆や祖先とのつながりをユーモアを交えて描いていく。新城家の長男・剛が母・恵美子の「洗骨」のために故郷の粟国島に帰ってきた。母がいなくなった実家にひとりで暮らす父の信綱の生活は、妻の死をきっかけに荒れ果てていた。さらに、長女の優子も名古屋から帰ってくるが、優子の変化に家族一同驚きを隠せない。久しぶりに顔を合わせ、一見バラバラになったかにも思えた新城家の人びと。数日後には亡くなった恵美子の骨を洗う大事な洗骨の儀式が迫っていた。父・信綱役を奥田瑛二、長男・剛役を筒井道隆、長女・優子役を水崎綾女がそれぞれ演じ、筒井真理子、大島蓉子、坂本あきら、鈴木Q太郎らが脇を固める。
2018年製作/111分/G/日本
配給:ファントム・フィルム
監督・脚本:照屋年之
「映画.com」内の「洗骨」解説文を転載させて頂きました
動画ご紹介
「映画『洗骨』公式サイト予告編 DVD&Blu-ray発売中!」
「ありがとうばあちゃん与論島の“洗骨儀礼”洗い清めた骨は守り神▽家族の絆」
洗骨に関連して、遺骨収集をこれからやってみたいと思われる方必見の骨に関する本をご紹介します。(^o^)
《書籍ご紹介》
「骨の名前としくみ事典」 部位別にわかりやすくビジュアル解説
山田敬喜・肥田岳彦監修 成美堂出版社 ?初版
人間の全身には、約206個の骨があるそうです。凄い数ですよね。約という言葉かついているのは、尾骨や種子骨に個人差がある為だそうです。実際にあなたは何個ぐらいご存じでしょうか? 本著は、精密な図譜やイラストを多用し、骨の名称は勿論、連結された骨の位置関係や構造をもしっかり説明文にて解説しています。この本は医療従事者向けではなく骨に対して興味を持たれた方や、教養や健康の為に骨格を学びたいという人に最適な参考書になると感じます。薄暗い部屋で夜な夜なこの本を見ていると、自分でも驚くほど知的好奇心が湧いて参ります。(笑)
私達が収骨した御遺骨も戦没者遺骨収集情報センターに提出する準備も整いましたから、午後からは来年取り組むべき場所探しという観点で、あちこち探索してみる段階となりました。毎年最終日及びその他の日に、来年取り組む場所探しはしています。決定的な場所はいつも見つかりませんが、ある程度目処を立てるという意味で、またモチベーションを来年に繋げるという意味でも、毎年ごく僅かであっても必ずやっておく必要があります。
と言う事で、まず手始めに写真の壕に入ってみる事にしました。ご一緒に入ってみましょう。(^o^)
岩の割れ目の様ですね。高さはかなりあります。勿論空は見えません。完全なる壕といって良いでしょぅ。
ここにもゴミがありますね。弁当ガラが見えます。またビール缶が見えます。慰霊に来てビールとは此れ如何に‥。
壕底は、かなり上り坂になってきましたが、まだ続いています。出入りが容易ですし、内部は落盤の可能性はないという事で、日本軍将兵が大勢居たかもしれませんね。
更に前進すると壕口がありました。二方向から出入りできる壕で、風が吹いているのが感じられ、風通しも良好です。
別の壕です。この壕口から入ります。
ちょっと入り口は狭いです。
福岡さんも入ってきました。
ここもゴミがありますね。
10メートルぐらい進むと別の壕口がありました。内部空間は結構広いです。両出入り口共に少し狭いですが、それだけに内部は安全な印象を受けます。
別の壕に来ました。壕入り口は人がやっと入れる程度ですね。入り口が急坂なので、ロープを垂らそうという話になりました。
壕口はこんな感じです。狭いです。
まずは細身の福岡さんが降りていきました。
ちょっと苦戦しているようです。
続いて豊澤さんも降りていきました。一番狭い部分を通過、「下は広い」と伝えてきました。
豊澤さんも降りました。先頭の福岡さんは奥まった部分まで前進。光っている所に居ます。色々と遺品があるそうです。
結構な風が吹いています。それも生暖かい風で、あっという間にカメラレンズが曇り始めました。(^^;)
豊澤さんも更に下に降りていきます。
福岡さんです。金属探知機の反応が凄いようです。
空き缶など色んな遺品が見えますね。
ああーー。ついに見えなくなりました。撮影は諦めて福岡さんと一緒に、地面をしばし掘ってみました。
調査を終え全員壕から出ました。
鉄の塊ですね。これは何でしょうかね?
こんな大きな鉄の塊がありました。艦砲砲弾の破片でしょうか。こんなのがぶっ飛んでくるのでしょうか。(^_^;